第十一話 A rite passage(前編)〜いつか通るべき道〜CROSS ROAD Chapter three〜





「兄さん」
「なんだ?」

それは夕方時というには少し遅い時刻。

「薫義姉さんとは最近どうですか?」
「ごほっ」

台所から居間に届いた、双子の妹である平良芽衣の唐突な言葉に、ぼんやりとTVを見ていた陸は、飲みかけの緑茶を喉の奥に引っ掛けた。

ちなみにこの時間帯、彼らの両親は買い物やら仕事やらで不在、いつもならあと十分ほどで帰ってくる時刻だった。

「あ、あのな……
 前々から言ってるが、その義姉さんって言うのはやめないか……?」

テーブルに肘をついて頭にコツコツと指を当てながら、呻くように陸は呟いた。

「どうして?」

再び台所から声が響く。
すぐ隣、なおかつその話題の内容もあって、陸は振り向くでもなく答えた。

「いや、どうしてって」
「兄さん達が真剣にお付き合いしているのなら、
 その延長上にその呼び方があってもおかしくは無いでしょう?
 それとも、兄さんは遊びだと?」
「んな事あるか!!ってゆーか、そーゆー問題じゃないだろ!!」
「まあ、そんな呼称なんて個人的かつ些細な事はさておき、質問に答えてもらっていませんが?」
「む」

その言葉を受けて、陸の表情は曇った。
昔はさておき、最近この妹に口で勝った事がない事実を噛み締めながら、陸は苦い表情を浮かべた。

「……なんで、んな事をお前に話さにゃならんのだ」
「私としては心配なんですよ。
 兄さんが、あんないい人に捨てられたりしないかどうか」

芽衣は、日課である夕食前の食器片付けをこなしながら、ふうっ、と息を零す。

「あの人に捨てられたりしたら、兄さん一生女の人に縁が無いんじゃない?」
「……お前、実の兄に向かってよくそういう事が言えるよな」
「ともかく、どうなんです?」

心配していると言われては、無視はできないし、頭ごなしに強くも言えない。
内心で唸りながら、陸は諦めて答える事にした。
だんまり、というアイデアもありはしたが、それが実行できないのが平良陸という人間なのである。

「ん……まあ、その、なんだ。
 一緒にいる事は、多くなった。
 その割には滅多に喧嘩しないし……良好だよ、多分な」

顔を赤らめながらも、そう答える。
軽い緊張もあって、乾いた喉を潤すべく陸はお茶を一口含んだ。

「ふむ。それで、キス、なんかは?」
「ぶぅっっー!」

流石にそこだけは少し照れを交えていたが、陸にとっては不意打ちに近かった。

含んでいたお茶が霧状になって、辺りに飛び散っていく。
それをチラリと振り向き様に見て、芽衣は顔をしかめた。

「汚いですよ。ちゃんと拭いてくださいね」
「い、いきなり何を言ってるんだよ、お前は……!!」
「その様子だと、まだ……みたいですね。
 兄さん、見た目通りに奥手……」
「……あのな、その、学生がだ、まだそんな……」

ごにょごにょと弁明する陸。
そんな陸に芽衣はしかめた顔のままで告げた。

「今時の学生でそんな事を言うのは兄さんくらいですよ」
「そーゆーお前はどうなんだよっ!」
「……」
「え?あの、芽衣さん?」
「……は。あ、いえ。失礼しました。
 一瞬、痛い所を突かれたかなと思いましたが、私は、まだちゃんと異性とお付き合いした事ありませんから。ええ。
 ゆえに兄さんにそんな事を言われる筋合いはありません」
「なんか知らんが、屁理屈言うなぁっ!」

と、そうして陸が吼える事で、話がある程度終わったからか、はたまたその直後に彼らの父親が帰宅したからか。

そんな咆哮がとりあえず、その場を締め括る事となった。







とはいえ。
そんな事を言われてしまった以上、気にならない筈もなく。
 






「どしたの陸君?」

翌日の朝、ぼんやりとしていた陸は、通学路の途中で薫にそんな事を言われる羽目になった。

「んん……昨日、ちょっとね」
「嫌な事でもあったの?」
「いや、まあ……」

そうして見詰められると、昨日からの……いや、数日前からの考えが強くなる。

霧里薫。
彼女と付き合っている平良陸。

現状は、幸せだ。

でも、そこに踏みとどまっていていいのだろうか?
もっと先へと進むべきではないだろうか?

その事については、数日前の月曜日に由里奈にも指摘されている。

他人に言われたから、というのは情けない気もする。
だが、その意見が間違いでない場合、意地を張るのはただの子供だ。

そして。
そのきっかけを作るのは、やはり自分でしかない。

こういう事は自分だけで先走るものでもないが、相方が相方なので、この流れは自分で作らなければならないだろう。

最終的に流れに乗るか否かは、薫に任せればいい。

由里奈の指摘もあって、そう考えてしまうと陸の決断は速かった。

「……それは、まあ、おいとくとして」
「あ、人が心配してあげてるのにそういう事言うの?」
「ごめんごめん。でも、大丈夫だから」
「……むー。大丈夫だって言うんならいいけど」

大丈夫という言葉で不満気な表情を和らげる薫。
そんな薫を見る事で、陸の決意はより固くなった。

「それで、なに?」
「薫さん、今度の日曜日空いてる?」

だからなのか、幾分緊張しているのに、言葉はスラスラと零れ落ちた。

「ん?えーと……何もないけど?
 あ、また映画批評勝負?」
「そうじゃなくて、日曜日、デートしない?」
「へ?」

唐突な陸の言葉に、薫の眼が瞬いた。

「と、唐突じゃない。どーか、したの?」
「……いや、よく考えてみたらさ、ちゃんとしたデートってした事無かったなーって。
 それにあと少ししたら期末テストだし、そうなったらデートだ何だなんて言ってられないし」

それは紛れもなく陸の本音でもあった。
時期的なものもそうだし、映画批評対決はデートらしいデートというには少し難がある。

「それは……そうだけど」
「あー、嫌ならいいんだけど……」
「そ、そういうわけじゃなくて……えと、何処に行くか、もう決めてるの?」
「それは……まだ考えてないけど、俺、ちゃんと考えておくから。
 ちゃんと薫さんも俺も楽しくなれるところ……
 だから――どうかな?」

……薫自身、何か思い当たる所があったのか。

そんな陸の問い掛けに。

「……別に、いいよ」

薫は、そう頷いたのであった。







それから数時間後。

「で。私に相談するわけね」

喧騒に包まれた休み時間。
薫がトイレか何かで席を立ったのを見計らって、陸は由里奈に相談を持ち掛けていた。

周囲にはクラスメートがある程度いたが、今更このクラスで自分と薫の事を隠し立てしようとは陸は思わなかった。

クラスメート達もはやしたてはするものの、ちゃんと邪魔をしないように考えてくれているのが最近陸にも分かってきたからでもある。

とは言っても照れはあるので、周囲の雑談に紛れる程度の声で陸は話し出した。

「うん……薫さんの事を知ってて、こういう事を相談できそうな頼れる女の人は、月穂さんしかいなかったんだ。
 だから、恥を忍んで頼むんだよ。
 女の子……というか薫さんが、喜ぶような場所って何処か……ないかな?」

本来こういう事は彼氏である自分がちゃんと考えるべき事だ……そう陸は思っていた。
だが、基本的なデートコースは映画位しか思いつかないし、近場でショッピングというのもいつもと大差がない。

今回ばかりは『いつもとは違う』流れが必要。
にもかかわらず、陸にはそのアイデアがまるで思い浮かばなかった。

そこで、陸は由里奈の力を借りる事にしたのである。
陸としては非常に悔しいのだが、それ以上にしたい事……大事な事を譲れない以上、ここは誰かの意見を聞いておくべきだ……そう判断したのだ。

「…………まあ、そうまで言ってくれるのなら、仕方がないわね」

眼鏡をクィッと持ち上げる由里奈。
彼女の表情は眼鏡を上げる手の動きで一瞬隠れ、陸には見えなかった。
その事に陸が何かを思う間もなく、由里奈は言った。

「そうね。
 予算がそこそこあるなら、遊園地なんてどうかしら?」
「遊園地?」
「映画館は貴方達の話を聞いてる分に行き慣れてるみたいだし。
 それだと折角デートだと切り出してるのが無意味になりそうじゃなくて?」
「う、うん、そうなんだよ……」

やはり由里奈に相談して正解だと陸は思った。
彼女の言葉は、彼の状況を見越したものだったからだ。

「だから、滅多に行かない遊園地がいいと思うわ。
 それに……今確か、薫が好きそうなヒーローショーもやってなかったかしら」
「あ、そういえば……」

『君の街にヒーローがやってくる!』

遊園地のCMでそんな事を王道文句を謳っていた事を陸は思い出していた。
そして、薫が興味津々だった事も。

確かに、そのアイデアは悪くないかもしれない。
そして、都合がいい事に今月は出費が余りなかったので予算はそこそこある。

「うん、それはいいアイデアだ……!
 それで行く事にするよ……!」
「そう……」
「すごく助かった。ありがとう、月穂さん」

何処までも真っ直ぐな感謝と笑顔。
こんなに純粋な感情を、誰の眼にも明らかなほどにはっきりと伝えられる人間が、今時いるだろうか?

目の前の彼、そして彼の彼女以外に。

そして、だからこそ由里奈は考える。

そんな二人が一緒にいるという事の意味を。

「……お役に立てたのなら、よかったわ」

その思考を表に出す事はなく。
由里奈は静かに呟いた。

……自分たちに注がれている一つの視線に気付きながら。







「デート、か……」

その日の夜。

自室のベットで寝転んで、霧里薫は溜息をついた。
その手には、昔ある人に譲ってもらい、何度も読み耽った漫画があった。

恋愛。

自分が手にしているその本に限らず、自分の好きな漫画や小説を読むと、必ずといっていいほど出てくる要素。

そして、その要素の中の幾つかの因子。

デート、手の触れ合い、それから。

「……」

口にするのは躊躇われて……というか恥ずかしくて……薫は枕に顔を埋めた。

改めてデートだと意識すると、そういう行為は切り離せない事に思える。
そして、その思考は、陸が改めてそんな事を言い出す意図に繋がるのではないか……薫にそう思わせていた。

「……陸君、そんな事したいのかな」

むー、と唸りながらベッドの上を転がる。

放課後、一緒に帰る中で陸が告げたデートの場所と内容。

相手は陸で、行く場所には自分の好きなものもある。

だから、それに不満が有るわけじゃない。有るはずもない。

ただ、思うだけだ。

「……私は、今のままでいいのにな」

とは言っても。

陸にそういう事をされて、拒否感が浮かぶか……というと、そうでもない自分がいるのも確かだった。

「……そうだよね。カレカノだもんね」

平良陸と付き合って、それなりの時間が流れていた。

その間に、彼のいいところはたくさん見てきている。
自分なんかを好きになってくれて、一緒にいてくれて、いろんな事に付き合ってくれている。

その時間は、楽しい。
それに間違いは無い。

日曜日も、その延長線上に過ぎないのかもしれない。
大体、こういう事を考えている事は、自分だけなのかもしれない。
陸はただ『楽しい事』に誘ってくれているだけなのかもしれない。

「……うん。だよね」

だからとりあえず、いつもどおりでいいだろう。

そう考えながら、薫はゆっくりと眠りに落ちていった。







そうして迎えた日曜日。







駅前。
時間通りにやって来た陸は、同じ様に時間通りに駆けて来た薫と、バッタリ遭遇した。

「おはよ、陸君」
「うん、おはよう」

言いながら、陸は薫の姿を眺めた。

薫の服装自体は、映画を見に行った際に何度も見ているものだった。
遊園地という事もあってか、動きやすそうなジーンズに、厚手の黒いTシャツ。

ただ、意図して選んだのか、はたまたそれしかなかったのか、Tシャツもジーンズもいつもよりも小さめというかぴっちりしていて、薫のスタイルの良さを際立たせていた。

いつものテールを下ろしたストレートの髪が、微かに動く度に、さらっ……と綺麗に揺れる。
それを軽く抑えるような仕草が、実に女の子らしかった。

「しっかし、ピッタリ遭遇するなんて、なかなかないよね」

大分見慣れてきた筈の姿に見とれていた陸は、薫のその言葉で現実に引き戻された。

「あ、うん。そうだね」
「お約束だと、どっちかが遅れて『ゴメン待った?』『ううん全然』的な展開なのにね。
 ちょっと残念かな」
「おいおい……まぁ、分からなくはないけど」

そういうシチュエーションというのは、恥ずかしいという意見の多さと同等に、デートの際に起こる伝統行事であり、割と憧れでもあったりする。

……ちなみに、彼らの頭には毎朝の待ち合わせの際、同じ様な事をやっているのはカウントされていない。

「あと、更にお約束なら、誰かが尾行してたりするんだけどね」

薫が口にした、いかにもなお約束に陸は思わず笑って、手をパタパタ横に振った。

「んなわけないない。それじゃラブコメだよ」
「むむ。それもそうか」

……ここに彼らの友人である幾田道雄がいれば「……自覚ないのな、お前ら」というごもっともな意見を漏らしていただろうが……生憎、彼はここにはいない。

ので、彼らは軽く笑い合った後、

「んじゃ、行こうか」
「うん」

そんなやり取りを交わして、駅の中に消えていった。

……その直後。

「んなわけないことないっ!!ラブコメやってるんだよ、君達はぁっ!!」

さっきまで陸達が立っていた場所の後ろにあった茂みの中から、一つの影が飛び出した。

それを見て、近くを歩いていた人間たちはそこから微妙に距離を取って歩いていくが、興奮した『彼』は相も変わらずというべきか周囲が見えていなかった。

「く……流石に天然は始末に悪い……」

そう呟く彼……すでにお察しだろうが、久能明悟その人である。

お約束に忠実な行動を起こしている彼。
陸が由里奈に相談するのを聞いて、朝も早くから網を張っていたのである。

この街で遊園地と言えば、基本的に隣町にあるものを指す。

この街の住人がそこに行くには、電車に揺られて隣町、そこからバス……が、安価で最短。
これが大人なら移動手段に車を使う事もありえたが、あの二人は高校生である。

ゆえに彼がここで網を張れば引っ掛かる……そう考えたのは正しい。
まあ、そこまで考えたのはいいとして……気付かないうちに熱くなっていた自分がストーカーチックだったりするのに気付かない事や、ここから先の事を微塵とも考えてなかったりするのが実に台無しなのだが。

ともあれ、明悟は二人を追うべく、鼻息も荒く歩き出し……その腕を掴まれた。

「……っ?……君は」

振り向いた明悟は、そこにいた人間の顔に見覚えがあった事に驚きを隠せなかった。
何故、彼女がこんな所にいるのか、掴めなかったからでもある。

「……まさか、こんなにも分かりやすい行動をする人がいるとはね……」
 
彼女、月穂由里奈は呆れ顔で呟いた。
ノースリーブにロングスカートという、スラリとした彼女に似合う私服姿も、その呆れ顔では魅力半減と言った所だろう。

由里奈はその表情のままで言った。

「念の為に……で、時間に合わせてここに来てたのが無駄にならないなんて……
 世の中侮れないものね」
「ぬぅ……何のつもりか知らないが、邪魔しないでくれ、月穂さん」

言いながら、明悟は由里奈の腕をやんわりと解く。
そんな明悟の言葉に、由里奈は少し目を伏せた後、答えた。

「…………邪魔になるかどうかは、後で判断すればいいと思うわ。
 むしろ、今は行かない方が貴方には損にならないと思う。
 可能性としては五分五分だけど」
「……?……どういう意味だ?」
「それについては、貴方も薄々分かっている事だと思うけど、ね」
「……」
「――――それでなくてもデートの邪魔は無粋じゃないかしら?
 まあ、バレて薫に嫌われるのも貴方の自由だけど」
「む……」

改めて指摘され、冷静に考える。
確かに、こうも簡単に冷静さを欠くようでは、下手に動くと薮蛇になる可能性はある。

……そして、由里奈の発言に引っ掛かるものもあった。

もしも、由里奈が言う「分かっている事」が自分が考えている事と同じだとするなら……

「……分かった。今日は素直に引いておこう」
「あら、あっさりと引き下がるのね」
「余り気は進まないが……どうやら、ここは引いておいた方が得になりそうだからね。
 助言、感謝するよ」
「別に感謝はいらないわ。私はただ……」

眼鏡を押し上げながら、彼女は言った。

「邪魔はしない、それだけだから」







「しっかし、楽しみだわー。
 あそこのヒーローショーはネットでも評判なんだから」

電車の中、くーっ、と言わんばかりに薫は語る。
そんな薫に、陸は苦笑を返す。

「そうなんだ。それは知らなかったな……」
「む。知らないとは不届きね。
 まあ、いいわ。せっかく少し時間があるんだから、今の内にレクチャーしといてあげる。
 しっかりと聞きなさいね」
「……努力します」

そんな彼らを乗せて、電車は進む。

その行先は隣町。
そして、彼らの『行く先』は……まだ分からない。





……続く。



第十二話へ