双星乃詩〜濁り雪〜
夜が明けた。
今日は結果がどうあれ、この町には居なかったはずなのに。
俺たちは結局、この町で夜を過ごした。
「ふあ・・・」
昨日の曇天はいまだに続いていた。
雪は止んでいたが、またいずれ降り出すだろう。
昨日、俺は寝袋を纏って外のベンチで眠った。
国崎と遠野の二人はと言うと、待合室の中で一緒に眠ったようだった。
・・・そういうことも、きっと必要なのだろう。
「おはようございます、相沢さん」
そんな事を考えていると、遠野が後ろから声をかけてきた。
「・・・おはよう」
俺は何か言うべきなのかどうか迷った。
俺の半端な慰めは、彼女にとって、プラスになるだろうか・・・
そんなふうに俺が苦悩していると、遠野は首を傾げて言った。
「・・・どうしました?
なんだかお悩みのようですが・・・」
その様子を見て、俺は少し気抜けした。
いつもと変わらないように見えたからである。
「いや・・・」
そこで、俺は気付いた。
彼女の赤く腫れた眼に。
ずっと、涙を流していたであろう、眼に。
変わらないわけはない。
本当は、辛い。
それでも、彼女は自分のいつものペースを崩す事はない。
自分自身を見失わないために。
「なあ、遠野」
「はい」
「・・・これから、どうするんだ?」
今、聞くべき事ではないのかもしれない。
それでも、俺は聞きたかった。知りたかった。
彼女の行く道は、俺の道なのかもしれないから。
「・・・私は、もう、行くべき場所がありません。
お母さんがいなくなってしまった今、帰る場所もない。
・・・・・だから」
そこで彼女は僅かに間を空けた。
それは、彼女の決意であり、すでに決まっていた決意の確認だったのかもしれない。
少し息を吸って、それを”ふうっ”と幽かにはき出して、彼女は口を開いた。
「・・・だから、国崎さんと一緒に生きていこうと思います。
私を、遠野美凪だと認めてくれる、国崎さんと」
「・・・そうか」
・・・ひょっとしたら彼女は。
もう、現実に帰っているのかもしれない。
彼女が抱えるモノはもう二度と取り返しがつかないことになった。
それでも、彼女は一番楽な選択肢を選ばない。
死んで全てを停止させるという。
彼女は生きている限り、今日を、かつての悲しみの日々を忘れないだろう。
忘れるような事はきっとできないだろう。
それでも、彼女は生きていくと言う。
それは強さではないだろうか?
それは現実に立ち向かっていると言わないだろうか?
「相沢さんは、どうなされるおつもりですか?」
「え?」
「・・・昨日、国崎さんからお聞きしました。
探していた人に、お会いになったそうですね」
「・・・ああ」
名雪。
神尾美鈴と名乗っていた名雪。
彼女は、俺の知らない、全く違う別人になってしまったのだろうか。
でも。
それなら。
何故、あんな悲しそうな顔をしていたんだろう・・・?
「どう、なされますか?」
もう一度、遠野は問い掛けた。
・・・その問は、さっきの俺の問いかけと同じだ。
・・・彼女もまた、不安なのだ。
これからの自分の行く道が。
だから、知りたいのだろう。
俺が、選ぶ道を。
「・・・俺は・・・・」
考えていた。
昨日、名雪に罪を指摘されて。
それでも、考えていた。
俺は何をしたいのか。
俺は何をすべきなのか。
本当は最初から分かりきっていた。
それは、一つしかなかった。
この旅をはじめた時から何一つ変わらない、俺の答だった。
「俺は、名雪を連れてあの町に帰る。
あそこから、二人で全てをはじめたいんだ」
・・・それしかないと俺は思う。
もう過ぎてしまった時は取り返せない。
それなら、新しくはじめていくしかない。
過ぎ去った苦しい時を、埋めてしまえるように。
過ぎ去った楽しい日々を、無駄にしないために。
・・・それは、それを果たす事ができなかった遠野の代わりに、ということでもある。
「・・・それでいいと思います」
「・・・・ありがとう。そう言ってもらえると・・・助かる」
俺はそう告げて、背を向けた。
行くべき所に、行くために。
「・・・行って来る」
「行ってらっしゃい」
そして、俺は。
世界でただ一人の、水瀬名雪に向かって歩き出した。
「・・・ごめんください」
俺は、昨日訪れたその家の前に立って言った。
と同時に扉を叩く。
神尾と書かれた表札の家。
名雪はそこにいるはずだから。
・・・返事がないので、俺はもう一度扉を叩いた。
すると。
バタバタバタ・・・・!と言う騒がしい足音が響いてきた。
かと思うと、目の前の扉が凄まじい勢いで開いた。
そこにいたのは名雪ではなかった。
年の頃は二十代の後半・・・くらいだろうか?
それよりも若く見えなくもない、綺麗な女性が立っていた。
が、その顔は何かの焦燥に駆られて、今この時においてのみ持ち腐れだった。
「・・・ちゃうんか・・・・」
女性の表情が、俺の顔を認識した途端、落胆に変わる。
が、どうにか俺を応対しようと、表情を取り繕った。
「え、と、なんか用か?見かけん顔やけど・・・?」
・・・俺はどう伝えようか迷った。
この人が、名雪の面倒を見ていてくれた人だというのは分かる。
この人と名雪の関係について、俺はまるで知らない。
ひょっとしたら。
俺はこの人から名雪を”奪う”ことになるのかもしれない。
・・・でも。
それなら、なおの事。
はっきり言わねばならないだろう。
俺は意を決して言葉を紡いだ。
「その・・・神尾美鈴、いや名雪・・・いますか?」
その言葉がその場を通った瞬間、その女性の表情が硬くなった。
そこにあるのは、拒絶・・・だろうか・・・・?
「・・・あんた、何者や」
「あいつの・・・家族です。
ずっと、あいつを探していました」
「・・・・・そうか。あんたが居候の言ってた・・・」
「・・・勝手、なのは承知してます。
でも、あいつの場所は・・・きっとここじゃないんです」
その俺の言葉で、目の前の女性の表情がはっきりとした意志を伴った。
それは・・・敵意。
「あんたに・・・あんたになにがわかる・・・・・?!」
そう呟くように言ったかと思うと、その女性は俺の胸倉に掴みかかってきた。
・・・振り払おうと思えばいくらだってできた。
でも、俺はあえてそのままにした。
そうされなければならないような気がした。
「居場所はここやない・・・?!
だったらなんで繋ぎ止めんのや・・・・!!
あの子の支えにもなれんかった男がいっちょ前の口を吐くんやない・・・!!」
それは真実。
俺にはあの時、名雪を繋ぎとめる力がなかった。
名雪の支えに、なってやれなかった。
今の俺も、昔と何が違うのか、なんて聞かれても大した差は正直ないと思う。
でも。
「それでも・・・・・!!
俺は、名雪と居たいんだ!
名雪じゃないと駄目なんだ!!」
そう。
それこそが真実。
この一年。
いや、名雪がいなくなってからの二年間。
俺は、名雪のことを考えなかった日はなかった。
それが全てを証明している。
だから、俺は。
その確信に従って、行くだけだ。
名雪の、本当の答を知るまでは。
「だから、お願いだ・・・
名雪と、話をさせてくれ・・・
それだけでいい。
名雪が心から俺を拒絶したのなら、俺はもうここを去る。二度と来ない。
だから・・・・・!」
俺はその人の眼を見据えて、それを伝えた。
それしか、できなかった。
その人は先ほどまでの鋭い視線を緩めないままに俺を見据え返した。
・・・それが暫し続き。
「・・・・・・・・はあ」
先に息を吐いて気を緩めたのは、その女性の方だった。
「・・・わかった。
話だけならさせたる」
「・・・ありがとう、ございます・・・・・!」
「・・・それは、それとして・・・・」
そう言うと、その女性は頭を掻いた。
「あの子、ここには居らんで」
「・・・はあ!?」
・・・その言葉に、俺はつい間抜け声を上げてしまった。
「今朝からか・・・いや、昨日の夜からかもしれん。
あの子の姿を見かけへんのや」
それで、先程までの彼女の焦燥の理由が分かった。
「・・・大丈夫なんですか・・・?」
「いや、こんな田舎町やし”そういう”奴はこの近辺には居らんから心配はないとは思うけど・・・」
「・・・何処かに行くとか、言ってませんでしたか?」
「ん・・・そういえば・・・昨日、もう使われてない駅に行くのはどの道か、とか聞かれたんやけど・・・・・」
「・・・な?!」
そこには少し前までいた。
だが、そこに名雪の姿など・・・
何かの理由で行き違いになったのだろうか・・・?
だが、行き先がわかった以上、ここにじっとしているわけには行かない。
・・・予感があった。
ここで、名雪を見失えば、俺は一生、名雪を取り戻せない・・・・・!
「すみません、いきます!!」
「あ、ちょ・・・」
「全部終わったら、一度挨拶しに伺いますんで!!」
言うだけ言って、俺はその家を後にしようとした。
だが、走り出そうとした矢先腕を女性に掴まれてしまい、動きを止めざるを得なかった。
「待ちぃ。うちも行く」
「・・・信用ないですか、俺」
「阿呆、そういうわけやない。
娘が心配やない親が何処に居る?」
・・・その言葉は心底から納得できた。
その表情は、名雪を心配していた秋子さんの表情と同じだったから。
「・・・わかりました。行きましょう」
「話が分かる奴やな。
そういう奴は嫌いやないで」
さっきの緊迫が嘘のように。
お互いに笑いあいながら、俺たちは、今度こそ走り出した。
私の心には、雲がかかっていた。
・・・それは二年目から晴れる事のない曇天。
私は、祐一を裏切った。
私は、お母さんを裏切った。
私は、一生許されない罪を背負う罪人だ。
でもそれを。
私はいつしか、ここで暮らす事で忘れようとしていた。
さながら。
雪が地面を覆い隠そうとするように。
・・・・・それを証明するかのように。
いつしか私の心にも雪が降っていた・・・
私はそこにいた。
夜の闇に隠れながら。
この街の夜も寒いけど、それはかつて暮らしていたあの街には届かない。
お母さんから聞いたその場所の近くで私はじっと見詰めていた。
それは、三人の旅人。
それは、その中の一人。
彼らが寝静まった少し後、私は草むらから出て”彼”のすぐ側に立った。
「・・・祐一・・・・」
名を呼んでみる。
でも祐一はよほど疲れているのか、身動き一つしないで、ただ眠りに落ちていた。
私は、手を伸ばした。
気付いた時にはそうしていた。
祐一に触れたかった。
ただそれだけだった。
・・・私の手が祐一に後僅かで触れようとした、その時。
「・・・夜分遅くにとは、感心しないな」
私はビクッとなって手を引っ込めた。
声のした方を向くと、そこには昼間会った男の人が立っていた。
「大体、俺たちは夕方にはいなくなると言っておいたのに、何で夜に来るんだ」
「なら、何でここに今いるんですか?」
「色々と事情があってな、予定が崩れる事もあるさ」
「それなら、私だって・・・」
「・・・それは、違うだろ」
その男の人は、静かな鋭い眼を私に向けた。
「お前は、夜にここに来なければならなかった・・・違うか?」
その男の人の言葉は。
「夜にここに来て、”ああ、もう誰もいない。だったらしょうがない”とでも思いたかったんじゃないのか?」
私が、今ここにいる事への。
「”それだったら私の所為じゃない。向こうが勝手に諦めただけだ”・・・
そう思いたかったんだろう?」
的確な、答だった。
「・・・・・」
私は、男の人が一つ言葉を紡ぐたびに世界が一つ軋む様に思えた。
神尾美鈴の世界も、まだ微かに存在している水瀬名雪の世界も。
「・・・ふざけるなよ・・・・!」
「ひうっ・・・・」
男の人は、心の底から響くような言葉を吐いて、私の襟首を掴んだ。
その本気の心に、私は揺れ動いた。
「俺はな、お前とそいつが一体どういう経緯でそうなったのか、知らない。
だがな、俺は知ってる。
一年前初めて出会ったとき、駅のベンチでただ座って空を見上げてたそいつを・・・
何かを待ちわびて、そこにいたそいつを・・・
そして、そこから立ち上がって、自分の力でお前を見つけようと決意したそいつを・・・
それに対して・・・お前は何をした?」
ぐっ・・・と襟首を掴む力が一段と強くなる。
「・・・うう・・・・・・」
私は体の軋みと心の軋みで呻き声を上げた。
「お前は、あの街から逃げて、この町で暮らす事で何もかもを忘れようとして・・・
ただ逃げ続けているだけだろ・・・・・!」
「うう・・・・・・・うううう・・・・・・・・・・・・・」
「ち・・・」
その人は舌打ちすると、掴んでいた襟首を離した。
私はぺたん・・・と力無く地面に座り込んだ。
「・・・・・ったく」
私を静かに見下ろして、その人は呟くように言った。
「・・・どうするんだ結局」
「・・・え?」
「まあ、お前の思惑とは違っていても、ここまで来たんだ。
それはお前自身まだ迷ってるってこったろ」
「・・・・・」
「さっきはああいったが・・・
迷わない人間はいない。人生において一度も逃げない人間なんていない。
・・・・・俺の連れ添いも、一度はこの町から逃げ出した」
それは、さっきまで泣いていた、あの綺麗な女の人の事なのだろう。
あの人が、この町に住んでいた・・・その事実に、私はなんとなく驚いた。
「だが、あいつは時間をかけて傷を癒し、もう一度ここに来た。
結果はどうあれ、な。
・・・あんたは、どうする?」
「・・・・・私は・・・駄目だよ・・・」
軋んだ世界の中心で、私はどうにかそれを吐いた。
「・・・私がいなくなったら、お母さんが悲しむよ・・・
それに、私、もう祐一に言っちゃったもん・・・私は、もう名雪じゃないって・・・」
それに対し、その人は呆れた様に・・・実際呆れているのかもしれないが・・・・息を吐いた。
「・・・この際、晴子は関係ないだろ。
そもそも、お前がいるから、晴子もお前に甘えるんだ。
相沢にしたって、お前がちゃんと向き合うつもりなら何度だって待つだろうさ。
・・・・・後は、お前の気持ちだけだ」
「私の、気持ち・・・・・」
私にはまだわからなかった。
分からない事がありすぎた。
でも、確かな事が一つあった。
私は、祐一の事を忘れた日はなかった。
その事だけは、紛れもない”本当”だった。
なら、私は・・・・・
「・・・あの、一つ、お願いしてもいいですか?」
私はゆっくりと立ち上がって、言った。
・・・その人が「ああ」と頷いてくれたので、私は”それ”を伝えた。
「祐一が起きたら、伝えてください。
この町のあの場所で待ってるから、って」
そして、私は。
”その場所”に向かった・・・・・
「・・・この町の、あの場所・・・・?
名雪は、そう言ったのか?」
「ああ、確かに、そう言っていた」
駅に慌てて戻ってきた俺たちは、遠野と共に昼食を取り始めていた国崎に事の次第を聞いた。
・・・そういうことならもっと早起きして伝えて欲しいものだと思ったが、今はそれどころじゃない。
「どういう意味や?」
女性・・・晴子さんが俺たちの顔を見比べるように問い掛けた。
「俺たちに分かるわけがないだろう」
「・・・この意味が分かるのは、相沢さんだけだと思われますが・・・・」
その遠野の言葉に、三人の視線が俺に集まった。
「・・・そんな目で見られてもな・・・・・すぐに分かるんなら苦労は無いって」
「だが、彼女がそういう風に言うという事はお前ならすぐ分かるって事だろう?」
「・・・そりゃそうだが・・・・」
「あの場所というのに心当たりは?
その方の言い方から察すると、おそらくそれはどの町にもあるものではないでしょうか?」
・・・どの町にも、ある場所。
そして、それは俺と名雪にとっての思い出の場所。
・・・素直に考えるのなら、一つ心当たりはあった。
だが、そうだと・・・それは・・・・・ここだという事になる。
この街ただ一つの、この駅が、その場所という事になる。
9年前の約束の場所。
2年前の約束の場所。
それは、駅だったから。
だが、今この場に名雪はいない。
ならその推測は間違いという事になる。
だが・・・間違いとは思えない。
いや、思いたくはなかった。
だとするなら・・・?
「・・・まさか・・・・もうこの街から出たとかはないやろか・・・?」
「それはない、と思うが・・・」
・・・その会話。
晴子さんの言葉で、気付いた。
・・・”駅”であることには違いないだろう。
”駅”の意味を広く取れば、それは大いにありえる。
というより、もうそれ以外の答は俺には思いつかなかった。
「・・・分かった・・・・!!」
皆がその言葉で一斉に俺の方を振り返った。
それに俺は大きく頷いて、もう一度言った。
「分かった。あいつが居る場所。
・・・だから、行って来る・・・・・・・!」
俺はもう、居ても立っても居られなかった。
・・・さっきとは、意味がまるで違う。
名雪が、名雪自身がそこで待っていると言ったのだから。
俺は、迷うことなく、走り出した・・・・・!
相沢は、俺たちが止める間も無く、走り出した。
その姿を見ているだけでわかる。
・・・もう、あいつに迷いは無い。
どうなるせよ、はっきりとした答えは出る。
あいつの”旅”の終局は近い。
願わくば、それは幸せな形であって欲しいものだが・・・
・・・そんな事を思っていた時だった。
「あんた・・・どういうつもりやっ!その手を放しっ!!」
「・・・そういう・・・わけには・・・・」
その声のした方を向くと、そこには相沢を・・・いや、その場所に居る彼女へと向かおうと駆け出そうとしていた晴子と、それを服の袖を掴んで、必死になって止めようとしている遠野の姿があった。
どうした、と問う必要はなかった。
見ればすぐに分かる事態だった。
「・・・晴子。
分かるだろ。
ここから先はあの二人の問題だ。
・・・あんただって話をさせるつもりだったんだろう?」
・・・それを理解していたからこそ、遠野は晴子を行かせまいとしていた。
それを無駄にしないためにも、俺は晴子の気を少しでも削ぐべく出来得る限り穏やかに言った。
だが、どうにもそれは無駄だったらしい。
「それとこれとは話は別や・・・!
話はさせるけど、二人でなんてうちは言ってない・・・!!」
そう言って遠野を引き剥がそうとする晴子に、俺は静かに言った。
「・・・・・同じだろ。
あんたが居ても居なくても結果的にはあの二人の話になる。
そこにあんたはどうやって割り込むつもりなんだ?
・・・まさか、自分は”彼女の母親だから”とかいう理由でか?」
「そ、そないなこと・・・・・」
「あるだろ?
そのつもりだったんだろ?
そう言えば、あいつは・・・相沢は、あんたと彼女が暮らしていたという事実がある限り反論のしようもないだろうからな」
俺が言葉を一つ紡ぐごとに、晴子の気概は、遠野を振り解こうとする力は、削がれて行った。
「それで彼女が幸せになれるのなら俺はやってもいいと思う。
だが、この場合、それは心に消えない黒い染みを強引につけて残すようなものだ。
・・・あんたが、彼女の事を思うのなら・・・ここは傍観して欲しい」
・・・正直な話。
俺がもしこの一年を遠野ではなく、晴子や観鈴と共に暮らしていたのなら、俺は彼女の肩入れをしていただろうと思う。
晴子は、わけもわからないままにいきなり観鈴を失ってただ一人で悲しみに耐えてきたのだろう。
だから”彼女”と出会って、気持ちが揺れたのも、わかるつもりだ。
だが、それはきっと夢だ。
見てはいけない夢だ。
晴子自身にしても、”彼女”にしても、過去から逃げたままでそれに浸り続けるというのなら、そうとしか言いようが無い。
ましてやそれが。
いつかは醒めると夢を見ている者たちが最初から悟っている夢なら。
「・・・あんた、強くなったな」
もがく事をやめて、晴子は言った。
「いや・・・違うな。
あんたが弱くなっただけだ」
「・・・そうか。
・・・そうかもな。一本取られたわ・・・・」
呟いて、晴子はふう、と息を吐いた。
冬の外気に包まれた、その息はただ白かった・・・・・
・・・かつて、遠野美凪は夢に浸かりすぎて踏み出す勇気を置き忘れた。
そして、俺はその夢に近寄りすぎて、遠野に近付き過ぎて、遠野にとっての最後の勇気を奪った。
その代償は、大きかった。
遠野は家族を二度失い、俺はそれを直視した。
それを補う事など、俺たちには一生できない。
それは俺たちの罪科だから。
・・・罪は償わなければならない。
俺たちにできる事はそれだけだ。
だから、どんなに無様でも生きていく。
それが、俺と遠野の行く道だ。
でも。
相沢と”彼女”には。
きっとまだ別の道がある。
もっと綺麗に進める道がある。
だから、行って欲しい。
俺たちの代わりに、なんて奇麗事は言えない。
ただ、理屈でもなんでもなく。
その道を進んで欲しい。
ただ、そう思った。
「・・・・・大丈夫ですよね」
いつの間にか俺の側に立っていた遠野が、俺の手を握っていた。
その手は冷たい。
だから、その手が少しでも早く温もるように強く握り返した。
「ああ。大丈夫だ」
・・・”曇りない青空”を見るには早すぎて、俯き加減に地面を見るにもまだ”早い”。
だから、俺は何処を見るでもなく、ただ真っ直ぐ虚空を見詰めて、答えた。
その先が、俺たちの旅路だと信じて。
雪が、降っていた。
ただゆっくりとその海辺の町に降り注いだ。
風無き空から舞い降りる雪は、ただ優しかった。
・・・雪。
それは白いもの。
純粋なもの。
それが作る景色は、美しい。
でも、それは綺麗なままではいられない。
そして、それを乱すのはいつだって人間だ。
通る自動車の痕が、街を歩く人の群れが、白の絨毯を汚す。
だが。
その美しさを一番”美しい”と知っているのも、人間ではないだろうか?
いつかは汚れると知っているから、刹那の美しさを貴ぶことができるのではないだろうか?
それは。
大人が、無垢なる子供を見たときの想いと、何処か、似ていないだろうか・・・・・?
はあ・・・
私は白い息を手にはきかけた。
そうやって、ほんの少し冷えた自分の手をあたためた。
微かに持ち上げたその手にはさっきから降り始めた雪がほんのりと積もっている。
・・・こうやって、人を待つのは何年ぶりだろうか。
かつて、約束をして人と待ち合わせたことはたくさんあった。
友達。
親友である、香里。
そして・・・お母さん。
でも。
こんな気持ちで人を待ったのは、生まれてたった二回しかなかった。
そして、それは二回とも、たった一人の”彼”のためだった。
「雪、積もってるな」
・・・その声が、聞こえた。
それは、今も、昔も待ちわびた。
たった一人の”彼”のものだった・・・・・
町外れの、バス停。
この町唯一の出口。
そこに備え付けられた一つしかないベンチ。
そのベンチに、名雪は座っていた。
9年前は、名雪が待っていて、俺はそれを裏切った。
2年前は、俺が待って、名雪に裏切られた。
そして、今。
再び、名雪がベンチに座って待っていることに、おれは奇妙な感覚を覚えた。
だからなのか。
俺は2年前をなぞるような台詞を呟いた。
「雪、積もってるな」
それは、あの日。
俺があの町にやってきた日に、名雪が俺に言った言葉だ。
「うーん・・・二、三時間くらい待ったからね。時計ないから分からないけど」
「・・・これでも、一生懸命走ったつもりなんだけどな」
記憶を探りながら、俺たちは在りし日を再現した。
幸せだったあの日を。
全ての可能性が詰まっていたあの日を。
そして、もう二度と戻らないあの日を。
それは、俺たちが俺たちである確認。
名前や立場が変わっても変わらないものの確認。
そして、それは終わった。
ならあとは、語るべき事を語るだけだ。
「名雪」
俺は、その名を呼んだ。
今の彼女がどう否定しても、俺にはそれ以外の名を呼ぶ気はなかった。
名雪は、名雪だから。
「俺と一緒に帰ろう。
あの町へ、帰ろう」
「祐一・・・」
「あの時返した、目覚し時計の言葉、覚えているか?
なんとなくでもいいんだ」
「・・・うん。
覚えてるよ。
ずっとずっと覚えてたよ」
「俺の気持ちはあの時から止まったまんまだ。ほとんど変わってない。
成長してないといえばそれまでだけどな。
でも、あの時と違う事が一つ、あるんだ」
「・・・何かな?」
ベンチに座ったまま、真っ直ぐに見上げて、名雪は俺を見詰めていた。
「あの時以上に、名雪が必要だと分かった。
名雪の事を想わない日なんか、なかった。
・・・俺には名雪が必要なんだ。
・・・名雪じゃなきゃ・・・嫌なんだ。
・・・一緒にいて欲しいんだ。
支えになるって言ってたあの時より、頼りなくなってるって気はする。
でも、あの時よりも、名雪を愛している」
好きでも、大好きでもない。
愛している。
だから、一緒に生きていきたい。
「だから行こう、名雪」
「・・・祐一」
俺の言葉が途切れるのを待ちわびていたように、名雪の声が通り抜けた。
その声が、俺の名を呼んだ意味を知りたくて、俺は口を閉じた。
名雪はゆっくりと立ち上がって、語り始めた。
「・・・2年前の、あの日。
私が約束を守れなかったのは・・・
それは、怖かったから、なんだよ」
「・・・」
「お母さんを失いかけて。
それを埋めるために祐一に支えになってもらって。
それでいいのかもしれないと思った。
でも、それでもし祐一がいなくなったら。
私は、誰を支えにしたらいいんだろうって。
それに気付いたら、すごく怖くなったの。
だから、逃げ出した。
誰も頼れないなら、最初から一人の方がいいと思ったから。
それならきっと、いつか強くなれるなんて言い訳しながら、ただあても無くふらふらしてた。
その日その日を生きるために、恥知らずな仕事もやりながら、ただ生きてた。
死んだ方がいいとも思えた日もあったよ。
でも、死ねなかった。
・・・どうしてだか、分かる?」
・・・俺には答えることができなかった。
そんな俺に、名雪は言った。
あの日、あの場所で再会した時と変わらない笑顔を浮かべて。
「祐一が、いたの。
そんな事を考えた時に限って、そこに祐一がいた。
祐一の声が聞こえた。
なんて言ってるのかは分からなかったけど、とにかく怒ってたと思う。
そんな風に思ってしまうほどに、私は祐一を想ってた。
もう会えないし会うつもりなんかなかったのに、祐一の事を想ってた。
それだけで、生きていけた。
今までは、無理だったけど・・・
今日やっと、そのことを素直に認めることができたの・・・」
「名雪・・・」
「正直に言うと・・・まだ、怖いよ。
でも、この半年、お母さん・・・晴子さんと暮らしてて、分かった。
・・・ううん。本当は、きっと分かってた。けど、今の今まで、見て見ぬふりをしてた。
晴子さんとの暮らしは、いつか終わるものだった。
それが前提だったから、私はあの人と一緒にいた。
そうと分かっていても、私は楽しかった。
夢みたいだった・・・
多分、晴子さんもそうだったと思う。
でも、夢はいつか終わるものだよ。
・・・いつか終わる事が分かっているのなら、それは夢も現実も変わらない。
だったら、その時が来るまでに、夢のように楽しい時間を作っていくしかない。
・・・・・そのことに、気付いたの。
その証拠にね。
あの日までのこと。
短い間だったけど、祐一とお母さんと家族三人で過ごした時間。
私の中で、今だって、すごく光ってるもの・・・」
・・・ああ。
そうだよ、名雪。
あの日々は。
俺の中でだって、今も燃え続けてる。
その灯火があったから、今俺はここにいるんだ・・・
そう伝えたかった。
でも、もう言葉では伝え切れなかった。
だから俺は、名雪を抱きしめた。
まだ数えるしかない程度の抱擁。
それでも、この感触だけは忘れない。
絶対に忘れてやらない。
「祐一・・・」
「・・・痛い、か・・・?」
「・・・もっと、強く・・・・」
「・・・わかった」
強く。強く。
それは、初めて触れ合った時では分かりえないモノ。
少なくとも、俺と名雪ではそうだろう。
初めて触れ合った日の純粋さなんて、今の俺たちにはない。
この二年間で色んなものが、お互い混じってしまっていた。
自分の醜さ、世界の汚さ、愛情の裏返し、自己満足、自己欺瞞・・・
例を上げればきっときりはない。
それは、この雪と同じだ。
雪は汚れていく。
落ちた雪もそうだが、この空を舞う雪も見えないところから汚されている。
人が、汚していく。
でも。
「もう一度、聞くぞ。名雪」
「・・・うん」
「俺と一緒に、あの町へ、帰ろう」
「・・・うん・・・・・・・!」
それでも、雪は降る。
真っ白いままか、それとも色を変えてしまっていくのか。
それは分からない。
でも、雪が降り続ける限り、俺は、俺たちは記憶し続ける。
かつて純粋だった雪の事を。
かつて俺たち自身もそうであった事を。
俺たちが、確かにそこにいた事を。
いつか全てがこの雪に埋もれても、空を舞う雪を見るたびに笑顔でいられるように。
進みます
戻ります