Kanon another1”snowdrop”第45話
第45話 夢散幻想
・・・・・夢は散り、幻想は終わる。
その時が、来た。
草薙紫雲は走った。
走って走って走りぬいた。
その背には力を失い、瞳を閉ざしてしまった少女がいた。
紫雲の頭の中は混乱と苦痛と悲しみがあった。
何故だ。
何故彼女がこんな目に合わなくちゃいけないんだ。
分かってはいたさ。
いつかこんなときは来るって。
でも、こんなのってありなのか?
ただ苦しみの中だけで終わってしまうのか?
冗談じゃない。
死なせるもんか。絶対に。
吐く息の白さも、周りの景色も、周囲のことも、今の紫雲にはどうでも良かった。
今はただ、この少女を助けたかった。
だから、自分の目の前に誰かが立ち塞がった時でさえ、それを弾き飛ばしてでも前へと進もうとした。
・・・その誰かが、殴りかかってくるまでは。
紫雲は目の前の拳を、右足にブレーキをかけ、横にスライドするような動きで避け距離を取ると、きっと睨み付けた。
そこには、昨日もやりあったばかりの群瀬剣が立っていた。
「また、あったな。この辺りは人がいない・・・決着をつけるには丁度・・・」
剣がそう言いかけた時だった。
紫雲がゆっくりと顔を上げた。
「・・・・・剣。一度しか言わない」
「なんだ・・・と・・・・」
また臆病風に吹かれている紫雲を一笑しようとした。
馬鹿にしてせせら笑って挑発しようとした。
・・・だが。
紫雲の顔を見た瞬間、剣は凍りついた。
「・・・・・どけ」
そのただの一言が、圧倒的なまでの重圧感として剣に襲い掛かった。
そのただの視線が、全てを斬り裂く様に鋭く冷たかった。
・・・直感的に、剣は認識していた。
今、自分がこいつの邪魔をすれば、自分は確実に死ぬと。
草薙紫雲という存在自体に気圧されて、知らず知らずのうちに剣は後ずさり・・・
気付いた時には、紫雲の姿はそこに無かった。
「く、そおおおおおおっ!!」
剣は近くの木を殴りつけた。
・・・ただ、敗北感が彼を叩きのめしていた。
・・・草薙紫雲が病院へと疾走していた頃。
彼に関わった少女が同じように苦しんでいた。
「真琴・・・しっかり・・・・」
「・・・・あ・・う・・・・・・・」
顔を真っ赤にさせてぐったりとしている真琴。
・・・その意識ははっきりとしていないようだった。
その真琴に肩を貸して、美汐は歩いていた。
肩を貸す、といっても真琴には殆ど力はなかった。
・・・ゆえにその全体重が美汐にかかっていた。
その小柄で細い身体には、その行為ですら困難であり、辛いはずだ。
だが、美汐はそれを辛いとは思わなかった。
それは、本当に辛いことを知っていたから。
肉体の傷など、心の傷に比べれば大したことはないと思っていたから。
握り続けた手。
苦しみに歪む顔。
そして、はじめから何も無かったように消えてしまった。
あの時の悲しみ。
それを思うことのほうが美汐には辛かった。
だから。
躓きそうになるのを堪える事ができた。
ともすれば跪いてしまいそうになることも耐えることができた。
行き先はたった一つ。
「真琴、我慢してね。・・・あの、ものみの丘に辿り着くまでは」
本当はもう、どうしようもないのかもしれない。
行ったところでしょうがないのかもしれない。
それでも、諦めたくはなかった。
諦めるわけにはいかなかった。
・・・だから。
天野美汐はその身体に多大なる重荷を抱えても、ただ歩いていく。
沢渡真琴の故郷。
・・・妖狐が住まうと言われている、ものみの丘へ。
病院のロビー。
そこのベンチにうなだれるように座る紫雲。
すでに電灯の光が満ちているはずのそこは、紫雲には薄暗く感じられた。
自分の感覚がおかしくなっているのか、今の紫雲には判断できなかった。
というより、何も考えることができないでいた・・・
栞は、紫雲の疾走の甲斐あって、何とか一命を取り留めた。
だが、それは所詮今だけの話にしか過ぎない。
最早、栞の命は風前の灯だった。
・・・処置を受け、病室に運ばれた際、栞は幽かに意識を取り戻した。
『紫雲・・・さん・・・?』
ああ、そうだよ、僕だ。
『・・・記憶、戻ったんですよね?』
ああ。栞ちゃんたちのおかげだよ。ありがとう。
『・・・お役に立てて、嬉しいです。私もいい思い出ができました。・・・私、今までキスする機会、ありませんでしたから』
・・・・・・え・・・・・・
『あ、気にしないでください。・・・・・私とのことは、夢だったとでも思ってください。
・・・そういうのってロマンティックじゃないですか』
その、栞の言葉は、紫雲にはこう、聞こえていた。
先のない人間のファーストキスをとったことなんか気にしないでください。
それを裏付ける言葉もまた、紫雲の耳には入っていた。
席を立った紫雲が、病室を去ったと思い込んだ主治医と栞の会話。
・・・先生。あと、どれぐらい、ですか?
その言葉は紫雲と話していたときと違って一言一言紡ぐたびに命を削っているようだった。
・・・あと数日だ・・・幾分早まってしまったよ・・・こんなことを言うのはなんだが・・・病院にずっといさえすれば、せめて誕生日は迎えられただろうに・・・
その言葉に栞は微笑んだ。
いや、紫雲にはドア越しで見えるはずはなかったが、そんな雰囲気を感じていた。
意味なく少しでも生き長らえるよりも、私は思い出を持っていきたかった・・・誰だってそう思いませんか?
そんな時間を。
彼女は自分のために使った。
本当は、姉・・・香里をはじめとする家族と共に過ごしたかったのではないだろうか?
友達とただ笑って過ごしたかったのではないだろうか?
・・・俺が不甲斐ないばかりに!
ぎりっ・・・と紫雲は歯を食いしばった。
自分への憎しみを晴らす方法がそれしかなかったから。
・・・そんな自分を覆う影に気付いて紫雲は顔を上げた。
「・・・・・香里さん」
「・・・・・草薙君。また、あなたに助けられたのね、栞は」
その言葉で、香里が栞に会ってきた事を紫雲は悟った。
「・・・違う。違うんだよ、香里さん。僕が、栞ちゃんに助けられたんだ。
・・・・そのせいで・・・・
・・・・そのせいで・・・・
僕は、栞ちゃんを殺しかけたんだ・・・・」
「・・・・・だったら、どうだって言うの?」
「・・・・え・・・・」
そう言うと香里は紫雲に背を向け、壁にバン!と平手を叩きつけて、そのまま壁に寄りかかった。
「あなたが栞の死の責任をとってくれるというの?!
あなたが栞を救ってくれるというの?!」
唐突なその剣幕に、紫雲は圧倒された。
何か言おうとしたが、それを形にすることはできなかった。
「あなたはすぐそうやって自分を否定する!
いいことをしたり、人に優しくできる自分を!
それが、皆の重荷になっていることも知らないで!」
「・・・・・・!・・・・・」
「あなたが優しくなかったら、誰が優しいっていうの?
あなたが苦しむのは、みんな辛い・・・あなたが優しいから、優しいあなたが幸せになれないことはみんな辛いのよ・・・
・・・・・あなたがそんなだと、栞が何のために”今日”を使ったのか・・・分からなく、なっちゃうじゃない・・・・」
その言葉は支離滅裂だったのかもしれない。
感情に任せた言葉だったのかもしれない。
それでも、それは紫雲の心を確かに貫いた。
だが、それでも、紫雲には思えなかった。
自分にそんな価値があるとは、思えなかった。
誰かが何かをしてくれるような、そんな価値があるとは。
だから、紫雲は謝ることさえできず、口をつぐみ、またうなだれることしかできなかった。
「・・・・・ごめんなさい」
長い沈黙の後、口を開いたのは香里だった。
「・・・・・あたし、栞のところ行くから。帰るときは一声、かけてね」
それだけ告げて、香里はいなくなった。
・・・本当に謝るのは僕の方なんだ。
その言葉を、最後まで紫雲に紡がせないままに。
街の中を微笑みながら歩く女性がいた。
彼女にとって、その微笑みは日常。
いつも絶やさないそれが、多くの人の安らぎとなっている。
その手にはケーキの入った箱があった。
・・・娘の好きなイチゴのショートケーキだ。
彼女は心の内で娘が喜ぶ姿を思い浮かべ、それが楽しくて仕方なかった。
・・・後は、家に一番近いコンビニで肉まんを買えば完璧だ。
そう、思っていた。
その肉まんは彼女のもう一人の娘のためのものだった。
・・・そうだ。あの甥っ子のためにも何か買っていかなければ。忘れてしまっても拗ねる様な子ではないし、あの二人と違い決して大喜びではないだろうが、きっと喜んでくれるだろう。
そう考えながら、彼女は曲がり角を曲がろうとしていた・・・
はあ・・・・はあ・・・・・はあ・・・・・・
美汐はその息の間隔が近づいていくことに気付いていた。
その度に自分の体力の無さを恨んだが、今はそんなことをいっている場合ではない。
その肩にぶら下がるようになっている少女。
彼女の疲弊はおそらく自分よりも遥かに上だ。
それを思うと・・・・・負けてはいられない。
そう思えた。
だが、現実は無残だった。
精神が肉体を凌駕することは確かにある。
在りはするが、それは稀でしかない。
多くの場合、人の身体は融通を利かせてはくれない。
・・・ここまでもったことすら驚異的だった。
「・・・・うっ・・・・・・」
美汐の体がぐらついた。
足がもつれ、その場にしゃがみ込む。
すぐに立ち上がればそれでいい。
美汐がそう思って足に力を入れたときだった。
けたたましいクラクションが鳴り響いた。
その、微笑みを浮かべる女性が曲がり角を抜けたとき、そのけたたましいクラクションが響いた。
女性は見た。
向こうの曲がり角から突然現れたトラックが、こっちに向かってくる。
その前方には、二人の少女がいた。
そのうちの一人は・・・・
大切な、娘。
「・・・・・・・っ!!!!」
女性は全てをかなぐり捨てて、その路地に身を投げ出した。
迫るトラック。
動こうとしても動けずにいる少女たち。
二人を抱えてトラックをかわすのは無理だ。
なら、答えは一つしかない。
女性は迷い無く、それを選択した。
美汐は自分たちに迫るトラックに気付くと必死に立ち上がった。
・・・だが、それまでだった。
そこから即座に動けるほどの体力など、もう残ってはいなかった。
死の恐怖が確かに美汐を支配した。
・・・だがそれも一瞬だ。
せめてこの子だけでも。
美汐がそう思って、真琴を自分から離れさせようとした時。
ばんっ・・・!
体が宙に浮く感覚。
・・・一瞬何事か分からなかったが、誰かが自分たちを押し出したのだと気付いた。
トラックに轢かれないようにするために。
トラックの進行方向上から弾き出され、雪の上に転がる二人。
美汐ははっと顔を上げた。
そこには一人の女性が立っていた。
二人を突き出した手をそのままに。
その女性は美汐の視線に気付くと、微笑んだ。
その口元が動く。
ソノコヲヨロシクオネガイシマス。
美汐がそれを認識した刹那。
その、女性は。
・・・・・その路地の片隅に、箱が転がっていた。
・・・・・その箱の中身は雪の上に散乱していた。
・・・・・美味しそうだったはずのイチゴのショートケーキは、もう食べられそうに無かった。
紫雲はずっとベンチに座っていた。
窓の外が赤くなり始めようとしていることに気付き、それと同時にこれ以上ここにいても仕方ないことにも気付いた。
諦めの境地で、立ち上がる。
これからすることを思うだけの余裕もない。
とりあえず、家に帰ることぐらいしか選択肢がなさそうだった。
・・・とぼとぼと階段を下りていく。
そんな感じで1階に降り立ったときだった。
紫雲はその辺りの緊迫した雰囲気に気付いた。
たまたま下りてきたそこは緊急患者用の入り口ようだった。
おそらく、事故でも起きたのだろう。
そう思った紫雲は、その事故にあった人の無事を祈りながら、そこから立ち去ろうとした。
・・・そう。
その視界の端に、知った人々が目に入るまでは。
「・・・・・?・・・・・!!!」
担架で運ばれていく少女。
それに付き添う少女。
そして、医師や看護婦に囲まれ、手術室の方向へと運ばれていく真っ赤に染まっていた、その女性。
沢渡真琴。
天野美汐。
水瀬秋子。
「ああああああああ・・・ああああああ・・・・・・ああああああ」
紫雲は、その場に力なく座り込んだ。
恐怖から、悲しみから、身体は震えていた。
その口はがちがちと音を立て続けていた。
その目からはとめどなく涙が流れていた。
もはや、誰の声も、彼には届かなかった・・・・・
・・・・・・・続く。
第46話 Last regretsへ
戻ります