双星乃詩〜偽りの再生〜







私は、あの日、ずっとそこに座っていた。
私の部屋に、ずっといた。

立つ気にはなれなかった。
ただそこに居続けた。


・・・かちゃり。


そんな私の耳に入ったのは、目覚し時計のスイッチが入る音。
祐一が私に返したあの目覚し時計の。

そこから流れ出た言葉は、私の心に響く言葉だった。
ずっと私の側に居続けるという祐一の言葉だった。

私は嬉しかった。
嬉しくて嬉しくて涙が出た。

私は立ち上がった。

行こう。
祐一のところに。

そう思って立ち上がった。

服を着替えた。

さあ、行こう。

そうやって玄関にきた瞬間。
・・・私は思い出してしまった。

数日前ここでお母さんと最後に交わした会話のことを。

私は、お母さんに気をつけてねと言った。
お母さんはそれは自分の言葉だと言った。

それは日常だった。
でも、それは数時間後に裏切られた。

日常が悪夢に変わった瞬間だった。

お母さんはきっといつもどおりに帰ってくるつもりだったのだろう。
でも、帰ってこれなかった。

なら、祐一は?

祐一は側にいてくれると言った。

でも、それは絶対じゃない。

祐一の言葉を信じた次の日には、いなくなってしまうかもしれない。

祐一は信じられる。

でも、この世界は信じられなかった。

お父さんを奪い去り、お母さんを奪い去ろうとしているこの世界は。

私は玄関でうずくまった。

怖くて怖くて震え続けた。

もう誰かをあてにすることができないことを知ってしまったから。


・・・もう、この家にいることはできない。
祐一が帰ってきてしまえば、私はきっとそれをあてにしてしまう。
そして、祐一がいなくなってしまったときにまた苦しむことになってしまう。

「もう、いや。いやだよ。何かを失うのも、頼りにしていた誰かがいなくなるのも」

私は、目覚ましにメッセージを残すと、ありったけのお金を持って、家を飛び出した。
行く先なんて知らないし、何処でも良かった。

駅前に辿り着くと、祐一の姿を見る事ができた。
雪まみれになりながら、ただそこに座り続けた祐一の姿を。

「・・・祐一・・・」
ともすれば駆け寄りそうになる気持ちを抑え、私はその場を後にし、この駅で買う事のできる一番遠くまでいける切符を買った。

そして、私はすべてを置き去りにしたままで、この町を離れた・・・



「ご乗車ありがとさん」
その運転手さんの言葉に微笑み返して、私はバスを降りた。

そこは、陽炎が立ち昇る田舎町。

・・・微かな風が吹いた。
だが、その程度では額から噴きだす汗は止まりそうにない。
長く伸ばしたままの髪は、暑いので少しでも涼しくなるようにポニーテールにしているが、焼け石に水だった。

久方ぶりで、それでいてかつてよりも激しいその感覚で、あの街では知る事が出来なかった本当の夏を私ははじめて知ったような気がした。

といっても、もう八月も終わりだけど。

・・・あれから、約半年が過ぎていた。

家から持ち出したありったけのお金はさっきのバスで尽きてしまった。

そして、そのお金が尽きたときこそ、すべてを思い返すときだと決めていた。

ここが私の到着点だった。



「・・・・・これからどうしよう・・・・・」
海のすぐ側の防波堤に私は座り込んでいた。

ここから先は、私自身が決めなければならなかった。

今までは単なる逃げだったし、ただの時間稼ぎだ。
・・・私が、これからどうするかを決めるための。

そのために半年もの間、彷徨っていたのだから。

いやな目にもあった。
怖い思いもした。
したくないこともやった。

それでも、歩みを止めなかったのは、後ろを振り向くことをしなかったのは、今このときのためだった。


このまま、この街で暮らすのか?
それとも何処かへと歩いていくのか?
ここで、死ぬか?
それとも・・・


私は祐一のいるあの場所への帰還を考えて、首をぶんぶんと横に振った。


(・・・いまさら、帰れないよ。祐一にあんなひどいことをした私が・・・・それに・・・おかあさんも・・・・)

私は、知っていた。
病院に連絡を取って知っていた。

お母さんはもういないことを。


だから、あの場所に戻る理由はなかった。
私を縛るものは・・・祐一と友人たちだけだ。
今となっては・・・決して断ち切れないほどではないはずだ。


もう私に、過去はない。


・・・かといって未来の展望があるわけでもないのが頭の痛いところだったが。


ふう・・・と溜息をついて、水平線の向こうを眺めていたときだった。

「・・・・・観鈴・・・・・?」

躊躇いがちなその声が私の耳を通り抜けていった。

そこに立っていたのは、長い髪の、スーツを着た女の人だった。

・・・何故だろう?
・・・その人は、お母さんだという気がした。

私のお母さんとは全然似てもいないのに。

その”お母さん”はゆっくりと歩み寄ってくると、言った。

「・・・はは・・・んなわけないのにな」

その力のない笑顔は、悲しかった。
何故だか分からないけど・・・心から悲しいと感じた。

でも。

私が、悲しいのか。
この女の人が、悲しいのか。

それは、分からなかった。

「え、と・・・」

「あ、気にせんでええよ。
なんとなく・・・娘に似てるような気がしてな。
全然、似ても居らんのに」

髪をかき上げて、その人は、海を見詰めた。
私も同じ様に見つめてみた。

・・・遠かった。

海は近い。
でも、その果ては遠かった。
空と、同じくらいに。


人は、死んだら天に昇ると言われている。
なら、お母さんはあの空にいるのだろうか?
でも、もしそうだとするなら。

あまりにも。

「・・・遠いわ・・・・」

私の心を見透かしたように、その人は言った。
だから、私も素直に言った。

「・・・遠いですね・・・・」


そう。
あまりにも遠すぎる。

私が、お母さんから受け取ったものは、大きい。
大きい、荷物だ。
一人で背負うにはあまりにも大きい。

そして、それを返しに行くのには、あの空の果ても、この海の果ても、あまりに遠すぎる。



ずっと、それを。

この先、ずっと。

私は、背負っていかなければならないのだろうか?



「・・・・・あんた・・・?どうしたん・・・・?」
「え・・・・?」
「涙・・・出てるで・・・・」
「え・・・?え・・・・?」

言われて。
私は自分が泣いていた事を知った。

何が悲しいのか。
何故こんなにも胸が熱いのか。

わかっていても、わからなかった。

・・・私は涙をぬぐった。
ただ、涙を否定したくてぬぐった。

もう、泣きたくなんてなかったから。

・・・でも。

ぬぐっても。

ぬぐっても。

ぬぐっても。

どれだけ必死にぬぐっても。
涙は、止まってくれなかった。

・・・私が、ただそれに全ての意識を向けていた時だった。
私の身体を、何かが包み込んだ。

涙をぬぐっていた手も、その何かで押さえつけられた。
それを私は、自分でも驚くほどの力で振りほどこうとした。

そんな私の耳に、声が響いた。

「もういい。もういいんや・・・。
泣きたい時は、泣いてもいいんや・・・・」

その声で。
私は、あの女の人に抱きしめられているという事に気付いた。

その事実に気付いても、私は、もがいた。
今まで、逃げる事で、そうしなかった分を、補うように。

それを、女の人は強く、抱きしめる事で諌めようとした・・・

「・・・泣くんや・・・・泣いとかなあかん・・・・!」
「・・・・・・・・・・・・でも・・・・・・・・・・・・・・!」
「泣けないようになるよりはましやっ・・・!!」

最後のその叫び。
それは私の耳から入って、頭を、そして心を通り過ぎていった・・・


胸が詰まるような”苦しさ”。
外には出せない”痛み”。

それを形にするのに、人は泣かなくちゃいけないんだと、私は思った。



だから、私は、ただ空を見て泣いた。
海を見るよりも空を見て泣きたかった。



より広い空なら、きっと泣いた事へのいい訳も許されるような気もしたから。









それから、少したって。


涙のおさまった私はその人の家に招かれた。

「あれだと、まるでうちが泣かしたみたいで後味悪いからなー」
だ、そうだ。

私はそのにかっとした爽やかな笑顔をみて思わず笑った。
・・・こんなにいい笑顔をする人を、私はお母さん以外に知らなかったから。

みーんみーんみーん・・・

蝉の鳴き声が響く。
かつて住んでいた町との違いを否が応でも知らされる。

そんな音の隙間を抜けて招かれた家はどこか寂しさを感じた。
蝉の声以外に何も聞こえなくてあまりにも、静かだったから。

「あの・・・」
「ん?どした?」
「娘さんは・・・?」

女の人の後ろについて、縁側を通りながら私は口を開いた。
不躾だとは思ったが、娘さんの事を思うと聞いておきたかった。
帰ってくると知らない人がいるのは、あまりい心地はしないだろう。
もう夕方だし、そろそろ帰宅していてもおかしくないと思うのだが・・・

その問に女の人は、はは、と笑ってから振り向きも足を止める事さえせずに、

「娘は、もういない」

と言った。

まるで、なんでもないことのように。

その答を受けた私の方が・・・戸惑った。

「・・・え・・・・」
「もう、いなくなってもうた。
だから、気兼ねする事はない」
「・・・・・・・あ・・・その・・・」
「気にせんでええよ。昔の事やから」

女の人は、それ以上その事について何も言わなかった。
私も、何も言えなくなった。
そのままに、私たちは台所の敷居をまたいだ。


「・・・どない?」

片手にお酒の瓶を掲げたその人はじっと私の顔を覗き込んで言った。
テーブルの上には二人分のご飯。
少し早めの夕飯・・・・・それを一口食べて、飲み込み終わってから私は一杯の笑顔を浮べた。

「美味しいです、とても」

すると、その人は「そっか・・・」と、とても嬉しそうにお酒を飲んだ。
それを何度か繰り返しているうちに食事は終わった。
あっという間の時間だった。

「・・・もう、夜・・・・・」

窓から見える空が、それを知らせていた。

一日がこんなに短いとは知らなかった。
・・・いや、違う。
私は”そのこと”を忘れていただけだ。

夢中になれるものが。
共にいてくれる家族が。

そこに、あるのならば。

一日なんて、あっという間だという事を。


でも、それは今日だけだ。

もう、行かなくちゃいけない。

「・・・何処に行くんや?」

席を立った私にその人が問いかけた。

「・・・わかりません。でも、どこかに行かなくちゃいけないんです」

私は思ったままに答えた。
多分、適当な嘘をつくことはできたと思う。
・・・それは、この一年で、身に付けたものだ。

でも、嘘をつきたくなかった。
この人には。

それが、例え自己満足に過ぎなくても。

・・・そう、私は行かなくちゃいけない。
ここにいては、この人の暮らしの邪魔だ。

「・・・ありがとうございました。
このご恩は忘れません」

「ちょ・・・待ちぃな」

「・・・・・なんですか?」

「その・・・あんた・・・・恩、言うたな?」

「・・・はい・・・・」

「なら、それは返さんといかん・・・違うか?」

「・・・・・・・どうすれば、いいんですか?」

「・・・しばらく、ここで家事をしい。
恩の分働いたとうちが思ったら、解放したるから」

「・・・・・・・」

私は、考えた。
多分、こんなに考えたのは、あの冬の日、祐一に向けるための答を出そうとした時以来だったと思う。
そして、あの時と同じ様に、いくら考えても答えは一つしか出なかった。

「・・・はい」

「よっしゃ。そうと決まったら酒飲も」

「あれ?さっきも飲んでませんでしたか?」

「ちゃうちゃう、あんたも飲むんや。・・・え・・・っと・・・
あ。まだ名前も聞いてへんかったな。
うちは晴子。神尾晴子や。
・・・あんたは?」

私は、水瀬名雪、と答えようとして、やめた。
水瀬名雪はもういない。
あの冬に、いなくなってしまったのだから。

だから、私はこう答えた。


「水瀬・・・ミスズ。水瀬美鈴です」
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