Kanon another1”snowdrop”第46話
第46話 Last regrets
「・・・・・美汐ちゃん」
美汐が顔を上げるとそこには憔悴しきった表情をした紫雲が立っていた。
そこは、病院の一階ロビー。
美汐は、そのロビーのベンチに座っていた。
その膝には荒い息を吐き、眠ったままの真琴がいた。
その顔には汗が大量ににじみ出ていた。
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・どうか、なさいましたか?」
美汐のその問いに、紫雲は奥歯を噛み殺しながらうつむいて・・・何も答えようとはしなかった。
否。
できなかった。
本当は何があったのか、聞こうと思って、真琴が診察室から出てくるまでじっと待っていた。
秋子が病室に運ばれていくのを、眺めていた。
だが、聞くのが怖かった。
事実を知ってしまうことが心の底から怖かった。
・・・こんなことは初めてだった。
それを察してか、美汐は別のことを聞いた。
「・・・記憶は、戻りましたか?」
「・・・・・・・今は、そんなことをいっている場合じゃないだろ?」
紫雲にしてみれば、それは当然の言葉だった。
自分のことなんかよりも、秋子や真琴のことが気にかかっていたからだ。
だが、美汐にとってはそれは・・・・
「・・・・・そんなこと?そんなこととは・・・ひどいんじゃありませんか?」
真琴のこと。
栞のこと。
それを想うとどうしても、ここは譲れなかった。
「みんな、あなたのために・・・・・頑張って・・・・その結果が・・・・・・・・・・・!・・・」
慌てて口を閉ざすが、すでに遅かった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
紫雲の顔が、苦痛に・・・精神からの苦痛に歪んだ。
「・・・・・・・・ごめん」
紫雲は、それだけを告げて、そこから歩み去って行った。
美汐には、それを追うことはできなかった。
ロビーを照らす、蛍光灯の灯がどこか嘘のようだった・・・・・
そう、美汐は思った。
栞ちゃん。
真琴ちゃん。
秋子さん。
僕に関わった人たち。
僕が大切な人だと言える人たち。
僕に優しくしてくれた人たち。
僕を救おうとしてくれた人たち。
・・・彼女たちが何か悪いことでもしたというのだろうか?
・・・彼女たちは生きていてはいけなかったのだろうか?
否。
そんなことは絶対にない。
ならなんであんな目に合うのだろう?
不幸という言葉で片付けるにはあまりにも・・・悲しい。
そして、なにより。
僕は、なにもできない。
皆が苦しんでいる。
皆が悲しんでいる。
それを見た誰かが、同じように心を痛めている。
なのに僕には、それをどうにかすることは出来ない。
気休めの慰めなんかできない。
どんな顔をすればいいのか分からない。
”元気出せ”なんて言えるはずもない。
何が”皆を救うことが望み”だ。
何が”絶対正義”だ。
僕は何も出来はしないじゃないか。
もう、いやだ。
もう、何もしたくない。
もう、立ち上がりたくない。
もう、何も見たくない。
どうせ、できることなんてありはしないんだ。
だったら、もう、何もしなくてもいいよな。
もう、なにも。
その日は、いろいろあった。
まず、草薙が学校に来ていないことから始まって・・・
栞ちゃんが草薙を訪ねてきた・・・かと思えば、数時間後、美坂が早退した。
『何も無いわよ。ちょっとした野暮用を頼まれただけ』
水瀬にそう言った表情はとても明るかった。
でも、俺にも水瀬にも分かっていた。
・・・相沢も、おかしいとは思っていたようだが・・・
あれは、悲しみを押し殺している顔だって。
ずっと、あいつを見てさえいれば、そんなことは一目瞭然だ。
・・・栞ちゃんに何かあったのだろう。
そこまでは水瀬は知らないはずだが、おそらくそうなのだろうと俺は思った。
・・・それから少し経って。
今度は水瀬と相沢が早退した。
二人の保護者であるところの、水瀬のお母さんが事故にあったらしい。
水瀬は答える余裕が無かったから、相沢が答えてくれた。
・・・もっとも、その相沢も顔面蒼白にさせていたのだが。
そして、俺はまた一人蚊帳の外。
・・・冗談じゃねー。
「せんせー」
「・・・なんだ、北川」
「・・・具合悪いから帰ります」
再び、病院。
紫雲が去ったあと、美汐は感情に任せた軽率な言葉を悔やんでいた。
草薙紫雲が、人を、人の行いを軽視することなどありえないのに。
あの時、紫雲が浮かべた顔。
あれは・・・かつて大切なものを失ったとき、鏡に映った自分の顔だった。
・・・すなわち、それは・・・・・絶望。
それを知ったときの自分を思い返すと、ことさら辛かった。
・・・それなのに、追うことができなかった。
いや、追わずとも、声をかけて引き止めることだってできたはずだ。
それすらできなかったのは、なぜだろう。
「・・・・・なぜなのでしょうね」
自分の膝の上に眠ったままの真琴を優しく撫でる。
それは行き場のない思いを埋める行為のようにも見えた。
・・・すう・・・・はあ・・・・・すう・・・・・はあ・・・・・
香里は穏やかに眠る妹の寝息を、ただ暗闇の中で聞いていた。
電灯をつけることを忘れるほどに、妹のことを考えていた。
あと、数日の命。
来るべきトキ。
わかりきっていたこと。
覚悟していたこと。
・・・それなのに。
「・・・・・っ」
何故こんなに悲しいのだろう。
何故こんなにも涙が溢れ出るのだろう。
「・・・つくづく弱いのね、あたしは」
それが、答えだった。
そして、妹は強いと思った。
自分の体のことを知っても、まだ人のことを考え、動くことができる。
(・・・そして、その見本たるべきあたしは、妹がトキを賭けるに値すると思った人に八つ当たり、か)
「・・・情けないわね、ホント」
その呟きを残して、香里は病室を去った。
その涙を誰にも見せることのないままに。
廊下に出た瞬間、沈みかけの日の灯が、別に何でもない蛍光灯の明かりが香里の目を打った。
「・・・っ・・・あら・・・・・」
その光に慣れた香里がはじめて視界に入れた人物。
・・・それは香里の見知った顔だった。
見知ったといっても、この間であったばかりの少女だったのだが。
「・・・天野さん、だったわよね」
・・・気付いたら、香里はその少女・・・天野美汐に話し掛けていた。
「・・・確か、草薙が入院してたのと同じ病院だよな」
その、一時間ほど前。
北川は記憶を掘りおこしながら、道を進んでいた。
(・・・あの時の草薙のねーちゃんの反応からすると、そのはずだよな)
かつて、香里と共に赴いた時のことを思い返す。
・・・あの時の自分と何が変わったというわけではない。
でも、何かをしたいと思い、こんな自分でも何かができるということを知った。
・・・そう教えてくれた奴がいた。
そう知った以上、何もしないことなんかできなかった。
「・・・って、あれは・・・」
自分の進行方向から歩いてくる人達・・・
その人たちがどうやら下校の最中らしいことから、北川は自分が道に迷ったらしいことを知った。
・・・学校と病院はそんなに近くにあるわけでもないし、自分に近づきつつある人たちが病院に行くような理由が思い当たらなかったからである。
(・・・しょうがない、挨拶ついでに聞いてみるか)
向こうは話に夢中でこちらには気がついていないようなのでこちらから話し掛けねばならないことがやや気恥ずかしかったが仕方がない。
その二人が、自分の横を行き、過ぎる手前くらいの距離で、二人に呼びかけてみる。
「あの、こんちはッス」
ややフランクすぎたかとも思ったがこのぐらいしか思いつかなかった。
その言葉に二人・・・川澄舞と倉田佐祐理は一瞬きょとんとしたが、即座に反応を返した(のは佐祐理だけだったが)。
「こんにちは〜。確か、北川さん・・・でしたよね」
「・・・誰?」
・・・北川は舞のその言葉に死ぬほどへこたれそうになった。
慌てて佐祐理がフォローを入れる。
「ほら、この間草薙さんや祐一さんと一緒にお昼を食べたときに・・・」
「・・・・・・・・ああ、あの変な人」
「うう・・・どうせ俺って奴はそういう認識しかされないさ・・・美坂だって・・・ぶつぶつ・・・」
「あ、あはは・・・気にしないでください〜舞はべつにあなたに悪意を持ってるわけじゃありませんから」
(・・・悪意がないからさらにつらいんすよ)
喉まででかかったその言葉を北川はどうにか飲み込んだ。
「い、いえ気にしてないっスよ。あの、ところでお二人は何をしてたんですか?」
「佐祐理たちは、家に帰るところですよ。特に何をしてたってわけじゃないです」
「そ、そうでスか・・・あの、ところでお聞きしたいことが・・・」
「はえ?なんでしょう」
そう言って首を傾げる佐祐理に、北川は病院の位置を聞いた。
「ところで・・・・・」
道を説明し終えた佐祐理は、やや表情を固くして、問い掛けた。
「・・・こんなことをお聞きするのは失礼かもしれませんが・・・誰か・・・お病気なのですか?」
躊躇いがちなその表情で、北川は目の前の女性の優しさを十分に理解できた。
・・・その横に立つ舞の表情も何処か暗くなったことから、気にかけているだろうことは予想できた。
その心に感謝しつつ、北川は答えた。
「・・・ええ、この間お昼を一緒したときの・・・美坂栞って子が・・・その・・・詳しくは知らないんですけど、病気で・・・、それから、その・・・水瀬ってクラスメート・・・のお母さんが事故で・・・それが心配で、その」
「・・・水瀬さんも確かこの間ご一緒した方ですよね。・・・祐一さんが一緒に暮らしていらっしゃる・・・」
「ええ・・・まあ、その、そういうわけなので・・・あの、ありがとうございました」
それだけ言うと北川はその場から去ろうとしたが・・・それを舞が呼び止めた。
「・・・待って。私も行く」
「・・・佐祐理も行きます。これも何かの縁でしょう」
・・・北川は一瞬迷いの色をその顔に浮かべたが、首を縦に振った。
「・・・そう、そんなことがあったのね」
「ええ、そんなことが、ありました」
・・・二人はロビーのベンチに並んで腰掛けていた。
正確には三人だが、そのうちの一人・・・真琴はいまだに目を覚まさない。
だが、先程よりは落ち着いたのか、寝息は穏やかだった。
・・・美汐にしてみれば、嵐の前の静けさのようで、落ち着かないものがあったが・・・
その横に座る香里は、ハアと息を吐いてから、言葉を吐き出した。
「・・・まるで、漫画ね」
それは、紫雲があゆの記憶を失っていたことを指してのことであり、この事態を指していた。
あゆが意識で構成された存在だとかは、さすがに信じそうになかったので美汐はその辺りは省いて、何故栞が無理を押してでも今日動いたか、何があったのかを説明したのである。
「・・・確かに、それなら草薙君が元気なかったのも頷けるわね」
「・・・そういう奴だもんなアイツ」
いきなり響いたその声に驚いて・・・というよりもその声に単純に反応して、声のした方向に顔を向けると、北川が立っていた。
その後ろには舞、そして佐祐理もいた。
「・・・盗み聞きとは感心しないわね」
「悪い。でも”興味あるから一緒に聞かせてくれ”なんて言えないだろ?」
何か言いかけた佐祐理を遮って、三人を代表して北川が言った。
「ま、そうよね。・・・天野さん許してあげてね。こんな人だけど悪人じゃないから」
「いえ、気にしてませんから」
「・・・栞ちゃんは?」
「・・・今は落ち着いてるわ。今は・・・秋子さんの方が心配ね」
香里は、栞が病院に運ばれたことを知らなかった美汐が何故この場にいるのかを尋ねたときに、秋子のことを知った。
・・・美汐から”助けてくれた女性”の容姿を聞いてピンと来たのだ。
香里はそのことを簡単に説明した。
「・・・俺、行く」
話を聞いて暫し思案していた北川が顔を上げて言った。
「どこによ」
「草薙に会いに、だよ。あいつ絶対自分のせいだって思ってる。
んな勘違い、早めにただしてやらないとな」
・・・しかし、それは叶わなかった。
草薙家に赴いた面々だったが、家には明かりが灯っておらず、いくらチャイムを押しても答えるものはいなかった。
結局、その日は佐祐理の言葉で解散となった。
星が瞬く夜。
その下に広がる世界は星々の世界のように美しくはいられなかった。
「名雪・・・」
祐一は名雪の部屋の前で立ち尽くした。
秋子の容態は、最悪だった。
家族でさえも面会謝絶。
その事実が指し示す事実はただただ残酷だった。
そして、名雪はその事実に耐え切れなかった。
部屋に閉じこもり、出てくる気配すらない。
そんな名雪を見るのは初めてで、祐一には何を言うべきか、何をしてやるべきなのかすら分からなかった。
自身も秋子の事故にショックを受けているのは確かだが、それでも祐一は信じていた。
秋子は死なない。必ず帰ってくる。
だが、彼女を迎え入れるべき家はこんな空気の家ではない。
それなのに、何もできないでいる自分が腹立たしかった。
それでも、今の彼にできることは、回れ右して、自分の部屋に向かうことのみだった。
・・・彼にとっての救いは、今、この家に真琴がいないことだった。
秋子をこれ以上ないほどに慕っていた真琴にとってその事実はあまりも重いはずだから。
真琴は、天野美汐の家に泊りがけで遊びに行っている・・・それが、祐一の知る”事実”だった。
美汐は、自分のベットに真琴を寝せて、床に腰を下ろし、ベットに身を預け天井をただ見上げていた。
真琴を見守っていたいという気持ちと、これ以上見ていたくないという相反する気持ち。
だから、彼女は真琴と同じ部屋で天井を眺めていた。
・・・本当はものみの丘に連れて行こうと思った。
だが、それを真琴自身が制止したのである。
『まだ、大丈夫だから』
そう言って、真琴は息も絶え絶えに相沢祐一にこの家に泊まると連絡をするように頼んだのである。
そして、こう言ったのである。
『明日、やるべきことをやったら、行きましょう、あの丘へ』
・・・それを聞き取るのは困難だった。真琴はそれほど疲弊していた。
・・・明日には言の葉を紡ぐことすらできなくなってしまうかもしれなかった。
それは辛い事実とはいえ予測していたことだった・・・
しかし、それ以上に美汐を動揺させたのは真琴の変化だった。
それを言ったのは真琴ではない真琴・・・美汐はそう思った。
だが、そうとも言い切れなかった。
そのときの真琴が真琴自身の”匂い”を抱えたままだったから。
こんなことは初めてだったが、美汐にできることは今、一つしかなかった。
真琴の言葉を信じること、ただそれだけだった。
そうやって皆それぞれの夜を過ごしていた。
そして、それを眺める一つの存在がいた。
彼女はこの街の絶望をただながめることしかできなかった。
本当は、祐一にただ話を聞いてもらいたかっただけだった。
だが、こんな状況で、自分は何を話せばいいのだろうか?
話すことなんてできるはずがなかった。
・・・彼女は、知らなかった。
いや、本当は知っていて直感的に知らないふりをしているのか・・・
そう。
彼女が、今会いたいと思っていた少年が、すでに自分の記憶を取り戻していたことを。
・・・だが。
それはひょっとしたら幸運なことかもしれない。
それを知ったとしても、今の彼はそれに応えることなどできなかったから・・・
夜が明けて・・・
「草薙・・・」
教壇に立つ、石橋の呼びかけに答える者はいなかった。
石橋はふう、と息を吐くと、出席簿の草薙紫雲の欄に欠席を示す斜め線を入れた。
その後も、石橋はいつものように生徒の名前を呼び続けたが、再び、それが止まる。
「水瀬」
・・・・・
そして、今日二人目の欠席者に嘆息しつつ、石橋はその欄に斜め線を入れた。
「・・・なにやってんだ、あいつは・・・・」
「・・・北川君・・?」
香里がその呟きを聞きつけて、北川のほうを見やると、彼は明らかに苛立った表情を見せていた。
・・・そして、その前に座る相沢祐一はその声さえ聞こえない様子で何かを考え込んでいた。
皆それぞれに抱えたものを、どうすることもできずにただ漫然と時が流れていった・・・
そして。
「明日は土曜日だが、休み前だからって浮かれてばかりいないように。もうすぐテストもあることだしな。では、今日はこれまで」
「起立、礼」
香里の声で皆それぞれの礼をして、HRは終わった。
そして、放課後の、ある意味生徒にとっての本当の一日が始まる。
「・・・さて、行くか」
そう、彼らにとっても。
草薙家。
この家に住むのは、たった二人の姉弟。
本当は家族四人で暮らしていたという。
二人には広すぎる家。
まして、一人なら。
「・・・・・・・・」
暗闇の中に紫雲はいた。
分厚いカーテンで日の光を遮り。
部屋の中央で布団の中に丸まって。
目は開いていた。
ただ、それはあまりにも空虚だった。
あたりまえのことだが、耳もいつもどおりに機能していた。
だから。
昨日の夜に響いていた、そして今、再び響いているチャイムの音もしっかりと耳に入っていた・・・
「ちっ・・・やっぱり出ないな」
北川はチャイムを押す手を止めてぼやいた。
草薙家の玄関の前には、北川、香里、舞、佐祐理の4人が立っていた。
北川は美汐にも声をかけていこうとしたのだが、今日は欠席しているということだった。
「・・・というより、出る気がないんでしょうね」
そう言った香里を、北川はまじまじと見つめた。
香里はいつにない真剣なその眼差しに少したじろいだ。
「なあ、美坂。おまえはいいんだぞ」
「・・・なにが?」
「草薙のことは俺たちでなんとかするから・・・栞ちゃんの側にいてやった方が・・・」
「いいのよ。それに、栞からも頼まれているから」
「だがな」
「北川君」
さらに何かを言い募ろうとする北川を香里は遮った。
「あたしは自分の意志でここにいるの。これ以上何かいうのは時間の無駄よ。・・・まあ、気持ちは嬉しいけど」
「美坂・・・」
「それより問題は、どうするかよ。話もできないんじゃ、文字通りお話にならないわ」
「やっぱここは実力行使で行くか」
「実力行使、ですか?」
「ええ。力づくでここをあけましょう」
「・・・そういうことなら」
舞はそう言うと何処からともなく剣を取り出した。
「ちょ・・・それ真剣っスか・・?」
「というより何処から・・・?」
「あ、あははーっ・・・」
三人の反応などお構い無しで、舞がドアの前で剣を構えたときだった。
「・・・・・待ってください」
その言葉に四人が振り向くと、そこには・・・
「天野さん・・・・・真琴さんも」
そこには、天野美汐とその肩を借りてそこに立つ、沢渡真琴の姿があった。
「・・・力づくでこじ開けても、無意味です」
美汐は一歩一歩真琴と共に前に進みながら言った。
「草薙さん自身に多少でも話をする気がなければ結果は同じ・・・違いますか?」
「・・・・・そうですね」
舞はその佐祐理の言葉を聞いてか、それ以前の自分の意思か、剣を鞘に閉まった。
「でもな・・・」
「・・・北川。この子がやめさせたのは、多分”手段”があるから・・・」
「川澄先輩の言うとおりだと思うわ。ここは、任せた方がいいわね」
「・・・ありがとうございます。でも・・・手段という言い方は・・・好きじゃありません・・・事実そうではあるのですが・・・」
「・・・・・それでも、それしかないのでしたら・・・仕方ありませんね」
美汐は微かにそう言った佐祐理の顔を見た。
・・・その顔は、これから彼女がどうするかを見透かしているように美汐には思えた。
しかし、言うとおりだと思った。
それしかないというのなら、自分はそうするしかないのだから。
それが、紫雲へのせめても恩返しなのだから。
美汐は真琴と共に進み出ると、普段からは想像もつかない、凛とした声で言葉を紡いだ。
その声は大きいと言えたが、決して騒々しくはない。
だが、それなのに遠くに響くような不思議な声だった。
「・・・・・草薙さん・・・・・!聞こえていますか・・・・?
ここには、真琴も来ています・・・・・!昨日と変わらず、苦しんでいます・・・・・それでも、ここに来たのは真琴自身がそれを望んだからです・・・・・
あなたはそれに応えないのですか・・・?そんな草薙さんのために真琴や栞さんはがんばったわけではないのですよ・・・・・!
・・・この子のことを嫌いだと思うのでしたら仕方ありません・・・ですが、この子のことを気にかけているのなら・・・友達だと思っているのなら、姿を見せてください・・・お願い、します・・・・・!」
・・・それは見方によっては卑怯な手段だった。
草薙紫雲という人間の一番弱い部分を突くやり方だった。
それでも、こうすることでしか紫雲をここに連れて来る事はできない。
そうしなければ真琴や栞の想いは本当に無駄になってしまうから。
・・・・・・静かだった。
あまりに静か過ぎて、ただ皆そこに立ち尽くすことしかできなくて。
もう、駄目なのか。
誰もがそう思うことしかできなくなった、その時。
キィ・・・・・と微かな音を立てて、ドアが開いた。
その影から静かに姿を現したのは・・・紛れもなく草薙紫雲だった。
ただ、その視線は宙を泳ぎ、どこか澱んでいた。
たった一日でこれほどまでに人は変わってしまうのだろうか・・・そう思わせるほどに紫雲の纏う空気は変わってしまっていた。
「・・・・・・・・・・・・・なにか用・・・・?」
「・・・・・何か、用、じゃないだろ。お前が二日も休むから心配してきてやったんだろうが」
「・・・・・・・」
「・・・な、なんだ・・・?」
「・・・・・それだけなら、もう帰ってくれないか?・・・僕は、疲れた」
「な・・・・・」
「皆も・・・もう、こんなところに来る必要はないから・・・真琴ちゃんは・・・早く帰ってゆっくり休んだ方がいいよ・・・・・それじゃ・・・・・」
「・・・紫雲」
「紫雲さん!」
「草薙!」
「草薙君!」
誰の呼びかけにも草薙紫雲は応えなかった。
背を向けて、歩き始める。
もう、草薙紫雲は”死んで”しまったのか・・・・・
いや、まだだ。
そう思った人間がいた。
そう思った少女がいた。
少女が精一杯手をのばす。
その手が、草薙紫雲の服を掴んだ。
そのあまりにも弱々しい力を感じた紫雲が振り返る。
紫雲の服を掴む・・・真琴。
紫雲は何もできなかった。
その手を振り払うこともなく、ただそこにいた。
そんな紫雲の目の前に真琴は一冊の本を差し出した。
それは少女漫画雑誌だった。
「・・・・・・?・・・・・・」
その意図が掴めずにいると真琴は顔を真っ赤にさせながらページを開いていった。
「・・・どうかしたのかな・・?ねえ・・・?」
紫雲の問いに真琴は答えない。
いや、もう言の葉で答えることができないのだ。
「あ・・・・う・・・・・・・あ・・・・・・」
その事実を知って紫雲は愕然とした。
(何故この子はこんな状態でも僕のところに来たのだろう・・・?・・・・・分からない・・・・分からない・・・・・・!)
そんな紫雲の苦悩を置き去りにしたままで真琴の手は、指は動いていく。
それを美汐が精一杯支えている。
「あ・・・う・・・・!」
真琴が声無き声で紫雲に呼びかけた。
そして、ページの中の一文字一文字を指していく・・・・
たどたどしくもその手は一つの意味を、想いを作り上げた・・・・・
”が”
”ん”
”ば”
”れ”
”し”
”う”
”ん”
ただ、それだけの文章だった。
(ただそれだけの文章を示すために・・・この子はここに来たって言うのか・・・?!)
何かを求めるように、紫雲は真琴の顔を覗き込んだ。
・・・真琴は、それに気付くと、ゆっくりと・・・・ゆっくりと口の端を持ち上げ、目を細めて・・・・・微笑んだ。
「・・・・・・・・・くっ・・・・・・・・・・・・うっ・・・・・・・く・・・・・・う・・・・・・・・・」
紫雲は俯いた。
その顔からは、二筋の光の軌跡が落ちていった。
力なく、その場にへたり込んだ。
そして、ただ、泣いた。
その様を見て・・・・・みんな分かった。
草薙紫雲は、”死んで”なんかいない、と。
だから、もう二度と草薙紫雲を遠くへと行かせないために。
草薙紫雲を草薙紫雲のままでいさせるために。
想いを、言の葉に変えて、紡ぐ。
「なあ、草薙」
北川の呼びかけに、紫雲は顔を上げた。
その目には微かな光が戻りつつあった。
「お前が辛いのって・・・皆を、助けられないからなのか?」
「・・・そうだよ・・・・
僕は・・・何も出来ない・・・・してやれない・・・その上・・・今回のことを・・・・引き起こした・・・・僕が、あゆの記憶さえ無くさなかったら・・・!栞ちゃんも、美汐ちゃんも、真琴ちゃんも日常の中にいた・・・・・秋子さんを事故に巻き込むことも、無かった・・・・!!」
「ふざけるなよっ!」
北川は叫んだ。
その声に紫雲はビクッと身体を震えさせた。
「何様なんだよ、お前は!!なんでも自分でできるって思ってんのか!?ガキかお前は!
今回のことにしたってそうだ!栞ちゃんは・・・悔しいけど、こうなるって分かってただろ・・・・!
お前がいてもいなくてもいつかそうなってた・・・それがたまたまお前がいるところでそうなっただけだろうが!
水瀬のお母さんが事故に巻き込まれたのだって、トラックの運転手にも責任はあるだろうが・・・!それに真琴ちゃんが具合が悪かったのだって、たまたまだし、お前の所為ってわけじゃないだろ・・・!」
「でもっ!!」
北川の言葉を押しつぶし、紫雲もまた叫ぶ。
「それでも、俺は・・・僕は・・・・・皆を助けたかったんだ!救いたかったんだ!
例え僕の所為じゃないとしても・・・・・!
僕は皆が悲しいのはいやなんだ!皆が辛いのはいやなんだ!ただ、それだけなんだよ・・・・!傲慢でもなんでも・・・そうしたかった、皆に幸せでいて欲しかったんだ・・・・・!!」
紫雲は地面に座り込んだままで拳を地面に叩きつけた。
・・・そんな紫雲に視線を合わせるように香里がしゃがみ込んだ。
そして、紫雲の顔を覗き込むと、微笑んだ。
「・・・あたしは、もう、あなたに救われているのよ。
ううん、あたしだけじゃない。栞も、名雪も・・・みんなみんなもうすでにあなたに救ってもらっているの」
「え・・・・・」
「あなたがいなければ、あたしは栞に向かい合うことすらできなかった・・・・・
そして絶望の中で栞の死を見届けるしかできなかったでしょう。でも・・・あなたが、あたしに向けてくれた言葉が、あなたがあたしを助けたいと思った行為があたしを動かしてくれたのよ」
紫雲の言葉自体は否定された。
だが、それが香里を佐祐理や命に出会わせ、後悔の重さを、栞が本当に望むことを示した。
「俺はお前がいなかったら、何も知らない自分を嫌って、本当に何もできなくなるところだった。
お前がいたから、俺は今ここにいることができるんだ」
紫雲の言葉は何もできないと思い込んだ北川を導いた。
”知らない”ことの意味を。大切な人のために痛みに耐えることを知った。
「あなたは、私の大切なことを思い起こしてくれました。
あの子がいた意味を教えてくれました。そして、真琴に出会わせてくれました」
感情を捨てることが、何も得ようとしないことが、何も失わずにすむ方法だと思っていた。
そうすることが、”あの子”との日々を愚弄することだと、”あの子”を悲しませてしまうことだと気付かずに。
それに気付かせてくれたのは紛れもなく紫雲だった。そして、紫雲がいたからこそ、真琴に出会うことができたのだ。
真琴は、ただ頷いた。
ただそれしかできないことが、全てを伝えていた。
「・・・私は、紫雲がいなかったらここにはいなかったかもしれない。
今、私が少しでも笑えるようになったのは、幸せだと思えるのは・・・紫雲のおかげだから」
魔物を倒すこと・・・自分自身を殺すことしか考えられなかった日々。
そんな自分のために過去の強さを引っ張り出して、共に夜を越えてくれたのは紫雲だった。
「・・・舞の幸せは佐祐理の・・・私の幸せなんですよー。
だから、私は、今すごく幸せなんです。
・・・そうしてくれたのは、紫雲さんじゃないですか」
舞のことを考えてくれた。
本当は自分のことでも手一杯だったはずなのに。
他の誰かのために頑張る紫雲がいたからこそ、佐祐理は、優しさの意味を、そして舞は一弥ではないことを知り、舞は舞だからこそ好きだということを自信を持って、優しい舞の傍らで生きていくことができるようになった。
「だから、もう何もしなくていいの、草薙君は」
「・・・・え・・・」
「そうだって。お前のできることは全部やり終えたろ?」
「・・・・・」
「ただ、見守っていてください」
「・・・・・」
「それに、紫雲にはすることがある」
「・・・・・!」
「そうですよー・・・紫雲さんはたった一人の女の子のことだけを考えてください。
いえ、考えてもらわないと困りますよー」
「ああ、きっとお前を待ってるんだぜ。男が女の子の望みを叶えないなんてのは反則だぜ」
「・・・・・・・・・みんな・・・・・・・・・・」
紫雲は、脚に力を込めた。
・・・涙はもう、止まっていた。
紫雲は、その手を強く強く握り締めた。
・・・もう、泣くことはない。
紫雲は、立ち上がった。その目は光に満ち、ただ前を向く。
・・・なぜならそれは最後の後悔だったから。
・・・そう。
・・・・・最後まで笑っている強さを、今知ったから。
「・・・・・わかったよ。僕は・・・・・僕のやるべきことをする」
「それでこそ、草薙だ」
北川はぐーっと言わんばかりに親指を立てた。
紫雲もそれにならって、親指を立ててそれに応えた。
「・・・やれやれ、男どもは単純でいいわよね」
「・・・まったく」
「あははーっそういうのもいいと佐祐理は思いますけど」
「・・・まあ、悪くはないと思います」
「・・・・・ま、それはそうと。そうは言ってもやっぱり、みんなのことは気になるよ。何かできることはないのかな、本当に」
その紫雲の言葉に北川は呆れ果てた。
「・・・まだそういうこというか」
「だって、それが僕だから」
微笑む、紫雲。
その時だった。
「なら、私に任せておくといい」
紫雲の顔が何かに彩られる。
・・・それは微かな驚き。
その視線は、皆の背後に注がれていた。
そこにいたのは。
「愚弟よ。お前は人の心を救った。なら私は命を救おう。・・・私の、名において」
草薙紫雲の姉、草薙命だった・・・
・・・・・続く。
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