snowdrop外伝・待雪草 第六章
時は流れていく。
いついかなるときも。
……生まれ出でた者達が生きている限り。
「………………………ここ、は……………どこだ………?」
紫雲が目を覚ました場所は、最後に見た光景とまったく違った場所だった。
身の回りのもの全てが、都で取り扱ったとしても一級品扱いされるような出来のモノでつくられ、飾られていた。
部屋の中央で燃える囲炉裏でさえも特別なものに見える。
紫雲はゆっくりと身を起こして、辺りを再度見回した。
「……お目覚めになられましたか」
いきなり、背後から声をかけられ、紫雲はたじろいだ。
慌てて後ろを振り向くと、そこには一人の女性がちょこんと座っていた。
その身にまとった衣装は質素かつ、動きやすそうなものだったが、その生地はかなりの上物だということは、紫雲にも分かった。
その女性は、高貴さを感じさせる動きで、スッ……と頭を下げると、静かに名乗った。
「この邑の長を務めさせてもらっている……秋と申します」
その優雅な仕草に、少し心奪われつつも紫雲もまた頭を下げた。
「俺、いや私は……」
「存じております。
翼人・神乃清流が随人、草薙紫雲様……でいらっしゃいますね」
「……何故知っている……のですか?
そして、ここは……?」
戸惑う紫雲に、彼女……秋は頬に手を当て、微かに微笑んだ。
「私達は独自の情報網をこの日の国のいたるところに展開しております。
それは、ここにいる者たちを抹殺しようとする朝廷の動きを察知するためであり、
ここに至ろうとする者たちを陰ながら監視するためでもあります。
……ここまで言えば、ここが何処かは、ご理解いたただけるかと」
「ということは……ここが……?!
そうか……! そうなのか……!
やったっ……ついに俺たちは……!
……でも、それなら、あの廃墟は……?」
「あれは廃墟ではありません。
私達は邑の性質上、一つところには留まれないので、
この蝦夷の地のあっちこっちに即座に使えるような住居を建ててあるのです。
地理的に、あるいは心情的に容易には辿り着けない場所に。
それは、ここの住人となる為の試練でもあります。
朝廷に追われながらもこの地にたどり着き、
辿り着くのが困難な領域内に入る事が出来た者こそ、この邑の住人となる事を許されるのです」
「随分と嫌らしい試しだな」
「……承知しておりますが、これも私達の立場ゆえの事。
それに仮に辿り着けなくとも、諦めて去るまでは可能な限り力添えしております」
「ああ、分かってる。
元々助けを乞う身なんだ。文句を言うつもりはない。
で、俺達三人と一匹は住人になれた、そうだろ?」
「……」
ここで秋の表情が暗くなった。
微かにその体は震えていた。
「貴方達は私達の領域に辿り着きました。
辿り着きましたが……」
「…………秋……殿……?」
「………申し訳ありません……。
急な天候だったとはいえ、監視の目さえ離れなければ……
私達がもう少し早く辿り着いてさえいれば……!
もう少し早くこの邑に運ぶ事さえ出来ていれば……!!」
「……なんの……………ことだ……?!
おい…まさか……清流は………?
赤ん坊は……?
あの狐は……?」
「…………申し訳ありません」
「おい! 質問に答えろ!」
紫雲は怒りのあまり我を忘れて、秋の胸倉をあらん限りの力で掴んだ。
その美しい顔が目の前にあっても、今の紫雲にはそれに見惚れる余裕などなかった。
そんな紫雲の目を真っ直ぐに受け止めて、悲しい目のままで、秋は答える。
「清流様の御子様と子狐はご無事です……ですが」
(誰か嘘だって言ってくれ……)
「清流様は……神乃清流様は……」
(あいつは、笑っていたじゃないか……!)
「……………………………」
(頼むよ……………!)
「………………お亡くなりになられました」
その言葉を聞き。
秋を掴んでいた紫雲の手は、力なく離れていった。
一緒に野原を駆け回った。
子供の戯れに祝言を交わしたこともあった。
水浴びを覗いて怒られた。
それでも、なにがあっても夕暮れ時には三人いつも一緒に帰路に着いた。
笑って、
泣いて、
そして、また笑って。
あのころころ変わる顔を見ることはもうない。
もう、ありえないのだ。
もう、二度と。
「なんでだ……? なんでだああああああっ!!」
泣きながら床に叩き付けた拳が痛い事が、自分が生きている事が、紫雲にはどうしようもなく悔しく、悲しかった……。
翌日。
その日はよく晴れていた。
連日の空模様が嘘だと感じられるほどに。
悲しいほどに晴れ渡っていた。
その日、紫雲は秋に断った上で、邑を抜け出した。
自身の背に監視がついているのは感じていたが、止むを得ないことなのだろう。
(仕方ないよな………そういう邑だ)
ちなみにその監視は秋が手配したわけではなく、
”邑人”たちが自分たちの意思で勝手にやった事だと紫雲が知ったのは随分後の事だった。
秋が紫雲の気持ちを察して何も命じなかったという事も。
紫雲は赤ん坊を秋に預け、子狐……真琴を胸に抱いて、”丘”に向かっていた。
その背にはもう動かない、動く事のない清流の亡骸があった。
”丘”
真琴と清流と紫雲がはじめて出会った。
そして、わずかな時間を共に過ごした場所。
「悪くないな」
辿り着いて、周囲を見渡した紫雲が呟く。
改めて眺め見て、見晴らしのいい場所だった事に紫雲は改めて気付いた。
空と大地の狭間にあるような、そのどちらにも近い、そう思える場所。
こここそ、人と翼持つ者の間に生まれた清流が眠るには最も相応しい場所だと紫雲は思った。
「あそこがいいな……………綺麗な花が咲いてるしな………」
木の陰で雪に覆われていない場所に咲くその花は、白く小さな花を、こうべを垂れるようにつけていた。
「……この花は……確か、待雪草っていうんだったな……。
お前、結構気にいっていたっけ……
なおさら、いいな。
……ここをお前の墓にしよう」
物言わぬ亡骸に話し掛けながら、紫雲はそう決意した。
その傍らに真琴はずっといた。
紫雲をずっと眺めていた。
「……墓標は、いらないよな。
邑の連中はともかくとしても、お前の死体をどうにかしようって奴もいるかもしれないし。
その代わり、俺はお前を忘れない。絶対に」
一刻ほど過ぎて。
紫雲が掘った穴の中、四肢を伸ばしつつも綺麗におさまった清流の姿がそこにはあった。
「本当はあの子も連れてきた方が良かったのかもしれないが……。
俺としては、見せたくなかったんでな……母親の死んだ姿なんて」
少しずつ、清流の姿が隠れていく……。
土に埋もれていく……。
それにつれて、紫雲の眼から涙が一滴、また一滴と流れていく。
それもまた、土と雪の中に消えていった。
やがて、雪のように白い肌は、雪と土に覆われて、見えなくなった。
あのぬくもりも最早ない。
もう、あの空の向こうにそれはあるのだろう。
紫雲には、そう思えた。
そうして全てが終わった後は、ただ、清流の枕元で待雪草が微かな風に揺れるだけだった。
「さて、行こうか……。
いや、帰ろうか、か」
そこに背を向けて紫雲は歩み去ろうとした。
そこで、真琴の事を思い出す。
振り返ると、真琴はそこ……清流の眠る場所にただ座していた。
「……おい、行くぞ」
紫雲が呼びかける。
だが、真琴は動かなかった。
「……なにしてんだよ」
近寄って、掴もうとする。
しかし、真琴は、ウーッ……と唸ってそれに逆らった。
「まさか、お前、ここを……守ってるつもりなのか?」
真琴は答えなかった。
ただ、そこに座すばかりだった。
足の怪我はまだ治ってはいない。
治療をしっかり施した以上治るのは時間の問題とはいえ、それは一朝一夕のものではない。
加えて、真琴は子供。
ここにおいていけば、死ぬ可能性のほうが高い事は分かりきっていた。
「それが分からない獣でも、ないよな」
「……………」
一人と一匹は、ただじっと見詰め合う。
やがて、根負けしたのか紫雲が、フッ、と笑みを零した。
「わかったよ。お前とはここでお別れだな。
しっかり、守れよ。
隋人の……いや、元・隋人の命令だ」
「くぅ……ん」
「おっ、返事しやがったか。
やっぱり守りたいんだな、お前」
「……」
「んじゃ、任せる。
じゃあな。死ぬなよ」
今度こそ、紫雲はその場所に背を向けて歩き始めた。
振り返る事はもうしなかった。
真琴は、そこにただ座した。
そして、去っていく男の背中を見詰めていた。
そして、その胸には清流に掛けられた一枚の羽の首飾りがあって。
待雪草と同じように風に揺れていた……。
邑に戻った紫雲は邑の新たな住人として迎え入れられた。
そんな紫雲の為に歓迎の宴が開かれた。
それは神乃清流の魂を送る為の宴でもあった。
紫雲は赤ん坊を腕に抱きながら、その宴に参加した。
赤ん坊は宴の間中泣き続けていた。
まるで全てを悟っているかのように。
そして、紫雲は祭りの間中、最初の一杯以外は酒を飲む事もせず、勧められたものしか食べず、
赤ん坊と邑人達に微かな笑みを、何処か居心地が悪そうな笑みを浮かべ続けていた……。
その夜、紫雲は秋の部屋を訪ねていた。
これからの事を、話すために。
「この邑を、出る?」
紫雲の言葉に、秋は戸惑いの表情を浮かべた。
それに対し、紫雲は首を縦に振る。
その腕の中には泣き疲れて眠る赤子がいた。
「ええ。といっても、本当に出て行くわけではなく、
その、この邑の離れに哨戒役として、一人で住もうかと」
「清流様のお子様はどうするのですか?」
「誠に勝手な事ですが、出来れば貴女様に育てていただきたい、そう思っております」
「何故ですか?」
「清流が、生前語っていたのです。
もし、生まれる子に翼がないのであれば、翼人の血を引くものとしてではなく、人として育てたいと」
囲炉裏をはさんで、二人の視線が交錯する。
鋭いようで和やかな、和やかなようで鋭い、そんな交錯。
その間に横たわる陽炎のゆらめきはそれを緩和できず、ただゆらめくばかりであった。
「それなら、貴方が育てる事に何の不都合もないのではないですか?」
「……この子もいずれ大きくなります。
そうなった時、きっとこの子は聞くでしょう。
”私の母はどんな方でした?”と。
私は……その時きっと正直に答えてしまいます。
彼女の人となり、ここにきた理由、そして翼持つ者達の事を。
おそらく、それを知ってしまえば、この子は人として生きられなくなってしまいます。
そうでなくとも、私自身が人として育てる事が出来なくなってしまうかもしれません。
……ですから、この子の前に私は立つべきではないのです」
搾り出すように紫雲はそう言った。
その様子から紫雲の本心が伝わる。
『本当はこの子を自分で育てたい』という、想いが。
それゆえに、秋は紫雲の言葉を否定しなければならなかった。
「そうでしょうか?
それは、この子次第ではないのでしょうか?」
「そうでしょうね。
ですが、人と異なるという事は辛いことです。
そして、それに耐えるのは、とても困難な事です。
私は出来れば、この子をそんな目には遭わせたくないのです。
それは甘い事であるし、この子の為にもならない、というのも重々承知です。
それでも……この子には普通に育って欲しいのです。
かつて、清流自身が望んでいた通りに。
ですから……何卒、何卒よろしくお願いします……!」
紫雲は血を吐くようにそう言って、頭を床に擦り付けんばかりに下げた。
……この願いは否定されなければならなかった。
この赤子のため……ではなく紫雲自身のために。
だが、自身の事よりも赤子の事を、赤子の未来の事を必死で思うその姿に、秋は打たれてしまっていた。
だから、秋は。
そうすべきではないと思いながらも、こう応えてしまっていた。
「その願い、確かに」
「お願いできますか……?」
「……はい。了承、します」
こうして、清流の娘は邑の長である、秋に育てられる事となり。
紫雲はその事実から目を逸らすように邑の離れで一人暮らす事となった。
それから、様々な事があった。
朝廷からの使者とは名ばかりの、朝廷の言うところの”罪人”の討伐隊の来襲。
新たな住人達。
邑の中でのごく小さな対立。
困難は、災難は、多々あった。起こっていった。
それでも、この邑は廃れることなく、むしろ大きくなっていった。
そんな中で”丘”に化け狐が出るようになったという噂も立ったりした。
その真偽は誰も知る由もなかったし、知ろうとする理由もなかった。
紫雲は赤子の成長した姿を陰から見守り、
赤子はそれを、そして自分の素性を知る事なく育っていった。
そして。
紫雲と赤子がこの邑に住まうようになって、十五年の時が流れた……。
……続く。
第七章は暫くお待ち下さい
戻ります