Kanon another1”snowdrop”第48話



始まりも、終わりもない永遠の旅。

それが始まったのは、一人の少女が、一人の少年に再会したいと思った時から。

これは、そのただ一人の少年の縁が繋いだ、5人の少女の物語。

Kanonという名の物語。

この物語は、誰かの幸せを経て少年の幸せで終わるはずだった。

・・・でも、物語は終わらなかった。

それは、少女たちの悲しみが晴れることがなかったから。

それは”物語の傍観者”たちが一人の少女の奇跡を喜び・・・そのすぐ側にある悲しみを感じていたから。

だから、世界は廻り続けたのかもしれない。

誰かの悲しみがある限り、廻り続ける世界。

・・・悲しみでしか彩られないループ。

誰かが幸せになっても、皆が幸せになれるわけじゃないから。

それは、世界の決定事項だった。

この世界が、たった一人の少年・・・にして”物語の傍観者”たちのための世界だったから。


・・・・・でも。


この世界は、そんなことを望んでいるのだろうか?


水瀬名雪。

美坂栞。

沢渡真琴。

川澄舞。

そして、月宮あゆ。


心優しく。
最後まで笑っている強さを持った。
そんな彼女らが存在する世界が。


そんな彼女らをいとおしいと思う人々が。


そんな、悲しみを?


そんな、ことは。










・・・午後11時46分。





「・・・・・!!」

剣はそれに気付き、パッと飛び下がった。

・・・紫雲がゆっくりと立ち上がった。
そう、彼は別に気を失っているわけではなかったのだ。

ただ、考えていただけだった。

「・・・貴様・・・・」

紫雲の身体は、傷だらけで、さらに泥と雪にまみれていた。
どう見たって、惨めでボロボロの姿だった。

でも。

その眼は。

その輝きは力強く、ただ前を向いていた。

そして、それは、この冬、一人の少女とともに得た・・・紫の草薙ではない、草薙紫雲の強さだった。


紫雲は、伊達眼鏡の奥にある、その眼差しをしっかりと二人に向けて、口を開いた。


「・・・・・約束を、しているんだ」

「・・・・・何?」

訝しげな表情を見せる二人には構わず、紫雲は続けた。

「明日・・・デート、するってね。ただ、間抜けなことに何時かも何処かも決めてなかったから、今日中に彼女が絶対来る場所で、待っていたいんだ」

”今日”が終わるまで後十分程度・・・その場所へ着くにはぎりぎりの時間だった。

「・・・このぐらいで君たちの気持ちが済むかは分からないけど、これ以上の時間はやれないんだ。ごめん」

その言葉は、ある事実を指していた。
・・・紫雲が今の今までワザとその身を剣の攻撃にさらしていたということを。

「・・・き・・・・さまぁぁぁぁぁっ・・・!!」

その事実に気付き、剣は激昂した。
だが。

「・・・・・っ」

紫雲はそれすらも、ただ真っ直ぐ見詰めることで制した。
その紫雲の姿に、今まで剣の後ろでただ見ているだけだった真紀が息を飲んだ。

その真紀に、幽かに笑いかけて、紫雲は言った。

「僕はその子が好きだ。でも、その子は・・・いなくなってしまう。だから、せめてそのときまで一緒にいたいんだ」

そのどこか寂しげで切なげな表情を、真紀はかつて見たことがあった。
・・・それは、剣を一瞬でボロボロにしたとき。
あの時は笑ってはいなかった。
ただ、不安に怯えていた。
でも、その表情の奥にあるものは、変わってはいなかった。

それは・・・

「・・・・・そうかよ・・・・・」

真紀の思考を、剣の言葉が遮った。
剣は、もう完全に”キレて”しまっていた。

「剣・・・・!!」
「うるせーよ、真紀。・・・紫雲・・・・その子とやらに、二度と会えなくしてやるよ・・・それが、お前に傷つけられた者たちからの、お前への罰だ・・・!!」

剣の周囲の空気が、一瞬にして固まっていく・・・それは殺気に他ならなかった。

「・・・・・決着をつけてやるぜ・・・・!!」

「ああ、それは望むところだ」

剣に呼応するように紫雲は構えた。
いや、構えたというのは正確ではない。構えない”構え”・・・いわゆる自然体を、紫雲はとった。


・・・紫雲は、考えていた。

剣に、真紀にしてやれることはないのだろうか、と。
彼らを追い込んだのは自分だから。

戦うことに意味はない・・・そう思ってもいた。

だが、剣に傷つけられながら、紫雲は気付いた。

もう引くことはできないのだと。

自分の拳で開いてしまった憎悪は自分の拳で閉ざさなければならないと。

・・・剣は、それを望んでいるのだと。


・・・そう、例え、どんな結末になったとしても。



紫雲の法術の力はいまだ回復していない。

だが、それでも。

紫雲は立ち向かう。

自分の過去に、親友に、好きにだった人に。



紫雲を中心に空気が渦巻いていく・・・


「罰・・・確かに、そうかもしれない。それを受けるべきなのかもしれない。
実際、俺は人を傷つけてきた。
正義・・・そんなものが自分の中にあると信じて。
幼いままの、綺麗な正義なんか、とうの昔に消え果ていたのに・・・
それを建前にして、俺は人を傷つけてきた。
・・・俺が本当に望んでいたのはそんなことじゃなかったのに・・・・」

紫雲は、意識を集中し始めた。
舞う雪を、指すような風を、剣の殺気を、全てを”感じる”ために。

「俺が望んでいたこと・・・それはただ皆が笑っていられること・・・それだけだった・・・
そのことに気付くのに、本当に・・・本当に時間がかかった。
そして、そのことに気付いても・・・それが分かっていても・・・・また人を傷つける。
意識しても、そうじゃなくても、生きている限り、その繰り返しなのかもしれない・・・」

「・・・・・・うおおおおおおおおっ!!」

そんな話など、聞く耳を持たないと言わんばかりに剣は叫び、地を蹴った。

「でも!それでも!」

紫雲がキッと剣を見据えた。

「馬鹿で!傲慢かもしれないけど!生きていく!もがいて!あがいて!
 
皆を幸せにするために!
 
皆で幸せになるために!

それが!それこそが!俺の!僕の望みなんだ!!」

剣の拳が紫雲の懐に入っていく・・・その瞬間。

(・・・なんだ?!この感覚は・・・!?)

剣は感じていた。
自分の拳が、力が、それを支える意志さえもが紫雲に取り込まれていくような感覚を。

それは錯覚であり、錯覚ではない。

それは、ただひたすらに戦っていたときに覚えた、紫雲の極意。

全ての”流れ”を征し、自分の力に転化する技。

あらゆるものを貫く力。

草薙紫雲極意”死刀”。


剣の全力の拳は、紫雲によってはらわれると同時に、その勢いを利用された。
剣は拳という矛を取り払われた状態で、さらに倍加した・・・いや、倍化されたスピードで紫雲に向かう。
紫雲は、剣によってさらに強化された矛を、更なる加速で頂点にまで高める。


そして。


ズン!!


その、鈍い音とともに、限りなく無力化した剣の腹部を、限りなく力を高めた紫雲の拳が貫いた。



その刹那、まるで時が止まったかのように二人の動きが静止する。

「・・・し・・・うん・・・」

「・・・・・・・・・」

次の瞬間。
剣の体が宙を舞い、真紀のいる辺りに叩きつけられた。

「剣!」

真紀が、地面に仰向けに横たわる剣に駆け寄った。
その瞳の端には涙がにじんでいた。

・・・それを見て、紫雲はかつての光景を思い出していた。

赤く染まった自分。倒れ伏す剣。それに駆け寄る真紀。


でも、あの時とは、違う。

この血は、自分のものだ。
・・・そう思うと、紫雲は何故か楽になったような気がした。


紫雲は、ふうと息を吐くと、二人に歩み寄った。
そんな紫雲を、真紀は見詰めた。

睨みつけるような・・・それでいて・・・何処か苦しそうな、そんな表情で。


(また、頬を叩かれるのか?・・・でも、それでもいい)

だが、真紀は立ち上がることもなく頬をはたくこともせず、ただ紫雲の顔を見詰めるだけだった。
だから、紫雲は二人の横を通り過ぎていった。

「・・・ごめん。じゃあ、また」

今は、これ以上語る言葉を持たなかった。
そう言って、幽かに笑うことしかできなかった。

何を言えというのだろう?

何をしろというのだろう?



どんなに願っても、どんなに祈っても、あの時には、戻れないのだから。



そうやって、紫雲が立ち去ろうとした時。

「・・・・・・馬鹿だな、お前は」

剣のそんな言葉が、紫雲の背に届いた。




紫雲は振り向く事無くその歩みを止めた。




剣もまた、そんな紫雲を見る事なく、ただ、雪の舞う空を見ていた。





・・・あの一撃。
紫雲の放った一撃。

馬鹿みたいな話だと剣は思ったが・・・それで、なんとなく悟った。

草薙紫雲は自分よりも遥かに強い男だった、と。

昔も、今もずっと変わる事無く。

今更ながらに、本当の意味でそれを知った。


ただ正義を振るうということがどれだけの痛みを伴うのだろうか?
人には馬鹿にされ、偽善と言われるだろう。

”正義”は所詮、個人のものでしかない。
それを振るうことは他人と衝突することそのものだ。

それでも、紫雲はそれを貫いてきたのだ。

何よりも、誰よりも、他人を傷つけるのが嫌いな”正義”を持ったこの男が。


それに比べて自分は・・・・・

自分の弱さを、なすりつけ。
支えてくれる人が、側にいることを忘れて。




・・・本当の罪人は、自分なのに。





「・・・・・本当に、馬鹿だ」

「・・・・・それで、いいんだ。それが僕だから」

それが剣自身に向けられた言葉だとは気付かずに、紫雲は言った。

「けっ・・・もういい・・・・・行けよ・・お前・・の顔は・・・しばらく・・・見たくねえ・・・」

それだけ言って・・・剣は、気を失った。


それを気配で察して、紫雲は再び歩き出そうとする。

「・・・待って!」

そんな紫雲を、再び足止めしたのは真紀だった。
今度は振り向いて紫雲は言った。

「何かな?・・・僕を殴りたいって言うのなら、好きにするといい」

「違うの・・・私・・・いえ私たち・・・あなたに謝りたいことが・・・あの、その・・・なんでこんなことを剣がしたのかっていうとね・・・・・」



あの時。

二人が去った後に。

残った噂があった。

それは。



「・・・いや、もういいんだ。分かってたんだ・・・ずっと、前から。
幸せにね、三人とも」



剣が、こんなことをした理由。

紫雲は、察しがついていた。

確かに自分に負けたことを恥じていたのかもしれない。
無様な姿を真紀に晒した事も、そうなのかもしれない。

だが。

そもそも群瀬剣という男は何かをいつまでも根に持つような狭量な男ではない。
ましてそれが実力勝負なら尚更だ。

ただ、嫌だったのだろう。

自分”たち”が何故ここにいるのかを問われたときに、”負けて”こうなったと答えるのが。

ただそれだけのことだったのだろう。

「・・・一応、病院に連れて行ってあげたほうがいいよ。
それじゃ・・・ね」



「紫雲・・・・・ごめんなさい・・・・そして・・・・ありがとう・・・・」 


紫雲はそれに軽く手を上げて答え、今度こそ、その場を後にした。




・・・・・さよなら、本当に好きだった人。




その言葉を、最後まで口にできないままに。












「・・・まだ間に合うな」

腕時計で時刻を確認して、紫雲は呟いた。

呟く先から息の塊が形となって出てくるのが、少しうざったく思えた。
まあ、それもこの季節の風情なのだろうが・・・

さっきのことを考えたくないのか、無意識の内にそんなことを考えていた時だった。

「・・・・・・・」

目の前に曲がり角があった。
それは何の変哲もない別れ道だった

少なくとも、視覚的にはそう見えるだろう。

だが、紫雲にとってそこは重要な意味を持っていた。



一つは、自分が進もうとしていた、その道。

もう一つは・・・あゆと祐一の思い出がある・・・あの大木の跡が残る場所への道だった。



あゆは・・・あそこにいるのではないだろうか?
なら、待つ必要なんかないんじゃないか?



紫雲は、あゆがそこにいる可能性が高いことになんとなく気付いていた。
なぜならそこは、始まりの場所だから。

”それ”がなければ、紫雲はあゆに会うことすらできなかったのだから。

(・・・行くべきだ)

そんな心の声が確かに聞こえた。

(あゆにもう一度会うのが目的なら、それでいいはずだ)

確かに、それはそうだろう。




・・・でも、それは。




紫雲は、誰かに問い掛けるように、空を見上げた。
舞い降りる雪が、顔に降り積もるばかりで、何も変わらない・・・それが分かっていてもそうするしかなかった。
やがて諦めて、紫雲は顔を下ろし、再びその曲がり角を見つめた。

「・・・・・・・・ん?・・・・・・・・」

そんな紫雲の視界の端に入ったものがあった。


・・・それは一輪の花だった。

コンクリートの割れた部分から咲いた小さな花。
雪のように白く、頭を垂れる様に咲くその姿は、雪の雫のようだった。

何故こんなところに咲いているのか分からない。

ただの偶然なのか、それとも誰かがあえてそこに植えたのか。

ただ、いずれにせよ。

その花は、紫雲が進もうと決めた道の隅に小さく、だが確かに、そこにあった。

・・・それは小さなきっかけでしかなかった。

でも、それでも。

その小さな花は、紫雲の背中を押した。



「・・・・・そうだよな」



何をいまさら迷っていたのだろうか?
もう決めたはずだったのに。



それに・・・ただ、あゆに会うだけでは意味がない・・・紫雲は、そのことに気付いた。

あゆが、草薙紫雲にもう一度出会ってくれるかどうかが大切なのだ。


「・・・・・よし」

紫雲は小さく頷くと、一歩また一歩と踏み出していった。
その進むべき道を、確かに選んで。

・・・途中、紫雲は一度振り返って、その花を見た。

(・・・ありがとう)

そう、心のうちだけで呟いた。



・・・小さくなっていく紫雲の背中を見送るように、その花は幽かに風に揺れた。

その、花の名は。






第48話 snowdrop〜待雪草〜






・・・午前3時11分。

手術室と書かれたプレート・・・普通は使用中の際は灯が灯る、それには今、灯はついていなかった。

それは、深夜・・・あるいは早朝と呼ばれる時間帯だから・・・という人もいるだろう。

・・・だとすればその見解は甘いと言うべきだろう。夜中だろうが、早朝だろうが医者を・・・厳密に言えば緊急な手術を必要としている人はいる。

そして。

それらにあてはまらない例外も。



「・・・・・ねえ、北川君」

「なんだ、美坂」

二人は、その、手術室の扉の隅に、向かい合うように座っていた。
・・・座っていたと言っても、病院備え付けのベンチではなく、冷たい床にだったが。

そうしなければ、少しそこを通りかかった程度の誰かに見つかる可能性があったからだ。



「・・・・・栞、助かるかしら」

囁くほどの声で、香里は言った。
その表情は暗がりでよく分からないが、お世辞にも明るいとはいえなかった。
・・・そんな香里に北川は同じように小声で答えた。

「おいおい、何お前が不安になってるんだよ。
ありきたりなセリフになるが・・・お前がそんなことを言ってると助かるものも助からないぜ」

「・・・・・この会話が栞に聞こえるとは思えないけど」

「う・・・まあ、その・・・心意気は大事だろ」

「・・・そうね」

そう言って、香里は笑った。
・・・そんな余裕など、本当はないだろうに。
そんな香里に、に北川は見惚れてしまった。

・・・いつものように。

「なあ、美坂」

「なに?」

「全部片付いたら・・・どっかに遊びにいかねーか?」

・・・二人で。

とまで言えない辺りが彼らしい。

そんな北川に香里は言った。

「・・・考えておくわ。・・・二人で遊べる場所・・・考えておいてね」




そんな会話が交わされている向こう側・・・すなわち、手術室の中では、今まさに手術が始まろうとしていた。


「栞君・・・長くかかるが・・・しばし我慢していてくれ」

命はそう言って、手術用器具を並べていった。

栞は麻酔が効いてきたのか、返事をすることはなかった。

だが、命は彼女が目を覚ましていたのなら「はい、任せてください」と答えていただろうと確信していた。
美坂栞は強い少女だから。


それに比べると自分は・・・ふと、そんなことを思った。




幼い頃から、御伽話代わりに聞かされた、草薙家の宿命・・・
そして、それが真実だと知るにつれて、覚えさせられた”力”の操り方。


全ては自分の知らない誰かのために。


成長するにつれ命はそれを理不尽だと思うようになっていった。


・・・人が良すぎる草薙家の、彼女は例外・・・いや、普通だったのかもしれない。


彼女が医学を志したのは、運命や使命を押し付けられたことへの反発、そして、”力”を使わない自分に一体どれほどのことができるのか、どれほどの人が救えるのかを知りたかったからだった。

そんなふうにして、彼女がようやっと医者としてひとり立ちし始めたとき。

両親が事故で亡くなった。

事あるごとに衝突していた両親。
だが決して嫌いではなかった。

その自覚と共に彼女に残ったものは、草薙家の使命と、僅かな財産と、弟だった。

・・・弟には自分と同じ思いをさせたくない。

だから、命は紫雲に草薙家の宿命のこと、力のこと、何も教えなかった。

そうすることが彼にとってプラスになると信じたから。

そして、全てを過去へと封じた。


それが一番いいとあの時命は思った。

・・・だが、今にして思えば、それは逃げだったのだろう。

自分は弱かったのだ。


だからこそ、苦しむ人に法術を使えなかった。
一人に使えば、また一人に、もう一人に、さらに一人に・・・それはずっと続いていくから。

もし、力尽きたときに一番苦しむ誰かが来たら。
それが、もし弟だったら。
自分の愛する誰かだったら。

そう思うと確かに恐怖を感じた。

なにより、それに頼る誰かも自分も許せなかった。


でも。



それは一部間違いだったのではないか。

この冬の出来事を経て、命は少しそう思うようになった。


自分の愚弟、草薙紫雲。


紫雲は、人を救うことに躊躇いを持たない。
そのために自分の何かを削ることもいとわない。
そのせいで自分が限界に陥っても、限界以上を引き出す。

そして、その果てに倒れてもそれを支える誰かがいる。


それをこの目で見ているうちに、思った。

命を救うのに、誰かの助けになるのに、理屈なんかいらないと。

そして、そう思う人は、この世にはたくさんいるのだと。



(子供じみた”答え”だがな・・・)



だからこそ、目の前の少女を救いたい。

命は強く思っていた。

・・・栞にこれから行う手術。
それは元々予定されていた・・・今となっては何の意味も持たないはずの手術と、法術を同時に行うことにより、両方の効果を最大限まで引き出し、治療するという荒業だった。

それは医者として愚かな事だった。

これがどう転ぶにせよ、命はクビ・・・最悪、医師免許剥奪の上、裁判沙汰になりかねない。

香里に問うた覚悟は、このことも示していた。
・・・それも踏まえた上で、すでに香里たちの両親にも許可をもらっていた。


・・・こんな無茶なことを、担当医でもない自分に任せると、彼らは言ったのである。
それは、美坂家の人々の栞に対する愛情の表れだった。

それは、自分が紫雲を思うこととなんら変わらない気持ちだった。



だからこそ。



「力を使うのを、躊躇ってなんかいられないんだよ・・・なあ、紫雲よ・・・!」

かざした左手が光を帯びて輝いた。

それは命の誓いだった。

”命”という、両親がつけてくれたその名に恥じぬ働きを、この世に為し続けるという。


「さて・・・はじめるか・・・!」





・・・同時刻。

川澄舞は自分に眠るあらん限りの”力”を引き出していた。

かつては忌み嫌って、放り出してしまった力。

さぞ勝手だと怒っているのかもしれない。

でも。あの時。

死にかけていた紫雲を、佐祐理を、確かに治す事ができた。

・・・治してくれた。

だから、今、この力が。

「嫌いじゃない・・・いや、好き。だから・・・私にこの人を助けさせて。
祐一や名雪や紫雲たちがいつだって笑顔でいられるように。
過去に囚われて、足踏みをしないように・・・」

そう呟く、舞の側には佐祐理がいた。

「がんばって、舞・・・!」

その呼びかけに答えるように、舞の内側から溢れ出す輝きは、まさに命そのものの輝きのようにさらに強く輝いた。




・・・午前4時01分。

長い時間をかけて、彼女たち・・・美汐と真琴はこの地に辿り着くことができた。

ものみの丘。

彼女の、いや彼女たちの故郷。

雪が舞い、冷たい風が吹くことはこの町の何処とも変わることはなかったが、美汐は感じていた。

この丘にしかない空気。

神聖にして、高貴なる何か。

それが確かにここには存在していた。

その存在を確信したからこそ、美汐は賭けに出たのだ。

・・・遅かれ早かれ、このままでは真琴は消えてしまう・・・あの子と同じように。

なら、最後の悪あがきをしてみよう、と。


・・・もっとも、そう思うようになったのは、紫雲や栞の意志や行動に心で同意できるようになった最近だが。


だからこそ、美汐は声高く、叫ぶのだ。


「お願いします・・・・・!この地に住まう妖孤たちよ・・・・・!
貴方たちのお力を、たった一人の同胞のためにお貸しください・・・・・!
人であり続けることを望む、この少女を・・・・・!

 救う、ために・・・・・!!」


自分の膝の上に横たえた少女・・・その息を消さないために。
かつて何もできなかった自分を乗り越えるために。

「・・・・・お願い・・・・します・・・・・・!」

その叫びは、叫びとは言えない、だが確かなる心からの叫びはただ、風に舞うばかりだった・・・






・・・・・午前0時ジャスト。

紫雲は、そこに辿り着いた。

そこは、紫雲にとって、特別なものとなった、この冬の始まりの場所。


彼女にとっては・・・


紫雲はそれを考えようとしたが、途中で止めた。
考えることが怖くなったのも多少はあるが、そういう後ろ向きなことを考えたくないという理由が一番大きかった。

それは、昼間は小腹が空いたりした誰かが立ち寄る場所。
ほんの少しのあたたかさを求めて立ち寄る場所。

いつも、あの鯛焼き屋がある、その場所。

浪漫も風情もないが、ここで待つことを紫雲は決めていた。

いつもその鯛焼き屋がある場所の真向かいにあるベンチに、紫雲は腰を下ろした。
その彼の頭に浮かび上がっていたのは・・・。

(いない)

その一言に尽きた。

確かにあてにはしていなかったが、それでもいないのは・・・辛いし、寂しい。

だが、まあいいと思えた。

”今日”は始まったばかりなのだから。



・・・午前7時46分。

香里と北川は、手術室の扉の前に立ち塞がっていた。

目の前には、この病院の看護婦や、医師が十数人。


・・・栞が病室にいないことに気付いて、そして、手術道具やその他の備品が消えているのを知って、ここに気付いたのである。

香里にしては珍しい、忌々しいと言わんばかりの表情を浮かべていた。
北川も、その視線はいつもより鋭く、その表情は凛々しかった。

「・・・どきたまえ。何のつもりかは知らないが・・・妹さんを無意味に苦しませてどうする?」

そう言うのは、栞の担当医の男だった。
・・・法術の存在を知らない彼らにとって見れば、命の行為は馬鹿げている以外の何物でもないのだから、そう言うのは当然なのかもしれない。

だが、これだけは言えた。

「無意味じゃないわ。草薙命さんは意味のあることをしている。
どんな結果に終わったとしても、あの人は栞の命を救う努力をしてくれている。
もう一度言うわ。無意味なんかじゃ、ない」

高ぶった感情が、彼女に目上に対する口調を忘れさせてはいた。
だが、言った言葉は紛れもなく、真実だった。

「・・・そうかも、知れない・・・・だが、言いたくないが、この病院の責任問題もあるんだ・・・そうなった時、誰が責任を取ってくれると言うんだ」

「それは・・・」

そう香里が言いかけたときだった。

香里の横に立っていた北川が、いきなり床にしゃがみ込むと、頭を床にこすり付けるほどに頭を下げた。・・・ありていに言えば、土下座したのだ。

「北川君・・・?」

「・・・俺、馬鹿だからどういっていいか分かりません。子供の俺たちに責任が取れるとも思っていません。でも・・・結果がでるまでは・・・何も問わないでください・・・!」

「・・・・・」

「これが失敗して栞ちゃんが死・・・いえいなくなるようなことがあれば、そのときはしょうがないと思います。多分、命さんが責任を取る事になると思います。
でも、俺は信じているんです。
命さんのことも、栞ちゃんのことも。
だから、まだ待ってください・・・お願いします・・・!」

その北川の言葉に皆が何も言えないでいるときだった。

「・・・よく言ってくれたな。ありがとう、北川君」

ドアが開いて、その人物・・・命が姿を見せた。

「草薙く・・・」
「命さんっ!栞は?!栞はどうなったんですかっ!!?」

何かを言いかけた年配の医師を遮って、香里が問い掛けた。

命は至極冷静に告げた。

「・・・”手術”自体は・・・成功した。後は栞君次第としか言いようが・・・」
そう言い掛けた命の体がぐらりと揺れた。
それを慌てて、香里が支える。

その表紙に、命の横顔を見た香里は絶句した。

額には汗が浮かび、その顔面はこれ以上はないというくらいに蒼白だった。
香里の肩に触れている手からは何の力も感じられない。
・・・力が、入っていない。

かなり、消耗しているようだった。

普段、こういうことは隠すであろう命がこれほどまでに疲れをあらわにしているであれば、それは本当に消耗しているのだ。

「命さん・・・」
「気に・・・するな。それより・・・栞君を病室へ運ぼう。・・・皆様方・・・先ほど、この少年が言ったとおりです。
事情説明も踏まえて、全てをあと廻しにさせていただきます・・・それでは・・・
・・・行くぞ・・・・二人とも・・・」

一方的に告げるだけ告げて、命たちはベットを押していった。

それを、医師たちは呆然と見送るだけだった。

ベットの上に家に眠る栞は、雪のようなその肌に何の感情も浮かべないままにただ、何も語ろうとはしなかった・・・・・


・・・それからしばしの時が流れ・・・


栞の病室では、重い空気が立ち込めていた。
・・・栞は一向に目を覚ます様子を見せない。
・・・命も、また疲れきって椅子に座ったまま眠りについて動こうともしない。

香里は栞の手をとって、ずっと彼女のそばにいた。
・・・彼女らの両親は、通勤の渋滞にでも巻き込まれているのか、まだ到着していない。

そして、北川は、その様子を何も語る事無く眺めていた。
・・・無論、その心中は顔ほど穏やかではなかった。


あとは、栞君次第。


そんな命の言葉が、香里の耳からこびりついて離れなかった。

(栞・・・あなた、まだ生きたいでしょう?
あたしは、あなたに生きていて欲しい。したいことが、いっしょにやりたいことがたくさんあるから・・・
だから、早く、目を覚まして・・・お願い、だから・・・)

そんな、想いを、裏切るように。

栞の脈拍の数値が、急激に下がった。

「・・・・・・!・・・栞・・・・っ・・・・!」

栞の手を強く、強く握り締めた。
だが、栞の手は、それに応えない・・・・





・・・それよりも少し前。

秋子の為に、力を振り絞っていた舞に異変が起きた。

「・・・・・くっ・・・・・」

「・・・・・舞・・・?!」

おかしい・・・舞はそう思った。
以前佐祐理たちを治したときは、こんなに時間はかからなかった。
まるで見えない何かに遮られているように、力が届かない・・・そんな感じだった。
実際には、力が届く手応えはあったのだがそれがかする程度しかなかったので、実感が涌かないのだ。

そして、自分の力は際限なく削られていく・・・このままでは、彼女を癒すどころか、自分も倒れかねない。

(・・・私のことはいい、でも・・・・!)

舞はその想いを形にすべく、さらに力を振り絞った。

その時だった。

ドンドンドンドンッ!!

秋子の病室の部屋の扉を激しく叩く音が響いた。

「・・・・・!・・・・・」

佐祐理は息を飲んだ。

『何をしているんだ!ここは面会謝絶の病室なんだぞ!!』

・・・ドアの向こうにいるのは一人だけのようだったが、このままでは・・・

そう思った瞬間。

かけていたドアノブの鍵が、ゆっくりと回ろうとした。

「だめっ!!」

佐祐理は慌ててその鍵のロック部分を押さえ付けようとするが、それは無茶だった。
どう考えても力の差があるし、鍵を使って開けようとするのとそれを指先で抑えようとするのはかかる負担も違いすぎた。

佐祐理の奮闘も空しく、ドアの鍵が開く・・・!

それでも、佐祐理は諦める事無く、ドアノブを握り締めて、ドアが開くのを防ごうとする・・・!


だが、意外なことが起きた。


バキッ!!


「・・・・?」

何かを殴るような音が響いた後、ドアノブにかかる、向こう側の力が急に消えてしまったのである。

佐祐理はこちらの油断を誘っているのかとも思ったが、数分過ぎても何の反応もないので、好奇心に負ける形で、警戒しつつも、そのドアを開いた。


「・・・よう、やっぱあんたらだったか」

そこにあったのは、意外な人物たちと意外な光景だった。

「貴方がたは・・・紫雲さんの・・・・?」

そう。
そこに立っていたのは、剣と真紀の二人だった。

剣はうんざりした様子でぼやいた。

「・・・あいつめ。まさかこうなることを見越して病院に連れて行けっていったわけじゃないだろうな」
「ないわよ、それは。あの人はそんなにズル賢くはなれないから」
「・・・だろうな。・・・で、そこのあんた」
「へ?は、はい」
「これで、よかったのか?」

医師らしき男が横たわっているのを指で指して、言った。

「あ、はいその、とりあえずは」
「そうか。なら、これで、この間の借りは返したからな・・・あの時は迷惑かけたな」

あの時。
街中で遣り合っていた紫雲と彼を舞と二人で制止したことだと、佐祐理は納得した。

「いえ、お気になさらずに・・・」

そこで、佐祐理は舞のことを失念していたことに気がついた。

「・・・舞っ!!」
佐祐理が慌てて振り向いたその先には・・・・・

その場に崩れ落ちた舞の姿があった・・・・・





・・・ものみの丘で。

美汐はただ呼び掛け続けた。
空に浮かぶものが、星々から他のものに移り変わる時間になっても。

それでも、何も起こることも、何かが現れることもなかった。

そして、一時は命の力で和らいでいた真琴の痛みも再発し始めていた。
吐く息の荒さでそれは十二分に分かった。

心が折れそうになるのを美汐は感じた。
そして、その度に”あの時”のことを思い返し、自分を奮い立たせてきた・・・

のだが、さすがにそれも限界に近づいていた。

この苛酷な環境が体を蝕み。
目に見えない不安が心を蝕んでいた。

あまりにも、絶望的だった。

だが、それでも。


(あきらめる、わけには・・・・・・・!)



心と体に残った、最後の最後の力を一滴も残さないと言わんばかりに振り絞ろうとした、その時。


ざっ・・・!


「・・・・・!!・・・・・」

一匹の狐が、美汐の前に姿を現した。
その狐の首元には、首飾りのように一枚の羽がぶら下がっていた。

「・・・あなたは・・・・・」

『無茶をするものだな、人の子よ』

そんな声が聞こえたかと思った次の瞬間。
目の前の狐の姿が変わった。

平安時代頃の着物のようなものをその身に纏った、美しい女性に。

その姿に、美汐は思わず息を呑んだ。
その美しさにもだが、圧倒的なまでの神々しさに・・・のまれてしまった。

だがそれも一瞬だけだった。
・・・美汐は自分のやるべきことを見失うわけにはいかなかったから。

さっきまでの声の大きさの代わりに、意志の強さをその声に託し、言葉を紡ぐ。

「お願いします・・・!この子を、助けてあげてください・・・!人であり続けたいと願うこの少女を・・・お願い、します・・・・・!!」

その目の端に浮かべる涙を、ぬぐおうともせず、ただそう願う美汐・・・その姿を・・・哀れむように見据えて、その女性は答えた。


『それは・・・できない』

「・・・・・!」

美汐はその答えを予想していた。
だが、そうであっても、その事実に耐え切れるわけではなかった。
唇をぎゅっと噛み締める・・・だが、諦めたわけではなかった。

「何故です・・・!?この子が人になりたいと思うことがそんなに罪なのですか?なら、どうして人にならせたのですか・・・?」

『・・・お前は、何か勘違いをしているようだな、少女よ。

ならせたのではない、その子がなったのだ。

短い期間であることを、ひとときの夢であることを承知で。

人になることは、妖孤としての存在の滅び以外の何物でもない・・・にもかかわらず、だ。

その覚悟を悟ったからこそ、私は許可を与えたに過ぎない。

それをいまさらに翻すことは約定を破ることに他ならない・・・違うか?』

・・・確かに、それはそうなのかもしれない・・・だが。

「・・・夢を見ることの何が悪いと言うのですか・・・?
いい夢は、ずっと見ていたいに決まっているではありませんか・・・
例えそれが、約束と違っても・・・」

『・・・そうだな、少女よ。だが、滅びは生きるものの宿命だ。

夢を見れようが見れまいが、全てのものに等しくそれは訪れる。

ならば、夢を見ることができただけでも幸せとは思えないか?』

「・・・でも・・・・・」

『・・・お前に一つ、教えてやろう。
我々がいかにして、人に変わるのかを。

我々は元々獣でしかない。

人とは絶対的に魂の質も量も違う。

ゆえに我々が人に化けるためには、人の魂を借りなければならない。

我々は、空にいるただ一人の翼持つ少女の力を借りて、生まれ出でることのなかった人の記憶と自身の魂を融合することによって、その肉体と人としての知識を形どる。

最終的に崩壊してしまうのは、いかに妖孤とはいえ、その肉体が二つ以上の魂の存在に耐え切れなくなるからだ。

つまり。

・・・これは、どうあがいても避けられないということだ。

人の言葉でいうなら、寿命、もしくは天命。

それに抗うことは、言うなればこの星そのものに抗うことだ。

・・・それが、摂理というものなのだ、心優しき人の子よ』


”彼女”が言わんとしていることは、分かる。
それは、美汐が数年前にいやと言うほど知った・・・現実という名の悪夢だった。
だが、だからこそ、美汐はそれに抗いたかった。

そんな現実など変えてしまえる想いはあると信じたかった。

そんな想いを込めて、もう一度”彼女”に向き合おうとしたその時だった。


『・・・摂理。あなたがそれを語りますか?

この丘の妖孤のはじまりの存在よ』

「・・・・・・え・・・・・・?!」

その声は。

美汐の知る声だった。

もう聞くことないはずの声だった。

『やあ、美汐。久しぶり・・・というのは正確ではないけど。
まあ、そんなことはどうでもいいか』

息も絶え絶えの真琴を抱く、美汐の前にいきなり現れた少年。

・・・それはかつて、彼女の前から姿を消した、”彼女の妖孤”だった。

「う・・・そ・・・・・だって・・・・・」

さすがに動揺する美汐に対し、少年は言った。

『・・・僕は、いなくなった。その事実は変わらない。
今は、この丘に眠る誰かの力で、ほんの少し幻を作っているに過ぎないんだ。
このことは、夢だと思ってくれ。

と、今はそれどころじゃないか』

そう言うと彼は”彼女”・・・はじまりの妖孤に向き直った。

『・・・お前は・・・まだ、存在していたのか・・・人でないものに転生してまで・・・』

”彼女”は悲しそうに、そう言った。
それとは対照的に、笑顔で”彼”は言った。

『ええ、僕は人が好きですから。
特にこの丘の下に住む人間たちは皆あたたかいから。

あなただって、そうでしょう?

そうでなければ、この丘の守り人を千年も続けていられるはずがない。

摂理を越えて、ただの獣をやめて、今までずっとここを守っていたのは、人との盟約があったから。

そんなあなたが、この子が人になりたいという気持ちを理解できないわけがない』

真琴を優しい眼差しで見下ろして、少年は言葉を紡いだ。

『・・・宿命とかそういうものを取っ払ってしまえば、あなたもきっと人になりたいと思う気持ちがあるだけだよ・・・母さん』

『・・・私が、人になれないから、この子のことを諦めていると言いたいのか?』

『そうは言わないさ。
・・・あなたはあまりに多くのものを見すぎた。
だから、ほんの少し臆病になっている。
その羽の力を得た頃のあなたならきっと、この子達同様、運命に抗っていると僕は思う・・・いや、信じたい』

『・・・・・私に、何をさせたいのだ?』

・・・暫し、考え込んだ後、重々しく”彼女”は問うた。

『たまには、無茶をやってみようということさ。
この子に、この地に住まうすべての妖孤の力をほんの少しずつ分け与えて、彼女の肉体を再構成しよう。彼女が彼女のままで、人でいられるように』

『・・・そんなわがままが・・・・』

『通るさ。美汐のがんばりを皆見ていた。元より皆ヒトが好きなんだ。
だからきっと力を貸してくれる。・・・妖孤ではなくなった僕は、もう何も出来ないけど』

『・・・・・・・・・・・・・・・・・

ならば、祈っているがいい。お前の妹の無事を。

その少女と共に』

「・・・・・え・・・・・?」

今まで話の流れを見ることしかできなかった美汐が驚きの声を上げた。

「兄妹・・・あなたと・・・真琴が・・・・?」

『そうだよ。美汐。
・・・だから、嬉しかったよ。
僕がいなくなっても、心を見失う事無く、あの子に優しくしてくれたから・・・ありがとう。

さて、それはそうと、祈ろうか。

僕らの妹のために』

「・・・・・ええ・・・・・!!」

ただ呆然としていた美汐だったが、その言葉には力強く頷いた。

それをどこか眩しそうに眺めていた顔を空に向けて、”彼女”は願いを紡いだ。

『・・・・・この丘に住まうものたちよ。
我の願いを聞き入れてくれ。
我らの想いを叶えようではないか。

我らはヒトにあこがれ続けた。
我らはヒトのぬくもりが欲しかった。

今またそれを求め、力尽きようとするものがいる。

ならば、ただ一度。

この一度でもいい。

我らが我らたる証のために。

我らが、この地に生きる理由を確認せんがために。

我が一族の末たりし、この子を、ヒトの形とヒトの心に変えよう・・・・・!!』

その言葉が、天に届くようなその言葉が、丘に響きわたったとき。

美汐は、見た。

ものみの丘が金色に輝く姿を。

その金色の光が頂点に達したとき。

真琴が、美汐の体から離れ、宙に立ち上がるように浮かんだ。

その髪もその身体も、金色に輝いていた。
やがて、それらが光の粒になって消えていく・・・

「・・・・ああ・・・・」
『大丈夫だよ、美汐。あれは真琴を壊しているんじゃない。新しくしようとしているだけなんだから』

その”彼”の言葉を裏付けるように、一時は消えた真琴の体が、再び光の粒から再生・・・いや新生しようとしていた・・・

まさに、そのとき。


ぴし。


何かにひびが入るような音がその場に響いた。

『なに・・・・?!なんだ・・・この・・・・・強力な力は・・・?!
何故・・・・邪魔を・・・・?!』

”彼女”の言葉を肯定するように、金色の力は、急速に色を失いつつあった。

真琴も、その中で徐々にその形を失っていく・・・・・!!

「真琴っ・・・・・!!」

美汐が伸ばした手は・・・ただ、空を切った・・・・・・・・・








・・・午前8時。

水瀬家で・・・・・今はただ二人しかないないその家で、二人の人間が向かい合おうと努力していた。

名雪の部屋。

その扉は固く閉ざされていた。
その部屋の主の心と同じように。

その扉の前に立つ祐一は、その鍵を持ってはいなかった。

だから、彼にできることはただ一つだった。

「・・・名雪。俺は今日一日あの場所で待ってる。ずっと待ってるから。
それとこの目覚し時計、名雪に返すから」

そう言って祐一は、目覚し時計をドアの前に置いた。
その目覚ましは、目覚ましが欲しいといった祐一に、名雪が貸した、名雪の声の入った目覚し時計だった。
・・・祐一には、その目覚ましで起きていたときが妙に遠く感じられた。
ついさっき、これで目を覚ましたばかりだというのに。

「・・・聞こえるか、名雪」

祐一は呼びかけた。・・・最後の確認をするように。

『聞こえないよ』

名雪はそう呟いた。・・・すべてを拒絶するように。

「待ってるから」

それを、最後に祐一はこの家を出て行った。

そして、残された名雪は。

・・・・・・・ただ、泣き伏すことしかできなかった・・・・・







・・・森の奥に、ただうずくまる少女がいた。
少女は、もうすべてを諦めていた。

この街に起こる悲しみも。

自分自身のことも。

・・・なにも、かも。

その身体は消えていく。

まるではじめから存在しなかったように。







すべてが、終わる。












いや。










そんなことは・・・・・・・・・・・ない。










・・・・・・何かを続けるとは。

どういう、ことなのだろうか?

どんなに悲しくても、辛くても、何かを続けるというのは。



例えば。

毎日毎日同じところで何分も何時間も足踏みを続ける人がいたとする。

それは、愚かな行為なのだろうか?

何も得ていないというのだろうか?

否。

確かに手にしている、得ているものがあるはずだ。

それは忍耐力かもしれないし、単純に筋力なのかもしれない。

・・・なんだっていいのだ。

何かを続けるということは。

きっと何かを”生む”ことだから。


・・・では、このループは?

本当に、ただ同じことの、同じ悲しみの繰り返し?

何も生んではいない?


・・・いいや、そんなことはない。


もしも。

”物語の傍観者”たちさえも知らない一族がそこにいたのなら。

それは、ループが生み出した、悲しみのループを絶つ存在なのかもしれない。

もしも。

誰よりも悲しみを嫌う、そんな正義を信じる少年がいて。

悲しみのはじまりの少女に出会ったのなら。


そして、そんな少女に少年が恋をしたなら。


それは、違う何かの始まりでは、ないだろうか?


だから、another1。


新しい、


悲しみを越えた、


幸せなる、





ループの始まり。









・・・・・午前9時。

僕は、ただベンチに座っていた。
まだ待ち人が来ない事にほんの少しだけ焦りながら、空を眺めて、考えていた。

本当に、悲しいこととはなんなのだろう、と。

人が、死ぬこと、なのだろうか?


・・・いや、違う。


人が死ぬことは悲しいことだと思う。

でも、それは避けられないことだ。

どうやったって・・・来てしまうことだ。

本当に悲しいのは・・・そうなることで伝えられない思いがあること。


愛している。
好きだ。
大切だ。

そんな陳腐な言葉が言えないだけで、伝えられないだけで。

人は苦しみ続けてしまう。
どうしようもなく、絶望に暮れてしまう。

なら、僕が望むべきことは?


・・・僕はポケットにしまっていたあの人形を取り出した。


ボロボロの人形。

相沢祐一君の力の及ぶ限り、どんな願いも叶えるという人形。



・・・もしも本当に願いが叶うなら。
”なんでも”なら・・・僕は迷う事無く、皆を助けてと願うだろう。
でも、それは人の領分を越えた願いだ。


・・・でも、もしも。

本当に、願いを。

人の力の及ぶ限りの願いをかなえてくれるのなら。




「僕の、願いは・・・たった一つだよ」




僕は、人形を壊さないように優しく握り締めて、心の底から願った。

心の底から祈った。






人の、想いが・・・・・あるべき場所に、ありますように。









それは。

それは奇跡ではない願い。

誰だって、願えば、そうしようと望むのなら叶え得る願い。

そう。

相沢祐一でも。



そして。

この人形は。

相沢祐一の力の及ぶ限り。

どんな願いだって叶えることができる。

そんな、人形。




だから。


人の想いは、届く。


あるべき、場所に。


それが、願いだから。














・・・・・暗闇の中に、彼女はいた。
美坂栞がいた。

彼女は辛かった。

苦しかった。

痛みの中に。

絶望の中に。

常にいたから。

だから、もう、いいと思った。

行き着くところに行き着いても誰も責めはしないよね。

そう思っていた。

でも。

その右手に、もはや冷たくなっていたはずのその右手に。

何かのぬくもりが伝わってきた。

(どこからだろう?)

彼女は糸を手繰るようにして、その居所を探った。

そこから、声が聞こえてきた。

『栞・・・・!栞・・・・・・!!起きて・・・・!目を、覚ましてぇ・・・・!』

その声を、どこかで聞いたことがあるような気がした。
そして、その声の側にいれば、きっと自分は幸せになれるような気がした。

(だったら・・・こんな場所にいる理由は、ないよね)

栞は、その声のする方へと進んでいった・・・



・・・目を開くと。

そこは、見慣れた病室の中でした。
朝日の眩しさに一瞬目がくらんでしまいました。

でも、それも本当に一瞬でした。

次の瞬間には、私は確かにそれを見ていたからです。

私の大好きな、お姉ちゃんの、顔を。

お姉ちゃんは、泣いていました。

だから。

笑って、呼びました。

「おねえ、ちゃん」

すると、お姉ちゃんは”え”という顔をしました。
すごくおどろいているようでした。

そして「栞・・・!」と私の名前を呼んだかと思うと、私に覆い被さるようにして抱きついてきたのです。

・・・私には何がなんだかわかりませんでした。

でも、とても嬉しかった。

お姉ちゃんが側にいてくれることが、嬉しかったから。

だから、いつのまにか、泣いていました。

「・・・栞・・・・泣いて、いるの?」

お姉ちゃんが言いました。
その顔はとても不安そうでした。
私が何処かを痛めたと思ったのかもしれません。

だから、私は言いました。

「嬉しいから、泣いてるの」

そう言うと、お姉ちゃんも顔をくしゃくしゃにして涙を流しました。
私も、同じように泣いてしまいました。

その後ろに立っていた北川さんも、泣いていました。
・・・泣いていない風を装おうとしていましたけど、バレバレです。

そして。


さらにその後ろで疲れ切って椅子に座ったままで眠る、命さん。

その口元が微かに上がったような。



・・・そんな気がしました。








・・・私は。

どうなったのだろうか?

秋子という人にすべての力を注いで、私は今ここにいる。

もう、何もかもを失ってしまったのだろうか?

とすれば、きっと罰なのだろう。

私はずっと感じていた。

世界が”こう”あろうとする力を。

同じことを繰り返そうとする力を。

それが、あの人に送ろうとした力を遮っていたのだ。

私は世界にとって間違ったことをしてしまったのだろうか?

あの時。

TVで、晒し者にされたとき。

あの時と同じように。

この世界ではやってはいけないことをやったから・・・


『違うよ、舞』

そう言ったのは、幼い頃の私。

『やってはいけないことなんかじゃないよ。
そんなことをいってはだめだよ』

どうして?

『舞は、あの人なんか死んでしまえって思ったの?』

そんなことない!!死んでいい人なんか、この世にはいない!!

『なら、舞は正しいことをしてきたんだよ。
今だって。昔だって』

・・・・・・・

『でも、このままじゃ間違っちゃうよ?』

・・・・え・・・・?

『舞がこのままいなくなったら、悲しむ人たちがいるよ』

・・・そうだ。
私には、待っている人がいるんだ。

『そうだよ。だから行かないと。ここにはいつだって来れるから。
だから、まだ来なくていいんだよ』

うん。そうだね。

『さあ、行こうよ。私たちの、誰にも取られることのない、永遠の居場所へ』

それは・・・この世界そのものだから。

もう、おそれるものなんかありは、しない。




「・・・・・舞。おはよう」

気がつくと私は、佐祐理の膝の上で眠っていた。
・・・それは恥ずかしかったので、私は身を起こそうとした。
でも、あっさりと佐祐理に押さえ付けられてしまった。

ふと視線をやると、何故か向かいのベンチには紫雲の昔の友達が座っていた。
・・・どういうわけか分からないが、とても安らいでいるように見えた。


「あははーっ。だめですよーゆっくり休んでいなくちゃ」

そんな私の思考を佐祐理が遮った。
だが、それで思い出した。

「・・・・・あの人は・・・どうなった?」

「舞・・・・・もしも駄目だったら、佐祐理がこんなに笑顔でいられると思う?」

佐祐理の笑顔は何処までも晴れやかで、まるで青空のようだった。
・・・それで、すべてが分かった。

「よかった・・・・・」

「なにがよかったんだか・・・少し、心配したのに」

そんな佐祐理らしからぬ口調に私は驚いた。
・・・それだけきっと、心配させてしまったのだ。

「ごめん、佐祐理・・・心配、かけた」

「いいの。・・・舞が無事なら」

佐祐理は私の涙をぬぐった。
私は佐祐理の涙をぬぐった。



ずっと、これからもつづいていくことを、やった。








「こんにちは」

真琴に誰かがそう呼びかけてきた。
それは、真琴と同じ姿だったから、真琴はとてもびっくりしたの。

だから真琴は、思わず返事をしちゃったの。

「こ、こんにちは」

この人は誰だろう?
初めて会うはずなのに。
初めてじゃない気がする。

その人は、笑った・・・いや、こーいうときはほほえんだっていうんだと思う。

「こうやって、お話するの始めてね、真琴」

あう・・・あなたは、誰?

「わたし?わたしはあなたよ。沢渡真琴」

・・・ここで、いつもの真琴ならきっとこういって騒いでいたと思うの。
沢渡真琴は私だって。

でも、その人は嘘を言ってないって、なんだか分かったから、真琴は何も言えなかった。

「もう少し、分かりやすく言ったら・・・そうね、あなたになりたいと思った私かしら。
・・・私はそもそも人じゃないの。
でも人になりたくてなりたくて仕方なかったから、あなたの心と記憶を借りて、私は人になった。

祐一に、会うために。
人のぬくもりを、もう一度だけ感じるために。

お願いは、叶ったわ。あなたのおかげで。

でもね。
もう、時間がないの」

時間が?どうして?

「私の身体だと、あなたの心を閉じ込めてはおけないの」

・・・どうなるの?

「私も、あなたも、いなくなって、沢渡真琴がみんなの前から消えてしまうの」

紫雲からも?名雪からも?美汐からも?秋子さんからも?祐一、からも?

「ええ」

・・・そんなの、いやっ!真琴は・・・真琴は・・・もう一度、皆に会いたい!
そして、そのなかであたたかくしていたい・・・・・

「・・・・・そうよね。だから、そうしましょう?」

・・・え?

「私とあなたが本当に一つになれば、身体も壊れることはないわ。
春を、迎えることだってできる」

本当?!

「ええ、嘘じゃないわ」

なら、そうしよう・・・!皆にまた会えるんなら・・・・・!

「はいはい。それじゃ、考えて。戻りたい、場所を。それができたらきっと迷わずに帰ることができるから」

うん・・・!

真琴は、精一杯考えた。
あの、水瀬家のみんなを、紫雲を、美汐を、この冬に出会ったみんなみんなを・・・そして、その中で笑う、真琴を。




「さようなら、真琴。私の分まで、笑っていてね」





そんな声が、聞こえたような気がしたけど。

なんて、言って・・・・たん・・・・だろう・・・・・・






『この世界があるようにあろうとする力。それが、邪魔をしたのだ』

”彼女”はうなだれて言った。
美汐は地面に四つん這いになる形で、ただ、泣いた。
声無き声で、泣いた。

もう、金色の光は返ってこない。

そして、真琴も。

誰もが、そう思ったときだった。

『美汐。顔を、上げてごらん』

・・・もう顔なんか上げたくない。

それすらも言葉にならない。

それでも”彼”はなおも呼びかけた。

『顔を、上げるんだ・・・・』

美汐は、もう疲れ切っていた。それでも、”彼”の呼びかけだからと、顔を上げた。

そこには。



まるで蛍のような微かなきらめきがあった。

さっきの金色の光とは比べくもない、弱々しいまでの光。

でも、それこそが、命そのもののように、美汐には思えた。

そして、確信した。

彼女の、帰還を。



きらめきは寄り添いあい、一つの形になった。

その形の名を、知らぬものはこの場にはいない。



「真琴っ・・・・・・」

宙に浮かんでいたその身は、糸が切れるように、落ちた。

そして、それを”彼”が受け止めた。


『・・・これが、僕がしてやれる兄らしいこと・・・その最後だよ』

”彼”は真琴の頭を撫でると、その身体を、美汐にゆだねた。

『・・・・・信じられない子だ。丘の皆の力を借りてもなせなかったことを、たった一人でなした・・・』

『それが、人の意志の力だよ、きっと。・・・あの、草薙家の末裔が、何かを破壊して、それを手伝ってくれたんだ』

『そうか・・・・・』

”彼女”はしばし瞑目して、美汐と真琴にその顔を向けた。

『・・・・・私は、大切なことを忘れていたのかもしれないな。
心の力を。意志を。それを信じるということを。

・・・思い出させてくれて、ありがとう。
・・・娘を、助けてくれてありがとう。

そして、娘をよろしく頼む。

大いなる時の狭間で、再び出会える日を楽しみにしよう・・・』

そう言って”彼女”は消えた。
・・・そこに残った一匹の獣となって。
・・・その狐は、背を向けると、雪の中に消えるように、その姿を消した。

『じゃあ、僕も行くね』

待って。行かないで。

美汐はそう言おうと思った。

でも。
きっと、そういうべきときはとうに過ぎてしまったのだと、気付いた。

だから、こう言うのだ。
その顔に最高の笑顔を浮かべて。
例えそれが少し、涙で歪んでいたとしても。

「ええ、さようなら」

その笑顔に、笑顔で応えて、”彼”は消えた。


そして、その”彼”がいた場所に”彼”はいた。


「にゃー」

「・・・・・・・ぴろ、おいで」

真琴がそう名付けた、その猫の名を美汐は呼んだ。
それが当たり前のことだから。

他の名は、彼には無いから。

「さあ、みんなで帰りましょう。私たちの、街へ」



疲れ切っていたはずなのに。



美汐のその足取りは、行きよりも遥かに軽かった。









名雪は、ただ部屋の隅で膝を抱えていた。

そして、すべてに目を伏せていた。

そう、現実という名のすべてに。

もう、何もかもがどうでも良かった、

・・・・・祐一があの場所で待っていると言ったことも。

悲しみが、絶望が、ただ彼女を支配した。

だから、彼女にとって、その声は夢の産物としか思えなかった。


『名雪。何をしているの?』

名雪は、顔を上げた。
そこにはいるはずのない人が立っていた。

「おかあさん・・・・・どうして、こんなところにいるの?」

そう。
水瀬秋子がそこに立っていた。

『あなたが、ここから立ち上がらないからよ』

「・・・だって・・・・・お母さんが、いないんだよ。私・・・強くなんてなれないのに。
一人じゃ、何もできないのに・・・・・」

『・・・・・名雪は、弱かったものね。
一人じゃ、朝起きることもできないものね』

「うん・・・でも、お母さんがいてくれたから、私・・・それでも良かったんだよ・・・なのに・・・なのに・・・・」

『違うでしょ、名雪』

そう言って、秋子はいつものように微笑んだ。

「・・・え・・・・?」

『一人じゃ、あなたは朝起きる事さえできない。
でも、ここ最近のあなたは、朝起きることができたじゃない。
・・・それは、誰のおかげ?』

「・・・・・そ、それは・・・・・・」

『それは、あなたのそばにとてもとても大切な人がいるからじゃない』

「・・・・・でも、祐一は・・・祐一は、お母さんじゃないんだよ・・・誰もお母さんの代わりはできないんだよ・・・」

『・・・でもね、名雪。事故がなくても、私はいずれいなくなるのよ。
そのとき、あなたに子供がいたとして、あなたはその子の前でも泣くの?
おかあさんが、いなくなったって。

・・・もしも、そうなら、私は名雪の愛し方を間違ったことになるわ。

私は、名雪を、人を悲しませるような子に育ててはいないから。

名雪、どうなの?』

名雪は、涙を流して、言った。

「そ、そんなの、ずるいよ・・・・・お母さんが、間違ってるわけないよ・・・お母さんの優しさが間違ってるなんてことないよ・・・・・」

『・・・・・ありがとう、名雪。
なら、今のあなたがすべきこと・・・分かるでしょう?』

「・・・・・・・」

『悲しませている、大切な誰かが、いるでしょう?』

「・・・・・・・」

『あなたには、その辛さが分かるでしょう?』

「・・・・・・・うん」

『なら、行って来なさい。
その人はきっと、あなたを支えてくれるから。
強くないあなたを、強くしてくれるから。

あなたの存在が、私を強くしてくれたように』

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・うん!」

『それでいいのよ、名雪。・・・・・じゃあ、またね』


そんな声がただそこに響いた・・・・・




「・・・・・おかあ、さん?」
名雪はゆっくりと目を開いた。
・・・どうやら夢を見ていたようだった。

でも、その夢の内容は確かに覚えていた。

そして、教えられたことも。

名雪は、涙をぬぐった。

そして、ゆっくりと立ち上がった。













夢を見ていた。

ボクはそう思っていた。

だって、そうじゃなければきっと、信じられなかったから。

この冬にあったこと。

みんなみんな夢のようだった。

夢のように楽しかったから。

祐一君。

名雪さん。

秋子さん。

栞ちゃん。

香里さん。

北川君。

舞さん。

佐祐理さん。

真琴ちゃん。

美汐ちゃん。

命さん。

そして。


・・・・・・・もう、あの人はすべてを忘れてしまった。
だから、すべてが夢だと思う。

ボクの冬は。

特別な季節は。

あの人ともにあったから。

ボクは、消えかけた手で頭の上のものを取った。

紫色のカチューシャ。

あの人がくれた、現実の証。





・・・現実。




その時。

ボクは、気付いてしまった。

あの人は、いる。

この現実にいる。

いつだって、誰かのために笑って、泣いて、怒って、戦ってきたあの人は。

いまだって、現実を生きている。

なのに、ボクは・・・あの人の中のボクを殺してしまった。

あの人が、ボクのことを覚えていれば、ボクは生き続けていたはずだったのに。

あの人と共に、この冬を確かに生きたという証が残ったはずなのに。

そして、なにより。

思い出してしまったから。




「・・・・・会いたい・・・・・・会いたいよ・・・・・・紫雲君・・・・!紫雲君!!!」



そうだ。

ボクはあの人に会いたい。

あの人がボクのことを忘れ去っていても。

ただ、一瞬でもその目が交わるだけでもいい。


会いたい。


会いたい・・・・・!





ボクは、知っていた。

それを叶える方法を。

自分の足で、歩いていけばいい。

あの人は、あそこにきっといる。

あそこに行けばきっと会える。

だから、行く。



ボクは、ゆっくりとその足を踏み出す。

その脚は、もう現実ではなくなりかけていた。

・・・・・でも、まだ歩けるんだ。

その脚に会わせて振る手も、一瞬霞のようになった。

・・・・・でも、まだ進めるんだ。

ボクの体のすべてが、もう駄目だよと風景に溶け消えようとした。

・・・・・でも、まだ会えるんだ、きっと!



ボクが、そう望むなら、きっと。





あの人はきっと、応えてくれる。




ボクのことを忘れていても。




いつだって、誰にだって優しいあの人なら。




きっときっと、応えてくれる。




信じることができる。




だから、ボクは、会いに行く。




あの人に。




草薙紫雲君に。
















・・・・・・・・この冬の物語。
Kanon。

この物語は、そんなKanonの規格外の物語。

もしも、タイトルをつけるなら。






・・・・・snowdrop。

・・・・・その花の意味。

・・・・・慰め。

・・・・・恋の最初のまなざし。

・・・・・そして・・・・・・・希望。








この物語は、希望が絶えることのない物語。

いつだって、誰かが立ち向かい続ける物語。

だから。

きっと。

こう呼ばれることだろう。


Kanon another1”snowdrop”と。









そして。

希望の行く先は。













・・・・・・続く。


第49話 ”またね”という名の”さよなら”へ

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