第四話 揺るがないもの、変わりゆくもの(前編)
「というわけで、明日は小テストだからな。
中間や期末じゃないからと手を抜いて赤点を取ろうものなら……そのときは覚悟しておけよ」
このクラスの数学担当教師の発言に、クラス中から不満の声が上がる。
それを相手することなく、教師は教室から出て行った。
「面倒な事になったな」
「そうだな」
その後の休み時間。
クラスメートである幾田道雄の言葉に陸はうんうんと同意した。
「ったく、横暴だよな」
「小テストを作ってるのって、あの先生だけだなー」
「成績を決める判断材料が少ないんでしょう」
そう言って話に入って来たのはクラス委員である月穂由里奈。
眼鏡をくいっと上げながらの彼女の言葉に、道雄はうんざりとした表情を見せた。
「そう思ってるのはあの先生だけだって。宿題を出す量だって多いっつうのに」
「まあ、確かにね。でも判断材料が多ければ多いほど成績をつけやすいのは事実でしょ」
「うーん。それでもテストは勘弁して欲しいよな」
「平良、数学そんなに苦手じゃなかっただろ?」
「苦手だよ。予習復習やって、ようやっと平均点台なんだから。
だから勘弁して欲しいんだよ。薫さんもそう思うだろ?」
陸が薫の方を振り向きながら言うと、そこには。
「…………」
「か、薫さん?」
脂汗をだらだら流す薫の姿がそこにはあった。
というか、背中に暗い影が漂っている……ようにさえ見えた。
「……数学は苦手というか嫌いなのよ」
その言葉は陸の呼びかけた内容に答えていないが、それが逆に悲壮感をアピールしていた。
「そ、そうなんだ」
「というか、理数系は全般的に」
「はあ……」
「さらに言えば、この間の中間テストは……」
そこから先を言わないだけで、何を言わんかは十二分に理解できた。
「……やばいんだ薫さん」
「……やばいんだな霧里」
「……やばいのね、霧里さん」
「うう〜どうしよぉ……」
珍しく弱気な様子で頭を抱える薫であった。
「そんな霧里さんの救済措置を行おうと思うわけだけど」
放課後の教室。
由里奈はふぅ……と周囲を見回した。
教室には、薫、由里奈、陸、道雄の四人が残っていた。
机を長方形型に合わせて、それぞれノートを広げている。
「異議なし」
「ついでに頼むぜ」
「よろしくお願い〜」
由里奈の視線に三者三様で答える。
薫の窮状を見かねた陸は、薫と一緒に勉強する事を思いついたのだが、自分だけでは心許なく思えたので、クラス委員であり、優秀な成績を誇る由里奈に応援を頼んだのである。
「薫さん、数学そんなに苦手だとは思わなかったなー」
陸の言葉に、薫は苦笑した。
「う〜ん……数学って社会に出ても使わない教科だから、あんまり好きじゃなくて……」
薫は頭が悪いわけではない。
その証拠に、得意科目である現国に関しては、学年トップクラスの由里奈と同等でさえある。
……その事実を薫自身知っているわけではないが、テストや成績の結果から国語という科目に自信があるのは事実だった。
その半面で数学に興味が持てなかったりするのが、致命的ではあるが。
「ふむ。まあ確かにね」
そんな薫の言葉を、由里奈は肯定した。
「何かの設計とか、数学者ならともかく、普通に就職する分には必要がないわね」
「おいおい、それは偏見だぜ、月穂。
そういう言い方だと設計者や数学者が普通の職業じゃないように聞こえるぞ」
「同感。職業に貴賎はないっていうのとは少し違うけど、仕事に必要な技能が違うだけだと思う」
男二人の言葉に、女性陣は目を丸くした。
「あなたたち……」
「何か悪いものでも食べたの?特に幾田君」
「……お前らなあ。特に月穂」
「まあまあ落ち着いて。
でも、実際そう思うよ。何がこの先に役に立つか分からないから、苦手でも手は抜けない」
「そこまで思うのは平良だけだと思うがなあ」
「同感ね」
「まあ、そこが陸君のいい所なんだけどね」
三人の視線が薫に集中する。
薫は特に気にした風はない。
……彼女にしてみれば、いつもどおり自覚無しで思った通りのことを言っただけなのだが。
「え?私何かヘンな事言った?」
「…………帰るか」
「…………帰りましょうか」
「こらこらこら!」
席を立ちかけた二人を顔を真っ赤にしながら陸が慌てて引きとめる。
「いつもどおり!薫さんいつもどおりだから!」
「まあ、そうなんだろうけどなあ」
「ノロケはちょっとね」
「え?」
そう言われて、自分の言葉の意味を理解したらしく、薫の顔が赤く染まる。
「やっぱ帰ろうぜ」
「同意見ね」
「おおーい!」
そんなやり取りをしながらも、勉強会は進んでいった。
(うーん……難しいな)
薫は由里奈に教えてもらったやり方で教科書の練習問題を進めていた。
他の三人も同じ問題に取り組んでいる。
(陸君はどうなのかな?)
ふと、視線を向ける。
陸は真剣な表情で問題に向き合っていた。
いつだって、そうしている、陸の顔。
(ほんと、なんにでも一生懸命なんだなぁ……)
その時、なんとなく視界に入った教科書を見て気付く。
同じ練習問題を、同じ時間に始めたのに、そのスピードがまるで違う。
薫は練習問題一ページ目の真ん中。
陸は何処までかは分からないが三ページ目に入っているようだった。
それは単純に努力の差だ。
予習復習をしていると言っていた陸は、すでに何度かこの問題をやっているのかもしれない。
ただそれだけの事だ。
だが。
ただそれだけの事だと分かっていても、それは薫に漠然とした不安を自覚させるのに、十分だった。
「……」
「薫さん?」
「え、あ、なに、陸君?」
「手が止まってるから気になって。分からない所ある?」
「ううん、大丈夫だから。気にしないで」
パタパタと手を振って、薫は自分の問題に再び目を落とした。
だが、薫がそれに本当に視線を向けるのには、暫くの時を要した……
少し暗くなった帰り道。
陸は薫を家まで送っていた。
由里奈や道雄も途中まで一緒だったが、彼らはすでにそれぞれの帰路についていた。
「じゃあ、俺はここで」
今日も薫の父親が早く帰っているらしく、家から少し離れた所で陸は言った。
それは、薫を家に送る時の慣れたスタイルになっていた。
軽く手を上げて背を向けかける陸。
そんな陸に、少し躊躇いながら薫は声を掛けた。
「……ねえ陸君」
「ん、何?」
「もしもの話だけど……私が留年したら陸君はどうする?」
真剣に聞く事が躊躇われたので、薫は冗談じみた口調で言った。
馬鹿げている、と薫自身思っている。
ギリギリかもしれないが、そこまで成績が悪いわけではない。
だが、一度不安に思ってしまうと、それは馬鹿げているで済ませられなくなっていた。
もし。万が一そうなったら。
留年する事で、陸は自分をどう思うだろうか。
留年したら、何かが変わってしまうのだろうか。
……それに対し、陸は眉を寄せて、うーん、と唸ってから答えた。
「それはないと思うけど?そうならないために今日は勉強したんだし」
「いいじゃない、答えてくれたって。もしもそうなったらって話なんだから」
「そ、そうだね。うーん……」
薫の少し強い口調に驚きながらも、陸は再び唸って思考した。
そうやって暫し考え込んだ後、陸は口を開いた。
「別に、どうもしないと思う」
「え?」
「仮にそうなったとして……そうなる事で、俺たちが変わる事がなければ問題ないような気がするんだけど……違うのかな」
「……」
「薫さんに今までどおり会えないかもしれないって思うと……正直嫌だけど……
でも、それは来年、クラス替えで違うクラスになった時は嫌でもそうなるし……」
真剣な表情での陸の言葉は、薫にはっきりと教えていた。
平良陸は変わらない。
例え自分……霧里薫がどうあろうと、どうなろうと。
状況が変わった程度で自分への気持ちを変えたりはしないし、頭のいい悪いで人間の見方を変えたりもしない。
それは『一緒に留年してやる』というような言葉よりも強い、陸の気持ちを伝えていた。
そして、それは薫にとって、素直に、本当に嬉しいものだった。
不安の一つは晴れていく。
でも……
「あ、その、もちろん。そんな事にはならないと思うし、そうならないように俺にできる事は全力を尽くすし、仮にそうなったとしても俺は、その……薫さんの事……」
「……うん。ありがと」
フォローしなければと思ったのか、慌てて言葉を連ねる陸を遮って、薫は告げた。
「陸君がそう言ってくれるから、元気出たよ」
「そう?」
「うんうん。明日は頑張るからね」
薫は力瘤を作るポーズを取った。
それ自体に嘘はない。
だから、陸は安堵の表情を浮かべた。
「そっか。……んじゃ、明日はお互い頑張ろう」
「うん。陸君こそ油断して悪い点取ったりしないようにね」
「ああ、気をつけるよ。んじゃまた明日」
「まったねー」
今度こそ去っていく陸の背中に手を大きく振って見送る。
陸の姿が見えなくなった頃、薫は思い出していた。
『でも、実際そう思うよ。何がこの先に役に立つか分からないから、苦手でも手は抜けない』
それは、今日の陸の言葉。
薫は彼らしいと思ったし、いい所だと本当に思っている。
そういう事を真っ直ぐに言える陸の事が嫌いなわけではない。
抱いている気持ちは…………多分。
「…………」
でも。
それだけに、陸と自分の違いが、微かな痛みを生んでいるのも事実だった。
何事にも真剣に向かっていく、平良陸。
そんな彼もまた苦手と言っていた数学。
でも彼は苦手だからと逃げる事はしていない。
苦手を克服しようと、それに向き合っている。
……自分とは、違う。
自分は、苦手なものに対してもあれだけ真っ直ぐに物事に向かっていけない。
そして。
そんな平良陸があの日言った事を、薫は忘れる事などできない。
『お、俺……霧里さんの事が好きだ』
その気持ちは、彼らしく、真っ直ぐで一生懸命だ。
今まで陸と一緒に行動してきた事で、それに確信が持てる。
その『事実』に、疑いの余地なんか、ない。
でも。
だからこそ、薫の中に、もう一つの不安が生まれていた。
陸の気持ちに対しての、自分の気持ち。
それは、あやふやで、比べられない、そんな気持ち。
陸が自分に向けている気持ち。
自分が陸に向けている気持ち。
そこにある『差』。
そこにあるかもしれない、少しのずれ。
それを思うと……薫は不安だった。
自分は、このままでいいのだろうか。
霧里薫は、今のまま平良陸と並んで歩けるような人間ではないのではないか。
些細な事から生まれてしまった疑念。
それは、この場で、たった一人で晴れることなどあるはずもなく。
薫の胸の内に広がり、不安という名の蜘蛛の巣を少しずつ張り巡らせていった……
……続く。
第五話へ