snowdrop外伝・待雪草 第五章



 ……どんなに努力を重ねても。

 ……どんなに正直に生きても。

 ……報われない時は報われない。

 それもまた……世界の摂理。










「ほらほら、真琴頑張って、ここまでおいで」

 雪で覆われた丘を越えていく中。
 清流は足を止め、遅れがちな子狐を手招きした。

 ……真琴というのは、清流が名付けた子狐の名前だった。

 その名の由来は二つ。
 まず、以前村にいた時に清流に贈られた実に見事な琴の色と子狐の毛皮の色が良く似ていたから、というのが理由の一つ。
 もう一つの理由は、この子狐に出逢えた事が嘘や夢にならないよう、”まこと”であるよう願いを込めて、らしい。

(よくもまあ、とっさに思いつくものだな……)

 清流の先を行く紫雲は呆れ気味に息を吐きつつ、清流に付き合うように歩みを止めた。
 同時に彼女らしいとも思ってしまうのが悲しいやら。

 そう思いつつぼんやり一人と一匹を眺める紫雲。
 片足をヒョコヒョコさせながらも清流に寄って行く”真琴”の姿は愛らしいと思わないでもない。

 そんな真琴の首にはいつの間につけたのか、羽を首飾りにしたものがぶら下がっている。
 この辺りで鳥は見かけないので、おそらく清流自身の羽だろう。

「……おい、こんなの与えていいのか?」

 少し渋い顔で紫雲は尋ねる。
 紫雲の問いに清流は”?”と言わんばかりの表情で首を傾げた。
 その様子に渋い顔をより渋くして紫雲は言った。

「いや、だからな……。
 翼人の羽には不思議な力があるって話じゃないか。
 なんだ……その……何かを紡ぐとかなんとか……」
「ああ、記憶を紡ぐ、というものね。
 確かにそうだけど私の力は弱いから……特に何も起きないんじゃないかしら」
「そうか? というか、なんでこんなのを……」
「折角一緒に行くんだから、この子がこの子である証をあげたかったの。
 そういうものは必要だと思うから。
 翼人の羽を持った狐なんてこの子だけよ」
「……そらそうかもしれんが。
 なんというかだな……あー、もう、面倒だな。
 もういい、好きにしろ」

 再度溜息を吐いて、再び歩き出す紫雲。
 そんな紫雲に苦笑しつつ、腹の痛みをこらえながら、清流はその後に続いた。

 と、その時。
 清流のかんじきを履いていた足が、雪から少しだけ飛び出していた木の枝にひっかかった。

「きゃっ……」

 その悲鳴に紫雲は即座に反応した。
 正に疾風の速さで彼女の側に駆け寄り、倒れそうになった彼女の体をしっかりと抱きとめる。

「すみません。
 ……迷惑ばかりかけますね」

 それは”真琴”の事も指しているのだろう。
 そんな清流に紫雲はそっけなく……だが顔は赤い……言った。

「気にするな。
 あと、もう少し、だからな」
「……はい」

 そうして二人は歩いた。
 今までもそうしてきたように。










 多くのものを犠牲にしてきた。

 時には人を斬った。
 時には二人とも傷ついた。
 身を裂かれ、心を焼かれた。

 それでも、二人の歩みは止まらなかった。
 止まる事を許さなかった。

 全ては、幸せの為だった。
 紫雲、清流、お腹の子供、そして……尊の。

 この丘を越えた先に、それがあると、信じていた。

 信じて、いたかったのに……。










「………………………………嘘、だろ?」

 雪が風と共に厳しく降り続ける中。  紫雲は愕然として、其処が雪の上であることも忘れ、その場にへたり込んだ。

 邑は、あった。
 確かにそこにはそれが存在していた。

 だが、そこには人の気配は無かった。
 ただひたすらに、寒々とした光景が広がっていた。

 夢は、砕かれたのだ。

「くそ……くそぉっ!」

 諦めと、怒りと、悲しみが紫雲を襲う。
 現状を考えればそれは仕方無い事だった。

 だが。

「……人の住んでいた形跡がある……? しかもつい最近……。
 ソレがあるところからすると、何処かに移住したのか、それとも……」

 清流の思考や表情にはまるで乱れがなかった。
 あくまで冷静に今を見ようとしていた。

 紫雲はそんな清流が信じられなかった。

 絶望のあまりに狂ってしまったのとさえ思える冷静さ。
 しかし、そうではない。

 清流は諦めていないのだ。
 ここで諦める訳に行かない事を知っているからこそ、ただひたすらに冷静だった。そうあろうとしていた。

 そんな清流を目の当たりにして、紫雲は胸が痛んだ。
 自分の無力さと、無能さと、情けなさで、そして何より清流と腹の子に申し訳が立たず、胸が痛んだ。

「もういい……やめてくれ……」

 そんな現実を否定したくて、紫雲は叫びにならない叫びを零した。
 清流が冷静であれば冷静であるほど、頑張れば頑張るほど、突き刺さる痛みから逃れるように。

 しかし、それを清流は認めない。
 自身の為、自身の子供の為、そして紫雲の為に。

「いいえ、やめません」
「……何故だ!?」

 紫雲は拳を雪に叩き付けた。
 やり場のない憤りを、雪にぶつけるしか出来なかった。

 しかし、そんな紫雲とは対照的に清流は静かだった。
 その静かさと穏やかを持って、清流は紫雲の疑問に答えた。

「やめるわけにはいかないからです。この子の為に。貴方の為に」

 そう言って、清流は愛しそうにお腹を撫で、紫雲を見つめた。
 そんな清流から眼を逸らし、紫雲は唇を噛んだ。噛み締めた。

 世の中の不条理への。
 弱くてもいいはずの清流の強さへの。
 無力な自分への。
 それらに対する苛立ちがそこにはあった。

(わかってる……!!
 わかってるんだよ……!
 やめるわけにはいかないのは……!!  でも、でも、どうすればいいんだ?!)

 未だ諦めない清流の前でそんな弱気をこれ以上見せる訳にもいかず、心の中で叫んだその時だった。

「あ……くっ……!!」

 清流がお腹を撫でた体勢のまま苦しそうに、雪の上にうずくまった。

「清流っ!?  どうした?! ……………まさか!!」

 紫雲の脳裏には最悪の事態が浮かび上がっていた。

 そして、それは清流の言葉で現実となった。

「は………はぁ………う、生まれ、そうです……………赤ん坊が…………」










 紫雲は、走った。

 凍り付いてしまったかのような、否、そのものの邑の中を。

 清流を一番近くの民家に運び込んだ後、かなりの苦闘の果てに火を起こした。

 その間、清流に語りかけ、気を紛らわせる事を忘れなかった。

 真琴は清流の側で静かに二人の様子を見守っていた。

 そうして、ソレははじまった。
 紫雲は邑を出る前に産婆に手ほどきを受けていたので、それを必死に思い出しながら事に当たった。
 無論、清流にも紫雲にも恥ずかしさはあったが、状況の厳しさがそれを上回っていた。

 火が燃える横で、二人は”命”を紡いでいた。
 赤ん坊の命、そして、自分たちの命を。

 そして半刻ほどが過ぎた時。

「おぎゃあああ、おぎゃあああ……」

 新たな命がこの世に生まれ落ちた。







 しかし、その感動の余韻に浸っている暇は紫雲には無かった。

 命を守る火を灯し続ける為の、薪などが尽きてしまっていたのだ。
 もし、この火が消えてしまうような事になれば……生まれたばかりの赤子はこの極寒に耐える事が出来ずに死んでしまう……!!

 そう思った紫雲は必死に邑を駆け回った。
 だが、燃料の類は残されてはいなかった。
 やむなく、他の民家の床を叩き割って、それを調達するも、たいした足しにはならなかった。
 紫雲の拳や、かき集めた道具の限界も、その理由だった。

 そして、いつしか。
 ついに、打つ手が完全に無くなっていた。







「……………すまない……………この俺が無力なばかりに………………!!」

 紫雲は俯いて、拳を握り締めた。
 その拳は無茶のし過ぎで凍傷になりかかっている。

 壁に寄りかかり、赤ん坊を抱いたまま、清流は首を振った。

「貴方は、無力なんかじゃないですよ。
 貴方がいなければ子は生まれる事すらできなかったでしょう……さあ、火にあたってください」

 囲炉裏の火は少し勢いを失ってはいたが、もう暫しはもちそうだった。

 だが、それはあくまで暫し。
 命を守るには、届かない。

「……………ごめんな……………せっかく生まれる事ができたのに……………」

 紫雲は手を伸ばし、赤ん坊の指先を軽く握り締めた。
 この小さな手が、動かなくなってしまう…………そう思うと紫雲はやりきれなかった。悔しかった。悲しかった。そして何より申し訳なかった。

 そんな紫雲の絶望を。

「…………何を言ってるんです? 
 この子も貴方も死にませんよ」

 全く予想だにしていなかった清流の言葉が吹き散らした。

「は……?!」

 驚きに眼を見開きつつ、紫雲は問うた。

「そ、それは、どういう……こと、だ……?」
「私を誰だと思っているのです?  力の起源にして記憶の起源たる、翼人ですよ。
 ………今さっき、この家に結界を張りました。
 この雪が止むまでは十二分にもつ、ね」

 そう言って、清流はにっこりと笑った。

「この状態を保つわけですから、この暖かな空気のままですよ、ここは」
「……………って事は……………助かるんだな?!」
「はい」

 確かに、力強く頷く清流。

 その清流の言葉に、様子に嘘は感じられなかった。
 ソレを理解し、確信した紫雲は、大きく大きく安堵の息を吐いた。
 そして、安堵したがゆえの数刻ぶりの笑みを浮かべる。
 
「…………ははっ。
 なんだよ……………そんなのがあるなら、早く使ってくれよ……。
 お前も人が悪いな、ホント」
「………………。
 奥の手は取っておくものですよ」
「ああ、そうだな。
 お前ってそういう奴だもんな」

 二人して、笑った。

「となると、問題はこの後だが………」
「大丈夫。なんとかなりますよ。
 ………邑が何かの理由で滅んだのなら、死体の一つや二つあってもおかしくはない。
 にもかかわらずここではそれらしいものは見かけなかった。
 それに燃料や食糧が全く残っていないのは…………不自然すぎます。
 突然邑が無くなったにせよ、そうでないにせよ、それらの痕跡すらないのはいくらなんでもおかしいですから」
「という事は、まだ何処かに可能性はあるって事だな?」
「はい、だから、大丈夫ですよ」
「それなら一安心、だな。
 少なくとも、後もうひと踏ん張り出来そうだ。
 ………………ふあ……………」

 緊張が解け、紫雲の意識は眠りへと傾き始めた。

「この暖かさ、もつんだろ?
 じゃあ、寝ても大丈夫だよな」
「ええ、大丈夫」
「そっか、じゃあ……ふわぁ……」

 そうして壁に寄りかかり意識を手放し出した紫雲に、清流は語り続けた。

「邑に着いたら、その先はどうします?」
「…………んー………三人で平和に暮らせればそれでいいさ……………」
「真琴も忘れちゃ駄目ですよ。
 あと、私と祝言を挙げてくださいますか?」
「…………尊、許すかな…………許してくれるかな…………?」
「あの人は優しいですから、笑って祝福してくれますよ」
「……………そうかも、な……………」
「でも、貴方は貴方でいい人を見つけるというのもいいですね」
「………………なんで……………?」
「私と貴方の子が、結ばれると素晴らしいと思いませんか?」
「……………そうか……………?」
「はい。子で無理ならば、孫で。
 孫で無理ならば、曾孫で。
 それでも無理ならさらにその先で。
 ……遥か未来、私達の事など知らない二人が運命によって結ばれる……感動しませんか?」
「……………………そう、かもな…………
でも…………俺は……………俺が、お前と結ばれたいが………な……………」
「ふふ、ありがとうございます。………紫雲?」
「…………………………………」
「眠って、しまいましたか…………。  もう少し、話したかったんですけど…………最後、だから………ごほっ」

 咳と共に吐き出されたもの。

 それは血。
 命の欠片。
 その欠片は、清流が咳き込む度に零れ落ちていく。

 紫雲は、気付く事ができなかった。
 結界を張る事……それが清流の最後の力だった事に。

 この極寒を越え、赤ん坊を産む事で清流の命は燃え尽きかかっていた。

 最早、これまで。
 そんな現実と覚悟の下に、清流は残りの命の灯火を燃え上がらせた。

 たたでさえ翼人の力を使う事は、清流にとって負担の掛かる……命を削る行為だった。
 だからこそ、今ここに至るまで使えなかったのだ。
 自身に宿る命さえも削り取りかねなかったから。

 だが、赤子が生まれる事でその懸念は消えた。
 ゆえに、清流は最後の力を振り絞る事が出来たのだ。

 命を守る炎を、守る為に。

 清流に後悔はなかった。

 自分の生きた証をこの世に残す事ができたのだから。
 自分の愛する人を生かす事ができたのだから。

「紫雲………貴方にはどれだけ感謝してもし足りないです………
 私の事は記憶の片隅にでも追いやって、幸せになってくださいね………
 真琴も、ね」

 クゥン、と”真琴”が悲しげに鳴いた。
 ……その胸にぶら下がっている羽が淡く光っている事に清流は気づかなかった。

「……そして、私の子。
 愛しい、愛しいわが子よ……
 せっかく”人”に生まれたのだから……何者にも縛られる事無く生きなさい……
 それが、不甲斐ない母の一つだけのお願いです……」

 清流の子供たる、女の子の背には……翼人の証たる、翼は無かった。
 力の継承がされているのかは分からないが、少なくとも人の中で生きていくのが自分ほど困難ではなくなるだろう事に、清流は安堵していた。

「……………尊…………貴方は知っていたのでしょう?
 私の心は紫雲に向けられていた事を………それでも、愛してくれてありがとう………
 もしあの世で会えたら、今度こそ本当に添い遂げましょうね………」

 悔いは無い。
 悔いは無い。
 ありがとう。
 ありがとう。

 繰り返し繰り返し。
 誰かへの言葉を、最早声になっていない声を呟きながら。

 ゆっくりと。
 清流の瞳が、ゆっくりと閉じられていく。

「………神奈様…………八尾比丘尼様…………。
 貴女方の犠牲の果てに幸せになれた私をお許しください………。
 願わくば、空の果てで会わん事を……………。」

『いや、そなたは、そこに留まるがいい』
「え……?!」
『そして、彼らの住む地を末永く守護するが良いぞ』
『いずれ此処に来るであろう、貴方の現世での思い人と共に』
 清流の耳に届いたそれらは、幻の声だったのだろうか?
 真実は誰にも分からない。

 ただ、清流は呟いた。
 最後の、本当に最後の力を振り絞って。

「…………ありがたき、幸せ、です……………
 …………………良き人生でした…………………」

 神乃清流。
 力弱き、だが心強き翼人。

 その生涯はここで、幕を閉じた。







 ………続く。


第六章へ

戻ります