Kanon another1”snowdrop”第17話



涙〜美坂香里〜


あたしには妹なんていない。
あたしはそう思うことしかできなかった。
そうしなければ、名雪たちに接することも、
あたしがあたしでいることもできなかった。
その代償にあたしは涙を捨てた。

その日の放課後、日直だったあたしと北川君は職員室に日誌を届けに行った。
それを終えたら、クラスメートの草薙君のお見舞いにいく・・・そういう予定だった。
名雪たちとの待ち合わせ場所に向かう途中、あたしたちは一年生の教室の辺りを通りかかった。
そのまま素通りする・・・はずだったのだが、あたしの足は知らず知らずの内にその歩みを止めていた。
あたしはそこを、栞がいるはずだったその教室を無表情に眺めていた。

もしあの子がここにいたら・・・きっと笑っているのだろう。
その小さな背中に背負った運命があろうとなかろうと。

あの子は本当に強い子だから。
きっと何処でだって笑っていられる。
あたしと違って。

そんなことを考えていたあたしを北川君の声が現実に引き戻した。
・・・心配そうな顔をしていた。
どうやらあたしは自分が思っているほどポーカーフェイスではいられないようだ。
そんな自分が何処か滑稽だった。

病院に行ったあたしたちはそこで草薙君の怪我の経緯と彼の昔話を聞いた。

魔物云々は正直信じられなかったが、それを語った月宮さんの表情が嘘を言っているようには見えなかったし、名雪にいつもの調子で”あゆちゃんは嘘なんかつかないよ”と言われたからには信じないわけにはいかなかったので、話の上だけでも信じることにした。

そして、草薙君の昔話。
彼は意味のない伊達眼鏡に全てを封殺して現実から逃げていたのだろうか?
あたしと同じように。

聞いてみたい気もしたが、結局その日草薙君は目を覚まさなかった。

その二日後、草薙君が目を覚ましたと相沢君から聞いて、あたしと北川君は再び病院を訪れた。
彼の無事を喜ぶため、そして彼に話を聞くために。

その途中、命さんにあたしたちは出会った。
彼女は言った。
”君には他に行くべき場所があるんじゃないか”と。
あたしは何も答えなかった。
あたしはもう決めたのだ。
涙と栞という妹の存在を捨てることを。
もう迷う必要もなかった。
そのはずだったのに・・・

「君にはここよりも他に行くべき場所があるんじゃないか?」

草薙君はお姉さんと同じ事を言った。
あたしはなんとなく、草薙君の顔を見つめた。
その顔は以前と同じようで違っていた。より強い何かが宿っているように見えた。
夢の中で何かを掴んだとでも言うのだろうか?
漫画チックな話は魔物の話で十分だ。

「あたしには行くべき場所なんてないわ。いいえ、行ってはいけないのよ」
「何故?」
「あたしには何もできないのよ?何も出来ないあたしに側にいろっていうの?残り僅かな時間を何の希望もなく生きるしかないあの子の側にいろっていうの?!」

そこであたしは自分の言ったことに気づき、慌てて口を閉ざしたがもう、後の祭だった。

「・・・そうか、やっぱり栞ちゃんの命は・・・」
「・・・そうよ」

もう誤魔化しようがない事を悟ったあたしはそれを肯定した。

「だから、逃げるのか?」
「・・・!」
「逃げるのか?栞ちゃんが苦しむ姿を見たくないから、側にいるのが辛いから、何もできない自分が嫌だから・・・それは単なる自分勝手なわがままじゃないか?一番現実を見たくないのは、辛いのは、嫌なのは誰なのか、分からないはずがないだろ?」

この時、あたしは理解した。
草薙君は迷ってはいても逃げてなどいないと。
自分から逃げている人がこんな真っ直ぐな眼をできるはずがない。

「僕は昔失敗したんだ。伝えたかったことを伝えられなかった。本当は分かり合えることを分かり合うことができなかった。僕は、君にはそんな風になって欲しくない」

その言葉はとても暖かった。優しかった。
でも・・・

「・・・やめて」
「美坂、さん」
「・・・貴方の、貴方の正論は痛いのよ・・・痛すぎるのよ・・・分からないの?」
「・・・」
「それにもう、遅いのよ。だってあたし言っちゃったのよ!?名雪にも、相沢君にも、妹なんかいないって!こんな姉いない方がいいのよ!!あの子にとってそれが一番なのよ!」
「そんなことはないよ。まだ間に合うよ。君は、栞ちゃんにとってたった一人のお姉さんじゃないか」

・・・そこがあたしの限界だった。

「・・・貴方に何が分かるの?貴方の言っていることなんて、ドラマか何かの台詞の切れっぱしじゃない!」

それだけ言ってあたしは草薙君に背をむけ、この部屋を飛び出した。
ドアの向こうにはジュースを抱えた北川君が立っていた。
一瞬、目が合う。
先に目を逸らしたのはあたしだった。
話を聞いていたのだろう、彼はいたたまれない表情だった。
あたしがそうさせたのだ。
彼は何も知らなかったのに。
あたしは溢れそうな何かを堪え走り出した。
草薙君と北川君からも、逃げてしまったのだ。
自分が情けなくてどうしようもなく惨めだった。

病室が並ぶ廊下にポツンと置かれたベンチにあたしは腰掛けていた。
どうすればいいのかわからず、只呆然とそこにいた。

「あの」

そんなあたしに誰かが声をかけてきた。

「何か、あったんですか?良かったら、同じ学校に通うよしみで佐祐理にお聞かせください。お力になれるかも・・・」

もうどうでもいいわ・・・
そう思ってあたしが顔をあげると、そこには二人の女性がいた。
一人は何故か命さん、そしてもう一人は、あたしと同じ制服に身を包んだ穏やかな笑みを浮かべる人だった。


あたしは二人に言われるままにさっきの出来事を話していた。
いつものあたしならそんなことはないのだろうが・・・
余程疲れていたのか、それとも・・・
この、穏やかに微笑む、倉田佐祐理先輩のまとう空気の所為なのか・・・今のあたしには判断できなかった。
彼女もまた、草薙君の知り合いで、今日も見舞いに来たということらしい。

それはともかく。

あたしが全てを話し終えると、いきなり、命さんがくすぐったそうに笑った。

「・・・なにがおかしいんですか?」
「いや、あいつがそんなことを言うとはな。あいつは自分と栞ちゃんを重ねているんだろ、きっと」
「・・・??」
「君には話したろ、あいつの昔話を」
「・・・あっ」

あたしは思わず声を上げていた。
草薙君の幼い頃、命さんはほとんど彼にかまってやらなかったらしい。
命さんは一人で草薙君を育てていかなければならない責任の重さから、彼から逃げていたという・・・

「それでも、あいつは私のことを”姉”と呼んでくれている・・・
そして、その気持ちは栞ちゃんも同じだと言いたかったんだろうな」
「で、でもなら何故そう言わなかったの?」

あたし自身に問うような言葉に命さんは答えてくれた。

「あいつは、不器用だからな。それに、自分と栞ちゃんの気持ちを一緒にしたら失礼だとでも思ったんだろ?」

あたしは・・・なんなんのだろう。
あたしは栞の気持ちを分かっているつもりだった。
あたしが一番歯を食いしばっていると思っていた。
でも、それは・・・彼の言った通り自分勝手な思い込みだった。

「あたしは、あたしは・・・」

体の底から何かが溢れそうだった。
そんなあたしの肩にポンと手が置かれた。
倉田先輩の手だった。

「大丈夫ですよ。まだ、間に合いますよ」
「で、でも・・・」

もう答は分かりきっているのに、なおも何かにすがるようにあたしは食い下がっていた。
自分の間違いを認めたくないから?
それもあるだろう。
でも・・・

「佐祐理は間に合いませんでしたよ」
「え?」
「ずっと昔のお話ですが・・・」

そう言って彼女は左手首をあたしに晒した。
そこには傷があった。
自殺を試みたものだということにすぐに気づいた。

「・・・・・」
「あなたにはこうなって欲しくありません」

その傷があたしに今を、そして未来を突き付けた。
栞を否定した未来のあたし・・・
栞を否定したことを、栞自身は許すだろう。
でも、こんな未来を栞は・・・嬉しく思うはずがない・・・・

そして。
気がついたら、あたしは栞の病室の前に立っていた。
あたしはどんな顔でここに立っているのだろう?
そもそも立っている資格すらないのかも知れない。
でも、もう嫌だった。
許されなかった。
草薙君が、命さんが、倉田先輩が教えてくれた、いや、気づかせてもらった自分の本当の気持ちから逃げるのは。
あたしは、本当は・・・

「・・・栞・・?」

あたしは病室の外から静かに呼びかけた。
届いて欲しい・・・心から願った。

ひょっとしたら、それがあたしにとっての奇跡だったのかもしれない。

「・・おねえちゃん・・?」

届いた。
それは当たり前のことで、
ずっと出来ないでいたことだ。
あたしはありったけの想いを込めて、言葉を紡いだ。

「ごめんね・・・今は・・・ここからしか話せないけど・・・今度は・・・今度会う時はちゃんと向き合って話そうね。
いままでのこと、謝りたいから・・・
いろんなこと、これからたくさん、栞としたいから・・・
・・・・・・ダメ・・・・・?」

一瞬か、それとも永遠か・・・そう思える時が流れた。
やはり、駄目なのだろうか?
遅すぎたのだろうか?
そう思った時。
栞の声が、響いた。

「・・・うん・・・!私、待ってるから・・・ずっと待ってるから・・・!
お話する事も、一緒に何かする事も、楽しみに、してるから・・・・!!」

もう、いいよ。

誰かがそう言った気がした。

だから、あたしは。

「・・あ、ありがと・・・・ありがとう・・・栞・・・・」

あたしは妹の、世界で一番大好きな妹のその名を読んで。

泣いた。

妹は、いる。
だから涙もあるんだ・・・

只そこに立ち尽くし・・・涙を流し続けた。
もう、ここでは涙を流さないように。
世界で一番の妹の前で、笑顔であるために。

それがあたしの答だから。
皆が導いてくれた答なのだから。

BGM Hello,Agein〜昔からある場所〜 BY MY LTTLE LOVER


第18話 〜今という時〜へ

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