第五話 揺るがないもの、変わりゆくもの(後編)
「昨日のテストを返すぞ」
その日の六時間目。
数学教諭に呼ばれ、出席番号順で生徒が前に出ては答案を受け取っていった。
「霧里薫」
「はい」
名前を呼ばれた薫は答案を受け取って、自分の席についた。
陸は振り向くが、薫はそれに気付かず、ただ答案を眺めていた。
何かを考えているようなその表情に、陸はなんとなく不安を覚えた。
「どうだった?」
「まあまあかな」
そんな会話が辺りを行き交うHR前。
生徒たちの話題はさっきのテストの事で持ち切りだった。
そうなるのはテストの後の常である。
その例に漏れる事無く、彼らもまた会話を交わしていた。
「月穂は?」
「まあ、それなりよ」
道雄の問いに、由里奈は眼鏡を上げながら答えた。
……とか言いながらこのクラス最高の99点を取っている辺り流石と言うか。
ちなみに残り一点は、数式の途中計算の方法で減点されているだけなので……つまるところ満点といっても差し支えはない。
「そういう幾田君は?」
「俺は60点だった。まあ平均点ピタリだから良し。平良は?」
「75点」
別に隠す理由もないので普通に答えた。
それよりも、陸は薫の事が気になっていた。
数学の先生によると赤点を取った人間はいなかったとのことだった。
だからとりあえずは訊いてもいいはずだが、さっきの薫を見ている陸としては、そうする事は躊躇われた。
(だからと言って、訊かないというのもな…………)
そう陸が悩んでいると、そんな煩悶に気付いていなかった道雄が薫に尋ねた。
「霧里はどうだったんだ?」
「大丈夫だったんでしょ?」
由里奈もまた同じ様に問い掛ける。
薫は、二人の問いに無言でテストの答案を取り出し、位置的に近い陸に手渡した。
陸は少し躊躇いながらも、その答案を開いた。
二人もそれを覗き込む。
「……んー……」
陸はそれを見て、そんな声を漏らした。
その点数は41点。
薫は、どうにか赤点を免れていた。
だがかなりギリギリである事に変わりはない。
「あれだけ勉強したのにね」
そう由里奈が言う。
それは別に薫を揶揄するものではなく、ただ単純に事実を言っただけだ。
現に、そう呟く彼女の表情は、むしろ少し残念そうな、そんな顔だった。
そんな由里奈に陸は面白くなさそうに告げた。
「誰にだって苦手はあるんだ。仕方ないよ」
陸は気付かなかった。
その言葉を言った瞬間、薫の表情が微かに歪んだ事に。
「まあ、でもさ。期末で頑張ればいいじゃない。また手伝うからさ」
陸はそう言って笑いかけた。
そうする事で、薫を励まそうとしていた。
薫なら、それに頷き返してくれる……そう思っていた。
それに対し薫は、静かに呟いた。
「……頑張れないよ」
「え?」
訊き返す陸に、薫は静かな視線を向けながら、困ったように笑っていた。
「私は、陸君とは違う。私は、頑張れないよ」
その薫らしからぬ言葉に、陸は目を瞬かせた。
顔は笑っている。
だが、それは、いままで陸が見た事のない、薄暗い薫の表情だった。
薫の言葉を頭の中で把握し直した上で、陸は言った。
「違う?どういう、意味かな」
「……」
「俺と薫さんの何が違うの?」
「私は……陸君みたいになんにでも一生懸命になれないから」
薫は、そう言うと席を立った。
「薫さ……」
「……ごめんね。ちょっと用事があるの。すぐ戻ってくるから」
そう言い残して、薫は教室を出た。
陸はそれを呆然と見送るしかできなかった。
薫は、廊下をぼんやりと歩いていた。
用事なんかない。
ただ、あの場にいたくなかった。
別に怒っているわけじゃない。
怒る理由は何処にもなかった。
あの日。テストの前日。
薫は家に帰ってからも勉強しようとしていた。
だが、いろいろなもやもやが、薫を遮っていた。
結局薫は、あの放課後に四人でやれた事を前提にしか試験を受ける事ができなかった。
だが、それは正直な所、薫にとってたいした問題ではなかった。
問題は別の所にあった。
『苦手だから仕方がない』
『また頑張ればいい』
そう言う陸が自分を気遣ってくれているのは分かる。
だが、気遣いなんてして欲しくはなかった。
陸にそのつもりはなくても、まるで見下されているような、そんな気持ちになってしまう。
それが辛かった。
陸は悪くない。
だからこそ、余計に。
それは、一昨日から続いていた煩悶と絡み合い、薫を縛り付けていた。
「……」
「おい、平良。霧里、追わなくていいのか?」
「……そうしたいよ。でも、今は駄目だ」
「どうして?この間は追いかけたじゃない」
由里奈がそう言うと、陸は首を横に振った。
「あの時と今は違う。
薫さんの気持ちを、ちゃんと考えてからじゃないと、駄目だ」
真剣な表情で、陸は言って考え込んだ。
追いたい気持ちがなかったわけじゃない。
むしろ、陸としては即座に追いかけて話をしたいと思っていた。
だが、伝えるべき言葉を持たないのに追いかけて、何を話せばいいのだろうか。
あの時は、やるべき事が定まっていた。
ただ謝りたいと思って、動き出せた。
でも、今は違う。
何故薫がああ言ったのかを考えなければならない。
だからこそ、陸は必死に考え込んでいた。
焦りながらも、精一杯に。全力を持って。
一刻も早く走り出せるように。
それが、平良陸の平良陸たる所だろう。
だが、そういう陸だからこそ、薫は悩んでいる。
陸はそれに気付いていなかった。
そして、もう一つ。
由里奈が教室から出て行くのを、考え込んでいた陸は気付かなかった。
「……霧里さん」
自分を呼ぶ声に、薫は顔を上げた。
そこには月穂由里奈が立っていた。
「えと、何か用?」
極めて普通に薫は答えた。
怒っているわけではないから、薫にしてみれば、それは当然の反応だった。
由里奈は少しそれに拍子抜けしながらも言った。
「もうすぐHRでしょ。何はともあれいったん教室に戻った方がいいわ」
その言葉は至極真っ当なものだ。
薫自身そう思っていたからこそ、気は進まないながらも来た道を戻っている所だった。
「……ええ。そうね。わざわざごめんなさい」
「いいわよ、クラス委員なんだから。このぐらいはね」
と言いながら、薄く笑みを浮かべる由里奈だったが、彼女としてはそれ以外にも理由があった。
それは『二人を興味深く観察しているのに、このままあっさりと離れられるのは少し困る』というものだ。
自分勝手なのは重々承知しているが、興味深いと思っている自分自身は否定できない。
だから、もう少しだけでも見ていたいと思っているのだ。
自分の従姉妹である影浪西華も二人を気に入っているし。
それに。
正直に言えば……黙って放っておくのは、少し気が引けたのだ。
情が移ったというべきか、単純に胸が痛むからというべきなのかは、彼女自身分からなかったが。
そんな、いろんなものが交じり合った理由から、由里奈は薫に声を掛けた。
「……平良君の事考えてた?」
「え?」
「顔がそう書いてある、って表現がぴったりだと思うわ。今のあなたの顔は」
由里奈の言う通り、薫は陸の事を考えていた。
正確に言えば、これからの事を。
これから、どうすればいいだろうか。
謝ればいいのだろうか。
いや、そもそもの解決になってないから意味がない。
かといって、このままではいけない。
最悪……陸と付き合うのはこれで終わりになるかもしれない。
微かに俯いた薫を見て、由里奈は髪をかき上げた。
「まあ、あなたの悩んでる事はもっともだと思うけど」
「え?」
「私だって、平良君みたいに『自分の苦手な事にも一生懸命』には……流石になれないし」
由里奈は薫の深い所の悩みまでは知らなかった。
だが、さっきの言葉で大体の事を推測してはいた。
「どうして……」
「見てれば分かるわ」
驚きの表情を浮かべる薫に、自分の考えがほぼ当たりであった事も含めて由里奈は笑いかけた。
月穂由里奈は二人の事に注目し、興味を持って観察していた。
それゆえに、ある意味において二人よりも客観的に二人の事を知っていた。
だからこそ、薫の考えていた事にも気付く事ができた。
勿論、平良陸についても冷静に分析していた。
「でもね。平良君自身はあなたが言ってるような事、考えてると思う?」
そんな由里奈の言葉に、薫は目を微かに見開いた。
自分とは違う、という薫。
なんにでも一生懸命になれないという薫。
……そんな風に思っていたなんて、知りもしなかった。気付けなかった。
でも。
(それがなんだって言うんだよ……薫さん)
陸には、何故薫があんな顔をするのか、分からなかった。
……苦手な事がある。
それが自分に改善できる事なのに、改善しようともしない。
そういう甘い考えが許せない。
……それが平良陸の考え方だった。
でも、それを誰かに強要するつもりはない。
その考えはあくまで自分自身のものだから。
ましてや、薫に何かを強要するつもりなんかない。
薫はこんな自分と付き合ってくれると言ってくれたのだ。
陸としては薫に何かを望む事は基本的にありはしない。
むしろ自分が足りない事ばかりだと言うのに。
それは例えば、薫の話についていけなかったりする事。
それは例えば、女の子の……薫の心情が中々理解できない事。
だから、陸は常に努力したいと思っていた。
以前にも増して、そう思うようになったのは薫がいたからだ。
苦手な事も、どんな事も、真っ直ぐに挑むのは、全て薫に不甲斐無い所を見せたくないから……
「おい、平良」
「…………」
「おいって」
「あ、えと。何?」
そこで陸は道雄が自分の事をずっと呼んでいた事に気付いた。
道雄は、そんな陸の様子を見て、深々と溜息をついた。
「あのさ、お前考えすぎなんじゃないのか?」
「え?」
「傍目から見てて思ったんだが、少なくとも、今さっきはお前が何かやったわけじゃないだろ。
悪くもないのに、考え込むなんて変じゃないのか?」
「……それは」
その道雄の何気ない言葉に、陸は即座に言い返すことができなかった。
彼の言葉は、もしかしたら正しいのかもしれない。
でも。
「そうだけど……分からないなら、考えるしかないだろ?」
薫のあんな表情を見せられた陸としては、そうしないわけにはいかなかった。
だが、それを道雄は一蹴した。
「バーカ。分からないなら、聞けばいいだろが。
考えないわけにはいかないっていう、お前の考えも分からなくはないけどな。
この場合、一人で悩んでるよりよっぽどその方が建設的だと俺は思うぞ」
その道雄の言葉に、陸は眼を瞬かせた。
「それって、どういう事?」
由里奈の問いに、薫は問いを返した。
それは予想通りの事だったので、由里奈は至極当たり前であるかのように言葉を紡いだ。
「平良君は何でも一生懸命よね。
それが彼の美点である事に疑う余地はないわ。
でも、彼はその事について、何か言ってた?自慢したりとかしてた?」
「え?それは、ないわよ。……陸君、そんな事自慢したりしないだろうし」
陸がそういう事を自慢するような人間じゃない事は薫にとっては明らかな事だった。
そもそも、誇るような事だとすら思っていないだろう。
「じゃあ、霧里さんはどうして悩んだりするの?
彼自身が気にもしていない事で悩む必要は、ないんじゃない?」
「それは……」
それはそうなのかもしれない。
でも、それは許されないと思う……と考えてはいたが、なんとなく答える事が躊躇われ、薫は言葉を止めた。
そんな薫に、由里奈は言った。
「平良君にしてみれば、自分にとってなんでもないことで他ならないあなたに悩まれて……彼の方が余程悩んでると思うけどね」
その由里奈の言葉に、薫はショックを受けた。
(悩んでる?陸君が?なんで?)
そんな思考が脳裏を走る。
その混乱の中で、薫は言葉を搾り出した。
「そんな……私は……」
「あなたにそんなつもりはないんでしょうね。それは分かる。
平良君自身も迷惑だとか思ったりしないでしょうし。
でも、それはそれとして、さっきあなたが出て行った後で、平良君がうんうん唸って、頭を抱えてたのは事実よ」
それを聞いて、薫は動揺した。
動揺せずにはいられなかった。
……そんなつもりはなかった。
薫はただ、自分が不甲斐無いと思っていた。
陸のようにどんな事にでも一生懸命になれない自分が情けないと思っていた。
そんな自分が、陸と一緒にいていいのか、考えていたのも事実だ。
でも。
それで陸を不安にさせるつもりはなかった。
それで、陸を悩ませるつもりは、まったくなかった。
これはあくまで自分の責任であり問題だ。
陸には悪い所などありはしない。
それなのに、何故陸が悩むのか。
そんな事で悩む必要は……………………
「……あ……!!」
そこで。
薫は、気付いた。
自分の悩みが、『今の陸の悩み』と、ある意味まったく同じである事に。
そう。
ただの『一人』の思い込みに過ぎない事に。
(…………そっか……そうだよね)
『そこ』に到達する事で、薫の中の不安は消えていった。
今まで、自分は何を勝手に一人で悩んでいたんだろうか。
自分が陸につりあうかどうかなんて、自分一人で考えるような事じゃない。
まして陸が決める事でもない。
どちらか片方でそれを考えるのは傲慢だ。
もしも、彼がそんな男なら、そもそも付き合っていなかったはずだ。
あの赤い教室で告白を受けた時。
それに頷いたのは、他ならない、彼の真っ直ぐさにあったのだから。
彼が何故自分を好きになったのか、それは分からない。
でも、それが分からなかったから付き合っている。
それを知るために付き合っている。
そうでは、ないのだろうか。
少なくとも、自分……霧里薫はそうだ。
気持ちに差があるのも当然だ。
平良陸が霧里薫を好きになったのであって、その逆ではないのだから。
そして、そもそも。
平良陸はそういう事を気にするような人間だろうか。
そうじゃないことは、ちゃんと分かっていたはずなのに。
考えれば考えるだけ、心の中の暗雲は消えていく。
そうだ。
まだ自分は。
「……霧里さん?」
その声にはっとして、薫は顔を上げた。
由里奈は、いつの間にか立ち止まっていた薫を怪訝そうに眺めていた。
薫は、そんな由里奈に笑いかけた。
「月穂さん、私わかった」
「は?」
「心配かけてごめんなさい。後は何とかするね」
「え?あの?」
「ありがとっ」
そう言って、さっさと教室に入っていく薫を見て、由里奈は思った。
(……なんだ。私必要ないんじゃない)
せっかく、これから話を最終段階に持っていこうとしていたのに。
自分で気付けば世話はない。
「ま、彼女らしいと言えばそうかしらね」
そう呟きながら、由里奈は笑みを浮かべた。
そんな自分に気付き、それにまた苦笑しながら、彼女は教室に入っていった。
「私からは以上。……と、忘れてたこと、後一つ」
このクラスの担任である白耶音穏(はくやねおん)は、長い黒髪をかき上げつつ言った。
「霧里、月穂。明日からは私が来る前に席に座るようにね」
「はい」
「以後気をつけます。それでは、起立、礼」
由里奈の号令で皆が頭を下げる。
そうして、HRが終った後。
「薫さん」
「陸君」
二人はどちらともなく近付いた。
『あの』
二人同時に、そんな言葉が漏れた。
お互いに目を逸らして、頭を掻く。
でも、そこに気まずさはない。
薫は、んー、と声を漏らし、場を整えてから陸に言った。
「……話したい事あるんだ。ちょっと付き合ってくれる?」
「うん」
薫の言葉に、陸は迷う事無く頷いた。
そうして二人は教室から出て行ったが。
二人の背中を見て、やれやれ、と思った人間が約二名いたのだが、二人はそれを知る由もなかった。
夕日で赤く染まった屋上。
二人はそこにいた。
帰り道を歩きながら話しても良かったが、ここでゆっくり話したかった。
今まで、何度も言葉を交わしたこの場所で。
そう言う薫に、陸は深く同意した。
「さっきはごめんね。ヘンな事言って余計な心配させちゃって」
「いや……」
手すりに軽く寄りかかりながらの薫の言葉。
その瞬間、陸はすぐに追いかけなかった事などについて謝ろうかと考えたが……
「気にしないで」
そう言うだけに留めた。
その脳裏には道雄との会話が甦っていた。
道雄の言うとおりだと思った。
悪くもないのに謝るべきではない。
それは誠意でもなんでもない、ただの弱気だ。
それよりも、しなくてはならない事が、大切な事がある。
「その代わり、聞かせてくれないかな。どうして、あんな事を言ったのか」
それは。
独りよがりの考えではなく、薫に問い掛ける事。
陸はどう考えても分からなかった。
何故薫があんな事を言ったのか。
だから、聞く。
どうしても理解したいと思うから。
その上で、自分はそれについてどう思ったかを聞いて欲しいから。
そして、それは。
「うん。私も、陸君にそれを話したかったんだ」
薫が辿り着いた結論と同じモノだった。
それは至極当たり前の事なのかもしれない。
だが、二人ともがそこに辿り着くのは難しい事だ。
この二人は、趣味も違えば、日常も違い、過ごしてきた時間の一致も……今までの生きてきた時間から見れば殆どない。
そんな二人が、人の助けがあったとはいえ、こうして『同じ場所』に辿り着く事は、そうはないだろう。
人間は、自分にとっての当たり前が他人にとって当たり前ではない時……つまり、互いの価値観にズレが生じた時、喧嘩や対立をする事がある。
そうなった時、何が大切なのか。
それは至極簡単な事だ。
お互いの価値観について『話す』。
それ以外に方法はない。
……例え、話した結果、二度と互いが分かり合えなくなったとしても。
簡単そうに見えて、これは難しい事だ。
それは、それまでの関係が特別であればあるほどにはまりやすい落とし穴。
この人なら話さなくてもいい。
話さなくても分かってくれる。
それを言い訳に、お互いの価値観のズレを知るのが怖くて話せなくなる。
思い込みが生む、関係のヒビだ。
この二人は、そこに陥る事無く、向き合っていた。
「言いたいことはっきり言わないと。私すっきりしないしね」
「……だね」
そう。
それでこそ、霧里薫。
平良陸が好きになった少女、その一面だ。
……それをまだ自覚していないらしい物言いも含めて、彼女らしいと陸は思った。
薫は照れ臭いのか、赤い空を見上げながら、言葉を紡いだ。
「私ね、陸君のなんにでも頑張れる所、すごいと思ってる。尊敬もしてる。
だから、私、自分が情けなかった。
そうできない自分にちょっと嫌気がさしちゃったんだ。
だから、その……柄にもなく弱気な事、言っちゃったんだと思うの」
それは素直な薫の心情だった。
……実を言えば、薫はもっと深い所まで話そうかとも思っていたが、それは流石に照れ臭かった。
それに、多分、今はこれで十分だと、薫は思っていた。
その言葉が伝える所を、陸は理解した。
だから、もう一度気にしなくてもいい、と言おうとした。
だが、そう言おうと口を開きかける陸の言葉の前に。
「でもね。正直に言うと、それでも、私は頑張れないと思う」
キッパリと、薫が言った。
その言葉に陸は目を瞬かせた。
「あ、勿論努力はするよ?でも、陸君ほど真面目にはできないよ」
薫は見上げていた顔を陸に合わせて、言葉を続けた。
「私は、好きなものに全力でいたいんだ。
何にでも一生懸命だと、本当に大事なもの見失いそうじゃない?
だから、嫌いなものとか苦手なものには……どうやっても、そうなれないし、そうしたくない。
…………陸君ほど、器用じゃないしね私」
はは、と薫は笑った。
薫は、気付いたのだ。
対等な関係とは、互いの違いをふくめて、互いを認め合う事だという事に。
必要なのは、同じである事じゃない。
相手と合わせる事でもない。
相手と自分の違う部分を認めて、それが相手のいい所だと思えるかどうか。
そういう事だと。
自分と陸はそうなれないだろうか。
(……できれば、私は)
そんな願いを込めて、薫は陸を見詰めた。
「……そういうの、駄目、かな?」
薫のそんな視線を受けて。
陸は……静かな笑みを浮かべた。
頭の中で、薫の言葉を何度も何度も思い浮かべ、浸透させて。
陸は、自分の言葉を、薫に向けた。
「俺は……器用じゃないよ。俺は、そうしないといられないだけだから。
それに、お互い様だよ。
俺は、薫さんの趣味に熱中する姿はすごいと思うけど、ああはなれないし」
「じゃあ、その……許して、くれるのかな」
「許すも許さないも……怒る様な事、聞いた覚えはないよ」
違い。
それは、自分達の間に確かに存在している。
でも、それは自分達にとっては些細な事だ……陸は、そう思った。
薫は陸との違いを認め、その上で尊敬していると言った。
陸もまた薫との違いを理解し、それでもいいと思えた。
それならもう、何を考える必要があるだろうか。
「だから、薫さんが気にする事は何もないよ」
陸の言葉が響いた直後、風が吹いた。
その風は、二人の間を通り抜けていく。
その心地よさに、陸の言葉に、薫は晴れ晴れとした気分になった。
「なんか偉そうー」
だから、あえてそんな事を言った。
今の自分達は元に戻れているのか、それが知りたくて。
「え、あ、その……ごめん」
そんな薫の言葉に、陸は惚れた弱みか、申し訳なさそうに肩をすぼめた。
……その一瞬後。
「ぷっ」
「ははっ」
二人は笑った。
その笑いの質は、微妙に違う。
だが、楽しい事に偽りはない。
馴染みの空気がそこにあった事が。
その気持ちを共有できていた事が、二人は嬉しかった。
少しの間笑いあった後、陸が身体を伸ばしながら言う。
「んじゃま、そろそろ行こうか」
「そね。……あ、でも、最後にこれだけは言わせてね」
薫はそう言うと、コホン、と咳払いをして、呟いた。
ある意味、さっきよりも緊張していた。
でも、これだけは言いたかった。伝えてみたかった。
「いろいろ言ったけど、陸君の一生懸命な所……私、好きだから」
………………
その瞬間、時間が止まった。
言った当人は恥ずかしさで。
聞いた本人は、聞こえてはいたが、自分の耳を信じていいやらで動けなかった。
それは一瞬の事で、陸はぎくしゃくと口を開いた。
「……へ?あの、薫さん、今なんて……」
「あ、えと、その……一回しか言わないって言ったでしょ!」
「……言ってないよ」
「言ったよー!」
「言ってないって!」
……まあ、そんな口論がしばらく続きはしたのだが。
それはその場限りのもので。
その後、二人はいつものように下校し、いつものように笑いあった。
否。
いつものように、ではなかった。
いつも以上に、楽しそうに、だ。
様々なものが違い、異なる二人。
平良陸と、霧里薫。
そんな彼らがそんな風に笑い合う姿は。
ようやっと、彼らの関係に相応しいものになっていた。
……続く。
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