第十二話 A rite passage(後編)〜進む者、留まる者〜CROSS ROAD Chapter four〜






電車に揺られ、バスに揺られる事、数十分。

「着いたわね」
「着いたね」

入場ゲートをくぐるなり、陸と薫は言った。

見えるのは……大きな観覧車、ジェットコースターのコースフレーム、数々の遊具、そして、その向こうの青い空。

日曜日という事で、人がそこそこに多いのが気に掛かると言えば気に掛かるが、二人にとって……いや、陸にとってそこはさして重要ではない。

休日の、よく晴れた遊園地。
薫と二人で初めて訪れたこの場所は、デートのロケーションとしてはかなりの好条件なのだから。

「ん。悪くない」

改めてその事を実感して、陸は、うんうん、と頷いた。

「そうね。よく晴れてよかったわー。
 これならヒーローショーも予定通りねっ」

そんな陸に向かって、素敵過ぎる笑顔と共に、グッ、と親指を立てる薫。

それを見た陸の中に、薫が上機嫌なのは幸先がよくてありがたいと言えなくは無いが、この喜びようだと下手をすると暴走、自分の意図とは大きく逸れるのではないかという懸念が生まれる。

(なのに俺は……)

「そうだね(グッ)」

(どーしてつられて親指なんて立ててるんでしょうか……)

関係進展への意気込みはあっても、惚れた弱みは相変わらずの平良陸なのであった。

「それで、ヒーローショーは何時からだっけ?」
「えーと……午前の部が……もう始まって一時間ってところかな。
 午後の部が、後三時間後ぐらい」
「えー!? もう始まっちゃってるのっ?!」
「移動に時間結構使っちゃったからね……
 もうちょっと細かく考えてればよかったんだけど……ごめん」
「……あ、その。
 別に陸君を責めてるわけじゃないから。
 それに、午後から見れる事は考えてくれてたんでしょ?
 私はそれで十分よ」

肩を落とす陸を見て、薫はパタパタと手を横に振りながら言った。

「……そう言ってくれると助かるよ」

これは確かに失策だが、ここでくよくよしててもお互い折角の気分が悪くなるだけだ。

(よし、ここは一発気分転換と行こう……)

そう判断した陸は、心に弾みをつけるように一つ頷いて、告げた。

「じゃ、ヒーローショーにはまだ時間あるし、それまで時間を潰そうか。
 思いっきり、遊んでね」
「うん。賛成。
 折角遊園地に来たんだし、遊ばない手は無いもんね」

薫としても、ヒーローショーが目的ではあるが、それだけの為に来たわけじゃない。
今日一日を楽しく過ごす事は、自分達の共通見解だという事は薫も同じだからだ。

……少なくとも、薫はそう思っていた。

そうして。
陸の提案に乗る形で、二人はのんびりと歩き出した。







……そんな二人の後ろにあった、遊園地のマスコットキャラクターの看板から、ひょっこり二つの頭が飛び出す。

「……私ってこういうキャラだったかしら……」
「いや、そんなのはどうでもいいと思うが」

彼女……月穂由里奈の呟き(というかボヤキ)に、彼……久能明悟は答えた。

「しかし……
 僕はてっきり『ついていくな』って意味だと思ったんだけど」

数十分前の駅前で、今は行かない方が損にならないと言われた事を思い返すと、すんなりとは納得できないものがある。

それに対し由里奈は、チッチッチッ、と指を立てて振った。
その仕草は彼女らしくないようで彼女らしいような印象を明悟に与えた。

「重要なのは、見付からない……いえ、邪魔をしないという一点よ。
 そこを守ってれば、貴方の心配や私の好奇心を満たしても問題ないと思わない?」

空いた手でクィッと眼鏡を上げながら由里奈は言う。
手に隠れてても、その表情が嬉しそうなのは、明悟には想像がついた。

そもそもにして、二人への好奇心から直接的・間接的に色々やってきた由里奈。
さらに言えば、明悟が陸&薫に本格的に関わるキッカケを作ったのは、由里奈に他ならない。

「……やっぱり、君はそーゆーキャラだ……」
「何か言った?」
「いや別に」

動揺を微塵とて見せず、明悟は切り返す。

「まあ、折角ここまで来たんだ。
 あの二人を眺めつつ、僕らもこの時間を楽しむとしようか」
「……貴方と?」
「僕は薫さん一筋だが……まだ叶わないその事で、他の女性との付き合いをゼロにするほど男を捨ててないからね。
 まあ、もっとも。
 君が僕を意識してしまって仕方が無いというのなら話は別だけど。
 それとも、今日のスポンサーの意向に沿えないとでも?」

フフンッ、と言わんばかりにポーズを決める明悟。
それが割と様になっているのが、彼の侮れない所である。

「……そんな言い回しで挑発できる位だから頭は悪くないのにね……
 それなのに、どうしてまた毎回毎回お粗末な事しか思いつかないのかしら……」
「……心底不思議そうに言わないでくれるか」

そんな漫才を交わしつつ、二人もまた動き出した……






そんな二人がいる事など露とも知らず。
陸と薫は人ごみ一歩手前の人の流れを抜けて、そこに辿り着いた。

遊園地の華。
乗ると危ないお子様やご老人の方々を除いては、ここは外せないという定番の場所。

「うん。まずは、ジェットコースターよね」

そこそこの行列の前に立って、薫は宣言するように言った。

「うーむ。初っ端から飛ばすねー……」
「だって、私ジェットコースター乗った事ないから」
「そうなの?」
「んー……まあ、ちっちゃい頃は貧乏で、そうじゃなくなった時には捻くれてたからね。
 ここはそういう過去の自分にリベンジするいい機会なのよっ!」

そう言って、ググッと拳を握る。  

……そんな薫の言葉は、陸に色々と考えさせるモノを含んでいた。

『貧乏』。
『そうじゃなくなった時』。
『捻くれてた』。

気に掛からないと言えば嘘になる。
嘘になるが、ここでそれを言っても仕方がない。

昔は昔、今は今だから。
それに、いずれ時が来れば薫の方から話すか、自分が尋ねる時が来る……そんな気がしていた。

だから、今の陸にできる事は一つ……こう告げるのみ。

「そっか……なら存分に楽しんでリベンジしよう」
「もちろんっ。陸君には付き合ってもらうからね」

そんな陸に応え、不敵に微笑む薫。

だが数分後、その不敵さは。

「……ひぃぅっ、ゃきゃああああああああああああああっ!?」

問答無用のスリルさ加減で、モノの見事に粉砕される運びとなった。





「私……二度とジェットコースター乗らないかも……」

ぐったりとベンチの背もたれに倒れる薫は涙目である。
そんな薫を慰めるべきなのか、『二度と乗らない』というコメントについてフォローするべきなのか……悩みつつも陸はその中間のような言葉を呟く事にした。

「ま、まあ……人には苦手なものの一つや二つあることだし……」
「うぅ……ぐず……怖かった……」

うっすらと浮かべた涙を拭う。

「だ、大丈夫……?」
「大丈夫じゃない〜……」
「で、でも……意外だな。
 薫さん運動神経いいし……こういう事には物怖じしそうに無いと思ったんだけど……
 高い所とか、苦手だった?」
「別に高い所は関係ないわ……むしろ好きだし……
 それに運動神経とは別問題よぉ……
 私自身、今初めてその事に気付いたわ……」

そういうものだろうか。

ともあれ、この状況はあまり良くない。

というか陸的には薫を泣かせたくはないというのが最優先。

いつだって、好きな女の子には笑顔でいて欲しい。
それは至極当たり前のことなのだから。

「じゃ、じゃあ……落ち着く為に次は……もっとゆっくりしたヤツに乗る?」

だから。
弱々な薫を見てしまった陸は、つい、そんな事を口にしていた。







観覧車。

それはデートの締めに乗るという、フィクションの王道。

だが王道とされるだけあって、ムードは満点。
密室空間というのも、効果としては良し。

メリーゴーラウンドでも良かったような気がしたが、間近で見た時の意外な回転の速さを思い出し、駄目だしを受けそうで、観覧車に乗るという選択をしたのである。

そんな、いわば切り札を早くも使う羽目になったことに、内心ゲンナリした陸だったのだが……

「その、落ち着いた?」
「……うん」

ゆっくりと回転する観覧車の一室。
もう少しで最高点に達するという場所で、薫は頷いた。

涙を拭き終わった薫は、照れ隠しからか陸と顔を合わせようとしない。

だが、そんな薫が、とても可愛く思えた。

「そっか。なら、よかった」
「……ごめんね。気を使わせちゃって」

ソッポを向いたままで、ポツリ、と呟く。

「い、いいんだって。
 そんなことより、ほら、スゴイ遠くまで見えるよ」

気まずげな雰囲気をなんとかしようと、陸が指差した先には、街並みがあった。

そんな筈はないのだろうが、自分達が住んでいる街まで見渡せそうな……そんな『遠い』景色。

「ホント、すごい眺め……」
「本当は、山とか海とかが見えればもっといいんだろうけどな……」
「ううん。そんな事無いと思う。
 『街』を見渡せるなんて、滅多に無いでしょう?」

そう言って薫は、さっきまでの自分を断ち切るように、躊躇い無く振り返った。

そこにいたのは、いつもの薫だった。
いや、心なしか、いつもよりももっと元気に溢れているような気がする。

そして、そんな薫を見ていると。

(……まあ、順番なんかどうでもいいか)

そう納得してしまえる……その事に陸が内心で頷いていると、薫が言った。

「ねー陸君」
「ん?」
「この眺めならではの、言ってみたいセリフがあるんだけど……いいかな」
「どうぞどうぞ」
「そう? では遠慮なく」

スーッ、と息を吸って、薫は『そのセリフ』をのたもうた。

「ふははははっ……見たまえっ人がゴミのよーだっ!」
「ぶぅぅぅっっ!!」

割と有名なそのセリフで、積み上げたムードは木っ端微塵に砕け散った。








まあ、そんなこんなをやっているうちに……その時間はやって来た。

『仮面ライダーKEY・スーパーライブアクションショー』

「うーむ。何の捻りもないなぁ」

改めてタイトルを確認して、陸は零す。

「タイトルで捻っても仕方ないでしょ。
 重要なのは中味よ中味」

薫の要望で早めに動いていた二人は、最前列ではないものの、かなり前の方の席の取得に成功していた。
ちょっとオーバーではないかと思っていた陸だったが、開始二十分前には殆どの席が埋まっていた事で……その内訳として、大半は家族連れだが、『大きいお友達』も数多い……それが大袈裟ではなかった事を理解した。

そもそもにして、かなりのスペースを使って大掛かりなセットが組まれている事からして、遊園地側がこのショーでかなりの集客が出来るのを確信しているのが分かる。

「特撮って、愛されてるんだなぁ……」
「そりゃあそうよ。立派な日本の文化だもの。
 ……って、話の途中で何処見てるの?」

会話の中、何気無く視線を明後日の方向へと向けた陸に、薫は問うた。
問われた陸は、不思議そうに顎に手を当てた。

「いや……
 今、月穂さんっぽい人影が見えたんだけど……」
「まさか。
 あの大人っぽい由里奈が遊園地に来る様な理由があるとは思えないし、遊園地に来たとしてもここには来ないわよ〜」
「それは、そうか」
「そうだよ。…………あ、始まるみたい」

微かに流れ始めたBGMで二人が意識をステージに向けると、重々しいナレーションとともにヒーローショーが始まりを告げた。

大掛かりな火薬が炸裂し。
ワイヤーで大きな跳躍。
さらにはバイクアクションまで挿入されるほどの力の入れよう。
薫を始め、『大きなお友達』が熱狂するのも窺えるというものだ。

『レクイエムの言いなりになってる君に、僕は負けない!』
『そんな事が言えるのも今だけだぜ、草薙。
 俺は、アイツらの力で強化され、お前じゃ叶わないほどの強さを手に入れた。
 瑞佳を護れる、絶対的な強さをな。
 いま、お前で試してやるよ……!!』
『そんな真似、させるかよ!!』
『相沢君!!』

そうして、衝突するライダー達。

「……って、あのライダーって悪っぽかったっけ?
 薫さんから聞いた話と違うような……」
「こういうヒーローショーだと、立ち位置が微妙なヒーローがちょっと悪役っぽくなってるのはお約束よ。
 気にせず堪能して。というかしなさい」

振り向きもせずにそう言い切った薫は、ひたすらにステージに集中する。

「よっしゃ、そこっ! 行けぇっ!」

そうして、しばしば子供達の喚声に混じって、声を上げる。

まるで試合の行方が分からない、格闘技か何かの試合のように。

これは、全ての筋道が決まった……詳しくない陸でさえヒーローの勝利で終わる事が分かっている物語だというのに。

そうする事で多少の注目を集めてしまう薫を、その横に座る事を恥ずかしいとは思う。

でも。
それ以上に、楽しそうな薫が、ただ純粋な薫が、陸の眼に焼きついていた。

その姿は、さっきの観覧車の時とは違った、薫の魅力。

薫に告白した時。
彼女のそういう一面を陸は知らなかった。
知らずに好きになった。

(でも……今は、そういう薫さんが、好きなんだ)

今日一日、いろんな顔を見せられて改めて気付かされた。

オタクゆえに、理解に苦しむ事はあるし、今だってそうだけど。
でも、そんな事で彼女との付き合いを遠ざけるなんて考えられなかった。
いや、むしろ……そんな彼女だから好きでいられているのかもしれない……今となってそうとさえ思う。

やはり、平良陸は霧里薫の事が好きなのだ。

そして、だからこそ。

もっと幸せになりたい。

もっと先に進めばそれは叶う。

彼女と一緒に、進みさえすれば。

「くぅっ……ニクイ演出よね〜陸君はそう思わない?」

そんな薫を見つめて、陸はただ穏やかに笑みを浮かべた……







「あー……人多かった〜」

駅から出た矢先、うーん、と身体を伸ばしつつ、薫は言った。

帰りの電車は少し混雑していて、窮屈だったのだろう。
その様は、さながら冬のコタツから這い出た後に身体を伸ばす猫のようだった。

「そうだなぁー……」

頷きながら見上げた空は、赤と黒のグラデーションを作り始めていた。

あの後。
ヒーローショーを堪能した二人(主に薫)が、遅めの昼食を取って、ゲームコーナーを歩き、めぼしい乗り物に乗っている内に、閉園時間間際になっていた。

そうして遊び足らないがゆえの少しの名残惜しさを感じながらも、少し慌しく二人は遊園地を後にしたのである。

「……それで、これから、どうしようか。
 『めでぃあに』に寄るの? それとも夕飯をその辺で食べる?」

陸の問いに、薫は人差し指を顎に当てて、んーと唸ってから答えた。

「んー……いいわ。今日は疲れたし、このまま帰りましょ」
「そう……」
「歯切れ悪いねー。何処か寄る所あるの?」
「あ、いや。そうじゃないよ。
 じゃあ、帰ろうか。
 いつものところまで送るよ」

そう言って歩き出す陸。
薫は、そんな陸の後ろ姿に微かに首を傾げながらも、その横に追いつくべく、軽く駆け出した。






 
そうして陸と薫が去るのに合わせて、その二人……明悟と由里奈も暗くなり始めた空の下に足を踏み出していく。

「……やれやれ……今日は大変だったね」
「それは私のセリフよ……
 ジェットコースターじゃ貴方が大きな声出すから、バレたんじゃないかって冷や冷やさせられたし、
 観覧車は観察しようがないから乗る必要無いのに乗っちゃって、貴方勝手に震えてるし」
「高所恐怖症だから仕方がないだろう」
「偉そうに言わないでくれる……?
 薫たちが自分達の事に手一杯だったから良さそうなものの、下手したら気付かれてたわ。
 さらに、挙句の果てにこの私が、この月穂由里奈が、いくら目的があるとは言え、ヒーローショーを見る羽目になるし……」
「面白かったからいいじゃないか。実際君も二人の観察そこそこで熱心にステージを……」

そこで、明悟は凄まじい寒気を感じた。
寒気の元は……凄まじく冷たい眼をした月穂由里奈。
彼女は限りなく眼を細めながら、ただ一言告げた。

「……忘れなさい」
「……ぬぅ。
 まあ、それはそれとして……収穫なしか。
 それもこれも、平良君が根性なしだったからだな」

やれやれ、と肩をすくめる明悟。

意気込んでいた陸の姿から、勢い余ってキス未遂までやるのではと思っていたのだが……ちなみに、その時は隠れている事など知ったこっちゃないと、何が何でも阻止するつもりでいた……そうはならなかった。
 
話の話題が変わったのを幸いとばかりに、由里奈は眼鏡を上げつつ、言った。

「……そうでもないんじゃない?
 今日は、あの二人の交際レベルを改めて確認できたわ。
 多分、私達の推測は当たってる。
 近いうちに、彼らは良くて足踏み、悪ければ破綻し始めるわ」
「それが正しいとして、君はどうするんだ」
「言ったでしょう? 
 邪魔はしない……それだけよ」
「……」
「じゃあ、今日は解散ね」
「もう、あの二人を追わないのか?」
「今日はもういいでしょう。
 あくまで特殊状況下の二人が見たかっただけだし。
 それじゃあね」

そう言って身を翻した……かと思いきや、由里奈は首半分だけ明悟に視線を送って、告げた。

「そうそう。
 今日は、良い一日じゃなかったけど、最悪ではなかったわ。
 とりあえず、お金出してくれた御礼代わりにそう言っておくわね」

それだけ言ってしまうと、由里奈はもう未練は無いと言わんばかりに雑踏の中に消えていった。

「…………ふむ」

なんとも言えない気分と、微かに緩んだ表情のままで、明悟もまたその場を後にした。







……彼らが待っていた瞬間が、この後に続いている事に気付く事無く。







「ん。ここまでね」

いつもの別れの場所に辿り着いて、二人は足を止めた。
そうして、いつものように向かい合う。

「……」

陸の顔を眺めて、薫は今日一日の事を思い出す。

今日は……本当に楽しかった。本当に本当に楽しかった。

だが、陸はどうなのだろうか。
自分の好みに付き合わせてしまった事を、どう思っているだろうか?

「……ね、陸君」
「ん?」
「今日は……楽しかった?」
「勿論」
「……こんな私と一緒で、楽しい?」
「楽しいに決まってるじゃないか」

薫の問いに、陸は即答する。
そこには、何の迷いも無い。

そして、だからこそ……薫の中に言い様のない気持ちが生まれていた。
息苦しいような、言葉にしたくても形にならない気持ち。

それでも、何かを言おうと薫が口を開き掛けた……その瞬間だった。

プップーとクラクションを鳴らしながら、車が通り抜けていく。
そう狭くはないが、かといって広いと言えるほどでもない、この路地。

「危ない……っ」

そう思った陸が、薫の腕を掴み、引き寄せたのは当然の事と言えた。

その形は。
陸が薫の身体を抱き締める形。

「……」
「……」

息が詰まる。
今度は、二人ともに。

だが、これは陸にとっては好機だった。

いつもの自分、今の自分には作り出せない状況。
今日、作り出せたらと頭の何処かで考えていて、出来なかった状況。

そして、漠然と考えていた、前へと進む為の行為。

だから、先刻あっさりと帰宅する事に躊躇いを覚えたし、それが叶わない事に苛立ちを感じた。

でも。
それは、今、ここにある。

「あ、あはは……」

薫は、笑いながら距離を置こうとする……が、何故か足を動かせないでいた。

陸は、それに気付かずに……軽く、それこそ拒絶すれば簡単に引き剥がせるくらいの力で、薫をより引き寄せる。

その行為に驚いた薫は、思わず顔を上げていた。

「あ」

そこには、陸の顔があった。
それは、今までで一番近い距離。
そして、この体勢を、体勢から繋がるものを連想できないほど、二人は子供ではなかった。

陸の顔が、近付く。

薫はそれを拒否しようとは思わなかった。
驚きはあっても、拒絶の意志は涌かなかった。

数日前に考えていた、その通りに。

(……別に……いいよね)

そう思った。

そう思った瞬間。

薫の中に、一つの思考が、問いが生まれた。

(本当に、いいの?)

自分にとってのキスというのは、別にいいかな、で済ませられるものなのだろうか?

『これ』は、もっともっと大事なものなのではないだろうか。

自分の好きな物語で、自分の好きなキャラクター達が交わすように。

本当の気持ちでのみ、交わされるものじゃないだろうか。

……陸の気持ちは本当。

それは、もう知っている。

(じゃあ、私は?)

その問い掛けが、頭の中を駆け巡った瞬間。

「……薫、さん?」

それは、唇同士が触れるだけ。

それだけなのに。

「薫……さん?」

呆けたような、陸の声。
それが、薫の心を蝕む。

嫌じゃない。
嫌じゃないのに。

拒否しようなんて、思わないのに。
こんな思いをするぐらいなら、きっと『そう』した方が、いい筈なのに。

「……ごめん……ごめん、陸君……」

ぐぃっ、と。

薫は、陸の身体を押し返した。

強引さなど持ち合わせていなかった、陸の身体が離れる。

「……ごめん、なさいっ……」

もう、顔を合わせる事も出来ない。

そうして。
薫は、自分の家に駆けて、消えていく。

陸は、それを追う事ができなかった。
何が起こり、何をすべきなのか、彼の中から全てが滑り落ちていた。





……それは。

一人は進もうとし。
一人は留まろうした。

ただそれだけの、スレチガイ。

そして、楽しかっただけで終わっていた筈の、一日の最後だった。







…………続く。



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