Kanon another1”snowdrop”第44話
第44話 残光、そして。
・・・夜。
その日の夜はいつもよりも一段と冷えていた。
それでも、日常には違いないそんな夜だった。
闇を流れていく雲も、
空を彩る星々も、
通り抜けていく風も、
何もかもがいつもどおりで、それなのに今でしかありえないもの。
そんな夜を、人は何を思って過ごしていくのだろうか?
大切な誰かと過ごす者もいるだろう。
「祐一・・・明日もこんな日だといいね」
「ああ、そうだな。できればもっと楽しければ言うことはない」
「欲張りだよ〜」
ただの日常と割り切って、何も思うこともなく眠る者もいるだろう。
「明日は、晴れだなー・・・よっし、歯を磨いて寝るとするか!美坂とかと話す時に口臭が気になるってのも間抜けでいやだし」」
今は今でしかないことを知って、何かに思いをかけている者もいるだろう。
「お姉ちゃん、明日も一緒に学校に行こうね」
「ええ、もちろんよ・・・」
人の数だけ夜はある。
「・・・仕込みはよし。この料理は舞も喜んでくれるかな」
「佐祐理、早く寝なさい」
「・・・分かっています、お父様」
人の数だけ夢がある。
「くー・・・佐祐理・・・これ、おいしい・・・くー」
人の数だけ思いがある。
「真琴?顔が赤いけど・・・大丈夫?」
「だ、大丈夫」
「そう・・・あたたかくして、寝なさいね」
「うん・・・その、秋子さん・・・」
「なあに?」
「あう・・・なんでもない」
「そう・・・良かったら、一緒に寝ましょうか」
「・・・うん・・・・!」
人の数だけ憎しみがある。
「草薙・・・・次は、必ず・・・・!」
「・・・・・・剣・・・・・・」
人の数だけ祈りがある。
「明日・・・うまくいくといいのですが・・・せめて、”それ”まで、皆の時間が残っていますように・・・」
人の数だけ悲しみがある。
「うう・・・さみしいよ・・・かなしいよぅ・・・ひとりは、いやだよ・・・・」
人の数だけ願いがある。
「皆が幸せになればいいのだが・・・・な」
そして、人の数だけ意志が、希望がある。
「・・・・・必ず、思い出すさ。僕のため、皆のため、そして何より、その子のために」
そして、いつもと変わらない、そんな朝が訪れた。
「姉貴、行ってくる」
紫雲は踏みつけた靴の踵を直しながら言った。
ドアを開くと、幽かな雲が流れる青い空と、すべてを照らす光が溢れ出た。
これ以上はないというぐらい、朝らしい朝だった。
「ああ、気をつけていって来い。真面目に勉学に励むように」
「・・・・・・・・ああ」
つい返事に間が空いてしまった。
紫雲は内心少し焦ったが、命は特に気にした様子はなかった。
「じゃあ・・・」
「うむ」
(・・・姉貴、すまない)
その言葉は口に出されることなく、ただ紫雲の胸の内に消えた。
「じゃあ、秋子さん、行って来ます」
「行ってくるよ〜・・・お母さん、気をつけてね」
「名雪・・・それは私の言葉よ。・・・気をつけてね。祐一さんもですよ」
「はい」
ドアが開く。
刺すような冷たい空気がその空間を支配したような錯覚に陥る・・・が、それも一瞬のことだ。
行くべき所に行った二人がドアを閉じた、その瞬間までのことだった。
「・・・・・」
秋子はその空間を黙って見つめていた。
名残惜しそうに、心配するように。
それはまさしく、誰もが疑うことなどありえない、母親の表情だった。
そんな秋子の脇を抜けていく影があった。
・・・言わずと知れた、真琴だった。
真琴は玄関に降り立つと手早く靴を履いた。
「・・・真琴?どこかにお出かけするの?」
「うん・・・美汐と栞と、約束があるの」
その二人の名を、秋子は一瞬思い当たらなかったが真琴の表情から友達だと推察・・・いや、わかった。
その数秒後には名雪や祐一が話していた、少女たちだと思い当たっていたが。
「そう・・・気をつけてね」
「うん!」
そうやって、真琴も外へと飛び出していった。
それを見送る秋子の表情も、祐一や名雪の時と、なんら変わることはなかった。
「・・・さあ、私も準備しなくちゃ」
秋子は、その空間から名残惜しそうに視線を放し、家の奥へと消えていった。
教室は、いつものように喧騒に包まれていた。
何も変わらない様に見える。
「おはよう、名雪、相沢君」
「相変わらずだなーお前ら」
名雪と祐一を、香里と北川が自分の席で出迎えた。
この相変わらずは二人揃っての登校を指していた。
・・・HRが始まるまでにはまだ少し余裕があったからである。
「ほっとけって・・・あれ?」
「・・・・・?」
いるべき者がいなかった。
そのことに気付いて二人は首を傾げた。
「香里、草薙君はまだ来てないの?」
いつもHRが始まる前にはそこに腰掛けている少年の姿が、今日は見えなかった。
「来てないわ」
「遅刻か・・・あいつにしては珍しいって言うか見たことないな、そんなの」
「・・・そうなのか?」
「ええ。草薙君は今まで、遅刻ダッシュはしても無遅刻といういまどき珍しいタイプの人間よ」
「珍しくはないだろ」
「・・・なにか、あったのかな」
「あいつに限って何か、はないだろ。あったとしてもどうにかしてるさ」
彼にしては珍しく、ぶっきらぼうに北川は言った。
(・・・また、なにか大変なことやってんだろうな)
その力になることができない自分が、少し悔しかった。
そして、それなくともおそらくどうにかしてしまえるその”強さ”が羨ましかった。
「・・・でも、もし休みなら様子を見に行きましょうか。
草薙君、喜ぶと思うわ」
「そうだねー」
「・・・そうだな」
「俺も賛成だぞー」
それでも、そうすることはきっと彼の助けになる。
いくら強くても補えないものを補うことができる。
そんな気が、した。
風の中。
紫雲は一人で街をうろついていた。
服はすでに着替えてあるから、無用なトラブルもないだろう。
(こうやって行くあても無くふらついてるっていうのは・・・割と悪くないな)
それは一晩考えた紫雲の答えであった。
自分が忘れてしまった人は少なくともこの街の中にいて、この街の中でともにあったはず。
なら、それを思い出すにはこの街を探すしかないだろう。
想い出を探す・・・言葉にすると美しいが実際やっているのは学校をサボってふらついているだけだというのが少し可笑しかった。
何より学校に通わせてもらっている自分の姉に悪いと思ってはいた。だが・・・
(・・・自分の所為で泣いてしまった後輩がいる・・・いらぬトラブルで心配と迷惑をかけてしまった先輩がいる・・・何より忘れさられてしまったその子がいる・・・それを放っておくことは・・・)
「出来ないよ、僕には」
その言葉は誰に聞かれることもなく、風に巻かれて消えていった・・・
「・・・お姉ちゃん、草薙さんは?」
一時間目が終わった後の休み時間、祐一たちのクラスに来訪者があった。
言わずもがなの、美坂栞である。
「それが・・・」
「今日は休んでるみたいだぞ」
香里の言葉を北川が繋いだ。
それを聞いた栞は眉をひそめた。
「・・・そうですか・・・困りました」
「どうかしたの、栞」
「ううん、なんでもない。それじゃ、お邪魔しました」
それだけ告げると栞は足早にその場を去っていった。
「・・・なんだったんだ?」
「さあ」
北川と香里は首を傾げるばかりだった。
一方の栞は学校の裏庭に降りていった。
・・・人に会う為、である。
「・・・どうでしたか?」
雪の溶け残りがいまだあるそこにいたのは天野美汐と、沢渡真琴。
「草薙さんはお休みしているそうです。一応番号を聞いて草薙さんの家に電話してみましたが誰もいませんでした」
「・・・どうやら、草薙さんは記憶を埋めに街へくり出しているようですね」
草薙紫雲の性格を考えると、それが一番説得力のある答えだった。
「・・・どうするの?」
真琴が問う。
それに、美汐は瞑目して考え込んだ・・・
「・・・仕方ありません。予定を繰り下げましょう。私はお昼に早退する事にします。それから草薙さんを追います。居場所が分かったら連絡するから真琴は家で待っていて」
「あう・・・わかった」
「天野さん、私は?」
「美坂さんは普通に授業を受けてもらってかまいせんよ」
「・・・いえ、私も早退します。こういうときって病弱だと便利ですよね」
「体の線が細いのも有効ですよ」
軽い冗談を言い合う二人。
真琴はそれが理解できずに立ち往生してふてくされた。
ややあって・・・
ふらふらと、街を歩く存在がいた。
羽のついたリュックを背負い、頭には紫色のカチューシャをはめたそんな少女だ。
少女は知っていた・・・いや思い込んでいた。
もうこの街に来てはならないと。
誰かを頼ってはならないと。
しかし、それでも、一人は辛かった。悲しかった。
あの人には頼れない。
あの人はすべて忘れてしまったのだから。
なら、もう一人のあの人のところに行こう。
お話ぐらいなら、できるはずだ。
それだけなら・・・
「きっと、いいよね・・・」
少女はただ歩いていった・・・
その、道路を挟んだ向こう側を歩いていった誰かに気付く事もないままに。
「ん・・・?」
紫雲は辺りを見回した。
誰かが、見ていた・・・いや、誰かがいた、そんな気がしたのだが・・・
「・・・気のせいか。・・・しかし、腹減ったな・・・今何時だ?」
腕時計に目を落とすと、その針はすでに昼を過ぎていた。
「げっ・・・どおりで腹も空くわけだ。
・・・しょうがない、何か腹に入れるとするか」
紫雲はここから最寄の店で何か買うことにして、歩き出した。
その道すがら、溜息を吐く。
その白い息が現状を語っていた。
そう簡単にいかないことなどわかっていたつもりだったが、それでも落ち込むときは落ち込むものだ。
「まあ、とりあえず腹ごしらえと・・・」
呟きながら商店街の方に歩いていくと、いつもの鯛焼き屋に通りかかった。
「・・・・・鯛焼きでもいいか」
紫雲は基本的にそれなりに美味しくて量があればなんだっていいのである。
だから昼飯がわりがたい焼きでも一向に構わなかったりする。
「ども、こんにちは」
「よお兄ちゃん。学校はサボりかい?」
鯛焼き屋の親父にあっさりと見抜かれ紫雲は苦笑した。
「ええ、今日はやることがあって」
「まあ、若いうちに色々やっておくのも人生だ。好きにやりな」
「・・・ありがとうございます」
「んで、今日の注文は?」
「黒あんを5つほど。ここの鯛焼きは美味しいですから」
と笑って言ったその時だった。
「うんうん、そうよねー」
『うんうんそうだよね』
一瞬何かが浮かび上がる。
その元がなんなのかと、声がしたほうを見ると、そこには・・・
「・・・真琴ちゃんか。どうしたのこんなところで」
紫雲がそう問うと真琴は顔を真っ赤にした。
「べつにいいで・・・じゃなかった・・・えと、その・・・」
何かを言いかけて真琴は視線を紫雲からずらし、その後方を見た。
紫雲もその視線を追ってみる。
・・・別に何もなく、茂みがあるだけだった。
ただ、茂みが揺れたような気はしたが、紫雲は気のせいか、風だろうと思った。
「く、黒あんを五つください」
振り向くと、真琴はどこか棒読みっぽい感じでそう告げていた。
「へえ、真琴ちゃんも黒あんが好きなんだ」
「ち、ちが・・・じゃない・・・えと、鯛焼きはやっぱり黒あんなのよ」
またしても、棒読み。
さすがの紫雲も気にはなったが・・・それを問いただせない自分がいることに驚いていた。
真琴の言葉が、何故か自分の中に引っかかってしょうがなかった。
特別でもない、普通の言葉なのに・・・
「そ、そうだよな・・・黒あんだよな・・・」
紫雲がおざなりな返事をする・・・と同時に鯛焼き屋の親父が袋に入れた鯛焼きを真琴に突き出した。
「ほら、れでぃふぁーすとだよ」
「・・・ありがとう」
「んじゃ、代金400円な」
ぴた・・・と真琴の動きが止まった。
「・・・?どうしたの真琴ちゃん」
「・・・持ってない」
「・・・へ?」
「真琴、お金持ってない!」
そう叫んだやいなや、真琴は踵を返し、その場から逃げ出した。
親父と紫雲は呆然とした。
・・・先に我に返ったのは親父だった。
「兄ちゃん、追いかけてくれよ!!」
「へ?は、はい!!」
慌てて紫雲は真琴の後を追って走り出した。
その姿はあっという間にたい焼き屋から遠ざかっていった・・・
その姿を確認して、鯛焼き屋の親父は息を吐いた。
そして、後ろの茂みに呼びかけた。
「・・・これでよかったのかい?」
「はい、どうもご苦労様でした」
そう言って茂みの中から姿を見せたのは・・・栞だった。
紫雲は走る。
商店街の一角を。
真琴を追って走り続けた。
そして、この感覚を懐かしいと感じていた。
誰かを追って走る自分。
でも中々追いつけなくて。
でも、どこか楽しくて。
何かのイメージが少しずつわきあがってくるのを紫雲は感じていた。
それはひょっとしたら自分が欲しいと思っていたものなのかもしれない。
だから、それを追い求めるために、紫雲のスピードはさらに上がった。
一方、真琴のスピードは下がる一方だった。
このままでは追いつくのも時間の問題だろう。
紫雲がそう思ったときだった。
真琴はふらつきながらも商店街の端の方の角を曲がっていったのである。
あそこの辺りは脇道が多い。
(まずいな見失うかもしれない)
紫雲がさらにスピードをあげ、その角に入って行った・・・その時。
その目の前に人影が立ち塞がった。
「きゃっ・・・」
「うわっ・・・」
紫雲は倒れることがなかったが、ぶつかったその人物はペタンと地面にしゃがみ込んでいた。
「あ・・・すみません・・・って君は美汐ちゃん?」
そう、そこにいたのは天野美汐その人だった。
「はい、どうも。ごきげんいかがですか」
「あ、いやまあ・・・って立てる?」
「ええ、大丈夫です」
紫雲の手を借りて、さっと立ち上がった美汐は紫雲に向き直った。
「ところで草薙さんは何故ここに?」
自分が聞こうと思っていたことを逆に聞かれ、紫雲はそれを聞きそびれた。
「えと・・・あ、そうだ。真琴ちゃんを見かけなかった?ここを曲がっていったはずなんだけど」
「・・・さあ。真琴が何か?」
「いや、食い逃げを・・・買いにげか・・?まあどっちでもいいか・・・とにかく鯛焼きのお金を踏み倒して逃げたんだ」
「それは大変ですね」
さして大変そうにない口調で美汐は言った。
「・・・まあ、あの子は悪い子じゃないから心配しないのは分かるけど追う身にもなってくれよ」
「・・・そうですね。頑張ってください」
「はう・・・頑張ります」
しょげ返った紫雲がその場から立ち去ろうとする・・・その背中に美汐は呼びかけた。
「・・・草薙さん。この冬は、どうですか?」
唐突な質問。
しかも、抽象的過ぎる。
当然といえば当然で、紫雲は答えられずにいた。
そんな紫雲に美汐は幽かに微笑みかけた。
・・・紫雲は背中を向けたままだったので、それを見ることは叶わなかった。
「私にとってこの冬は特別です。・・・この先何があってもそう思うことに変わりはないでしょう。
・・・例え、誰がいなくなっても。
・・・例え誰かが悲しみにくれても。
・・・あなたは、どうですか?
あなたにとって、この冬は特別ですか?」
「・・・・・ああ、たぶんそうだよ」
美汐の言葉で何かが確かに頭をよぎった。
この冬。
特別な冬。
その中心にいたのは。
「・・・・・っ」
・・・それだけが、どうしても形にならなかった。
「草薙さん」
そんな紫雲に静かに呼びかけるのは、紫雲に大切な気持ちを取り戻してもらった少女。
「真琴は、遊歩道の方へと行きました。
追いかけてください。
あなたが思い出そうとする限り、答えはきっと待っています」
「・・・わかった・・・ありがとう」
顔だけを向けて笑いかけてから、紫雲は再び走り始めた。
木がはてなく並んでいるように思える、その遊歩道。
木々には雪が残り、白一面の世界が広がる。
そんな遊歩道の真ん中で、二人は向かい合っていた。
草薙紫雲と沢渡真琴。
「真琴ちゃん。何であんなことをしたんだい?」
紫雲はなんとなく聞いていた。
・・・その理由はなんとなく理解していたが。
「えと、その、あの・・・」
「台本は、もう要らないよ。真琴ちゃん自身の言葉で答えて欲しい」
真琴はその言葉を聞くと顔を上げて、言った。
「紫雲が、大切なものを忘れたから悪いの!真琴は・・・悪くない・・・・」
「・・・ああ、そうだな。君は悪くないよ。とってもいい子だ」
・・・美汐が考えたことは至極単純なことだった。
それこそ、漫画でよくやることだ。
記憶を失った人間に、失った記憶を再現させて、記憶を呼び起こそうとする・・・
かつて、栞が夜の病院であゆに話してもらった草薙紫雲との物語。
それを、トレースしつつ、皆で紫雲に呼びかける。
そうすれば、きっと紫雲の記憶は甦る。
草薙紫雲という人間は、誰よりも人の想いに応える人間だから。
それが、三人の出した答えであり、希望だった・・・
紫雲は真琴に歩み寄ると、その頭を優しく撫でた。
「あう・・・・・こんなことしなくていいから、思い出しなさいよぅ・・・かわいそうじゃない・・・」
「ああ、そうだよね。でも、今はこうしたいんだ」
真琴はくすぐったそうに目を細めた。
人の、優しさとぬくもり。
これが自分が求めてやまなかったことだということを、目の前にいる人に教えてもらったことを、思い返しながら。
ずっとこのままでいたいような気にさえなったが、それは許されないことを真琴は知っていた。
紫雲には、紫雲の。
自分には、自分の。
それぞれのやらねばならないことがあるから。
・・・真琴は、顔を赤くさせつつ紫雲から離れた。
「・・・この先に、もう一人待ってるから。それが真琴たちにできるすべてだから」
「・・・ああ、わかってる。それじゃね」
紫雲は笑って、その場を後にした。
真琴はずっとその背を目で追いかけた。
紫雲の背中が見えなくなった、その時まで。
「・・・ご苦労様、真琴」
そう言って現れたのは、美汐だった。
「疲れたでしょ。肉まんでも食べに行きましょうか」
「・・・・・」
「・・・真琴?」
美汐がその名を呼びかけたとき。
沢渡真琴は、糸の切れた人形のように。
その場に、伏した。
「・・・真琴!・・・真琴っ!!」
その声はただ木々のざわめきの中に消えていった・・・
紫雲は走っていった。
先へ先へと。
真琴が示した方向をただ真っ直ぐに。
そうすることが彼女たちへの感謝の思いであり、それに応える方法だと知っていたから。
息が切れても走り続けた。
風が刺すように冷たくても走り続けた。
・・・そして、その場所に出た。
そこは、公園だった。
噴水が水しぶきをあげている姿がなんとも寒々しく・・・そして、それ以上に幻想的に見えた。
その前にちょこんと立つ少女。
その命はすでに幾ばくかでしかない少女、美坂栞。
彼女は紫雲の姿を認めると頭をぺこりと下げた。
「ようこそいらっしゃいました、草薙さん」
その手には、鯛焼きの入った袋があった。
真琴から渡されたそれは大切に大切に少女に抱えられていた。
その中から一つ取り出して、栞は笑った。
「お一つ、いかがですか?」
「美味かったね」
「ええ。私は、アイスの方が良かったんですけど」
「・・・寒いのに?」
「寒いからですよ」
・・・栞の手渡した鯛焼きはホカホカでもなく、かといって冷たくもない中途半端な熱さになっていた。
それを二人は噴水のへりに腰掛けて、じっくりと味わって食べた。
「・・・そんなものかな」
「ええ、そうですよ」
途切れる、会話。
「・・・やっぱり、私じゃだめですね」
「・・・・・いや、その、栞ちゃんが悪いわけじゃないぞ。僕が・・・」
「いいえ、やっぱり、草薙さんはあの人じゃないと駄目ですよ」
白い手にはーっと息をかけて暖を取る栞。
紫雲はただそれを眺めていた。
「実はここは、私が来たかっただけの場所なんです。・・・ここには来た覚えはないですよね」
「・・・ああ、たぶんね」
「・・・怒らないんですか?」
「怒る理由なんてどこにもないよ。・・・僕は何も頼んでいない。それでも美汐ちゃんも、真琴ちゃんも、栞ちゃんも僕の力になってくれようとした。
怒れるわけ、ないじゃないか」
「・・・実を言うとそう言ってくれると思ったから、ここに来ちゃいました」
「確信犯か・・・やるね」
「いえいえ」
二人は笑いあった。
・・・こんな時間を確かに誰かと共有していたはずだった。
でも、今はもうそれはない。
紫雲はなんとなくそう感じていた。
「でも、ならなんで、ここに?」
その想いを。
ここまでしてくれたのに決定的な何かを思い出せない事実を。
覆い隠すように紫雲は尋ねていた。
栞は困ったように微笑んだ。
「私も、一つでも多く思い出が欲しかった・・・ただ、それだけです」
「そうか・・・思い出になったんなら、いいけど」
紫雲はそう言って、苦笑しているような、どこか悲しんでいるような曖昧な表情を浮かべた。
単純にただ笑ってしまえば、悲しい気がしたから。
単純にただ悲しむのは、辛いような気がしたから。
そんな紫雲に、栞は首を振った。
「いえ、まだ思い出には一歩足らないです」
「・・・そうなの?」
「さらに言えば、もう一つ試していないことがあります。命さんに話を伺いましたから。
うまくいけば一石二鳥です」
「・・・・・?」
「その・・・ちょっと恥ずかしいですけど・・・」
・・・それは、一瞬。
かすかな、ぬくもり。
それを感じたのは唇。
「・・・これで思い出さない人は、嫌いです・・・・」
栞の声が響く。
そして、それ以上に響いていたのは。
ばいばい紫雲君。
ああ、そうだ。
何を忘れていたんだ僕は。
あの鯛焼きが大好きな。
天使のような。
いつでも笑顔で。
誰よりも優しくて。
誰よりも悲しかった。
そんな、少女のことを。
忘れていたって言うのか?
冗談じゃない!
忘れてたまるか!
あの子のことを・・・!
そう。
月宮あゆのことを・・・・・!!
「そうだ!そうだよ!!あゆだ!!あゆ!月宮あゆだったんだよ!」
全てのピースが紫雲の頭に組み上がっていた。
それは、御伽話の魔法だった。
もう、迷うことはない。
剣に負けることもない。
確かに取り戻した。
・・・後はあゆを取り戻せばいい。
紫雲は大切な思い出を取り戻した、その喜びを隣に座る少女に分けてあげたかった。
そうすればきっと何かが変わるような気がした。
根拠が無くとも、そう思えた。
この少女の運命も、自分自身も、あゆのことも。
だから、満面の笑顔で少女に向き直った。
少女はそれに応えてくれる・・・・・はず、だった。
少女は、それに答える代わりに紫雲に寄りかかった・・・いや、倒れ掛かった。
「・・・栞ちゃん?」
少女は何も答えない。
紫雲は手に何かがかかったのを感じて、自分に倒れ掛かった栞の身体を支えつつもその手を、見た。
その手は赤かった。
赤く染まっていた。
それが、全てを語っていた。
「そ、そんな・・・うそだ・・・うそだああああああっ!!」
紫雲の慟哭は、叫びは。
ただ、ただそこに響いていくだけだった・・・
・・・続く。
第45話 夢散幻想へ
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