新宿都庁の北側の地面が突如陥没した。続けてそこから青い光が天に向かって伸び、その光が消えると同時にその場に”スペード”がその巨大且つ醜悪な姿を現す。
「どうやら失敗に終わったようだな」
 地上に”スペード”が現れたという報告を聞いた柚原がため息を漏らしつつ、そう呟いた。等身大の状態で”スペード”を倒せなかったと言うことはかなり痛い。巨大化して、尚かつ地上に出てこられたら一体どれだけの被害が出るかわからないからだ。それに報告によると地上に現れた”スペード”は前に基地に現れた時よりも更に巨大化しているという。
「一般市民の避難はどうなっている?」
「はっ、まだ八十パーセント程だと」
「急がせろ。戦車隊とヘリ隊で”スペード”を牽制、出来る限り人のいない方向へと奴を誘導するんだ」
「わかりました」
 部下の兵士がそう言って柚原に敬礼をしてから去っていく。
 それを見送ってから柚原はすぐ側にいた無線を持った兵士に声をかけた。彼はここと更なる地下との連絡係をやっているのだ。”スペード”が地上に出てくる直前ぐらいから地下空間に突入した兵士達との連絡が取れなくなっている。先ほどから何度も呼びかけているのに一向に返事がないのだ。
「どうだ、まだ連絡は付かないか?」
「はい……」
「とりあえず呼び続けるんだ。それと救出部隊の準備をさせろ。さっきの揺れの所為で外に出られなくなっているかも知れん」
「わかりました」
 再び兵士が無線機に向かって呼びかけを始める。その様子を見ながら、柚原はふと地下に向かった部隊が全滅したのではないかという不安に襲われた。それは同時に、先に地下に入っていった貴明と志乃の死を意味している。もし貴明が死んでいるのならあの怪物、”スペード”には自分たちだけで立ち向かわなければならない。勝ち目は限りなく低いだろう。こちらの武器はほとんど”スペード”には通じないのだから。しかしそれでもやるしかない。
「……生きていてくれよ、貴明君」
 静かに呟く柚原。

 地上に現れた”スペード”に向かって防衛軍の戦車隊と戦闘ヘリ隊による攻撃が開始される。勿論まだ一般市民の避難が完了していない為に本格的な攻撃というわけではない。あくまで”スペード”の目を自分たちに引きつける為の攻撃だ。
 ”スペード”はその攻撃をまともに受けながらも平然と立っている。時折鬱陶しそうに戦闘ヘリや戦車を見回すが特に動こうとはしていない。その様子はまるで何かを待っているか、それとも探しているかのようだ。
 少しの間じっとしていた”スペード”だが、いきなり大きく口を開くと、そこから青白い火球を吐き出した。その火球が近くのビルに直撃し、ビルが爆散する。
 それが合図であったかのように”スペード”が歩き出した。地響きを上げながら、尚も攻撃を続けている戦車隊や戦闘ヘリ隊をまるで意にも介さず、新宿駅の方へと向かっていく。途中にあるビルをその太い腕で叩き壊しながら、どんどん突き進んでいく。
『奴を新宿駅に近づけるな! 新宿駅の向こう側の避難はまだ終わってないんだぞ!』
 無線を通じてこの部隊の指揮官の怒鳴り声が飛び込んでくる。
 しかし、どれだけ攻撃しても”スペード”の足は止まることもなく、その速さも弛むことはない。その目を自分たちに向けることすらかなわないのだ。どうしようもない。それでも攻撃の手を彼らは緩めることはなかった。
『攻撃を続けろ! 奴を止めるんだ!!』
 指揮官も自分たちの攻撃が通じないと言うことがわかっているのだろう。無線から聞こえてくる彼の声からも焦りを感じられた。
 更なる攻撃が”スペード”に加えられる。もはや牽制攻撃ではない。本気での攻撃に切り替わっている。それでも”スペード”の歩みを止めることは出来なかった。
 ”スペード”が遂に新宿駅の建物の側に到達した。その太い腕を振り上げ、新宿駅の建物を粉砕していく。更に口から青白い火球を吐き、駅から延びる線路をも破壊していく。
 それを見ながら、それでも防衛軍は攻撃を止めなかった。まだ駅の向こう側の避難が完了したとの報告は受けていない。”スペード”を駅の向こう側へと行かせるわけにはいかなかった。
「ヘリ隊は目標の正面に回り込め! 戦車隊は意地でも奴の足を止めろ!」
 青ざめた顔の指揮官が必死に叫ぶ。
 勿論彼に言われなくても皆必死だった。攻撃の手は少しも緩められてはいない。だが、”スペード”は防衛軍の攻撃をまともに受けながらもその動きを止めることはなかった。嬉々としながら新宿駅の建物を叩き壊している。

「これだけの攻撃を喰らいながら……予想以上の化け物に進化したか」
 攻撃部隊の指揮官の悲痛なる叫び声を聞きながら柚原が唸り声をあげる。
 現時点で動員出来る戦力の大半をここに集め、そのほぼ全てを投入してもダメージらしいダメージは一つも与えられない。頼みの綱である細胞を分子レベルで分解する薬品の入ったミサイルも体内に届かなければ意味はない。もう一つの頼みの綱である貴明は地下にてその生死すら不明だ。
「……打つ手無し、か……」
 悔しそうに歯を噛み締める柚原。だが、ここで諦めてしまうわけにはいかない。例え敵わなくても、せめて一矢報いなければならない。
「救出作業の方はどうなっている?」
「階段を塞いでいる瓦礫が予想以上に大きくまだ時間がかかるとのことです」
「早くしないと中に閉じこめられている者が危険だな。空気もそう長くはもたんだろう……」
 地下空間へと続く階段はかなり深いところで瓦礫によって塞がれていた。柚原はそれを聞くとすぐさま救出部隊を突入させ、地下空間に閉じこめられているであろう仲間達の救出を命じたのだ。しかし、階段と地下空間とを塞いでいる瓦礫はかなりの大きさのものらしくその作業は困難を極めている。早く助けなければ地下空間内部の酸素がなくなってしまう可能性がある。時間はそれほどないと思っていいだろう。
 ”スペード”が無理矢理地上に出たことによりこの辺りの地盤はかなり脆くなっている。階段を塞いでいる瓦礫を撤去するのに爆薬など使おうものなら、新たな崩落が起こり、救出部隊も閉じこめられてしまう可能性があった。その為に救出部隊はドリルなどで瓦礫を砕きながら進んでいる。その歩みは亀よりも遅い。
 それでも救出部隊の面々は必死だった。そもそもこの救出部隊に選ばれているのは防衛軍レスキュー部隊の面子だ。人の命を助けるのが使命である彼らが仲間の命を助ける為に必死になるのは当然のことであった。それでも作業は遅々として進まない。彼らの思いに反して、まるで彼らの努力を嘲笑うかのように巨大な瓦礫は彼らの行く手を遮り続けている。
 救出部隊の一人が瓦礫からドリルを引き抜き、砕けた破片を後ろにいる仲間に手渡そうとしたその時だった。突如、目の前にある瓦礫にひびが入り、いきなり砕け散った。そしてその向こう側からは赤い光が漏れだしてくる。
「な、何だ?」
 彼らがそこで見たものは、赤い光を全身に纏わせ、その拳から血を流しながら立っている貴明の姿であった。大きく肩を上下させながら荒い呼吸をしている彼を見て、一瞬救出部隊の誰もが息を呑んだ。彼のあまりにも鬼気迫る表情に言葉を無くしてしまう。だが、それもほんの一瞬のこと。貴明が全身に纏っていた赤い光はすぐに消え失せ、そのままふらりと前に倒れてきたからだ。
「う、上に連絡だ! 柚原一佐に連絡しろ!」
 倒れた貴明の側に救出部隊の一人が駆け寄り、そう叫ぶ。

 貴明が救出部隊の手によって運び出され、更にその奥から続々と突入部隊の生き残りが救出されていた頃、地上では防衛軍攻撃部隊が決死の攻撃を”スペード”に続けていた。既に新宿駅の建物は見る影もなく破壊されており、まだ一般市民の避難の完了していない向こう側にいつでも行けるようになっている。”スペード”がそれをしないのは防衛軍の攻撃が激しさを増しており、それを鬱陶しく感じているからだった。
 ”スペード”が口から青白い火球を吐き、その火球が地上に直撃、周囲にいた戦車を巻き込みながら爆発する。更に背中から生えている何本もの触手の先端から怪光線が放たれ、戦闘ヘリを次々と撃墜する。
「く……こちらの攻撃はまるで通じないと言うのに……」
 次々と破壊されていく戦車、戦闘ヘリを見ながら指揮官が悔しそうに歯を噛み締める。何と自分たちは無力なのだろうか。罪無き人々を脅威から守る為の防衛軍だというのに、その脅威があまりにも強すぎてまるで敵わない。盾にすらならない。このままでは何も出来ないまま全滅してしまう。
「どうすれば……」
 無力感に包まれた指揮官がそう呟いたその時、”スペード”が何かに気付いたようにその動きを止めて自分が現れた場所の方を見やった。そしてニヤリと笑う。
(やはり生きていたか……さぁ、早く出てこい。決着をつけてやる)
 大きく口を開け、天に向かって咆吼する”スペード”。

 貴明は三度、光が物凄い速さで流れていく世界の中にいた。
 おそらくここは自分の精神世界なのだろう、と貴明は予想する。いや、どちらかと言えばあの光の巨人の精神世界なのかも知れない。何にせよ、ここにいると言うことは光の巨人と対話が出来ると言うことだ。
『済まない。また君の身体を傷つけてしまった』
 不意に聞こえてきた声に振り返ってみると、そこには光の巨人がいて申し訳なさそうに自分を見下ろしている。
『本当ならば奴をすぐに追うべきだったがどうしても見捨てることが出来なかった。おそらくだが君の心が私にも影響を与えているのだろう』
「それじゃみんな助かったんだな?」
『生きていたものは皆助かったはずだ。死んだものはどうすることも出来ない』
「それで充分だよ。さて、そろそろ俺の質問に答えて貰えないか? あんたは一体どこから来たんだ? そしてあの化け物は一体何なんだ?」
『私ははるか宇宙の彼方から来た。奴らはとある高度な文明を持つ星で生み出された人工生命だ。奴らはその星を滅ぼし、新たな獲物を探して宇宙を彷徨い、次々と文明のある星を滅ぼしていった。私のいた星もその中の一つ。私は我が同胞の仇を討つ為に奴らをずっと追っていた。そしてこの星の近くで遂に奴らを追いつめた。しかし』
「取り逃がした……そう言うことか」
 呟くようにそう言って貴明は思い出す。自分が初めてあの恐竜人間と出会った時のことを。あの時、赤い光を追って山の中に迷い込んでしまったのだが、その赤い光こそこの光の巨人の仮の姿で、あの山の中に隠れていた恐竜人間と木の怪物を相手に戦っていたのだろう。そこにのこのこと自分が迷い込み、そして恐竜人間の手によって命を奪われてしまった。
『君を生かす為には私と融合するしかなかった。だがその為に君には……』
「それはもういいって言っただろ。少なくてもそのお陰で俺はこうしてあの化け物達からみんなを守れてる。むしろ感謝しているよ」
『だが奴は……もっとも凶暴でもっとも狡猾な奴がまだ生き残っている。はっきり言って奴の進化の速さは異常だ』
「それでも奴を倒せるのは俺たちしかいない」
『君をこれ以上巻き込みたくはない。融合を解かなければ危険だ』
「何を言うんだよ。俺がいなければ充分な力は出せないんだろう? それに……ここまで来て引き返せるものかよ」
『それは……だが、しかし……』
 光の巨人が躊躇しているのを見て、貴明は決断を促すように口を開いた。
「俺はもう決めたんだ。あいつを倒す。そうしないと俺に……いや、みんなに明日はない。だからやろう。やらせてくれ」
 貴明の言葉を聞いた光の巨人は少しの間考えていた様子だったが、やがてゆっくりと決意の籠もった目で彼を見る。
『……一つだけ覚えておいて欲しい。君は私の声がもう聞こえているだろう。それは私との融合がかなり進んでいると言うことだ。時間はもうほとんど残っていない』
「……完全に融合してしまうと……どうなる?」
『それは私にもわからない。私の意識が君の意識に上書きされるのか、またはその逆か。どちらにしろ、今までのようにはいかなくなるだろう』
 少し不安げな貴明に光の巨人ははっきりとそう答えた。巨人の中にも自分が消えてしまうかも知れないと言う不安があるようだ。それがわかったから、貴明は力強く、はっきりと頷いてみせる。
「……わかった。それでも構わない。今はとにかく奴を倒すんだ!」
 それだけ言うと、光の巨人がはっきりを頷くのが見えた。そしてそのまま意識がブラックアウトしていく。

 はっと目を覚ますと同時に貴明が上半身を起こした。
「気がついたか、貴明君」
 そう声をかけてきたのは心配そうな顔をした柚原だった。
「君のお陰で何人もの部下の命が救われた。君にはもう感謝のしようがないな」
「やったのは俺じゃないですよ、おじさん」
 頭を下げようとする柚原に苦笑を浮かべつつ答える貴明。そしてすぐさま真剣な表情を浮かべる。
「おじさん、俺が気を失っていたのってどれくらいですか?」
「君が発見されてからだとまだ五分も経ってないが」
「五分……」
 自分の質問に腕時計を見ながら答えた柚原から視線を外しつつ、貴明はゆっくりと立ち上がった。両手には赤く血の滲んだ包帯が巻かれている。それは額にも、だ。しかし、包帯の下ではもうその傷は完全に塞がっている。この五分程の間に回復したらしい。
「あいつは……どうしていますか?」
「”スペード”ならばじっとしているよ。まるで何かを待っているかのようにな」
「……多分俺を待っているんでしょう」
 そう言って再び苦笑する貴明。
 地下深くで生き埋めに出来るとは向こうも思っていなかったであろう。ああしてじっと待っているのは真正面からやり合っても勝てるという自信の為か。
(そっちがそのつもりならいいだろう。受けて立ってやる……)
 果たしてその決意は貴明の意思によるものなのか、それとも彼の中にいる何かの意思によるものか、もはや彼自身にも判別はつかなかった。だが、もうそれでも構わない。どっちにしろあの怪物を倒すと自分で決めたのだから。あの怪物を倒さないことには人類に、地球に明日はないのだから。
「行ってきます。おじさん達は避難してください」
 柚原に背を向けて、貴明はそう言った。
「避難など出来るはずがない。我々は君の援護を……」
「必要ありません。おじさん達の装備じゃあいつに傷一つつけることは出来ない。怪我人を増やすだけです」
「例えそうだとしても、だ。我々は力無き人々を守る防衛軍だ。その我々が君一人を戦わせて逃げるわけにはいかん」
 柚原の声からは不退転の決意が伺えた。おそらく何と言っても彼らの決意を覆すことは出来ないだろう。
「今のあいつを相手にして、防衛軍の人までも守れませんよ、俺は」
「構わん。自分の身ぐらい自分で守れるよ」
 貴明の言葉にそう答えた柚原はその顔に不敵な笑みを浮かべている。勿論背を向けている貴明にはそれはわからなかったが、それでも柚原の言葉に何とも言えない頼もしさを感じることが出来た。少なくても自分の背を預けても大丈夫だと思える程度には。
「……行ってきます」
 再びそう言って歩き出そうとした貴明だったが、すぐにその足を止めてしまう。そうせざるを得なかった。彼の行く手を遮るようにこのみと環が立っていたからだ。
「このみ……タマ姉……どうして……?」
「私が連れてきたのよ。間に合ってよかったわ」
 驚きのあまり呆然としている貴明にそう声をかけたのは春夏であった。いつもと変わらない笑顔で、貴明に向かってウインクしてみせる。
「あの公園じゃあまり話出来なかったんじゃないかって思ってね」
「……今がどう言う時かわかってますか、春夏さん?」
 少しムッとしたように貴明が言う。
 このすぐ近くには見るもおぞましい怪物がいて、破壊行為を続けている。そんなところにやってくるなど自殺行為にも等しいことだ。
「わかってるからこそ来たんじゃない。あまり時間はないんでしょ? 私じゃなくって二人と話しなさいな」
 春夏はそう言うとこのみと環の二人の背をポンと押してやった。その所為で二人が一歩、貴明の方に近寄ってくる。
「あ、あの、タカ君……」
 少し申し訳なさそうな感じのこのみ。
 環は顔を背けている。だが、その顔には何ともいたたまれなさそうな表情が浮かんでいた。
「邪魔するつもりはなかったの。でも、どうしても……」
 そこで言葉を切るこのみ。じっと上目遣いに貴明の顔を伺い見る。こうしてやってきたことについて彼が怒ってないかどうか不安なようだ。
 そんな彼女を見て、貴明は小さくため息をついた。それからこのみの頭の上に手を置き、くしゃくしゃとやや乱暴な感じで撫でてやる。
「タカ君……?」
 いきなり自分の頭を撫でてきた貴明に驚いて、このみが彼の顔を見上げると、彼はいつものような優しい笑みを浮かべていた。だが、その笑顔に何処か違和感を覚えてしまう。何とも言えない不安感が胸の奥から湧き上がってくる。
「大丈夫だよ。心配するなって」
 このみの頭を撫でながら彼女を安心させるかのように貴明が言う。
「そ、そうだよね。約束したもんね」
 湧き上がる不安をかき消すようにわざと強がってそう答え、笑顔を浮かべるこのみ。あの公園で別れる時、貴明は絶対に帰ってくると約束してくれた。それを信じていないわけではないのだが、それでもどうしようもない不安感が襲う。
「絶対に帰ってきてくれるって、そう約束したもんね?」
 泣きそうな笑顔で貴明に、まるで訴えかけるようにこのみが言う。更に一歩前に踏み出し、縋り付くように貴明の着ている上着を掴む。
「ああ……だから……待ってろって」
 少し言い淀みながら答える貴明。それから未だ顔を背けている環の方を見る。
 彼女は先ほどから時折、貴明とこのみの様子を見るようにちらりチラリと視線を向けてきていた。だが、未だ正面から貴明を見ようとはしない。
「タマ姉、さっきはゴメン」
「…………」
 貴明の方から声をかけるが環は無言だった。
「でも俺の言ったことは本当だし、タマ姉ならわかってくれると思ってた」
「…………」
「色々と言いたいことはあると思うけど……」
「いいわよ。全部後で、思いっきり言わせて貰うから」
 ようやく環が口を開く。
「だから絶対に帰ってくるのよ。いい? 一時間や二時間ぐらいじゃ済まないんだからね。覚悟しておきなさいよ、タカ坊」
「それは……お手柔らかにお願いします」
 苦笑しながら答える貴明。
「……それじゃ、行ってきます」
 ぐるりと周囲を見回してそう言う貴明。
 環と春夏は黙って頷いてくれた。
「河野君、気をつけてね」
 春夏達と一緒にこの場にやってきていたらしい明乃に肩を借りながら志乃がそう言った。
「貴明君、お母さんを助けてくれてありがとう。えっと、みんなの為にも絶対に帰ってこないとダメだよ」
 続けて明乃が言うのに貴明は黙って頷く。
 最後に貴明は未だ自分の上着を掴んでいるこのみの肩に手を置いた。そしてゆっくりと彼女の身体を遠ざけようとする。だが、このみはそれを嫌がるように貴明の身体に腕を回してギュッと抱きついてきた。
「このみ、離れろよ。俺は行かなくっちゃならないんだって」
 諭すようにそう言うが、このみはただ首を左右に振るだけだ。
「約束しただろ。絶対に帰ってくるから」
 そう言ってもまだこのみは頭を左右に振る。
 果たしてどうしたものかと困ったように貴明が春夏の方を見るが、春夏は何処吹く風と彼とは視線を合わせようとはしなかった。助けを求めるように今度は環の方に視線を向けようとしたその時、身体に巻き付いていたこのみの腕が離れ、そしてすぐさま彼の首に腕が回される。そのままぐいっと引き寄せられ、互いの唇が重なった。
 驚きのあまり思わず目を丸くする貴明。周りにいた環、明乃、志乃も目を丸くしていたが、その中で唯一春夏だけがニコニコしていた。
 二人の唇が重なっていたのは、ほんの数秒間。だが、二人にとってそれはかなり長い時間に感じられたことだろう。ようやく貴明の首に回していた腕をほどき、彼を解放した時、このみは真っ赤な顔をしていた。
「こ、このみ……?」
「……タカ君、約束、破っちゃダメだからね」
 真っ赤な顔をして、少し頬を膨らませながらそう言うこのみ。
「約束守った時のご褒美、先にあげたんだから、絶対に……」
 言いながら、その目に涙を溢れさせてくる。
「絶対に帰ってこないとダメなんだから!」
 泣きながらこのみがそう言うのを貴明は黙って聞いているしかなかった。
「絶対に……絶対に……帰ってきてくれなきゃやだ……やだよ……」
「……わかってるよ」
 そっとこのみの頭の上に手を置く貴明。先ほどとは違って今度は優しく撫でてやる。
「帰ってくるから泣くな。全くいつまで経っても泣き虫だな、このみは」
「タカ君……」
「タマ姉、春夏さん、このみを」
「わかったわ」
 そう言ったのは春夏の方だった。環は少し茫然自失していたのか彼の声に気付かなかったらしい。
 まだ目に涙を浮かべているこのみを春夏に預けると、貴明は出口に向かって歩き出した。だが、すぐに足を止めて皆の方を振り返る。
「……あの化け物は恐怖をエサにしてるんだ。無理かも知れないけど、恐怖とか絶望とかしないでくれたら助かるんだけど」
「そうね、努力して……」
「わかった!」
 先に答えかけた春夏を遮るようにこのみが大きい声でそう言う。
「怖がらなかったらいいんだよね! そうすればタカ君、勝てるんだよね!」
「……そうだ、だから頼んだ」
 元気のいいこのみに向かって貴明は笑みを浮かべながら頷いた。そしてまた歩き出す。今度はもう足を止めることもなく、振り返りもしない。
 外の光が見え始めた頃、壁にもたれて誰かが立っているのが見えた。向こうも彼に気がついたのだろう、壁から離れるとまるで行く手を遮るように貴明の真正面に立つ。
「よぉ、遅かったじゃねぇか」
「一緒に来てたのか。タマ姉のことだからあのまま放っておいたんじゃないかと思ってた」
「止めてくれ。あの姉貴だとマジでやりかねねぇし」
 そう言って苦笑を浮かべたのは雄二だった。あの公園で半ばケンカ別れしたような感じだったのだが、今は普段の彼と全く変わりがないように思える。
「さっきは……悪かったな」
「いや、お前の言う通りだよ。俺は全部お前に押しつけようとしていたんだ。怒っても文句は言えないさ」
「わかっててやったのかよ」
「他に頼める奴はいなかったからな」
「けっ、何言ってるんだかな。全くひどい奴を幼馴染みに持ったもんだ」
 そう言って肩を竦める雄二の横を通り抜ける貴明。ここでのんびりと立ち止まって喋っている暇はない。表では例の怪物、”スペード”が彼の来るのを手ぐすね引いて待っているのだから。
 もはや貴明を止めようとはせず、雄二は彼と並んで歩き出した。
「姉貴やこのみとは話したんだろ?」
「後でたっぷりとお説教喰らうことになったよ」
「ざまぁみろって奴だな。まぁ、それも帰って来れたら、の話なんだろうが」
「このみには約束させられたけど、正直戻ってこれるかどうかはわからない。もしもの時は悪いけど頼む」
「そんなことあって欲しくはないな、俺としちゃ。チビ助にしろ姉貴にしろなだめるのが大変そうだし」
「わかってる。けど、頼む」
「全く本気でひどい親友を持ったもんだ。ああ、いいさ。頼まれてやるよ。その代わり帰ってきたら覚えてろよ?」
「……帰って来れたらな」
「馬鹿、帰ってくるんだよ! 姉貴やこのみの為にもな!」
 雄二はそう言うと貴明の背を思い切り叩いた。それから立ち止まる。もうそこは地上への出口、その境目だ。
「絶対に……帰って来いよ」
「悪いけど、約束は出来ないぞ」
「馬鹿野郎。嘘でもいいから『帰ってくる』って言っておけ」
「わかったよ。嘘でもいいのなら――『絶対に帰ってくる』――これでいいのか?」
 雄二よりも一歩前に出て、だが振り返らずに貴明が言う。
「お前にしちゃ上出来だ。じゃ、行ってこい」
「ああ、行ってくる」
 親友の声を背に貴明はゆっくりと走り出した。目指す敵は倒壊した新宿駅の側にいる。そこまでには瓦礫と化した街並みが広がっていた。
 一歩、また一歩と踏み出すごとに胸の奥の赤い光が鼓動を刻む。その光が徐々に大きくなり、走る貴明の全身を包み込んでいく。それに合わせるかのように周囲の瓦礫が浮かび上がり、彼の周囲に集まっていく。
 貴明が地を蹴ってジャンプした。それと同時に彼の身体は完全に赤い光の中に消え、更にその赤い光を中心に瓦礫が次々と組合わさって人の形を成していく。数瞬後、そこに瓦礫を組み合わせた身体を持つ巨人が誕生した。
 倒壊した新宿駅の建物の側にいる怪獣”スペード”が全長五十メートル程あるのに対し、この石の巨人は三十メートル程しかない。おそらくはその体重も”スペード”の方が重たいだろう。ヘビー級の相手にフライ級が挑むようなものだ。だが、”スペード”に対抗出来るものはこの巨人しかいない。
 
 ようやく現れた巨人に防衛軍戦闘部隊の生き残りは安堵の息を漏らし、そして”スペード”は待ちかねたと言わんばかりにその口を大きく開けて咆吼した。その咆吼が周囲の、まだ無事だったビルの窓ガラスを震わせ、次々と破砕していく。
 そしてその咆吼を聞いた誰もが恐怖のあまり身体を強張らせてしまう。まるで魂までをも奪い取るような地獄の叫び声。しかし、巨人は全く怯むことなく身構えた。足を前後に広げ、腰を少し落とし、いつでも飛び出せるような体勢を取る。
 そして始まる睨み合い。
 先に動いたのは”スペード”の方だった。睨み合っていても面白くないとでも思ったのか一歩前に踏み出すと同時に口から青白い火球を放つ。
 石の巨人はそれを見ると素早く右手に赤い光を纏わせ、自分に向かって飛んでくる火球を弾き飛ばした。続けて左手を突き出し、その先から赤い光弾を”スペード”に向かって飛ばす。
 赤い光弾が”スペード”の肩に命中し小さな爆発を起こすが、それに構わず”スペード”が巨人に向かって突っ込んでいく。鋭い爪を持つ手で巨人を引き裂こうとするが、巨人はその手を左腕でガードし、がら空きになった”スペード”のボディに右手のパンチを叩き込んだ。だが、ウエイトの差か、”スペード”はそれに怯むことなく、逆に空いている左手で巨人を張り飛ばしてしまった。
 三十メートルはある巨体が宙を舞い、近くにあったビルを押し潰しながら倒れ込んでいく。しかし、巨人はすぐに起き上がり、今度は自分の方から”スペード”に向かって突っ込んでいった。
 短いダッシュからの跳び蹴り。それを喰らってよろける”スペード”に連続でパンチを叩き込んでいく。しかも今度は両の拳に赤い光を纏わせ、その威力を先ほどとは増しながら。
 巨人が優勢に攻撃を加えている。誰の目から見てもそう見えていただろう。だが、実際は違った。既に”スペード”の足はしっかり地面を踏みしめており、微動だにしていない。それに元々のウエイトの差に加えて水晶体を身体の全面にはって巨人のパンチを全てそこで受け止めていたのだ。巨人の赤い光による攻撃力増加も”スペード”の水晶体による防御力増加で打ち消されてしまっている。”スペード”にはほとんどダメージはなかった。
『無駄だ、お前ではもう俺に勝つことは出来ん!!』
 ”スペード”がそう言い、未だパンチを続けている巨人の背を叩き伏せた。思わず片膝をついてしまった巨人に向かってその太い足での蹴りを喰らわせ、大きく吹っ飛ばす。更に巨人の身体が宙に浮かんだところを狙って背中から生えている触手から怪光線が放たれた。
 空中で怪光線の直撃を受け、更に大きく吹っ飛ばされる巨人。再び地面に叩きつけられたその身体のあちこちにはいくつものひび割れが入っていた。受けたダメージは軽くはない。それでも、地面に手をつきながら巨人は起き上がった。
 ゆっくりとだが起き上がろうとしている巨人を黙って見逃してやる程”スペード”は甘くはない。例え自分の方が確実に強いとわかっていても、この巨人だけは確実に倒しておく必要がある。恨み骨髄と言うこともあるが、それ以上にこの巨人が持つ力が自分にとって危険だったからだ。
 大きく口を開き、起きあがりかけている巨人に向かって青白い火球を放つ。同時に触手から怪光線を放った。
 起きあがりかけていた巨人は慌てて横に転がって火球と怪光線をかわした。かわすと同時に反撃の赤い光弾を”スペード”に向かって放つ。勿論これで倒せるとは思っていない。これはあくまで牽制だ。次々と牽制の赤い光弾を放ち、”スペード”の背中から生えている触手を断ち切っていく。木の怪物と戦った時と同じ戦法だ。
 次々と巨人の赤い光弾によって背中の触手を断ち切られ、”スペード”がその痛みの為か咆吼を上げる。そして巨人に向かって再び青白い火球を吐いた。
 再び横に飛んでその火球をかわす巨人。今度は着地すると同時に右腕を高く天に向かって突き出した。その腕が赤い光に包まれていく。どうやら必殺の赤い光刃を放つつもりらしい。この赤い光刃ならば”スペード”と言えども無傷ではいられないだろう。
 それは”スペード”も十分承知していた。あの赤い光刃を喰らえばいくら強化されたこの身体でも決して無傷ではいられないだろう。下手をすれば圧倒的有利が覆ってしまいかねない。だから、”スペード”はくるりと巨人に背を向けた。わざと無防備な背中を巨人に晒したのだ。
 ”スペード”のとったその行為に誰もが戸惑ってしまう。防衛軍も、巨人でさえも。だが、”スペード”のとった行為の意味に素早く気がついた者が一人いた。”スペード”の視線の先に何があるかを素早く悟った者が一人だけいた。
「いかん! まだ避難は終わって……!!」
 柚原がそう言って地下から外へと飛び出していく。
 そう、”スペード”の視線の先には新宿駅の向こう側が見えている。そこはまだ一般市民の避難が完了していない。”スペード”はそれをわかっていて、わざと巨人に背を向けたのだ。巨人が攻撃するよりも早く、”スペード”は青白い火球を吐くことが出来る。そうなれば大勢の、何の罪もない人々が死んでしまうだろう。
 巨人も”スペード”の意図に気付いたようだ。慌てて突き上げていた腕を降ろし、”スペード”の愚行を止めるべくそちらの方へと向かって駆け出していく。
 しかし、それこそ”スペード”の思うつぼであった。背中に生えている背びれのような水晶体が”スペード”の方に向かっている巨人に向かって、まるでミサイルのように飛び出したのだ。水晶体の直撃をカウンター気味に受け、またしても吹っ飛ばされる巨人。だが、今度は地面に叩きつけられる前に新たに生えてきた触手によってその身体を拘束されてしまう。
 何とかその拘束を振り解こうとする巨人だが、触手の力は想像以上に強く弛むことすらない。
『愚かだな、追跡者。この星の生命体を守る為にそのような愚かな行動をとるとはな』
 ゆっくりと振り返りながら”スペード”が馬鹿にしたように言う。いや、人間を守る為に必殺の機会を自ら放棄した巨人のことを本気で馬鹿にしているのだろう。
 しかし、巨人は自らのとった行為を後悔などしていなかった。もし巨人が巨人だけの意思で動いているのなら”スペード”に対しての攻撃を止めることはなかっただろう。だが、今の巨人の中には貴明がいる。貴明の意思が”スペード”に対する攻撃よりも無力な人々を守ることを優先させたのだ。そしてそれに巨人の意思も同意した。だから人々を守る、その為に窮地に陥ったとしても後悔など一つもすることはない。
『自らの愚かさを噛み締めながら死ね!』
 ”スペード”が口から青白い火球を吐いた。触手により拘束されている巨人にその火球をかわす術はない。青白い火球の直撃を受け、巨人が悶絶する。更に巨人の身体を構成している瓦礫が細かく砕け、その破片が飛び散った。
 ”スペード”の攻撃はそれで終わらない。続けて二度、三度と火球を吐き、巨人に多大なダメージを与えていく。巨人の身体は火球の直撃を受けるたびに構成している瓦礫にひびが入り、もうボロボロになってしまっていた。しかも胸のところにはハートの形にもYの字にも見える形状の赤い光が露出している。その光を見て”スペード”がニヤリと笑った。
『追跡者よ、もはやお前が勝つ術はない。このまま俺に殺されるか、それとも俺の軍門に下り共にこの星を喰らい尽くすか選ばせてやる』
『答えるまでもない。私の心は決まっている!』
 巨人は”スペード”に向かってそう答える。それは貴明の声ではなく巨人の声だった。だからその言葉は”スペード”以外には聞こえない。
『この星の人間と中途半端に一体化して、そいつの心に毒されたようだな、追跡者! そのようなことだから自ら窮地に陥り、この俺を倒す機会を無くすのだ!』
 ”スペード”が吠え、口から今まで以上の大きさと威力の火球を吐き出した。勿論、巨人にその火球をかわすことは出来ない。火球の直撃を胸に受け、巨人はその身体を拘束している触手を引きちぎりながら吹っ飛ばされた。
 またもビルを下敷きにしながら倒れる巨人。何とか起き上がろうと地面に手をつくが、その腕に力が入らないのか、なかなか起き上がることが出来ない。と、胸の赤い光が明滅し始めた。途端に巨人の全身を激しい脱力感が襲う。地面についていた手が滑り、また倒れてしまう。
 そこに”スペード”の背中から新たに生えた触手の怪光線が襲い掛かる。倒れている巨人の周囲で次々と起こる爆発。

 ”スペード”と巨人の戦場となっている区画から少し離れたビルの屋上にこのみや環達の姿があった。誰もが不安そうな表情で苦戦している巨人の方を見つめている。
「……タマお姉ちゃん、タカ君、大丈夫だよね?」
 このみが隣に立ち、自分と同じように戦う巨人の姿をじっと見つめている環に声をかけたが、彼女は巨人の方をじっと見つめたまま返事を返そうとはしなかった。もしかしたらこのみの声が聞こえていなかったのかも知れない。もう一度環に声をかけようとすると、横合いから手が伸びてきてこのみの頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でた。そっちの方を見ると雄二が軽く口元に笑みを浮かべながら立っている。
「心配すんなって。貴明がそう簡単にやられる奴じゃないってお前もわかってるだろ?」
「う、うん……でも……」
 再び巨人の方を見るこのみ。
 誰の目から見ても巨人が苦戦しているのはわかる。今も巨人は触手によって身体を拘束され、一方的に攻撃を受け続けているのだ。その様子を見て不安にならない方がおかしい。
「信じてあげるの。そうじゃないとタカ君、勝てないわよ」
 不安そうに巨人の方を見つめていたこのみの肩に後ろから手を置いてそう言ったのは春夏だ。
「タカ君言ってたでしょ? 恐怖したり絶望したらあいつの思うつぼなんだって。このみも言ってたじゃない。怖がらないって。そうしたらタカ君は勝てるんだって」
 春夏はまるで言い聞かせるかのようにこのみの耳元で囁く。
「だから信じなさい。タカ君は絶対に勝つって。絶対に勝って帰ってくるって」
「……うん、信じる」
 大きく頷き、このみはじっと巨人の方を見た。
 巨人は丁度”スペード”の一際大きい火球を受け、大きく吹っ飛ばされているところだった。ビルを崩しながら倒れる巨人を見て、隣にいた環が悲鳴のような声を漏らす。しかし、このみはじっと巨人の方を見つめるだけ。
(信じてるから……だから絶対に帰ってきて……タカ君……)
 湧き上がる不安を押し殺し、ただただそう固く思うこのみ。今の彼女に出来ることはそれだけだ。
 しかし、彼女の思いとは裏腹に巨人の苦戦は続く。胸の赤い光が明滅を始め、更にそこに目掛けて”スペード”の触手から怪光線が放たれる。次々と起こる爆発の中に巨人の姿が消えてしまう。
 このみの肩におかれている春夏の手がギュッと彼女の肩を掴んだ。思わず振り返るこのみだが、春夏は自分が何をしているかまるで気がついていないようだ。じっと爆発の中に消えた巨人の方を見つめている。
「貴明!」
 焦ったような雄二の声が聞こえる。
「タカ坊……」
 呆然としたような環の声も。
 二人の声を聞きながらこのみはまた巨人の方へと目を向けた。

 降り注ぐ怪光線が次々と爆発を起こす。
 その爆発が巻き上げた黒煙や炎、土埃の中に巨人の姿が消えたのを見て”スペード”は一旦攻撃の手を止めた。代わりに口を大きく開き、そこから青白い火球を吐き出した。先ほど巨人を大きく吹き飛ばした時と同じ大きさの火球。巨人にとどめを刺すつもりなのだろう。
 黒煙を吹き飛ばしながら火球が地面に直撃し、更なる爆発が起こる。今までにない規模の爆発だ。その衝撃の煽りを喰らって周囲のビルの壁にひびが入り、中には崩れ出すものもあった。もし、この火球の直撃を巨人が受けていればただでは済まないだろう。致命傷になっていてもおかしくない。いや、やられていてもおかしくはなかっただろう。
 事実”スペード”は勝利を確信していた。今の一撃で巨人が跡形もなく吹き飛んだと、そう思っていた。だが、すぐにその思いが霧散する。黒煙の向こう側から赤い光弾が飛んできて、”スペード”の胸を直撃したからだ。続けて黒煙の中から巨人が飛び出してきて”スペード”に一気に肉薄すると肩から体当たりをしてきた。
 やはりウエイトの差が大きいのか、”スペード”は巨人の体当たりを喰らっても吹き飛ばされることはない。少しよろめいただけだ。
 それを見た巨人は少し下がるとそこからジャンプして”スペード”の頭にキックを食らわせた。着地すると同時に鋭いフック。続けてアッパー。連続して強烈なパンチを浴びた”スペード”がのけぞったところに巨人のキックがその胸に叩き込まれる。
 さしもの”スペード”もその一撃には踏ん張りきれず、全長五十メートルはあろう巨体が吹っ飛ばされてしまう。倒れた”スペード”に飛びかかり、馬乗りになった巨人が連続してその拳を振り下ろした。
 既に勝利を確信していただけにこの巨人の予想外の反撃に”スペード”は反応しきれなかった。おそらく油断していたのだろう。巨人以上の力を得、そして巨人を圧倒していたのだから。その油断が今のこの状態を許している。巨人の一方的な攻撃を許している。だが、その強固な水晶体に覆われた身体にはほとんどダメージはない。むしろ今までの戦いで傷ついた巨人の身体、その拳の方がダメージを受けている程だ。一発殴るたびに巨人の拳を構成している瓦礫にひびが入り、砕けた破片が落ちていく。更に胸の赤い光の明滅は先ほどよりも激しさを増している。放っておいても巨人はいずれエネルギーを失い朽ち果てるだろう。
 しかし、このまま一方的に殴られ続けるというのは”スペード”としても面白くはなかった。どうせならこの手で巨人の命を奪ってやりたい。自分たちを散々苦しめ、追い回した巨人に、その積もり積もった積年の恨みをこの手で直接晴らしてやりたい。ついでに自分の提案を断ったあのガキにももう一度思い知らせてやる必要がある。自分がいかに愚かであったかと言うことを。そして死の恐怖というものをもう一度叩き込んでやる。
 マウントポジションで”スペード”に必死でパンチを食らわせ続けている巨人は”スペード”がニヤリと笑ったことに気付けなかった。残り時間はそれほど多くはない。一刻も早くこの怪物を倒してしまわなければならない、その思いに囚われていたからだ。だから巨人は”スペード”の思わぬ反撃を許してしまう。
 突如”スペード”の背びれ状の水晶体が眩い光を放った。同時に”スペード”の全身を青白い光が走り、マウントポジションをとっていた巨人に激しい衝撃を与える。馬乗りになったままのけぞった巨人の背後から太く二股になった尻尾が襲い掛かり、巨人の身体を吹っ飛ばした。勿論その先端部に生えている水晶体の棘で巨人の背を抉ることは忘れない。
 地響きを上げて倒れ込む巨人。それを見ながら”スペード”がゆっくりとその巨体を起こす。続けて触手からの怪光線で倒れた巨人を更に痛めつけていく。

「タカ君っ……」
 反撃し、優勢に立ったかと思えばまた逆転されピンチに陥ってしまった巨人を見てこのみが息を呑む。彼女の隣にいる環はもう声も出ないようで、その顔は真っ青になってしまっていた。
「クソッ! 何とかならねぇのかよ!!」
 ガシッと目の前のフェンスを掴み、身を乗り出した雄二が言う。
「このままじゃ貴明の奴、やられちまうじゃねぇか!!」
 見ていることしか出来ない自分が腹立たしい。もし自分に貴明と同じ力があれば今すぐにでも飛び出していきたい、そう言わんばかりの態度でより強く雄二はフェンスを握りしめる。
 その思いは彼だけではなかった。その場にいる誰もが同じ思いを抱いている。だが、現実には戦えるのは貴明一人で、他の者は見ていることしか出来ない。
「そうだ……防衛軍! 防衛軍の連中は何やってんだよ! 貴明一人を戦わせてんじゃねぇ! 援護ぐらい出来るだろうが!!」
「防衛軍の援護は期待出来ないわ」
 ようやくいいことを思いついた、と言う感じで言った雄二に浴びせられる冷静な声。振り返ってみるとそこには志乃がひどく冷静な表情を浮かべて立っていた。その後ろには明乃がいて、母親とは対照的に不安そうな表情を浮かべている。
「元々防衛軍は河野君も殲滅の対象にしていたもの。同士討ちになればいいと思っていても、彼を援護しようと言う気は起こさない」
「そんな……」
 志乃の言葉に愕然となったのは雄二だけではなかった。防衛軍に所属する父を持つこのみも真っ青になる。
「お父さんも……タカ君を……」
「安心なさい。柚原一佐だけは別よ。彼はたった一人になっても河野君を守ろうとするわ」
 不安げな顔をしたこのみに安心させるような笑みを見せる志乃。
「当たり前じゃない、このみ。お父さんがタカ君を見捨てるわけないでしょ」
 更に春夏もそう言い、このみはようやく笑みを浮かべて頷いた。
 しかし、問題はそう言うことではない。貴明が、あの巨人がどれだけ苦戦しようと防衛軍が一切援護をしないのならば彼の勝利は確実に遠のくだろう。仮に援護があったとしても勝利が果てしなく遠いのは今までの巨人と”スペード”との戦いを見ていればわかることだ。
 巨人と”スペード”とではあまりにも戦力が違いすぎている。現に今まで巨人の攻撃で有効打になったものは一つもない。ここに防衛軍の総攻撃が加わったとしても結果はたいして変わらないだろう。
「クソッ!」
 再び正面を向き、フェンスを叩く雄二。
 誰からの援護も受けられず、ただひたすら孤独な戦いを強いられている巨人――貴明。”スペード”の猛攻を受け、傷ついている親友をただ見ていることしか出来ない自分が歯痒くて仕方がない。
「お母さん、何とか出来ないの?」
 不意に明乃がそう言った。
「貴明君はみんなの為に命がけで頑張ってる。それはお母さんも知っているんでしょ? なら何とかその頑張りに答えてあげられないの?」
「答えてあげたいのは山々だけど……」
 実の娘に向かって申し訳なさそうに志乃は言う。自分には何の権限もない。一時は柚原と同等以上の権限を持っていたが、今の彼女にはそのような権限はない。もはやその権限は剥奪されている。
「それに防衛軍が動かないのにはまだ理由があるわ。彼、河野君も言っていたけど、あの怪物は人の恐怖を喰らう化け物よ。あの辺りにいる防衛軍の兵士は皆あいつの与える恐怖に飲まれてる。だから余計に動けないのよ」
「それじゃ……どうしようもない……」
 そう言ったのは環だった。彼女の顔色は青を通り越して白くすらなっている。
「タカ君っ!!!」
 このみの悲鳴が響いたのはそんな時だった。

 ”スペード”の背中から伸びた触手が倒れている巨人を無理矢理地面から引き剥がした。両腕を拘束し、宙吊りになるようにしてから”スペード”はニタリと笑う。巨人の方はと言えば先ほどの攻撃によってか、ぐったりと項垂れているだけだった。だがその胸では赤い光がまだ明滅を繰り返している。まだ死んではいない。
『いい様だな、追跡者。そろそろお前と遊ぶのにも飽きた。ここで消滅するがいい』
 ”スペード”はそう言うと口を大きく開いた。続けてその背びれ状になっている水晶体が光を放つ。青い光がその巨体の足下から頭に向かって走り、それが大きく開いた口へと収束していく。次の瞬間、その口から放たれる青白い光の奔流。それは絶望の光。全てを焼き尽くす悪夢の光。その光が巨人の胸を貫いた。
 あまりにも強力な青白い光の奔流の直撃を受け、巨人が苦悶の為にその身体をのけぞらせた。だが、両腕を拘束されて宙吊りにされている状態ではかわすことも出来ない。ただただ胸の明滅している赤い光の部分に”スペード”の放つ青白い光の奔流を受けるだけ。
 その青白い光の奔流は巨人の胸で明滅している赤い光を徐々に消していく。同時に巨人の身体から力が抜けていき、ついにはぐったりとまた項垂れてしまう。そして、その胸から赤い光が消えた。
 巨人の胸から赤い光が完全に消えたことを確認した”スペード”はようやく口を閉じた。そして巨人の腕を捉えている触手を戻し、巨人の身体を解放する。そのまま地面に落ち、ゆっくりとその場に倒れる巨人を見て、”スペード”は天を仰いで大きく吼えた。

「いやあああああっ!! タカ坊!!」
 地面に倒れ伏し、ぴくりとも動かない巨人を見た環が半狂乱になって叫ぶ。その目は大きく見開かれ、大粒の涙がこぼれ落ちるがそれを気にしている余裕はもはや彼女にはない。
「そんな……嘘だろ、貴明……」
 フェンスの前で、まるで崩れ落ちるように膝をつく雄二。
「貴明君……」
 思わず顔を背けてしまう明乃。
 その側では志乃が呆然と倒れた巨人の方を見つめている。
「……タカ君……」
 ギュッと娘の肩に置いてある手に力を込めてしまう春夏。
 このみも環と同じように大きく目を見開いて倒れた巨人の姿を無言で――言葉が出ないのだろう――見つめていた。

 巨人が”スペード”に倒されたという報告を聞いた柚原はギュッと拳を固く握りしめ、歯を噛み締めた。まるで何かを堪えるかのように。
「残存している全ての部隊に通達。これより”スペード”に対して総攻撃をかける。出し惜しみはするな。我々が奴を倒せなかったら人類に明日はないものと思え!」
「了解!!」
 柚原の命令を聞いた通信担当の兵士が彼の命令を全ての部隊に伝える。
 その命令を聞き、今まで巨人と”スペード”の戦闘を傍観していた攻撃部隊が再び攻撃を開始した。更に柚原達の側にいた兵士達もそれぞれ手にバズーカなどの携行兵器を持って飛び出していく。
「柚原一佐! 厚木からの連絡です! 連中、ようやく重い腰を上げたようです!」
「ようやくか……すぐにこちらに向かわせろ! あの化け物に人類の意地と言うものを見せてやる!」
 通信兵の新たな報告に柚原はそう答え、自らは止めてあったジープに乗り込んだ。このままじっとしていることは出来ない。例え敵わなくても、それでも意地でも一矢報いる。それが自分たちの為に戦い、その命を失った貴明への手向けだ。

 物凄い速さで光が流れていく世界の中を貴明は何処までも落ち続けていく。今までと違い、こうやって落ちているという感覚があるのは何か妙な気分だった。
「……俺は……死んだのか?」
『まだ死んではいない。だが非常に危険な状態だ』
 光の巨人の声が聞こえてくる。
『奴は仲間の力も取り込み更に強力な存在と化した。今の状態では私に勝ち目はない』
「どうすれば奴に勝てる?」
『私の真の力を解放すれば、あるいは。だがそれは君の命を奪うことになりかねない』
「どう言う、事だ?」
『私と君はまだ完全に融合出来てはいない。そのような状態で私の真の力を解放すれば、下手をすれば君の身体は耐えきれずに消滅してしまうかも知れない』
「なら……」
『完全に融合すると言うことは前にも言ったが私か君、どちらかの意識が失われる可能性がある。私としてはそれをすることは出来ない。君を待っている人達がいる限りそれをすることは出来ない』
「奴は……もう完全に融合していると言っていた。俺たちも完全に融合していれば……」
『それには時間がかかる。今からではとても間に合わない』
「ならどうすれば……!」
 そう言った貴明の声は悲痛なものだった。どうすることも出来ないのか。このまま奴を、”スペード”を野放しにしていいのか。そんなことは出来るはずもない。だが奴に対抗する術はもうほとんど残っていないのだ。
『君との融合を解こう。君の勇気は私に力を与えてくれた。それで充分だ』
「待てよ! 融合を解いてどうするんだよ! 今のままじゃ勝てないんだろ!?」
 そこまで言って貴明は今までとは少し違う光の巨人の強い決意を感じた。
「……自爆するつもりなんだな? それで確実に奴を倒せるのか? あんただって力を消耗しているんだろ!!」
『しかし、君の命を助け、奴を倒すにはその方法しかない』
「……なら……俺の命を持って行けよ。あんたの真の力を解放すれば奴に勝てるかも知れないんだろ」
 少し考えた後、貴明はそう言った。光の巨人に助けられたこの命だ。光の巨人の為に使っても惜しくはない。
『しかし、それでは君の命が!』
「奴を倒せないなら同じ事だろ! それに俺が消滅するって決まった訳じゃない。あくまでその可能性があるだけだろ」
『だが、しかし……』
「やろう。やるって決めたんだ。あいつを倒せなかったら結果は同じだ。なら少しでも可能性の高い方に賭ける」
『勝てるかどうかの可能性は五分五分だ』
「それでも充分だ。俺はみんなを守りたい。だからあんたの力を貸してくれ」
『……わかった。共に戦おう、勇気ある少年よ』
「河野貴明だ。貴明って呼んでくれたらいいよ」
『わかった、貴明』
 光の巨人がそう言って頷いた。そして貴明に向かって手を差し出してくる。
 貴明はしっかりと頷くと、光の巨人の手を握った。その瞬間、握りあわせた二つの手から物凄い光が放たれる。

「まだ……まだだよ……」
 ぼそりと小さい声でこのみがそう言ったのをすぐ後ろにいた春夏は聞き逃さなかった。
「このみ?」
「まだ終わってなんかない。タカ君は絶対に帰ってくるって約束してくれた! だからまだ終わってなんかない!」
 このみはそう言って春夏の手を振り切りフェンスの側まで駆け寄った。そして大きな声で倒れている巨人に向かって叫ぶ。
「頑張れ!! タカ君、頑張れー!!」
 その声に泣き崩れていた環が顔を上げる。
 力無く項垂れていた雄二も顔を上げる。
「まだだよ! 頑張って! タカ君なら出来るから! だから頑張って!!」
「このみ……?」
 環が必死に叫ぶ妹分に声をかける。
「何してるの、タマお姉ちゃんもユウ君も! タカ君応援しなきゃ! でないとタカ君立てないよ!」
 振り返ってそう言うこのみの顔にはまだ貴明がやられてはいないと言う確信があった。いや、信じているのだ、彼女は。貴明との約束を。絶対に帰ってくると言う約束を。
「で、でもタカ坊は……」
 環はそう言いながら倒れている巨人の方を見る。
 胸の赤い光は完全に消え失せ、ぴくりともしない。身体がまだ瓦礫によって構成されているのが不思議なくらいだ。
「タカ君は死んでなんかいないよ! だって帰ってくるって約束したもん! だから、絶対に死んでなんかない!!」
 そう言ったこのみの目には涙が浮かんでいた。どうしてわかってくれないのか。特に環がわかってくれないのが悲しくて仕方がない。貴明が約束を破るような人間でないことは彼女もよくわかっているはずなのに。
「そうだな。チビ助の言う通りだ」
 雄二がそう言ってゆっくりと立ち上がった。
「確かあの化け物は恐怖とか絶望とかをエサにしているんだっけ? ならここで俺たちが絶望してたらあの化け物の思うつぼって奴だよな」
 防衛軍の総攻撃に対し触手からの怪光線やら口から吐く火球で対抗している”スペード”をチラリと見やって雄二が言う。
「俺たちには何も出来ないって思ってたけどあるじゃねぇか、出来ること。立てよ、姉貴。応援してやろうぜ、貴明のこと」
 姉の方に向かって自分の手を差し出す雄二。
「あいつはこんなところで終わるような奴じゃねぇって信じてやろうじゃねぇか」
 そう言ってニヤリと笑う。
「……あんたにそんなこと言われるなんてね」
 環は弟の顔を見てそう言うと目に浮かんだ涙を手で拭った。そして彼の手を掴んで立ち上がるとこのみの方に笑顔を向ける。
「ゴメンね、このみ。でももう大丈夫。さぁ、タカ坊をここから叱咤激励するわよ!」
「うんっ!」
 まだ目に涙を浮かばせながらもこのみは嬉しそうに頷いた。
「タカ坊、いつまで寝ているの! さっさとおきなさい!」
「タカ君、早く立って! 頑張って!!」
「貴明、頑張りやがれ、この野郎!!」
 三人が思い思いに叫び出すのを、明乃と志乃はキョトンとした顔で見つめていたがやがて明乃も三人の横に並んで叫びだした。
「貴明君、頑張れー!!」
 その声にこのみが明乃の方を振り返る。すると明乃はこのみに向かってウインクして見せた。それに頷いて答えるこのみ。
「タカ君、頑張れー!!」
 再び叫び出すこのみ達を見ながら志乃は小さくため息をついた。こんな事であの巨人が復活するとでも本気で思っているのだろうか、この子達は、とでも言いたげな顔をしている。
 そこに春夏が近寄ってきた。
「信じていれば、強い思いはきっと伝わるわ。やれることをしましょう、私たちも」
「そう……ね。ここはあなたに任せるわ。私は私のやれることを」
 春夏の言葉に頷き、志乃は必死に応援の声をあげ続ける娘達に背を向けて歩き出した。

「頑張れー!」
(声が……聞こえる……?)
「タカ坊、しっかりしなさい!」
(これはタマ姉?)
「さっさと立たねぇか、この馬鹿野郎!」
(雄二?)
「貴明君、頑張れ!!」
(明乃さん?)
「タカ君、早く起きなさい! でないと……」
(春夏さん?)
「タカ君、頑張ってー!!」
(このみ?)
 その声が一つ届くたびに倒れている巨人の胸の奥で赤い光が小さく灯り始める。

 防衛軍の決死の総攻撃を受けても”スペード”はびくともしていなかった。背中から生えている触手から放たれる怪光線が戦闘ヘリを撃墜し、地上の戦車を薙ぎ払う。近くにあるビルを叩き崩し、地上にいる兵士をその瓦礫によって押し潰す。接近してきたヘリをその手で叩き落とし、戦車を蹴り飛ばす。
 しかし、それでも防衛軍の攻撃は止まない。むしろ、より一層攻撃は激しくなる。もっとも”スペード”には全くと言っていい程通じていなかったが。
「攻撃の手を休めるな! 全て撃ち尽くすまで撃て!」
 自身も手にバズーカを持ち、柚原が叫ぶ。
 そのすぐ側に撃墜されたヘリが落ちてくるがそれでも彼は怯まない。部下を鼓舞し、自らも”スペード”に向かってバズーカの引き金を引く。
「いいか、ここで我々が負ければ地球に明日はないと思え!」
 柚原の叫びに兵士達の士気が上がり、”スペード”に防衛軍の兵士達が立ち向かっていく。

 兵士達の必死の叫びが聞こえるたびに倒れている巨人の胸の奥の赤い光が鼓動を刻む。初めは小さく、だが徐々にそれは大きく、より確かになっていく。完全に消えてしまっていた巨人の胸の赤い光がその鼓動に合わせて輝きを取り戻していく。
(やれる……まだ終わっちゃいない!)
 巨人の胸の赤い光が完全にその輝きを取り戻し、巨人がゆっくりとその身を起こした。
 防衛軍の猛攻撃を受けていた”スペード”はそれに気付けない。
 全身からポロポロと瓦礫の破片を落としながら立ち上がった巨人は両腕を顔の前で交差させた。その腕をゆっくりと降ろしていくと、巨人の身体を構成している瓦礫がボロボロと崩れ落ち始める。と同時に巨人の体が更に大きくなり、崩れ落ちた瓦礫の下からまるで光り輝くような銀色の鎧に身を包んだ赤いボディが姿を見せた。
 これこそが巨人の真の姿。
 真紅のボディに光り輝くような銀の鎧を身につけた巨人。その顔は菩薩のような穏やかさをたたえながら同時に意志の強さを感じさせる厳しい表情にも見える。更に大きくなったその身長は”スペード”とほぼ同じ五十メートルはあるだろう。胸にはやはりYの字ともハートの形とも取れる赤い光がまるでクリスタルのように輝いていた。

 再び立ち上がった巨人がその姿を変えたのを見て誰もが息を呑んだ。その神々しさ、力強さに誰もが感嘆の息を漏らす。
「あれは……」
「タカ君だよ、お母さん! タマお姉ちゃん!」
 思わず呆然とした声を漏らした春夏にこのみが嬉しそうに振り返って言う。
「あれなら……勝てる……」
 ガシッとフェンスを強く握り雄二が呟く。
「タカ君、行けー!!」
 このみが大きい声で叫んだ。

 赤き巨人は自分の手や身体を少しの間しげしげと眺めていたが、やがてギュッと拳を固く握り込むと防衛軍の攻撃を鬱陶しそうに振り払っている”スペード”の方を向いた。そしてそちらへと向かって大きくジャンプする。空中で身体を捻りながら”スペード”の頭部にキックを叩き込んだ。
 思いも寄らない一撃を頭部に受けた”スペード”が大きく吹っ飛ばされ、近くにあったビルを押し潰しながら倒れていく。だが、すぐに起き上がり着地したばかりの赤き巨人を睨み付けた。
『あのまま倒れていれば良かったものを……まだ苦しみ足りないか!』
 大きく口を開けてそう吠え、続けて青白い火球を赤き巨人に向かって放つ。
 自分に向かって飛んでくる青白い火球を赤き巨人は左手を突き出して打ち砕いた。弾き飛ばしたのでも受け止めたのでもない。打ち砕いたのだ。その力は明らかに先ほどまでの巨人とは違っている。
『おのれ!!』
 今度は背中の触手も総動員して”スペード”は赤き巨人に向かって攻撃を始める。触手からの怪光線、口からの青白い火球で赤き巨人を吹き飛ばそうとしてくる。
 この攻撃に対し赤き巨人は両腕を前に突き出した。するとその先の空間が歪み、”スペード”の放った怪光線や火球が全てその歪んだ空間に受け止められる。おそらくはバリアのようなものなのだろう。これ一つとっても赤き巨人は先ほどの巨人とは比べものにならない能力を持っていると言うことがわかるだろう。
『おじさん! 今のうちに下がって!』
 呆然とした面持ちで”スペード”の攻撃を受け止めている赤き巨人を見上げていた柚原の耳に急にそんな声が飛び込んできた。
「その声は……貴明君か!?」
 キョロキョロと周囲を見回してみるが何処にも貴明の姿を見つけることは出来ない。すぐにあの赤き巨人こそが貴明であると言うことを思い出し、柚原は改めて赤き巨人の方を見上げた。
『ここは俺が何とかします! だから下がってください! 足下にいられると動けない!』
「わ、わかった! 総員この場から後退しろ! 踏み潰されるぞ!」
 柚原は部下達に向かって大声でそう命じると、自身はもう一度巨人の方を見上げる。手の先にバリアを張って”スペード”の攻撃を受け止め続けている赤き巨人。その姿に隣の家に住んでいる少年の姿を重ね合わせる。
「……貴明君……”ハーツ”……二つの心を持つ巨人……」
 巨人のコードネームは”ハーツ”。今柚原が呟いた通り、その身に二つの心――そもそもの巨人の心と巨人と一体化した貴明の心――を持つことからそう彼が名付けた。それがあったからそれぞれの怪物にトランプのスートの名前が与えられたと言うのは彼だけが知っていることだ。

 赤き巨人”ハーツ”は”スペード”の攻撃をただただ防ぎ続けている。防衛軍の兵士達が後退する為の時間を稼いでいるのだろう。だが”スペード”もそれがわからない程頭は悪くない。遠距離からの攻撃を止め、地響きを立てながら”ハーツ”の方へと突進し始めた。”ハーツ”ごと叩き伏せようと言うつもりらしい。
 突っ込んでくる”スペード”を”ハーツ”は改めてファイティングポーズをとって迎え撃った。カウンター気味のパンチを”スペード”に叩き込み、その突進を止め、尚かつ後方へとよろめかせる。
 その一撃に怒ったのか、”スペード”が口から青白い火球を吐き出した。かなりの近距離。下手をすれば自分にだって被害が及びかねないと言うのに、それでも”スペード”は何の躊躇いも見せずに火球を吐いたのだ。余程先程の一撃が頭に来たらしい。
 近距離からの火球を”ハーツ”は右手で空に向かって弾き飛ばした。弾き飛ばす向きを空にしたのは地上への被害を考慮したからだ。まだ防衛軍の後退は終わっていない。彼らを守る為にも火球を空へと弾き飛ばしたのだ。
『おのれ!!』
 ”ハーツ”の行動に更に怒りを募らせる”スペード”。今度は背中の触手から怪光線を放っていく。再び両手を突き出し、その先に空間の歪みを発生させて怪光線を受け止めた”ハーツ”を見て、触手からの怪光線を放ったまま”スペード”は”ハーツ”に突進した。怪光線と突進、同時に二つの攻撃は防げないはずだ。その考えの基、”スペード”は”ハーツ”に肉迫し、”ハーツ”の肩にその太い腕を振り下ろす。
 物凄い力で叩き伏せられ、その場に片膝をつく”ハーツ”。そこに更に”スペード”が腕を振り下ろしていくが、”ハーツ”は左腕を上げてその腕を受け止めた。
『何っ!?』
 全力で振り下ろした腕をあっさりと受け止められた”スペード”が驚きの声を漏らす。そのボディに”ハーツ”の強烈なパンチが叩き込まれた。
 その巨体を九の字に折り曲げながらよろめき、後退する”スペード”。そこに向かって”ハーツ”が片膝をついたまま赤い光弾を飛ばした。その光弾も以前のものとは比べものにならない威力を秘めていた。小さな爆発が起こるだけだろうと高をくくっていた”スペード”は赤い光弾の直撃を受け、その威力と爆発に大きくよろめいてしまう。
 そこに向かって”ハーツ”がジャンプ、よろけて体勢の崩れている”スペード”にキックを叩き込む。大きく吹っ飛ばされ、またしてもビルを押し潰しながら地面に倒れる”スペード”。
 ”ハーツ”が倒れた”スペード”に飛びかかり馬乗りになってパンチの雨を降らせていく。口から火球を吐き、自分の上にいる”ハーツ”を吹っ飛ばそうとする”スペード”だが、”ハーツ”は素早く”スペード”の下顎を手で押さえ込み、口を開かせないようにした。その上で更にパンチを加える”ハーツ”。
 と、そこに二股になっている”スペード”の尻尾が襲い掛かった。まるで意思があるかのように”ハーツ”の首に巻き付いていく。思いも寄らない背後からの攻撃、更に尻尾が想像以上の力でもって”ハーツ”の首を締め上げる。
 これには流石の”ハーツ”もたまらず”スペード”の下顎から手を離してしまう。次の瞬間、”スペード”の全身に青白い光が走った。激しいショックが”ハーツ”の全身を襲い、更に続けて”スペード”の口から青白い火球が放たれ”ハーツ”の身体を吹っ飛ばした。
 大きく宙を舞い、地面に倒れる”ハーツ”。
 地響きを上げて地面に倒れた”ハーツ”に向かって”スペード”が青白い火球を吐いた。更に触手からの怪光線も放ち、”ハーツ”の周囲で爆発を起こす。
 次々と起こる爆発の中からさっと”ハーツ”が飛び出した。”スペード”の攻撃をかわすように側転し、追いかけてくる怪光線をかわして後方へとバック転する。着地すると同時に大きく空に向かってジャンプ。するとどうだろう、”ハーツ”の身体がまるで地球の重力から切り離されたかのようにふわりと浮き上がったではないか。
(これは……?)
『心配するな、貴明。これは私の能力の一つだ』
(空を……空を飛べるのか!!)
 ”スペード”の放つ青白い火球をかわしながら”ハーツ”は宙を舞う。高層ビルの間を縫い、右手から赤い光弾を飛ばす。
 空中からの”ハーツ”の攻撃に”スペード”は為す術もなかった。こちらの攻撃は素早い動きでかわされ、向こうの攻撃は正確無比。着実にダメージを与えられてしまっている。このままではいつかやられてしまう。そう思った”スペード”は首を大きく巡らしながら咆吼した。すると街中のあちこちから何かが”スペード”に向かって集まってくるではないか。

「何……?」
 いくつもの羽ばたきの音にこのみが上を見上げる。その彼女たちの頭上を何羽もの鴉が飛び去っていった。
「鴉……どうして?」
 飛び去っていく鴉の群を見ながら環が訝しげな表情をした。
 だがその疑問はすぐに晴れることになる。飛び去っていく鴉の全てが”スペード”の方へと向かっていったからだ。
「あいつが呼び寄せたって言うのか!?」
 ”スペード”の方に群がっていく鴉の群を見て雄二が驚きの声をあげる。
「……まさか……」
 ようやく環は”スペード”が何故鴉を呼び寄せたのかと言うことに気付いた。彼女は一度見ているのだ。”スペード”がまだ恐竜人間だった時に大量のトカゲやイモリ、蛇などの爬虫類を集め、それらと融合して巨大化したという事実を。今また同じ事をやろうとしているのだろう。今度は鴉を集めてそれらと融合するつもりなのだ。おそらくは空を飛ぶ”ハーツ”に対抗する為に。
「タカ坊! 早く決めなさい!」
 条件が互角になれば成る程、貴明の勝利の確率は低くなる。ようやく優位に立てたのだ、わざわざ互角の条件にする必要はない。優位な状態でいるうちに勝負を決めるべきだ。そう思って環が叫ぶ。
 しかし、彼女が叫ぶよりも早く、”スペード”は自分の周囲に群がる鴉の群を青白い光で包み込み、そして取り込んでいった。皆が見ている前で”スペード”の背に黒く奇怪で巨大な翼が形成されていく。更に左肩に鴉の頭部が出現し、甲高い声をあげた。

 背中に新たに生まれた黒く奇怪で巨大な翼をはためかせ、”スペード”が宙に舞い上がる。これで空を飛ぶ”ハーツ”との条件は同じ、五分と五分だ。
『死ね、追跡者!!』
 自分よりも上空にいる”ハーツ”に向かって青白い火球を吐く”スペード”。
 軽やかにその火球をかわし、”ハーツ”は”スペード”に向かって赤い光弾を飛ばす。
 背中の翼を大きくはためかせ、赤い光弾をかわした”スペード”が物凄いスピードで”ハーツ”に接近していく。触手から怪光線を放ちつつ”ハーツ”に迫り寄る”スペード”だが、”ハーツ”は高速で右に左に動き回り接近を許さない。更に牽制の赤い光弾を飛ばしていく。
 空中での接近戦は無理だと思ったのか、”スペード”は”ハーツ”との距離を取ると口から火球を吐き出した。その火球をかわし、更に上空へと上昇する”ハーツ”を追って”スペード”も上昇する。勿論、上昇しながらも”ハーツ”を撃ち落とすべく口から火球、触手から怪光線を放つことを忘れない。
 雲の中を越え、その上へと躍り出、対峙する”ハーツ”と”スペード”。睨み合いはほんの少しの時間だけ、先に動いたのはやはり”スペード”だった。先制攻撃とばかりに口から青白い火球を放つ。少し遅れて”ハーツ”が光弾ではなく赤い円盤状の光刃を放った。
 かつて”スペード”の片腕を奪った必殺の赤い円盤状の光刃。予備動作も溜めも無しに”ハーツ”はそれを放って見せたのだ。
 空中でぶつかり合う合い白い火球と赤い円盤状の光刃。その威力はほぼ互角であったようで、互いに爆発して消滅する。それを皮切りにまた両者の高速戦闘が始まった。
 音速を超える速さで大空を駆け抜け、時折青白い火球が宙を飛び、赤い円盤状の光刃が空を切る。雲を切り裂き、再び地上から二つの姿が辛うじて黙視出来るようになっても両者の戦いは止まらない。”ハーツ”を狙って”スペード”の青白い火球が放たれ、それをかわした”ハーツ”がお返しとばかりに赤い円盤状の光刃を”スペード”に向かって放つ。ふわりと上昇して赤い円盤状の光刃をかわした”スペード”が立て続けに青白い火球を吐くが、”ハーツ”も負けじと赤い円盤状の光刃を立て続けに放ち、火球にぶつけて相殺する。ほんの数秒の間にそれらの攻防が何度となく繰り返されているのだ。

 ”スペード”は苛立っていた。
 どれほどこちらが攻撃しても”ハーツ”はその全てをかわし、もしくは相殺してくる。戦闘能力的には決してひけはとっていないはずだ。むしろこちらの方が上のはずなのに圧倒することが出来ない。追跡者、”ハーツ”はそれだけ強力な力を隠し持っていたのだ。果たしてどうすればこいつを倒せるのか。
 ふと視線を下に向けるとそこには人間に作った街並みが広がっている。そう言えば”ハーツ”は先ほど自分が人間達を攻撃しようとしたのを必死になって止めたことがあった。あれは自分を攻撃し、大きなダメージを与える絶好の機会だったのにもかかわらず、奴はそれよりも人間の命を守ることを優先したのだ。そしてその為に大ピンチに陥った。
 そのことを思い出し、ニヤリと”スペード”が笑う。もう一度同じ事をすれば、今度もまた奴は人間を守ろうとするだろう。それはこちらにとって好都合、奴を仕留める絶好のチャンスとなるはずだ。
 そう考えると後は行動に移すのみ。”スペード”は何ら躊躇うことなくその口を大きく開き、青白い火球を”ハーツ”にではなく地上に向かって放った。

 ”スペード”が自分に向かってではなく地上に向かって青白い火球を放ったのを見た”ハーツ”は慌てて転進し、その火球を追って急降下した。地上にはまだ避難していない人達もいるはずだ。あの火球が何処に落ちるにしろ、落ちたらその被害は甚大なものとなるだろう。それは決して見逃せることではなかった。
 落下する火球の下に回り込み、両手を突き出してバリアを張って火球を受け止めることに何とか成功する”ハーツ”。だが、それを見て”スペード”は次々と火球を地上に向かって放ってきた。
(ダメだ! 一つ一つ受け止めていたら間に合わない!)
 右に左に飛び回り、降り注ぐ火球を赤い光刃を放って次々に相殺していく。その時、”ハーツ”の意識は完全に降り注ぐ火球を相殺することだけに向いていて”スペード”の動向にはまるで気がついてはいなかった。
 ”スペード”は火球を相殺し続けている”ハーツ”をじっと見据え、その”ハーツ”に向かって最大級の火球を放った。勿論それと気付かれないようにその前には小さめの火球をいくつか向きを変えつつ放っている。
 必死に降り注ぐ火球を赤い光刃で相殺していた”ハーツ”の背に今までよりも大きい火球が直撃した。大きさのみならずその威力も今までのものとは比べものにならず、”ハーツ”の身体が地上へと落下していく。そこに”スペード”が急降下してき、落下している”ハーツ”の背中を思い切り踏みつけた。そしてそのまま地上へと降下、いや落下していく。
 地響きと土煙を上げながら”ハーツ”が”スペード”に踏みつけられたまま、地上に激突する。落下時のスピードに加えて”ハーツ”自身の体重、更に”スペード”の体重もあった所為か地面に叩きつけられた”ハーツ”の身体はそのまま少し地面にめり込んでしまう。
 ”スペード”はその場で軽くジャンプして、”ハーツ”の身体を更に地面に埋め込むと翼をはためかせて上へと舞い上がった。そして倒れている”ハーツ”に向かって青白い火球、触手からの怪光線を次々と放っていく。
 地面にめり込むようにして倒れている”ハーツ”は気でも失ってしまっているのか、”スペード”の攻撃をかわそうともしない。ぴくりとも動かない。

「タカ坊……やられちゃったの?」
 ぴくりとも動かないでただ”スペード”の攻撃を受け続けている”ハーツ”を見て、心配そうに環が呟く。その胸の奥では貴明がやられてしまった、死んでしまったのではないかという不安で一杯だった。
「元々彼は戦える程回復していなかったはずだよ。少なくても私が彼を病院から連れだした時は死にそうな感じだったし」
 目を伏せ、顔を背けながら言う明乃。彼女は地上に叩きつけられた時点で貴明がやられてしまったのだと思っているようだ。
「タカ君……」
 春夏も目を閉じ、首を左右に振った。ぴくりとも動かずに攻撃を受け続けている”ハーツ”の姿を見れば、誰もがもうやられてしまったものだと思うだろう。勿論春夏もその一人だった。
 しかし、まだ諦めていない者もいる。
「何やってる! 早く立ち上がるんだよ、貴明!!」
 フェンスを握りしめて雄二が必死に叫ぶ。
「お前はこんなところで終わるような奴じゃねぇだろ! ほら、早く立て!!」
「そうだよ。まだ終わってなんかない」
 雄二の言葉を受け、このみが環達の方を振り返った。
「私たちが絶望したらダメだよ。タカ君はまだ終わってない。やられてなんかない。約束したもん、絶対に帰ってくるって。だからこれで終わるわけない」
 目に大粒の涙を浮かべながら、訴えかけるようにそう言うこのみ。それからまた倒れて一方的に攻撃を受け続けている”ハーツ”の方を振り返る。
「頑張れ……頑張れ、タカ君……」
 その声は震えていた。だが、そこに込められた思いは誰よりも強い。
「負けちゃダメだよ。絶対に帰ってくるって約束したんだもん、絶対に……絶対に負けちゃダメなんだからー!!」

 その声が届いたのか、”ハーツ”の手がぴくりと動いた。その背に”スペード”の放つ怪光線や火球を受けながらも地面にめり込んだ身体を少しずつ持ち上げていく。
(まだだ……まだ終わっちゃいない……)
 背に怪光線の直撃を受け、再び崩れそうになるも何とかそれを堪え、ゆっくりと身を起こしていく”ハーツ”。

 起き上がろうとしている”ハーツ”を柚原は無言で見つめている。
 彼個人の心情的にはすぐにでも援護してやりたいのだが、防衛軍上層部は両者の共倒れを画策している。どちらが勝っても、勝った方が次に人類の脅威になると考えているからだ。上層部の意向に反してまで”ハーツ”の、貴明の援護をするべきなのかどうか。柚原はそれを未だに決めかねている。今までは個人の裁量で貴明のバックアップをしてきたがもはや事態はそれどころではなくなっているのだ。ここから先はどうしても慎重にならざるを得ない。
(……どうする? 今貴明君を援護しなければ彼はやられてしまうかも知れない。だが……)
 柚原がまだ迷っていると、突然無線から女性の声が飛び込んできた。
『防衛軍の皆さん、聞いてください!』
 折原志乃の声だ。
 柚原が一体どうして、と疑問を覚えるよりも先に彼女の声がまた耳に飛び込んでくる。
『今そこで戦っている巨人は人類を守る為に戦っています! 目的はあなた達防衛軍と同じなんです! それに……彼はあなた達と同じ人間です!』
 志乃の声は必死だった。彼女が知っていることを全て話してでも防衛軍に貴明の援護をさせようと必死になっているのがわかる。
『彼があのような力を得たのは全くの偶然でした! 彼は何の変哲もないただの少年だったんです! その彼が今、必死になって戦っている! 我々を、人類を守る為に、その身を犠牲にして戦っているんです! それを見てあなた達は何もしないんですか!? 彼がやっていることは本来あなた方防衛軍がやらなければならないことです! 彼は偶々あのような力を得てしまった! ただそれだけなのに、彼はその力を我々の為に使ってくれている! その身が傷ついても戦ってくれている! なのにあなた達はそれを黙って見ているだけなんですか!?』
 志乃の演説を聴いて、柚原は口元に笑みを浮かべた。これでようやく決意が出来た。上層部の意向などクソ喰らえだ。例え自分一人でも貴明を援護する。
 近くにおいてあったバズーカを抱え上げ、柚原は”スペード”の方を向いた。それから無線を手にする。
「各員、今の演説は聴いたな? 我々は防衛軍だ。あのような脅威から人々を守るのが我々の使命だ。私はこれよりあの巨人、コードネーム”ハーツ”の援護を行う。”ハーツ”は我々の味方だ。それは間違いない。全ての者についてこいとは言わん。私に賛同出来る者だけついてくればいい。以上だ」
 それだけ言うと柚原は近くに止めてあったジープの助手席にバズーカを置き、自らは運転席に座った。エンジンをかけると、誰かがジープに駆け寄ってきた。
「お供します、一佐!」
 そう言って敬礼したのはまだ若い兵士だった。助手席に置いてあったバズーカを手に持ち、助手席に腰を下ろす。
 柚原は無言で頷くとジープを発進させた。するとどうだろう、彼のジープを追うかのように次々と戦車が動き出し、戦闘ヘリが飛び立ち始めたではないか。車両のない者は自らの足でもってジープを追いかけ始める。残る者は誰一人としていなかった。負傷している者ですら柚原の後を追ってきているのだ。
「……ありがとう、諸君」
 再び無線をとってそう言う柚原。
「これより”ハーツ”を援護して”スペード”を攻撃する!」

 起き上がろうとする”ハーツ”に火球や怪光線を雨のように降らせてその動きを阻止する”スペード”。その姿は何とも楽しそうだ。今まで自分を苦しめてきた相手をこうも一方的にいたぶれると言う事実が嬉しくて、楽しくてたまらないのだろう。
 と、その背中で小さな爆発が起こった。
 ゆっくりと振り返ってみると防衛軍の戦闘ヘリが次々と自分に向かってミサイルを発射してきているではないか。それだけではない。地上からは戦車隊がその砲塔を自分に向けて次々と戦車砲を放ってくる。他にも歩兵がバズーカを構えて撃ってくる。
 勿論、そんなものではこの身体にダメージを与えることは出来ない。しかし、こうしてちまちまと攻撃されるというのは鬱陶しくてたまらないことだった。特にこうして忌々しい相手を嬲っている時には。
 ”スペード”は”ハーツ”に背を向け、防衛軍の方を向くとその口を大きく開いて青白い火球を吐こうとした。”ハーツ”よりも先に鬱陶しいこの人間の軍隊を一掃しようと思ったのだ。だが、それは決定的な間違いであった。
 ”ハーツ”への攻撃を止めたことにより、”ハーツ”がようやく起きあがり、彼に背を向けている”スペード”に向かって赤い光弾を飛ばしてきたからだ。
 赤い光弾の直撃を受けて”スペード”の背中で爆発が起こる。少しバランスを崩しながらも後ろを振り返ると”ハーツ”が物凄い速さで大空へと舞い上がって行くではないか。
 慌てて追いかける”スペード”。もはや防衛軍など相手にしている暇はない。防衛軍などよりも”ハーツ”の方が遙かに厄介な敵だからだ。追いかけながらも触手からの怪光線、口からは青白い火球を吐き、何とか撃ち落とそうとするのだが”ハーツ”は右に左に動き回りまるで当たらない。まるで後ろにも目がついているかのようだ。
 怪光線、火球と立て続けに放ち続けている”スペード”はそれを右に左にかわす”ハーツ”に段々と苛立ちを募らせていく。そんな”スペード”を尻目に”ハーツ”は大きく旋回して”スペード”の方へと向かってきた。
 ”スペード”の放つ火球を赤い光を宿した両手で弾き飛ばしながら、”ハーツ”は”スペード”との距離を一気に詰めていった。そして交錯すると同時に鋭いチョップを”スペード”の首筋に叩き込んでいく。
 今まさに口から火球を吐こうとしていた、そのタイミングで喉元に”ハーツ”の強烈なチョップを受け、思わず吐こうとしていた火球を飲み込んでしまう”スペード”。その体内で火球が爆発し、口から黒い煙を吐きながら”スペード”の巨体が地上へと落下していく。
 大きな地響きを上げて”スペード”が地上に墜落した。先ほど”ハーツ”が”スペード”に踏みつけられつつ地上に叩きつけられた時と同じ程の衝撃が周囲に広がる。これまでの”ハーツ”と”スペード”の戦闘でその構造が脆くなっていたビルなどがその衝撃で崩れ落ち、もうもうと土煙が立ち込める。
 そんなところにふわりと舞い降りるかのように”ハーツ”が着地する。土煙の中に倒れているはずの”スペード”を警戒してか、少し離れたところでファイティングポーズをとりながらじっと土煙の方を見つめている。

 もうもうと立ち込める土煙の方をじっと見つめているのは”ハーツ”だけではなかった。柚原率いる防衛軍の兵士達も、離れたビルの上からじっと戦いの様子を見ているこのみ達も土煙の方を注目している。
 はるか上空から地上へと叩き落とされた”スペード”が一体どれだけのダメージを負っているのか。先ほど同じように地面に叩きつけられた”ハーツ”はほとんど無傷だった。それは今先程の”スペード”が落下したのよりも地上に近かった為だろう。だが”スペード”はそれよりもはるかに上空から、しかも自分の火球を飲み込み、それが爆発した衝撃でもって落下してきたのだ。これで無傷ならば正真正銘の化け物だと言っていいだろう。
 立ち込めていた土煙が徐々に晴れていく。しかし、その中に倒れていなければならないはずの”スペード”の姿はなかった。
 確かにこの場には落ちたのであろう。地面が陥没しているのがその証拠だ。だが、そこになければならないはずの”スペード”の巨体が忽然と消えてしまっている。一体これはどう言うことなのか。”ハーツ”もこの予想外の展開に驚き、戸惑っている。
「あの巨体がそう簡単に消えるはずがない! 探せ! 探すんだ!!」
 柚原が部下達を振り返りそう怒鳴った。
 と、そこに突如地鳴りのような音と震動が伝わってくる。
「何だ……?」
 柚原のみならず部下の兵士達も不安げな顔をして周囲を見回し、地鳴りのような音の正体を確かめようとする。その音が聞こえてくるのは足下、そしてそれは少しずつ移動している。
「まさか……」
 不意に湧き上がる不安に柚原の顔が曇った。もし彼の予想が正しければ、一番危ないのは”ハーツ”――貴明のはずだ。それを証明するかのように足下から聞こえている音や震動は”ハーツ”の方へと向かっている。
「いかん! 貴明君、後ろだ!!」
 さっと”ハーツ”の方を振り返り柚原がそう叫んだのとほぼ同時に”ハーツ”の後方の地面から土煙が噴き上がり、更にその中から触手が飛び出し、”ハーツ”の身体を拘束するように巻き付いていく。続けて太い腕が伸びてきて”ハーツ”の肩を掴んでぐいっと引き寄せた。
『はーっはっはっは!! あれしきで俺がやられたとでも思ったか、追跡者!!』
 土煙の中から笑い声を上げながら姿を露わにする”スペード”。
 ”ハーツ”が逃げられないように両腕と触手で拘束し、更なる笑い声を上げる。
『だが少し力を使いすぎた。貴様の力を頂くぞ!!』
 そう言って”スペード”が大きく口を開けて”ハーツ”の首筋に噛み付いた。更にその背中から一際太い触手が伸びてきて”ハーツ”の胸に輝く赤いクリスタルに吸い付いていく。
 ”ハーツ”の首筋に食い込んだ”スペード”の鋭い牙が”ハーツ”の体内から何かを吸い上げていく。同時に胸のクリスタルに吸い付いている触手もそこから何かを吸い上げていた。苦しげに悶える”ハーツ”。

「クソ! 何やってんだよ、貴明!!」
 身動きを封じられ、苦しげに悶えるだけの”ハーツ”を見て雄二が苛立たしげに呟く。
「さっさとそんなの振り解きゃいいだろうが!」
「それが出来ないくらいあいつの力の方が強いのよ、きっと」
 冷静にそう言ったのは環だった。だが冷静なのはその口調だけ、顔にはどうしようもないくらい不安げな表情が浮かんでいる。貴明がやられてしまわないかと心配で心配でたまらないのだ。
 振り返って文句を言おうとした雄二だが、姉の表情を見て口を閉ざした。あんな顔をされては何も言えないではないか、とばかりに再び前を向く。と、隣に立っていたこのみが真っ青な顔をしてその身体を細かく震えさせているのに気付いた。
「どうした、チビ助?」
「タカ君が……タカ君が死んじゃう……」
 声をかけてきた雄二に震える声で答えるこのみ。
「何言ってんだよ。そりゃ今はちょっとピンチかも知れねぇがすぐにまた逆転するって」
 そう言う雄二だが、このみは首を左右に振った。そして雄二の方を見る。その目からは堪えきれなかった大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「あのままじゃダメ……あいつはタカ君の命を吸ってる……あのままじゃタカ君の命が全部吸い取られちゃう!」
「まさか、そんな……!!」
 その声をあげたのは雄二ではなく環だった。もはや彼女の顔からは完全に血の気が引いてしまっている。今にも倒れてしまいそうな顔色だ。
「何とか……何とか出来ないの、雄二!?」
「んなこと俺に言われたって」
 何の力もない自分に懇願してくる姉に戸惑いの表情を返す雄二。先ほども思ったが、もしも自分に貴明と同じような力があったならば今すぐにでも飛び出していったことであろう。しかし、実際にそんな力は彼にはないし、出来ることと言えばただ応援することぐらい。
「タカ君……」
 このみが”ハーツ”の方を不安げな瞳で見つめる。
 今出来ることは奇跡を願うことぐらい。あの厳重な拘束から抜け出すことが出来る為の何らかの奇跡が起こることを願うことぐらいだけだ。
 ギュッと両手を胸の前であわせ、祈るように目を閉じるこのみ。
「お願い……タカ君を助けて……」

 苦しみ悶える”ハーツ”の胸のクリスタルが赤く明滅を始めた。
 柚原やこのみが言う通り、”スペード”によって”ハーツ”はそのエネルギー、いや命そのものを吸われているのだろう。胸にあるクリスタルに宿る赤い光こそ”ハーツ”のエネルギー、命そのものなのだ。それを触手によって直接吸われている。その苦しみは想像を絶するものだった。
『だ、ダメだ、貴明。このままでは危険だ!』
 光の巨人の焦ったような声が貴明の心に直接響いてくる。
『このままでは私の命が吸い尽くされてしまう!』
(そうなるとどうなるんだ?)
『私諸共貴明も消滅してしまう。奴の狙いはそれだろう』
 やけに冷静な貴明の反応にむしろ光の巨人の方が戸惑ってしまう。
『君は怖くないのか、貴明? 今私たちは消滅の危機に晒されているんだぞ?』
(いや、怖いのは怖いよ。でも、こんなところでやられるわけにはいかない。そうだろう?)
『しかし、この拘束を振り解くだけの力が今の私にはない』
(諦めるなよ。諦めなければきっと何とかなる)
『……やはり君は強いな、貴明。君と出会えたことを私は感謝する』
(ああ、俺もあんたに出会えたことを感謝するよ)
 命を吸われている苦しみの中、貴明は光の巨人との会話を終える。しかし、諦めなければ何とかなると自分で言っておきながらも、果たしてこの窮地をどうやって脱すればいいのかはまるでわからないでいた。
 防衛軍も今いる位置からでは”ハーツ”自身の身体が邪魔になって攻撃出来ないのだろう、援護は期待出来そうにもない。
 自らの力でこの拘束を振り解くにはエネルギーを吸われすぎている。もう拘束を振り解くだけの力が出せそうにもない。
 まさしくジリ貧。もうどうしようもない状況だ。それでも諦めるわけにはいかない。自分の双肩には人類の未来がかかっているのだ。
(何とか……何とかしないと……)
 段々弱くなってくる胸のクリスタルの赤い光。これが完全に消えてしまった時がおそらく最後なのだろう。この巨人、”ハーツ”のみならず河野貴明という人間も消滅してしまう。
 内心焦っているのだがどうにもならない。

 ”スペード”がぐったりとなった”ハーツ”を見て勝利を確信したその時だった。はるか上空から空気を切り裂くようにして急降下してくるものがあった。
 それは厚木にある米軍基地を飛び立った戦闘機隊。日本の防衛軍ではなく、米国空軍の戦闘機隊であった。
 実は”スペード”との戦闘が始まる前に柚原は米軍に協力を要請していたのだ。”ハーツ”が今の姿になる前、一度やられた時になってようやく米軍はその重い腰を上げ、戦闘機隊を戦場となっている新宿へと向かわせた。それがようやくこの場に到着したのだ。
「あのモンスターがそうか?」
「そうだ! あいつがコードネーム”スペード”だ!」
 戦闘機隊の戦闘を飛ぶ復座型の戦闘機のコックピットの中、そんな会話が交わされる。コックピットの前、パイロットシートに座っているのはこの機体を預かる米国人パイロット。後部座席のガンナーシートに座っているのは日本人だ。
「わかった。全機、攻撃開始だ。あのモンスターに人間の恐ろしさってものを味あわせてやれ!」
 パイロットがそう言うのと同時に戦闘機隊が攻撃を開始する。翼の下にあるミサイルを次々と発射し、”スペード”の背中を狙っていく。
「ヘイ、香月! とっておきの一発はお前に任せる! しっかり狙えよ!」
「わかってる! 言われなくたってな!」
 パイロットが後部シートにいる日本人に向かってそう言うのに、強い口調で彼は答えた。
 そこにいたのは香月恭介。モグラ怪獣から貴明を助け、その後変身した貴明によって助けられた男。瀕死の貴明を病院から連れだした男。
 彼は明乃と別れた後、すぐに厚木にある米軍基地に向かった。そこで彼は戦闘機隊のパイロット達に頼み込んで同乗させて貰ったのだ。理由は勿論、貴明を援護する為に。いざとなれば戦闘機を奪ってでも援護しに行くつもりだったのだが、その前に米軍自体が防衛軍に協力する為に動き出したので、そのまま同乗してやって来たのだ。
「いいか、用意出来たのは一発だけだ。これを外すと後はないぞ。わかったな、恭介」
 自分に向かって言い聞かせるようにそう呟き、恭介はこの戦闘機に搭載されているとっておきの一発の照準を”スペード”に合わせる。
 ゴクリと唾を飲み込み、緊張と戦いながら発射ボタンを押す恭介。
 戦闘機の機体の下に搭載されていた少し大きめのミサイルが”スペード”に向かって発射される。
 そのミサイルの中には防衛軍特殊生物対応特別研究機関が開発した”スペード”の細胞を分子レベルで分解する薬品が込められていた。更にその薬品はある基地での戦闘で入手することが出来た”スペード”の片腕を用いて更なる改良が加えられ、それを更に五百倍にまで濃縮したものだ。これを搭載する為に戦闘機隊の出撃が遅れ、到着が今になってしまったのだが、これこそがまさしく”スペード”に対する人類の意地、最後の切り札なのだ。
 しかしながら”スペード”の体表は恐ろしく固い。並大抵のミサイルではダメージを与えることだって不可能だ。この薬品入れのミサイルも体表で爆発してしまえばその効果を期待することは出来ないだろう。だからこそこのミサイルに薬品が搭載されたのだ。
 バンカーバスター――元々は地中の目標や効果目標を破壊する為に開発された特殊爆弾。これを利用して”スペード”の体表を破り、その体内に薬品を到達させる。その為に柚原は米軍の協力を求めたのだった。
 戦闘機から発射されたバンカーバスターはそのまま”スペード”へと直進、その背中に命中する。そしてその固い体表を食い破るように体内に潜り込んだ。
 だが、その痛みも”ハーツ”の命を吸うことに夢中になっている”スペード”には全く気にならない。この程度の痛みならばすぐに回復するはずだと高をくくっているのだ。それが命取りになるとも知らずに。
 ”スペード”の体内でバンカーバスターが爆発した。同時に内部に込められていた薬品が解放され、即座に”スペード”の細胞を分解し始める。
『ぐっ!?』
 突如背中に走る激痛。いや、それは激痛などと言う生易しいものではなかった。まるで皮膚を切り裂いたところに焼けた鉄の棒を押し込んだような、そんな常識では考えられないような痛みが”スペード”を襲う。
『ぐあああっ!!』
 その耐え難い痛みのあまり”ハーツ”の首筋に食い込ませていた牙を引き抜いてしまう。他にも”ハーツ”の身体を押さえ込んでいた腕も放してしまい、更には触手も弛んでしまった。
 ”ハーツ”は身体を拘束している触手の力が弱まったのを知ると、それを引きちぎりながら胸のクリスタルに吸い付いている大きめの触手を両手で掴み、一気に引き剥がした。その触手を投げ捨てると真後ろにいる”スペード”に回転しながら肘を叩き込み、続けて回し蹴りを叩き込んでいく。そこから一歩後退し、大きくジャンプして大空へと舞い上がった。
 その時、恭介の乗った戦闘機とすれ違う。
 恭介は飛び立つ”ハーツ”を見ながら右手の親指を立ててみせる。そしてそれに”ハーツ”は小さく頷き、そのまま一気に大空へと飛んでいった。

 大空へと飛び上がった”ハーツ”を激痛に耐えながら見上げた”スペード”は、背中の翼を大きくはためかすと追いかけるように飛び上がった。まだ戦いは終わっていない。この痛みはかなりのものだが耐えられないものではない。初めこそ余りもの痛みに耐えられなかったが今はそれほどでもなくなっている。それに自分のダメージよりも”ハーツ”の方が遙かに消耗しているはずだ。倒すなら今しかない。
 そう思って飛び上がった”スペード”だが、その視線の先で”ハーツ”が急停止し、自分の方へと振り返ったのを見て慌ててその速度を緩めた。この速さだと追い越してしまいそうだったからだ。だがそれが間違いだとすぐに悟ることになる。
 ”ハーツ”は眼下に”スペード”を見下ろしながら両手を頭の横につけ、一気に振り下ろした。その手の先から赤い円盤状の光刃が放たれ、眼下にいる”スペード”の背にある黒い翼をその根元から切り裂いた。”スペード”の背から切り離された黒い翼が元の鴉の姿へと戻り、そのまま飛び去っていく。そして翼を失った”スペード”は地球の重力に囚われ地面へと落下していった。
 地上に叩きつけられ、派手に土煙を巻き上げる”スペード”。それを見ながら少し離れたところに”ハーツ”が着地する。その胸にあるクリスタルはやはり赤い光を明滅させていた。
 じっと油断なく土煙の方を睨み付けている”ハーツ”。先ほどのように後ろに回り込まれてまたエネルギーを吸い取られれば今度という今度こそやられてしまうだろう。それだけは避けなければならない。だからただ土煙を睨み付けているだけでなく、その中にいるであろう”スペード”の気配も探っている。
 土煙が収まり、ゆらりとそこに”スペード”が姿を現した。左肩に突き出していた鴉のような頭部がいつの間にかなくなっており――おそらくは翼を切り落とされ、鴉の大群との一体化を解除されたからであろう――、その目は”ハーツ”に対する怒りと憎しみに燃えたぎっている。
『おのれおのれおのれ! もう許さん! この星ごと貴様を消し去ってくれる!!』
 ”スペード”はそう吠えると口を大きく開いた。と同時に背中にある水晶体の背びれが青く発光し、大きく開いたその口の奥から青白い光が溢れ出してくる。一度は”ハーツ”――巨人を倒したあの青い光の奔流を放とうというのだろう。しかも今回は必要以上に溜めている。”ハーツ”をより確実に葬り、この地球をも消し去る為に。
 そんな”スペード”を”ハーツ”はただ黙って見ていたわけではない。すっと腰の前で両腕を交差させ、そのままその腕を胸の前へと返す。そしてその腕をゆっくりと左右に放していくと、腕と腕との間に幾筋もの赤いスパークが走った。それはまるで”ハーツ”の腕に集まったエネルギーが飽和しているような様であった。
 ”スペード”が一歩前に足を踏み出しながら、口から青白い光の奔流を放つ。ほぼ同時に”ハーツ”が両腕を天に向かって突き出し、それを素早く右胸の前で十字に組んだ。その手から放たれる赤い光の奔流。
 青白い光の奔流と赤い光の奔流がぶつかり合う。
 その力はほぼ互角。均衡が破れる時はどちらかのエネルギーが尽きた時だろう。

 ぶつかり合う二つの光。
 それを手に汗を握りながらこのみ達が見つめている。
 ほぼ互角だった光の奔流のぶつかり合いだったが、徐々に青白い光が赤い光を押し始めた。やはり先ほど”スペード”にかなりのエネルギーを吸われた所為か。そのことに加え、”スペード”は”ダイヤ””クラブ”も取り込んでいる。そもそものパワーからして”スペード”の方が上なのだろう。むしろ”ハーツ”がよくここまで優勢に事を進められたと言うべきか。
「頑張れ……」
 ぼそりとこのみが呟く。
 今自分に出来ることは何か。先ほど”ハーツ”が絶体絶命の危機に陥った時はただ奇跡が起きることを願うしか出来なかった。その願いが神様に届いたのか、確かに奇跡は起こり、”ハーツ”はあの最大の危機を脱することが出来た。もう一度奇跡を願うことは容易いが、今度も叶うかどうかはわからない。ならば自分に何が出来るか。初めは何もないと思った。ただ見ていることしか出来ないと思った。だが、よく考えてみて、そして辿り着いたのは一番初めに彼女が選んだこと――貴明を信じ、そして応援すること――だった。だから声を張り上げる。彼が必ず勝つ、そして帰ってくると信じて声を限りに応援する。
「頑張れー!! タカ君、頑張ってー!!」
「貴明、後少しだ! 頑張れー!!」
 このみにつられたのか、雄二も声を張り上げる。彼だけではない。側にいた環も、明乃も、そして春夏も応援の声をあげる。
「タカ坊、しっかりー!!」
「貴明君、ファイトー!!」
「タカ君、頑張れー!!」
 ”ハーツ”を、貴明を応援する声は彼女たちだけではない。
「負けるな! 後少しだ、踏ん張れ、河野!!」
 上空を飛ぶ戦闘機の中から恭介が。
「頑張ってくれ、貴明君……」
 少し離れたところから柚原が。
「後少し、あなただけが頼りなのよ……頑張って、河野君」
 防衛軍対”スペード”攻撃部隊の本営から志乃がそれぞれ祈るような気持ちを込めて貴明を、”ハーツ”を応援する。
 そして、その声は劣勢の”ハーツ”に確実に届いていた。
(聞こえる……みんなの声が……俺は一人じゃない! 俺は、俺を応援してくれるみんなをこの手で守るんだ!)
 ”ハーツ”がぐっと一歩足を前に踏み出した。同時にその手から放たれる赤い光の奔流がその勢いと威力を増していく。
「タカ君、頑張れー!!」
 一際大きくこのみの声が響き渡ったその時、”ハーツ”の手から放たれる赤い光の奔流に変化が起きた。赤い色が徐々に薄くなり、青白い光を押し返し始める。
(うおおおおおっ!!)
 ”ハーツ”の中で貴明が気合いの雄叫びをあげる。その次の瞬間、”ハーツ”の放つ光が白く輝き、”スペード”の放つ青白い光を完全に打ち消した。そしてそのまま白く輝く光の奔流が”スペード”の身体を直撃する。
『ぐぎゃあああああああっ!!』
 絶叫を上げる”スペード”。
 白く輝く光の奔流が”スペード”の身体に叩き込まれ、その身体を光の粒子へと分解していく。
『お、おのれ……この俺がまさかこんな辺境の惑星で……』
 急速にその身体を光の粒子化させながらも、それでも”スペード”は”ハーツ”を睨み付ける。その目だけはやはり怒りと憎しみに燃えながら。
『俺は一人では死なんぞ! 貴様も……貴様も道連れにしてやる!!』
 それは苦し紛れの負け犬の遠吠えだったのか。
『ふはははははは! これで、これで終わったと思うなよ!! はははははははは!!』
 最後に一際大きい声で笑った後、”スペード”の身体が完全に光の粒子と化して消えていった。後には何も残らない。完全に消えてしまったのだ。
 ”スペード”がその存在を完全に消してしまったのを見届けた後、ようやく”ハーツ”は十字に組んでいた腕を解き、ゆっくりとした動作で立ち上がった。その勇姿を沈み始めた太陽が照らし出す。

「やった……やりやがったぞ、あいつ!!」
 雄二が夕陽に照らし出される”ハーツ”を見ながらそう言い、環達の方を振り返った。感極まってしまったのかその目には涙が浮かんでいる。
「何よあんた、泣いてるの?」
「姉貴だって泣いてるじゃねぇか」
 からかうように言う環だったが、雄二の言う通り彼女の目にも涙が浮かんでいた。
「良かった……」
 静かにそう呟く明乃。
 その方にポンと手を置いて頷いたのは春夏だった。
 ただ一人、このみだけがじっと”ハーツ”の方を見つめている。

 地上でも歓声が上がっていた。
 恐るべき人類の敵”スペード”が完全にこの世から消滅したのだ。喜びの声が挙がらないわけがない。
 だが、そんな中、柚原だけが安堵の中にも神妙な顔をして立ち尽くす”ハーツ”の姿を見上げていた。

 ”ハーツ”がこのみ達のいるビルの方を向いた。まるでこのみの視線に気付いたかのように。その胸のクリスタルの中では赤い光が辛うじて明滅しているのが見て取れる。
「タカ君……良かった」
 目に大粒の涙を浮かべながら呟くこのみ。
 だが、その次の瞬間、彼女の目が驚愕に大きく見開かれる。
 ”ハーツ”の身体が少しずつ光の粒子と化して消え始めたからだ。
「た、タカ君っ!?」

 光の粒子となって消え始めた”ハーツ”。
 その中で貴明は光の巨人と対峙していた。
『ありがとう、貴明。君のお陰で私はその使命を果たすことが出来た』
「俺の方からも礼を言わせてくれ。あんたのお陰でみんなを守ることが出来た。ありがとう」
『だが、私は君に謝らなければならない。私は力を使いすぎた。このままでは消滅してしまうだろう』
「ああ、そうみたいだな」
『本当ならば君と別れて消えるべきなのだろうがもうそれだけの力も残っていない。本当に君には申し訳のないことをした。済まない』
「構わないよ。元々その覚悟は出来ていたんだ」
 申し訳なさそうな光の巨人に貴明は笑みを浮かべながら言う。
『心残りはないのか? もう二度と会えなくなってしまうんだぞ?』
 光の巨人のその言葉に貴明は少しだけ辛そうな表情を浮かべた。それからチラリとこのみ達のいるビルの方を見やる。
「心残りがないって言えば嘘になる。絶対に帰るって約束したのを守れないんだからな」 
 ビルの上、大粒の涙を目に浮かべながらこちらを見ているこのみの姿を見ながら、貴明は改めて寂しそうな笑みを浮かべた。あの側に行って目に浮かんだ涙を拭いてやることはもう叶わない。あの頭を撫でてやることはもう出来ないのだ。
「だけど仕方ないさ。みんなを、このみ達を守れただけでも充分だ。後は……雄二が何とかやってくれる」
『貴明……』
「ここで俺が消えても俺がいたことまで消える訳じゃない。少なくてもみんなの心の中に俺っていう存在が生き続けるんだ。それでいい」
『本当に……本当にそれでいいのか、貴明?』
 光の巨人の質問に貴明は俯いて答えようとはしなかった。小さく首を左右に振り、それから光の巨人を見上げる。その目には涙が浮かんでいた。
「ああ、構わない」
『……わかった。本当にありがとう、貴明。君に会えて、そして共に戦ってくれたことを感謝する』
 光の巨人がそう言い、貴明がしっかり頷く。その目から一筋の涙がこぼれ落ち、同時に光が二人を包み込んでいった。

 ゆっくりとその巨体を光の粒子と化していく”ハーツ”。
 その姿を見ながら柚原はゆっくりと手を挙げ、敬礼した。自分たちに代わりこの地球を、人類を魔の手から救ってくれた英雄。彼に対して出来ることはそれぐらいだ。だからこそ、万感の思いを込めて敬礼する。
「ご苦労……だったな、貴明君」
 柚原だけではない。その場にいた全ての防衛軍の兵士達が皆、消えゆく”ハーツ”に向かって敬礼し始めた。中には涙を浮かべている者さえいる。
 上空を飛ぶ戦闘機隊のパイロット達も”ハーツ”に向かって敬礼していた。
「よく……やったぜ、河野」
 そう呟き、恭介も”ハーツ”に向かって敬礼する。
 
「何で!? 何で!? タカ君勝ったんでしょ!? なのにどうして!?」
 消えゆく”ハーツ”の姿を見ながらこのみが半狂乱になって叫ぶ。
 ”ハーツ”が勝ったら貴明が戻ってくるとずっと信じて応援していたのだ。確かに”ハーツ”は”スペード”に勝利した。だが、その”ハーツ”も”スペード”と同じように消えようとしている。貴明の姿に戻ることなく、だ。このまま”ハーツ”が消えてしまうともう二度と貴明は戻ってこない。何故か彼女にはそれがわかる。だからこそ、彼女は必死に叫ぶのだ。
「タカ君、どうして!? 帰ってくるって言ったじゃない! 約束してくれたじゃない! どうして……どうして……」
 フェンスに手をつき、泣きながらこのみがその場に崩れ落ちる。その姿を見ても誰も声をかけることは出来なかった。
「……あのバカは……知ってたんだ。もう帰って来れないって、自分でわかってやがったんだ」
 泣き崩れるこのみの背中を見ながらぼそりと雄二が呟いた。
「あの野郎……全部俺に押しつけやがって……それでいいのかよ……本当に、それでいいのかよ! 見ろよ! このみも姉貴も泣いてんだぞ!! それを見てもお前は!!」
 我慢出来なくなったのか、雄二が”ハーツ”に向かって怒鳴る。その目には涙が再び浮かんでいた。ガシッとフェンスを掴み、そして項垂れる。
「馬鹿野郎……嘘でもいいって言ったけどな、こう言う場合は帰ってくるもんだろうが……」
 雄二の目から涙がこぼれ落ちた。
「そうか、あんたは知ってたんだ、雄二」
「姉貴?」
 そう言いながら自分の肩に手を置いてきた環を雄二が振り返る。
「良くやったって誉めてあげましょう。タカ坊は良くやったって。私たちに出来るのはそれくらいの事よ」
 環がそう言って笑みを浮かべた。
「それで……それでいいのかよ! あいつはもう帰ってこねぇんだぞ! 姉貴はあいつのこと好きだったんじゃねぇのかよ!! それで……」
「いいわけないじゃない!」
 姉のあまりにも冷静な態度に半ば怒りを覚えた雄二がそう言って突っかかっていくが、環のその声にすぐに押し黙る。よく見ると環は泣き出しそうになるのを必死で堪えているのがわかった。自分は姉だから、雄二にとっての実の姉だけでなくこのみや貴明にとっても姉貴分だから、ここで泣き喚く姿を見せたくはない。無様なそんな姿を見せて消えゆく貴明と別れたくはない。最後まで凛々しい姉貴分として、そんな強がりを見せたまま別れたかったのだ。
「いいわけ……ないじゃない……」
 だが雄二の言葉によってその強がりも崩壊してしまう。ボロボロと涙をこぼしながら、それでも俯こうとはせずにじっと弟の顔を見続ける。
「でもね……もうどうしようもないじゃない……私たちに出来ることは……タカ坊が頑張ってくれたことを忘れないことだけ……だから」
 それ以上は言葉にならなかった。大声で泣くのを堪え、ただ静かに嗚咽するだけ。
 そんな環を後ろからそっと春夏が抱き寄せた。実の娘であるこのみは未だフェンスの側で泣き崩れたままだったので、代わりに彼女をそっと抱き寄せ、その頭を撫でてやる。それからじっとこちらを見つめている”ハーツ”の方を見やった。
「タカ君、お疲れさま。でもね、嘘つきは嫌いよ。よく覚えておきなさい」
 そう言って春夏は笑みを浮かべる。
「今度生まれてくる時は……そうね、またご近所でいたいわね」
 春夏の瞳から抑えきれなかった涙が一筋こぼれ落ちた。
 
 皆が見ている前で”ハーツ”の姿がどんどん光の粒子と化して消えていく。もはやその輪郭はぼやけ、ぼんやりとしかその姿を見ることが出来ない。
「イヤだ……イヤだよ……タカ君、いなくなっちゃやだよ……」
 消えていく”ハーツ”を見ながらこのみが叫ぶ。
「帰ってきてくれるって言ったのに……帰ってくるって約束してくれたのに……やだぁ……」
『泣くなよ、このみ』
 不意に聞こえてくる貴明の声。
 このみが顔を上げると少し前に光に包まれた貴明の姿があった。少し困ったような、それでいて寂しげな笑みを浮かべて彼はこのみを見つめている。
「タカ君……?」
『ゴメンな、約束守れなくて。でもわかって欲しいんだ。あいつを倒す為には全力を尽くさなきゃダメだった。俺は……自分の命よりもみんなを守りたかったんだって事を』
「で、でも! それでタカ君が死んじゃったら何の意味もないよ!」
『いや、意味はある。意味はあったんだ。あいつがいなくなればみんな平和に暮らせるんだから』
「それでも……私はタカ君がいなくなったらイヤだよ……」
『……ゴメンな。側に居てやりたかったけど……』
 貴明はそう言うとそっと手を伸ばしてこのみの頭を撫でてやった。
『もう時間がないんだ。俺のことなんか忘れて、元気でいろよな』
「やだ! やだよ! タカ君っ!!」
 必死にそう叫び、目の前の貴明の抱きつこうと手を伸ばすこのみだったが、その手は貴明の身体をすり抜けてしまう。そして、彼女の前から徐々に貴明の姿が消えていく。消えながらも貴明は笑顔を浮かべていた。その笑顔は、このみが良く知っている貴明の笑顔。このみが好きだった貴明の笑顔。
「やだ! ダメ! タカ君っ!!」
 伸ばした手の先で貴明の姿が完全に消え失せる。それと同時に”ハーツ”の姿も完全に消えてしまった。
「タカくーんっ!!」
 このみの絶叫が響き渡る。

 そこから少し離れたビルの上。
 一人の少女が両手を天に向けて挙げ、今にも消え去ろうとしている光の粒子を見つめていた。
「るー」
 そう言って少女が手を下ろし、少し険しい顔をする。
「勝手なことをこの星でするな。特にそのうーを連れて行くことは許さない」
 光の粒子達に向かってそう言うと彼女は空を見上げた。
「お前もまだ責任が残ってる。今回はそのうーに免じてお前にも力を少しだけ貸してやるから感謝しろ」
 そう言って少女が再び両手を上に挙げる。
「るー!」

 ”スペード”と”ハーツ”の激しい戦いから既に一ヶ月が経過していた。壊滅的な被害を受けた新宿駅周辺の復興は急ピッチで行われており、元の姿を取り戻すのも時間の問題だろう。そんなことをテレビの中でニュースキャスターが報道している。
 空港のロビーにあるテレビを何気なく眺めていた環はあの時のことを思い出し、小さくため息をついた。ほんの一ヶ月前の話だというのにもう何年も前のようにも思えてしまう。
「姉貴、何やってんだよ。手続き、終わったぜ」
 じっとテレビの方を見つめていた環にそう声をかけてきたのは雄二であった。その後ろには柚原がついてきている。
「あら、柚原のおじさま。わざわざ見送りに来てくれたんですか?」
「ああ。あの時の件で一線から外されたんでな。暇だけは山程ある。ところで挨拶ぐらいはしていったのかね?」
 柚原の方を見て笑顔を浮かべた環に、柚原がそう尋ねると彼女は首を左右に振った。
「挨拶なんかしてる暇無かったな、そういや。この一ヶ月どれだけ忙しかったか」
 環に代わって雄二が柚原の質問に答える。
「学校辞める手続きとか向こうでの生活の準備とか……もう目の回るような忙しさだったもんな」
「あんたはそんなに言う程やってないでしょうに」
「何言ってやがる。向こうで困らないようにって英語叩き込んだの姉貴じゃねぇか。お陰で地獄が見れたぜ」
「普段からちゃんと勉強しておかないからよ。それに英語ぐらい話せないとこれからの世界、生きていけないわよ?」
「だから必死にやったじゃねぇか」
「はいはい、それでもまだ日常会話もままならないレベルだけどね」
 二人のそんな会話を柚原は笑みを浮かべて見つめている。
 向坂 環と向坂雄二、この姉弟は今通っている高校を辞めて渡米しようとしている。今度アメリカで新設される国際的な防衛部隊に参加する為だ。一ヶ月前の事件で何も出来なかったことを二人はひどく悔やんでおり、もしまた同じような事件が起きた時は何とか彼の力になれるように。今度は自分たちが彼を守ってやれるように。そう思って二人は道を決めたのだ。
「決して無茶はしないようにな。君たちが立派になって帰ってくるのを待っているよ」
「ありがとうございます、おじさま。このみや春夏さん、それから……」
「わかってる。よろしく言っておくよ」
「お願いします」
 環はそう言って柚原に頭を下げた。それから時計を見て自分たちが乗る飛行機の出発時間を確かめる。
「それじゃそろそろ行ってきます」
「ああ。頑張れよ、環君、雄二君」
「おじさまも」
「それじゃ」
 笑みを浮かべて環と雄二が連れ立って歩き出すのを柚原は黙って見送った。

 窓の向こうの空を一機の飛行機が飛んでいく。
 それを眩しそうに見上げていたこのみが後ろにあるベッドの方を振り返った。
「きっとあれがそうだよ。あれにタマお姉ちゃんとユウ君乗ってるはずだよ」
 そう言って飛んでいく飛行機を指差しながら笑みを浮かべるこのみ。
 しかし、ベッドの上に座っている少年は何も答えようとはしなかった。ただ、ぼんやりとした瞳でこのみが指差した飛行機の方を見上げただけ。
 と、そこにつけっぱなしだったテレビから出演者の声が聞こえてきた。何気なくそっちに視線を向けると画面上には夕陽を受けながら立っている”ハーツ”の姿が映し出されている。
『謎の怪物から我々を救ってくれた赤き超人、果たして彼は一体何者だったのでしょうか? 突然消えてしまった彼が再び我々の前に姿を現すことはあるのでしょうか?』
 ”ハーツ”の姿に被せられるアナウンサーの声。
「今度はいつ会えるかわからないけど、でもきっとまた会えるよね?」
 話を聞いているのかどうかもわからない、そんな少年の態度を全く気にせずこのみは彼に話しかける。
「会えるよ。だって同じ空の下にいるんだもん」
 そう言ってこのみは少年の手をとった。相変わらずぼんやりとしたままの少年は特に抵抗するでもなく、このみにされるがままだ。
『あの赤き超人のことを今世間の人は憧れを込めてこう呼んでいるそうです。人類を超越した本物の超人――”ウルトラマン”と』
 そのアナウンサーの言葉を聞いてこのみが微笑んだ。
「聞いた? ”ウルトラマン”だって、タカ君」
 少年――河野貴明はこのみの微笑みにつられたかのようにうっすらと笑みを浮かべる。
「タカ君はタカ君なのにね」
 そんなこのみの言葉に貴明は何も答えず、ただ笑みを浮かべているだけ。しかし、その笑みは何処か壊れた笑みであった。
 辛うじて一命を取り留めた貴明だったがその心は壊されてしまっていたのだ。だが、それでも彼は生きている。生きていればいつの日か必ず彼の心は回復すると信じて、このみは彼の側にいると決めたのだ。
「雪が降ったらみんなで温泉でも行こうか? 勿論タカ君も一緒だよ」
 そう言ってこのみは貴明のいるベッドに腰掛ける。
「もう……二度と放さないからね、タカ君」
 すっと手を伸ばし、相変わらず壊れた笑みを浮かべている貴明を自分の胸に抱き寄せるこのみ。その彼女の目から一筋の涙がこぼれ落ちる。
 窓の外に広がる青空では飛行機雲が長く尾を引いていた。


星より来る者-The ULTRAMAN Story- 完 




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