snowdrop外伝・待雪草 第二章





……どれほどの歩みを積んできたのだろうか?
……どれほどの追っ手を振り切ってきたのだろうか?
……どれほどの事を犠牲にしてきたのだろうか?

それでも……『そこ』には、まだ辿り着いてはいなかった。






「……大丈夫か、清流?」

お世辞にも上等とは言えない小屋の中。
時折流れ込む隙間風に晒されながら、草薙紫雲は荒い息を吐いてうずくまる彼女……翼人、清流の体についた雪を丹念に払いながら言った。

その清流はというと、時折揺らめく囲炉裏の火で赤く染まった顔に気丈な微笑みを浮かべてさえいた。
だが、疲労の色は隠せない。
彼女のお腹はかなり大きくなっていて、道中歩く事さえ難儀そうだった。
ましてや……

「しかし、よく降るよな……」

この天候・状況では尚更の事だろう。
そんな事を改めて思わせる、小屋の外を猛然と吹き荒れる吹雪を眺めながら、紫雲は呟いた。



紫雲と清流が旅立って、一年近くの時が流れていた。

目的地は蝦夷。
……正確に言えば、蝦夷にある一つの村だ。

朝廷にとって、蝦夷はまだまだ未開の土地だった。
古くからそこに住まう人々からすれば勝手な言い分ではあるのだが、
それゆえに『其処』はそれ故に朝廷の目の届かない場所の一つとも言えた。

『其処』は朝廷から疎まれた者達が、朝廷から逃れる為に旅立った果てに行き着く場所。
『其処』に人々が築き上げた村は、古くより蝦夷に住む人々と和解し、皆が穏やかに暮らせる場所だと噂されていた。

そんなウマい話がある筈がない……そう思う人間は多いだろうが、そんな事はない。
少なくとも紫雲はそう思っていた。

『其処』に辿り着く為には、長く困難な旅を強いられる。
朝廷からの追手、道中遭遇する『未知』への対処、その為に必要な技術や力。
それらを『越える』事の出来る者は自然に限られてくる。
生半可な体力馬鹿……つまりは、多少の悪事をやらかして、軽い気持ちで目指そうとする典型的な悪人如きでは途中で挫折するのが関の山だ。

詰まる所、『其処』に辿り着く事が出来るのは。

何が何でも生きようとする者。
守るべき者がいる者。
為さねばならない事がある者。

そういった人間達に限られてくる。

そして、そういう人々は自分達が何をすべきかを知っている。
ゆえに、無用な事で人と争う意味などない事を彼らは知っている……あるいはこの旅路で知る事になるのだ。
そんな人々が集まるのであれば、『其処』が穏やかに暮らせる場所のは決しておかしくはない……紫雲はそう考えていた。

そして。
少なくとも、今の二人には『その話』を信じるより他はなかった。



「ま、少なくとも裏は取れてる。その村があるのは間違いない」
「その言葉を聞くのは……何度目でしょうね?」

少しの笑みと皮肉を込めて、清流は言った。
それを見て紫雲はブゼンとした表情を浮かべる。

旅立ちから一年経った現在。
二人はどうにかこうにか、蝦夷には辿り着いていた。

ただ……『そこ』からが大変だった。
なまじ、追っ手を追い払うよりも遥かに。

慣れぬ言葉を扱い、噂や人の話を参考にして『その村』を探した。
この寒さの中、野宿出来ないので遠出も出来ず、情報を求めて村から村へ移動する事さえ困難を極めた。

だが。
それでも、彼らはやらねばならなかった。

そんな厳しい旅路の中、 ついに『村』についての確かな情報を手に入れた二人は、ありったけの食糧などを準備して、これが最後の旅路と覚悟の上で情報を得た村を旅立った。

勝機はある。
だが、問題もあった。

その問題とは、清流の体に宿る生命が何時生まれるか分からない状態になっていたという事。
最後の村を出る前、もう少し状況が落ち着くまで待つべきではないかと述べた紫雲に対し、清流は告げた。

「……多分、この身はもう長くはありません。
 落ち着く為の猶予など、最早無いでしょう」

それは、至極当たり前の事実だった。
子供を宿した体での逃避行。
それがいかほど母体に影響を与えるのか……女の身ではない紫雲にも容易に想像できた。

自分の不覚を嘆きたかったがそんな暇はない。
子供が生まれてしまえば、その時点でこの北の地でのそれ以上の旅は不可能だ。
……清流の生死にかかわらず。

だが、望みが無いわけではない。

「……悪かったな。
 とは言え『村』まではかなり近いはずだぞ」
「それはそうでしょうね。
 この物見小屋が何よりの証です」
「ああ。
 こういう小屋があるという事は人が近くに、少なくとも歩いていける距離にいるという事だ」

情報を元に進んだ先に見つけたこの小屋は、彼等が最後に立ち寄った村の人々から貰った地図には記載されていない。
そんな『無い筈の小屋』の存在は、彼らに微かな希望を繋がせるには十分な証だった。

「そうですね……くちゅんっ」
「あー……随分濡れたからな……」

紫雲は呟いて、毛布を一枚取り出す。
こんな事もあろうかと濡れないように細工しておいたのが功を奏した。

「着物を脱いで、しっかりとそれに包まれ。
 着物がある程度乾くまではそうするしかない」
「貴方は、どうなさるのです」

子供の頃から変わらない、真っ直ぐで綺麗な目で見られて紫雲は思わず目を逸らす。

「―――俺は平気だ。濡れていない」
「嘘はいけませんよ。
 一緒に温もりを感じれば良いではないですか。
 ……貴方なら、何が起こっても構いませんし」
「じょ、冗談言うなっ!!」

その言葉に込められた意味。
それに即座に気付いた紫雲は思わず叫んだ。

「ったく……」
「冗談じゃありませんよ。
 大体、今貴方に身体を壊されては私達が困ります」
「う。そりゃあ、そうだが」 
「何より……私がそうしたいからと言ってもですか?」

赤らんだ顔と、真摯な瞳で紫雲を射抜く清流。
見据えられ、言葉を失う紫雲。
そうして、小枝が爆ぜる音だけが暫し続いた後。

「……俺は何度、お前のその顔に騙されれば気が済むんだろうな?」
「さあ?」

紫雲の言葉に、清流はクスクスと笑みを零す。

囲炉裏の前には、二人……正確には三人一緒に毛布に包まれた姿があった。

「……そう言えば、アイツも散々お前にさっきみたいに騙されてたよなぁ。
 惚れた弱みってやつだったよなぁ、アレ。
 トドメにこんなのに嫁に来られた日には……うう、不憫な」
「怒りますよ?」(ニコリ)
「……正直スマンでした」

そこにいたのは、翼人とその守り人ではなく、昔を懐かしむ友人達。
そして。

「でも」
「なんだ?」
「何が起こってもいい……そう言ったのは嘘じゃありません」

かつて、想いを重ねていたかもしれない二人の男女。

「…………………。
 その言葉を、もっと前に聞きたかったよ、俺は」

(そうだったなら、お前をかっさらうぐらいはできたのにな……)

身を寄せる清流の肩を優しく抱く紫雲。
……だが、そこまで。それ以上はありえない。

そんな、最早叶う事のないその想いを抱いて、紫雲は笑った。

そして、強く思った。

だから、せめて。 失われた時と想いの代わりに。
彼女の腹に宿る命……彼女と『彼』の子供だけは幸せにしようと。


……続く


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