Kanon another1”snowdrop”第49話
・・・雪が止んで。
空には、青空が広がっていた。
雲の隙間から覗くそれは、文句のつけようもないほどに、澄んでいた。
でもそれは一時のことだ・・・僕は、そう思った。
しばらくたてば、曇天が空を覆い、また雪が降り出すことだろう。
それはこの雪の街でよくある日常だった。
僕は、ベンチに腰掛けたまま、ただ流れる雲を見ていた。
その手には、あの人形が握られていた。
これが本当に願いを叶えてくれるかなんて、僕には分からない。
でも、ただ願わずにはいられなかった。
想いがあるべきところにあることを。
・・・ふと、皆のことが頭をよぎった。
心の奥が不安という鎖に囚われそうになる。
「・・・駄目だって。何のために、皆が僕を送り出してくれたんだよ・・・」
それは。
ただ一人の少女と、もう一度笑って会うために。
だから、僕は不安を打ち消すように、思い出すことにした。
この冬の日々を。
と、そのとき。
「・・・よう、草薙、こんなところで何してんだ?」
そこにいたのは、相沢祐一君だった。
(ああ、そういえばそうだったっけ)
・・・僕は思い出した。
あゆに出会った日。
それは、この相沢祐一君と出会った日でもあったことを。
「いや、その・・・人を、待ってるんだよ」
僕は、その内心の感慨にふけりながら答えた。
「そうか。学校サボってデートか。いいご身分だよなー」
「・・・そういう相沢君だって、もう学校始まってるのになんでここにいるんだ?
というか私服だし」
「いや、まあ、その・・・今から、ちょっと待ち合わせなんだよ」
「ははあ・・・それはそれは」
僕がさっきのお返しと言わんばかりに笑って言うと、相沢君は微かに笑って言った。
「・・・ん。まあ、そんなにいいものでもないんだがな」
「・・・・・?」
「ずっと昔、約束をすっぽかしたことがあってな。今日はその仕返しをされそうなんだよ」
・・・その言葉で、僕は分かった。
彼もまた、来るかどうかわからない人を待つつもりなのだ、と。
「そっか。実を言うと、僕も似たようなものだよ」
・・・忘れてしまったことを罪というのであれば。
「そっか・・・なら、まあ、お互い頑張ろうぜ」
そんな僕の心の内を見透かしたかのように。
彼は優しい眼差しで言った。
「ああ、そうだね」
ああ、そうだ。
こんな彼だから。
皆から愛されている。
・・・あゆからも。
・・・正直言って。
彼が羨ましいと思ったことなどいくらでもあった。
彼をほんの少しだけ妬んだ時もあった。
そしてなにより。
あゆを幸せにして欲しかった。
彼は、束縛していた。
あゆを。
約束という名の鎖で。
名雪さんを。
想いという名の鎖で。
それでも彼は恨まれることなどない。
それは彼自身が与えた鎖ではないから。
少女たちが、彼との絆を求めて自らに課した鎖だから。
それは、彼が優しいから。
その約束の重さゆえに、想いの重さゆえに。
自らの過去を封じることを望むほどに。
それほどまでに脆くて・・・優しい。
そのことを。
僕は今、心から理解することができた。
だから僕が彼をどうこう言うことはもうないだろう。
ただ、望むだけだ。
彼にも、そして彼が想う人にも、また幸せがあることを。
「じゃあな」
「ああ、また月曜日に学校で」
そんなふうに。
僕らは軽く手を上げて。
いつもそうするように。
・・・友達のように。
僕らは別れた。
・・・そこが、僕らの最後の分岐点だった。
第49話 ”またね”という名の”さよなら”
「命さん」
栞の呼びかけに、命は微かに顔を上げた。
その顔にはいまだに疲労が見えた。
「・・・なんだ、栞君」
それでもいつもと同じようと接する辺りに草薙命という人間の優しさが見えるような気がした。
・・・ちなみに、北川と香里はそれぞれ病室備え付けのパイプ椅子に座り、ただ眠っていた。
その寝顔は穏やかで、晴れ晴れとしていた。
「・・・・・紫雲さんは、大丈夫でしょうか?」
「・・・・・さあな。だが、もう私たちにできることはない。あるとすれば、ここで祈るだけだ」
栞の表情が微かに翳った。
「・・・・・だが、まあ、大丈夫だ。うちの愚弟は・・・自慢の愚弟だ」
その言葉に、思わず栞は笑ってしまった。
「それだと褒めてるんだかけなしてるんだか分かりませんよ」
「ははは・・・そうだな。だが、愚弟は、やはり愚弟だからな」
命の言葉は、別に栞を励ますための言葉ではなかった。
命は、感じていた。
あの瞬間。
眠っていた自分を起こすほどの、”力”の動きを。
それはどこまでも強いのに。
どこまでも優しい思いのカタマリ。
そして、幾年にも積み重ねられた、純粋なる想いの力。
それはあの愚弟と、
あの羽を背負った少女が起こした、奇跡。
だから、そう。
きっと、希望は。
・・・青空の下をただ歩く少女がいた。
その少女は、ただ歩くだけで辛そうだった。
そんな少女のことを誰も気にもとめなかった。
少女はそのことを辛いとは思わなかった。
なぜならそれは。
ずっと、見てきた風景だったから。
同じ場所。
四角い部屋の中。
そこに眠る少女の夢の中で。
・・・そんな少女の形は崩れそうだった。
でも。
それでも。
少女は歩いていく。
その行く先など誰も知らない。
その未来も。
・・・それは、その少女が決めるべきことだから。
「・・・・・ほう・・・そんなことがあったのか」
話を聞き終えて、剣はそう呟いた。
・・・全てを終えて、栞の無事と真琴の帰還を確認し、人心地ついた舞と佐祐理がひまそうに見えたので、紫雲が・・・自分たちの知らない紫雲が何をやっていたのかを尋ねていたのだ。
それについて、佐祐理と舞は自分たちが知っている限りのことを話した。
・・・無論、紫雲がこの程度・・・自分のことをぺらぺらと話すこと・・・では怒らない事を確信してのことである。
「・・・昔から面倒ごとに巻き込まれる奴だったが・・・今回はその極め付けだな」
あまり否定のできないことだったので、佐祐理は苦笑するしかなかった。
「・・・ふむ、すると・・・・あいつが言ってたのは、そのあゆって女のことだったのか」
「・・・そうでしょうね」
「・・・・・・・・・・」
いきなり黙り込んだ剣を見て、真紀は幽かに笑うように・・・それでいてどこか困ったような表情をして言った。
「・・・事情を知らなかったとはいえ・・・悪かったって思ってるんでしょう?」
「・・・・・うっ・・・・・」
そのものずばり言われて剣は呻いた。
「でもね。紫雲は”もういい”って言ってたわ。
・・・彼がそう言うのなら、きっともういいのよ。
自分勝手かもしれないけど、私はそれでいいと思う。」
「だがな・・・奴に借りを作ったみたいで癪に障るんだよ・・・」
その言葉を男の意地を抜きにして意訳すると、
『悪いとは思ってる。だから、何かできることでもないだろうか?』
となる。
そして、この場の女性陣に、その意味を理解できないものはいなかった。
・・・舞も、剣の表情でなんとなくその意味を察していた。
だから、こう呟いていた。
「・・・そう思いたいなら、そう思っていていいと思う。
・・・紫雲は、きっと待っていてくれるはずだから。
貴方が、貴方自身で借りを返したと思えるようになるまで」
その言葉に、剣はどこか渋々とした表情を作った。
「・・・ち。奴め、もてまくりじゃねーか」
その言葉は、この冬、この町に訪れてから、剣がはじめて洩らした彼なりの”冗談”であり、”本音”だった。
それが嬉しくて、真紀は笑った。
それを見た、佐祐理もまた、優しく微笑んだ。
想いは伝わる。
そう思ったからだ。
そして、その微笑みを見た舞も嬉しくてほんの少しだけ笑った。
そんな風に、笑顔は伝わって行くのだろう。
そんな彼女らの横を、こんな声を吐く医師が駆け抜けていった・・・のだが、彼女らがそれに気付くことはなかった。
「・・・あの重傷患者・・・・・何処に行ったんだ?!」
「よう、兄ちゃん。今日もサボりか?」
ふと気付くと、いつの間にやら目の前に屋台が出来上がっていた。
そして、そこには鯛焼き屋の親父さんがいて、江戸っ子風の笑みを浮かべていた。
僕は苦笑気味に答えた。
「ええ、まあ。待ち合わせで」
「あの羽嬢ちゃんか。その様子だと随分待たされてるみてぇだな」
「・・・その辺りは聞かないでやってください」
「おう、そうだな。野暮ってもんだな」
・・・何か違うような気がしたが、僕は黙っていることにした。
「・・・んじゃ、どうだ。暇つぶしに食べるか?」
親父さんはにこやかにそう言った。
無論商売だからというのもあるのだろうが、僕のことを気にかけてくれているのだろう。
・・・だが。
「いえ、まだいいです。一緒に、食べたいんです」
あゆのことを思うと、そうすべきと思えた。
そうすると、もっと美味しく食べられることだろう。
そう、きっと。
「・・・そうか。んじゃ、来たときはサービスしてやるよ」
「ええ、よろしくお願いします」
そうして、僕らは笑みを交わした。
「美汐・・・・?」
その声が背中から聞こえてきたとき、美汐は嬉しさで満たされたような気がした。
・・・いや、気がしたのではなく、実際そうだった。
「真琴・・・・目が覚めたのね・・・・・良かった・・・・」
もう、消えることはない。
その事実を知ってはいても、やはり実際に話さないことには、その生を実感できないことには、不安は消せなかったのである。
「みゃあ」
「あ、ぴろもきてたんだ」
足元を歩くぴろに気づいて、真琴は笑った。
「あ、美汐、下ろしていいよ。・・・・・その・・・ありがと」
「いいのよ。私たちは・・・・・友達でしょう?」
どこか確認するように言う美汐に、その足を地面に下ろしながらも首を横に振った。
「違うよ。美汐は・・・しんゆう・・・・そう、親友だと思う。
うん、決定!」
「・・・・・・!」
その言葉が。
あまりにも胸をうって。
その喜びという名の痛みが、美汐を支配した。
だから、美汐は思わず真琴を抱きしめていた。
「・・・あう・・・・」
「・・・・・・・・・」
真琴はされるがままになった。
そうされたかったし、このあたたかさを離したくはなかった。
それが。
”かのじょ”ののぞみだったから。
・・・そんな二人の頭の上にぴろが乗って。
皆そのまましばらく動くことはなかった。
それこそが。
彼女らが長い間求めてきたものだったから。
・・・時は流れ。
日が落ちていった。
名雪は再び雪の降り始めた街を歩いていた。
行く先は分かりきっていた。
・・・それなのに。
その足はそこへ向かおうとはしなかった。
名雪自身不思議でならなかった。
秋子に励まされ。
祐一の残した”あれ”を確かに受け取ったのに。
心の何処かで、怖がっていた。
頼った誰かを失うことを。
祐一はもちろん信じられる。
でも、この世界を信じることはできない。
・・・秋子を自分から奪いかけているこの世界は。
だから、はっきりと心の方向を決めることさえできずに、街をうろつく事しかできなかった。
「・・・・・私、やっぱり」
強くなんてなれない。
そう心の内で言おうとした時だった。
俯いたその視界に入った者がいた。
それは、名雪のよく知る人であり、自身の友達であり、想い人の初恋の人だった。
その少女はふらふらで、それでも何処かへと向かおうとしていた。
その姿が、とても、痛くて。
名雪は思わず、声をかけていた。
「・・・・・あゆちゃん!」
少女はその声にゆっくりと振り返った。
そして、幽かに笑う。
「・・・名雪さん。こんばんは」
そう言って倒れそうになる身体を、かろうじて名雪は受け止めた。
・・・その体が一瞬かすんだように見えた。
(・・・え?!・・・・)
だが、それは本当に一瞬だったために、名雪は目の錯覚だと思った。
・・・名雪があっさりとそう思ったのは世界の強制力の一つであったが、そんな事実など知るよしもない。
そう。
相沢祐一が選んだ”少女”以外の少女の不幸を。
”少女”は知ることはできないのだ。
それは。
それを知ってしまえば心優しい”少女”は幸せになれないから。
「あゆちゃん・・・はやく家に帰って休んだ方が・・・・」
「ううん。だめなんだよ、名雪さん。きっと、あの人が待っているから」
それは紫雲のことだと、名雪はすぐに気付いたのだが、まるで自分に向けられた言葉のような気がした。
だから。
思わず、尋ねていた。
「・・・あゆちゃん、待っている人を・・・・・頼ってもいいのかな?」
「・・・名雪さん・・・?」
「私も、待っていてくれる人がいるんだ。でも・・・その人を頼ると・・・今度はその人がいなくなってしまうような気がして・・・・・でも、もう、その人しか・・・・だから・・・・・」
そんな名雪に、あゆは言った。
「・・・前ね。紫雲君がボクにこんなことを聞いたんだ。この世界をどう思うって」
「・・・・?・・・・」
「ボクはそれに、この世界は大好きだって答えたんだ。鯛焼きがあって、紫雲君や祐一君や名雪さんや秋子さんや皆がいて・・・そして、お母さんがいた世界だったから」
その言葉で名雪は知った。
あゆの母親はもう。
「みんないてくれる。
・・・だけど、いつかいなくなってしまう。
お母さん、みたいに。
それは本当に怖いことだと思う。
でも、本当に怖いのは、そのせいで人に”ふれる”ことを恐れてしまうことだと思う。
そうなったら、本当の気持ちさえ分からなくなってしまうから」
あゆは思い出していた。
あの時。
”黒あゆ”になってしまった時のことを。
恐怖と憎悪に引きずられて、大切な人たちを殺してしまいそうになったことを。
「・・・この世界は怖い。
でも、そんな世界だから、祐一君や紫雲君みたいな優しい人に出会えたんだよ。
だから、怖がっちゃだめだよ名雪さん。
そうしたら・・・せっかくの好きだって気持ちを台無しにしちゃうよ。
だから、頑張ろう?
ボクも、頑張るから」
そう言って、あゆは苦しさをこらえて笑った。
その笑顔で名雪は思い知った。
自分が、いかに守られていたかということを。
そして。
・・・最後まで笑っている強さを。
「・・・・・そうだね・・・・・うん!ふぁいと、だよ・・・!」
「うん・・・よかった。名雪さんの笑顔・・・見れたから。・・・それじゃ・・・ボク、行くから」
名雪の手を優しく解いて、あゆは再び歩き出した。
そんなあゆの背を見送りながら、名雪は言った。
「あゆちゃん・・・・またね・・・・!今度は一緒に遊ぼうね・・・!」
あゆは振り返って微笑むと、曲がり角の向こう側へと消えていった。
それと同時に。
名雪の迷いも消え去っていた。
・・・・・雪が降っていた。
そこは、何処なのか、僕には分からなかった。
理解力が麻痺しているのか、それとも夢でも見ているのか。
・・・そこに立っていた人を見て、僕はますます自分を疑ってしまった。
それはこの場にいるはずのない人だったから。
「こんばんは、紫雲さん。お元気そうで何よりです」
「・・・こんばんは、秋子さん。・・・元気そうに見えますか?」
僕はそう言って、少し首を傾げた。
それに向かい合う秋子さんは、普段着を着ていた。
だから僕はこれを夢だと思った。
「ええ。病院で私の顔を覗き込んでいたときに比べたら」
「・・・・・まさか、幽霊とかじゃないですよね。もしそうだとしたら怒りますよ。
名雪さんや祐一君が待っているのに」
「ふふふ・・・違いますよ。今、ここにいるのは紛れもなく本当の私です。
それから、みんな無事ですよ。
だから、安心してあゆちゃんを迎えてあげてください」
「・・・・・え・・・・・?!」
みんなが、無事。
それが、本当だとしたら。
いや、秋子さんはこんなことで嘘をつくような人じゃない。
だから、それは真実。
夢の中かもしれないのに、僕は何故かそれを確信できた。
「・・・・・よかった・・・・・・ほんとうに・・・・・・ほんとうに・・・・・・よかった・・・・・・・・・・・!!」
「ええ。あなたが、皆を導いたのですよ。
だから、私は、あなたに心からお礼を言わせてもらいますね。
・・・・・ありがとう」
秋子さんはそう言って深々と頭を下げた。
だが、僕には何がなんだかわからない。
僕が、皆を?
「え、とそのあのかお、顔を上げてくださいよ・・・・僕は・・・・そんな」
「いいえ。あなたがいなかったら、きっとこうはならなかった・・・
他の誰もがそう思うでしょうし・・・そう思わなかったとしても私はそう思っていますよ。
・・・これで、あの人たちも報われるでしょう・・・・」
秋子さんの言う、あの人たちが誰なのかは僕は知らないが、秋子さんが見たこともないような本当に綺麗な・・・でも、愁いを帯びているような・・・そんな顔で微笑んでいたから、僕は良かったと思えた。
「・・・そろそろ、私は行きますね。娘たちの帰りを、待たなくちゃいけませんから」
そう言って秋子さんは僕の手を握った。
その手は・・・言葉では言い表せないような・・・あたたかさだった。
「それでは・・・」
「・・・・う・・・・」
どうやら、眠っていたようだった。
辺りはもうすっかり暗くなっていた・・・
「・・・・・夢・・・・・?」
僕はなんとなく、自分の手を覗き込んだ。
そこには、確かなぬくもりが残っていた。
・・・気のせいなんかじゃない。
だから。
「夢じゃ、ないんですよね、秋子さん」
その言葉に答える人はいなかったけど。
その言葉が真実だってことは、もう揺るぎそうになかった。
ただ・・・
覗いた腕時計の時間は。
もうすぐ、今日を終えようとしていた。
「・・・・・・・・・」
不思議と。
落ち着いたものだった。
もっと自分が情けない奴だと思うことだろうと、思っていた。
もっと、気が焦るものだろうと思っていた。
でも、そうならない。
なるはずがない。
その理由を僕は知っていた。
そう。
一つしかない。
たった一人の少女がそこに来ると、信じていたから。
時計の針が12時をさした。
相沢祐一はうなだれた。
そして思う。
俺は名雪の支えにすらなれなかったと。
・・・あいつは、どうなったのだろうか?
あの、どうしようもなくお人よしで変なあいつは。
愚問だなと祐一は思った。
草薙紫雲は、もうとっくの昔に誰かの支えになっている。
そういう男だ。
そして、まだ誰も来なくても待ち続けている・・・そんな気がした。
なら・・・
(もう少し、待ってみよう。往生際が悪くたって構わない。
・・・そうだろ、草薙・・・)
そう心の内で呟いて、今まで自分が座っていたベンチに座りなおしたときだった。
「・・・学校サボってる人発見」
そんな声が、響いた。
それは、本当に待ち望んだ・・・その人の声だった。
「・・・お前だってそうだろ?」
思わず、そう言っていた。
すると、彼女は微笑んだ。
「そうだね、だったらおあいこ」
「そうだな。これでおあいこだ」
「うん」
「でも遅刻だぞ」
「走ってきたんだけどだめだったね」
「おかげで随分と待ったぞ」
「一生懸命走ってきたんだけど・・・遅刻だったね・・・でも遅刻はしたけど・・間に合ったよね?」
その願うような・・・祈るような言葉に、祐一は胸の奥を揺さぶられた。
「もう少しで帰るところだったぞ」
「寒かったよね」
「それもお互い様だ」
「祐一・・・雪積もってるよ」
「それだってお互い様だ」
「祐一・・・私、やっぱり強くはなれないよ。だから・・・祐一に甘えてもいいかな・・・?祐一のこと支えにしていいかな・・・?」
「名雪は女の子なんだから」
「うん」
「強くなくたっていいんだ」
「うん」
「俺が名雪の支えになってやる」
「祐一、あの言葉信じてもいいんだよね」
・・・あの言葉。
それは、この二人だけが知る。
誓いの言葉。
「ああ」
「私、消さないよ。だからずうっと証拠残ってるよ?それでも、本当に頷いてくれる?私に約束してくれる?」
「約束する」
「うん」
「もし約束破ったらイチゴサンデーおごる」
「だめだよ、イチゴサンデーでも許してあげない」
泣き笑いの表情で、名雪は言った。
・・・祐一も、そうしたかった。
でも、支えになる男がそうするのは、約束破りだと、耐えた。
「だったら約束破るわけにはいかないな」
だから、言葉にしてその想いを確認した。
「うん、祐一・・・順番逆になっちゃったけど・・・遅れたお詫びだよ・・・それと私の気持ち・・・」
二人の顔が近づき・・・・触れ合い・・・・離れた。
「祐一・・・好きだったよ」
「・・・俺もだ、名雪・・・・・・・・
・・・・・・・・・さあ、帰ろうか、俺たちの家へ」
「うん・・・・・ねえ、祐一」
「なんだ?」
「・・・あゆちゃんに会った?」
「いや・・・でも、草薙には会ったよ。
誰かを、ずっと待ってるみたいだった」
「そっか・・・なら、大丈夫だよね」
「ああ、問題ないさ・・・」
あゆは、そこに立っていた。
ベンチに座る、たった一人の少年の前に。
震える足は、さっきまでのものとは意味が違う。
震える心は、目の前にいる人に会えた嬉しさと・・・怖さ。
そう、彼は全てを忘れてしまっているはずだから。
だから、何も言えなかった。
だから、何もできなかった。
言いたいことはたくさんあるのに。
話したい事も、あるのに。
喉が渇くような錯覚に陥る。
言葉が、出てこない。
・・・そんなあゆに。
・・・紫雲は言った。
「・・・・・立ってないで、隣に座りなよ。
・・・・・・・・あゆ」
あゆは、自分の耳を疑った。
もう、何も覚えていないはずなのに。
そうしたはずなのに。
でも、いま。
「紫雲・・・・君・・・・・・?」
「あゆ」
あゆの言葉を遮って、紫雲は言った。
笑顔で。
何処までも優しい微笑みで、言った。
「・・・・・忘れるわけ、ないだろ?」
「紫雲君・・・・・!」
あゆは、紫雲の胸に飛び込んだ。
抱えていた想いを抱え。
さっきまでの不安を忘れて。
紫雲はそんなあゆを優しく抱きしめた。
・・・普段ならきっと、照れて、こんなことはできないだろう。
でも、今なら。
(みんなが、背中を押してくれた、今なら)
あゆをしっかりと自分の内にしまいこむように、抱きしめること。
それが、できる。
・・・あゆは、泣いていた。
ただ泣いていた。
僕は、あえてそのままにした。
涙は、全て流して欲しい。
僕も、今はそうしよう。
あゆが、僕の顔を見れない今だから。
もう一度向き直ったときに。
お互いに、笑顔でいられるように。
・・・ややあって。
二人はお互いに落ち着きを取り戻し、ベンチに並んで座っていた。
二人の手には、紫雲がぎりぎりまで待ってもらって・・・最後にもらった・・・もう、すっかり冷たくなってしまった鯛焼きがあった。
「・・・冷たいね」
「うん」
「・・・でも、あったかいよ」
「・・・・・それはよかった」
そんな会話しか交わせない自分たちに呆れながら。
二人は、精一杯鯛焼きをほうばった。
「・・・・・それにしても、さ」
ようやっと。
普通に話を切り出したのは、紫雲だった。
「・・・なにかな?」
「デートの約束・・・一日すっぽかさなくったっていいのに。まあ、来てくれたからいいんだけど・・・」
冗談めいた口調で、紫雲は苦笑気味に言った。
「・・・え?約束・・・守ったよ」
どうして?と不思議そうな顔であゆは言った。
「え?だって・・・」
「・・・紫雲君、来週にって約束したのって、日曜日だったよね」
「あ」
紫雲は思わず、間抜けな声を上げた。
完全に一日間違えていた。
「うぐぅ・・・紫雲君が約束忘れてたよ」
「いや、その・・・・・ごめんなさい」
「でも、許してあげるよ。だって紫雲君が損しただけだし」
「ぐあ・・・・・あゆが鬼なことを言ってるよ」
「うぐぅ・・・・・そんなことないもん」
そうやって。
二人は他愛無い会話を交わした。
笑って、泣いて、怒って。そしてまた笑って。
普通に。
普通の少年と少女のように。
ただ、話し続けた。
これが、自分たちのデートだと、二人は知っていた。
どこかに行く必要なんかなかった。
二人がいて。
鯛焼きもあったりすれば。
それで、何も、いらなかった。
「・・・そう言えば。あゆ。
この人形の願い。使わせてもらったよ」
「え?そうなの?なんてお願いしたの?」
「ふふふ・・・それは秘密〜」
「え〜ボクのお願いなのに〜?ずるいよ、紫雲君」
「さあてね〜・・・・・ま、今度、気が向いたときにね」
「・・・・・・・・・今度・・・・?」
あゆの表情が翳った。
だが紫雲はそれに構わず言った。
「ああ、今度だよ。まさか、これで会えなくなるなんて言わないよね?」
・・・紫雲は。
皆と別れる前に命に尋ねていた。
あゆを助ける方法はないのか、と。
法術でも治せないのか、と。
命は言った。
あゆの身体は元々法術を寄せ付けない肉体を持つ上に、7年前にあゆに使ったことで耐性ができてしまっているのだと。
だから、もう、外からの力であゆを救うことはできないのだ、と。
だから、紫雲にできることは。
あゆの、あゆ自身の意志を強め、信じることだけだった。
「・・・・・紫雲君。ボクは・・・」
あゆは。
必死に戦っていた。
崩壊しかかった嘘の肉体を一生懸命維持していた。
今、この時だって。
それは。
目の前にいる人に会って。
普通に話をする・・・ただそれだけのため。
・・・紫雲は、それに気付いていた。
だからこそ。
「会えるさ。今だって、会えたんだ。だからきっと、会える」
そう呪文のように唱えた。
それは自身に向けてなのかもしれないと思いながらも。
「・・・・・そうだね。うん、きっと会えるよね!」
あゆは笑顔で頷いた。
「ああ、その時はきっと話すよ。何を願ったのかを」
「うん・・・だから・・・・約束しよう?」
そう言ってあゆは小指を差し出した。
紫雲は・・・
「いや、約束は、しないよ」
そう言って、あゆの小指を握り締めるようにしてしまいこんだ。
あゆの表情が驚きに覆われていった。
「・・・どう・・・して・・・・?」
「ねえ、あゆ。僕らは、いつだって約束をしなきゃ会えないのか?
違うだろ?
約束なんかしなくたって。
望めば、きっと会えるんだよ。
僕は、あゆにまた会いたい。
だから、きっと会いに行くよ。
・・・あゆは、そうじゃないのか?」
真っ直ぐに、あゆの目を見据えて、紫雲は言った。
紫雲は、約束という言葉の重さを、この冬に知った。
それはほんの少しの希望で、ほんの少しの想いの重なり合いなのに。
それは、容易に人を縛ってしまう。
・・・その人の人生を狂わせるほどに。
・・・勿論、大切な約束を交わすことで、より強い想いを交わすこともできる。
・・・奇跡を起こすことだって、できる。
でも、それは、大きな重荷を背負わせることに他ならない。
そんなことを。
もう二度と。
あゆにさせたくは、ない。
・・・・・紫雲に見据えられ、あゆは居心地悪そうにしながらも、口を、開いた。
「ボクだって。ボクだってまた、紫雲君に会いたいよ・・・!」
「なら、それでいいじゃない。二人とも、会いたいって言ってるんだ。
これで会えないなんてことは・・・ないよ」
紫雲は笑った。
笑顔を浮かべた。
精一杯に。
慣れなくて。
不器用だけど。
それでも、想いが、伝わるように。
そして、それは確かに、あゆに届いた。
「うん・・・・・!」
それこそ。
約束をしないということが。
二人の交わした約束だった。
・・・それから、またしばらくの間。
紫雲とあゆはただそこに座って、鯛焼きを食べながら、話し続けた。
自分たちの昔の話や、この冬の出来事、共通する友人たちのこと。
それは二人にとっての、この冬の日常だった。
出会った時から、今までずっと続いてきた、彼らが望んだ触れ合いだった。
・・・・・出会いが始まりなら。
・・・・・別れは終わり。
だからそれは。
「・・・・・鯛焼き、もうなくなっちゃたね」
「うん、おいしかったよね」
夢の、終わり。
「ねえ、紫雲君」
「なにかな?」
「手を貸してくれないかな」
「いいよ」
横に座るあゆの願いに応えて、紫雲は手を差し出した。
その、手袋をしていない手は、すっかり冷え切っていた。
あゆは、手袋を取ると、その紫雲の手を自分の両手で包み込んだ。
「冷たいよ、紫雲君の手」
「まあ、手袋忘れてきたからね」
それは嘘だった。
あえてしてこなかったのだ。
・・・あゆが感じているはずの寒さを。
ほんの少しでも感じ取りたかったから。
・・・そんなあゆの手があたたかかった事が、紫雲には嬉しかった。
少しだけ、なんだかな、とも思ったが、それ以上によかったと思えた。
「・・・ごめんね」
「・・・自業自得さ」
二人はお互いの顔を見ないままに、言葉のみを交わした。
・・・それは二人が悟っていたから。
そんな二人を繋ぐのは、紫雲の手と、それを包むあゆの手。
紫雲の手が、少しずつ、ぬくもりを取り戻していく。
あゆの体温を少し奪う代わりに。
それは、この冬の出来事と同じだった。
草薙紫雲という名の少年が。
月宮あゆという名の少女によって。
ほんとうの心を、取り戻していく。
そして。
月宮あゆという名の少女が。
草薙紫雲という名の少年と出会った事で。
心の闇を知って、それでも、それを越えていく。
・・・そこに在った、人々とともに。
それは、光と闇の邂逅。
それは、過去との決別。
そして。
「・・・なんだかね、今、すごく幸せだよ」
「・・・僕も、そうだよ。すごく、すごく、幸せだよ」
再会を誓っての、別れ。
「またね、紫雲君」
「ああ、またね、あゆ」
その言葉を最後に。
紫雲の手を、心を覆っていたぬくもりは、去って行った。
後は、ただ、雪が舞うだけだった。
そして。
ゆっくりと。
夜が、明けていった。
・・・・・続く。
最終回 『さよならも、終わりもない旅へ』へ
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