snowdrop外伝・待雪草 第四章
それは、今に至る物語。
それは、想いの始まりの物語。
草薙家は特別な家だった。
いわゆる武門の家でもなければ、貴族の家でもない。
にもかかわらず、名字を与えられ、いつの頃からかその邑を守る為に存在していた。
彼らのルーツは彼ら自身でさえ知るところではなかった。
『……まるで、何もない所から突然現れたかのようだ』
そう言ったのは紫雲の父親だった。
彼は、自分達が何者なのかを興味半分で調べていたが、結局それを知る事はできなかった。
そんな彼の息子である紫雲にとって、自分達の源流などどうでもよかった。
彼にとっては今が全て。
”彼女”と共に生きる今こそが全てであった。
紫雲が”彼女”と出会ったのがいつなのか……正直なところ彼自身覚えてはいなかった。
いつのころからか、”彼女”は紫雲の……いや紫雲達の友人だった。
同じ邑に住まう者として、同じ年頃の者として、当然のように知り合い、出会って、友達になった。
種族の違いについてはっきりと気付いたのは、意識し始めたのは、随分後の事になってからだった。
彼らにとって、そんなもの、何の意味も無かったから。
”彼女”の母親が何故この邑を選んだのか?
それは只の偶然だったのか?
今となってはわからない。
ただ言える事は、彼女が『翼人』であった事。
彼女が何者でも拒む者がこの村にはいなかった事。
彼女が心から愛する存在が、”彼女”の父親となる男が、この邑にいた事。
そして、彼女が多くの人間にとって価値のある……狙われる存在である翼人だった事から、邑を守る草薙家と親しい関係を築いていた事。
そして、それらが彼らの関係を築く土台になっていた事だった。
草薙紫雲……草薙家の長男。
草薙尊(みこと)……草薙家の次男。
清流……翼人と人の混血児。
この三人が、この三人が出会った事こそが、全ての始まりだった。
楽しかった。
俺と尊と清流。
三人がいれば何だって楽しめた。
ただ、野山を自由に駆け回る事も。
毎日のように三人一緒に夜空を眺める事も。
特別な事なんかなくたって、ただ楽しかった。
今にして思えば、それこそが特別というものだったのかもしれない。
だが、楽しい時間はいつか終わりを告げる。
楽しげに遊ぶ子供達が、夕闇が訪れてしまえば、必ず家に帰らなければならないように。
俺達の子供時代が終わったのは、ある夏の夜だった。
その日、俺達は大人になるための形式上の試験を受けていた。
簡単な事だった。
俺達の邑では狩猟で生活を支えている。
だから、ちょっとした狩りで獲物を捕まえて帰る。
そして、それを自分達で食べる。
それで終わり。
そうして俺達は大人になる。
俺はそうなった時、その喜びを三人で分かち合いたかった。
いつものように笑って一日を終えられると信じていた。
……だが、結果を言ってしまえば、そうはならなかった。
『駄目だよ、殺しちゃ』
俺の手の中で苦しそうにもがく鳥を見て、清流は言った。
『そう言うのはこれで何度目だよ。
お前があんまり肉とか食べないのは知ってるけどな。
今日は別って事に……』
『駄目だよ……』
『……あのなぁ』
その日の間中、その台詞ぐらいしか清流は言わなかった。
試される為に殺される命が可哀そうだと。
そんな言葉に何度も心を揺らがされて、俺は何度も何度も獲物を逃がしてしまっていた。
今度こそはと確実に掴まえたと言うのにこの有様。
もう日は暮れて、俺達は帰らなければならない時間になりつつあるというのに。
”その仕事を成さなければ大人にはなれない”
”早く大人になって、コイツらを守る仕事に就くんだ”
まだ『子供』であるがゆえに、守りたいと思った二人も『大人』になる事にさえ考えが回らず、独り善がりな思いに突き動かされていたからか、俺は一人苛々していた。
『まあまあ兄上。よいではありませんか』
そんな俺に、尊は苦笑いしつつ言った。
『……俺は咎められるのは御免だぞ』
『なら私が責任を取ります。
責任を取って皆に説明して、その子を私が助けて、私が面倒を見ます』
迷いの無い眼で清流は俺を見据えてくる。
その眼を見てしまえば、俺はどうにも駄目で。
結局、俺は清流の言う事に従う事にした。
『……ったく、どうなっても知らないぞ』
『大丈夫。きっと話せば分かってくれます』
だが清流が考えていたようにはならなかった。
いくら形式上とは言っても、それは重要な試験だったからだ。
俺達の親は何も言わなかった。
何があったのか俺達の事をよく知っているがゆえに容易に想像がついたのだろうし、”悪い”事など何もないと知っていたからだ。
……今にして思えば聡明な親だったと思う。
しかし、その他の殆どの大人達は、形式が全てに勝ると思っていた人達は違っていた。そう思わなかった。
清流が自分の所為だといっても、誰も耳を貸さなかった。
責任は最年長の俺に向けられた。
俺は、その向けられた矛先を甘んじて受けた。
それだけで終わればよかったのに。
『ごめんなさい……ごめんなさい……』
結局。
獲物を捕まえたのは事実だからと邑長が取り成した事もあり、俺がこっぴどく怒られるだけで事は済んだ。
清流が面倒を見るために鳥を連れて帰ってきたのが、本人の思惑とは異なって、功を奏したのだ。
『ごめんなさい……ごめんなさい……』
清流は何度もそう言って謝り続けた。
望んで大人達の怒りを受けたとは言え、完全な納得が出来ていなかった俺は、そんな清流を見ても何も言わなかった。
そんな俺達二人を見兼ねて、尊が口を挟んだ。
『兄上、いい加減に許して差し上げたらどうです? 大人げないですよ』
『……危うく大人になれないところだったけどな』
不機嫌さに任せて、俺は冷淡に呟いた。
その瞬間、清流の顔が悲しみに歪んだ。
清流の目には涙が浮かんでいた。
場違いな事に、俺はそれを美しいと思った。綺麗だと思ってしまった。
それは、清流へのささやかな『復讐』だったのかもしれない。
悲しそうな彼女の顔を見て、いい気分になりたかった気持ちが何処かにあったからそう思ったのかもしれない。
なんにせよ、瞬間、俺は清流の泣き顔に視線を、心を奪われていた。
そうして俺が呆けている間に、清流は外へと飛び出していった。
『兄上っ!!』
尊は俺を一喝すると、清流の後を追った。
後に残ったのは俺一人。
『……なんだよ。俺は……』
皆で大人になりたかっただけだ。
仕方がないので、俺は清流に謝る為に席を立った。
なんと言って仲直りしようなどとぼんやり考えながら夜の邑を歩く。
この時間だと、清流は水浴びをしている頃だろう。
清流は妙に時間に厳しいところがあって、なにがあろうとその”予定”を遵守する癖があった。
だから、泉がある林の入り口辺りで待っていよう。
そこで、ちゃんと仲直りしよう。
俺はそう思って、林に入った。
そこで俺は見てはいけないものを見た。
尊が、清流を抱き締めていた。
清流は、服を着るのも途中で半裸だった。
それでもその白い肌を覗かせた身を、尊に、弟に委ねていた。
その背には美しい羽が在って、それは水を浴びて、月の光をすって光り輝いていた。
(ああ……綺麗だ……)
俺はその時そうとしか思えなかった。
弟を含めたその光景が美しいとしか思えなかった。
そこに、俺の居場所はなかった。
俺は黙って、その場を去った。
気づかない内に、俺は泣いていた。
何故か、胸がひどく痛んでいた。
それから反刻ほど経って。
尊の仲立ちもあり、その日の内に仲直り自体は出来た。
だが、俺の胸の痛みは、長く消える事は無かった。
その涙の理由を、胸の痛みの原因を知ったのは、その日の数ヵ月後、尊と清流が祝言を上げた日だった。
それは罰だと思った。
涙を美しいと思った、その罰だと。
そして、月日は流れ。
俺と弟は邑を守るために戦に駆り出された。
多くの人が死んだ。
結果を言えば、邑は守れた。
でも帰る事ができたのは俺一人だった。
アイツには待つ者が一人増えていたのに。
俺はアイツを守る事さえ出来なかった。
血の繋がった弟を、守れなかった。
それは罰だと思った。
弟にほんの僅かでも憎悪を抱いたことへの罰だと。
邑に戻った俺は、清流にそう言った。
全てを話し、ただ頭を下げ、許しを乞う事しか出来なかった。
そんな俺に、清流は微笑みかけた。
弟が、愛すべき夫が死んだのに、笑って言った。
『ずっと私を想ってくれてありがとう。
そして、無事に帰ってきてくれてありがとう』
『でも、俺は……っ』
『憎しみだけで、人は殺せないわ。
憎しみと、それに繋がる行動が、人を殺すの。
アナタが尊を殺したわけじゃない。
尊への憎しみが心の何処かにあったとしても、それ以上の愛情を持っていた事、私にはちゃんと分かってるから。
アナタは、なにも、悪くない』
『……っ!!』
『尊は、皆を、この邑を護る為に、誇り高く戦って、いなくなっただけ。
ただ、それだけ、なんだから』
そう言って、何処までも優しく微笑む清流。
……そんな彼女を見て、俺は決意した。
この命に代えても、彼女とその身に宿る命を守り抜く事を。
あの日の過ちを二度と繰り返さない事を。
それが愛すべき弟に僅かでも憎しみを抱いた俺の贖罪だ。
俺が為すべき、俺の仕事だ。
だから。
(これでよかったんだよな?)
雪の上、子狐と戯れる清流を眺めながら、俺は問いかけた。
(尊よ……)
もう届かない場所に行ってしまった弟に。
……続く。
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