Kanon another1”snowdrop”第41話



第41話 あの”忘れえぬ日々”

 
「・・・今更、何の用だ?」

彼にとっては珍しい・・・苦々しげな顔で、紫雲は言った。

彼にとっての悪夢がそこにあった。
彼にとって出会いたくない過去がそこにあった。

しかし、彼は忘れていた。

彼は、すでにそれを乗り越える覚悟を済ませていたことを。
それを助けた、一人の少女との思い出を。

二人は・・・正確に言えば、二人と一人は静かに向かい合っていた。

「・・・真紀もいたのか・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・」

剣の横には、悲しそうな表情で佇む・・・初恋の少女。

「・・・で?質問にはまだ答えてもらっていないが?」
「何の用だもないだろ?・・・決着をつけに来たのさ・・・・やられっぱなしじゃ、カッコつかないし・・・な」

・・・そこで紫雲は首を傾げた。

「・・・仇討ち、じゃないのか?あの、後輩君の」
「・・・・・・・・・・・」

それに、答えるものはいない。

「・・・まあ、いいや。場所を変えるぞ・・・」

ここ・・・商店街じゃあまりにも、目立つし、人の迷惑になる・・・そう思って口にしたそのことばが終わるか終わらないか否かの刹那。

「・・・・・っ!?」

剣がパッとターンしたかと思った瞬間、恐ろしい速さの回し蹴りが紫雲に襲い掛かる。
ローの軌道のそれは、紫雲の予想をはるかに上回る速さと威力を兼ね備えていた。

バッ!と飛び下がる、紫雲。

「甘え!!」

剣は放った足が地面に下りた瞬間、それを軸に再び回し蹴りを繰り出した。
一撃目は、距離を埋めるため、紫雲の隙を誘うためのものだったのだ。

「ちっ!!」

紫雲は剣との距離を半歩進むことで自ら埋め、その蹴りの威力を殺した上で防御した。
・・・蹴りというのは一つの円運動である。
一番力がかかるのは、回転の一番延長上・・・通常の蹴りで言うなら足首から下の部分だ。
懐に入ってしまえば、その威力は多少なりとも減退する。


防いだ・・・と紫雲は思っていたのだが・・・

「・・・・・!?」

その蹴りは、いともたやすく紫雲を弾き飛ばし、近くのラーメン屋の壁に彼を叩き付けた。

「・・・・・随分と、まあ・・・強くなったものだな」

感嘆とも驚きともつかぬ声で紫雲は言った。
それに、剣は答えた。

「・・・違うな、お前が弱くなったんだよ」



その頃、学校では・・・。

「・・・落ち着きましたか?」
「・・・うん」

もう、誰もいなくなった教室で、美汐は栞が落ち着きを取り戻すのをじっと待っていた。
優しくあやすようなその姿は、母親のそれだった。

「天野さんって不思議・・・なんだか、落ち着いちゃいます」
「・・・そうですか?」
「はい。・・・・・・・・・・」

そう言ってしまうと、いきなり黙り込んだ栞。
何を話したいのか、美汐には分かっていた。

「草薙さんのことですね?」
「・・・はい・・・どうして、忘れちゃったのかなって・・・二人とも・・・あんなに楽しそうで、幸せそうで・・・だから、あんなに眩しくて・・・最後までああしてくれているんだと、思っていたのに・・・・」

栞にとって、二人は。
生きるということそのものだった。
憧れだった。
笑って、泣いて、傷ついて、傷つけあって、それでも、好きで・・・

「・・・私、もうすぐ、いなくなるんです」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「でも、あの二人を見ていると、すごく力が涌いてきて、奇跡だってひょっとしたら起こせるかもって、思えるように、なったのに・・・」
「・・・・・あゆさんの存在そのものが、奇跡だったから、ですか?」
「・・・・・天野さんも知っていたんですね・・・」

その問いに、美汐は首を縦に振った。

「でも、違います。あゆさんのカタチがなんであったとしても、あの二人が一緒にいた事実そのものが、私に力をくれていたんです・・・」

・・・あと僅かしかない時間。
・・・祐一に会いに来たあゆ。
・・・過去の重みを背負いながらも、今を生きること。
・・・自分の好きな人が別の人を見つめていても、構わないと言っているかのように、ただその人のために頑張る紫雲。
・・・二人は、惹かれあいながらも惹かれ合わない。
それでも、二人は一緒にいた。
理屈ではなく、それがすごいと思えた。

「・・・だから、納得がいかないんです・・・・こんな終わりじゃ・・・!」
「・・・私も、そう思います。なら・・・行きましょうか」
「・・・何処にですか?」

「・・・・・・・・・・・草薙さんとあゆさんの思い出を、消してしまった人のところに、です」



再び、商店街。

地面にしゃがみ込む、紫雲の姿があった。

「・・・・・っ・・・・・・」

剣は、確かに強くなっていた。
以前よりも遥かに。
しかし、決して、勝てないほどではない。
それなのに、何故・・・?

「・・・わかんねえって面してるな・・・さっきも言ったろ。お前は弱くなったんだ」

ばきっ!

「昔のお前は、狂った正義を持って全てをたたき伏せてきた・・・まさにヒーローそのものだったよ」

グシャッ!

「だが、今のお前はどうだ?」

ガギッ!!

「わけは知らないが、心、ここにあらずって感じだ」

ガッ!!

「だが、俺は違う、迷いはない。すべてはここにある」

壁に叩きつけられる紫雲。
その肩口に剣の右足が乗りかかる。
・・・立とうとしても、その足を払いのけることができない。

「おら。言えよ。今なら待ってやるぞ。”絶対正義”を語れよ・・・これじゃ、つまんねえよ」

・・・実を言えば、紫雲が勝てない理由は精神的なものだけではなかった。
紫雲は、法術・・・自身が持っていることに気付いていないその力を、物理変換・・・要するに純粋な力に変化させて、今まで戦ってきた。
・・・それは別に卑怯でもなんでもない。
生まれつきに怪力だったり、秀才だったりすることとなんら代わらない、紫雲の才能だったから。
・・・しかし、その力は、あゆに注がれ、一時的に減退していたのだ。
紫雲は、強い。
仮に法術の力がなくとも、並みの高校生が1だとすれば、10の力を持っている。
しかし、剣はかつての紫雲・・・数値化するなら100以上の力を持つ紫雲に対抗できるように仕上げてきていた。
ましてや、紫雲の精神状態は、何かを思い出せないこと、栞を悲しませたこと・・・と重なって最悪な状態だった。

これでは、勝てるはずがなかった。

勝てる望みがあるとすれば、唯一つ。

全てを忘れ、過去の狂気・・・絶対正義に立ち返ること。

・・・だが。

「・・・・・断る。僕は、もう、あの時の”俺”じゃない」

それを、紫雲は知っていた。
そうなれたことを、誇りに思えた。

戦うことが間違いなんじゃない。
何かを守るために、時に力は必要だろう。
だが。

「今の僕に、お前と戦う理由はない。やりたければやればいい」

「んだと・・・!!」

剣は乗せた足にさらに力を込めた。

剣は、信じられなかった。
紫雲の目は、かつてよりも遥かに穏やかだった。
その姿はもはやボロボロだった。
それなのに、その”強さ”は・・・以前よりも・・・・

(認めて、たまるか・・・)

まるで、自分だけが見当違いのものを追い求めてしまったようで・・・

まるで、一人置いていかれたような気がして・・・

「認めるかよっ!!」

拳を振り上げた・・・その時。

「・・・・・・そこまで」

誰かの傘が、剣の喉下に突きつけられた。

「なんだっ!?お前は?!」
「・・・舞さん?・・・それに佐祐理さんも・・・」

そこには傘を突きつける舞と、その側に佇む佐祐理がいた。
佐祐理は舞が剣を牽制している間に紫雲に駆け寄り、傷の具合を診た。

「大丈夫ですか・・・?」
「全然平気ですよ・・・」

紫雲は笑った。・・やせ我慢であることは誰が見ても明らかだったが。

「何だ、お前・・・?事情を知らないくせにしゃしゃり出てくるんじゃねえ」
「・・・事情なら、知っている」

かつて紫雲とシンクロしたとき、紫雲の過去を舞は知った。
・・・それでも、舞は紫雲が好きだった。・・・友人として。
本当の紫雲は優しいから。
過去をいつまでたっても忘れないほどに。
いつまでも苦しみ続けるほどに。
自分と同じように不器用な姿。
それでも、だれかのために笑顔を浮かべる、誰かのために傷つく・・・そんな紫雲が好きだった。

かつての彼らがいかなる目に会っていたとしても・・・今の紫雲には、触れさせはしない。

「ここまでやれば、気は済んだはず・・・罪は消えたはず・・・もう、これ以上は紫雲に手出しさせない」
「・・・・・・・」

何故だ?
何故、彼女らは奴をかばう?

紫雲の本質を見失っていた剣には分からなかった。

そんな剣の服の裾をぎゅっと握る人物がいた・・・真紀だった。

「・・・真紀?」

真紀は悲しそうに目を伏せ、首を横に振った。

そんな姿にほだされたのか・・・

「・・・ちっ・・・やめだ。興が殺がれた。また、今度にする。
・・・・・じゃあな、情けないやつめ」

それだけ言うと、足をどけ、紫雲に背を向け、歩き出した。
真紀はちらりと紫雲をみて・・・何かを言おうとした。
しかし、結局言えないままに、剣の後を追っていった。

「・・・・・ふう」
「・・・大丈夫か?」
「ええ・・・すみません・・・・・・あとよろしくお願いします」
それを告げると、紫雲は・・・昏倒した。
「紫雲さんっ・・・!」
「・・・少し、気を失っただけ・・・・それより佐祐理」
「はえ?」
「紫雲を私の家に連れて行くから手伝って」
「・・・紫雲さんの家までじゃないの?」
「・・・・・・遠い・・・・・」
「あははー・・・そうだよねえ」

そんなやり取りのあと、三人の姿も、その場から遠ざかっていった。


「・・・貴女なんでしょう。草薙・・・いえ、紫雲さんの記憶からあゆさんを消したのは」

そこは、栞にとっては見慣れた風景・・・自分の入院していた病院の廊下だった。
そして、二人の目の前に立つのは、草薙紫雲の姉、草薙命。

「・・・・・よく、わかったものだ」

命は微かに瞑目したあとそれを肯定した。

「・・・貴女にも、紫雲さんにも、力の軌跡が見えます。そして、今日の紫雲さんには、貴女の匂いのようなものがこびりついていた。・・・昨日まで紫雲さんと共にあったあゆさんの”匂い”を消すように。・・・これだけ分かれば、答えの分かっているテストのようなものです」
「・・・君も特異能力者か・・・そう言う君には、あの丘の波動が感じられるが・・・まあ、いいさ。
・・・で?わざわざここに来たのは、そんなことを言うためだけでもなかろう」

美汐は頷くと、すっと微かに後ろに下がった。
そして、栞がその代わりに前に出る。

「紫雲さんの、想い出を返してあげてください。お願いします」

そう言うと深々と頭を下げた。
命はそれを見て、聞いて顔をしかめた。

「想い出・・・?あれは想い出じゃない。ただの夢、ただの幻想だ。悲しい、な」
「悲しい・・・だから貴女は紫雲さんの記憶を消したのですか?」

美汐が静かにそれを問う。
その視線に真っ向からぶつかって、命は答えた。

「そうだ。おかしいか?辛い記憶など持っているだけ無駄だ。
ましてや愚弟は人一倍それを引きずるタイプ・・・
あいつがこれ以上重荷を持っていくのを、私は見たくないのだ。
・・・あれは、私の唯一の家族だからな」

・・・その気持ちは美汐にも栞にもよく分かった。

辛い記憶を押し殺そうとしていた自分。
悲しい現実を隠してしまおうとしていた姉。

その二つにある気持ちは同じ。

悲しみたくない。
傷つきたくない。
傷つけたくない。

しかし・・・

今の二人には分かっていた。

紫雲が導いた、出会い、そして和解で。


「・・・それは間違っています」
「私も、そう思います」

美汐、栞が言葉を紡いだ。

「・・・なんだと?」
「・・・確かに、あゆさんと紫雲さんの出会いはある意味で悲劇だったのでしょう。
いつかは消える少女、そしてそれを愛してしまった男の人」
「でも・・・想い出は想い出じゃありませんか・・・!」
「・・・・・」
「人は生きています。悲しみをたくさん背負って。でも・・・それに勝るとも劣らない想いがそこには紡がれているはずです」

そう語るのは、かつて一番大切な存在を失ってしまった少女。

「それを、悲しいから、辛いからって楽しかったことや、嬉しかったこと、確かにそこに感じていたことを一緒にして消してしまうなんて・・・あんまりすぎます・・・!
それじゃ、生きてきた時間が、無意味なものになってしまいます!!」

そう叫ぶのは、残り僅かな命を燃やす少女。

「・・・かもしれん。だがな別れは別れだ。あの二人はいつか必ず別れる。・・・私はそれを少し早めたに過ぎない」
「ですが、それを決めるのはあの二人であって、貴女ではないはずです。
・・・例えそこにどんな残酷な結果が提示されようとも、それを選ぶのはあの二人です」
「私は・・・知っていました。あゆさんがここに入院していること、もうあまり時間がないこと。
だから、別れは必然だって事も知っていました。
だけど・・・これは違います。
本当の別れじゃありません・・・!
だから!
もう一度、もう一度だけでもいいんです・・・あの二人に本当のお別れをさせてあげてください・・!」

本当の、お別れ。
それは卒業と同じモノ。
名残惜しみながらも・・・
悲しみながらも・・・
皆、それを受け入れる時間が、別れを惜しむ時間が与えられる・・・

あの二人には、それがなかった。

「・・・・・どのみち、無理だ」

命は抑揚のない声でそう言った。
背を向けてしまった、その表情は見えない。

「愚弟の記憶は完全にロックされた。もはや私でも解くことはできない。・・・可能性があるとすれば、愚弟自身が思い出すことだ」

それはナンセンスなことだった。

しかし、希望はあった。

「・・・分かりました。それなら・・・」
「私たちが紫雲さんの記憶を呼び起こして見せましょう」
「・・・やれるのなら、やってみろ。・・・私は、止めない」

本当は、止めたかった。
しかし、二人の言っていることは真実だった。
だから、止めない。

「しかし・・・紫雲がそれを思い出したところで、あゆはもう・・・いない」
「・・・・・そ、それは・・・・」

予想していたとは言え、その事実は重かった。
栞がその重さに二の句が告げないでいると、美汐が小さな、しかし、よく通る声でこう言った。

「・・・はたして、そうでしょうか?」
「・・・?」
「・・・確かに、あゆさんは不安定でしょう。ですが、体から剥離したとはいえ一人の人間の意志が、そう都合よく消えたりするものでしょうか?
・・・力や、命というものは、外部から力が与えられない限り、ただそこに存在し続けるものでしょう。・・・命や、力そのものが燃え尽きるまでは」


・・・その問いに答えるものは、いなかった。


そこは、思い出の場所。
昔、少年と交わしたつもりの約束を交わした場所。
そこには、ひとりの少女が、ただうずくまっていた。

ただ、何かの恐怖に怯えたままで。


・・・続く。


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