第八話 変化という名の不変〜CROSS ROAD Chapter one〜
「おはよう」
「みんな、おはよーさん」
不特定多数に朝の挨拶を繰り出しながら、薫と陸は教室に入っていく。
この二人が朝一緒に教室に入るようになって、それなりに時が流れていたのだが、未だにそれに慣れていない……というか認めたがらず、何処か冷たい眼で二人を見ている男が一人いた。
(何故だ……なんで霧里さんはあんな奴がいいんだ……?!)
教室の隅で懊悩する、この男の名前は久能明悟(くのう・みょうご)。
彼は一年の時から薫と同じクラスで、その時から薫に恋心を抱いていた。
本人は全く気付いていなかったりするのだが、薫は結構モテていたりする。
オタクであるという点を除けば、薫は平均以上の整った容姿とスタイルを備えた、明朗快活で魅力的な少女なのだから、それは当然なのかもしれない。
だが、彼女の思った事を即座に口にしてしまう癖や、時々見え隠れするアニメ好きによる暴走が、微妙に人を遠ざけていた。
そうして男子がやきもきしている間に、ただ好きになった陸が告白したのだが、その辺りを知るものは当人達以外にはいなかった……というか、当人達も知らなかった。
(納得がいかん……)
薫と陸が一緒にいる時間が目に見えて増えていき、それなりの数の人間が諦めていく中、彼だけは妙な執念を燃やしていた。
それは概ね彼の持った気質や生まれ育った環境のせいだったりする。
明悟は分かり易く言えば『お坊ちゃま』と呼ばれる存在である。
漫画にある様に、金持ちで、スポーツ万能、容姿端麗、頭脳明晰と完全に揃っているわけではないが、そう言われる事に問題が無い程度には優秀だった。
そういう存在だからこそ。
明悟は、一見ごく普通で取り柄がなさそうな陸が、薫と一緒にいる事に我慢できないでいた。
いや、今までは我慢していたのだ。
どうせ長続きするはず無いと、ある種高をくくっていた。
だが、二人は別れる様な素振りを見せる事無く、ここ最近はむしろ加速度的に親しくなっている。
ゆえに、明悟の我慢は限界に達したのだ。
(納得がいかないのならどうすべきだ?……そう、行動あるのみだ)
「ふっふっふ……」
心の中の炎そのままに、彼は無駄に滾る情熱を笑みで表現した。
……熱くなると周囲が見えないのか、その周囲の席の人間達に気味悪そうに引かれている事にはまったくもって気付いていなかったが。
そして。
そんな決意がなされていたすぐ近くでは、久能とは違う意味で冷ややかな……というより冷静な視線で二人を眺めている人間がいた。
「……うーん……これはこれでいいんだろうけど……」
彼女……月穂由里奈は、そんな事を呟いていた。
思い立ったが吉日とはよく言ったもので、明悟は早速行動を開始した。
まずは自分の気持ちを伝えなければならない。
陸と付き合っている事実がある以上、気持ちをはっきりさせておかなければ、そもそも勝負にならないからだ。
それに案外告白すれば自分の方に傾くかもしれない……そう考える辺り、明悟は未だ高をくくっていると言えるのだが。
何はともあれ。
とりあえず何処かに呼び出すなり、約束を取り付けるなりしようと、薫に話し掛ける事にした。
幸い今日は薫と自分が日直。
話し掛けるきっかけとしては十分だ。
(これぞ、天恵に違いない……!)
自分の苗字が薫と同じく『か行』である事、それにより男子と女子とで分けられた出席番号が同じ五番である事に感謝しながら、明悟は自分の席を立った。
「霧里さ……」
「陸君、次の移動教室って、何持ってけばいいんだっけ?」
「え?いつもどおりじゃなかった?」
「実験計測用にグラフ用紙がいるとか言ってたでしょ」
「あ、そうだっけ」
「陸君が忘れてるって珍しいねー」
一時間目と二時間目の合い間の十分休憩時……失敗。
自分に掛かる声に微塵とて気付く事無く、薫は陸に呼び掛けていた。
「霧里さん」
「ん?久能君、どうか……」
(よし……!)
薫が振り向き掛けた事に、明悟が内心でガッツポーズを取りかけた、その時。
「薫さん薫さん」
明悟の存在に気付いていなかったらしい陸が薫に声をかけてきた。
明悟に振り向き掛けた薫は、あっさりと方向を転換した。
「どしたの、陸君」
「ほら、この間貸してくれた小説。返すの忘れてたから」
「あ、読んだの?で感想は?」
「いや、素直に面白かった。
ジュニア向けって言っても侮れないね」
「ちっちっち。
ジュニア向けっていうのはあくまで普通の小説しか読まない人の呼び方でしかないわよ。
その作品のレベルの高さは、そんなもんじゃないのは、陸君も分かるでしょうが」
「う、確かに」
二時間目と三時間目の間の休み時間……挫折。
陸によって機会を潰され、明悟は苛立ちを助長させた。
「霧……」
「さっきの話の続きだけど。
陸君はどうもオタク文化を過小評価し過ぎじゃないかって思うなぁ」
「いや、そんな事はないけど」
「月穂さんや幾田君はどう思う?傍から聞いてて」
「うーむ。なんとも言えないな」
「そんな事より、次は体育なんだし早く着替えに行くのが賢明じゃない?
私は今日体育休むから関係ないけど」
「そうなの?あ、そうだ久能君に……」
「え?あ、ここにいるが……」
惚れた弱みか、名を呼ばれて即座に反応してしまう明悟。
そんな彼に薫は笑みを浮かべながら言った。
「あ、近くにいてよかった。
教室の戸締りよろしくね。私更衣室に行かないといけないから」
移動教室の際の戸締りは日直の仕事である。
それを笑顔で告げられては明悟に為す術は無く。
「あ、ああ。うん。分かった」
さらにその次の休み時間……敗北。
そもそも会話に入れもしないほどに親しくない事を思い知らされた。
「な、ぜ、だ……!!」
体育の時間、明悟は一人呻いた。
サッカーのゴールキーパーで、ボールはこっちの陣地で激しい試合が展開されているというのに、彼はそれに気を払いもせず、頭を抱えている。
その姿は傍目から見れば怪しい事この上ない。
声を掛けるべきディフェンダーの面々も、気味悪がって声が掛けられない有様だった。
「何故、話し掛ける事さえ、ままならない!?」
それは周囲のディフェンダーの心境だとは気付かない明悟。
それはともかく、何気に二人の仲の良さを見せ付けられている気がして、かなり彼はめげかけていた。
「……いや……だが、こんな事で負けていては……!!」
そう。
こんな事で負けるようでは駄目だ。
……明悟が改めての決意とともに顔を上げた瞬間。
「久能、行ったぞっ!!」
いつの間にか、眼前で繰り広げられていた熾烈なボール争奪戦。
その混乱を抜けたシュートが久能の脳天に直撃した。
「…………くぅ」
明悟は、ボールが直撃した部分をさすりながら、速足で教室に向かっていた。
(だが、しかし……!)
試行錯誤の果てか、先刻のボール直撃の影響か、明悟は古典的な方法に思い当たった。
日直である以上、他のクラスメート達が来る前に教室の戸締りを解除しておかなければならない他、注文されたクラス分のパンを取りに行かねばならない。
……という名目から、ボールなどの後片付けをするクラスメートを尻目にグラウンドから足早に去った彼は、教室に入っていく。
「ふふふ、これだ」
そう言って彼が取り出したのは手紙。
……まあ、と言っても簡単なメモ、昼休みに屋上に来て欲しい旨を記したものでしかない。
必要以上に興奮していて、やや字は汚くなったが、訂正している時間は無い。
さらに言えば、古典的なのは気が進まないが、このまま手をこまねいている訳にはいかない。
そんな思いが明悟を突き動かしていた。
これを誰もいない隙に薫の机の中に……
「久能君、何やってるの?」
「ぐうっ!?」
入れ掛けた所で、女子生徒の声が掛かった。
明悟は、冷ややかなその声に聞き覚えがあった。
いやクラスメートだから聞き覚えがあって当然なのだが。
このクラスの副委員長である明悟のいわば相方である委員長……月穂由里奈。
明悟は、体育の時間の前に彼女が見学すると言っていた事を今更ながらに思い出した。
着替える必要が無いので一足先に戻ってきたのだろう。
「そこは、霧里さんの席よね。……ああ」
明悟の手に握られた手紙や、この状況で由里奈は大体の所を想像した。
「恋文とはまた古典的ね」
「ぐぅっ」
微妙に違うが大差は無い為、明悟は思わず呻き声を上げた。
「まあ、今の霧里さんに話し掛ける隙が中々無いのは分かるけど……ふむ」
ふと、由里奈は思考を巡らせた。
この所、薫と陸の関係は安定している。
それはそれでいい事で別に文句があるわけではない。
だが観察としては少々面白みに欠けている。
なら、どうするか。
彼女は、その事を朝から考えていた。
「ぐ……月穂さん、済まないがこの事は……」
「ええ、構わないわ」
黙認してくれ、と言おうとしていたのを推測して、由里奈は言った。
「でも、手紙はあまりお勧めできないわね」
「……何故だ?」
「宛名は書いたりしたのかしら?」
「……あ」
その様子から、彼は自分の名前を書くことを忘れ去っていた事は明らかだった。
「それだと怪しまれたり、冗談だと思われたりする可能性はあるわ。
書いていても、あの霧里さんの事だし教室であなたに返事する可能性も高いんじゃない?」
「ぐぐぐ」
「なんなら、私が一つ協力してあげましょうか?」
「え?」
「あなたさえよければ、だけどね」
そう言って、由里奈は微かな笑みを浮かべた。
そんな事があった少し後の教室。
昼食を迎えた生徒たちはいつもどおりに騒いでいた。
友人と話しながら食事する者、一人で漫画雑誌を読み耽りながら菓子パンを食べる者、お金を忘れたのかそれとも他の理由か…食事を取る事無く爆睡する者などなど、その過ごし方は様々だが。
そんな教室の一角に、陸達はいた。
「あー体育の後の飯って微妙だな」
「まあね。運動した後だから微妙に入りにくいよな」
「でも、微妙にお腹は空くのよね」
道雄の言葉に答えながら、陸は弁当を自分の机に置き、その隣に座る由里奈も弁当を取り出した。
つい先日行った席替えで席が近くになった事もあり、四人……陸、薫、道雄、由里奈……は同席で昼食を食べるようになっていた。
と言っても、委員会の用事で呼び出される事が多々ある由里奈はたまにだが。
「お?霧里はどーした?」
注文したパンを片手に抱えつつ、もう片方の手で椅子を引き寄せながらの……道雄の席は陸の二つ前である……道雄の言葉に、陸は答えた。
「薫さん、ちょっと用事だって。先に食べてていいとは言ってたけど……」
「やっぱり……彼女がいないと、寂しかったりするのかしら?」
やや切れが悪い陸の言葉に反応して、由里奈は言った。
その由里奈の言葉は冗談混じりのものであり、自分が『やった事』で薫がこの場にいない事の確認のようなものだったのもかもしれない。
「ん……まあ、ね」
そんな由里奈の言葉に陸は苦笑した。
……その苦笑には、ほんの少しだけ、本音が混じっていた。
その表情に……由里奈は何故か息苦しさを覚えた。
「おいおい、そりゃ女々しくないか?」
「まあ、そう思わない事もないけど……
でも、そういう根っこの部分で嘘をついても仕方ないだろ?」
「……」
そんな陸の苦笑いと、その言葉を受けて、由里奈は微かに息を飲んだ。
息苦しさが、続いていた。
「んー」
よく晴れた空の下。
校舎の屋上で、光を浴びながら薫は身体を伸ばした。
体育の後だったが、いや、だったからこそ、そうしたい気分だった。
他には人はいない。
この学校の屋上は解放されてはいるのだが、そんなに広くない上、座って話せるようなベンチが設置されているわけでもないので、あまり生徒は立ち寄らない。
それでも、人がいる時もあるが、今日は彼女以外には誰もいなかった。
「……そういえば、ここで色々話をしたっけ」
ふと、思い出す。
ここで交わされた陸との言葉を。
あれだけ精一杯の言葉と思いを向けられたのは、あるいは向けたのは……はじめてかもしれない。
そんな日々を薫自身どう思っているのか。
薫がその事に意識を向け掛けた、その時。
ドアが開く音が聞こえたので、薫は内心で少しビクッと震えながら……薫自身何故かは分かっていなかった……振り向いた。
「あれ、久能君?」
そこに立っていた人物は薫の想像からずれていて、彼女は思わず裏返り気味な声を上げた。
「……やあ」
久能はそう言いながら、少し緊張気味の表情で薫に歩み寄っていった。
そんな久能に薫は小首を傾げてみせた。
「ここに用事?っていうか、ここに来る途中で月穂さん見掛けなかった?」
薫は、由里奈に話したい事があるから、と呼ばれてここに来ていたのである。
「月穂さんは、来ない」
「どして?」
「彼女に頼んで、君を呼び出したのが僕だからだ」
「そうなの?……どーしてまた、そんな回りくどい事を……」
言い掛けて、薫は止めた。
人にはそれぞれ事情というものがある。
そう考えたからだ。
(言いにくい事なのかもしれないな……)
以前の薫は、そこまでは考えなかったかもしれない。
だが、陸と付き合うようになった事で、少しずつではあるが、彼女はより深く考える事を覚えていた。
「ま、いいか。それで用事って?」
「君に伝えたい事があって」
「ん。なにかな」
「僕は、君の事が好きだ。付き合って欲しい」
「………………………は?」
久能から発せられた、思いもよらない言葉に、薫は目を丸くした。
「平良君と付き合ってるのは、勿論知ってる。
それでも……平良君じゃなくて、僕と付き合って欲しい。
その方が、君にとって良い事になると、僕は確信してるから」
そう言えるだけのものを、自分は持っている。
そんな自信を見せ付ける明悟の言葉に、薫はただ目を瞬かせていた。
「……」
由里奈は、昼食の箸を進めながらぼんやりと考えていた。
平良陸という男子は、どちらかと言えば穏やかで「男の子」という感じだが、その実、芯はしっかりと「男」を通している。
いままでの陸の行動や言動で、由里奈はそれを知っていた。
そんな陸だから、『薫さんがいつもいないと駄目だ』とか『側にいないのは寂しい』とかいつも考えているわけじゃないだろう。
この所、ずっと続けられてきた日常が、ほんの少しずれてしまったから、ほんの少し……それこそ豆粒程度の暗雲が心にできて……僅かに不安になった……それだけの事でしかない。
現に、今の陸は道雄と普通に会話を交わしている。
だが、さっきの陸の表情で由里奈は気付いてしまった。
二人の事ではなく、自分の事に。
(……私は……)
確かに、由里奈は二人の関係に興味を持っている。
恋という感情を抱いて付き合っている人間を今まで見た事がなかったから、本当にただどんなものなのか……疑問と純粋な知的好奇心、年相応の興味で、二人を観察してきた。
だが、それはあくまで第三者の立場からの観察でしかなかった。
以前、お節介で口を出した事もありはしたが、それは観察を続けるためにも、二人の関係を維持して欲しかったからでもあったが……他にも理由があった。
それに対し、今さっき自分がやった事は、やってしまった事は……第三者の観察の度を越えている、明らかな干渉だった。
そして、二人の関係を揺るがせてしまう可能性を秘めていた。
勿論、今の二人の関係がこの程度で崩れるとも思えない……その確信があったから、由里奈は明悟に協力を申し出たのだが……
「…………」
箸の動きが、止まる。
自分の勝手な考えで、二人の関係をかき乱しそうとしている。
そんな傲慢じみた考えもあったが、それ以上に心の中を占めているものがあった。
心の中の、何かが引っ掛かる。
お節介をした『あの時』と同じように。
いや『あの時』以上に。
あの時はっきりと認めなかったモノ。
由里奈は今になって、それを自覚し始めていた。
(……私は……)
少し前なら、それでも気にならなかったかもしれない。
実際、以前の由里奈はもう少し客観的、かつ冷静に距離を取り、観察していた。
でも、今は。
「月穂さん、大丈夫?」
「え……何が?」
「いや、なんか元気なさそうに見えたから。具合悪いのかなって」
「そんな事は、ないけど」
「そう?なら、いいけど」
陸は、真剣に心配していた。
由里奈のやった事など知る由はない。
もし知ったら、どう思うのだろうか。
薫にしても、それは同じだ。
その先を想像した瞬間、由里奈の胸の中で何かが揺れた。
「……月穂?」
「どうかしたの?」
気付けば、由里奈は箸を置いて立ち上がっていた。
「……私、ちょっと用事を思い出したから。少し失礼するわ。
それから、平良君」
「なに?」
「霧里さんもすぐに連れてくるから、心配しないで」
努めてクールにそう言った由里奈は、二人に背を向け、教室を出て行った。
それは明悟にとっては、長い時間だった。
その沈黙を越えて……薫はようやっと口を開いた。
「…………ごめんね。久能君とは付き合えないよ」
微かに顔を俯かせた……それでも、完全に背ける様な事はしていない……薫の言葉に、明悟は唇を噛んだ。
「……平良君がそんなにいいのか?」
「いや、あのね。
いいとか、悪いじゃなくて、その」
久能の言葉に、薫は心を乱していた。
無理もない。
久能の言葉は唐突で、薫はこういう経験が豊富なわけではなかったから。
それでも、薫は必死に言葉を紡ごうとしていた。
久能の気持ちが彼の口にした通りならば、ちゃんと応えなければならない……そう考えていたから。
「え、っとね。
陸君と今付き合ってるから、その、陸君を……じゃなくて、陸君の気持ちを無視して……久能君とは付き合えないよ」
「……平良君と付き合っている以上は、駄目って事か……」
「そう、なるかな。……だから、その、悪いけど……」
いつもの快活な薫から離れた、本当に申し訳なさそうな彼女の表情を見て、明悟は気付いた。
平良陸という存在が霧里薫の中に占めているウェイトは、自分が思っていたよりも遥かに大きく。
現段階において、自分が二人の中に割って入る事は不可能なのだという事に。
だが。
だからこその憤りが彼の中に芽生えた。
何故だ。
何故、自分は。
ただ、彼女が好きなだけなのに……!
「……ふざけ、ないでくれ……」
そんな想いが、彼に言葉を紡がせた。
彼の意図に反してか、そうではないのか、彼自身にも判断できないままに。
「え?」
「そう言われて、納得なんてできるものじゃないんだ……」
呟きながら、明悟は薫ににじり寄っていく。
明悟自身、何をするかとか考えていなかったのだが、プライドの高い彼はこの現実に対して何もしない事を選択できなかった。
明悟から流れてくる空気に薫は動けなかった。
彼をフってしまったという負い目もある。
そうした中で、ゆっくりと伸びた明悟の手が薫の身体に触れようとした、その時。
「それはそうでしょうけど。諦めなさい」
明悟にとっては既視感を感じさせる声とタイミングで、屋上の扉を開いた由里奈が現れた。
……その息は微かに乱れていたが、少し遠い距離にいた二人には気付く事はできなかった。
それを表面には出さないようにしながら、由里奈は言った。
「平良君がいるんだから、とりあえずフられるのは目に見えていたでしょう?
……私はそれぐらいわきまえてると思ったから、霧里さんをここに呼んだんだけど、見込み違いだったのかしら?」
「……ぐ……」
優雅口調な由里奈。
その正鵠を射た……そう見せかけた……言葉に、明悟は言葉を失った。
実際、朝はそのつもり……言わば宣戦布告だけのはずだった。
だが、薫の表情や所作、そして彼女の口から零れた「陸君」が明悟の冷静さを刈り取っていたのだ。
それに気付かされて、二の句が告げなくなる明悟。
「……久能君。本当にごめんね」
その空気の間隙を縫って、言葉を生む機会を得た薫はようやっと口を開いた。
「言い訳も何もしない。私は、あなたとは付き合えないんだ。
私……今、楽しいから」
「……」
「本当に、楽しいって、思うから」
どうして楽しいのかは訊くまでも無かった。
そして、ここで食い下がる事がどれだけ見苦しいかも、考えるまでもなかった。
顔を微かに赤らめながら言葉を生む薫。
そんな彼女を見て、明悟の中に生まれた憤りは少しずつ冷め始めた。
コロコロと変わっていく、それでいて彼女らしさを損なう事はない、そんな顔。
自分が好きになった、霧里薫の顔を見てしまったから。
「………霧里さん。その。……取り乱して、悪かった」
「ううん。あの……」
「でも、僕は君を諦めたわけじゃない。それだけは忘れないでくれ」
「あ……」
それだけ言うと、薫の返事を聞く事無く、明悟は屋上を後にした。
……その後には暫しの沈黙が残された。
「月穂さん、助かったよ……」
それを破ったのは、薫のそんな言葉だった。
薫は、すっかり気が抜けてしまったのか、カクン、と肩を落とした。
「いえ……私が呼び出してそこに久能君が、って事を提案したのは私だから。
その罪滅ぼしって訳じゃないんだけど……その」
珍しく言いよどむ由里奈。
そんな彼女に、薫はパタパタと手を振りながら言った。
「いいよいいよ。気にしない気にしない。
久能君に頼まれたんでしょ?
だったら、月穂さんが手伝わなくても、いつかはこうなってたわけだろうし」
それは気遣いではない。
薫が思ったままの言葉である……という事は今までの付き合いで十分に知っていた。
だから、何でそんな事をしたのかと薫が問い掛けそうにない事と、自分のした事を薫が気にしていない事に、由里奈は内心ほっと胸を撫で下ろしていた。
……そんな自分に驚いてもいたが。
そんな由里奈の内心など知る由もなく、薫は、はぁ、と溜息を零した。
「……どうかしたのかしら?」
「いや、そのね。
まさか私を好きな人が陸君以外にもいたなんて考えもしてなくて。
……悪い事、したな」
そう呟く薫の表情は微かに暗い。
……自分がモテているという発想を全くせず、相手の事を考えている。
それは薫らしいと言えばそうなのかもしれないが……
「そんな事を考えても仕方ないでしょう?
考えたって、貴女が今平良君と付き合っている事実が変わるわけじゃないんだし」
「そう、かな?」
「ええ」
……多分だけど。
と内心では継ぎ足したりしていたが、それを口にしても薫を不安にさせるだけだろうから由里奈はそれ以上何も言わなかった。
(……まあ、彼女は笑ってるほうが彼女らしいし……って)
そう考えている自分に気付いた由里奈は今日はどうも自分らしからぬ事ばかりだ、と思考した。
だからなのか、努めて冷静に、かついつもどおりを心掛けて、由里奈は告げた。
「それじゃ、行きましょうか霧里さん。平良君も待ってるわよ」
「あ、うん。そうだね」
それに迷いなく、素直に頷いている薫。
そういう表現に気付かないのも、彼女の魅力なのかもしれない。
「……ところでさ。霧里さんって言うの堅苦しくない?友達なのに」
「え?」
薫の口から自然に出たその言葉に、由里奈は思わず足を止めていた。
それは、由里奈が動いた『答』だったから。
「もう呼び捨てで……『薫』でいいよ」
ニッコリ笑って薫は言った。
その曇りの無い笑顔を、由里奈は眩しそうに見詰めた。
感情のベクトルは違うのに、平良陸が自分に向けた心配そうな表情と似ている……そんな気がした。
いずれにせよ、自分にはそんな顔はできそうにないが。
「そう。……それじゃ……私も由里奈って呼んでいいから」
それはそんな想いと、付き合いから出た言葉だった。
実際に呼ばれたらどうだろう……そこまで考えていなかった。
「OK。んじゃ戻りましょうか……由・里・奈」
もったいぶる様に自分の名前を呼ばれ、由里奈は苦笑した。
何故だか……いや、当たり前の事なのか……悪い気はしなかった。
でも。まだ、すぐには薫とは呼べない。
さっきの事が申し訳なくて。
もしかしたら、照れ臭いのかも、しれないが。
だから、今は。
「ええ」
ただ静かに頷くだけだった。
「……でだ、その三つ編みの子が可愛かったんだよ。
ちょっと冷たそうな感じがまた中々……」
「へえ……そんな子、この辺にいたっけかな。……声掛けたりしなかったの?」
「今度見掛けたら声を掛けるさ」
「その時は、その子を怖がらせないようにな」
「当たり前だろ。お互いに楽しく。それが女の子に声を掛けるときの基本だからな。
……しかし、遅いな」
パンの最後の一個、その封を切ることをせず、お手玉のように玩びながら道雄が呟いた。
『遅い』というのが、薫の事なのか、由里奈の事なのか、陸には判断できなかった。
だが、改めて言われると、どうにも落ちつかなくなる。
「……うーん……ちょっと廊下見てくるよ」
「おう」
席を立った陸は、さっきの由里奈の言葉を思い出していた。
由里奈が薫を呼びに行ったのは間違いないだろう。
そして、そうさせたのは自分である事も。
どうやら自分で考えていた以上に寂しそうに見えたらしい……由里奈の心情を知らない陸はそう思うと、自分の情けなさに溜息をついた。
(そんなに寂しそうにしてたと思えないんだけどなー……)
そんな事をぼんやりと考えていたからか、陸は廊下への出入り口で教室に入ろうとしていた『誰か』とぶつかってしまった。
「あっと……ごめん」
謝りながら衝突してしまった『誰か』の顔を見る。
そこにはこのクラスの副委員長である久能明悟がいた。
陸は、明悟とあまり話した事がなかったので、ごく僅かだが緊張を覚えた。
「その、悪いね、考え事してたから……」
しどろもどろ、というほどではなかったが明朗な言葉で返せない陸。
そんな陸に、少し鋭い視線を向けて明悟は言った。
「その考え事は、霧里さんの事か?」
「え?」
不思議そうに微かに首を傾げる陸。
そんな陸を見ていると、明悟は言わずにはいられなかった。
「……僕は。君に、負けるつもりはない。それだけは言っておく」
「……???」
唐突な明悟のその言葉を、陸は理解できなかった。
何の事かを問い掛けようにも、速足の明悟の背中はあっという間に遠ざかっていた。
そんな彼の後ろ姿を眺めて、陸は頬を掻いた。
そこに、薫と由里奈が戻ってきた。
「あ、陸君。どうかしたの?」
さっきの事をおくびにも出さないように意識しながら、薫は言った。
……今話しても、陸に余計な気を遣わせるだけ……そう考えたからだ。
陸はその瞬間、微かな違和感を感じたのだが……
「陸君?」
そう言って自分の顔を覗く薫はいつもどおりで。
その違和感を気のせいだと判断し、陸は気を取り直しつつ、そのままを答えた。
「いや、その……遅いから気になって」
「え?時間そんなに経ったかな」
「ごめんなさいね、遅くなって」
「あー。気にしなくていいから。
それより気を遣わせて、ごめん」
申し訳なく思えて、陸は由里奈に頭を下げた。
「この埋め合わせは、いつかするよ」
「……いいえ。気にしないで、いいわ」
由里奈はそんな陸から微かに視線を逸らしながら、眼鏡を押し上げた。
何故か陸の顔を見られなかった。
「それじゃ、改めて昼食と行きますか」
いつの間にか陸の後に立っていた道雄は、最後のパンを片手にぶら下げながら言った。
「え?まだ食べてなかったの?」
「まあ、なんとなくな。
俺は一個だけ残してたわけだが、コイツなんか弁当出しても全然食べてないんだぞ。
いじらしいというかなんというか」
道雄の言葉に、陸は思わず熱くなった頬を掻いていた。
そんな陸を見て、薫と由里奈の口に自然と笑みが浮かんだ。
薫がいなくて寂しいとかそれ以前に、そういう事を考えて気を遣う辺りが、実に陸らしい……そう思ったからだ。
「ありがとね、陸君。勿論幾田君も」
「いえいえ。それより早く食わんと昼休み終わるぞ。月穂も食べ掛けだろうが」
「そうね」
そんな笑みと雑談を交わしながら、四人は自分達の席に向かって歩き出した。
その中で。
陸は、何故かさっきの明悟の表情……まるで、自分を敵視するような顔……を忘れられないでいた。
(……何だったんだ……?)
陸が、明悟の言葉の意味を知るのは、この日から暫く経ってからになるのだが。
その時、自分達の関係がどうなっているのか……この時の陸は、知る由もなかった。
……続く。
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