双星乃詩〜悲しき交錯〜
季節は巡る。
夏が終われば冬が舞い降りる。
冬が終われば春が目覚める。
春が終われば夏が生い茂る。
夏が終われば秋が散っていく。
そして、秋が終われば。
「ご乗車ありがとさん。また使ってくれよ」
その運転手の言葉に俺達はそれぞれに応える。
国崎は「ああ」と呟き、遠野は首を縦に振り、俺は軽く手を上げた。
それを見届けてから、そのバスは再び動き、その場から去って行った・・・
「やれやれ、長い旅路だったな」
「・・・・・」
いつもなら国崎の言葉に何か反応を返すはずの遠野は何も言わずただ空を見上げていた。
空は、曇天。
そして、その空からは雪が降っていた。
・・・あれから、一年。
名雪に再び出会うために旅立ってから一年の時が流れていた。
空から降る雪を見て、その事実を改めて認識した。
何かが変わったわけじゃない。
でも、この一年でよく分かった事がある。
やっぱり、俺は・・・
「・・・しかし、ここに雪が降るなんて・・・・想像できなかったな、俺は」
俺の思いを遮るように、国崎が呟いた。
国崎も、遠野と同じ様に空を眺めていた。
今、俺達が立ち寄ろうとしている町。
そこは、国崎と遠野が出会った町・・・らしい。
そこに立ち寄りたいと言い出したのは、遠野だった。
『夏には、いけなかった・・・
どうしても、あの日々を思い出してしまうから・・・
でも、冬なら・・・』
彼女はそう言っていた。
その時のことはよく覚えている。
路銀がなく、やむなく三人で橋の下に野宿した、一ヶ月前の事だった。
それを聞いた国崎は「・・・そうか」と言って、なら資金を準備しようと言い出した。
俺も、心から賛同した。
彼女が、もう一度現実に立ち向かえるのなら。
俺も、そしてどこかにいるはずの名雪も、きっとまだ頑張れるような気がしたから。
・・・そして、今、俺達はここにいた。
「・・・さあ、これからどうするかは・・・おまえ自身が決めろ。
何者でもない、遠野美凪の意志で決めるんだ」
国崎は、遠野の眼を見据えた。
遠野は、その眼を、その眼が持っている意味を、時間をかけて受け取って、言った。
「・・・家に、帰ります」
「・・・わかった。俺と相沢は、駅にいる。
今日、日が沈んだ頃出発する。
・・・それで、いいな?」
「・・・はい」
「じゃ・・・頑張れ」
「・・・はい」
・・・俺は何も言えなかった。
事情は、ある程度なら知っている。
だが、その時その場にいなかった俺が、彼女に何を言ってやれるのだろうか?
きっと、言えない。
それでも、彼女には、何かを伝えたかった。
そういう想いから彼女を見ていると、遠野と眼があった。
遠野は、微かに笑った。
微笑みかけて、言った。
「・・・相沢さん・・・・私は、大丈夫ですから」
「・・・うん」
「がっつ」
彼女は小さくポーズをとって、歩き出した。
「行って、きます」
その言葉を最後に、少しずつ遠ざかるその背中を、俺と国崎はただ見守っているだけだった。
共に行く事はできない。
ここからは、彼女の旅だから。
「・・・・・いっちまったな」
「・・・・・ああ、行ったな」
遠野さんの背中が完全に消えてから少し経って、俺たちはようやっと言葉を交わした。
「・・・これで、遠野が帰ってこなかったら・・・どうするんだ?」
「言ったとおりだ。ここから、出る。
一人だった頃の・・・昔に戻るだけさ」
俯き加減の国崎の表情は、長く伸ばした前髪でよく見えなかった。
声からは、感情を読み取れなかった。
だが、そこには何かが堆積しているように、俺には思えた。
・・・だからと言ってそれに潰されて沈黙しているのはごめんだ。
「・・・俺はどうするんだよ」
「知るか。自分で考えろ」
「けっ。そう言うと思ったよ」
「・・・なんにしても、全ては夜だ。
今、ここでお前と話していても仕方がない」
「・・・それには賛成だ。じゃ、その駅とやらに向かうとするか」
「そうだな・・・と言いたい所だが・・・・」
そこまで言うと、国崎はふい、と顔を上げた。
「一つ寄りたい所があるんだが、いいか?」
「・・・そりゃいいが・・・・何処に何をしに行くんだ?」
「・・・前にこの町に来た時に世話になった奴の所に、だ。
挨拶ぐらいはしておこうと思ってな」
「・・・構わないが」
「助かる」
そう言って、国崎は歩き出した。
その後を、俺はゆっくりとついていった。
海沿いの道を俺たちは歩いていった。
寒風が、刺すように俺たちを煽る。
雪はまだ降っていたが、積もるような雪ではなかった。
「・・・・・夏はな」
「あ?」
「・・・ここの夏は、ホントに嫌になるくらい暑かったんだ」
歩みを止めないまま、国崎は独り言のように・・・いや実際独り言なのかもしれないが、呟いていた。
それは、俺たちには珍しい会話の形だった。
話し掛けるのは概ね俺だったし、俺が遠野と国崎の話に入ったりの事のほうが多かったから。
「・・・そうなのか」
「ああ。道端で芸をやっても、ここじゃ全然受けなくてな。
暑いわ惨めだわでまさに地獄だったぞ」
「そうか。・・・それで?」
「・・・それで、と聞かれると・・・・別に、としか答え様がないな」
「・・・なんだそりゃ」
「でもな・・・この町の事は・・・・きっと忘れない。
この先、この町であったどんな辛い事よりも遥かに辛い事があっても・・・俺はきっとこの町の事を、忘れる事はないだろう」
・・・そこで、俺はなんとなく気付いた。
こいつが、らしくない理由も。
イヤに饒舌な理由も。
こいつは・・・遠野のことを思っている。
それゆえに別れを惜しんでいる。
それでも、遠野の幸せのために、何も言えないでいる。
・・・そんな気が、した。
「・・・いらない事をしゃべりすぎたな」
ピタリ、と国崎は足を止めた。
そこには、周りの景色の溶け込みそうなほどに普通の家があった。
「・・・ここか?」
「ああ」
国崎は玄関口に立つと、何の遠慮もなくずかずかと敷地内に入り、がらりと扉を開いた。
「・・・・・おい。誰もいないのか?」
「・・・・・・・・はーい」
扉が開く音が聞こえたのか、奥から誰かがパタパタと出てきたようだ。
敷地に入るのが躊躇われて、玄関口に立ったままの俺からはよく見えない。
・・・だが、その誰かが出てきた時の国崎の動揺の声は・・・分かった。
「・・・・・お前、誰だ?」
その声は、何処か問い詰めるような声だった。
予想を、いや信じていたものに裏切られたような、そんな声音だった。
その原因を作った”人物”はそこで少し悩んでから、言葉を紡いだ。
「え、と・・・ここの居候、かな?」
え?
その声を聞いた時、俺はビクッと身を震わせた。
「・・・晴子は?観鈴はどうした?」
「・・・その、お母さんは、お仕事中かな」
まただ。
この声。
聞くたびに、震える。
頭が理解するよりも先に、震える。
「・・・ふざけるなっ・・・・お前は晴子の娘だってのか・・・?!」
「・・・・・違うけど・・・そうだもん・・・・」
俺は・・・一歩踏み出した。
確かめなくてはいけない・・・・・!
「・・・・・わかった。それでいい。そういうこともあるのかもしれない。
晴子は突拍子もない奴だからな。
だが、一つ教えてくれ。
観鈴は。神尾観鈴はどうしたんだ・・・・・?
学校じゃないのか・・・?」
「それは・・・」
その声・・・!
俺の中で、それが確信に変わる時、そして、その姿を見た瞬間に、それは、確定した・・・・・
「名雪っ!!!!!」
俺は、叫んだ。
と、同時に国崎の脇をすり抜けて、玄関に入る。
そこに立っていたのはポニーテールの女性。
でも、その程度で見紛うはずもない。
その顔、その雰囲気。
間違いなく、俺の知っている、水瀬名雪だった。
「・・・!!・・・ゆ、祐一・・・・・・・・!??」
名雪も俺の顔を見て愕然としていた。
だが、次の瞬間にはついと顔を逸らし、俺たちの脇を通り抜け、外へと飛び出していった。
俺もとっさに反応して、その腕を掴もうとしたのだが・・・
「うおっ!??国崎ッ!!邪魔だ!!」
「う・・・!?」
ぼう・・・としていた国崎が事態についていけずそこ・・・俺と駆け抜けていく名雪の間・・・・にただ立っていたために、俺の伸ばした手は名雪の腕をかすりはしたものの、服に指を絡ませる事すらできなかった。
その一瞬の間に名雪との差は随分離れてしまっていた。
「・・・名雪、待てっ!!」
俺は呆然としている国崎を置いて、名雪を追うためにただ走った・・・
・・・あっという間の出来事だった。
俺はただ、神尾観鈴のお人好しそうな顔を見れれば良かった。
そう思ったから、この家に来ただけだったのに。
それで、あいつは喜んでくれる。
そして、俺も、この胸の内にある何か・・・痛む何かを忘れられる。
それだけのつもりだった。
それなのに。
「・・・・・・・・」
後に残された俺には、何もする事はなかった。
あいつが追った女はどうやらあいつの”無くした昔”らしい。
なら、それを追うのはあいつの仕事で、あいつの旅だ。
それに、今の俺にはそれ以上に気にかかる事が・・・・・
「ちょっと、そこのあんちゃん。人の家で何してるんや・・・?」
思考に入りかけた俺の耳に、その声は聞こえてきた。
振り向くと、そこには懐かしい顔が立っていた。
「よう晴子」
思わず、俺は手を上げてそんな事を口走っていた。
すると、その女・・・神尾晴子は俺の顔をじっと見て、そこでようやっと、気付いたようだ。
俺が俺であることを。
「あんた・・・居候か・・・・?」
「俺以外に俺はいないだろうが。
久しぶりでなんだが・・・そんな事よりも聞きたい事がある」
晴子はその言葉だけで俺が何を知りたがっているのかを察したようだった。
しばし、微かに視線を逸らしつつ考えていたようだったが、ふっと息を吐いた。
それは一息なのに、疲れ果てているようなそんな印象を俺に与えた。
「わかった。聞いてやるさかい、家に入り」
「・・・すまない」
「・・・なんやあんたも随分丸くなったもんやな。
まあええわ」
そうやって、俺は約一年半ぶりに神尾家の敷居をまたいだ。
・・・・・そして。
そこで、知りたくもない事を知らされることとなる・・・・・
なんで?
どうして、ここに祐一がいるの?
私はそんな想いで、雪が降り始めたこの街を疾走した。
本当に、全力で走った。
なのに。
どうしてだろう。
見る見るうちに速度が落ちていく。
あっという間に息が切れていく。
私は、陸上部の部長だったのに。
私の後ろを走っていた祐一が徐々に追いついてくる。
距離が詰まって行く。
昔は、私の手加減でも息を切らせていたと言うのに。
変わる風景の中で。
粉雪が舞う世界の中で。
私は、一体何をやっているんだろう。
昔は、捨てた。
もう、昔は昔。
何で、今更・・・?
・・・そんな事に気を取られていた所為なのか。
「きゃっ!?」
凍った地面にか、元々滑る様な何かだったのか。
私は地面に足を取られて、バランスを崩した。
倒れる・・・・・!
私がそれを覚悟した時だった。
がっ・・・・・
倒れかけた私の身体を力強い腕が支えた。
・・・分かっている。
昔、抱きしめられた時の感覚とは違うけど。
これは、間違いなく。
私の知っている相沢祐一だ・・・・・
「名雪!大丈夫か!?」
でも。
その呼びかけに応えるわけには行かなかった。
今の、私は。
「・・・人違い、だよ。
私は名雪じゃない・・・私の、名前は・・・・美鈴。
神尾、美鈴だよ・・・・・」
「・・・観鈴が・・・死んだ・・・・・?」
その事実は晴子の口から出た。
その事実は一年前三人で談笑していたこの場所で聞いた。
だから、それは酔っ払いの戯言か冗談だと信じたかった。
だが、それを語った晴子は今に限って酔ってはいなかった。
何故、今に限って。
初めて会った時のようなら。
俺は、それを否定できたのに。
「・・・・・事実や。
去年の夏。
あんたが顔を見せなくなった頃か・・・・家に帰ると・・・あの子、具合悪そうにしてた。
夏風邪を引いたから寝てれば治るとあの子は言った。
うちはそれを鵜呑みにした。
あの子も、歳の上からだけ見ればもう大人やさかい、自分の体調くらい管理できると思うてた。
癇癪とかとは違うさかい平気やと思っとった。
そして、次に家に帰ったら、あの子は・・・・・死んでた。
ただ寝ているように息をしとらんかった。
・・・それが、全てや」
「お前・・・・・・ッ!!」
俺は自分でも信じられないほどの激情から晴子の肩に掴み掛かった。
「お前は、あいつの母親だろうが・・・・!!」
「そんな事家族でもないあんたに言われたくないっ・・・・!!」
顔を俯かせ、俺と向き合うことなく晴子は言った。
血を吐くように。
・・・その姿を見て少し冷静さを取り戻した俺は掴んでいた肩を話した。
晴子の白い肌はそこだけ赤くなっていた。
顔を俯かせたままで、晴子は呟いた。
「・・・あんたが・・・・約束を守ってくれてたら・・・良かったのにな・・・・」
「やく、そく・・・・・」
それは一年前この家を出る時に交わした約束。
”たまには遊んでやってな”
”わかった”
”約束やで”
それは、ささいなことだったのかもしれない。
俺も、晴子自身もおそらく特に意識すらしなかった約束。
それが今はこんなにも重い。
・・・なんてことだ。
俺は・・・晴子に何かを言う資格なんてない。
俺も・・・同罪だ。
一回でも気が向いて遊びに行けば。
観鈴の体の異常に気付いていたかもしれない。
その時何をしていたかは・・・問題ではない。
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
そこにはただ、重い空気が底の存在しない沼のように存在していた・・・・・
・・・それからどれくらい経ったか・・・・晴子が思い出したように口を開いた。
「なあ・・・あの子・・・・・ここに居った女の子、知らんか?
留守番、頼んどったんやけど・・・」
その表情は先ほどとは質が異なる、真剣なものだった。
「・・・ああ、どっかに行った。
俺の旅の連れの顔を見たら、真っ青な顔でな」
「・・・なんやて・・・・?」
「・・・なあ、あいつは誰なんだ?」
「・・・この家の二人目の居候で、今のうちの娘。
ちょっと前に、海でひろったんや。
猫みたいに懐いてな・・・
・・・・・それより旅の連れってどういうことや?」
・・・正直、気は進まなかったが。
自分だけ聞いておいて人の質問には答えないというのが癪で、俺はかいつまんで説明する事にした。
あの夏から今に至る道を。
・・・悲しみが、少しでもまぎれるように。
「神尾美鈴・・・?
お前、何言ってんだよ・・・・?
お前は、水瀬秋子の娘で、相沢祐一の従姉妹の水瀬名雪だろうが・・・?!」
俺は名雪の肩を掴んで揺さぶった。
名雪は、その揺れが収まった後、ぐっと下唇を噛んだ。
俺はその名雪らしからぬ所作に動揺した。
「名雪・・・?」
「祐一は、勝手だよ。
七年前は自分の都合で色んな事忘れといて・・・
今度はいきなりやってきて自分の考えを押し付けるの・・・?!」
「名雪・・・」
「私は、名雪じゃない。
名雪は、いなくなったの!
だから、放って置いて!!」
名雪は俺をドン!と突き放して来た道を走り去っていった。
今度は、俺に追う気力はなかった。
それは、自分の罪を指摘されてしまったから。
俺は、忘れていた。
かつて、名雪を自分の都合で拒絶し、あまつさえそのことを記憶の奥へと追いやった事を。
かつて、名雪はそのことを許してくれた。
でも、それはあの時において、でしかない。
罪は基本的には消えないものだ。
例え当事者達の納得があっても、被害者が”記録”している限り。
加害者が”記録”している限り。
本当に罪が罪でなくなる時は、その罪についてそれぞれが許し、納得した上で、そのことを記憶の奥に追いやる事ができた時だ。
それは忘れる事とは違う。
記憶した上で、そのことを思い出すという行為の優先度を限りなく下げる事ができるかどうか・・・・・そういうことだ。
つまり、俺は。
あの時からずっと、
まだ罪を背負ったままだったという事に他ならない。
名雪が、その事を克明に記憶していたのだから。
「・・・俺は、どうすればいいんだ・・・・?
教えてくれよ、名雪・・・秋子さん・・・・・・」
俺は、雪の降る空を見上げて、ただ途方にくれた。
あの日、最後に名雪と約束した時と変わらないままに。
「・・・ただいま・・・・」
私はゆっくりと扉を開いた。
玄関にはお母さんの靴が置いてあったので、それでもうお母さんが帰ってきていることを知った。
その横には少しボロボロになった男の人の靴が置いてあった。
少し応対をしたあの人の靴なのだろう。
どうやら、お母さんに会えたらしい。
お母さんの昔の知り合いらしいあの人が一体何をお母さんと話しているのか・・・興味はあった。
できれば、聞いてみたい気もするのだが・・・・・
そんな事を思いながら家に上がった時だった。
奥の方からさっきの男の人が出てきた。
・・・どうやらお話は終わってしまったようだ。
「あの、お母さんは中ですか?」
「・・・・・ああ。
相沢との話は、終わったのか?」
それで、私はこの人と祐一が知り合いだと理解した。
「・・・話して、ないです」
「あんたが、それでいいならいい・・・と昔の俺なら言うだろうな。
だが、これだけはいっておくぞ。
この一年間のあいつは・・・あんたに会うために必死だったぞ。
それだけは、確かな事だ」
「え・・・?」
「少しでも話す気になったら、この街のもう使われていない駅に来い。
場所は晴子が知っている。
少なくとも、今日の夕方頃までここにいるからな」
「・・・・・」
「じゃあな」
それだけ言ってしまうとその男の人は、私の横を通り過ぎ、家を出ていった。
残された私は・・・ただ立ちすくむだけだった。
今更。
今更そんな事をいわれても困る・・・
勝手に何処かに行ったのは私だということは分かる。
祐一を裏切ったのは自分自身だということも自覚している。
それでも。
それでも。
全てが、今更だった。
私は、神尾美鈴なのだから。
「美鈴。おかえり」
私がぼうっとしていると、奥からお母さんが出てきた。
私はさっきまでの煩悶を心の底に追いやって、笑った。
「ただいま、お母さん」
それを見て、お母さんは不安げな表情を浮かべた。
「・・・なあ」
「なにかな」
「あんたは・・・何処にも行かんよな?
ここに、ずっと居てくれるよな?」
その声は、お母さんらしくないと思わせるほどに弱々しかった。
・・・私は、この半年間、この人と暮らしてきた。
だから知っている。
・・・この人は、見た目ほどに強くない。
だから、誰か一緒にいないといけない。
私は、微笑を浮かべた。
もう、この人が悲しまなくてもいいように。
「うん。
わたしは、ここにいるよ」
・・・でも。
心に掛かる靄を。
私は、自覚していた。
俺たちは、駅にいた。
二人とも、何も語ろうとはしなかった。
俺は、せっかく見つけることができた大切なものを取り戻す事ができなかった。
国崎は、何かを失ってしまった。
俺たちは遠野のためにこの町に来て、考えてもいなかった事に出会った。
そして、なにもできなかった。
予想だにしていなかったから、そうだったのだろうか?
仮に知っていたとして。
俺はあの名雪の言葉に応える術を持っていただろうか?
国崎は、その事実に耐えうる術を持っていただろうか?
否、だろう。
いつだって、だれだって。
痛いものは、痛い。
そして、事実というものは、変えようがない。
これから先の未来を変えることができても、起こってしまったこと、過ぎ去ってしまった事を覆す事なんて、俺たちにはできない。
俺が名雪を裏切った過去は変えられない。
国崎が遠野を道連れに選んで、この町を出て行った事も。
名雪がこの町に辿り着いた事も。
国崎が出会った誰かの不幸も。
そして。
「・・・遠野」
国崎が呟いた。
雪の舞う中、その道の果てに遠野が姿を見せた。
いつの間に、そんなに時間が経っていたのだろう?
この間買った100円の安時計は夕方といわれる時刻を指していた。
遠野は、歩いてきた。
その足取りは・・・・ふらふらとしていた。
それでも、俺たちは動けなかった。
俺たちも、同じだったから。
やがて、俺たちの前に遠野は辿り着いた。
震える足を晒したままで、言った。
「国崎さん・・・・相沢さん・・・・
お母さん・・・お母さんが・・・・・・」
それだけ言うと、遠野は国崎の胸に飛び込み、泣き崩れた。
この一年共に旅をしてきた俺も見た事がないほどに、彼女は泣いていた。
「遠野・・・・・・・」
「国崎さん・・・・・・国崎さん・・・・・・・っ・・・・・・」
俺は、それただ黙ってみている事しかできなかった。
そこから去る事も、
何かを言ってやる事も、
できない、ままに。
遠野の母親が、心労によって亡くなった。
その事実を知ったのは、それから少し経って、遠野が落ち着いてからの事だった。
自分の心に整理をつけて。
今一度現実に向き直ろうとした結果がこれだった。
遠野は現実に立ち返る機会を失ってしまった。
彼女は、これからどうするのだろうか?
そして、俺たちも・・・
進みます
戻ります