Kanon another1”snowdrop”第39話



第39話 全ては黄昏のなかへ(後編)


その日は、朝から雪が降っていた。

粉雪が静かに今ある雪の上にさらに降り積もっていく。

それはさながら、何かを覆い隠すように。

それはさながら、何かを飾り付けるように。

春の桜のように舞い降りていく。

それを、誰よりも悲しい瞳で見ていたのは、誰だったのだろう・・・?




・・・誰かに揺り動かされる感覚。
俺・・・いや僕は半分夢の中の頭で考えた。
・・・姉貴か・・・?いや、あの女じゃこんな起こし方は出来ない。(断言)

とすると・・・あー・・・あゆ?

「・・・雲君・・・君・・・・・・・」

僕の思いを肯定するようにその声が響く。
ああ・・・そんな声で言われるとなんか逆に眠くなってくるような・・・

「・・・・・・後5分待って・・・」
「うぐぅ・・・そんなことを言ってる場合じゃないんだよっ・・・」
「・・・・・・・・・・・・なんで・・・?」
「命さんから聞いたんだけど・・・今の時間だと遅刻8割方確定だって」

・・・・・・・・・・・・・・・

ガバァッ!!

「うぐっ!!」

起きた拍子にあゆを弾き飛ばしてしまう・・・が、今そんなことを言ってられなかった。

「あ、ごめん・・・」

・・・でも一応謝ってしまうあたりが悲しい。

「うぐぅ・・・ひどいよ・・・まあ、謝ってくれたからいいけど・・・」
「・・・それはそうと時間は?」

・・・あゆが告げた時間に、僕は血の気が引いた。

「・・・・まずい・・・・かなりまずい・・・・って、あゆもまだ着替えてないじゃないか!」
「あっ・・・つい」
「はううううっ!?」

あまりの状況の悪さに僕は頭を抱えるしかなかった。


それから数分後、僕は手っ取り早く着替え終えて、玄関であゆを待っていた。
朝からの雪も止んで、空には透けるような青空が広がっていた。

「うぐぅ・・・!これってこうでいいの?」
「おいおい・・・あゆ君、前後が逆だぞ。あとリボンもおかしい」

家の中から聞こえてくる声に、僕ははううとため息らしきモノを吐いた。
・・・本来なら、それは微笑ましく思えていただろう。
しかし、今は余裕が無い。
出てきたら速攻で走ることにしよう・・・

「お待たせ、紫雲君っ!!」
「よし、い、く・・・」

あゆの声に振り向いて、思っていたことを伝えようとした僕だったが・・・それはできなかった。

そこにいたあゆが、いつものあゆと少し違っていたからだ。

僕たちの学校の制服に身を包み、恥ずかしげに、ハハ、と笑うあゆ。
それだけではなく・・・ちょっと見ただけでは分からないが・・・微かにメイクらしきモノが施されていた。
・・・いわゆるナチュラルメイクというやつだろうか・・・?
そして、その頭には僕が贈った紫色のカチューシャがあった。
・・・・・時間が無いのは分かっていた。
分かっていたのに・・・僕はあゆに見惚れてしまっていた。

「ふっ・・・さしもの愚弟も、私がメイクを施したあゆ君の姿の前にはメロメロか・・・まあ、それ以前に骨抜きなのだろうが・・・」

姉貴が何か言っているが、そんなのは耳には入らない。

「・・・紫雲君・・・似合うかな・・・変じゃないかな?」

あゆの言葉に僕は全開出力で首を横に振った。

「・・・ありがとう」

そんな僕を見て微笑むあゆが、なんだか大人びて見えて、
いつものあゆではないような気がした・・・

「・・・それはそうと、流石にそろそろ行かんと遅刻するぞ」

姉貴の言葉で僕は正気に戻った。
慌てて腕時計を見る。
・・・かなり絶望的な時刻になっていた。

「あ、あゆ、そのあの、いくよっ!!」
「うんっ!!・・・命さん、またね」

またね。
その言葉に僕は何の疑問も持たなかった。
今日が終われば、またこの家に帰っていく・・・それが当たり前のことだと思っていたから。
その言葉に別の意味があるなんて、思うはずも無かった。



「・・・ありがとう・・・なんて、言えないが・・・その気持ちは忘れない。ここに誓うよ、あゆ君」

その命の言葉を聞くものは誰もいなかった。



「うぐぅぅぅぅぅぅっ!」
「うおおおおおおおっ!」

さっきまでの雰囲気など置き去りにして、僕とあゆは全力で走っていた。
・・・まあ、全力といっても、僕はあゆに合わせて多少速度を抑えているのだが。

風景がただ流れていく。
その風景に入ってくるものがあった。
この、全てがただの線になる世界で同じように視認できるのは、同じ速度で走っている者のみ・・・

「おはよう〜あゆちゃん、草薙君」
「だ、だから・・・なんでこの状態で平然と話し掛けられられ・・・・」

そこの曲がり角から、名雪さんと相沢君が現れ、この瀬戸際に参戦した。

・・・そこには一昨日の辛そうな名雪さんはいなかった。
僕が何気無く名雪さんを見ると、彼女は笑って、小さくVサインを作った。

(そっか・・・・・上手くいったんだな)

「あゆちゃん、今日はよろしくね」

その笑顔のままで、名雪さんはあゆに言った。

「うん、こちらこそよろしく、名雪さん」

あゆもまた、それに笑顔で答えた。

・・・ちなみに。
僕は昨日のうちに、クラスの皆に色々かいつまみはしているが、ある程度の事情を説明していた。
あゆを好奇の目に晒さないために、それは必要なことだった。

・・・さらに言えば、その為に僕はして欲しくはない事を旧友達に頼んだ。

『今』の話題をふらないで欲しい。
悪意を持ってからかったりしないで欲しい。
など、細々とした頼みを。

・・・そんな急な頼みを、皆はそれを快く、承諾してくれた。

それについて、北川君はこんな事を言っていた。

「・・・クソ真面目なお前にあんな真剣な顔で言われたらなあ」

・・・そんなものだろうか・・・?
そう呟いた僕に「そんなものよ」と香里さんは笑っていた・・・

「それにしても、あゆちゃんって足が速いねー」

名雪さんが呑気な口調で言った。
ちなみに、この間も僕らはほぼ全力疾走を維持している。

「そ、そうかな・・・?名雪さんにそう言われると照れちゃうなあ」

・・・そういえば最初に出逢ったとき、食い逃げをしていたあゆの逃げ足はかなり速かった。

(あれから、結構経ったような気もするけど・・・まだ、二週間くらいなんだよな・・・)

それが何とも言えず、不思議だった。
・・・本当に色々あったから、もう一年くらい、経っていたような気さえしていた・・・

「・・・草薙君も足が速いね〜」

そんな考えに埋没していた僕を、名雪さんの声が引き上げた。

「ん?ああ、そうかな」
「そうだよ〜陸上部に入らない?」
「そうしなよ。もったいないよ紫雲君」

女性陣二人にそう言われると、悪い気はしない。
・・・それが美人なら尚更だ。

ただ、次のあゆの言葉が気になって、僕はそれ以上いい気分ではいられなかった。

「何かに打ち込めば、辛いこと、忘れること出来るよ」

「・・・・・・・・・・・・そうだね」

名雪さんがそれに同意する。
僕は、それに何も言えなかった。

・・・僕らはそのまま、学校へと突っ込んでいった。

そして、僕は・・・奇跡的に遅刻せずにすんだ喜びで、その時の事を置き去りにしてしまった。

(後で考えればいいさ)

それは、そう思ったからでもあった。
・・・そして、それゆえに、それが間違いだったと気付くことも無かった。


「おはよう」
「おはよーさん」

教室に入り、席につくと、北川君と香里さんがやってきた。
他のクラスメートたちは興味津々と言わんばかりに遠くからそれを眺めていた。
ちなみに、あゆは僕の隣に座っている(普段のお隣さんから後ろの人は一席ずつ移動してもらった)。

「おはよう」
「おはよう、北川君、美坂さん」
「香里でいいわよ、月宮さん」
「じゃあ、ボクもあゆでいいよ」
「・・・じゃあ、名雪と同じようにあゆちゃんと呼ばせてもらうわね。・・・ところで・・・名雪」
「なに?香里」
「相沢君がやばいことになってるみたいだけど?」

香里さんの言葉で、僕らが相沢君を見てみると、彼は口から泡を吐いて顔面蒼白だった。
・・・というか今の今まで誰も気付かなかったのか・・・

「わわ、祐一、死んだら駄目だよ〜」

ゆさゆさゆさ・・・

「振ったらまずいんじゃないかしら・・?」
「ここはぺんぺんと頬をたたくのがベターだと思うぜ、水瀬さん」
「うにゅ〜こうかな」

ペシペシ・・・

「名雪さん、弱いんじゃないかな。もうちょっと強くした方がいいとボクは思うよ」
「僕も同意見」
「こう?」

ベシッベシッ

「まだまだね」

バシッバシッ

「もっとだ」

パンッパンッ!

「さらに・・・」
「いいかげんにしろお前らああああああああっ!!」
「ほら、起きたじゃない」
「よし万事解決だな」

香里さん、北川君は平然とそう言った。
まったく動じてないのは流石としか言いようが無い。

「はっはっは何を怒ってるんだ相沢」
「そうね、何で怒っているのかしら。・・・あら石橋が来たみたいね。この話はまた後でね」
「こら待て逃げんなああああっ!!」
「だ、駄目だよ祐一〜」

そんな感じで、皆は自分の席に戻っていった。
それを見てあゆは微笑んだ。
・・・それは今朝の微笑みと同じ・・・なんというかあゆらしくないような・・・そんな微笑みだった。

「・・・あゆ、どうかしたの?」
「え?あ、うん。やっぱり、学校っていいなあって」
「・・・そうか?」
「うんっ」

・・・今度はいつものあゆの笑顔だった。
・・・変に気にしすぎるのだろうか・・・?



四時間目の授業。
この時間が終われば、昼休みだ。
そんな意識からか、みんなこの時間帯は特に授業が上の空になることが多い。
最悪(ある意味最良)の場合、眠ってしまうことも稀ではない。
かく言う僕もこの時間はあくびをかみ殺すことの方が多い。
・・・なのだが、今日に限ってはそういうわけにはいかなかった。
その理由は・・・

「くーっ・・・・ZZZZZ」

隣でグースカ眠るあゆにあった。
・・・おそらく、今日が楽しみで昨日眠れなかった反動が今来ているのだろう。
さっきの授業までは真面目に話を聞いていた(分かっていないのは丸分かりだったが)のが、緊張が緩んでそうなったというのもあると思う。
・・・まあ、理由はこの際おいておくとして。
隣にいる僕としては、おちおち眠れもしないという現実が辛い。
誰かに言えば、なら起こせばいいと言われるかもしれないが、こんな幸せそうな寝顔を見せられては手も足も出ない。

「ん・・・・たいやき〜」

寝返りを打ちながら口にした寝言に、教室の至る所からから忍び笑いが洩れ、僕はなんとなくの気恥ずかしさから顔を赤らめてしまった。
そんな空気が気に入らなかったのか、額に青筋を浮かべた物理の先生は手にしたチョークをあゆに投げつけた。
そこそこの距離があるのに、その狙いは外れそうに無かった。
そう思うか思わないかのハザマで、僕は使い古しの消しゴムを指でピンッ!と弾いた。
狙いをつけた消しゴムは、その狙い通りに、物理教師のチョークを弾き飛ばした。

「・・・?」

それを不思議に思う物理教師だったが、”投げた”という事実で気がすんだのか、首を傾げながらも授業に戻っていった。

(すみません。でも、今日だけは見逃してやってください・・・)

僕はそう心の中だけ頭を下げた。



そして、昼休み。

「草薙、見てたぜ〜すごいなお前」
「へ?なんのこと?」

あゆを起こして、昼食を”いつもの場所”で食べようと席を立とうした僕にいつものメンツがが話し掛けてきた。

「月宮さんを狙うチョーク・・・それを狙って叩き落とすなんて、中々できるこっちゃないぜ〜」
「え・・・・・?」

あゆが驚きの声を上げる。

「そう、だったんだ・・・ありがとうっ」
「いや、その、べつに・・・たいしたことじゃないし・・・」
「・・・あれは人間業じゃないわ」
「そうだよね〜すごいよね、祐一?」
「フン。あの程度俺にだってできるさ」
「ホントか〜?」
「名雪の前だからって見栄を張らなくてもいいのよ、相沢君」
「そうだよ、祐一君」
「ばっだ、誰がんなことをするか!!」


・・・そんな他愛無いおしゃべり。
でも、それは多分あゆがもとめてやまなかった事。
それを皆分かっているのかもしれない。
僕の言葉や、あゆの態度で、そう察しているのかもしれない。
だから、いつもよりも、はしゃいでいるのかもしれない・・・皆も、僕も。


それも一段落ついて・・・

「で、月宮さんと草薙は昼飯どうするんだ?」
「ん、最近、僕が食べる場所にでも行こうと思ってる」
「うんっ、取って置きの場所なんだってっ」

溢れんばかりの喜びや期待をその体からにじませてあゆは言った。

「私もそこで食べるよ〜今日お弁当だし」

名雪さんが、はーい、と横断歩道を渡る子供のように挙手して言った。

「そうね、たまにはそれもいいかもね。ちょうどあたしも弁当だし・・・栞も連れていっていいかしら」
「美坂が行くなら俺も行くぞ」
「なんだ、そりゃ・・・まあ、俺も付き合うよ」

そこで、僕はふと不安にかられた。

(こんな大所帯で行っていいものか・・・まあ”あの人”たちは怒るようなことは無いだろうけど・・・)

・・・結局。
僕は、またしても今日だけは、と無理に納得することにした。



僕たちは”いつもの場所”に行く前に、栞ちゃんと合流し、学食に寄った。
いつもの僕は基本的に買い置きのパンを食べているが、今日に限って家にストックが無かったのだ。
・・・あゆの分もそこで確保して、僕らは『その場所』へと向かった。

その途中、学食の近くの、『あの場所』へと続く階段で・・・

「美汐ちゃん・・・こんにちは」

僕は、彼女に会った。

・・・天野美汐ちゃん。
不思議な空気を身にまとう、悲しげな目をした・・・でも優しい女の子。
彼女は手の中にパンをいくつかと、水筒を抱えて、階段を上がっていく途中だった。
おそらく自分の教室へと帰るところだったのだろう。

「・・・草薙さん。こんにちは」

彼女は丁寧な・・・そう思わせる動作でぺこりと頭を下げた。

「あの・・・その・・・ご飯これからなら、一緒に食べないかな?」

・・・礼儀といったら、それまでなのかもしれない。
それでも僕は、気付いたら美汐ちゃんを昼食に誘っていた。

「・・・・・・・」

彼女は暫し黙したままだったが、あゆと栞ちゃんの方を見ると一瞬顔を曇らせ・・・そして、頷いた。



「それでこんなたくさんになっちゃったんですかー」

そういうと、佐祐理さんはあははーっと笑った。
屋上への階段・・・その一番上の踊り場。
シートが広がるその上は、かつて無い喧騒に包まれていた。

「・・・ご迷惑、でしたか?」
「いいえ、そんなことはありませんよ。ねえ、舞」

舞さんはいつもどおりに、たこさんウインナーをほおばっていた。
それをマイペースに喉の奥に押し込めて、口を開いた。

「・・・・・はちみつくまさん」
「それなら、いいんですけど」
「佐祐理さーんっ、これもらってもいいかなー?」

あゆは舞さんと佐祐理さんの弁当のおかず・・・卵焼きをつまみ食いをするように持ち上げていった。

「はい、いくらでもどうぞ。皆さんもいかがですか?」

そんな佐祐理さんの言葉に数人の修羅がキュピーンと目を輝かせた。(僕含む)

「うう、その言葉とおかずありがたく頂戴します先輩方〜」
「・・・北川君、キャラ変わってない・・?」
「・・・そうね」
「・・・お姉ちゃん、怒ってない・・・?」
「そうか・・・?いつもどおりの香里だろ。それにしても草薙がこの場所を知っているとはなー。・・・えーと、天野だっけ?いつぞやは真琴が世話になったな」
「・・・いいえ」
「ははは、謙遜しなくてもいいって。それはそうと遠慮なく食べなよ」
「・・・・・・・貴方のお弁当ではないでしょう」
「ぐっ・・・やるな・・・」
「うわ〜的確なつっこみだね」
「あははーっ、でも、気にせず召し上がってくださいね」
「その広い心・・・この北川感服しましたっ!」
「・・・・・変な人・・・」
「舞さん、それは言い過ぎですよ・・・」
「あ、これおいしい。これどうやってお作りになったんですか?」
「あたしも気になります。教えていただけますか?」
「あ、それはですね・・・」
「あっ、アイス買うの忘れちゃった」
「・・・この季節にアイスは酷ではないですか?」
「この季節だからおいしいんですよ。食べたら病み付きになりますよ」
「そうかもしれないね。でも、ボクは鯛焼きのほうを勧めるよ」
「ここにはないだろ・・・」
「・・・・・牛丼ならある」
「お前はこの上まだ食うつもりかっ?」
「・・・祐一は細かい」
「それは細かいとかって問題じゃないよーな気が・・・」

そんな風にして騒がしい昼休みはあっという間に過ぎていった・・・
僕にはそれが、白い息が冬の空気に消えてしまうことよりも速く感じられた。

「楽しかったですねー」

後片付けを終えて、僕らはぞろぞろと階下に降りていった。
そのさまはRPGのパーティーの一段に見えないことも無いかもしれない。

「いやー美人の先輩方と知り合えて嬉しかったですよ」

鼻の下伸び伸びで北川君は言った。

「・・・浮気は厳禁だと思うけどね・・・・相手が相手だし」
「草薙君、なんか言った?」
「・・・なんで香里が反応するんだ・・・?」
「お姉ちゃんも素直になればいいのに」
「そうだね」
「うんうん」
「・・・・・・・・・あんたら・・・・・・・怒るわよ」

栞ちゃん、あゆ、名雪さんの言葉に香里さんは額に血管を浮かび上がらせた。・・・いつもクールな彼女には珍しい事だ。

そんな騒がしい空間の脇を、居心地が少し悪そうに美汐ちゃんが歩いていく。
僕は、そんな彼女に声を掛けずにはいられなかった。
「・・・つきあってくれてありがとう」
「・・・いえ、私も・・・・楽しかったですから」

そう言った彼女の顔は、少し赤らんでいた。
・・・その言葉通りなら、何よりだ。 しかし、その反面で気になる事もあった。
「・・・でも、何で、来てくれたんだ?・・・最初は、断るつもり・・・だったんだろ?」

返事をする前の空気はそう言っていた。・・・僕はなんとなくそう感じていた。
美汐ちゃんはそれに対し、少し顔を伏せて、こう言った。

「・・・・・思い出を、作ろうとしている人々を、少しでも手伝ってあげたかっただけです」
「・・・・・・・知っているのか?」
「・・・いえ。なんとなく、分かるだけです」
「そうか・・・・・・・でも、その気持ち、とても嬉しいよ。あゆも栞ちゃんもそう言うよ、きっと」
「・・・・・私はただ、人としてやるべきことを全うしているだけです」
「だけって言うけど、それができる奴なんかそうはいないよ。もっと胸を張っていい」
「・・・・・・・・・・・・ありがとうございます」
「それはこっちの台詞だって」
「いえ・・・あ、私はここで」
「あ、私もそれじゃ皆さん、また。お姉ちゃん、また家でね」

そう言って、栞ちゃんは美汐ちゃんに笑いかけると彼女の手をとって、廊下を駆け出した。
美汐ちゃんは戸惑ったが、振り払うことも無く、引っ張られ気味ではあったが同じように駈けていった・・・

「それでは佐祐理たちもここで」
「はい。それではまた」
「今度お料理教えてくださいね」
「あははー佐祐理なんかでよろしければいつでも」

名雪さんと香里さんは何時の間にか佐祐理さんの生徒になっているようだった。
なんとなくそれが微笑ましくて、僕はそれを眺めていた・・・とそこに舞さんが話し掛けてきた。

「・・・紫雲」
「・・・なんですか?」
「・・・天使さんをしっかりとつかまえていて」

その刹那、僕は悩んだ。
その言葉の意味を尋ねようかと思った。・・・でも。

「ええ、わかりました」

僕は、そう言った。
何故そうしなかったのかは、わからない。
そんな僕に、舞さんは無言で背を向け、歩き始めた。

「あ、待ってよー舞。・・・それでは」

そんな舞さんを追った佐祐理さんの姿が小さくなる頃、次の授業の予鈴がなった・・・



その後の授業。
あゆは分からないなりに懸命に授業を聞いていた。
そんなあゆに僕は僕なりに分かるように説明し続けた。
僕だけではない。
名雪さんが。
香里さんが。
北川君が。
相沢君が。
僕の説明不足を補ってくれた。

そして、その中で、あゆは終始笑顔だった・・・



そして、放課後。
終わりの時間。

「・・・というわけで、今日はここまで」
その石橋先生の言葉の後、香里さんが号令を掛ける。
「・・・起立、礼」

「・・・終わったね」

皆にさよならを言ったあと、あゆがそう呟いた。
そんなあゆに僕は首を振った。

「いいや、まだ終わりじゃない。これからさ」
「・・・え?」
「放課後、遊んでこその学校だろ?部活動でもいいけど、僕もあゆも所属してないしね。・・・じゃあ、行こうか」

そう言って、僕が誘ったのは・・・いつもの、鯛焼き屋だった。

「おう、兄ちゃんに・・・そっちは羽の嬢ちゃんか。羽が無いから一瞬分からなかったぜ」

鯛焼き屋のおじさんはいつものべらんめえな感じでそう言った。

「うぐぅ・・・ひどいよおじさん」
「はは、すまんすまん。で注文は?」
『黒あん5個ずつ』

僕とあゆの声がぴったりと重なった。
僕とあゆは思わず顔を見合わせて笑った。

「はいよっ。だが運が無いな・・・黒あん今丁度売り切れててな・・・焼きあがるまで待っててくれ」

そう言っておじさんが作業に取り掛かる。

「・・・・・そう言えば、初めて会ったときも・・・・・」
「うん、黒あん5個、だったね」

あゆの言葉に僕は頷いた。
思えば。
僕にとって、あの時が全てのはじまりだった・・・

「ねえ、紫雲君」

あゆはいつものように僕の名を呼んでくれて後、こっちに向き直った。

「あゆ・・・?」

僕も、雰囲気に押されるようにあゆを正面から見つめる。
鯛焼き屋のおじさんは、鯛焼きに集中して、こっちのことなど目に入っていないようだった。

今、この瞬間。
何かが・・・何かが確かに変わっていった。

そして、あゆは言葉を紡いでいく。

「人魚姫ってお話知ってる?」
「・・・ん、あ、まあ」

何故唐突にそんな話をするのか、僕には分からなかった。
でも、聞くことしか僕には出来ない・・・そんな気がしていた。

「人魚が、普通の人間の王子様を好きになっちゃって・・・その人に会うために、自分の大事な美しい声を差し出して、会いに行って・・・それなのに、王子様は隣の国のお姫様が好きになっちゃって・・・自分の想いが叶わないってわかっちゃった人魚姫は泡になって消えていった・・・
ボクね少し前まで、そのお話、今のボクによく似てるなあって思ったんだ・・・」
「・・・・・・・・・・・」
「でも、今はあんまりそう思ってないんだ。なんでだか分かる?」

笑顔で、尋ねるあゆ。

「・・・わからない・・・わからないよ・・・・・・」

何故、君は笑っていられる?
多分、今のこの話はそんな笑顔で語られるものじゃない・・・
なのに、なんで・・・?

「紫雲君が、いたから、だよ」

「・・・・・・僕が・・・・?」
「そうだよ。人魚姫は、その王子様しか知らなかったけど、ボクは紫雲君に出会えたんだよ」
「・・・・・・・・・・・・・」
「いろんな事を教えてもらった・・・いろんな人にめぐりあわせてくれた・・・祐一君と名雪さんの幸せを祈ることができるようにしてもらった。

ボクは祐一君が好きだって言っても、紫雲君は側にいてくれた。
人魚姫は自分の想いが叶わないからって消えてしまったけど、紫雲君は消えなかった。
何も聞かずに、探し物を探すのにも付き合ってくれた。
学校に連れて行ってくれた。

今のボクの望み、全てを、かなえてくれた。

だから・・・もう、ボクはこれでいいと思えるんだよ」
「あゆ・・・・・?」

「泡は、やっぱり泡だよ。
いつかは、弾けてしまう。
そして、ボクは夢だから・・・夢は覚めるものだよ」

その言葉で、僕は知った。
あゆが今日を最後と決めていたことを。
今更になって、気付いた。

「・・・・・・・・」
「おかしいね。もう人魚姫に似てるなんて思ってないのに・・・」

そんなあゆの言葉に、僕は思わず・・・

「・・・ちがうっ!!」

そう叫んで、あゆを抱きしめた。
恥も外聞も無く、ただそうしたかった。
嫌だと言われても、今だけは聞けない。絶対に。

あゆの匂いは、嗅ぎ慣れた我が家のシャンプーと石鹸の匂いだった。
それが何故かむしょうに悲しく思えた。

「あゆは・・・ここにいる・・・泡じゃない、夢じゃない・・・ここにいるだろっ!?」

泡だというならこの腕の中のものはなんなのだろう?
夢だというならこの胸の痛みはなんだろう?

だから、夢じゃない。
現実なんだ。

僕は自分にそう言い聞かせた。
言い聞かせたかった。
・・・・・そうではないことなど、わかっていたのに。


「ううっうう・・・・・・ううっ・・」


あゆは、自分を抱いていた僕の腕を優しく解いた。
僕の手に、すでに力はなかった。
その顔は夕陽に照らされて真っ赤だった。
紫色のカチューシャがこのときばかりはただの赤い色に染まっていた。

「・・・紫雲君。あの人形は、大事にしてね。今のボクが、確かにここにいた証だから。
ボクを夢じゃないって言ってくれるのなら・・・大切にして欲しい」
「・・・・・・・・・・・・・」

後はもう、語る言葉は無かった。

あゆが僕の顔を見上げた。
僕はあゆの顔を見つめた。

お互いの距離が近くなっていく。

視界を、世界を閉じる。

そして、僕らは。



・・・・・・・・・・かすかなぬくもり。




それはやがて、離れていった。

そして、ゆっくりと開いていく赤い世界の中で、こんな声がただ響いた。




「バイバイ、紫雲君」





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「おい、兄ちゃん」

鯛焼き屋のおじさんの声が聞こえてきた。
ああ、そうだ。鯛焼きを買おうとしていたんだった。
ここの鯛焼きはおいしいのだ。

「ほれできたぞ。全部で十個だから800円な」

あれ?僕はそんなに頼んでないと思うけど。
・・・でも他に客はいないからそうなのだろう。
財布の中からお金を出して、僕はそれを受け取った。

「はい、まいど。・・・あの嬢ちゃんは何処行ったんだ?」

・・・誰のことだろう?
僕は「さあ?」とだけ答えて、その場を後にした・・・
と、そのとき、そこの木の陰から、何者かが姿を現した・・・って、こいつは。

「姉貴・・・なにやってんだ、こんなところで?」
「鯛焼きが急に食べたくなってな・・・お、うまそうじゃないか。分けてくれ」
「・・・・・まあ、いいけどさ」

ふう、と白いため息を吐いて、僕は一個姉貴に渡した。
姉貴は受け取るなり、それにかぶりついた。

「なんだよ、断りぐらい入れろっての」
「まあ、いいではないか。しかし、やはり、黒あんが一番だな」





                くろあんがいちばんだよっ!




「・・・・・・・・・・・・・あれ?」
「どうした?」
「いや、何か、何かを・・・忘れているような・・そんな気がして・・・なんで・・・こんなに胸が苦しいんだ・・・?」
「・・・食いすぎたんだろ?」
「何も食べてない」
「・・・夢の中で、さ」

姉貴の言葉はいつもなら一笑に伏すものだった。
でも。
でも、今はなんとなく納得できた。

「・・・そうかも・・・しれないな・・・・」

そう呟いて、僕は帰路に着いた。
何かが足りないような、そんな気がしたままで。


・・・・・・続く。


第40話 君、去りし後へ

戻ります