第十七話 夏休みのその前に
夏休み。
それは、学生時代にのみ与えられる長い長い休日。
一度社会人になれば、お盆休みや正月休みはあっても一ヶ月以上の休みを取れる事などまずない(例外的な職業もありはするが)。
ゆえに満喫すべきものなのだが……学生達にはその前に越えるべき障害が存在している。
「というわけで、今日も例によって例の如く薫さんの為に協力してくれてありがとう、皆。
というか、特に月穂さん」
「ううう……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
でも数学が嫌いなのはしょうがないのっ! むしろ運命っ!?」
その障害……期末テスト数日前の、放課後の教室。
いつぞやのように机を寄り合わせた席に、陸、薫、由里奈、道雄、そして前回はいなかった明悟が座っていた。
ちなみに、教室には他にも数人がテスト勉強を行っていたりしている。
「……いや、なんつーかそこまで断言されると逆に感心するよ、俺」
「幾田君に同意するわ」
「いや、逆にも何も霧里さんだし、僕はただ感心するのみさっ!」
「……言っとくけど、それは逆に失礼だからな久能君。
というか、褒めればいいってもんじゃないだろ」
彼らは、今日からテスト前日の放課後までこの面子で勉強会を行う事にしていた。
基本的には理数系が壊滅的に苦手(本人は嫌いと主張)な薫のフォロー。
ソレを進めながら、他の教科を互いに教え合い、期末を赤点無しで乗り越えようという集まりなのだ。
下手をすると補習だらけの夏休みになるという恐るべき罠(自業自得だが)が待つ以上、薫達のみならず皆必死。
ゆえに、この時期の一致団結は学校生活でよく見られる光景と言えた。
そんな中の、この集団の提案者である所の平良陸は、皆をざっと眺めてから言った。
「じゃあ、まず数学の復習からにしよう」
「この集まりの一番の目的としては霧里の救済だしな。異論はない」
「フッ。右に同じく。というか霧里さんが赤点取らなきゃ他はどうでもいい」
「……自分もいいの?」
「当然っ!」
由里奈の突っ込みに、明悟は無駄な力を込めまくりつつ、親指を立てて答えた。
それは自分よりも薫が大事というアピールであり、本心だったのだが。
「馬鹿ね」
「ああ、馬鹿だな」
「うん、馬鹿だ。
薫さんがその事を気にしたりしたらどうするんだか」
「そうね。自分の勉強を手伝ったから、赤点取ったとかしょげ返ったり。
そうして夏休みを台無しにするのね」
「明悟のせいでな」
ソレに対し、薫以外の三人はいともあっさり無情な答を返した……というか無情の連打。
「おおおおっ!!? それは考えてなかったっ!」
「ははは……ま、まあ、久能君も赤点取らないように頑張ろうね。
勿論、陸君達もね」
「うん、当然。
じゃあ、範囲の最初から行こうか。えーと確か」
「59ページからよ、平良君」
「そうそう、そこから公式を確認しつつ行こう」
そうして。
薫の数学補強中心・対期末試験勉強会が始まった。
「え? そんな公式あったっけ?」
「あったあった」
「っていうか、この問題の時、薫さん当てられてたじゃない」
「う、うーん……記憶にないわ」
「凄いわね、最早記憶の拒絶・削除の域とは」
「いや、あのね由里奈、感心されても困るんだけど……」
「よし解けたっ!」
「ん、見せて。……おお、正解。
やっぱり、やれば出来るんだよ、薫さんは」
「あはは。まあね〜♪ よっし、次の問題も任せなさいっ!」
「……なぁ、微妙に惚気られてないか?」
「……やっぱり、そう思う?」
「単なるヒガミじゃないの?」
「うぬぬ……これ、難し過ぎよ〜」
「頑張って解きなさい、薫。この応用は確実に出るから」
『う、うーむ……』
「フフン、この程度の問題も解けないのか。特に平良君。
僕は既に解いているよ」
「ふむ。見せて御覧なさいな。
……久能君、最後の計算でミスってるわよ。良くて減点、悪かったら不正解ね」
「嘘っ?!!」
……そんなこんなで、一時間ほどが経過して。
「ううう、きつくなったし、ちょっと休憩しない〜?」
ソコにはダレダレになった薫が机に半分突っ伏していた。
その様子に、陸は思わず苦笑する。
ちなみに、周囲に残っていたクラスメート達は、陸達に一声掛けてから一人一人と立ち去っていき、
いつの間にやら教室に残っているのは陸達だけになっていた。
「……そうだな。じゃあ、ちょっとだけ休もうか。
俺ジュース買ってくるよ。皆、何がいい?」
そう言って立ち上がる陸。
校内にある自販機で、というのは言うまでもない事なので割愛する。
種類も結構豊富なのでワザワザ外に出る必要もないのだが。
「お。平良の奢りか?」
「……今日はね。でも缶は無しな」
此処の自販機には缶ジュース、紙コップジュース、パックジュースの三種類が揃っている。
その三種類で見れば、缶が一番高く、紙コップジュースが一番安い。
缶4人分の値段が紙コップでは5人分の値段とほぼイコールになる以上、陸の主張は当然と言えるだろう。
「ま、しょうがないな」
「というわけで各自要望をどうぞ」
「陸君、私コーヒーね。いつもの銘柄でお願い」
「俺はコーラな」
「僕は……そうだな、霧里さんと同じものを」
「はいはい。コーヒー一つとコーラ一つね」
「スルーっッ?!!」
「あ、ごめんごめんコーヒー二つな」
にこやかに訂正する陸を見て、道雄は少し引きつり気味に笑った。
「……なんか、平良の奴、明悟の扱いに慣れてきたな」
「少し陸君らしからぬ気もするけどね」
「いや、付き合ってるお前さんは分かり難いかもしれないが、平良は時々冷淡だからな」
「はいはい冷淡で悪かったな。っとと、月穂さんは何がいい?」
「私は一緒に行くから、必要ないわ」
言いながら、由里奈が席を立つ。
その言葉と動きに、陸は目を瞬かせた。
「え?」
「紙コップだと平良君だけじゃ大変でしょ」
「あ、だったら私が」
そうして席を立ちかける薫を、由里奈は手で制した。
「少し歩きたい気分なのよ。覚えが悪い教え子から少し離れて冷静になりたいし」
「あうううう」
「冗談よ。座りっぱなしで疲れたから歩きたいだけ。
まあ、薫が余程平良君と離れたくないなら遠慮するけど?」
「あ、う。その、それは、結構そうかもしれないけど……い、今は、いいか、な」
由里奈の発言に思いっきり赤面する薫。
そんな彼女に釣られて同じく陸も赤面した。
というか、度合いとしては陸の方が赤い。
以前の薫ならもう少し微妙に濁していた言葉ではないか……
そう考えてしまったので、薫の変化(?)に照れやら嬉しさやらが交じり合い、純粋な『照れ』だけの薫よりも赤くなってしまった、のかもしれない。
「おお、何気に大胆だな霧里」
「……く、くぅ……おのれぇ……」
「ハイハイ。冷やかしや嫉妬はさておいて、少し借りるわね。平良君?」
「……あ、うん」
その呼び掛けに、陸はまだ熱い頬をとりあえずさておいて、薫に言った。
「じゃあ、ちょっと行って来るよ。
薫さんは、ジュース買ってくるまで少し復習しとくように」
「えええーっ!!?」
「赤点は嫌だろ?」
「うぅ……分かったわ」
薫の返事に陸は満足げに頷き返し、由里奈と共に教室を後にした。
「っと、コーヒー二つと」
「こっちはコーラを買ったわ。後は互いの自分の分ね」
「了解」
夕焼けで紅く染まる校舎の壁に自販機が数台並んでいる。
その自販機で注文の品を買い終えた陸と由里奈は……ちなみに由里奈が買った分・買う分は既に陸が代金を渡している……最後に自身の飲む分を購入すべく硬貨を投入した。
「っと……なんにしようかな」
呟いて指を彷徨わせる陸。
(薫さんが首長くして待ってそうだし、早くしないとな)
思考半分を自販機に向けつつ、陸がそう思った時だった。
「……薫」
「え?」
ポツリ、と。
それでいてよく響く由里奈の声が、陸の耳に届いた。
思わず由里奈を見ると、彼女は自身の紙コップを自販機から取り出し、陸に少し遠くから眺めるような視線を送りつつ言葉を続けた。
「この間から、薫、少し変わったわね」
「……あ、ああ、うん。変わったかな。ってこの間って……」
「実はね、私、この間の事を薫に相談されたのよ。平良君のキス未遂事件についてね」
「ッ!!!???」
ブッ!!と思わず息を吹く陸。
かろうじてジュースを零したり、ジュースの中に唾を入れたりするのは避けたものの、結構ギリギリで、陸は色々な意味で冷や汗をかきまくった。
そんな陸の様子を見て、一瞬だけ由里奈は笑う……が、すぐに表情を微かに締めて、言った。
「あの時、私はしばらく距離を置くように助言した。
少し冷めた目で関係を見つめ直した方が貴方達の為になると思った」
「……」
落ち着いた由里奈の声と表情に、陸も自然落ち着いていく。
そうして、陸は由里奈の声に耳を傾け続けた。
「でも、そんな事をしなくても、貴方達は見事に関係を修復してみせた。
凄いわね」
「そ、そっか?」
「冷める事無く、熱を持ったまま、更に先へ。貴方達らしいわ」
「……」
「どうかしたかしら?」
「いや、なんというか……なんとなくなんだけど、詩的だな」
「私らしくないと?」
「あ、いや、その」
(……薫さんの癖が移ったか?)
考えながらも、タラーッ、とさっきの冷や汗とは微妙に違う方向に一汗たらす陸。
そんな陸に由里奈は言った。
「それは、貴方達のせいよ」
「え?」
「貴方や薫に関わってるとね、私は熱を帯びやすくなる。
本当の私は冷めていて、こんな事を言う人間じゃないのに」
「……」
瞬間、陸は何も言えなくなった。
自分の方を見やる由里奈に語るべき言葉が無かった……というわけではない。
何か……違和感というか、何かが引っ掛かるような感覚を受けて、何を言葉にすべきなのか分からなくなったのだ。
「言っておくけど、別に責めている訳じゃないわ」
それを『自分が問い詰めているように感じたから』と考えたのか、フォローのような形で由里奈は言葉を継いだ。
「どちらかと言うと……感謝してると思うわ。私自身、よく分かってないけど」
「……そう、か」
「そうよ。
さ、早く買って、行きましょう。今頃、薫が頭を爆発させてるわ」
紅く染まる校舎と共に染まりながら、微かな笑みを浮かべる由里奈。
その笑みは……綺麗というより穏やかで、陸が刹那感じた何かの違和感を忘れさせた。
そうして、通常思考に戻った陸は今やるべき事を思い出した。
「……そうだな。早く帰らないと、大変な事になってそうだ」
「でしょ? 早く戻りましょ」
「あー、それ持つよ」
「馬鹿ね。そうするなら、私が一緒に来た意味無いじゃないの。
それより早く自分の分を買いなさい」
「あう」
そうして、二人は来た道を戻っていった。
……交わした会話の『意味』に気付く事無く。
「休憩がてら話すけど……夏休み、この面子で遊びに行かない?」
その由里奈の言葉に、由里奈以外の四人は各々ジュースを飲む手を止めて、怪訝な表情を形作った。
それは、一時教科書を閉じた休憩モードに入った矢先の事だった。
「……そんなに意外だったかしらね?」
「うん、ちょっと意外」
思ったままを口にする薫スキル発動。
しかし、それは今回その場の面々の気持ちをこれ以上ないほど代弁していた。
ので、男三人もついつい、うんうん、と頷いて見せた。
その様子に、由里奈はクール風味な苦笑を浮かべる。
「まあこの提案が意外なのは自覚してるからいいけど。
……弁解を言わせてもらえればね。
私だって友達と遊びたいって思うのよ、普通に。
って、薫。どうしたの?」
「え?」
「変な顔して」
「えっと……なんか、由里奈の口から素直に友達って聞くの始めてかも、って思って。
正直、結構嬉しかったりして」
あはは、と上機嫌な笑顔を見せる薫。
「……ハイハイ。どうせ私は捻くれ者ですから」
そんな薫の顔を見て、由里奈は眼を逸らす。
……皆それを単純に照れだと認識した。
「ごめんごめん。由里奈許してよ〜」
それは薫も同じくだったようで。
薫は、照れを感じた由里奈の反応に照れて、彼女の手を取って握手風味に振り回した。
……どうやら当人的には照れながらも許しを乞っているつもりらしい。
「わ、分かったからやめなさい。なんか恥ずかしいから」
「あははは」
珍しく赤面する由里奈を見て、少し顔を赤らめた薫が笑う。
一見すると、中々に微笑ましい光景に見えるのだが……一つ、突っ込み所があった。
「”捻くれ者とか言うつもりじゃなかった”……って否定しないのな、霧里」
「いや、まあ……」
「うん、今更だよね……」
その『突っ込み所』を指摘した道雄の言葉に、陸と明悟はあらぬ方向に顔を背けつつ呟く。
『由里奈=屁理屈好きな捻くれ者』という認識は最早クラスに浸透していた。
……まあ、その原因は薫スキル発動しまくりの結果なのだが。
「あーごほん。まあ、それはさておき。
皆で遊びに行くってのは、いいよな」
咳払いで気を取り直し、薫と由里奈の様子を見た陸は素直な気持ちを言葉にした。
薫だけではなく、それで由里奈達や自分も楽しくなれるのなら悪くはない。
……先刻の由里奈との会話もあって、陸はそう思ったのだ。
まあ、そうなると確実に付いてくるであろう明悟の事を考えると気は滅入るが……ソレは別問題だ。
「うん。平良君の意見に同意なんかしたくないけど、いいのは事実だ」
「となると、霧里だけの問題じゃなく、俺らも絶対に赤点は出せないな。
元より出す気も無いけどな」
「そうと決まればっ!」
盛り上がる空気の中、ググッと拳を握りながら薫が立ち上がる。
「計画は徐々に煮詰めるとして。今は赤点回避の為に全力を尽くしましょっ!」
『そうするのは特にお前(君・あなた)だけどな(ね)』
「ううっ、頑張ります……」
そんな道雄、陸、由里奈の速攻突っ込みに、立ち上がった時とは逆向きに項垂れる薫だった。
「夏休み、かぁ」
その日の勉強会が終わった後の帰り道。
沈みかけた夕日と昇り始めた月が揃う空の下、陸に送られる道すがら薫は呟いた。
……ちなみに他の面々は、既にそれぞれの帰路についている。
「……なんか、不思議」
「何が?」
うーん、と身体を伸ばしながらの薫の言葉に、陸は首だけを向けて問いかけた。
薫は伸ばした身体をゆっくりと戻しつつ、答えた。
「去年の私は……カレシとか出来てるとは思ってなかったし、
友達と何処かに行くなんてのも考えてなかったから。
だから改めて考えると、不思議かな、なんて思ったの」
「そうなの? 薫さん、友達多いのに」
そう陸が言うと、薫は照れ臭そうに鼻の頭を掻いて、言った。
「まあ、なんというか……私はオタクだから。
彼氏が欲しくなかったわけでもないし、友達と遊びたいとか思わなかったわけでもないけど、
私が考えてる夏休みは、皆が望んでるような夏休みとは違うんじゃないかな、って去年の私はちょっと距離置いてたの」
「……それは」
「あ。心配しないでも大丈夫。今の私は考え方変わってるから」
何か言いかけた陸に対し、薫は笑い掛けた。
それは、心底『心配なんか要らないよ』と宣言している笑顔だった。
「今年はね。陸君と付き合うようになって、色々考え方も変わったの。
私も普通に夏休みを過ごしていい……ううん、私が楽しいと思う夏休みを皆に広めてもいいし、
皆が楽しいと思う夏休みを私が過ごしてもきっとOKだって思えるようになった。
だから……私は、今年の夏休みが、凄く楽しみかな」
(……ああ。そうだ)
薫の笑顔を受けて、陸もまた笑顔を浮かべた。
心底楽しいと自分で思える笑顔を。
「……俺も同じだな。
去年の夏は……まあ、ちょっとあってあんまり楽しめなかったけどね。
でも、今年は……薫さんがいる。
だから、なんか、今までに無い、凄くて、楽しい夏休みになりそうな、そんな気がするよ」
「…………うん。そうなると、いいね」
「まあ、その為にも。とりあえずは期末を頑張ろう」
「うん。憂鬱だけど、何とかしてみせるわっ!」
「その意気その意気」
夜空と夕方の挟間の空に向けて、高々と拳を振り上げた薫。
その姿に自身も意気が上がるのを感じながら、陸は薫の隣を歩いていった。
……それから暫し経ち。
期末テストが実施され、その結果が出た。
月穂由里奈……文句無しの学年1位。
久能明悟……そこそこ優等生な彼は、学年24位。
幾田道雄……いつも中の下な彼は、ほぼど真ん中の125位をキープ。
平良陸……基本平均以上の実力を持つ彼は、今回妙に気合が入ったのか、学年17位という本人も驚く結果が出た。
そして問題の霧里薫。
相変わらず文系ぶっちぎり、理数駄目げな成績ではあったが、
今回は苦手な理数系をかなり平均点に近付けて、順位をそこそこに上げ70位となり。
どうにかこうにか赤点一つ取る事無く期末を潜り抜けた。
こうして。
彼らは赤点を免れ、無事夏休みを迎えるに至った。
しかし、彼らの夏休みが如何なるものになるのか、薫や陸が望むような夏休みになるのかは……また別の話。
………続く。
第十八話はもう少しお待ちください