〜生まれていた熱〜
……夜になって。
私は少し迷いながらも、今日もあの場所に出向く事に決めた。
川澄にどう思われようがやる事は変わらない……その筈だ。
何故か明確にならない思考に微かな苛立ちを覚えながら、玄関先でコートを着て、靴を合わせていた時だった。
「光昭」
「光昭さん」
名前で呼ばれ、今まさに家を出ようとしていた私は振り返った。
そこには、私の父と母が立っていた。
というより、待ち構えていたのかもしれない。
「ここ数日、この時間に出掛けているようだが、何をやっている」
案の定、推測通りと思える言葉を父が語った。
「……特に何も。
夜食や筆記具をコンビニに買いに行っているだけです」
一から十まで事情を説明する気も無く、私はそう答える。
父も母もとりあえずそれで納得したらしく『余り感心しないが』と言わんばかりの表情で言った。
「まあ、いいが。
くれぐれも、危ない事はするなよ」
「気をつけなさいね」
……私は知っている。
その『危ない事をするな』や『気をつけなさい』が親としての心配ではなく。
私の不祥事で、自分達の名や立場に傷がつく事を恐れての言葉だという事を。
「風邪を引かないようにね。
そんな下らない理由で学校を休んで勉強が遅れるなど馬鹿馬鹿しいでしょう?」
慣れていた。
そんな意味合いには随分前から気付いていたから、慣れている……はずだった。
「……」
「どうした光昭、返事は?」
「はい、父さん、母さん」
それなのに。
何故か。
慣れているやり取りに、今日は妙に時間が掛かった。
そんな会話の後、私は再び向かった。
彼女が居て、追い求める真実がある……夜の校舎へと。
「やれやれ、時間が掛かった」
白い息を零し、ぼやきながらも、私は校舎に入り込む。
これで三度目。
三度目の正直、とまでは言わないが、何かしらの進展は欲しい所だ。
そんな事を考えながら、私は廊下を進み、階段を昇る。
そうして歩いていると……目的の人物は、昨日同様の、初めて此処で遭遇した時と同じ場所に佇んでいて。
月光に晒された彼女の姿は、他に明確な灯りもないのにしっかりと視界に入っていった。
そんな彼女に、私は静かに歩み寄った。
「川澄」
少し悩みながらも、結局私は昨日と同様に呼びかける事にした。
だが。
「……」
川澄はこちらを一瞥さえしない。
昨日は反応くらいはした事を考慮すると、今日の事が尾を引いている可能性が高い。
(……やれやれ)
数時間前の事は、私としても申し訳なく思っているのは事実。
だが、謝罪の意は伝えている。
多少勝手ではあるが、他にそれ以上出来る事が無い……今考えている『一つ』以外に……のであれば、後は普通に接し続けていく以外に無い。
そうする中で、謝罪の意志を伝える以外にないだろう。
(……って、何を考えてるんだ、私は)
自分の考えている事に気付いて、私はなんとも言えない感情を抱いた。
普通に接し続けていくとは何だ?
その表現だと、私がこれからずっと川澄の近くにいるようじゃないか。
私が此処に……川澄の近くにいるのは、偏に真実の追究の為だ。
その為だけの筈だ。
ソレが終われば、彼女に用は無い。
余計な考えを頭を軽く振って散らしながら、私は彼女に声を掛け続けた。
「今日は、魔物とやらは出ていないのか?」
「……」
「制服だけは寒くないか? せめてマフラーや手袋ぐらいは持ってきた方がいいと思うが」
「……」
私の話し掛けに、彼女は耳を貸す様子は無い。
まあ、こうなる事は分かっていた。
元より彼女と私は水と油。
その上、今日の出来事を踏まえれば、こうなるのは当然。
そして、ソレが分かっていて策を講じないほど、私は愚かではない。
まあ、策というには些か子供じみているが……彼女には通用するかもしれない。
「所で川澄」
「……」
「ずっと、こんな所にいて空腹じゃないか?」
言いながら。
ここに来るまでに買っていたモノを取り出した。
「今日のお詫びを含めた差し入れだ。食べてくれ」
軽く持ち上げたコンビニの袋の中には、店員に温めさせたハンバーガーやおにぎり、缶コーヒーやお茶が入っている。
「……いらない」
そこで始めて、川澄が声を出した。
やけにキッパリとした、意志の篭った言葉だったのだが……。
(うーむ。説得力がないな)
彼女の視線は、幾度と無く彷徨い、チラリチラリと袋に注がれている。
……この様を見て、いらない、だなんて額面どおり受け取るのは不可能だ。
だから、私は確信を持って、言葉を紡いだ。
……ちょっと顔が緩み気味になっていたかもしれないが。
「そう言わないでくれ。
私の事は嫌ってくれてもいいが、食べ物には罪は無いだろう?」
「……」
「もしも君が食べないのなら、これはゴミ箱行きになるんだが……」
「……それなら、仕方が無い。
勿体無いと、お化けが出る」
折れたというべきか、我慢し切れなかったというべきか。
川澄は、スーッ、と手を伸ばした。
「ああ。是非そうしてくれ」
その物言いに苦笑しながら、私は袋を彼女に渡した。
それから、暫しの間。
微妙に私の腹を疼かせる匂いが辺りを漂った。
その間。
私は、自分の分も買ってくるべきだったか、などと思いながらも彼女が食事を進める様を観察していた。
こうして見る分には、彼女はごく普通の少女だ。
とても『ガラスや備品を毎晩叩き壊している不良少女』には見えない。
ふと、思う。
かつては『不良少女』の概念に引きずられていた私が、ここ数日における彼女の観察でそう思うようになったのは……私が僅かながらでも川澄舞を把握していっているからなのか、それとも逆に私が川澄の側へと引きずられつつあるのか、そのどちらなのだろうか、と。
(……いかんな、どうも)
そういう事を考える事自体が、私の中から客観性を失わせている証だ。
真実を追究する者が客観性を失っては話にならない……そう、分かっている筈なのだが。
「……」
黙々と、おにぎりを頬張る少女。
その口元には、一つ二つ米粒がついている。
彼女は、それに気付いているのかいないのか、ただ無心に食を進めていた。
……まるで、幼子のように。
図らずも、自分の考えは的を得ていたのか……。
いや、否。
そうではない。
『誰だって生きている限り、信じては裏切られる……そんな事の繰り返しでしょう。
その中で、人は強くもなり、弱くもなります。
あの子は、その中にいまだ入っていけない……そんな子なんです』
穏やかな眼差しで川澄を語っていた、彼女の母親の表情と言葉が甦る。
今にして思えば、あの言葉は……川澄舞という少女の外見とは裏腹の幼さの事も示していたのかもしれない。
その言葉があったから、私は差し入れのアイデアを思いついたのではないだろうか。
「……」
もう一度、視線を送る。
其処に立つ彼女は、ただただ食べ物に夢中だった。
そんな彼女をただ見ていると、どうにも……客観性だの、真実だの、難しく考えていた事が薄れていく。
いや、厳密に言えば薄れていくのではなく……その思考の横で、別の何かが湧き上がっていく。
それを認めたくない自分がいて。
「川澄。
……二つ、不愉快かもしれない事を訊いていいか?」
私は、そんな事を口にしていた。
「……」
今度は、チラリ、とこちらに視線を向けた。
微かな抗議が込められている……と思うのは、幾分私の思い込みだろうが、思い込みだけではないだろう。
それに微かに圧されたからなのか。
私は妥協案のような言葉を口にした。
「――答えてくれたら、今日の所は帰る」
その言葉に、川澄の眉が微かに動く。
それから数瞬後、川澄はポツリと呟いた。
「……なに?」
それが『答えるからさっさと帰ってくれ』という意思表示である事を認識して、私は言った。
「では、一つ目の質問だ。
君のお母さんは、君が此処に来ている事やその理由を知っているのか?」
嫌な質問だとわかっていながら口にする。
それは……確かに疑問ではあったが、疑問を晴らすというよりも、さっきの気持ちの延長上の言葉だからというのが大きいだろう。
そんな私の心の内など知る由も無く、彼女は答えた。
「知らない。言ってないから。でも……」
「でも?」
「それでも、出かける時はいつのまにか後ろにいて、見送ってくれる」
「……そうか。
なら、もう一つは……」
もう一つは、もしも彼女の母が彼女の事を知っているのなら何故止めないのか。
知らないでいるのなら、何故川澄自身が教えないのか。
そういう、彼女が答え難い、答えに窮するであろう事を尋ねようと思っていた。
それもまた、認めたくない気持ちの延長上に……その気持ちが何なのかさえ分からないのに……あるものだった。
だが……気付けば。
私は、全く違う事を尋ねていた。
「もう一つは……今日、君が出かける時、お母さんはなんて言って見送ってくれた?」
「……」
その問いに、何処か不思議そうに僕を眺めながらも、彼女は答えた。
「……今日は、”いってらっしゃい。寒いから風邪を引かないように、気をつけてね”」
「そうか」
「……」
今日、川澄の母親に会ったからだろう。
その様子は、手に取るように想像出来た。
そして、だからこそ。
先刻の父との会話が克明に浮かび上がり。
あの時の、慣れた会話に生まれた、微かな迷いの理由に気が付いた。
いつからだろうか。
私の父は。母は。
川澄の母のような眼で、私を見てくれなくなった。
何故なのだろうか。
交わした言葉に違いは無いのに。
秘めた意図……いや、心が違うのは。
だが、今、それを口にする意味は無い。理由は無い。
私の親と彼女の親には何の関わりも無いのだから。
だから、私はそれらを押し込める代わりに、こう言った。
「……君のお母さんは、優しいな」
「……」
そんな僕の言葉に、川澄は唯一つだけ、深く頷いた。
それは実に彼女らしいと私に思わせる仕草だった。
「じゃあ、約束通り今日は失礼するよ」
その川澄の姿を視界の端に納めながら、背を向け……そうして、私は校舎を後にした。
ソレはどう贔屓目に考えても……川澄から目を逸らしているように、逃げ帰っていくようにしか思えなかった。
「……まさか、私が川澄を羨む日が来るとはね」
寒風吹き荒む中、最後に校舎を見る。
その中に変わらず立つであろう少女を思うと……私の胸中は複雑なもので満たされた。
ただ、確実に言える事は。
その胸中を満たした感情は……どんなものにせよ、久しくなかった熱を帯びたモノだという事だけだった。
……続く。
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