Kanon another1”snowdrop”第34話



第34話 過去という名の”いま”


過去。
それは今にかかわるもの。
それは今を形作るもの。
・・・そして、今を縛るもの。



「・・・どうかしたの・・・悲しそうだけど・・・」

そのいきなり現れた少年に、秋子は戸惑いはしたものの、決して不快にはならなかった。

(こんな時だっていうのに・・・不思議ね)

その少年の心配そうな顔を見ると、逆にこっちが心配になってしまいそうだった。

「・・・あなたこそ、こんな時間にどうしたの?」
「俺のことはいいのっ!!お姉さんが悲しそうな顔してることの方がじゅーよーだよ」

少年・・・過去の紫雲は顔を真っ赤にし、ぶんぶん手を振って、懸命に主張した。

「あらあら・・・ありがとう」

秋子は頬に手を当てて少し考え込むと、意を決して口を開いた。

「あのね。とてもとても悲しいことがあったの」
「・・・うん」
「そのことで落ち込んでしまった子がいるの。どうしたらいいかしら?」
「そんなの決まってるよ!元気出せって言えばいいんだよっ!」

紫雲は満面の笑顔でそう言った。
秋子もまた笑顔で答えた。

「そうね、それもいいかもね」

(・・・本当に、いい”子”ね)

紫雲は、まだ子供だった。
強いゆえに弱さを知らず。
強いゆえに傷つくことも無く。
・・・人の痛みを知らない。
そんな、子供だった。

(でも、とても優しい・・・このまま大きくなったら、きっと多くの人を救う人になるわ・・・自分でそれと気づかずに・・・)

秋子は、そんな未来のヒーローの名前を聞いてみたいと思った。

「・・・あなたのお名前は?」
「俺の、名前?おれは・・・」

紫雲がその名を言いかけたときだった。

「おい、弟。そこでなにをやってる」

その声と共に紫雲の後ろに立っていたのは、手入れの行き届いた髪を中途半端に伸ばした、白衣を着た女性だった。
・・・無論、命である。
その顔を見たとたん、上機嫌だった紫雲の表情はぶすっとしたものになった。

「なんだよ、別にいいだろ。なにやってようが・・・」
「いや、駄目だ。病院は遊び場じゃない。邪魔だ。さっさと帰れ」

問答無用な言葉の羅列に、10歳の紫雲は涙ぐんだ。

「あぐっ・・・この・・・馬鹿みことぉぉぉぉぉっ!!」

そして、一声叫ぶと何処かへと走り去っていった。

「・・・・・あらあら」
「・・・ふむ。すまないな、迷惑を・・・って秋子か?」

その姿をしみじみと観察して、命はようやっと気づいた。

「・・・お久しぶりね、命。何年ぶりかしら?」
「・・・忘れたな。もうずいぶん昔だ」
「ふふ・・・そんなことを言うと年寄りみたいよ。・・・・・あの子が、いつか話していた弟さんね?」
「ああ、反抗期真っ盛りなやつだったろ?」
「・・・いいえ、とても優しく、素直ないい子でしたよ」

にっこりと笑ってそう言われて、命は頭を掻いた。
・・・実は弟のことを褒められて嬉しがっていたりすることに、秋子は気づいた。

「・・・私には、違うがな」

命は苦笑して、そう答えた。

「・・・最近は”姉”とも呼んでくれん。ただ名前で呼び捨てだ。・・・相手がしてやれないことをよほどうらんでいるらしくてな・・・
・・・悪い、とは思っているんだがな・・・」

自嘲気味のはずであるその表情は、命が俯いていたため秋子には良く見えなかった。

「ところで、秋子」

不意に顔を上げて、命が言葉を紡いだ。

「なんで、こんなところにいるんだ?娘さんが風邪でもひいたか?」
「・・・聞いていないかしら。木の上から落ちた女の子のことを」
「・・・ああ、大騒ぎしていた・・・気の毒にな・・・それが・・?」
「・・・・・私の甥の友達なんです」

命の眼がすうっと・・・一瞬だけ見開かれた。
それは驚きと・・・悲しみに彩られていた。

「・・・そうか」
「・・・なんとか助からないかしら・・・助けられないかしら・・・」

秋子は珍しく忘れていた。
目の前の女性が、それをどうこう出来る力を持っていることを。

「・・・どうにもならないし、するつもりもない」

それだけ言うと、命は秋子に背を向け、歩き出した。
その口元は固く、きゅっと結ばれていた・・・


「おい、お前なんでそんなに落ち込んでるんだ?」

紫雲は手術室の前のベンチにただ座って俯いたままの少年・・・相沢祐一に話し掛けていた。

(・・・こいつ・・・この間、道端で女の子を慰めてたやつだよな・・・)
その事を思い起こしながら、紫雲はその女の子のことも思い出していた。
(そうか、あの子が怪我でもしたんだな・・・・・・・可愛い子だったよな・・・会ってみたいなあ・・ってそれはいまはどうでもいいんだって)
内心で突っ込む紫雲は知らなかった。
この7年後、その少女に出会い、恋をしてしまうことなど、知る由も無かった。

「・・・・・」

そんな紫雲に祐一は反応さえしなかった。

「・・・その、なんだ・・・お前が悲しんでると悲しむ人がもっと増えるんだよ」
「・・・・・」
「だから、さ」

(元気出せよ)

その一言が、どうしても言えなかった。

「・・・言うことは言ったからな・・・じゃあなっ!!」

紫雲はそう言うと、祐一の前から逃げるようにして去った。

(なんでだ?なんで言えなかったんだよ、俺は・・・!)

薄暗い廊下を歩きながら、紫雲は自問自答したが、満足の行く答えは出そうに無かった。

「ちぇっ・・・ん?なんだろ?」

紫雲は角の向こうから聞こえる、聞き覚えのある声による会話が気になり、それに耳を傾けることにした。


「・・・なんでこんなことになったんだっ!!」

そのヒステリックな声はそこの廊下はおろかフロア全体に響き渡らんばかりに命には思えた。
その声の主は、たった今ここに到着した、現在手術中の少女の父親らしかった。
彼はその怒りの矛先を、共にいた少年の保護者である秋子にぶつけていた。
たまたまそこに居合わせただけの命としては、さっさとここから去りたかったが、こうなった以上、すんなりとは帰れそうに無かった。

「・・・貴女がちゃんと見ていてくれればこんなことにはならなかったんだろうがっ!!」

・・・その言葉はある意味では紛れも無く真実だった。
ゆえに、秋子の心を深くえぐった。

「・・・・・・」
「・・・大体、その少年も少年だ。躾がなってないんじゃないのか?」

・・・いかに秋子でもその言葉は容認できなかった。
一歩前に進み出ようとする・・・が、それよりも先に命が前に進み出ていた。

(この、愚か者が・・・!!)

ヒュッと命の手が上がる。
頬のひとつやふたつはたかないと、秋子も自分も気は晴れそうに無い。
そう思ったときだった。

ぼぐ。

鈍い音がした。
男が腹を抱えて、床にへたり込んでいた。
そして、その男の前に立っていたのは。

「ふざけんなっ!!このくそ大人っ!!」

拳を怒りで震わせた、紫雲だった。
男の苦しみや、二人の自分に注ぐ視線など気にもせず、紫雲の口上は続いた。

「勝手なことばっかいうなっ!!そんなに言うならあんたがついててやればよかったんだろうが!あの子を独りぼっちにしてたのはあんたじゃないのか!?
あの子は、あの子は一人ぼっちだったんだぞっ!!
それがどれだけ辛いのか・・・あんたには分からないのか!?
・・・アイツは・・・そんなあの子の涙を消そうとしてたんだぞ!!
そいつに向かって躾が悪い・・・!?
ふざけるのもたいがいに・・・!!」
「・・・紫雲、もういい」

怒りの言葉をなおも吐こうとする紫雲を、命が優しい声音でなだめた。
・・・男は先ほどの痛みとは違う”痛み”でその場にうなだれていた。

「・・・よく言ったよ、お前」

ぽむ、と命は紫雲の頭に自分の手を置いた。
紫雲はそんな姉をまぶしそうに見上げた。


少女の、あゆの手術が終わったのはちょうど、この時だった。


「なあ、あの女の子、大丈夫、だよな?」

静かに病室へと運ばれていく女の子とそれに付き添う秋子たちを見送った後、病院の入り口前で紫雲は命に尋ねた。
外は雪がまた降り始めていた。
命は微笑んで言った。

「ああ、大丈夫だ。何の心配もいらない」
「・・・そっかあ・・・よかった・・・・それなら、俺は家に帰るよ」
「ああ、気をつけて帰れよ」
「うん、あのさ・・・」
「なんだ?」
「あのおっさんに怒ろうとしたときかっこよかったよ・・・・・お姉ちゃん」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そうか」
「じゃな、頑張れよ」

そして、紫雲は闇の中へと走って行った・・・が、ふと、振り向いて、病院を見上げた。
そして、思った。

”もし、今度会えたら、友達になれるといいな・・・”

泣いていたあの少女と。
それをどうにかしようとしていたあの少年と。

「・・・きっと、なれるよな・・・・」

その言葉を虚空に残して。
紫雲は、その姿を闇に消した。


「少年よ・・・悲しいか?」

命は、あゆの病室のガラスに張り付き続ける少年に語りかけた。

「・・・・・うん」

ようやく出されたその言葉には絶望しか込められてはいなかった。

「・・・・・悲しくて、辛くて、いやだよ・・いやだ・・・・全部嘘になればいいのに・・・全部夢ならいいのに・・・全部忘れてしまえればいいのに・・・!」
「・・・ならそうしてやろうか?」
「・・・うん。できるならそうして欲しい」

命はしゃがみこんで、その少年と向き合った。
少年の目は虚ろだった。

(このままにするよりは・・・ましか)

「いいだろう。・・・・・・・私の目をじっと見ろ」

命は自分の目に”力”を込めた。
それは古より、草薙家に伝わる力。
それは使うまいと決めていた力だった。

「・・・この町から離れたとき。君はこの年のこの町での出来事を”閉じ込める”。だが、無くした訳ではない。
いつか必要になったとき、必要な分だけ、その記憶は甦る・・・いいな?」
「・・・・・・・・うん・・・・・」

(・・・成功した、な)

そして、命にはもうひとつやるべきことがあった。

祐一を、秋子に委ねた後、命はあゆの病室に入った。

「・・・紫雲。私はお前に嘘をついた。・・・このままではこの少女は助からないそうだ。
そして私はこの子を助けるつもり等無かった。
”力”で人の命をひとたび救えば、ほかのひとびとにもそうあらねばならないからだ・・・まあ、お前に言っても分かるまいが・・・
私はこの力で全てが救えると思えるほど傲慢ではない。
だが、今回限りは特別だと思うことにしよう」

命の中で、この少女と紫雲の姿がだぶっていた。

「この子も、お前と同じように孤独だったのだからな・・・」
そう呟きながら差し出したその手には淡い光が宿っていた・・・


「・・・その結果がこれか・・・・」

命は7年前と変わらず眠り続ける少女を眺めていた。

「・・・・・やはり、因縁の子など助けるべきではなかった・・・今はそう思う」

過去は見えない鎖となって確かに今をからめとっていた。
相沢祐一は戻らない記憶に悩み。
月宮あゆは死ななかったゆえに今もさまよい、苦しんでいる。
弟、紫雲は彼女のために辛い思いをしているし、これからは更なる苦しみが弟を襲うだろう。

「・・・決断の時がきたのだろうな・・・・」

命は歩き始めた。
もう、振り返ることはしなかった。


・・・続く。


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