第九話 わからない、ココロ
世の中には二通りの人間がいる。
……というようにあっさり区別できるわけではないが『二通りの人間』のパターンが多様化し、構築されているのが現代社会。
今日の場合は……
「おはよー陸君っ!」
通学路の向こう側に、薫が手を振って現れる。
元気なその姿に少し気恥ずかしさと嬉しさを感じながら、陸は小さく手を振って答えた。
「よく晴れたね」
通学途中の空を見上げて、陸は呟いた。
「そうね♪」
「……なんか楽しそうだね」
「まね。おかげさまで今日は退屈な授業が潰れて……スポーツテストだし」
……運動ができるか否か。
「そういうわけだから、この順番通りに競技を回る事。
詰まってる時は臨機応変に。その辺の判断は月穂と久能に任せるわ。
私はちーとやる事あるから何時間か席外すけど、問題は起こさない方向でね」
「はい」
「お任せください」
よく晴れた空の下。
グラウンドでも良く通る、担任・白耶音穏の言葉に、クラス委員、副委員の由里奈・明悟が答えた。
「じゃあ、今日一日気合入れていくように。以上」
その言葉の後、体育座りをしていた一同は移動するべく立ち上がった。
今日はスポーツテスト。
この学校では、一日を掛けて全校生徒が行っている。
スポーツテストに必要な機材の出し入れや、グラウンドに引くライン……それらの手間を最低限にする為の方策なのだが……大多数の生徒にしてみれば授業が無いという事実があれば十分だった。
「♪〜」
彼女、霧里薫もその一人だったりする。
「楽しそうね、あなたは」
気分上々に鼻歌を歌いながら競技に向かう薫を見て、由里奈は呟いた。
「そう言う由里奈はあんまり楽しそうじゃないね。どしたの?」
「……まあ、ちょっとね」
と、由里奈が言葉を濁したそこに。
「本当に楽しそうだね、霧里さん」
「……久能君」
先日、薫にフラれたばかりの久能明悟が現れた。
途端に、少し暗くなる薫。
それを見かねて、ニッコリと笑いながら、明悟は言った。
「そう暗くならないでくれよ。
僕は君に危害を加えようなんて思ってないし、困らせたいと思ってるわけじゃないから」
「うー……でも」
「それに、先日の事を君が気にする事もない。
あれは僕の先走りだったんだから。
今まで通りに接してくれていい」
「そう、なの?久能君は……それでいいの?」
「ああ」
「ホントーにそれでいいんだね?」
「勿論」
そう明悟が頷くと、はぁー、と薫は息を吐き出した。
それは安堵の息だった。
「よかったぁー……久能君がいい人で」
「ははは。まあ、僕はいい人間だからね」
臆面もなく、そう言い切る明悟は流石というべきか馬鹿というべきか。
そんな明悟に対し、ハッキリキッパリ薫は笑顔で言った。
「そういう事なら、久能君は今までどおりクラスメートという事でよろしくっ」
ピシッ!!
そう軋んだのは明悟の内面であり、いかんせん外には伝わらない。
……悲しい事に。
「いや、嫌われたかなって思ったから、安心したな。
やっぱり、出来る限り出会う皆と仲良くしたいからね。
ずっと友達。それで、いいんだよね?」
「あは、はははははは」
乾いた笑いがあたりに響く。
薫はその笑いが肯定だと判断し、同意の笑みを浮かべるが……勿論そうじゃないのは明らかである。
だが、その機微を読み取れるほどに薫は細かい性格ではなかった。
(可哀想に……)
そんな明悟を、由里奈は哀れみの目で眺めた。
「何話してるの?」
そこに、陸が話し掛けてきた。
瞬間、笑顔(乾きまくっていたがかろうじて)だった明悟の表情が強張る。
「……何でもないよ。君には関係のない話だ。じゃあ」
そう言い残して、明悟は三人から離れていく。
それを不思議そうに眺めつつ、陸は呟きを零した。
「……何だろ。こないだから妙に突っかかられてる気がするんだけど……」
「大丈夫、気のせいだよ」
「そうなのかな……」
「そうそう」
自分に対して気にするなと言ってくれた以上、陸に対してもいずれは普通に接してくれるはず……薫は、そう信じる事にした。
(久能君、いい人だしね)
うんうん、と内心で呟く。
だが、それは自分に対してだけであり、陸に対しては逆方向に働くという事に、頭では分かっても、気付いていない辺り、彼女はまだまだ少女だった。
そんなこんなでテストは進み。
陸のクラスは、踏み台昇降運動、ハンドボール投げを終えて、50メートル走へと移っていた。
「よーい……」
その声の後、パンッと小気味いい音が響き、走者二人が走る。
二人ともがゴールに辿り着くのを確認して、生徒会から出ている計測係の生徒が次の走者を促した。
「次の人、準備してください」
それに頷いて、陸はスタートラインに立った。
「陸君、ファイトー!!」
照れから頬を一掻きした後、親指を立てて薫の応援に応えた陸はスタート体勢を取った。
その様子を見て、陸の隣に立つ久能は、フン、と鼻息を荒くしていた。
……出席番号順という事で、陸と明悟は一緒に走る事になっていたのである。
(……そうしてられるのも今のうちだぞ、平良君……
所詮、君は文化系もやしっ子だという事を思い知らせてやる……!)
何度も言うようだが、明悟は薫の事を諦めたわけではない。
こういう所からコツコツと情けない所を見せて、いずれは平良陸という株を大暴落させる……それが明悟の考えだった。
……みみっちいと当人も思っているが、そんな事を気にしていては勝てるものも勝てない。
(そう、恋愛は戦いなのだよ……!
悪く思うな、平良陸……!!)
「では、よーい……」
パンッ。
火薬の匂いが辺りに漂うよりも速く。
二人はスタートラインを越えて走り出した。
「…………ねえ、幾田君」
「なんだ?」
激走する二人を見物していた道雄と由里奈は言葉を交わす。
「平良君、妙に足速くない?」
「ああ。意外かも知れんが……あいつ、運動に関しては万能なんだよ」
50メートル走。
5秒台に限りなく近い6秒台。
それが平良陸のタイムだった。
……ハッキリ言って、文化系部活の人間が出せるタイムではない。
「おおおー!陸君すごい!私見直したよ〜!」
陸が記録カードに書き込むタイムを覗き込んで薫は言った。
……ちなみにその側には死力を尽くした明悟が倒れていたのだが、意外な事実に興奮した薫は微塵とて気付いていなかった。
「見た目通りな文化系もやしっ子じゃなかったんだねっ」
「…………まあ、演劇には体力が求められるからね。
昔から、それなりには鍛えてたんだ」
いつもの暴言にも慣れたもので……それでもやや顔は引きつっていたが……陸は照れ笑いで答えた。
「でも、去年よりタイム落ちたかも」
「へぇーそうなんだ。陸上部に入ったほうが良かったんじゃない?」
「はは。それ、よく言われる」
……陸は明悟を大きく引き離してゴールを決めた。
無論、明悟が遅いわけではない。
陸が速過ぎたのである。
「お、おのれ……文化系と侮っていたのが不覚か……」
意地になり、ムキになり、全力以上を使い果たして、渾身の力で立ち上がるがやっとの明悟。
と、そこに。
「いや、侮っていてもいなくても結果は変わらんだろ」
そう言って、明悟の呟きに答えつつ道雄が現れた。
「そんな事はないぞ、幾田君……僕が油断なく事に当たればこの程度……」
「……そのガクガクの脚をどうにかしてからモノは言えよ」
溜息混じりにそう言った後、道雄は微かに表情を固くした。
「あのなぁ明悟。
今さら霧里狙って張り合ってどうすんだ?
あの二人は、誰がどう見てもしっかりと噛み合ってるだろ。
少なくとも、今、さらに言えば今日に関しては勝機は絶対にないぞ」
「……だからって諦めてたまるか……僕は、負けるのが大嫌いなんだ。
負けるのが明らかだから退くなんていう、敗北主義も嫌いだ」
「次の戦いの為に、退くべき時に退いとくのも立派な戦略だぞ?
って聞くような奴じゃないもんな、お前は」
明悟の表情を見た道雄は溜息をついて、ふと思った。
(そういう意味じゃ平良と気が合うだろうになあ……)
「……今、何か不愉快な事を考えなかった?」
「べっつにー。
……まあ、ともかくだ。
お前がそれでいいって言うんなら、俺はもう止めない。
いざという時、骨は拾ってやるよ」
「――心遣いに感謝するよ」
そう言い残すと、明悟は水分補給の為にふらふら〜と水道の方へと歩いていった。
「やれやれ」
「やけに親切なのね」
その声に振り向くと、由里奈がそこにいた。
彼女の言葉に、道雄は口の端を微かに持ち上げた。
「一年の頃、同じクラスだったからな。
問題点も多いが、アイツ自身は結構いい奴なんだぞ?」
「まあ、悪い人間には見えないけどね……」
「あ、いたいた。由里奈ーっ」
由里奈の言葉を覆い隠すような薫の声が響く。
陸を引き連れる形で、駆け寄った薫は由里奈に告げた。
「そろそろ女子が始まるよ。行かなくていいの?」
「そうね。行かないとね」
「……ん、月穂どした?」
「何か顔色良くないけど」
「そんな事はないわよ」
男性陣二人の言葉に、由里奈は努めてクールに答えた。
「……もしかして、運動は苦手なのか?」
「そんな事はないわよ」
先程と同じ言葉なのに、今度は若干言葉が堅い。
それで、道雄は彼女の心情を察した。
「あのなぁ。無理に見栄を張る必要は無いと思うぞ」
「そんな事はないわよ」
「……さっきから、それしか言ってないぞ。
まあ、ともかく今日は諦めて頑張れや」
「……ハァ」
その言葉に溜息で応えて、由里奈はさっきの明悟と同じ様なフラフラさ加減で集まり始めた女子の中に入っていった。
「……じゃ、私も行ってくるね」
「あ、ああ。頑張って」
陸と顔を見合わせた薫も由里奈を追って、その中に入っていく。
(……大丈夫なのかね、ドイツもコイツも)
道雄にはこれから面倒事が起こりそうな気がしてならなかった。
そして、それは今日にしても今後にしても大いに当て嵌まるのだが、この時点では知る由も……
「いや、絶対そうなるな」
訂正。
彼は、そうなっていく事をこの時点で確信していた。
「さぁ、陸君に負けないように頑張るわよー!」
「ははは……お手柔らかにね」
スタートラインに立った薫の言葉に、もう一人の走者である古村涼子は苦笑した。
彼女は、薫と席が近いのでそれなりに親しい間柄だったりする。
薫と比べると少し小柄なので、並ぶと姉妹に見えない事もない。
そんな涼子に、ニッコリと笑いながら頷き返し、薫はスタート体勢を取った。
「……よぉっし……」
由里奈の事を忘れたわけじゃないが、自分は自分でベストを尽くす。
(……由里奈の事を考えてたから遅くなったなんて、言いたくないからね)
それは、由里奈に対して失礼でしかない事を、薫は承知していた。
だからこそ、今は集中する。
「よーい……」
パン!と音が響き、薫と涼子が走り出す。
陸同様、薫も運動神経はいい。
だからこそ、今日のスポーツテストを楽しみにできたのである。
ぐんぐんと涼子を突き放し、ゴールに向かっていく。
タイムも期待できそうだった。
「……うんうん」
その姿を見ていた、陸は嬉しそうに頷いた。
薫の脚が速いのが嬉しい……というわけではなく、楽しそうな薫の表情が嬉しいのだが……
「平良、顔が弛みきってるなぁ。変態に見えるぞ」
道雄の突っ込みが入ったので、その嬉しさは一瞬で掻き消えた。
「……誰が変態だ、誰が」
「ま、気持ちは分かるけどな。
しかし、こうやって見ると、霧里はオタクには見えないよな。
スポーツ系少女って感じだ」
「確かに」
「スタイルもいいしな」
「……(赤面)」
「出るとこは出て、引っ込んでる所は引っ込んでるし。
なんというか目の保養に……」
「薫さんを褒めてるのは認めるけど……それ以上言うと身の保障はしてやらないぞ。というかむしろ覚悟しろ」
「――分かってた事だが……本当にマジ惚れなんだな、お前……」
男としての感情や、彼氏としての感情がない交ぜとなり、複雑な心境の陸の言葉に、道雄が呆れと苦笑を混ぜ合わせたような表情を浮かべた、その時。
それは、ゴールラインを越えた瞬間。
気の弛みか、何かに躓いたのか、薫が盛大に転倒した。
「あー痛そうだな、おい……って、速っ」
道雄が横を振り向くと、そこには陸の姿は既にない。
彼は文字通り、あっという間に薫の下に駆け寄っていた。
「薫さん、大丈夫か?!」
「あ、陸君……」
陸の顔を見て、一瞬動きが止まった薫だったが、バッと立ち上がって土を払った。
……まるで何かを誤魔化すように。
「だ、ダイジョブダイジョブ。昔から怪我は慣れっこだから」
「薫ちゃん、ホントに大丈夫?」
一緒に走った涼子も心配げに薫の様子を見ていた。
そこに、水を飲んでヘバっていた明悟も転がり込むように現れる。
「霧里さん!大丈夫か?!」
「あはは、大丈夫だってば」
「薫さん、保健室に行こうか?」
「そうだよ、行った方がいいよ、薫ちゃん」
「そうだ!行くべきだ!むしろ、僕が付き添います!」
「……久能君、なんでそんなに必死なんだ……?」
「……怪我人の心配をして悪いのかな?」
「……」
「いや、だから、大丈夫だってば。
ほら、血もそんなに出てないし」
薫はそう言いながら、擦り剥いた膝を見せた。
微かに血は滲んでいるが、確かに大したことはない。
その事に、男二人は安堵の息を漏らした。
「水で洗えばどうって事無いよ。というわけで、ちょっと行って来るねー」
「薫さ……」
「霧さ……」
「ついてくるのは禁止。
ついてきたら絶交よ」
その言葉に、惚れた弱みで男二人は完全停止。
「冗談よ。でも一人で大丈夫だから」
からかうような笑顔を浮かべ、薫は少し足を引き摺りつつパタパタと走り去った。
「つぅ……ちっと沁みる〜」
グラウンドの隅に置かれた水道の蛇口。
薫は靴や靴下が濡れないように、膝だけを突き出して、水で洗っていた。
その冷たさと痛みが、薫の心を鎮めていった。
『薫さん、大丈夫か?!』
半ば叫んでいた陸の顔。
心から心配していた陸の顔。
それを見て、つい反射的に逃げ出してしまった。
……なんというか、すごく照れ臭くなってしまったのだ。
「怪我してよかったかな……って何言ってるんだか」
自分の呟きに苦笑してしまう。
「……と、これでよし。
由里奈元気なかったし、早く戻らないとね」
そうして傷口を洗った薫は、クラスに合流しようと足を踏み出した。
月穂由里奈は優等生である。
学年でもトップクラスの成績を誇り、生徒会長にでも立候補したらどうかと担任をはじめ、多くの人間に言われていたりもする。
そんな彼女なので、気位もそれ相応に高かったりする。
その為か、ややとっつき難い所があり、友人は少ないし、人付き合いも少なかった。
だが、本人はプライドを優先しているので気にしていなかった。
そして、そういう彼女だから、人にみっともない所を見せたくはない、と常に思ってもいる。
……それが苦手な体育であれ、だ。
今まではバレーなどの集団競技の中で上手く誤魔化し誤魔化しやってきたが、今日は記録に残る以上そうはいかない。
いっそのこと休もうかとも思ったが、それができないプライドの高さもあるのが、難儀な所でもある。
だから、今日という日は彼女にとっては憂鬱な日だった。
去年の結果をようやっと忘れかけていたというのに……という気持ちも大いにそれを助長していた。
とはいえ、カッコ悪いところは見せられない。見せるわけにはいかない。
という事で、彼女は彼女らしからぬほどに力んでしまい……その結果。
「しかし……今日はよく人が転ぶ日だな。何かの呪いか?」
「んな事言ってる場合じゃないだろ。
月穂さん、大丈夫か?」
道雄の言葉に突っ込みを入れた陸は、地面に座る由里奈のすぐ側にしゃがみこんだ。
由里奈は力の入れ過ぎで、コース半ばで足がもつれ転倒してしまったのである。
見栄と意地ですぐに起き上がりゴールはしたものの、その直後に立てなくなって、その場に座り込んでしまったのである。
「……〜っ」
心配される自分や、立てないでいる自分が情けないやら恥ずかしいやらで、由里奈の顔は真っ赤になっていた。
(余程痛むのか……?)
そんな由里奈の表情を見た陸は、そう判断した。
「ちょっと見せて」
表情を曇らせた陸はそう言って、由里奈の脚に視線を向けた。
薫と同じ様に膝に擦り傷ができて、傷口に血が滲んでいた。
だが、それだけで立てなくなるはずはない。
……そこに、上から明悟の声が降ってきた。
「怪我だけではなく、捻っているんじゃないかな」
薫の時とは違い、心配そうではあるが冷静にそう告げると、明悟は一つ頷いて、言った。
「見た所、放っておいても何時間かで引く程度の痛みだと思うが……一応保健室で診てもらった方がいいな」
「ひ、必要ないわよ……痛つ……っ!」
「見栄を張るなって。
誰だって痛いものは痛いんだから、保健室に行ってもおかしい事は何もないだろーが」
道雄にそう言われた由里奈は不満そうではあったが、納得はしたのか、あるいはそれ以上反論する事が見苦しいと思ったのか、それ以上反論はしなかった。
「となると、誰が連れて行く?……女子じゃ少し辛いだろうし」
後半は小声で道雄は言った。
これは由里奈の体重が重いから……ではなく、肩を貸しながら歩く距離としては、女子にはキツイだろうという判断だった。
……まあ、彼女の体重は彼女のみが知るところなので、真実はさておき。
「ふむ。副委員という立場上、僕が連れて行きたい所だが……
怪我した月穂さんがクラス委員という立場上、僕も彼女もいなくなるとクラスの引率者兼責任者がいなくなるな」
「なら、俺が行こうか?」
「だが、女子ももうすぐ終わりそうだ。
となると幾田君は次の競技にすぐ出なければならないだろう」
明悟の言う様に、女子の50メートル走も終盤に差し掛かっていた。
となると次の競技に移動しなければ邪魔になり、次のクラスに迷惑を掛ける。
そして、あいうえお順の出席番号では『幾田道雄』の順番がすぐなのは火を見るよりも明らかだ。
とはいえ順番を変えてもらえばいいだけの話なので、道雄は別に構わない旨を告げようとした。
だが、その必要は無かった。
「それなら、俺が行くよ」
道雄がそう告げる直前、そう言って陸が挙手したのである。
「次の懸垂は少し混んでるみたいだし……俺だったら間に合うかも」
「いいんだって。俺が……」
そこで。
明悟の眼が、キュピーン、と輝いた。
「幾田君。
ここは平良君に任せるべきなんじゃないかな?
この面子では彼が適任なのは確かだし」
「…………いいのか、平良」
「ああ、問題ない」
「じゃあ、任せるわ」
「OK」
「あなた達……当人放っておいて話進めるんじゃないの……」
その言葉に、陸は思わず苦笑した。
確かに、当事者を置き去りにした会話というのは、当事者にしてみればあまり居心地がいいものじゃない。
「ごめんごめん。――月穂さん、立てる?」
陸はそう言いながら由里奈に手を差し出した。
だが……由里奈はその手を眺めるばかりで、取ろうとはしなかった。
プライドからか、躊躇っていた。
そんな由里奈に、陸は言った。
「遠慮だったら、気にしないでいいって。
……この間の昼食の埋め合わせをしたいんだ」
埋め合わせ。
目の前にいる陸が、それをいずれすると言った事を由里奈は思い出していた。
挙手した理由もそこにあるのだろう。
……陸の人柄から考えて、それがなくても挙手していただろうが。
「まあ、嫌だったら仕方ないんだけど……」
『借り』を作った時と同じ様に、少し困った様に笑う陸。
その時の状況を思い出した上に、その顔を見ると嫌とは言えなかった。
「……別に、そういう訳じゃないわ」
諦め調子でそう呟いて、由里奈は陸の手を取った。
「……あれ、由里奈は?」
傷口洗いから戻ってきた薫は、移動中の道雄に問い掛けた。
道雄は、高鉄棒がある砂場への歩みを止める事無く答えた。
「ああ、50メートル走の途中ですっ転んでな。
怪我したから保健室に行ったぞ」
「え、怪我?!大丈夫なの……?」
「心配いらないよ」
と、会話に入り込む明悟。
「傷自体は君より少し深いけど、軽く捻っただけだから少し経ったら痛みも引くだろう」
「そうなんだ……」
「それに、他ならぬ平良君が一緒に行ってくれたから」
「……え?」
「いや、彼は優しいね。
自ら進んで行ってくれるとエスコートを申し出てくれたし」
(……そう来たか、この馬鹿)
道雄はさっき明悟が陸を『推薦』した理由を悟った。
平良陸・信用暴落大作戦の決行中……といった所なのだろう。
だが。
「そっか。なら安心かな」
薫はあっさりそう言って、笑った。
「え?」
「陸君、ああ見えて結構頼もしいからね。由里奈の助けになってくれるかも」
「え、ああ、そうなんだ……」
「んー、そうそう。
まあ、それは期待しすぎかもしれないけどね。
――教えてくれてありがとね。じゃ」
薫はそう言うと、二人から離れて女子の中に入っていった。
「ありゃあ、完全に平良を信じてるな。微塵とて疑ってないぞ」
「ぐぬぅ……っ」
「……逆にお前がダメージを受けてどうするよ……」
苦悩する明悟の姿に、道雄は呆れ顔で呟いた。
所変わって保健室。
二人揃って辿り着いたそこは無人だった。
「こういう日に、担当の保険医がいないってどうかと思わないか?」
「……こういう日だからよ。怪我人が出て、外に出てるんでしょ」
窓の外を眺めながらの陸の言葉に、椅子に座って薬を塗る由里奈が少しぶっきらぼうに答えた。
最初は陸が薬を塗ろうとしていたのだが、由里奈はそれぐらい自分でできると頑なに主張し、こうなったのである。
……ちなみに、由里奈の推測は当たっていたりするが、それは彼らの知る所ではなかった。
「でも、薬がわかりやすい所においてあって、よかったね」
「……まあ、そうね」
保健室に入ってすぐ、薬の入った救急箱は見つかった。
『軽い怪我はこれで応急処置をやっておけ』などと書かれた張り紙がしてあるのが、保険医のいい加減な性格を象徴していた。
「……終わったわ」
バンソウコウを貼って、呟く。
その声を耳に入れた陸は、由里奈に向き直った。
「沁みたりしなかった?」
「……したけど、声に出すほどじゃないわ。子供じゃあるまいし」
「捻った足は?」
「痛むけど……久能君の言う通り、大分マシになったわ。
……はぁ」
そう言った後、由里奈は大きく肩を落とした。
「ど、どうしたの?」
「……みっともないったらないわ……
この私がこんな醜態を晒すなんて……」
ただ遅いだけ、あるいは負けるだけならいざ知らず、転倒までしてしまうとは……まったくもって予想外だった。
これまで積み上げてきたイメージが台無し……とまでは言わないが、情けない事に変わりはない。
「……そんなに気にする事ないと思うけどな、俺は」
いつになく落ち込む由里奈の姿を、放っておく事ができず陸は言った。
そんな陸に対し、由里奈は溜息混じりに呟いた。
「……運動万能な平良君には分からないわよ」
「そんな事ないって。誰にだって得手不得手はあるんだから。
…………月穂さん、薫さんと一緒に見ただろ?
俺が演劇部でミスしまくってる所」
「そう言えば、そんな事もあったわね」
演技を善くしようと気合を入れて、それが空回りしていた陸の姿は、記憶に新しいというほどではないが、印象深い。
……その後、薫が引き起こした出来事と一緒くたなので尚更だ。
「月穂さんは、あれを醜態だと思った?」
「失礼を承知で言えば、少しね」
「う」
「でも、醜態というよりは……一生懸命だった、って感じだったかしらね」
「……ははは、ありがとう」
照れ隠しに頬を一回掻いて、陸は言葉を続けた。
「――実際の所、俺もアレを醜態とは思ってないんだ。
そりゃ……恥ずかしかったけどね。
でも、それは……全力でやってたから、そう感じたんだと思う。
さっきの月穂さんも、同じ……なんじゃないかな」
「え?」
「だから、その……
月穂さんは、ただ一生懸命だった……
だからこそ、月穂さんは恥ずかしいって思ったのかもしれないけど……
それを……醜態だとか、カッコ悪いとか、そういう風には俺は思えない」
「……」
「薫さんや幾田も、きっと同じ様に考えると思うよ。
……それじゃ、駄目なのかな」
真っ直ぐに由里奈を見据えての陸の言葉。
その言葉の後。
暫しの沈黙が保健室に満ちた。
……その沈黙を破ったのは。
「駄目ね」
そんな情け容赦もない、眼鏡を押し上げながらの由里奈の一言だった。
「う。そうですか……」
(そうだった……本来はそういう人だったな月穂さんは……)
論理的で冷静。
薫の言葉を借りるなら、屁理屈屋。
そういう人に対し、感情に偏った言葉に同意しろというのは難しい話だったのかもしれない。
その事実を思い出して、今度は陸が肩を落とした。
……その陸の姿を見て、由里奈は微かな笑みを口に浮かべて、言った。
「でも……まあ、今だけはそれでいいと思う事にするから。
そのクサイ台詞に免じてね」
「え?」
……陸の言葉は、何の解決にもなっていない。
彼の言葉通りだとしても、醜態だと思わないのはごく一部の人間だろうし、由里奈が運動が苦手という事実が改善されるわけでもない。
でも、今は……言葉通り、それでいいと思えた。
あの時の陸の姿にも、今の陸の言葉にも、嘘が感じられなかったから。
ただそれだけの理由で、そう思えた。
(……ここ最近、調子が狂いっぱなしね……)
以前の自分なら認められなかった事を、認めるようになっている。
そうなったのは、いつからか。
平良陸と霧里薫。
この二人を観察するようになってからではないだろうか。
真っ直ぐだったり、純粋だったりする彼らに、感化されているのかもしれない。
「……まったく」
「月穂さん……?」
「なんでもないわ。
……とにかく、そろそろ戻りましょう。
先生がいない以上、ここにいても仕方ないし」
そう言って、由里奈は立ち上がった。
立ち上がると、予想以上に脚の痛みが甦るが……我慢できないほどじゃない。
「無理はしない方がいいよ。
もう少し痛みが引くまで待った方が……」
「大丈夫よ」
そう答えて、由里奈はヒョコヒョコと片足を庇いながら歩き出し、廊下に出た。
陸は慌ててその横についていく。
「なら、せめて行きと同じ様に肩貸すよ」
「え?」
……行きと同じ様に。
その言葉を認識した瞬間。
そうしようと、陸が距離を詰めた瞬間。
何故かは、分からない。
ただ、気付いたら。
由里奈は、バッと、飛び下がるようにして陸との距離を取っていた。
「月穂さん?」
「……別に、いいわ。薫に誤解されそうだし」
「え?そんな事ないと思うけど……って、月穂さん、速いっ?!」
陸が少し瞑目した間に、由里奈は競歩ばりのスピードで廊下の彼方にいた。
「怪我してるのになぁ……」
首を傾げながら、陸はその後を追いかけた。
「……」
「……薫ちゃん?」
「え?」
校舎を見ていた薫は涼子に声を掛けられて、振り返った。
「どうしたの、ボケッとして」
「んー……由里奈と陸君遅いかな……って、思っただけ」
そう思っただけ。
そのはずだ。
他には何もない。
それに、間違いはないはずなのに。
「……変なの」
心底不思議そうに呟いた薫は、まだ気付いていなかった。
自分の中にある、表裏一体の『その気持ち』に。
この世界には、二種類の人間がいる。
……というようにあっさり区別できるわけではないが『二通りの人間』のパターンが多様化し、構築されているのが現代社会。
この物語の場合は……
恋をしている人間と、していない人間。
霧里薫。
月穂由里奈。
彼女達がどちらなのか。
それは、当人達にしか分からない。
そして。
当人達もまだ分かっていない。
……続く。
第十話へ