Kanon another1”snowdrop”第43話



第43話 モラトリアム(後編)


モラトリアム・・・・・精神の準備期間。
もしくは、あることを一時的に停止、凍結すること。


いつから、始まっていたのだろう?

彼らのモラトリアムは。

・・・悲しいことがあって。

みんな心を止める事しかできなかった。

生きることは悲しくて。

生き続けることは辛くて。

笑顔でいることはもっと辛いのに。

みんな、笑顔を浮かべて日々を生きていく。

それは、そんな日々の果てにある何かを、みんなが求めて止まないから。


かつては手の中にあったものを。
まだ、見知らぬ幸せを。


みんな、それぞれに求めて生きていく。




それは、冬の日の幻想物語。



それが始まったのは、いつからだったのだろう?

みんなが心を止めたそのときから?

雪の駅で少年が少女と再会した日から?

それとも・・・かつて紫色の拳を纏っていた少年と、鯛焼きをこよなく愛する、幻想の少女が出会った時から・・・?


それは誰にも分からない。


しかし、少なくとも言える事があった。


そんな物語が・・・今、終わりに向けて収束しようとしている・・・・・

そして、その中心には一人の少年の姿があるということ・・・・・



・・・・・その少年は、夢を見ていた。



あれは、いつ頃だっただろうか?

通っていた空手の道場から破門された日・・・

ああ、あれも冬の日だったっけか。

そう、病院で綺麗な人や暗い奴に出会ったり、お姉ちゃんと久しぶりに楽しく話せた日の次の日。

師範に、空手で悪い奴を叩きのめしていたことがばれて・・・怒られた日。

「・・・紫雲。格闘家の拳というのは、軽々しく扱うものではない。
確かにお前の成した事はいいことかもしれんが、本当にそうする必要性があったのか?」

・・・必要性?
なんなんですか、それは?
悪い奴を懲らしめるのに、手段なんか関係ないでしょう?

「・・・お前は考えたことがないのか?
自身の拳で一体どれほどのことができて、どれほどの人を傷つけてしまうのかを」

・・・傷つける?
俺は悪い奴以外に人に拳を向けたことはありませんよ。

「・・・今はその考えでいいのかもしれん。だがいつかお前が大きくなったとき・・・人を一面では見れなくなったとき、人がお前をどう見るかを考えるようになったとき、傷つくのはおまえ自身なのだ・・・」

・・・何を、言ってるんですか?

「・・・いずれにせよ、今日限りでお前に教えることはもうしない。
もう二度とここに来るな」

・・・・・・・・・分かりましたよ。
・・・その代わり、好きにさせてもらいますからね。



・・・あの時の俺は、自分の考えに何の疑問も涌かなかった。


そして、その師範の言葉の意味を知ったのは、大事な人たちが去ってしまってからだった。

どうして、人は大事なものを失わないと真実に気付くことができないのだろうか?



・・・・・・・・だいじなもの。

ここ数日、確かにあったはずのもの。

すぐ、近くにあった・・・それとも、いた・・・?

わからない。
分かっているはずなのに、分からない。
何故?何故?何故だ?

少なくとも言えるのは・・・また、僕はそれを失ってしまったということだ・・・



・・・・・どうしてだろう。
もう真実には気付いていたはずなのに。
だいじなものを、だいじなものだと知っていたはずなのに。

何故、手放してしまったのだろう・・・


『・・・分かっていても、そうするしかないことや、そうなってしまうこともあるよ』

僕ははっとした。
そして周りを見回した。

そこはいつか見た風景。
雪が降り続ける、そんな世界。

・・・僕の中の世界。

そんな僕の前に立つのは・・・

「”まい”さんか・・・もうとっくに舞さんのところに帰ったのかと思っていたんだけど・・・」
『うん、わたしもそうだとおもっていたんだけど、少しだけのこってたみたい』

ウサギの耳の付いたカチューシャを纏う、小さな少女。
それは、自分の力を拒絶していた少女の分身・・・その名残だった。

『ねえ、紫雲』
「・・・なにかな」
『人はね。だいじなものをずっと握っていられないんだよ』
「・・・そうかな。しっかりしていれば。油断さえしていなければ。慢心さえなければ。想いさえ忘れなければ、きっと・・・」
『ううん。その人がそうしようとしても、それを認めない世界もある。
世界の力は強いよ。
舞も紫雲もとても強いのに、世界には抗えなかった・・・違う?』
「・・・・・それは・・・・・」

僕はそれを否定できなかった。
世界は確かにそんなものだ。

舞さんの純粋な想いが生んだ力を世界はあざ笑った。
そして舞さんは10年間嘘をつく羽目になった。

僕が俺だったとき、絶対正義は正しい形で確かにそこにあった。
でも、歪んだ世界に相対しているうちにそれはいつしか変貌していった。

『この世界でずっと変わらずにいることは・・・無理なんだと思う。
どんなに強く握り締めても・・・その手を離さなきゃならない時が来る・・・』

そんな悲しい言葉が、この白い世界にただ響いていった・・・



紫雲が自意識の中で”まい”と話していたそんな時。
赤く染まる商店街を歩く二人がいた。

「・・・問題は、どうやってあゆさんの記憶を呼び起こすか、ですね」

美汐はまるで独り言のように、そう言った。
それに対し、栞はうーんと唸った。

「美汐さんの不思議な力でどうにかならないんですか?」
「・・・・・私の力というのは外に働きかけるものではありませんから。
・・・・・やはり紫雲さん自身に訴えかけるようなものでないと・・・」
「・・・・・難しいですね・・・・・」
「一筋縄ではいかないでしょう。それが人生というものです」

そんな美汐の言葉に栞がぷっと吹きだした。

「・・・何かおかしいことを言いましたか?」

首を傾げる美汐。

「いえ、なんだか少し老けた言葉だなって思っちゃいました」

それが、美汐の容姿とのミスマッチで思わず笑いが出てしまったのである。
・・・美汐は憮然とした表情を浮かべた。

「・・・せめて大人びた発言だといってください」
「そうですよね、ごめんなさい」

暫しの沈黙。
その後に美汐はこんなことを言った。

「・・・不思議ですね」
「なにが、ですか?」
「昨日までは知らない者同士だった私たちが、こんな風に親しげに話ができるということが、です」
「・・・そうですね。でも、だから生きてるって楽しいんですよ。
予想もしなかったことに苦しんだりすることもあるけど、その逆だっていくらだってありえるんですから」
「・・・そうですね。それが生きている、ということなのでしょうね」
「はい。・・・・・そうですね、とりあえず、それを実感しませんか?」
「・・・・・?」

その言葉が理解できないと、美汐が栞の方を向くと、栞がニコニコ笑って指しているものがあった。
・・・鯛焼きの屋台がそこにあった。

「おなかがすいていると、いい考えも浮かばないですから」
「・・・夕飯が入らなくなるんじゃありませんか?」
「今日ぐらいいいじゃないですか。さあさあ」

そう言って、栞が美汐を引っ張っていこうとしたその時だった。

「こらーっ!美汐をいじめちゃ駄目ーっ!」

そう叫んで一人の女の子が姿を現した。

「へ?」
「・・・真琴」

そう、そこにいたのは、沢渡真琴、その人だった。


・・・ややあって。



「あうーっ・・・ごめんなさい」

自分が勘違いをしていたことを美汐からさとされて、真琴はうなだれていた。
その手にはコンビニで買ったばかりだと思われる肉まんが湯気を立ててそこにあった。
・・・三人は鯛焼き屋のすぐ近くにあるベンチに腰掛けていた。

「いえ、いいんですよ」
「・・・・・真琴は想像力豊かなのね」
「・・・えとね、漫画にそんな場面があったから。『おうおういいじゃねーか姉ちゃんよぅ』って」
「・・・私は一昔前の不良ですか・・・」

額に一筋汗をたらして栞は言った。
その手には、今さっき買った鯛焼き(カスタードクリーム)が握られていた。
「と、すると、私は主人公に助けられるヒロイン・・・」

ちゃっかりそう言う美汐の手には、鯛焼き(つぶあん)があった。

「それじゃ真琴はヒーロー?・・・ヒロインがいいなあ」
「・・・大丈夫よ。真琴は可愛いからいつだってヒロインになれ・・・」

美汐はそこまで言いかけると、唐突にポンと手を打った。

「・・・天野さん?」
「美汐?」
「・・・それです。漫画風にいってみましょう」
『・・・?』

そんな美汐の言葉に、出会ったばかりの二人は顔を見合わせて、首を傾げた。


その頃、学校では。

「ったく・・・栞ってば、もう帰っちゃうなんて・・・」

香里が端正な顔に不満げな感情を浮かび上がらせていた。
その横には苦笑する北川がいた。

赤と黒が混じり合った校舎の中をを二人は歩いていた。

「まあ、栞ちゃん自身の時間だから・・・」

と言いかけて、北川は口をつぐんだ。

(失言だったか・・・?)

そう思ったからだったが、香里は特に気にした様子はなかった。

北川は、ふーと息を吐いた。

(・・・俺の気にしすぎか。
・・・俺っていらないことを考えすぎてんのかもな)

「・・・君?北川君?」
「へ?は?何?美坂」
「・・・聞いてなかったの?」

呆れ顔で言われて、北川はうなだれるように頭を下げた。

「すまん、ちょっとぼーっとしてた。で、なんだって?」
「・・・北川君の言うとおりよねって、言っただけなんだけどね」
「・・・・・美坂?」

香里は立ち止まると、窓の外の夕焼けを眺めた。
その表情はどこか自嘲的だった。

(ここでそんな顔すんなって言うのは只の同情か・・・?)

そこで北川は思い出した。

かつて、紫雲と話したことを。

”知らない”から、言える事があると言うことを。
自分の役目はそれなのだと言うことを。

(・・・・・よし)

「・・・あのな、美坂」
「ん?」
「まあ、そのなんだ・・・」
「まさか、そんな顔するなよとか言おうと思ってない?」

・・・・・静寂。

「・・・どうせ俺の行動は読みやすいさ・・・・」
「はいはい、そんなことでいじけないの。・・・気持ちは、ありがたく受け取っておくから」

そう言って、香里は微笑んだ。
その顔を見ることが出来ただけでも、北川は嬉しかった。
それに少しでも自分が貢献しているのなら・・・そう思うと尚更だ。
つい、顔が緩んでしまう自分を自覚してはいたが・・・

(こればっかりはしょうがねーよな)

嬉しいものは、どうあっても嬉しいのだから。

「しかし、さ」

だからと言うべきか、北川は照れ隠しに話題を変えるべく、口を開いた。

「俺の知り合いって、普通にモラトリアムできないのかね」
「・・・いきなり何言ってるんだか」
「だって、そうだろ。水瀬や美坂、月宮さんに・・・草薙。
皆、普通の悩みを抱えてねーから、普通に青春の悩みとかできないわけじゃん。
・・・・それって、なんだかねーって」

軽く言ってはみたが、それは北川がいつも気に病んでいることだった。

水瀬名雪は相沢祐一に七年越しの想いを馳せていると、なんとなく気付いていた。
美坂香里は妹の美坂栞の命について、いつも気にかけていた。
月宮あゆについては詳しくは知らなかったが、紫雲の行動を見ていれば、彼女もまた並々ならぬ何かを抱えていることは明白であった。
そして、草薙紫雲は自分のことでも悩んでいるのに、他の人が苦しむたびにその誰かを思い、走り回っている。

「そうかしら?
・・・そういうのも含めて、モラトリアムじゃない?」
「そうか・・・?」
「むしろ、あたしはそれに感謝しているわ。
そのおかげで、栞と本当の意味で分かり合うことができたと思うから。
これって、普通じゃ中々できないことじゃないかしら?」

・・・そういうものかもしれない、北川はそう思った。

人よりも重いものを背負った者は、それを背負う意味を知ったとき、それに耐えることができるようになったとき、人よりもきっと幸せになれるのだ。

そうでなければならない。
そう、強く願う。

「・・・そうかもな」
「でも、本当は普通が一番だけど」
「おいおい、結局どっちなんだ〜?」
「まあ、いいじゃない。さあ、帰りましょうか」

北川は、香里は願った。


今が、ずっと続くことを。



それは、今がずっと続かないことを、知っていたからこその願いだった・・・



「今がずっと続けばいいのにね、祐一」
「・・・なんだよ、唐突に」

水瀬家の、祐一の部屋。

そこに二人はいた。
ベットに二人並んで腰掛けていた。

「なんとなく、そう思っただけ」
「・・・・・そうか」

特に何を話すわけでもなかった。
でも、それでも十分に幸せを感じられた。

二人でいることこそ意味だった。
二人でいることこそ答えだった。

二人が別れて、再び出会うまでのこの七年間の。

・・・だからこそ。

「でも、俺はいやだな」
「え・・・?」
「今がずっと続くってことはおれたちずっとこのままってことだろ?
俺は、もっと前へ進みたい。
・・・・・名雪と一緒に、な」
「祐一・・・」

名雪は顔を赤らめながら、その顔を祐一の眼前まで寄せた。
祐一は、それに答えた。

そして、二人は・・・




「手を離すときは、確かに来るのかも知れない」

紫雲は、”まい”に言った。

認めたくはなかった。
それでも、認めなくてはならないのだろう。

それが、現実であり、自分たちの生きる世界だ。

その中を皆もがいてあがき、生きていく。

その中で流されたり、他の誰かから引っ張られたり、苦しみの中やけになったりして、手を離してしまうことはあるのだろう、確かに。

「でも、それなら、もう一度掴めばいい。
どんなに遠く離れても、走って走って走りまくって、懸命にその手をのばせばいい」
『・・・目に見えないほど、遠く離れても?』
「もちろんだよ」
『・・・・・その人のことを、忘れてしまっても?』

紫雲は、一瞬迷ったが、こう答えた。

「忘れたとしても、きっと思い出す。その人のことを思うのなら必ず思い出せる。
例え、人の力を借りても、自分がどんなに傷ついても、必ず思い出して見せる。
そして、忘れた時間を埋めるように、埋めるために走り出す」

水瀬名雪と相沢祐一がそうであったように。

そんな二人がいるから、自分もまだ間に合うと思える。



・・・だから。



・・・気がつくと、二人の女性の間でぶら下がっていた。
かなり情けない。

僕は、足を一歩踏み出して、二人の歩みを止めた。

「・・・すみません、お手数をおかけしました」

二人の肩から手を放し、うーんと身体を伸ばした。

二人は心配げな眼差しでこちらを見ていた。
僕は、それを取り除くように笑った。

「大丈夫ですよ。ほらこんなに元気」
「よかった・・・心配しちゃいましたよ〜」

佐祐理さんがそれに答えて微笑んだ。

「・・・無理をしないほうがいい。まだ多少痛むはず・・・」

舞さんがいつもの無表情で言った。
でも、本当に心配してくれていることは、それこそ心が痛むほどに分かる。

「僕は、回復が早いですから。・・・この借りはいずれ返します。それでは、僕はこれで」

僕は二人に背を向けて歩き出した。
体の節々が痛む。
それを気取られないためにも、早々にここを立ち去りたかった。

そんな僕に、舞さんが呼びかけた。

「・・・・・はなしてしまったモノは、取り戻せそう?」

歩みを止めて、僕は振り返った。

・・・数日前、彼女は言っていた。

『天使さんをしっかりとつかまえていて』

その記憶の前後はあやふやだったが確かに聞いたその言葉。
天使と形容する存在。
それがツキミヤアユなのだろう。

僕はそれに確かに応えた。
それなのに、僕はその手を放してしまった。



それでも、舞さんは怒ることなく、まだ頑張れるよねと手を差し出してくれた。




だから、僕は。

「取り戻します、必ず」

確かな決意を、ここに誓った・・・



・・・続く。


第44話 残光、そして。へ

戻ります