さっと手渡されたのは何かの資料のようなもの。そこにはクリップで一人の男の写真が添えられてある。
「これは?」
「この男が例の怪物」
 思わず志乃の方を見た貴明にあっさりと志乃は答えた。
「名前は岸田洋一。海洋研究者としてはそこそこ有名だった男よ。まぁ変人でもあったみたいだけど」
 志乃の説明を聞きながら貴明は渡された資料を見てみた。写真に写っているのは確かにあの男だった。恐竜人間に変貌する前は確かにこんな顔をしていた。貴明もそれは目撃している。
「全ての始まりは三ヶ月前に遡るわ。宇宙から隕石のようなものが飛来してきたの。これが奴らだったんでしょうけど……その内の一つが海上に落ちた。その調査の為に彼は現場へと行った。目的は隕石落下による海洋の異変の調査だったらしいけど……」
 じっと写真を見つめている貴明に構わず、志乃が説明を続ける。
「そこであいつはあれに取り込まれた……調査って言ったけど一人だったのか?」
「岸田は人間嫌いで有名だったらしくてね、その調査にも自分で船を運転して一人で向かったそうよ。まぁ、誰も隕石が落下したなんて信じていなかったらしいけど」
「普通、隕石なんてもんは大気との摩擦で燃え尽きてしまうからだろ。聞いたことあるよ」
「事実隕石が落下したなんて形跡は何一つなかったらしいわ。本当に落ちたのならそれが小さいものであっても観測されるはずだからね。今考えてみると、落ちてきたのが奴らなんだから、わかりっこないんだろうけど」
「じゃあ、何であいつはそこに行こうとしたんだ?」
「本人によると”呼ばれたから”らしいわ。まぁ、私が彼に会った時にはもう彼はあれに取り込まれた後だったから真相はわからないけど」
「”呼ばれた”、か……」
 そう言って貴明は資料から目を離した。
 何となくだが、わかるような気がする。確かに彼は、岸田は呼ばれたのだろう。例の、あの悪意ある青い光に。彼はきっと選ばれたのだ、青い光の依り代として。あの青い光の中にいる邪悪な意思に、この地球上で自由に活動する為の肉体として。
「ところでどうしてあんたらはあいつを拘束したんだ?」
「彼の船が出ていったまま何日も戻ってこないと言う連絡があってね。海上保安庁が捜索していたのよ。で発見された時にはもう彼の身体は変貌を始めていた。それで急遽私たちが呼ばれたってわけ」
 貴明の質問にあっさりと答える志乃。だが、貴明は何となくだがそれだけではないような気がしていた。
 いくら変貌を始めていたとは言え、普通ならばまず病院などで検査を行うべきではないのだろうか。にもかかわらず岸田はいきなり防衛軍特殊生物対応特別研究機関によって拘束されている。何かその辺に裏がありそうな気がしたが、志乃が話してくれるとは思えなかった。
「後はあの時ビデオで見せてあげた通りよ。彼は初めは従順だったけど、段々凶暴化していった。そしてあの惨劇が起きた……」
 その時のことをまた思い出したのか志乃は急に青ざめ、そして両腕で自分の身体を抱きしめるようにしてその身を震わせた。
「従順だったのは多分あれだろうな。馴染むのを待っていたんだ」
 貴明がそう言ったので志乃が顔を上げて彼を見た。どう言うことなのかと尋ねたいらしい。それがわかったから先に口を開く。
「取り込んだからっていきなりその身体を自由自在に動かせるわけがない。だからまずはじっくりと馴染ませたんだ。自分の思うように動けるように……」
 口でそう言いながら貴明は何故そんなことがわかるのか自分でも疑問だった。まるで自分ではない別の誰かの知識を引き出している、そう言った違和感のようなものを感じている。おそらくそれは、自分が、自分の中にいるであろう何かとの本格的な融合が始まっているからだろう。
(俺も……同じだ……)
 そう思いながら拳をギュッと握り込む。今こうして自分の意志で拳を握ったが、果たしてこれは本当に自分の意志なのだろうか。実際にはもう自分ではない別の何かの意思によって自分は動かされているだけなのではないだろうか。そう言う不安が心の中にある。
 しかし、あの光の巨人は――何処かわからない空間で対峙したあの光の巨人は貴明を取り込んだことに対して遺憾の意思を持っていた。出来ることならば貴明を巻き込みたくはなかったという意思表示をしていた。貴明を取り込んだのは彼が恐竜人間によって殺されたから。貴明を助ける為に赤い光は、赤い光としてこの地球にやってきた光の巨人は貴明を取り込んだのだ。
(あの巨人は……敵じゃない……)
 少なくても光の巨人に人類に敵対する意思はないはずだ。あくまでこれは貴明の主観に過ぎないのだが、彼はそう確信している。
 だが、あの巨人の意思は時に貴明の意思を凌駕し、彼の身体を突き動かす。特にあの怪物達を前にした時はその傾向が強い。おそらくはあの怪物達を倒さなければならないと言う光の巨人の使命感がそれを為させているのであろう。もっとも身体を使われている貴明としては、それはたまったものではないのだが。
 いずれにしろ、巨人の意思はどうあれ徐々に貴明自身が光の巨人と融合しつつあるのは事実だ。完全に融合してしまった場合自分はどうなってしまうのか。河野貴明という人格は消えてしまうのか、それとも。それを考えると気が狂いそうなくらい怖かった。
(……あいつも……あいつはどうなんだ……?)
 ふと自分をあの岸田という男と置き換えてみる。”呼ばれた”と発言したのは取り込まれた後の岸田。志乃の言う通りその真相は今となっては不明だ。もしかしたら岸田も自分の意思とは関係無しに取り込まれ、そして自分が消えてしまう恐怖に戦いているのではないだろうか。青い光の中にいる邪悪な意思は恐怖を喰らう。自らが生み出す恐怖を自ら喰らい、成長する。恐怖し続ける限り青い光の成長は止まらない。
(奴を倒すには……奴の中からあの岸田という男を取り出せばいいんじゃないか?)
 何せ根本にエネルギーを供給し続けている存在があるのだ、今のままでは戦っても勝ち目は薄いだろう。貴明の中には奴に対する恐怖が今だ根付いているし、戦いそのものに対する恐怖もある。そこに自分が消えてしまうかも知れないと言う恐怖を重ねて奴と対峙すれば、奴にエネルギーを与えるだけになってしまう。しかし邪悪な青い光と岸田を分離することが出来れば、青い光が強力な力を持っていたとしても何とか倒すことが出来るはず。エネルギーの供給を絶つことがでいれば勝機は見えてくるはずだ。完全に融合しきっていないのならばそれは不可能ではないかも知れない。
(戦う前に何とか……奴を説得出来れば……)
 そこまで考えて、不意に貴明は目眩を感じた。手に持っていた岸田の資料が床の上に落ちる。
「ど、どうしたの?」
 貴明の様子が急におかしくなったことに気付いた志乃が驚きの声をあげる。
「な、何でもない……少し疲れただけ。多分病み上がりだからまだ本調子じゃないんだ」
 無理矢理顔に笑みを浮かべて貴明はそう言うと、身体を倒した。そして目を閉じ、大きく息を吐く。
「そうね、今は休んでおいた方がいいわ。いずれ奴が発見されたら嫌でも……」
「わかってる」
「それじゃ私も失礼させて貰うわ。何かあったら呼んでちょうだい」
 志乃はそう言って立ち上がり、その部屋から静かに出ていった。目を閉じていた貴明は気付かなかったが、その時の彼女の顔はひどく悲しげな、まるで哀れんでいるような表情を浮かべていた。

 部屋を出た志乃はドアを閉じると小さくため息をついた。
 そこに彼女と同じように白衣を着た男が近付いてくる。
「折原主任、例の彼の詳細なデータが出ました」
 そう言って男が手に持っていたバインダーを彼女に手渡した。そのバインダーに挟まれている紙に書かれているものを見て、志乃はまたため息をついた。
「主任の想像通りでしたね。彼の身体のバイタルサイン、そのどれもが基準値を大きく下回っています。はっきり言ってしまえば今ああやって生きていられるのが不思議な程で」
 そっと貴明のいる部屋のドアを見る白衣の男。心配している様子はない。どちらかと言えば実験動物でも見るような感じの目で。
「おそらくは彼の中にいるあれが彼を生かしているんでしょうねぇ。死なれたら意味ありませんし」
「君の推測は聞いていないわ。こんなところで無駄口を聞いている暇があるなら早く戻りなさい」
 まだ何か喋ろうとしていた男を軽く睨み付けて黙らせると志乃は部屋から離れるように歩き出した。出来ることなら貴明にはこの話を聞かせたくはなかった。男の声はそれほど大きくはなかったが、中にいる貴明の耳に届かないと言う保証はない。それに彼のモチベーションを下げたくはなかった。まだ戦うつもりの彼に「いつ死んでもおかしくない身体」だと告げて彼のやる気を殺ぐ必要はない。
 しかし、実際のところ確かに貴明の身体は死にかけている。これまでの三度の戦闘で彼の身体は疲弊しきっている。一回の変身で消費される彼の体力は並大抵のものではない。そこに受けたダメージが重なり、もはや彼の身体はボロボロと言っても差し支えない状態だ。今度例の怪獣が現れ、再び貴明が変身して立ち向かったとして満足に戦えるかどうかは激しく疑問だった。
(もう彼には頼れないと思った方がいいわね。何とか……あれを早く完成させないと)
 そう思うと自然と志乃の足が速くなっていた。いつ例の怪獣が現れ、暴れ出すかわからない。事態は一刻を争う。例の怪獣に対して友好的な手段を考えるべきなのは他の誰でもない自分たち特殊生物対応特別研究機関だ。焦りにも似た感情が彼女を突き動かす。
 その所為か、彼女は角を曲がってきた女性に気付かず、思い切りぶつかってしまう。
「きゃっ!」
「うわぁっ!!」
 全く同じタイミングで倒れる二人。
「大丈夫ですか、主任?」
 白衣の男がそう言って志乃の方に手を伸ばす。
「私より先に彼女を……って明乃!?」
 差し出された手をやんわりと断りながら志乃が自分とぶつかった女性の方を見て、驚きの声をあげた。どうやら自分と同じように尻餅をついている女性のことを知っているらしい。
「アタタタ……お母さん!?」
 ぶつけたお尻の痛みに顔をしかめていた女性も志乃の方を見て驚きの声をあげている。二人が声をあげたのはほぼ同時だった。
「おや……主任のお嬢さんで?」
 白衣の男も少し驚いたような顔をして志乃の方を見た。ちなみに彼の手は志乃に言われた通り女性――折原明乃の方にさしのべられていた。
 男の手を借りながら立ち上がる明乃。その間に志乃の方も立ち上がっている。
「一体どうしたの? 病院なんかあなたには用のない場所でしょう?」
 そう言った志乃の声には少し咎めるような響きが含まれている。
「それにここは防衛軍の病院よ。ただの病気とかなら普通の病院に行けばいいって……」
「ちょ、ちょっと、お母さん、話を聞いてよ。ここに来たのはお見舞いだよ。恭ちゃんが怪我して入院してるって聞いたから」
 このまま説教を始めそうな志乃に慌てて明乃がここにいる理由を説明した。
「恭ちゃん……ああ、恭介君か。そう言えばそんな話を何処かで聞いたわね」
「ひどいなぁ。恭ちゃん、お母さんと同じ基地にいたんだよ。何か大きな怪獣みたいなのから人を助けようとして怪我したって」
「明乃。その話、誰から聞いたの?」
「え?」
 急に志乃の顔が険しくなったのに気付いた明乃が戸惑ったような表情を見せる。
「その怪獣の話よ。誰から聞いたの?」
「えっと、恭ちゃんから……よくあの場でこの程度の怪我で済んだって笑ってたんだけど……」
 恐る恐る、まるで相手の機嫌を伺うようにしながら明乃が言った。
 それを聞いて志乃が小さくため息を漏らし、それから顔をしかめて娘の方を見る。
「そう……このことは他の人に言っちゃダメよ。恭介君にも言っておきなさい」
「う、うん、わかった……」
 いつも以上に厳しい表情の母親に驚きと同時に何か怖いものを感じてしまった明乃は小さく頷くのが精一杯だった。
 明乃が頷いたのを見て満足したのか、志乃も小さく頷くと後ろに立っていた白衣の男を引き連れて歩き出した。その場で立ちつくしている明乃にはもう目もくれない。結局志乃は一度も明乃の方を振り返ることもなく、そのまま歩き去ってしまった。
「……まぁ、いつものお母さんらしいと言えばそうだけど」
 去っていった母の後ろ姿を見送りながら呟く明乃。
 子供の頃からいつも仕事仕事であまり構って貰った記憶がない。ろくに会話だってしない日もある。しかし、それでもああ言う厳しい表情を見せたことはあまりなかった。明乃に対しては何とか優しい母であろうとしていたのだろう。同時に普段構ってあげられないと言うことを気に病んでいたのかも知れない。さっきは変に険しい顔をしていたが、それは仕事中だったからだろう。たまに家に仕事を持って帰ってくることがあったが、そう言う時は大抵今のような険しい顔をしていたからだ。
 とりあえずそう解釈した明乃は目的の病室に向かって歩き出した。だが、すぐに足を止め、先ほど母親がやってきた方の廊下を振り返る。
「……?」
 何となく人の気配のようなものを感じたのだが、そこには誰もいない。首を傾げつつ明乃はまた歩き出した。
 
 彼女が去っていったその直後、廊下の突き当たりにあるドアがゆっくりと開いた。その中から壁にもたれるようにして貴明が出てくる。そうしていないと立っていられないのだ。
 それほどまでに自分の体が弱っているとは彼自身思っていなかったのだろう。顔には少しの驚きと自嘲のような笑みが浮かんでいる。
「やれやれ……冗談じゃないだろうとは思ってたけど、まさかマジだとは」
 そう呟いてから貴明は一歩踏み出そうとして、ふらつき、そのまま倒れてしまう。
「くっ!」
 身体を支えようと手を伸ばしたが、やはり力が入らず、思いきり身体を床に打ち付けてしまい、思わず苦悶の声が口から漏れた。だが、痛みはほとんど感じない。身体を床にぶつけた衝撃を感じただけだ。
(やっぱり……俺はもう死にかけてるのか……)
 痛みをほとんど感じないと言う事実に一瞬呆然となりかける貴明だが、頭を大きく左右に振ってその考えを頭の中から追い出す。そして、力のほとんど入らない腕を使って何とか身体を起き上がらせる。そうするだけでも今の彼にとってはかなりの苦行だった。額に脂汗をかきながら、何とか壁に手をつきつつ立ち上がる貴明。
(まだだ……まだ……死ねない……)
 今度は倒れないように細心の注意をしながら貴明は一歩踏み出した。

「全く大げさなんだよ、どいつもこいつも」
 不機嫌そうな男の声が聞こえてくる。
「入院って言ったって怪我がメインじゃなくって検査がメインだって言ったおいただろ。聞かなかったのか?」
「……そう言えば聞いたような気が」
 少し心許なさそうな女性の声が続けて聞こえてきた。
「全くいつまでたってもお前はおっちょこちょいだな」
「むう〜」
 男の小馬鹿にしたような声に明らかに不満そうな声を返す女性。
「とりあえず車乗ってきたんだろ? 送ってくれよ」
「う〜〜」
 声がどんどん近付いてくるのを貴明はぼんやりとした頭で聞いていた。
 彼がいるのは先ほど志乃が娘である明乃とぶつかったところ。あれから十分以上経っていると言うのに彼はそこまでしか進めていない。だが、そこまで来て彼はまるで力尽きたように壁に背を預けて座り込んでしまっていた。額に大粒の脂汗を浮かべ、肩を大きく上下させて荒い呼吸を何とか整えようとする。
(見つかったら……まずい……)
 そう思うが身体は言うことを聞こうとはしない。立ち上がることすら出来ない。それ以前の問題として身を隠すような場所すらないのだが、そこまで気が回らなかった。ただ、どうにしなければ、と思うだけ。
 おそらく見つかったら確実に部屋に連れ戻されるだろう。次に外に出られる時はおそらく例の怪獣が発見された時。今のこの状態で例の怪獣と戦ったら、確実に命を落とすだろう。勿論ただ死ぬわけには行かないし、殺されてやるわけにも行かない。意地でもあの怪獣を倒さなければならない。それは別に構わないのだが、その前にどうしてもやっておきたいことがあった。その為に、彼は必死に部屋を抜け出してきたのだ。
「ううっ……」
 背を預けている壁に手をつき、何とか立ち上がろうとする。だが、彼の努力よりも先に聞こえていた声の主がその場に到達した。一人は明乃、そしてもう一人の男は貴明の姿を見つけると少し驚いたような顔を見せた。
「ちょっと、君! 大丈夫!?」
 明らかに様子のおかしい貴明を見て明乃が心配そうな顔をして駆け寄ってくる。
「恭ちゃん、誰か人を……」
「待って……お願いだから……人は」
 慌てて後ろに立っている男の方を振り返ろうとした明乃の肩を掴んで貴明は絞り出すような声で言った。
「で、でも……」
「お願いします……」
 一体どうすればいいのだろうと困った顔をする明乃。素人目に見ても貴明の様子がおかしいのは明らかだ。本当ならば医師なり看護士なりを呼ぶべきなのだろうが、それを当の本人が拒否している。しかもその目はかなり真剣だ。何やら思い詰めているような感じですらある。
「恭ちゃん……」
 自分では手に負えないと思ったのか明乃は後ろにいる男の顔を見た。男は少しの間無言で貴明を見ていたが、やがて小さく頷いて口の端を歪めて笑った。
「何か事情がありそうだな。いいぜ。お前には借りがあることだしな」

 今いる建物が病院であると言うことは何となくわかっていたが、それが防衛軍の病院だとは流石に思っていなかった。いや、考えてみればそれが当然だろう。今の貴明を一般の病院なんかに搬送するはずがない。何となくそう思わなかったのは明乃のようなごく普通の一般人がいたからかも知れない。
「しかし、お前本当に大丈夫なんだろうな? 連れてる途中で死なれたりしたらやだぜ」
 貴明に肩を貸している男がそう言って彼を見る。
「だ、大丈夫だよ……俺はまだ死ねないんだ……だから大丈夫」
 口ではそう言うが、見た目からして今の貴明はとてもではないが大丈夫そうには見えなかった。それこそいつ死んでもおかしくないような、そんな状態に見えるのだ。だが、それでも男は貴明の言葉を信じた。
「……明乃が上手くやってくれたらいいんだけどな。あいつどっかぬけてるからな」
 ぼそりと呟いて男はこの病院の裏口となっているドアの方を見やった。
 この男――香月恭介はモグラ怪獣が襲来してきた時、偶然貴明と出会ったあの兵士である。あの時、貴明を助けようとして瓦礫に足を挟まれ動けなくなったのだが、幸いなことに貴明が初めて巨人になった時に彼の足を挟んでいた瓦礫が巨人の身体の一部となり、あの場から脱出することに成功していた。更に運のいいことに彼の足は捻挫と打ち身程度の怪我しか負っておらず、それでもこうして防衛軍の病院で入院していたのはモグラ怪獣に対して使用された特殊カプセル弾の影響が彼にないかどうかを検査する為であった。もっともそれは杞憂に過ぎず、彼はこの日退院することになっていた。
(しかし、こいつとまた会うことになるとはな)
 正直に言えばあの時目の前で巨人に変身した貴明を見て、ある種の恐れのようなものを感じたのは確かだった。ただの少年だと、あの場にいるのが何かの間違いだと思ったはずの少年がいきなり巨人に変身し、基地を襲った怪獣を撃退したのだ。ただの人間にそんなことが出来るはずがない。明らかに異質だ。そんな彼に対して恐怖に似た感情を抱いても不思議はないだろう。
 だが、恭介は再び出会った貴明を見ても不思議と恐怖心のようなものは覚えなかった。貴明が変身した巨人が自分の命を救ったという事実もあるが、それ以上に彼が最後まで自分を助けようとしてくれていたからだ。自身も危ないというのにそれでも自分のことよりも恭介の身を案じてくれた少年。とてもではないが彼が自分たちに危害を加えるようには思えなかった。それに今の彼の様子では、仮にいきなり暴れ出したとしても恭介一人でも制圧出来るだろう。
(まぁ、この状態じゃ暴れ出すことはないだろうが……)
 恭介の肩を借りながら貴明は相変わらず荒い呼吸を繰り返している。まともに歩くことすらままならないこの状態でどうして暴れることが出来ようか。
(しかし、こいつ……何をやろうって言うんだ?)
 辛そうな様子の貴明の顔をチラリと見て、恭介は考える。
 命を助けられた借りがある、と勝手に思っている恭介はその借りを返す為に貴明の言うままに彼を病院から連れ出そうとしている。
 さっき貴明を見つけた時、彼はただ誰にも言わないでくれと頼んだだけだった。その後、再び歩き出そうとしたがすぐに倒れてしまう彼を見て明乃と恭介は彼に手を貸すことを即座に決めた。明乃は貴明を見ていられなかったのだろう。恭介の方は理由を語るまでもない。初めは固辞していた貴明だが、その体調で一人で病院から抜け出すことが難しいと説得され 、渋々ながら二人の協力を受け入れることとなった。それでもこの病院から抜け出すことを手助けしくれるだけでいいと、それ以上の協力はいらないと貴明は二人に釘を刺している。二人をこれ以上巻き込みたくなかったからだ。二人もそれがわかったのか、何も言わずに今貴明を病院から連れ出すべく奔走している。
 ただ貴明一人をこの防衛軍の病院の外に連れ出すだけのこと、初めは簡単なことだと思ったが実際にやろうとしてみると予想外の障害が待ち受けていた。まるでVIPでも入院しているかのように物凄い警備が病院内に施されていたのだ。おまけに警備をしている連中が持っているものは対人用とは思えない程の重装備。恭介は知らなかったが、これは意識不明で眠っている貴明を狙って例の怪物が現れた時用の措置である。もっとも知らなければ単なる障害以外の何者でもない。
 それでも何とか裏口の方まで見つからずに辿り着き、後は外の駐車場に止めてある車を明乃が持ってくればとりあえずはこのミッションは終了なのだが、何となく恭介は嫌な予感がしていた。上手く行きすぎている。だから余計にそう感じるのだろうか。
 と、そんな事を考えていると、裏口のドアの向こうに一台の車が止まるのが見えた。考えるまでもなく明乃だろう。実際に明乃が車から降りてきて裏口のドアを開いてくれた。
「恭ちゃん」
 小さい声で恭介達を呼び、手招きをする明乃。
「よし。いけるな?」
 明乃の姿を確認した後、恭介はチラリと貴明の方を見た。相変わらず息は荒いが、それでも貴明は恭介の方を見返してコクリと頷いてみせる。
「後少しだ。行くぜ」
 そう言って歩き出す恭介。だが、その時だ。いきなり病院中にサイレンが鳴り響く。
「どうやらお前さんがいないって事がばれたらしいな。急ぐぞ!」
 まるで貴明の身体を持ち上げるようにして恭介が歩みを早めた。
 貴明が病室にいないと言うことが知れればすぐに建物の表口と裏口が封鎖されるだろう。仮に建物の外に出られたとしても敷地の外に出られなければ意味がない。事態は一刻を争う。ほとんど歩けない状態の貴明は荷物に他ならない。これならば彼の身体を抱えて自分が走った方が早いと恭介は考えたのだ。
 裏口のドアを開け、外に出た恭介は明乃が開けておいた後部座席に貴明の身体を投げ込むようにして押し込むと大急ぎで運転席の方に回った。
「恭ちゃん!?」
「お前は助手席!」
 驚いている明乃を運転席から引っ張り出し、そう指示すると同時に自分は運転席に潜り込む。戸惑いながらも何とか助手席の方に回ってくる明乃の身体ごしに恭介は武装した兵士達が裏口へと続く廊下に飛び出してくるのが見えた。
「急げ、明乃!」
 助手席のドアを開けるのに何故か手間取っている明乃に向かって恭介が怒鳴りつける。その間に兵士達はこちらに向かって持っていたアサルトライフルを構えだした。どうやら発砲してでもこちらを止めるつもりらしい。
「本気か、あいつら!?」
 驚きの声をあげる恭介。まさか同じ防衛軍の仲間から銃を向けられるとは思いも寄らないことだった。
 そんなところにようやく明乃が滑り込んでくる。それを見ると同時に恭介は思いきりアクセルを踏んだ。物凄い速さで車が急発進する。
「きゃあ!!」
 明乃が悲鳴を上げるがそれに構っている暇はなかった。ドアミラーごしに兵士達が外に出てきてこちらに銃を向けているのを見たからだ。
「明乃、黙ってろ! 舌噛むぞ! それとシートベルトしておけ!」
 怒鳴りつけるようにそう言って恭介はハンドルを大きく回し、車を強引にカーブさせる。片輪が宙に浮き、再び明乃が悲鳴を上げるが、聞いている余裕はない。前方に見えてきた裏門のゲートが閉じられようとしていたからだ。
「どけどけどけー!!」
 叫びながら更にアクセルを踏み込む恭介。
 その声が届いたわけでもないのだろうが、ゲートを閉じようとしていた警備員が突っ込んでくる車の方を振り返って硬直した。その為に手動式のゲートが車一台分が何とか通れそうな程の隙間を残して停止する。
 かなりギリギリの隙間ではあったが恭介はそこに一切スピードを落とさずに突っ込んでいく。
「ひぃぃぃぃっ!!」
 明乃が引きつった声をあげたが、やはり恭介は無視する。
 ガシャンと言う音と共に運転席側のドアミラーが吹っ飛んでいくが、何とか車自体は無事にゲートを通り抜けた。そしてそのまま通りに向かって走り去っていく。少し遅れて兵士達がゲートの外に出てくるが、その時にはもう恭介達の車はかなり遠くに行ってしまっていた。

 ルームミラーで追いかけてくる防衛軍の車両がないことを確認すると恭介はようやく安堵の息を漏らした。
「ハァ……やれやれ、とんだことになったな」
「とんだことになったじゃないよ! やっとローン払い終わったところだったのに……」
 涙目の明乃がそう言って恭介を睨み付ける。おそらくゲートを抜ける際に運転席側のドアミラーを吹っ飛ばしたことを言っているのだろう。
「修理代ぐらいちゃんと出してやるよ。それよりこれからどうするんだ?」
 前半部分は明乃、後半部分は後部座席に座っている貴明に向かって言う恭介。
 貴明はシートにぐったりと背をもたれかけさせ、相変わらず辛そうに呼吸していたが恭介に声をかけられると身体を起こし、申し訳なさそうな顔をして前にいる二人を見た。
「すいません……こんな事をさせるつもりじゃなかったんですけど……」
「あー、それは言うな。俺たちが勝手にやったことなんだ。お前が気にする事じゃない」
「で、でも……」
「気にするなって言ったぞ。まぁ、何とかなるさ。で、これからどうするんだ?」
「気にしなくていいんだよ。まぁ、ちょっと予想外の展開だったけど……後でお母さんに事情を話して何とかして貰うから君は気にしないで」
 恭介と明乃が口々に言うのを貴明は黙って聞いていた。何といい人達なのか。こっちの事情はほとんど話していないと言うのに、それでもこうして自分の為に頑張ってくれている。やはりこれ以上この人達を巻き込んではいけない。その為に自分に何が出来るのか。そう考えたあげく、貴明はある結論に辿り着いた。
「……すいません。とりあえず電話、貸して貰えませんか?」
「私のでいいかな?」
「お願いします」
 ごそごそと自分の鞄の中から携帯電話を取り出す明乃。年頃の女性らしく淡いピンク色のかわいらしいデザインのその携帯電話を後部座席にいる貴明の方に手渡す。
「えっと、出来ればメールとかは見ないで欲しいんだけど、いいかな?」
「わかってますよ。電話さえ出来ればいいんですから」
 やはり女性らしい明乃のお願いに貴明は笑みを浮かべてそう答え、記憶の底からとある電話番号を引っ張り出す。普段は自分の携帯電話に登録している電話帳から番号を呼び出してかけているのだが、この番号に限っては滅多に使わないのではっきり言って思い出せるかどうか疑問であった。少々不安ではあったが、とりあえず思い出した番号を打ち込んでいく。番号を全て打ち込み終えると、貴明は一呼吸おいてから通話ボタンを押した。
 四、五回の呼び出し音の後、ようやく相手が電話に出る。
『柚原だが……』
「おじさん? 貴明です」
『貴明君!? 一体今どこに……』
 見たこともない電話番号からだった所為か、初めは警戒していたような感じの柚原の声だったがかけてきたのが貴明と知るととたんに声量が大きくなる。どうやら彼も貴明が病院からいなくなったことを知らされ、心配していたらしい。少し安堵したような感じもその声の中に含まれていた。
「勝手にいなくなってすいません。でも俺にはもうあまり時間が残ってないから……少しでいいから俺に時間をください。奴が出たら絶対に駆けつけます。それを信じてください」
『……君の身体のことは折原君から聞いた。君も彼女から?』
 柚原の声のトーンが少し下がったのはおそらく貴明の気のせいではないだろう。
 貴明の体調はもはや最悪を通り越している。それこそいつ死んでもおかしくない程に。今までも、まるで自分の息子のように貴明のことを気遣ってくれていた柚原がそれを聞けば冷静ではいられないだろう。それでも彼は今回の件に関しては最高責任者と言っていい立場にいる。あえて自分の感情を押し殺さねばならない立場にいるのだ。だから努めて冷静でしようとしているのであろう事が伺えた。
「いえ、立ち話をしているのを耳にしただけです。だけど、それを聞いて良かったと思いますよ。まだやり残したことがあったから踏ん切りが尽きましたし」
『わかった。君のことを信じよう』
「ありがとうございます。それでおじさんにいくつかお願いがあるんですがいいですか?」
『私は君にちょっとやそっとでは返せない程の借りを作っている。嫌とは言えんよ』
「……まずは俺を病院から連れ出すのに手を貸してくれた人がいるんですが、この人達には何の罪もありません。その辺、お願いします」
『わかった。私の権限で何とかしよう。で、誰と誰だね? 二人いると聞いているが』
 柚原に言われて貴明はその時初めて自分を連れだしてくれた二人の名前をまだ聞いていないことを思い出した。慌てて通話口を手で押さえて前の二人に声をかける。
「すいません……あの、名前、教えて貰えますか?」
 貴明の、やや間抜けとも言える質問に思わず恭介が声をあげて笑い出した。
「恭ちゃん、笑ってる場合じゃないでしょ。彼、私たちのことをお願いしてくれてるんだから」
「ああ、悪い悪い。そういやお前の名前も聞いてなかったよな。俺は香月恭介。こいつは折原明乃」
 明乃にたしなめられる恭介だが、まだ笑みは殺し切れていないらしい。笑うのを堪えるようにして自分の名前と隣にいる明乃の名前を貴明に伝える。
「ありがとうございます。俺は河野貴明。これでいいですよね、自己紹介は?」
「ああ、結構だ。なぁ、明乃?」
「うん、そうだね」
 二人のやりとりを聞いてから貴明は電話の向こうの柚原に二人の名を告げる。
『香月恭介と折原明乃だな。わかった。で、次は何かね?』
「おじさん、おじさんにこのお願いをするのは申し訳ないんだけど、お願いします。このみとかタマ姉には俺はもう死んだって言っておいてください」
『…………いいのかね、それで?』
 少しの沈黙の後、柚原が尋ねてくる。
 彼もこのみの父親で、娘であるこのみが貴明に対してどう言う思いを抱いているかは知っている。タマ姉こと環が貴明に対してどう言う感情を抱いているかもわかっているだろう。だからこそ、それでいいのかを貴明に尋ねたのだ。
「構いません。どっちにしても俺はいなくなる。早いか遅いかの違いです」
 柚原の問いに貴明はあっさりと答えた。
 あの怪物と戦い、例え勝ったとしてもこの身体はもう長くはないだろう。待っている結末は同じだ。ならば少しでも早くそれを教えて、少しでも早く立ち直って欲しかった。あの二人にいつまでも悲しんでいて欲しくはない。早く立ち直って自分の人生を生きて欲しい。それは偽らざる貴明の本音だった。
『わかった。君がそう言うのならそう伝えよう。だが、きっと二人は信じないぞ?』
「そうでしょうね。でも、そう言い張ってください。俺はもう……特にあの二人の前に出ることはないはずですから」
 そう言って貴明は自嘲する。
 残されている時間は限られている。やらなければならないことはいくつかあるのだが、その中にこのみや環と会って話をするという選択肢は今の貴明の中にはなかった。二人には確かに悪いと思うのだが、そうするより仕方ないと思っていた。
『……で、他には?』
「いえ、とりあえず主だったところはそんなものです。すいません、わがまま言っちゃって」
『構わないよ。ああ、そうだ。君を追いかけている連中がいるんだが引き上げさせた方がいいかね?』
「出来ればそうして欲しいんですが、そうもいかないと思いますから。何とか上手く誤魔化してください」
『出来る範囲でやってみよう。君への連絡はこの番号でいいのかね?』
「これは借り物ですから……」
「いいよ、使ってくれて」
 会話を聞くとも無しに聞いていたらしい明乃が振り返ってそう言う。
「後で返してくれたらいいから」
「ありがとうございます、折原さん。おじさん、この番号でお願いします」
『わかった。貴明君、こんな事を言うのも何だが……身体には気をつけてくれたまえ』
「はい。それじゃ……」
 そう言って貴明は通話終了のボタンを押した。
「少しは元気になってきたようじゃねぇか。その様子だと……」
「河野くんっ!?」
 声だけを聞いていた恭介は気付けなかったが振り返っていた明乃は貴明がその手から携帯電話を取り落とした瞬間を見ていた。だから思わず悲鳴のような声をあげてしまったのだ。
「おい、どうした!?」
 慌てて車を止めて恭介も後部座席を振り返る。
 貴明は再びシートに背を預け、辛そうな呼吸をしていた。どうやら先ほどまでは必死に自身の体調の悪さを隠していたらしい。その反動が出たのか、今の彼は非常に苦しそうに見えた。
「大丈夫か、河野!?」
「だ、大丈夫……だけど……ゴメン、少し休ませて……」
 そう言って貴明は目を閉じた。そのまま彼はすぐに意識を失ってしまったかのように眠ってしまう。
「……寝ちゃったみたい。相当無理していたみたいだね、彼」
 眠ってしまった貴明を見て明乃がそう言った。
「今の間に俺たちも少し休んでおくか。明乃、腹減ってないか?」
「何となくそれどころじゃない気がしないでもないけど?」
「腹が減っては戦は出来ぬって言うだろ。コンビニ見つけたらそこで止めるから何か買ってこい」
 恭介はそう言うと再びアクセルを踏み、車を動かし始めた。
「あ、雨……」
 ぽつりぽつりとフロントガラスに水滴が当たるをの見て明乃が呟く。その水滴の量が増え、本格的な雨になるのにそう時間はかからなかった。

 降り出した雨はすぐに本降りとなり、周囲を霧が包み込んでいく。
「あーあ、遂に降り出してきたな」
 テントの中にいた兵士の一人が降りだした雨を見上げて呟いた。
「おまけに霧まで出てきやがった……あー、やだやだ」
 レインコート代わりのポンチョを着ながら別の兵士が言う。
 彼らがいるのは例の木の怪物が巨人の手によって倒された現場である。巨人の赤い光刃を受け、真っ二つになり炎上した木の怪物の燃えカスがそこにはまるで何かのオブジェのように鎮座していた。
 今、この現場にいるのは防衛軍特殊生物対応特別研究機関の研究員と彼らを警護する役目の兵士達が数名だけ。研究員達は勿論、木の怪物の燃えカスから何らかの情報を得る為にこの場に来ているのだが、この突然降り出した雨でその調査も中断されていた。
「しかしまぁ、こっちに回されて助かったって言うのもあるよな。もしもあっちに回されていたら命がいくつあっても足りないぜ」
「そりゃそうだ」
 彼らの言う「あっち」とは今も行方をくらませている恐竜人間、コードネーム”スペード”の捜索部隊のことだろう。コードネーム”スペード”はたった一体でこの近くにある基地を壊滅状態に陥らせている。基地防衛隊の方にもおびただしい数の犠牲者が出たという話だ。捜索部隊の方に回され、もし”スペード”を発見でもしたらそこで交戦状態に陥り、下手をすれば新たな犠牲者になってしまうだろう。そうなるよりは退屈極まりない研究員達の護衛に回されている方が遙かにマシだった。誰だって好き好んで死地に赴きたくはないのだ。今会話しているこの二人は特にその傾向が強いのだろう。
「さてと、それじゃ行きますか」
 レインコート代わりのポンチョを着た兵士達がそれぞれヘルメットを被り、テントの外に出る。
 例の木の怪物の燃えカスに一般人が近付かないように警備をするのも彼らの仕事のうちだ。それは雨が降ろうと関係ない。
 降りしきる雨に閉口しながら二人の兵士が木の怪物の燃えカスの方へと向かっていると、そのやや前方の地面がいきなり盛り上がり、そこから何やら手のようなものが生えてきた。
「!?」
 あまりにもそれは突然だったので二人の兵士が一瞬虚にとられてしまう。だが、すぐに我に返って持っていた銃を構えようとするが、それよりも早く土の中から何かが飛び出し、兵士達の首を鋭い爪でかき切った。
「やれやれ、少し目測を誤ったか」
 今かき切った兵士達の血で濡れた爪を舌で舐めながら、その男はつまらなさそうに呟いた。それから舐めとった血を不味そうに吐き出し、前方にそびえ立つ木の怪物の燃えカスを見上げる。
「お前の力も俺が頂いてやる。なぁに、お前も無念もついでに晴らしてやるさ。あくまでついでだがな」
 そう言ってその男は燃えカスに向かって歩き始める。その姿が徐々に変化し始めた。片腕のない人間のような姿から直立する爬虫類のような姿へ。それは今柚原達防衛軍が必死にその行方を追っている恐竜人間、コードネーム”スペード”こと岸田洋一その人であった。しかし、その姿は以前とは少し違っている。モグラ怪獣を取り込んだ影響なのか身体中のあちこちが水晶のような結晶体に覆われているのだ。
 今回は以前のような巨大な怪獣の姿にならない。意識してその変身の段階を抑えているようだ。まだ完全に回復しきっていないのがその理由である。失われた左腕もそのままだ。この状態で巨大化して防衛軍に見つかり、戦闘状態になるのはあまりよろしくない。あの巨人が出てきたら、この片腕のない状態では負けないまでも勝つことは容易くないだろう。今はこの木の怪物の燃えカスを自分に吸収して更なるパワーアップを図るべきだ。そうすればあの巨人とて敵ではなくなる。
「フフフ……」
 ニヤニヤ笑いながら岸田は、”スペード”は木の怪物の燃えカスに手をついた。その姿が青い光に包まれ、木の怪物の燃えカスも包み込んでいく。
「フフフ……フハハハハハハハハハ!!」
 降りしきる雨の中、岸田の、”スペード”の笑い声だけが響き渡る。

 降りしきる雨を窓の外に柚原は誰もいないベッドをじっと見つめていた。
「柚原一佐」
 後ろから声をかけられ、柚原が振り返ると、いつ入ってきたのかそこには志乃が申し訳なさそうな顔をして立っていた。
「申し訳ありません。うちの馬鹿娘がご迷惑をかけたみたいで」
 そう言って志乃が深々と頭を下げる。
「ああ、いや、構わんよ。それに貴明君の方から頼んだらしいからな」
「そちらの件でもやはり謝らなければなりません。彼の五感は普通の人間以上に強化されていたのを知っていながら……迂闊でした」
「……どっちにしろいつかは伝えなければならなかったことだ。早いか遅いか、それだけのことだよ。それほど気にすることじゃない」
 志乃が言っているのは貴明の身体が死にかけていると言うことを、彼がいる部屋の前で別の研究員と話していたことなのだろう。貴明は前に木の怪物が現れた時、遙か上空でこのみの悲鳴を聞いたと言っていた。それを考えれば部屋の前、たかが扉一枚隔てたところでその話をしたのは迂闊と言わざるを得ない。
 だが、貴明はこの話を聞けてよかったと言っていた。どうせいつか誰かが伝えなければならない話だったのだ。そのような役割を誰も演じることがなかったと言うのはある意味よかったのかも知れない。だから柚原はそう言ったのだが。
「お気遣いありがとうございます。ですが……我々には彼の体の調子をその、”スペード”でしたっけ? 例の怪物が再び現れるまでに少しでも良いようにしてあげる必要があったんです」
「例の薬品の改良が思うようにいってないのかね?」
「いえ、そちらは順調ですが……奴はこっちの思う以上の速さで進化しています。改良した薬品が通用しない可能性もありますから」
「あまり貴明君に頼りたくはないな。彼はあくまで一般人だ。あのような怪物と戦う役目は本来我々にある」
「全く情けない話ですわ。ですが例の怪物が宇宙から来た存在であるのなら同じ宇宙から来た存在と一体化している彼こそが」
「何とか……切り離せないのかね? その、宇宙から来た何者かと貴明君とを」
「それは全てが終わってから、のお話ですわ、一佐。おそらくですが今彼にその話を持ちかけても彼自身が辞退するでしょう。あの怪物、”スペード”を倒すまでは」
 果たしてそれが彼自身の意思かどうかは疑問だが、と言う言葉を志乃は飲み込んでいた。貴明の中にいる存在、コードネーム”ハーツ”と呼ばれる存在は”スペード”を倒すことを何よりも最優先にしているのだろう。だからこそ重傷を負っている貴明の身体を使ってあの時も立ち向かったのだ。
 柚原もそれがわかったのか黙り込んだ。
 少しの沈黙、それを打ち破ったのはドアをノックする音だった。
「柚原一佐、よろしいでしょうか?」
「どうした?」
「はい、一佐の奥さんとお嬢さんがお見えになっておりますが……」
「……わかった。すぐに行く」
 ドアの向こうにいるのであろう彼の部下に向かってそう言い、柚原は苦笑を浮かべた。
「やれやれ、いつかは来ると思っていたが予想以上に早かったな」
 呟くようにそう言い、柚原が部屋を出ていく。

 ドアの外で待っていた部下に案内されて柚原が向かった先は談話室のようなところだった。そこで彼が来るのを待ち受けていたのは彼の妻である春夏、娘であるこのみ、そして向坂環と雄二の姉弟である。不安そうな顔をしているこのみや環と違って春夏はいつにもまして不機嫌そうな顔をしているのはおそらく彼の気のせいではないだろう。出来ることなら気のせいであって欲しいのだが。
「……待たせたかな」
 そう言って春夏達の正面に腰を下ろす。
「ええ、待ちましたわ。取り次いで貰うのにどれだけ時間がかかったか」
 開口一番、春夏の嫌味が飛び出したので柚原は苦笑を浮かべた。
「それは仕方ないだろう。今起きている事件のことを考えればこうしてお前達と会っていること自体ある種問題だろうからな」
「あら、妻が夫に会いに来るのがそれほど問題なのかしら?」
「春夏。お前もこのみや環君から聞いているだろう。あまり無茶を言わんでくれ」
 柚原が困ったようにそう言ったので春夏は黙り込んだ。ただ、じっと彼の方を睨み付けている。その代わりと言っては何だが、このみがぐっと身を乗り出した。
「お父さん、聞きたいことがあるの」
 やはり来たな、と思いながら柚原は娘の方を見る。
「タカ君は? タカ君、何処にいるの?」
「おじさま、教えてください。タカ坊は無事なんですか?」
 このみ程ではないが、環も少しだけ身体を前に出しつつ尋ねてくる。
 この二人がこの場にいるのを見た時からこの質問が来ることはわかっていた。二人とも貴明のことを本当に心配しているのだろう、その顔はどことなく憔悴している。そんな二人に対して今から何を言わなければならないのか。それを考えると心苦しくてたまらなくなる。しかも片方は自分の愛娘なのだからより一層だ。
「貴明君は……死んだよ」
 ぼそりと、苦渋の表情を浮かべて呟くように言う柚原。この一言が二人に、いや二人だけではなく、この場にいる人間――春夏や雄二にもどれだけの衝撃を与えるか。おそらくそれをわかっていて自分にこの役目を頼んできた貴明のことを少し恨めしく思わないでもない。だが、これこそ自分の役目であるとも柚原は思っている。貴明の為に何もしてやれず、それどころか彼の力を頼りにする他なかった自分の。
「……う、そ……」
 ようやく、口から出たのはそれだけ。青ざめた表情を浮かべてこのみがそう言ってふらりとよろめきながら椅子に上に腰を下ろした。どちらかと言うと腰を下ろしたのではなく、足から力が抜けて、座り込んでしまったと言う方が正しいかも知れない。
「タカ君が……死んじゃった……?」
「おじさま、まさかあの時の怪我が原因で……?」
 呆然としているこのみに対して今度は環の方が身を乗り出してきた。このみと同じく顔面蒼白になっているが、彼女はどちらかと言うと自分をかばって貴明が怪我をしたことを気にしているらしい。
「あ、ああ。そうだ。あの時の傷が原因となった……」
 少し躊躇いがちに答える柚原。実際には貴明はまだ死んでいない。彼からこのみと環の二人には自分は死んだと言っておいてくれと頼まれたからそう言ったに過ぎず、彼の死因など特に考えてはいなかったのだ。
「そんな……私をかばった所為で……」
 身を乗り出したまま、環が俯く。
「嘘……だよね? タカ君が死んじゃったなんて、嘘だよね、お父さん?」
「いや、事実だ。受け入れなさい、このみ」
 目に大粒の涙を浮かべているこのみに対して心の中で詫びながらも柚原はそう言った。今は確かにまだ生きている貴明だが、いつ死んでもおかしくない状態であることに違いはない。そしておそらく二度と生きて戻ってくることはないだろう。今言うか、後で言うか、それだけの違いだ。
「嘘……嘘だよ……タカ君が死んじゃうなんて……そんなの嘘だよ!!」
 それだけ言ってこのみが机の上に突っ伏して大声で泣き始めた。
 そんな娘から思わず目を逸らせてしまう柚原。と、その視線が妻である春夏とぶつかった。彼女は相変わらず彼をじっと睨み続けている。同時に、彼に本当のことを言えとその視線だけで伝えてもいた。
「話はそれだけか? なら忙しいんだ、これで」
 これ以上この場にいると本当のことを話したくなる。だが、それは貴明の意に反することだろう。今は彼の意思を最優先にしてやりたい。しかし、大声で泣いている愛娘と静かに嗚咽している幼馴染みの少女を前にしているとその決意が挫けそうになる。だから逃げるように柚原は立ち上がった。
「あー、おじさん。ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」
 そう言ったのは今まで無言だった雄二だった。口調はいつもと変わらないどことなく軽薄な感じだが、普段見せないような神妙な顔つきをしている。
「姉貴から聞いたんだけど。俺たちを助けてくれたあの巨人なんだけどさ、あれって本当に貴明だったわけ?」
「悪いがその質問に関してはノーコメントだ。機密事項に関わることなんでな」
 そう言いながら、この答え方では肯定しているようなものだな、と柚原は思っていた。事実雄二は何か納得したように一人頷いている。
「もう質問はないな。ではこれで失礼させて貰う」
 あえて非情にそう言い放ち、柚原は泣いている少女二人をチラリと見てから談話室を後にした。しかし、彼は談話室を出たところですぐに足を止めた。誰かが追いかけてくる足音が聞こえてきたからだ。そして誰が自分を追いかけてきたかもだいたい見当がついていた。
「下手くそな嘘だったわね」
「まぁ、お前にはばれると思っていたよ」
 振り返るとそこには不機嫌そうな顔をした春夏が立っている。
「で、タカ君は?」
「死んだと言ったはずだが?」
「嘘でしょ、それは。何処にいるの?」
「ここにはいない。何処に行ったのか探している最中だよ」
 参ったな、と言う感じで苦笑しながら答える柚原。彼女に対してはどうしても嘘がつけない。ついたとしてもすぐにばれてしまう。
「もっともこれは極秘事項だ。このみ達にも内緒で頼む」
「そうもいかないわよ。タカ君のこと、ちゃんと教えてあげるべきだわ」
「その貴明君が自分からそう言ってくれと頼んできたんだ。私としては彼の意思を優先したい」
「……どう言うこと?」
 春夏の表情が変わる。まさか貴明自身が自分は死んだとこのみ達に伝えて欲しいと柚原に頼んだとは思いも寄らなかったからだ。
「これ以上は機密事項に関わる。私としては関わるな、としか言えないな」
「このみの気持ちはわかっているでしょう、あなたも。あの子、ずっと心配しているわ。生きているのなら教えて。出来るなら会わせてあげて」
「……ここにいないと言うのは事実だ。何処にいるのか捜索中と言うのもな。貴明君はやりたいことがあると言っていた。そしてもうこのみや環君と会うつもりはないともな」
 縋り付くような表情をして言う春夏に対し、柚原は苦渋に満ちた表情で答える。今言ったことは事実だ。もはや貴明は自分の死を覚悟し、受け入れている。このみや環と会えばきっとその決意に揺らぎが生まれる。だからもう会わないと自ら決めたのだ。そして、彼がやりたいことというのはおそらく彼自身の後始末だろう。その為の時間を彼は欲しているに違いない。その邪魔をするつもりは柚原には毛頭なかった。
「……貴明君は……もう帰ってこない。私としても会わせてやりたい気持ちはあるが……多分それは出来ないだろう」
「一体、何が起きているの? この間から何か変よ? タカ君はもう何日も帰ってこない。この間はこのみがどろどろになって、あなたの部下に連れられて帰ってきたし。ここしばらくはあなたも任務任務で家に電話もしてくれないし。何が起きているのよ?」
 春夏のその質問に柚原は無言で答えた。
 今の彼の任務を言うわけにはいかない。それにまさか怪獣が現れました。その怪獣を倒す為の任務に就いていますと言って誰が信じるだろうか。更に貴明の中には宇宙から来た何かがいて彼は怪獣と同じような力を持つ巨人に変身して戦っていますなどと口が裂けても言えるものではない。
「柚原一佐! 大変です!」
 沈黙している二人のところに一人の兵士がやってきた。かなり慌てた様子で、柚原の側に駆け寄ってくると春夏に一礼してから何事かを柚原に耳打ちする。
 それを聞いた柚原の表情が一変した。側にいた春夏が驚く程険しい表情を浮かべてその兵士の方を見返す。
「それは本当か?」
「は、はい! 間違いありません!」
「そうか、遂に来たか。で、その後奴は?」
「再び地中に。ですが追跡用のマーカーを撃ち込んであります」
「わかった。奴が次に何処に現れるかわからん。全部隊に警戒態勢をとらせるように」
「了解しました!」
 兵士が柚原に敬礼してから来た時と同じように駆け足で去っていく。その後ろ姿をやはり険しい表情のまま見送る柚原。
「あなた……?」
「春夏、このみ達を連れて帰るんだ。いや、ここにいた方が安全か……このみも環君もまだ落ち着いてはいないだろう。もう少しここで待っていなさい」
「は、はい」
「それと……この任務は非情に危険な任務だ。もしかしたら、と言うことがあるかも知れない。覚悟はしておいてくれ」
「……わかりました」
 少し悲しげな目をして頷く春夏を見て、柚原は小さく頷き返した。防衛軍に所属している以上、もしかしたら、と言うことはあるかも知れない。以前からそう言う覚悟はしていたはずだ。だが、いざそうするように言うと、どうしようもなく悲しい気持ちになってしまう。
 柚原はそれ以上何も言わず、静かに歩き出した。これからやらなければならないことは山程ある。残された時間はそう多くはないだろう。これからは一分一秒が勝負だ。

 柚原が春夏に問いつめられているのと同じ頃、雄二は何とも言えない居心地の悪さを感じていた。テーブルの上に突っ伏して大声でわんわん泣いているこのみ。俯いたまま静かに嗚咽している環。そんな二人に声をかけるわけにもいかず、それ以前に何と言って声をかければいいかもわからず、ただ見守っていることしか出来ない自分が歯痒い。そして、この状況を生み出す原因となった親友に対して多少の怒りも覚えている。
(あの野郎……どう言うつもりだ?)
 彼は貴明が死んだなどとは一つも思っていない。春夏と同じく柚原の様子からあれが嘘であると見抜いていた。だが、柚原が自分たちに対して何であんな嘘をつく必要があったのかがわからない。考えられる理由はただ一つ、そう言う嘘をつくように貴明自身が柚原に頼んだと言うことぐらい。それにしたって、二人が悲しむと言うことがわかっているのにそう言う嘘をつかせる理由が全くわからなかったし理解も出来なかった。
 勿論、彼は貴明が死にかけていると言うことなど知らないし、彼の周りで何が起きているかも知らない。知っていたところでどうなるものでもないのだが。
 それはともかく、目下のところ雄二はどうすればこの場から上手く逃げられるかを考えていた。泣いている女性、特に片方は自分の実姉だ。下手な慰めは逆効果になりかねない。それならばそっとしておくのが一番なのだが、何となくこの場を離れるタイミングを逸してしまっている。おまけにこの場で何とかしてくれそうな春夏も柚原を追いかけて出て行ってしまっており、助けを期待することも出来ない。
(参ったな〜……何とか……お?)
 春夏が戻ってこないかな、と思って談話室の入り口を見ていると、ポケットの中で携帯電話が震えていることに気がついた。病院と言うことで念のためにマナーモードにしておいたので着信音が鳴ることはない。しかし、二人の側で電話に出るというのもはばかられた。下手をすれば環のアイアンクローが待っている。それにこれはもしかしたらこの場を離れる良い口実になるかも知れない。
 そっと立ち上がり、ポケットから携帯電話を取り出す。
「っと、こんな時に誰だよ……悪い、ちょっと電話出てくるわ」
 聞いているのかどうかわからない姉に向かってそう言い、雄二はそっと泣いている二人の側から離れて談話室の隅の方へと歩いていった。そこで液晶の画面を確認してみると見たこともない電話番号。一体誰だろうと訝しげに思いながら通話ボタンを押してみる。
「もしもし、向坂ですけど?」
『……雄二か?』
「……っ!? おまっ!!」
『静かに! 大声出すなよ』
 驚きのあまり思わず大声を上げそうになった雄二に電話の相手が鋭い声でそれを制止する。
「……やっぱり生きていやがったな、この野郎。柚原のおじさんから死んだって聞かされたけど、俺は信じちゃいなかったぞ」
 姉やこのみに聞こえないように通話口を手で囲みながら小声で話す雄二。
「一体どう言うことだよ? 姉貴もこのみも泣いてるぞ。説明しやがれ、この馬鹿」
『悪いけど今は説明出来ない。一人で出て来れないか?』
「一人? 姉貴達と一緒じゃダメなのか?」
『悪いけどタマ姉やこのみとは会いたくないんだ。お前とだけ会いたい』
「おいおい、愛の告白とかだったらお断りだぜ? 俺はノーマルなんだからな」
『そんな馬鹿話をやっている時間はないんだ。一時間後に”海の見える丘公園”で待ってる。一人で来いよ。タマ姉とかこのみは絶対に連れてくるなよ』
「……わかったよ。”海の見える丘公園”だな?」
『ああ、それじゃ』
 通話を切ったのは向こうの方だった。通話終了ボタンを押し、ため息をつく雄二。
 電話の相手は言うまでもなく貴明だった。会話の間に聞こえてきた荒い呼吸から何か様子が変だとは思ったが、環やこのみに会いたくないと言うのは一体どう言うことか。そして一人で来いと言っていたが、果たして環を出し抜けるのかどうか。相手がこのみ一人ならいくらでも出し抜けるのだが、環がいるとなるとそれはかなり偉業となってしまう。
「簡単に言ってくれるぜ、あの野郎……」
 チラリと環達の方を振り返る。先ほどまでと様子は変わらない。おそらく通話の内容は聞こえていないはずだ。ならば気付かれないようにこの場から出て行くに限る。そう思った雄二がそっと電話室の入り口の方へと歩き出すと、タイミング悪くそこに春夏が戻ってきた。
「あら、ユウ君。どこ行くの?」
 出ていった時とは違って少し消沈したような表情の春夏がそう尋ねてくる。
「あ、ちょ、ちょっとトイレ」
 ちょっと引きつりながらもそう答えた雄二が逃げるように談話室から飛び出していった。
 そんな彼を首を傾げながら見送る春夏。
「そんなに我慢していたのかしら?」
「……おばさま」
 不意に環がそう言って立ち上がった。何時の間に泣きやんだのか、その目にはいつものような輝きが戻ってきている。
「雄二を追いかけて貰えますか?」
「ユウ君を?」
「はい」
 問い返してくる春夏に向かって環は大きく頷いてみせる。それからまだテーブルに突っ伏しているこのみの方を見て、その肩に手をかけた。
「このみも一緒に行きましょう」
「……行くって何処に?」
 涙でグシャグシャになった顔を上げてこのみが環に尋ねる。
「タカ坊のところによ。雄二が案内してくれるわ」
 そう言った環の顔には確信に満ちていた。

 まさか環達に気付かれているとも知らず、雄二は病院の外に出るとすぐにタクシーを捕まえ、約束の場所である”海の見える丘公園”へと向かった。
 公園の前でタクシーから降り、中に入ってこの公園に呼び出した人物の姿を探す。しばらく公園の中を歩き回り、この公園の名の通り海が見渡せる高台のところまで来てようやく彼は目当ての人物の姿を見つけることが出来た。
「早かったな。約束にはまだ十五分ぐらいあるぜ?」
 声をかけてきたのは向こうの方からだった。
「タクシー使ってきたからな。全く予想外の出費だぜ」
 そう答えながら雄二はベンチに座っている貴明の側へと歩いていく。
「今月は色々と買う予定あったのによ。予定が大幅に狂っちまった」
「悪いな、後で埋め合わせするよ」
「ああ、そうしてくれ。で、何から教えてくれるんだ?」
 貴明と同じようにベンチに腰を下ろし、そう尋ねる雄二。
「何から聞きたい?」
「そうだなぁ……まずは何であんな嘘をついたのかってことだな。このみはともかく姉貴がああ言う風に泣いたのって初めて見た気がするぜ」
 そう言いながら雄二は環が静かに嗚咽していた姿を思い出した。あの気丈な姉がああ言う風に泣いたのだ。今、彼の隣にいる男の為に。それを考えると段々胸がムカムカしてきた。
「理由によっちゃお前をぶん殴る。覚悟してろよ」
「……俺、もうじき死ぬんだよ」
「あん?」
「だから、俺はもうじき死ぬんだよ。冗談じゃないぜ。こればっかりはどうしようもない」
「お前、何言ってるんだ? 正気か?」
 真顔で、口元に笑みを浮かべながらそう言う貴明を見て雄二は顔をしかめた。本気で貴明が何を言っているのかがわからない。
「正気だよ。まぁ、信じられないってもはわかるけど……それだと今から話すことも信じられないだろうなぁ」
 そう言って貴明は空を見上げた。
 雨はとっくの昔に上がり、雲間から青空が見え始めている。後数時間もすれば綺麗な夕焼けが見られるだろう。だが、それまで自分は生きていられるのか。
 既に奴が活動を再開していることは知っていた。今はまだ大人しいが、それも後どれだけのことか。激突の時は近い。
「あんまり時間がないんだ。かいつまんで話すからよく聞いてくれ」
 そう前置きして貴明は今まで何があったかを話し出した。
 あの夜、雄二や花梨と別れた後、何があったか。その後襲ってきたモグラ怪獣のこと。木の怪物からこのみを助けようとした時のこと。恐竜人間、爬虫類の怪獣との戦いのこと。そして今の自分の身体の状態のこと。その全てを話し終わり、小さく息を吐く貴明。少し辛そうなのはやはり体調が優れないからだろう。
「そんな話を信じろってのか?」
「信じられなくても良いよ。だけど、事実だ。その証拠に……」
 疑わしげな雄二に貴明はそっとカッターナイフを取りだしてみせた。これはここに来る前に買っておいたものだ。刃を出し、それを手に押し当てて一気に引く。痛みに顔をしかめるがそれも一瞬のこと、出来た傷がすぐに塞がっていく。手で流れ出した血を拭うと、そこにはもう傷跡すら残っていなかった。
「……見ただろ?」
「……どう言う手品だよ? お前にそんな芸があるとは知らなかったぜ」
「茶化すなよ。これからが本題なんだ」
 あくまで信じたく無さそうな雄二に貴明は真面目な顔をして言う。雄二の態度に貴明は少し苛立っていた。時間が余りないというのに。だから問答無用で本題を切り出すことにしたのだ。
「お前にいくつか頼みたいことがあるんだ。まずはこれ、悪いんだけどこれを親父とお袋に渡して欲しい」
 そう言って貴明が取り出したのは一枚の封筒だった。これもここに来る途中に買ったものだ。中には両親に宛てた手紙が入っている。
「家においてくればよかったんだろうけど、多分家は監視されているだろうからお前に頼む」
「……」
 無言でその封筒を受け取る雄二。未だに彼は貴明の置かれている状況を信じてはいない。だが、それを頭から否定していると言うことはない。ただ、どうしても理解が及ばないと言うだけだ。封筒を二度三度裏返してみたりしてから上着のポケットに乱暴にねじ込む。
「で、次は?」
「ああ、次なんだけど……」
 そこで少し言い淀む貴明。
 どうやら何か非常に頼みにくいことを頼むつもりのようだ。それがわかったからか、雄二は少し渋い顔をする。
「なぁ、貴明。俺に出来ることで頼むぜ。いくらお前の頼みだからって言っても俺が全部出来る訳じゃないんだからな」
「あ、ああ。わかってるよ。そんなに難しいことじゃないんだ」
 そこまで言って貴明は雄二の方を向いた。
「草壁さんとか小牧とかに上手く説明しておいてほしいんだ、俺のこと。それと笹森さんにも。笹森さんは……気にしてると思うから」
「そう言うことは自分でしやがれ、馬鹿」
「出来るなら自分でやってるよ。もうそんな時間、俺にはないんだ」
 明らかに不服そうな雄二に少しムッとしながら貴明が答える。
 雄二はまだ貴明の置かれている状況をきちんと理解していないに違いない。だからこそ、そう言うことを言うのだろう。それが貴明にしたらどうにも苛立ちを誘ってしまう。しかし、こんな事を頼める人間は他にはいなかった。
「さっきからお前な、時間がない時間がないって……」
「聞けよ。いいから今は俺の話を聞いてくれ」
 文句を言いかける雄二を制して貴明は明らかに不機嫌そうに言った。これには雄二もムッとしたようだ。押し黙るようにして貴明の顔を睨み付ける。
「お前が信じても信じなくても俺には本当に時間がないんだ。こうやって喋っている時間ももうじきなくなる。多分直接会えるのはこれが最後になるはずだ」
「……何言ってんだよ、お前……さっきからおかしいぞ? もしかしてあれか、訳のわからない宇宙人にでも身体乗っ取られてんのか?」
「お前、俺の話聞いていたのか?」
「聞いていたさ。だから言ってるんじゃねぇか。まぁ、いいさ。で、まだあるんだろ、頼みたいこと。言ってみろよ」
 雄二の態度に貴明は不快感を覚える。だが、無理もないだろう。誰だってこんな話、そうそう信じられるはずもない。だが、時間がないと言うのは貴明にとって事実だ。だから彼に対する不快感を押し殺して最後の、そしてもっとも大事な頼み事を口にする。
「タマ姉とこのみを、頼む。俺がいなくなっても大丈夫なように支えてやって欲しい」
「なっ!?」
 貴明の言葉に雄二は思わず腰を浮かしてしまう。そして次の瞬間、湧き上がる怒りにまかせて彼は貴明を殴り飛ばしていた。
「ふ、ふざけんな! 何で俺がそんなことを引き受けなきゃいけねぇんだよ!!」
 殴られた時の衝撃で椅子の上から転げ落ちた貴明の胸元を掴んで無理矢理立たせた雄二は今まで見せたことのない程の怒りの表情を露わにしていた。
「勝手なこと言ってんじゃねぇぞ! 二人の気持ちに答えねぇばかりか一人とんずらする気かよ! 見損なったぞ、貴明!!」
 そう言ってもう一発、思い切り貴明の頬に拳を叩き込む。
 あっさりと吹っ飛ばされ、地面の上に倒れ込む貴明。雨上がりの地面なので泥だらけになってしまうが、それに構わず貴明は身を起こして雄二の方を見た。
「お前知ってんのか? 姉貴もこのみも、お前が死んだって聞かされて泣いていたんだぞ。泣き虫のこのみはともかく、あの姉貴もだ! 二人ともお前のこと本気で心配していたんだぞ!!」
 肩と握りしめた拳を震わせながら雄二が貴明を見下ろしながら言う。
「それなのに何だよ、お前は! 二人に心配かけさせたまま何処に消えるつもりなんだよ! しかもその後始末を俺に押しつけるだぁ? ふざけんじゃねぇ!! お前の後始末はお前が自分でしろよ!!」
 貴明はそれを黙って聞いているだけだった。顔にはほとんど表情が浮かんでいない。ただ、呆然としている、そう言う感じだった。
「聞いてんのか、貴明!!」
 ぼんやりと自分を見上げている貴明を見た雄二が再び殴りかかろうとするが、その手を後ろから伸びてきた手が掴んで引き留めた。
「邪魔すんなよ! こいつ、もう一発ぐらい殴ってやらないと気がすま……」
 そこまで言いかけた雄二だが、更に伸びてきた手に顔面をガシッと思い切り掴まれてしまう。それだけで誰が自分を止めたのか、瞬間的にわかってしまう。
「な、何で……いだだだだだだだだだだだだっ!!」
 ギリギリと、まるで頭蓋骨を割ろうとしているかのように手に力を込められ、雄二が悲鳴を上げる。
 勿論、雄二に必殺のアイアンクローを決めているのは環であった。
「あんたが私を出し抜けるとでも思っていたの、雄二?」
「や、やっぱりぃ〜!?」
「後はタカ坊を思い切り殴った分よ」
「そ、そ、それはぁ〜!!」
「問答無用」
「あだだだだだだだだだっ!! 割れる割れる割れる割れるぅ〜!!」
 環の容赦のないアイアンクローに悶絶する雄二。
 貴明はその余りもの光景に何が何やらわからず、ただ呆然と見ていることしか出来なかった。と、そんな彼のところに誰かが飛びついてくる。
「タカくんっ!!」
「このみ!?」
 飛びついてきたのがこのみだと知って驚きの声をあげる貴明。環のみならずこのみまでがこの場に現れるとは完全に想定外だった。
「な、何でここに……」
「雄二の後をつけたのよ。この馬鹿、本気で私を出し抜けるとでも思っていたのかしらね?」
 貴明の疑問に答えた環がそう言ってぐったりとしている雄二を解放した。気を失ってしまっているのか、その場に崩れ落ちる雄二。
「さてと、タカ坊。少しお話ししたいんだけどいいかしら?」
 そう言ってにっこりと笑みを浮かべる環。
「……話すことは何もないよ」
 貴明は抱きついているこのみを離そうとしながらそう答えた。だが、このみはギュッとしがみついたまま離れようとはしない。まるで、今ここで離したら貴明の姿が消えてなくなってしまうかのように。
「このみ、離してくれ」
「やだ、絶対に離さない」
「汚れるぞ?」
「いいもん。今ここで離したらタカ君いなくなっちゃうような気がするから絶対に離さない」
 それを聞いた貴明はただ困ったような苦笑を浮かべただけだった。それから環の方を向く。彼女は少し険しい顔をしていて、一瞬怯みかけた貴明だがそれでもしっかりと彼女の顔を見る。
「タマ姉、悪いんだけど……」
「お断りするわ。このみ、随分心配していたもの。少しぐらい我慢しなさい」
 環にこのみを引き剥がして貰おうと思っていた貴明だが、環にそう言われては仕方ない。このみの好きにさせることにした。どうせこんな事をしていられる時間はもうほとんどないのだから。
「さてと、それじゃ聞かせて貰おうかしら。どうして自分が死んだなんて嘘を柚原のおじさまにつかせたのか。ことと次第によっちゃタカ坊でも容赦はしないわよ」
「話すことは何もないってさっきも言ったよ、タマ姉。俺は死んだ。今ここにいる俺は俺じゃない。そう思ってくれていい」
「そんなことは聞いてないわ。現に今ここにタカ坊はいる。一体何がタカ坊の身に起こってるの?」
「タマ姉は見ただろ、俺が変身するところを。あれが今の俺なんだ」
 そう言った貴明の顔にはいつになく真剣な表情が浮かんでいる。
 そんな彼の表情に環は貴明が変身した時のことを思い出していた。あの時も彼は今のように真剣な表情を浮かべていた。少なくてもその表情は環が知っている貴明の表情ではない。彼女の知っている貴明はもっと幼い、こっちが守ってあげたくなるようなそんな感じだったのに対し、今の貴明の表情はやけに大人びて見える。何かを決意した男の顔だ。
「詳しい説明は雄二が目を覚ましたら聞いてくれないかな。あんまり何度も話したいような話じゃないし。それに……」
 貴明はそこまで言うと海の方を見やった。正確にはその向こう側に感じる敵の気配の方を見やったのだが、そこまで環が気付くはずもなかった。
「もうそんなに時間が残ってないんだ」
 奴が再び動き出していることは既に察知していた。本当ならばすぐにでも駆けつけたかったのだが、それよりも先に片付けておかなければならないことがあった。雄二と会い、後の始末を押しつけること。全部自分で出来れば一番いいのだがそんな時間はもう残されてはいない。だからこそ、もっとも気心の知れた親友である雄二に、彼が不服に思うであろうことを承知の上で全てを押しつけようとしたのだ。もっともその試みは環やこのみの登場により失敗に終わってしまったが。
「……タカ坊……?」
 いつもとはまるで様子の違う貴明に環は何と声をかければいいのかわからないようだった。
 そんなところにその場には妙に場違いな着信音が鳴る。その音を聞いた貴明がポケットの中から携帯電話を取り出した。
「はい、河野です」
『貴明君か? 奴……コードネーム”スペード”の潜伏場所が判明した。迎えをそっちに寄越しているから合流してくれ』
「わかりました……場所、やっぱりばれていました?」
『済まない。監視だけはずっと続けさせていた』
「構いませんよ。それじゃ、また後で」
 それだけ言うと貴明は通話終了ボタンを押した。それから携帯電話を見て、継いで環の顔を見る。
「タマ姉、お願いがあるんだ。この携帯、借り物なんだ。返しておいてくれないかな?」
「そんなこと自分で」
「そうしたいのは山々なんだけど……本当にもう時間がないみたいなんだ」
 いかにも不服そうな環を遮りながら貴明がそう言った時、彼らの頭上に一気にヘリコプターが現れた。防衛軍の高速輸送ヘリだ。柚原が寄越した迎えのヘリだろう。
「俺、行かなくっちゃならないんだ。タマ姉は見ただろ、あの化け物。あいつを倒しに」
 何事もないように、まるでちょっと出掛けて来るみたいに言う貴明。
「な、何で! 何でタカ坊がそんな事しなくちゃいけないのよ! そう言うことをするべきなのは防衛軍とかで! タカ坊はただの高校生で! 何であんな化け物となんか」
「俺はもう河野貴明じゃないから、かな。俺も奴と同じで化け物なんだ。化け物は化け物同士、あいつを倒せるのは俺だけなんだよ」
 ヘリのローターの起こす爆音に負けないように叫ぶ環に貴明は静かに答える。そして、それから自分に抱きついたままのこのみの肩に手を置いてゆっくりと彼女を引き剥がした。
「タカ君……?」
「聞いていただろ、このみ。俺はもうお前の知ってるタカ君じゃないんだ。だから俺のことは忘れてくれ」
 上目遣いに自分を見上げてくるこのみにそう言って貴明はヘリの方を見上げた。
 ヘリがゆっくりと降下してくる。そのドアが開き、中から白衣をはためかせながら折原志乃が顔を見せた。
「河野君! 乗って!!」
 貴明の姿を見つけ、志乃がそう言ってくる。
 それに頷いてヘリの方に向かおうとした貴明だが、その背中にこのみがまた抱きついてきた。
「行っちゃダメ! 行ったらダメだよ、タカ君……」
「離してくれ、このみ」
「やだ! 離したらもうタカ君帰ってこない気がするもん! だからやだ!」
「離すんだ」
「やだ!」
「離せって言ってるだろ、このみ!」
「やだって言ってるの!!」
 怒ったように怒鳴ってみたが、このみはそれ以上の声量で怒鳴り返してきた。その直後、ぐずぐずと泣いているような音が聞こえてくる。
「やだ。絶対に離さない。タカ君が帰ってきてくれるって約束してくれるまでは絶対に離さないもん」
 鳴き声混じりでそう言ってくるこのみ。
 それを聞いて貴明は小さくため息をついた。
「わかったよ。わかったから離してくれないか?」
「約束……してくれる?」
「ああ」
 貴明の返事を聞いたこのみがようやく貴明の身体から手を離した。そして、すぐに彼の正面に回り込むとすっと右手の小指を突き出してみせた。
「……指切り」
 まだその瞳に涙を浮かべながら赤くなってそう言うこのみをみて、貴明は何とも微笑ましい気分になる。笑みを浮かべて貴明は彼女の小指に自分の小指を絡めさせた。
「信じて……いいんだよね?」
「……ああ」
 このみの問いに少しの躊躇いをおいてから答える貴明。本当は嘘だ。もう帰ってくることは、おそらくない。だが、それでも。このみを安心させてやれるなら、離して貰う為にも貴明はあえて嘘をつく。
「ゆーびりーりげーんまーん、うそついたらはーりせんぼんのーます」
「千本も飲めるわけないって」
「いいの! それくらいでなきゃ」
「……そうだな」
 貴明はそう言うと絡めていた小指を離し、ヘリに向かって歩き出した。
(守るんだ……俺が、この手でみんなを……雄二を、タマ姉を、このみを!)
 ギュッと拳を握りしめ、決意も新たに貴明はヘリに乗り込んでいく。もう振り返りもしない。
 その背をじっと見送ることしか環は出来なかった。
 このみは貴明と指切りした時と同じ姿勢のまま、環と同じようにじっと彼の後ろ姿を見送っている。
「絶対に……絶対に約束破っちゃダメなんだからね!」
 最後にそう叫び、このみは大きく手を振った。
 それに答えるように貴明が片手を上げる。その直後、ヘリが離陸した。ローターの巻き起こす風に乱れる髪を手で押さえながら飛び去るヘリを見送る環。このみはヘリが飛び立った後でもまだ手を振っていた。
 このみや環のいる場所から少し離れた駐車場で彼女らと同じように飛び去るヘリを見上げている人物がいた。ここまで貴明を運んできた恭介と明乃だ。
「……行っちゃったね」
「ああ」
 飛び去るヘリを見ながら明乃が言うのに恭介は頷くだけだった。先ほどからずっとこんな調子の彼に明乃は不服らしく、頬を膨らませて彼の方を振り返った。
「恭ちゃん、さっきから何考えてるの? 貴明君、あんな身体で行っちゃったんだよ? 止めるなり何なりあったんじゃないの?」
「無茶言うなよ。あいつが自分で決めたことなんだ、最後まで好きにやらせてやれよ」
 そこまで言ってから彼はすぐ側に止めてある明乃の車の方を振り返った。
「悪い、明乃。俺ちょっと行くところが出来た。車、借りていくな」
 明乃の返事を待たず、恭介はすぐに車に乗り込むとそのまま走り出す。
 突然の恭介の行動に明乃は目を丸くするばかりで、彼女が我に返った時にはもう車は遠く走り去ってしまっていた。
「ちょっと! 私どうやって帰ればいいのよー!!」
 走り去る自分の車に向かって大声で叫ぶがもうその声は届かない。

 ヘリの中で貴明は志乃から活動を再開した恐竜人間――コードネーム”スペード”のことを聞かされていた。奴が何処に現れ、何をしたかと言うことを。
「そうですか……あの木の化け物も」
 そう呟くように言った貴明の声は暗い。
 ただでさえ強敵な恐竜人間が自分を苦しめた木の怪物を取り込んだのだ。その力はより一層強化され、今まで以上の強敵になったことであろう。果たして今の自分に勝ち目はあるのだろうか。イヤ、勝たなければならないのだ。みんなを、大事な人達を守る為にも。
「もう君の手には負えないかも知れないわ。いいのよ、戦いたくないのならそれでも」
「イヤ、やるよ。あいつを倒せるのは俺だけなんだし」
 志乃の申し出を貴明は静かな笑みを浮かべて断った。
 現代科学による兵器ではあの怪物を倒すことはおそらく不可能だ。例えダメージを与えることが出来たとしてもその圧倒的な回復力の前にすぐに無効化されてしまうだろう。あの怪物を倒すには奴の回復力を越えるダメージを与えるしかないのだ。それが出来るのは今の自分しかない。
「この間、”スペード”に使用したカプセル弾の改良がもう終わるわ。あの試作品でも一応の効果が出た。だからあの薬品を三十倍に濃縮したものを用意して貰ってる。奴が怪物になる前、人間の時に撃ち込むことが出来れば」
「……その前に少し奴と話をさせて貰えませんか?」
 その貴明の発言に志乃が驚いたように彼の顔を見た。
「話って……何を考えてるの?」
「イヤ……あいつ、岸田って言いましたっけ? あいつがただ取り込まれて利用されているだけなら何とか助けられないかなって思って」
「……多分無理だと思うわ。彼、岸田は……」
「やれるだけやらせてください。無駄でも何でもやってみなけりゃわかりませんし」
「……わかった。君の好きなようにして」
「ありがとうございます」
 二人の会話はそれきりだった。後はどちらも一言も口を聞かず、ただ時間だけが過ぎ去っていく。それもそう長い時間ではなかったが。
 ヘリの降下が始まったのは二人が黙り込んでから少し経った頃。場所は何と新宿にある東京都庁の目の前であった。着陸したヘリから降りた志乃に連れられて貴明は待っていたらしい防衛軍のジープに乗り換える。
「お待たせ。それじゃ急いでくれる?」
 運転手に向かって志乃がそう言うと、運転手は無言で頷いた。すぐに動き出すジープ。そこでも貴明は無言であり、志乃も運転手も一言も聞こうとはしなかった。重苦しい沈黙が続く。
 少しの間ジープは走り、とある建物の地下へと入っていく。そこには何人もの兵士が重装備で待機していた。誰の顔にも緊張の色が見て取れる。あの怪物――コードネーム”スペード”と呼ばれることになった恐竜人間こと岸田がこの近くに潜伏しているのだろう。
 誰一人としてジープの方を見ようとはしない。これから突入し、何処かに潜伏している”スペード”を殲滅しなければならないのだ。果たしてどれだけの被害が出るのか、そんなことは誰にもわからない。わかっているのは相手が自分たちよりも遙かに強力な存在であり、この任務がいかに危険な任務であるかと言うことぐらい。他のことを気にしている余裕はないらしい。
 そんな兵士達を縫うように走っていたジープが巨大な扉の前で停車した。どうやらこの扉の向こうに”スペード”は潜伏しているらしい。ゴクリと唾を飲み込んでから貴明は志乃と共にジープから降りた。地面に足をつけた瞬間、胸の奥でドクンと何かが大きく鼓動を刻む。
(いる……奴は絶対にここにいる……俺を待っている……)
 緊張に顔を強張らせて扉の方に向かおうとした貴明だったが、その前に銃を持った兵士が立ちはだかった。まるでそれが合図だったかのように数人の兵士達が彼を取り囲むように集まってきて、持っていた銃を彼に向ける。
「ちょっと! 何のつもり!?」
 志乃が慌てた様子で兵士と貴明の間に割って入る。
「彼は協力者なのよ! 早く銃を降ろして!」
「……その必要はありませんよ、折原主任」
 その声は二人のやや後方から聞こえてきた。志乃が振り返るとそこにはスーツの上に白衣を着た一人の男がおり、貴明の方を見てニヤニヤと笑っていた。
「彼は貴重なサンプルです。その彼を危険な目に遭わせることは出来ない。ここで彼の身柄は拘束させて貰いますよ」
 男は貴明を見てはっきりと彼のことを「サンプル」と言い切った。貴明が不愉快そうに眉を寄せるのを見ても微動だにしない。それどころかそんな彼の反応を楽しんでいるようにも見える。
「彼抜きで奴を倒せるとでも思っているの?」
 志乃が男を睨み付けながら言う。どうやら二人は旧知の仲らしいことがそれで貴明にもわかった。だが、志乃は彼に対してあまりいい感情を持ってはいないようだ。その口調はいつになく刺々しい。
「例の薬品を三十倍にまで濃縮したものをここにいる皆さんに既に供給済みです。いくら奴――”スペード”でしたっけ――が凄かろうとこれだけの数の弾丸を浴びれば勝ち目はありませんよ」
 男は志乃の視線をさらりと受け流しながらそう答え、周囲の兵士達を見回した。
「仮に奴が巨大化したところで外では例の薬品を五百倍にまで濃縮したカプセルを弾頭に詰めたミサイルが用意されています。これで奴もお終いですよ」
「そんなもので奴が倒せるとは思えない」
 そう言ったのは貴明だった。男が言い終わるとほぼ同時にそう言い、じっと男の方を見つめている。
「既に奴は一度あの薬品をその身に受けている。おそらくはもう耐性が出来ているはずだ。いくら濃縮したところで」
 そこまで言って貴明ははっとなったように口を手で押さえた。その表情には驚きと、そして恐怖がありありと見て取れる。
「……どうやら今のは君の意思ではないようですね」
 浮かべていたニヤニヤ笑いが消え、急に真剣な表情になって貴明の顔を覗き込む白衣の男。
「どうやら君も”スペード”と同じく」
「岩本さん! 彼は岸田とは違います!!」
 白衣の男――岩本の言葉を遮るように志乃が大声でそう言った。
 そんな彼女の方を見て岩本は少し驚いたような表情を浮かべていたが、すぐに何かを理解したように頷いた。
「ああ、そうでしたね。折原主任、あなたは”スペード”と再び出会って恐慌状態に陥り、その後心神虚脱状態になった。どうやらまだ完全には治っていないらしい」
 岩本はそう言うと側にいる兵士達に何やら合図を送った。すると数名の兵士が志乃に近寄り、彼女の腕を左右からガシッと掴むではないか。
「折原主任、もう少し療養していてください。ここはこの私が……」
 そこまで言いかけた岩本の側頭部に拳銃の銃口が押し当てられる。
「勝手なことをして貰っては困る。ここの指揮官はこの私だ」
 その声に岩本が顔を上げると、そこには柚原が立っていた。妙に険しい顔をして岩本をじっと睨み付けている。
「柚原一佐。私は」
「君の意見を聞く必要はない。ここの指揮官は私だと言ったはずだ。勝手な真似をするならばすぐにここから出ていって貰う」
「わ、わかりました」
 その口調から柚原が本気でそう言っているらしいことを知った岩本が仕方なさそうにそう言い、志乃の腕を掴んでいる兵士達に彼女を放すよう命じた。
「それからそこの君たちもだ。すぐにその装備をおいて下がりたまえ。私は非戦闘員である君たちを危険に晒すわけには行かないんだ」
 チラリと志乃の側にいた兵士達を見やって柚原が言う。
 その言葉に驚いたのは志乃の方だった。慌てた様子で周囲にいる兵士達を見、更に驚きの表情を浮かべる。そこにいたのは彼女もよく知る、同じ防衛軍特殊生物対応特別研究機関の研究員だったからだ。
「あなた達……どうして……?」
「……私が呼んだんですよ。この特殊弾を運ばせるついでにね」
 少しふてくされたように言う岩本。
「ここにいれば必ずあなた達が現れる。あなた達の身柄を抑えるのはその時だと思ってね」
「私を……いえ、彼が大事なサンプルだから?」
「ええ。彼を研究すればいずれ我々の為に……」
「そこまでだ、岩本君。彼らと共に下がりたまえ」
 何故か柚原が強引に岩本を黙らせ、それから志乃と貴明の方を見た。
「大丈夫なのか、貴明君?」
「はい」
 柚原の質問に貴明がしっかりと頷いてみせる。病院から抜け出す時は瀕死のような状態だったのだが時間が経つに連れて、そして活動を始めた”スペード”を感知してからはより一層、身体の調子はよくなってきている。まるで誰かが”スペード”との戦いを前にその体調を完璧に整えているかのように。その誰かというのはもはや考えるまでもない。自分の中にいる自分以外の誰か、だろう。
「おじさん、少し俺に時間をくれませんか?」
「時間?」
「ええ。この人にはさっき話したんですけど、例の岸田って人と話をしてみたいんです」 そう言いながら貴明は重く閉ざされている扉の方を見た。気のせいかも知れないが、その向こうで彼が、岸田が、”スペード”が自分を呼んでいるような感じがする。早く来い、と。
「話して……どうするつもりなのかね?」
「あの岸田って人がただ単に奴に囚われているだけなら何とか説得して助け出したい。そうすれば少しぐらいはこっちに有利になると思うんです」
 貴明の考えを聞いて柚原は少し考え込むような仕草をしてみせた。
 彼が聞いた話では岸田という男が貴明の言うように”スペード”に囚われていると言うことはないと予想されている。岸田は自ら望んで”スペード”と一体化した、そう考えられているのだ。何故なら岸田という男は人類に絶望していたから。どれだけ言っても地球を、海を汚染し続ける人類に絶望していたから。
 海洋学者である彼には海を汚す人間は敵でしかない。その敵を滅ぼすだけの力を彼は渇望しており、そしてその力は与えられた。例えヒトでなくなったとしても彼は構わないだろう。それほどまでに岸田は人間を憎んでいたのだから。
 故に貴明の考えが実現する可能性は限りなく低いだろう。だが、それでもゼロではない。万が一、と言うこともある。
「突入は二十分後だ。それまでしか時間は与えられないが構わないか?」
 考えた末に柚原が出した結論はこれだった。貴明が説得に成功するにしろ失敗するにしろ防衛軍の下した決定は”スペード”の殲滅だ。それに出来る限り”スペード”が巨大化する前に決着をつけたい。ここで巨大化されたらその被害は甚大なものになるだろう。何せこの上はビルの密集地だ。一応戦車隊や戦闘機隊が待機しているが、それを使用しての攻撃は控えたいというのが柚原の本音だった。
 二十分、それは岩本達をここから連れ出し、その後部隊を順次中に突入させるまでの猶予期間。
「わかりました。ありがとうございます、おじさん」
 そう言って貴明は柚原に頭を下げ、再び扉の方を見た。あの扉の向こう側に奴がいると思うとまた緊張してくる。自分でああ言ってみたが、本当に話など出来るのかどうかはわからない。だがやると決めた以上やれるだけやるだけだ。
 扉に手をかけ、ゆっくりと押し開く。そこにあったのは更に地下へと続く階段。ひやりとした空気がそこから流れ出してくる。
「貴明君、二十分だ。二十分を過ぎたら部隊を突入させる。忘れるな」
「はい。それじゃ、行ってきます」
 階段の方に歩き出した貴明の背に声をかけてきた柚原にそう答え、貴明は階段を下り始めた。その後ろを志乃が無言でついてくる。中程まで階段を下りていくと後ろの方で扉が閉じる音が聞こえてきた。一瞬真っ暗になるが、すぐに非常灯がつき、また明るくなる。
 暗くなったことで一旦足を止めた二人だったが、すぐに明るくなったのでまた階段を下りだす。
「何でついてくるんです?」
 長い階段を下りながら貴明が後ろをついてくる志乃に尋ねた。この沈黙に耐えきれなかったらしい。それにわざわざ命の危険のあるところについてくる彼女の気持ちがわからなかったというのもある。
「君の護衛よ」
 短くそう答える志乃に貴明は苦笑した。あまりにも有り得ない答えだったからだ。
 あの怪物”スペード”に対する恐怖心は貴明よりも志乃の方がより過剰に持っている。その彼女が今から”スペード”と対峙するつもりの貴明の護衛など務まるはずがない。一度”スペード”と対峙すればまた前の時のようにパニック状態に陥ってしまうかも知れないのだ。
 それに彼女がわざわざ貴明の護衛をする理由がない。はっきり言って今の貴明の方が志乃よりも強いのだから。それは彼女の方もよくわかっているはずなのに。
 何か別の目的が彼女にはある。何となくだが、それがわかった貴明は何も言わずにただ頷くだけだった。
 階段を下りきった先にあったのは地下だというのにやたらと広大な空間だった。地下廃水処理場とも巨大地下駐車場とも見える、何本もの巨大な柱に支えられた一種異様な空間。
「……まるで神殿のようだな」
 思わず周囲を見回してそう呟く貴明。
「言われてみればそうとも見えるわね」
 志乃も貴明と同じように周囲を見回し、そう呟いた。その手にはいつの間にか拳銃が握られている。
「話をするのが先なんだ。それを忘れないで欲しい」
 彼女の手に握られている拳銃を見て貴明が言う。
「わかってるわよ。これは……そうね、保険よ」
「保険?」
「いきなり襲い掛かられた時用にね」
 志乃がそう言って笑みを浮かべた。
 柱が何本も立つ巨大な空間の中を二人が進んでいく。何の音もない空間に二人の足音だけがやたらと大きく響いている。
「岸田さん! いるんだろ! あんたと話がしたいんだ!!」
 いきなり貴明が立ち止まり、大声で叫び始めた。このまま歩いて岸田の姿を探し求めていても時間の無駄だと思ったのだろう。この地下空間がどれだけ広いのかわからないが、彼らに与えられた時間が限られているのだ。隠れんぼをしている暇はない。
「いきなり撃つようなことはしない! いるんなら出てきてくれ!」
 地下空間内に貴明の声が響き渡る。
 完全に彼の声が聞こえなくなってから、少し離れた柱の影から一人の男が姿を現した。相変わらずニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている。
「丁度いい。俺もお前に話があったんだ」
 そう言って二人の方に向かって歩いてこようとする男。だが、それを制するように志乃が前に出て銃口を向けた。
「動くな、岸田! それ以上近付くなら撃つわよ!」
 自身に向けられた銃口を見て足を止める男。少しムッとした視線を貴明に向ける。
「話だけなら離れていても出来るわ」
 戸惑っている貴明に変わって志乃が厳しい声でそう言う。
「フッ……それもそうだな、ここはあんたの言うことに従っておこう。さて、それじゃどっちから話をする?」
 口元にニヤリと笑みを浮かべて男がそう言ったので、貴明はチラリと志乃の顔を見た。時間は限られている。説得にはどれだけの時間がかかるかわからない。だが、向こうの話にも興味があった。
「迷っているなら俺の方から話をさせて貰う。そこのお前、俺と手を組まないか?」
 貴明がどうするか迷っていると男が彼を指差してそう言ってきた。
「何!?」
 あまりにも意表をついた男の言葉に貴明は思わず驚きの声をあげてしまう。
「この俺一人でもこの星は簡単に制圧出来る。この星の文明レベルでは俺を滅ぼすことは不可能だ。唯一それが出来るのはお前だが、仮にこの俺を倒したとしても次にお前がこの星の住人に滅ぼされる。その力はこの星の住人にとって危険すぎるものだからな」
 男に言われなくてもそれは貴明自身わかっていたことであった。だが、改めてそう言われると胸の奥がズキリと痛む。
「俺と手を組まないか? 俺と手を組んでこの星を制圧するんだ。お前と俺でこの星を分け合う。勿論、お前の大切な人間は殺さない。お前はお前で好きにすればいい。俺は俺で好きにさせて貰うがな。相互不干渉、問題はないだろう?」
「何を……言っている?」
 震えながら貴明は問う。
「取引さ。俺を滅ぼしたところでお前に待っているのは俺と同じく滅びの道だ。ならば俺と手を組みこの星の王として共に君臨しようじゃないか。滅ぼされる前にこの星を俺たちのものにしようじゃないか。何でも好き放題、俺たちの自由に出来るぞ」
 嬉しそうに男が言って笑う。
「金も権力も女も、何でも俺たちの思い通りだ。誰も俺たちの力には逆らえない。どうだ、俺と共にこの星を手にしないか?」
「ふ、巫山戯るな!」
 鋭くそう叫んだのは貴明ではなく志乃の方だった。どことなく焦っているのは貴明がこの男の言うことに従ったら、と思ったからか。もしも貴明がこの男の口車に乗せられたら、男の言う通りになってしまうだろう。異形の怪獣と巨人。今の地球にある兵器で倒すのは限りなく不可能に近い。
 しかし、この男の誘惑は貴明にとって限りなく魅力的な提案のはずだ。この先、男と戦うことになり、仮に貴明が勝ったとしても待っているのは果てしなく過酷な運命だ。おそらく元の生活には戻れない上、下手をすればすぐにでも解剖されてしまうだろう。男の言う通りにすれば、そう言う運命を避けられる上、考え得る全ての欲望を満たすことが出来る。貴明がその誘惑に落ちてしまう可能性は充分に考えられることだった。
「お前の言うことなど……!」
「黙れ、女。お前には話していない。俺が話しているのはそいつだ」
 男がジロリと志乃を睨み付けて黙らせる。
 その視線に込められた殺意に志乃は思わず硬直してしまう。だが、拳銃を構える手はそのままだ。小刻みに震えてはいたが、決してその手を下ろそうとはしない。
「どうだ、小僧?」
「なかなか面白い提案だよな、それ」
「そうだろう」
 貴明の返事にニヤリと笑い満足げに頷く男。だが、すぐにその顔から笑みが消える。それは貴明が続けて言った言葉の所為であった。
「だけどその提案に乗るわけにはいかない。俺はこの星の王になんかなるつもりはない」
 はっきりとそう言って貴明は男を睨み付けた。
「今度は俺の番だよな。なぁ、岸田さん。あんた、そいつに利用されているだけなんじゃないか?」
「何だと?」
「何をどうしてあんたがそいつと一体化したのかは知らないけど、そいつはヒトの恐怖を喰らうだけの化け物だ。この星を滅ぼすつもりはあったとしてもさっきのようなこと、この星の王となって君臨するつもりなんかないはずだ」
「ほう……?」
 貴明の言葉に興味深げな表情をする男。
「恐怖を喰らうだけ喰らった後はこの星を滅ぼす。そしてまた次の星へ行く。それがそいつの目的だ。岸田さん、あんたはこの星での依り代として利用されているだけなんだよ」
「なかなか面白い話だな、小僧」
 そう言って男は低く笑った。
 男のその様子に貴明は緊張感を強めた。何かイヤな予感がする。男から感じる気配が少しずつ変わってきている。
「それはお前の考えじゃないだろう、小僧。お前の中にいるあいつの考え……まぁ正解と言えば正解だがな。しかし一つお前は勘違いしている」
「勘違い……?」
「ああ、そうだ。お前は俺がこいつを利用していると言ったが、実際は違う。俺は確かにこいつの身体を依り代として利用した。だが、こいつもまた俺の力を利用している」
「何だとっ!?」
 男の発言に驚き、思わず声を荒げてしまう貴明。
「こいつが何故俺に選ばれたのか。元々こいつはこの星の住人でありながら激しい憎しみを同じこの星の住人に抱いていたからだ。この星の住人を全て殺したいと思っていたからだ。だからこいつには俺の声が聞こえた。俺の呼ぶ声が聞こえたんだ」
 ニヤニヤ笑いながら、楽しげに言う男を貴明は歯をギリギリと噛み締めながら睨み付けている。
「話は簡単だった。こいつは俺をすぐに受け入れた。この星の住人を皆殺しにする為に。俺が落ちたあの海とか言うところを守る為に、こいつはその身を俺に捧げ、俺はこいつの力になってやった。それだけのことだ」
「それじゃ、お前は……」
「フフフ……こいつと俺が一体化してどれくらいの時間が経つ? もはやこの男の意識などとっくの昔に喰らい終わったさ。残念だったな、小僧」
 そう言って男が大声で笑い出した。
 その様子を貴明は悔しそうな顔をして睨み付けているだけだ。完全に自分の思惑が外れてしまった。奴の中に眠る岸田の良心に訴えかけようとしても、もうその良心が奴には残っていない。今、目の前にいるのは人々を恐怖と絶望で染め上げ、それを喰らい尽くすことに至福を覚える最悪の存在だ。
「さてと、交渉は決裂って事でいいよな、小僧。それじゃ遠慮なく……死んで貰うぞ! お前の中にいる奴共々な!!」
 笑いを止めて男はそう言い、貴明に向けて片手を突き出した。すると男の背中から四本程触手が飛び出してきたではないか。その触手はどことなく木の枝、植物の蔓を思わせる形状をしている。おそらくは同化した木の怪物の能力なのだろう。その触手が貴明に向かって唸りを上げる。
 男の背中から飛び出した触手を見て驚いていた貴明を彼の一歩程前に出ていた志乃が思いきり突き飛ばした。すぐさま自分も地面に倒れ込むように伏せ、男の方に拳銃を向けてその引き金を引く。
 彼女の持っている拳銃に込められている銃弾にはあの基地で使用された時と比べて三十倍にまで濃縮された薬品が内蔵されている。前回は相手が巨大化したことでその効力が薄れてしまったが、今回は前よりも即効性も強化されており、等身大のままこの銃弾を受けたら効果は絶大のはずである。
「おっと」
 拳銃から放たれた弾丸を男があっさりと手で受け止めてしまう。
「フフフ……今度は恐怖で動けなくはならなかったか。それはたいしたものだが、こんなもので俺を倒せるとでも思っていたか?」
 ニヤリと笑いながら志乃を見やってから男は閉じた手をゆっくりと開き、足下に弾丸を落とした。たかが拳銃では自分は倒せないと言う意思表示なのか。
「これ以上邪魔をされては困る。女、お前から先に死なせてやろう。精々恐怖し、絶望しろ」
 そう言った男の手がまるで触手のように伸び、倒れ込んでいる志乃の首を掴んだ。ゆっくりと、殊更彼女を苦しめるように手に力を込めながら彼女の身体を持ち上げていく。
「やめろぉっ!!」
 志乃を持ち上げている男の腕に貴明が横から飛びついてきた。必死に志乃の首から男の手を引き剥がそうとするが、男の力は強力でなかなか思うようにはいかない。更に先ほど伸ばされた触手が彼の背後から迫り、その身体に巻き付くとあっさりと彼を志乃の側から引き離した。更にそのまま大きく投げ飛ばしてしまう。
 触手によって投げ飛ばされた貴明の身体が何本もある柱の一本に叩きつけられる。地面に倒れた貴明をジロリと睨み付け、それから男が笑い出す。
「ふははははっ! 大人しくそこで待っていろ! お前もすぐにこいつの後を追わせてやる!」
「くっ……」
 何とか起き上がろうとする貴明だがかなり派手に身体を柱に打ち付けてしまっていた為、そのダメージでなかなか上手く起きあがれなかった。今の彼に出来ることは、ただ見ていることだけ。志乃が殺されそうになっているのを見ていることだけしか出来ない。
「こ、これを!」
 倒れている貴明の方を見て、志乃が持っていた拳銃を彼の方へと投げてきた。
「それでこいつを撃つのよ! 今ならまだ間に合う! 早くこいつを!!」
 物凄い力で首を絞められながらも志乃が必死にそう叫ぶ。その目からは決意が読みとれた。例えここで自分が死んだとしても、それでこいつを殺せるのならば構わない、と。自分一人の命で皆が助かるのなら安いものだと。その為に彼女はここに来たのだろう。
 彼女の思いが伝わったのか、貴明は手を伸ばして拳銃を掴み取った。安全装置は既に外れている。後は狙いを定め、引き金を引くだけでいい。しかし、貴明は訓練された軍人などではなく、ただの高校生だ。拳銃など一度もさわったこともなければ撃ったこともない。
「早く! こいつがこの姿でいる間に、早く!!」
 苦しい息の下、それでも志乃は必死に叫ぶ。
 だが、そんな彼女を見て、男がせせら笑った。
「はははっ! そいつにそんなことが出来るはずがない! そいつはお前らとは違うのだぞ! 銃などさわったことがあるものか!」
「河野君! 引き金を引くだけでいいの! 早く!!」
「うるさい女だ。少しは静かにしろ」
 男が志乃の首を掴む手に更に力を込めた。下手をすれば彼女の首の骨が折れてしまいそうなくらいに。だが、あえてそれはしない。あくまで苦しませ、彼女に恐怖と絶望を与える為に。
「こ、河野……君……」
 苦しげに、だがしっかりと貴明の方を見る志乃。
 それを見て意を決した貴明は膝立ちになると両手で拳銃を構えた。引き金に指をかけながら、震える手を何とか誤魔化しながら銃口を男の方に向ける。
「ほう……やれるのか、お前に?」
 男が貴明の方をチラリと見て尋ねてくる。その口調は彼に出来るはずがないと、完全にバカにしている感じであった。
「や、やれるさ! やってやる!」
 そう言い返す貴明だが、彼の腕は小刻みに振るえている。そのまま撃っても命中することはおそらくないだろう。だが、彼にはそんなこと気付く余裕もなかった。
「う、うおおおっ!!」
 雄叫びをあげて引き金を引く貴明。だが、手が震えていた為銃口を飛び出した銃弾は全く別の方向に飛んでいく。
 それを見て男が大きく口を開けて笑った。
「ははははははははははははっ! 何だ、その様は! そんなことで俺を倒せるとでも思っていたのか!」
「くっ……」
 悔しそうに歯を噛み締めながら貴明は拳銃を降ろす。しかし、男の言う通りだった。拳銃など扱ったことのない彼があの男に命中させることなど不可能に近い。
「こ、河野君……諦めたらダメ……」
 半ば絶息しながら志乃が貴明に呼びかけてくる。もはや彼女は虫の息。早く助けなければならないのだが、その手段が彼にはない。
(どうすれば……どうすればいい……?)
 ギュッと着ているシャツの胸元を掴む。その内側、自分の中にいるはずの何かに向かって祈るようにして目を閉じる。
(お願いだ、俺に力を貸してくれ)
 そう彼が願った時、銃声が響き渡った。はっと顔を上げるといくつもの足音が聞こえてきた。振り返ると何人もの兵士が手にライフルを持ってこちらの方へと駆け寄って来るではないか。
 どうやら柚原と約束していた二十分の期限が過ぎたらしい。その為に兵士達が突入してきたのだろう。
 兵士達は貴明の前に出て一列に並ぶと一斉にライフルを構え、躊躇うことなく引き金を引いた。次から次へと発射された弾丸が男の身体に命中していく。その間に別の兵士達が志乃の方に回り込み、ライフルでの銃撃で触手を断ち切って彼女を救出していた。
「ここからは我々の番だ。君たちは下がりたまえ」
 一人の兵士が貴明に向かってそう言い、次々と弾丸を受け、蜂の巣みたいになっている男の方を振り返る。そして彼もまたライフルを構えて男に向かって引き金を引き始めた。
 一体どれだけの兵士がこの場に投入されたのかはわからないが、かなりの数になるだろう。それだけの数の兵士から一斉に例の薬品入りの弾丸を浴びたのだ。あの男がどれだけ頑丈な身体を持っていたとしても、どれだけ脅威的な回復力を持っていたとしても、その影響を消し去ることは出来ないだろう。
 しかし、そう思っていても貴明の胸から不安は消えなかった。それどころか先ほどまでよりもその不安は大きくなってきている。
 あの男は例の薬品の威力をよくわかっているはずだ。なのに何故かわそうとしないのか。一発目は油断していたからかも知れないが、それ以降は。あの男の身体能力ならば放たれる銃弾をかわして反撃することだって不可能ではないはずなのに。
(まさか……!?)
 かわさないのではなくかわす必要がないのだとすれば。あの男は前にモグラ怪獣をその身に取り込んでいる。モグラ怪獣の背には何本もの水晶体が生えていて、それの硬度はダイアモンド並だ。ライフルの弾丸程度では傷も付かないだろう。
 貴明がようやくそのことに思い当たった時、男の狂ったような笑い声が周囲に響き渡った。
「ひゃーっははははははははははははは! お前ら、そんなものでこの俺を倒せるとでも思っていたのか?」
 何事もなかったかのように自分を取り囲んでいる兵士達を見回す男。ボロボロになった服を自らの手で破り捨てると、その下から出てきたのは水晶のようなものに覆われた身体だった。ライフルから発射された弾丸はその表面に突き刺さって止まっている。どうやら男には何のダメージもなかったらしい。
「ご苦労だったな。礼代わりだ、お前らもここで殺してやる」
 ニヤリと、何か嬉しそうに笑って男が物騒なことを言い、その直後どこからともなく大量のネズミが現れた。その全てが男の元へと向かっていき、足下から徐々に彼の全身を覆っていく。
 その様子を見ていた貴明の脳裏に思い浮かんだのはあの基地での光景。あの時、男の周囲に集まってきたのはトカゲやイモリ、蛇などの爬虫類。それらを取り込んで恐竜人間は怪物と化した。今あの男の元に集まっているのは爬虫類ではなくネズミの大群。
「……逃げろ! 早くここから逃げるんだ!!」
 これから何が起こるかを察した貴明が叫んだ。
 だが、誰も彼の声に耳を貸そうとはせず、ひたすらライフルを男に向けて放っている。しかし、その弾丸は男の全身を覆うネズミに阻まれ、男の身体にまでは届かない。もっとも届いたところで水晶に覆われているので、その本体にはダメージを与えられないのだが。
「何してるんだよ! 早く逃げないと……みんな死ぬぞ!!」
 必死にそう叫ぶ貴明だが、やはり誰も彼の言葉に耳を貸そうとはしない。と、そこに志乃が駆け寄ってきた。
「何、何が始まるって言うの?」
 彼女だけは貴明の言葉を聞いていたらしい。不安そうな顔をして彼に尋ねてくる。
「もう時間がない。潰されたくなかったら早く逃げるんだ!」
 貴明はそう言うと志乃の手を取って出口の方へと走り出した。その後方、兵士達に取り囲まれていた男の方から青い光が漏れだしてきた。振り返るとネズミに全身を覆い隠された男が完全に青い光と化している。その光の中で何が起こっているのか、もはや考えるまでもない。
「早く逃げろ! 本当に潰されるぞ!」
 貴明の叫びが響き渡る中、青い光が徐々に膨れあがっていく。その大きさがこの巨大な地下空間の天井にまで届くほどになったとき、青い光が弾け飛び、その中から異形の怪獣が姿を現した。
 その姿は今までのどの姿よりも奇怪で醜悪、見る者全てに恐怖と戦慄を与えるに充分な姿。凶暴な肉食恐竜のような頭部、その右肩にはモグラのような頭部が突き出している。身体のあちこちには鱗が生え、その上から長い毛が生えて鱗を覆い隠している。背中にはまるで背びれのように水晶体が並んでおりその周囲からは何本もの不気味な触手が生え、蠢いていた。腕も丸太のように太くその先にある手も大きく、爪は太く鋭い。足はその巨大な体を支えるに充分な程太く、その左膝にはまるで木のうろが変形したような不気味な顔が浮かび上がっている。太く長い尻尾の先端は二股に分かれ、その先には棘のように水晶体が生えていた。
「ふはははははははは! 死ね! みんな死んでしまえ!!」
 全長五十メートル程もある巨体に変貌した男――”スペード”がそう吠え、足下に群がる兵士達に向かって一歩踏み出した。慌てて逃げようとする兵士を何人も踏みつぶし、”スペード”はその感触に酔いしれる。
「ふはははははははは!」
 笑いながら次々と兵士達を踏み潰していく”スペード”。
 貴明は悔しそうに”スペード”を振り返るが、すぐに正面を向いて走り出す。ここで変身して戦うわけにはいかない。ここで戦えばこの地下空間を崩してしまいかねないからだ。そうなると志乃や兵士達も生き埋めになってしまう。出来ればそれは避けたかった。
「ふはははははははは!」
 後方から”スペード”の笑い声と共に何かが崩れるような音が聞こえてきた。さっと振り返ってみると”スペード”の巨体が地下空間の天井を崩しながら上に消えていこうとしているではないか。
「あいつ、地上に出るつもりだわ!」
 志乃がそう言って貴明の方を見る。
「地上にはまだ避難していない人達が大勢いる。早く私たちも戻らないと!」
「ああ!」
 再び出口に向かって走り出す二人だが、突如その頭上が崩れだした。”スペード”が地上に出ようと天井を崩した時に脆くなってしまっていたらしい。出口まで後少しと言うところで崩れた天井が二人の行く手を遮った。
「しまった!」
 巨大な瓦礫によって外へと続く階段がふさがれてしまう。更にその上から巨大な瓦礫が落ちてきた。
「きゃああっ!!」
「うわあああっ!!」
 二人の悲鳴が響き渡る。

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