第二十五話 中間点を越えて(前編)











「ん……うるさいなぁ……」

 枕元で鳴り響いている騒音で、霧里薫は目を覚ました。
 その騒音の元は、近くに転がしていた携帯電話からのものに他ならない。

「夏休みだってのに、なんだってアラーム鳴ってんの……まだイベントは少し先だし……」

 寝ぼけ眼で携帯のアラームを止めて、二度寝に入る薫。
 と、同時に彼女は頭の何処かで薄く考えていた。
 アラームを設定したのなら、それには何か意味があるはずだと。
  
 何かあっただろうか。
 楽しみにしている事、とは少し違うはずだ。
 そういう方向性の用事であればすぐに起きられるはず。
 じゃあ、一体……。

「……って、ああぁぁぁっ!?」

 そこで薫は思い出した。
 今日は夏休みに一度ある登校日当日だったという事を。
 それがない高校もあるが、薫達が通う高校は生徒にとっては不幸な事にソレが存在していた。
 生徒が夏休みだからと気を緩めすぎないようにと、夏休みの半ば頃にそれは設けられていた。

「……そっか、もう夏休みも半分かぁ……」

 何とはなしに呟く。
 心に浮かぶのは、薫自身よく分からない、なんとなくの寂しさ。

「って、そんな場合じゃなかった」

 慌てて携帯の時刻を確認する薫。
 幸い二度寝していた時間は三分程度。
 これなら少し急げば十分間に合うはずだ。

「急がないと、待たせちゃうよね」

 しかし、間に合うというのはあくまで学校に遅刻せずにいけるかの話。

 薫を朝待ってくれている彼……清く正しい(多分)男女交際をしている平良陸を待たせてしまうかどうかは微妙なところだ。
 ……いや、厳密に言えばいつも待たせ気味なのだが、それがいつもより長くなってしまうかもしれない。

 そんな訳で、薫はいつもよりドタバタと準備を進めていく。

 鞄等を準備・確認後、着替えを持って一階に降りる。
 寝ている間に掻いた汗をシャワーで落とし、
 いつもより少し大雑把に髪をまとめようとして、
 途中なんとなく陸の顔が思い浮かんだせいか、結局なんとなく出来なくていつもどおりにまとめなおした。
 その後、制服に着替えた薫は慌ててリビングの方へと足を向ける。

 リビングに入ると、そこにはいつもどおり……薫が学校に行く時と同じ様に万端な朝食準備が整っていた。
 そして、その朝食が並んだテーブルの側には、ソレを作った薫の継母、霧里佳織が立っていた。
 彼女は薫が現れた瞬間、待ってましたと言わんばかりの笑顔を浮かべて、彼女を迎えた。

「おはよう、薫ちゃん」
「おはよ、継母さん。
 今日もいつもどおり準備してくれてありがとね」
「それが私のお仕事ですもの」

 いつも、こうして暖かい食事を、温かい笑顔と共に準備してくれている母。
 薫にとって、それはとてもありがたいことであり、とても誇らしく、あたたかく感じられるものだった。


 自分には勿体無いと、少し思ってしまうほどに。


 その言葉を心の奥に押し込んで、薫は笑う。

「さすが我が自慢のかーさん。
 私もそういうお母さんになりたいものだわ〜」
「……」
「母さん?」
「えと、薫ちゃん、もう一回言ってくれる?」
「??? えと。うん。
 かーさんは、私の自慢のおかーさん。
 私もかーさんみたいなおかーさんみたいになりたい。……で、いいの?」

 若干言葉は違っているかもだが、込めた思いは変えずに言ったつもりだ。
 でもまたどうして……と薫が思っていると、
 佳織は「ううっ」と少し目頭を押さえた後、目の幅涙を流さんばかりの感動した様子で言った。

「うううっ、薫ちゃんにそんな風に言ってもらえるなんて私嬉しいっ……」
「え? あ、うん、その、そう、なんだ」

 薫としては素直な思いを口にしただけなのだが。
 こんなにも喜ぶのであれば、今後はもっと素直に色々話そうと薫は改めて思ったのだった。

「ああ、ごめんなさいね。ささ、早く食べて」
「……うん。ありがたくいただきます」

 そうして勧められた朝食に手をつけ、少し急ぎつつ平らげた薫は、テレビの時刻を確認する。
 どうやら急いだ甲斐はあったらしく、
 遅れ気味だった分を取り戻し、朝食終了時刻はいつもどおりぐらいの時間になっていた。
 ソレを確認し、うむ、と一人納得したように心で頷き、薫は継母に告げた。

「じゃ、私そろそろ行くね」
「ええ。……あ、薫ちゃん」
「ん? なに?」
「お父さんがね」
「……父さんが何?」

 お父さんというフレーズを出した瞬間、それまで上機嫌だった薫の表情が曇る。
 それに気付きながらも、佳織は言わないわけにはいかないと言葉を続けた。
 
「薫ちゃんの体を心配してたわ。体調とか、色々」
「……?? 私が健康優良児なのは知ってるでしょ? 変な事気にするのね」
「……。そうなんだけど。その、やっぱりあの人も心配なのよ。
 最近あんまり話してないから、多分余計に」
「ふーん。まぁ、いいわ。
 もし今日親父……父さんが遅くなかったら私から話すから」
「う、うん。そうしてくれる?」
「うん。大丈夫よ、継母さん。
 みんな家族なんだって、私にだってちゃんと分かってるから。
 まぁ、その、まだ素直になれない部分がちょっとあるのは認めるけど」
「……」
「かーさん?」
「ううううっ、薫ちゃんがそんな事を言ってくれるなんてっ!!」
「ああ、うん、いや、なんというか……ごめんね。
 じゃあ、その、そろそろ行かなくちゃだから。
 家に帰ってからまた話すから」
「うん、待ってるわ薫ちゃんっ!」
「……う、うん。じゃあ、行って来ます」

 ホント、もう少し素直になろうと思いつつ、改めて出発の言葉を告げ、薫はリビングを、家を出て行った。
 そうして薫がリビングから出て行くのを見届けた後、佳織は少し浮かんでいた涙を拭って呟く。

「……薫ちゃん、変わったのね。ううん、変わっていく途中なのね、きっと」

 家族に対しては頑なだった時代を経て随分柔らかくなったと思っていたが、
 それよりさらに柔らかく……女の子らしくなり、より素直になっているのを佳織は改めて実感した。

「やっぱり、恋すると人は変わっていくのね。
 あの人もそうだったように」

 そう思うとますます会いたくなってきた。
 薫を変えてくれている、平良陸という名前の少年に。

「ふふふ、今日催促してみようかしら」

 そうして薫帰宅後の会話を楽しみにしながら、佳織は薫の食器を片付け始めたのであった。











「うわ、ちょっと遅れ気味になってた」

 母との会話やそれ絡みの事を少し考えていた事から、
 折角稼いだ時間を潰してしまった薫は少し慌て気味に道を走っていた。

 そうして慌て気味だった事や、少し考え事から抜けきっていなかった事から、前方不注意になっていたらしい。

 曲がり角を駆け抜けようとした瞬間、
 別方向から現れた人間に驚き、避けようとした結果足をもつれさせてしまったのだ。

「にゃわっ!?」

 普段ならもっと気をつけてるんだけどなぁなどと思いながら転ぶ……転んだ、はずなのだが。
 
「あれ?」

 一向に身体に衝撃が走らない事に薫は気付く。
 それに少し遅れて、誰かが自分の手を握り、支えている事で、転ぶのを阻止してくれている事にも。

「……そろそろ、立ち上がってほしいんだけど」
「あ、ああ、ごめんごめん」

 薄い苦情の篭った言葉に謝罪し返しながら、薫は体勢を整え、助けてくれた人物に向き直る。
 そこに立っていたのは、薫と同じ制服に身を包んだ少女だった。

 驚くほどに白い肌に黒い髪。
 まさに『清楚』、まさに『大和撫子』と言わんばかりのその少女の容姿に薫は暫し見惚れた。
 その少女自身が声を掛けるまで。 

「どうかしたの?」
「へ? あ、その、貴方に見惚れてたのよー。凄く綺麗だから」
「……そうなの。褒めてくれた事には感謝するわ。私はそう思ってないけど」
「えー? うーん、それはなんというか、勿体無いというべきか。
 私的には凄い羨ましいのに、というか」
「何が?」
「え? ほら、なんかこう、上手く言えないんだけど、貴方、まさに日本の美少女って感じだから。
 私とは全然違ってて……」
「そんな事はないわ。容姿はともかくとして」
「容姿はともかくって……」
「私と貴方は、全然違ってなんかない。
 むしろ……私と貴方は、少し似ていると私は思うわ。霧里薫さん」
「……え? 貴方、なんで私の名前を」

 目の前の少女と自分には面識がない。
 こんな少女と出会っているのであれば、記憶に残らないはずがない。
 そう思って薫が首を傾げていると少女は言った。

「貴方はあの学校において結構有名人なのよ。
 その事、もう少し自覚しておいた方がいいと思うわ」
「えー? そんな事……いや、あるのかしら……でも、そう思うのは自意識過剰なような……」
「それはそうと、急いでいたんじゃなかったの?」
「あ、そうだった。
 思い出させてくれて、あと助けてくれてありがとね。
 えっと……名前とクラス、教えてくれない?
 今度改めて御礼に……」
「それには及ばないわ。
 いずれ、貴方と私は顔を合わせる事になる。
 だから、それはその時までのお楽しみにさせておいて」
「……それって、予知かなにか?」
「予感。私のそれ、よく当たるの」

 その言葉で、穏やかなのに何処か不敵な少女の表情で、薫は陸の妹である芽衣を……似た表情を浮かべる義妹っぽい少女を思い出した。
 詳しくは知らないのだが、芽衣は不思議なものを見る力があるらしい。
 であるならば。
 他にも同じような不思議な力を持っている人間もいるのかもしれない、と薫は眼前の少女の言葉になんとなく納得した。

「ふーん。まぁ、そういう事もあるのかもね。
 うん、そういう事なら、その時に。
 じゃあ、またね! ホントありがとっ!!」

 そうして太陽のような、輝かんばかりの笑顔で礼を告げた後、薫は駆け出した。
 駆け出した途中で一度振り返り、少女へと大きく手を振ってから今度こそ脇目も振らずに走っていく。

 そんな薫の行き先を少女は知っていた。
 平良陸という名の少年である事を知っていた。

「そう。いずれ貴方と私はまた出会う。
 平良君との関係性ゆえに。
 ……それが、良い記憶になれば良いのだけれど」

 そうして、彼女は……乃暮そらは薫の後姿を、小さく手を振り替えしながら見送った。
 何処か楽しそうにも悲しそうにも見える、おぼろげで儚げな薄い笑みを浮かべながら。







 ……続く。





第二十六話はもう少しお待ちください