平凡で退屈な日常とかが嫌だと思った事がある。いつもと全く変わらない日々をただ流れに任せるように過ごし、気がつけば年老いて、そして死ぬ。そう言うのが当たり前だと思っていた事がある。
そんな当たり前な時間がどれだけ大切なのかを知るには、その当たり前な時間を失ってみればいい。そう簡単には出来ない事だけど、もしそれが出来れば自分がいかに愚かだったのかと言う事に気付かされるだろう。平凡でも、退屈でも、ただ流れに身を任せるだけの日々でも、それが幸せだったと言う事に気付けるはずだ。
人はそんな当たり前の日々を、そんなありきたりな幸せを守る為に生きている。決して大きくはないけれども、その人にとって大切なものを守る為に日々を生き抜いている。
戦う相手は現実とか世間とか様々なもの。時にそれは巨大で途方もない敵になるけれども、それでも決して諦めずに戦いを挑んでいく。大事なものを、大切なものを、そして何より自分の幸せを守る為に、命を懸けて、全力でもって戦うのだ。負けてもなお立ち上がり、より強くなって。一人で無理な相手には仲間と手を組んで。守りたいものを守る為に。
誰だって戦うのは怖い。その怖さに負けて、その戦いから目を背けてしまえば、それは負けを意味する。戦うことなく敗北した事になる。自分の幸せを失う事になる。それは、とても怖い事だと思う。
全ての人が戦いに勝てる訳じゃない。何らかの理由があって、様々な障害の前に敗れ去る事だってある。でも、挑む事すらせずに逃げるのとは違う。戦う事から逃げるのは、自分で自分の負けを認める事。自分で自分の幸せを捨て去る事。
ただの平凡な日々でも、それは同じなのではないか。それを守る為に人は生きている。生きると言う事は戦いだ。誰もが逃げる事の出来ない戦い、それが生きると言う事。そこから逃げると言う事は自らの命を絶つ以外に方法はなく、それは自分がこの先得られるかも知れない幸せを自ら放棄する事に他ならない。
今、俺の前には一本のナイフが置いてあった。周囲にいるのは迷彩服を着た屈強な男達。誰もが全く無表情。まるで置物のように立っている。更にその中に一際異彩を放つように白衣を着た男女が一組だけいた。その二人もやはり無表情なまま、俺をじっと見つめている。いや、むしろ観察しているような感じだ。
俺の前に置かれているナイフ。これが何を意味するのか。それを知っている者はおそらくあの二人だけだろう。
「では、やってもらえるかね?」
白衣の男の方が口を開いた。
俺は無言で頷くと、前に置いてあるナイフを手に取り、その刃をもう片方の手の手首に押し当てた。そのままナイフを横に引く。すると、そこから血が噴き出してきた。
気の弱い奴とかが見ると気を失いかねない光景だが、ここにいる連中は誰一人として微動だにしなかった。まぁ、ここがどう言った施設であるかを考えれば当然と言えば当然なのだが。
初めは勢いよく噴き出していた血だが、それはすぐに収まっていった。ナイフを戻し、手首の血を拭うと、そこには先ほどナイフで付けた傷は綺麗になくなっていた。それを白衣の男の方に見せて、俺はニヤリと笑う。
「ほう、これはこれは」
白衣の男が少しだけ表情を露わにする。そこに現れたのは驚きと言うよりも歓喜の表情。自分の予想通りの結果が出たと言うのが嬉しいのだろう。
だが、そんな事は俺には関係のない事だ。精々嬉しがっていればいい。俺はお前の実験動物ではない。そのことを今から思い知らせてやる。
口元だけを歪めて俺は笑った。誰にも気付かれないように。いや、白衣の男の横にいる女がぴくりと眉を動かした。気付かれたか。まぁ、気付いたところでどうする事も出来ないだろう。
俺はすっと立ち上がった。すぐさま無表情な迷彩服達が俺の肩を押さえつけて座らせようとするが、俺はそれに抗ってみせた。いつもならそこで押さえつけられて終わりだが、今日は違う。ようやくこの身体と馴染んだのだ。今まで堪え忍んできた分、そのお返しをさせて貰おう。
辺り一帯は血の海と化していた。その中には白衣を返り血で真っ赤に染めた女がぺたんと座り込んでいる。女の周りには既に物言わぬ肉塊と化した男達が転がっていた。
俺は座り込んでいる女の顔を覗き込み、ニヤリと笑った。だが、自分のすぐ側で起きた惨劇に放心してしまっており、全く気がついた様子がない。少々面白く無かったが、それでも別に構わないだろう。
一瞬、この女を殺すべきかどうか迷ったが別に殺す必要もない。そう思い、俺は放心している女をその場に残して歩き出した。
この先、俺の前に立ち塞がる奴は皆殺しにする。俺の邪魔をする奴は皆殺しにしてやる。今の俺を止める事など誰にも出来ないのだから。
「そうだ、誰にもな」
そう呟き、俺は笑い出した。
ここに俺を止める事が出来る奴はいない。俺を追う奴もいない。例え奴がここにいたとしても今の俺を止める事は出来ない。奴には俺のような事は出来ないはずだ。そう、俺のような真似は、奴には絶対に。
Presented by Worldend of FallenAngels
星より来る者
お昼休みの食堂。相変わらずたくさんの人で賑わっている。
「あちゃ〜、こりゃ完全に出遅れたな」
食堂の中を覗いてみてそう言ったのは向坂雄二だ。授業が終わると同時に教室から飛び出してきたのだが、それでも少し遅くなってしまったようだ。
「どうするよ、貴明?」
雄二が後ろにいる幼馴染みの親友を振り返ると、彼は小さく肩を竦めただけだった。
「仕方ないな。今日はパンでガマンするしか」
「はぁ〜、しゃあねぇか」
力無く肩を落とした雄二が先に中に入り、その後を彼――河野貴明がついていく。
食堂の中の人混みをかき分け、パン売り場の方へ向かうとそこも同じように人でいっぱいだった。
「こりゃろくなもん残って無さそうだな」
「何も食えないよりはマシだろ」
「よりによって姉貴がいない時に限ってこうだ。全くあの先公、やってくれるぜ」
パン売り場の前の人混みを見てぶつぶつ呟く雄二。
お昼休みの直前の授業を担当していた教師がチャイムが鳴る寸前ギリギリまでしっかりと授業をしてくれたお陰でこう言う目にあったのだ。少しの恨み言を言うぐらいは別に構わないだろう。
「そう言えばタマ姉、どうなんだろうな」
「どうも何もないだろ。あの姉貴が落ちるわけねぇっつの」
人混みを掻き分けながら言う貴明にそう答え、同じく雄二も人混みを掻き分けてパンに手を伸ばす。やはり少し手遅れだったのかろくなものが残っていない。それでも何も食べないよりはマシだとばかりにいくつかのパンを掴み取り、素早くお金を払って人混みの中から脱出する。
「どうする? 屋上でも行くか?」
「そうだなぁ、そうするか。ちょっと寒いかも知れないけど」
そんな事を喋りながら二人は食堂から出て屋上へと向かう。
屋上へと続くドアを開けて外に出ると、空はいい天気なのだが風が冷たく、その所為か誰もいなかった。
「流石に誰もいねぇなぁ」
「この時期に外に出てくる奴なんか物好き以外にいないだろ」
「俺たちはその物好きって訳か」
「そう言う事になるな」
「はぁ、何かむなしくなってきた。さっさと食べて教室に戻るとしようぜ」
ガックリと肩を落として歩き出す雄二。
苦笑を浮かべてその後をついていく貴明。
おいてあるベンチの一つに腰を下ろし、買ってきたパンの袋を開ける。
「でも意外だったよなぁ。タマ姉、九条院に戻らないとか言い出すんだから」
「意外でも何でもねぇだろ。お前がはっきりしないからだよ」
パンをかじりながら言う貴明に少し呆れたような感じで答える雄二。
「お前がさっさと答えを出していりゃ姉貴はあの九条院に戻ったんだ。どっちを選ぶにしろな」
「そんな事言われてもな……」
「はっきりしろよ。このみか姉貴か。このままの関係じゃいられねぇってのはお前もわかってんだろ」
「わかってる、わかってるさ。でも……」
「でもも何もねぇっての。俺の自由の為にも早く決めろ」
「何だよ、やけに絡むと思ったら結局そう言う事か」
「当たり前だっつーの。だいたい考えてもみろよ。来年は俺もお前も受験だぜ。そこにあの姉貴がいたらやたらハードルの高い大学受けさせられて、一年間勉強漬けって言う地獄よりも辛い目に遭う事分かり切ってるじゃねーか」
そう言って嘆息する雄二。
「それはそうだけどなぁ」
新たなパンの袋を開けながら貴明が言う。雄二の気持ちもわからないでもない。自分だって一年間勉強漬けと言うのはご免被りたい。だからと言って――。
「どっちにしろ今からだと同じだと思うけどな」
この春、貴明は幼馴染み二人から同時に告白を受けた。一人は雄二の実姉であるタマ姉事向坂 環。貴明達とは一つ年上。成績優秀、容姿端麗、家事など何をやらせても完璧と非の打ち所のない美人だが、ちょっと性格に難あり。多分に姉貴肌なところがある上に実の弟である雄二や弟分である貴明に対してはまるで自分の所有物であるかのように容赦がない。それでもずっと昔から貴明に対して恋心を抱いていたらしく、何彼と彼の事を心配してくれているようなのだが。
貴明に告白したもう一人の幼馴染み、それは一つ年下の柚原このみ。貴明とはずっと昔からお隣さんで家族ぐるみで付き合いがあった為にどちらかと言うと彼にとっては妹みたいな存在であった。甘えん坊でいつも貴明の後ろをくっついてきていたので、向こうも同じように思っていると思っていたが、どうやら彼女はいつの間にか貴明の事をちゃんと一人の男性として見ていたらしい。環とも仲がいいのだが、その環の気持ちを知ってか彼女も負けられないと告白してきたのだ。
この二人の告白を受けて、貴明は返事が出来なかった。片や姉貴分、片や妹分。どちらに対してもそう言う風に思っていなかった上に、どちらを選んでも選ばれなかった方が傷つくと思い、それが怖くてどうしても返答出来なかったのだ。それからは微妙な三角関係をずっと続けている。一見すると雄二を加えたいつも通りの幼馴染みの四人なのだが、相変わらず環とこのみの仲もいいのだが、貴明だけは何か居心地の悪さを感じているらしく、ここ最近、余り一緒にいようとはしていない。もっともその努力はかなりの確率で無に帰しているのだが。
季節は既に夏を通り越して秋も半ば。未だに答えを出さない、出せない、出す事が出来ない貴明に長期戦になる事を覚悟したのか、環は当初の予定を変えて実家から通えるところにある大学を受験する事にした。本来ならばこの春に帰ってくるまで彼女が通っていた私立九条大学付属女学院からそのまま九条大学へと進むはずだったのだが、未だ貴明がどちらを選ぶのかわからない不安定な状態のままでまた彼と離ればなれになるのは不利だと思ったのだろう。そして今日がその大学の推薦入試の日なのである。
元々成績優秀な彼女の事だから万に一つも落ちると言う事はないだろう。だから今更貴明が二人のうちのどちらかを選んだところで、結果が変わるものではない。仮に環を選んだとしても彼女はこっちに残るだろうし、このみを選んだとしてもやはりこっちに残る事だろう。もしかしたら失恋の痛手を癒す為に九条院に戻るかも知れないが、そんなに弱い女性でないと貴明は思っている。
だから今となってはどちらを選んでも待ち受けている運命はそう変わらない。どっちにしろ環はここに残るのだから。
「はぁ……どんどん俺の自由が失われていく。たった一度の青春だってのによ」
「そう言うなよ。俺も同じなんだから」
ガックリと肩を落として言う雄二を慰めるように貴明は言うが、その言葉に雄二は物凄い速さで反応して見せた。
「いーや、違う。それは違うぞ、貴明」
「何が違うんだよ。俺だって……」
「少なくてもお前の周りにはたくさんの女の子がいる。姉貴、このみを初めとして委員ちょに十波、瑠璃ちゃん珊瑚ちゃん、るーこちゃんに草壁さんに……」
そう言いながら指を折っていく雄二。
「小牧とるーこ、草壁さんはクラスメイト。瑠璃ちゃんと珊瑚ちゃんは後輩。十波はただのケンカ相手」
そう言い返す貴明だが、雄二は恨みがましい目を彼に向けるだけだった。
「だいたい俺の知り合いって言うならお前も同じく知り合いだろ?」
「何言ってんだよ。みんなお前に好意を向けてるじゃねぇか、この野郎! 少しは俺にもわけろ!」
言っていて段々腹が立ってきたのか悔しくなってきたのか雄二が隣に座っている貴明にヘッドロックをかける。余りにも突然だったので為すすべなくヘッドロックをかけられてしまう貴明。
「ちょ、何するんだよ!」
「うるせー! お前みたいな恋愛ブルジョワジーにはこれくらい当然だ!」
「別にそんなんじゃ無いって!」
「そう言うのが余計に腹立つんだよ、お前はぁっ!!」
ギリギリと力を込めて貴明の頭を締め上げる雄二。
何とか逃れようとする貴明だが、予想以上にしっかりと決まっていてなかなか抜け出せそうにない。このままではどうにもならないと思った彼は雄二の腕をパンパンと叩いてギブアップを宣言する。
「わかった! わかったからギブギブ!!」
貴明のその宣言を聞いてようやく雄二は彼を解放する。
「お前、本気だっただろ?」
「当たり前だ」
じっと親友を睨み付ける貴明だが、当の親友は何処吹く風と受け流してしまう。
「何にせよ、お前は恵まれてるんだよ。少しはそれを自覚しやがれ」
「……なぁ、雄二。前にも言ったと思うけどさ。お前、元がいいんだから後ちょっとその性格をどうにかしたら彼女の一人ぐらい出来るんじゃないか?」
「そうそう。黙ってれば結構いい男って感じなのにね〜」
「自分を隠して彼女作ってどうするんだよ。俺はありのままの俺を好きになって欲しいんだ」
「言っている事は立派だけど、もう少し抑えた方がいいと思うぞ。お前少し自分の欲望に忠実すぎだし」
「それってあれなのかな? ナンパする時にいきなり『抱かせろ』とか言っちゃう訳かな?」
「いや、流石にそこまでは言わない……って!?」
その時になってようやく二人はいつの間にか会話に参加していた少女に気付いた。貴明と雄二の座っているベンチの後ろから顔を出し、いたずらっぽい笑みを浮かべている。その少女の笑顔を見た瞬間、貴明が「げっ!?」と言う顔をするのを雄二は見逃さなかった。どうやら彼は彼女を苦手としているらしい。
「さ、笹森さん、何時の間に?」
「へへ〜、ちょっと前に。あ、これ貰うね」
笹森さんと呼ばれた少女がそう言って手を伸ばし、貴明がおいてあったサンドイッチを掴み取った。
「タマゴサンド、いただき〜」
嬉しそうにそう言ってぱくっと口に中へ。
「しまった、久し振りだったから油断した……」
「ついでに向坂君のもいただきっと」
「お、おい!」
素早く雄二がおいてあったサンドイッチも掴み取って口に中に放り込む。止める間もないくらいの素早さだった。
彼女の名は笹森花梨。一応貴明が所属しているミステリ研究会の会長。ミステリ研と言いつつやっている事はUFOやら宇宙人やらUMAやらを追いかけるオカルトチックな事だが。貴明からすれば、半ば強引にミステリ研に入れられ、散々振り回されてきた事もあってどちらかと言うと余り相手にしたくない女性の一人である。
「それで、笹森さん、何か用?」
楽しみにとっておいたサンドイッチのタマゴサンドを奪われ、何となく気落ちしながら尋ねる貴明。タマゴサンドが大好物の彼女はいつも彼から奪っていくのだ。しかも問答無用で。
「まさかタマゴサンドを奪いに来ただけじゃないよね?」
「違う違う。これこれ、これ見て、タカちゃん」
そう言って花梨が取り出したのは一枚のコピー用紙だった。
「なんだこりゃ?」
興味をそそられたのか花梨が出してきたコピー用紙を雄二も覗き込んできた。そこに印刷されていたのは、おそらくはインターネットの何処かのサイトで書かれていた記事。空中で突然消えた流れ星の事についての記事だった。日付はちょっと古い目だったが。
「流れ星が空中で消えるなんて当たり前の事だろ?」
「確か空気との摩擦で燃え尽きるんだよな」
「それがね〜、これはちょっと違うんよ〜」
二人が自分の予想通りの反応をしてくれた事に花梨はちょっと自慢げに胸を張った。
そんな彼女の様子を見て、何となく嫌な予感を覚える貴明。オカルト好きな彼女の事だ、何となく何を言い出すか予想出来るような気がする。
「ま、まさかこれが実はUFOだった、とか言うんじゃ?」
何かに怯えるように言う貴明だったが、花梨は我が意を得たりとばかりに満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。
「さっすがタカちゃん! 伊達にミステリ研のナンバー2じゃないね!」
「つーか、二人しかいねーだろが」
ぼそりと雄二がそう呟いたが、あっさりとそれは無視される。
「で、でもこれって流れ星って言うかただの隕石だったんだろ? そう観測されてるって書いてる……」
貴明がそう言うと、花梨は彼の前で指を左右に振って見せた。
「違う違う。こう言う事の真実ってのは隠されるもんなんよ」
「いや、それ絶対に違うって!」
「消え方があからさまにおかしいんよ、これ。普通の流れ星ならす〜っと流れてすっと消えるけど、これはす〜っと流れてる途中でいきなり消えちゃったらしいし」
「そう言う事だってあるかも知れないじゃないか!」
「それにね、消えたところがまた面白い場所なんよ。ほら、沖縄にある海底遺跡、あそこの真上だって」
「偶然だよ、それって!」
半ば必死にそう言う貴明だが、花梨はもう聞いてはいなかった。とにかく自説のみを口にし続ける。相手の反論は一切無視、と言うか耳に入っていない。何処か陶酔しきったような表情で謎の隕石=UFO説を語っている。こうなるともう誰にも止められない。
それでも反論を続けている貴明を見ながら雄二は心の中で合掌していた。
(まぁ精々引っ張り回されてくれ)
「と言う事で今日の放課後、久々にミステリ研の活動だよ! 忘れたりしたらダメだからね、タカちゃん」
「…………わかったよ」
何だかんだで結局折れてしまう自分が少し恨めしい。今日の帰りは遅くなりそうだ。何か買い置きが家にあっただろうか。
「ところで向坂君」
「あん?」
いきなり花梨が自分を呼んだので雄二は少し面食らってしまい、間抜けな返事が口からでてしまった。
「さっきのタカちゃんの交友関係の事なんだけど、どうして私の名前がでてこないかな?」
そう言った花梨の目が笑ってない事に雄二はすぐに気付いた。ミステリ、と言うかオカルトなどに青春を捧げていると言ってはばからない彼女だが、それでも何だかんだ言って付き合ってくれる貴明に好意を抱いているようだ。勿論、雄二もそのことを知らないはずはないのだが、先ほど彼の口から自分の名前が出なかったのは何となく悔しいらしい。
「あ、いや、何て言うか、その、忘れてたって言うか」
何故かしどろもどろになってしまう雄二。助けを求めるように貴明の方を見るが、先ほど助けてくれなかったお返しとばかりに彼はそっぽを向いてしまっている。
「向坂君、向坂君も付き合ってくれるよね、今日の放課後?」
にっこりと笑顔で花梨が言う。
その笑顔の奥にある何となく邪悪なものを敏感に感じてしまった雄二は頷くことしか出来なかった。
その日の放課後、ミステリ研の部室で決まったことは今度の土曜日の夜に再び集まってUFO観測会をやると言うことだった。何故土曜日なのかと言えば翌日が日曜日で休みだから、と言う一点に尽きる。
UFO観測会の日がやってきた。
結局上手く家を抜け出す言い訳を見つけることが出来なかった雄二は「貴明のところに泊まる」と言って学校が終わると同時に荷物を持って貴明の家にやってきている。一緒に来たがった環だが、たまには男同士でゆっくり語り合わせろと言う弟の言葉に珍しく自分の欲望を抑えたらしい。
「やれやれ、本当についてこられたらどうしようかと思ったぜ」
「なんかこのみとそう言う取り決めをしているらしいよ。抜け駆けはしないって」
「そう言うところは律儀だからなぁ、姉貴は」
「何度か押し掛けてきたことあるけどな、二人一緒に」
ちょっとうんざりと言うような表情を浮かべる貴明。
「朝早くから叩き起こされるわ、一日付き合わされるわ……」
「両手に花で羨ましいねぇ、全く」
「よく言うよ。タマ姉とこのみだぞ。疲れるだけだって」
「やっぱりお前わかってねーよ。チビ助にしろ姉貴にしろ、見た目は相当なもんだぜ? それを両方とも連れて歩いてるんだ。他から見たら羨ましいやら恨めしいやら」
「そう言うものかな?」
「わかってねーのは多分お前だけだよ」
そんなことを喋りながら二人は花梨との待ち合わせ場所へと急ぐ。彼女との待ち合わせ場所は学校の校門前。そこから裏山に向かう予定なのだ。
「それじゃしゅっぱーつ!!」
「おー」
「……」
元気よく言う花梨に対し、男二人はかなりうんざりとしたような顔をしている。
一人元気のいい花梨を先頭に力無くその後を貴明と雄二が続く。裏山の中へと入っても花梨の足取りは変わらない。用意してあったらしい懐中電灯で暗い山道を照らしながらどんどん先へと進んでいく。
「おいおい、ミステリ研の会長様は怖くねーのかよ?」
暗い山道に少なからず怯えながら雄二が貴明に尋ねる。
「さぁ? あの様子だとそうなんじゃないか」
先頭を行く花梨の背中を見ながら苦笑する貴明。変なくらい元気一杯だ。多少は空元気と言うものも含まれているのだろうが、それ以上に今から行うUFO観測の方が楽しみなのだろう。それが暗い山道を行くと言う恐怖を上回っているだけなのだ。調子よく鼻歌を歌いながら歩いている花梨を見て貴明はそう思っている。
「しかしどこまで行く気なんだ? あんまり奥に行くと……」
「星がよく見えるところまではもうちょっとくらいあるからな。そんなに怖がらなくても大丈夫だよ」
「だ、誰が怖がってるってんだよ!」
不安そうな自分を貴明にからかわれたと思ったのか、雄二はムッとしたようにそう言うと急に足を速めた。まるで貴明をおいていくかのようにどんどんと先に進んでいく。
「わお。向坂君やる気満々だね。タカちゃん、ミステリ研の会長&正会員として負けられないよ〜」
自分をも追い抜いていった雄二を見て嬉しそうにそう言いながら花梨が振り返る。その顔には本当に嬉しそうな笑みが浮かべられていた。もっともその笑顔を見て貴明は苦笑を浮かべるだけだったが。
観測に丁度いい開けた場所に来ると花梨は背負っていたリュックサックの中から一眼レフのカメラと三脚を取り出した。三脚を地面に固定するとカメラをその上にセットし、空に向ける。
「おいおい、これ、高かったんじゃねぇの?」
三脚の上のカメラを見て雄二がそう言うと、花梨は待ってましたとばかりに大きく頷いた。
「へへ〜、バイトして買ったんよ、これ。最新型のデジタル一眼」
「道理でここ最近ミステリ研の活動がなかったわけだ」
夏休み、八月に入った辺りからミステリ研の活動は何故か中断されていた。おそらくは夏休み中あちこちに引っ張り回されるだろうと覚悟していただけあって少し拍子抜けしたものだったが、その理由がこれだったとは。UFOとかの証拠写真を撮るには少々過剰な機材と言えなくもないが、その分花梨の熱意が籠もっていたと言うことだろう。
「そうゆう事。タカちゃんには寂しい思いをさせたけど、それもこのカメラの為、ミステリ研の為。ゴメンね〜」
そう言って貴明の方を向き、彼に向かって手を合わせる花梨。口ではゴメンと言っているが、心の内では思ってないだろう。何となくだがそれがわかった。
「いや、全然気にしてない。と言うかむしろその方がありがたかったり」
「何か言った?」
「いや、別に」
思わず本音が漏れてしまった貴明であったが、花梨があっさりと聞き流してくれたのでホッとしていた。どっちかと言うと今はこの最新型のデジタル一眼レフカメラを自慢する方に夢中なのだろう。目的は違えど、やっぱりこう言うカメラを持っている雄二相手に自慢しまくっている。
そんな二人を尻目に貴明は何かの気配を感じてそちらに向かって歩き出した。一応持ってきておいた自分の懐中電灯で前方を照らしながら進んでいくと、やがて懐中電灯の光の中に見知った少女の姿が照らし出された。
「……何やってるんだよ、こんなところで?」
少女に向かってそう声をかけてみるが、その少女は何処か一点を険しい顔をして見つめているだけで返事をしない。貴明も少女の向いている方を見てみたが、そこには鬱蒼と茂った森の闇があるだけで、そこに何かあるようには思えなかった。首を傾げてもう一度少女の方に視線を向けてみると、いつの間にか少女の姿はそこから消えていた。
「あれ?」
一体何処に行ったのだろうか。それともそこに少女がいたのは単なる見間違い、勘違いなのか、自分の。そう思って周囲を見回してみる。
「今すぐこの山を下りろ、うー」
いきなり声が真後ろから聞こえてきたので、貴明は驚きのあまり思わず飛び上がってしまった。
「うわぁ! い、何時の間に……」
そう言って振り返ると先ほどの少女が貴明のすぐ後ろに立っている。いつも何を考えているのかわからない表情をしているが、今は違った。妙な程険しい顔をしてじっと貴明の顔を見つめている。
「ど、どうしたんだよ、るーこ?」
少女の名はるーこ・きれいなそら。自称宇宙人。本人がそう名乗っているのだからそうなのだろう。このことには余り深くは突っ込みたくない貴明である。周りからはどことなく不思議系少女として認識されているのだが、実際問題不思議な力を有しているようにも見える。
「今すぐこの山を下りろと言った」
るーこはそれだけ言うと自分の役目は終わったとばかりに歩き出した。
「ちょ、ちょっと待てよ! どう言うことだよ、それ!?」
訳がわからない。いきなり現れて、来たばかりのこの山を下りろとは一体どう言うことなのか。ちゃんとした説明をして貰わないと、後の二人、特に花梨を説得するのは無理だ。もっとも説明をしたところで花梨が山を下りると言うことを認めるかどうかは別の話なのだが。
貴明のその声にるーこが足を止めた。面倒くさそうな顔をして振り返る。
「ちゃんと説明してくれよ。何でこの山を下りなきゃいけないのかとかさ」
「……はっきりしたことはわからない。だが、危険だ」
「危険って……まさか熊でも出てくるって言うのか?」
「……違う。これは……るーとは違うがこのうーのものでもない。何処か別の星から来たもの……」
そう言ってるーこは更に不快そうな顔をした。これ以上この場にはいたくないと言う感じだ。
「とにかく警告はした。命が惜しければすぐにこの山を下りろ」
「随分と物騒な話だな」
何故るーこがそこまで不快そうな顔をするのか、貴明にはわからない。だが、冗談でも無さそうだ。彼にわかったのはそれくらいのこと。
「わかった。一応あの二人にも言ってみる。それと山を下りるなら一緒に降りよう。懐中電灯も無しじゃ危ないだろ」
貴明はそう言って花梨や雄二のいる方へと歩き出した。果たして何と言って二人を、いや花梨を説得したものか。生半可なことでは花梨を説得することは出来ないだろう。どうしたものかと考えながら茂みを掻き分けながら歩いていると、いきなり頭上を何かが轟音を立てながら走り抜けていった。
「うわぁっ!!」
思わず吹っ飛ばされてしまう貴明。
「な、何だ?」
頭上を見上げると赤い光がまるで流星のように尾を引いて飛んでいくのが見える。
「ま、まさかUFO!?」
さっと立ち上がった貴明は我を忘れたかのように飛んでいく赤い光を追って駆け出していた。もはやるーこの警告のことや花梨たちのことは頭の中から抜け落ちている。あの赤い光の正体をその目で確かめてみたい、その思いに彼の心は囚われてしまっていた。花梨ほどではないにしろ、何だかんだ言って彼もそう言うものが嫌いでもないらしい。だからこそミステリ研に未だ籍を置いているのかも知れない。
貴明の頭上を飛んでいった赤い光はどんどんと山の奥の方へと向かっていく。追いかけることに夢中になって彼は気付いていなかったのだが、その方向こそ、先ほどるーこが険しい顔をしてじっと見つめていた方向だ。彼女が何らかの気配を感じていた方向。この時、貴明がそのことを少しでも思い出していればこの後の展開はまた変わっていたかも知れない。だが、神ならぬ身の彼にそんなことがわかるはずもなく、彼もどんどんと山の奥へと入っていってしまっていた。
赤い光を追いかけてかなり奥の方までやってきた貴明は赤い光を見失ってしまったことで、ようやく我に返ったように立ち止まった。無我夢中で赤い光を追いかけてきてしまった為にここが何処かまるでわからなくなってしまっている。簡単に言ってしまえば道に迷った、より悪い状況で言えば遭難した、と言うことだ。
自分の置かれた状況を認識し、慌てて元来た道へと戻ろうとするが、周囲は闇。自分がどこから来たのかすらわからない。次に携帯電話を取り出して助けを呼ぼうとしたが生憎と電波の届かない圏外と表示されていた。仮に電波の届くところであっても下手をすれば二次遭難という可能性もある。今、貴明に出来ることと言えば自分の迂闊さ、浅はかさを呪うことだけだった。
「くそっ!」
だが、そうしていてもどうしようもない。下手に動き回って体力を消耗するよりはこの場で朝が来るまで待って、それから移動した方がいいだろう。暗闇の中を動き回って怪我でもしたらシャレにならない。それに懐中電灯がどれくらい保つかも不安だった。諦めのため息をついて貴明がその場に腰を下ろそうとしたその時だった。先ほど見失ってしまっていた赤い光が再び視界に飛び込んできたのだ。今度は先ほどまでと違い、一直線に飛ぶのではなく、右に左に動き回っている。
「あれは……よしっ!」
見た感じ赤い光はそう遠いところにあるわけでも無さそうだ。ならばここまで来たのだ、どうせならあの光の正体を確かめてやる。そう思って貴明は走り出した。
茂みを掻き分け、張り出した枝をかわしながら進んでいくと、不自然に開けた場所に出た。そこだけ木も生えていなければ草も生えていない。まるで砂漠化したようなそんな感じの場所が突然目の前に現れたのだ。
「何だ、これ?」
呆然と呟きながら貴明はその場に膝をついて地面に手をついてみた。普通の地面ではない。さらさらの砂状になっている。明らかに異常だ。
「な、何で、これ……?」
一体何が起こっているのかわからない。わからないなりに、いや、わからないからこその恐怖が彼の心の中に湧き上がる。この場から離れた方が、逃げた方がいい。直感がそう告げる。同時に思い起こされるるーこの言葉。
『命が惜しければすぐに山を下りろ』
あの言葉はこれを指していたのか。もしそうならここにいると自分の命が危ないのではないか。とにかくここから離れよう。それからどうするか考えるのはここから離れてからでいい。ゆっくりと、本人にそのつもりはないのだが、身体はゆっくりとしか反応してくれない。何とか立ち上がって一歩一歩後ろに下がろうとするが、それもまるでナメクジかカタツムリかと言うほどの速度。苛立つ程自分の身体が言うことをちゃんと聞いてくれない。それでも何とか少しずつ後ろに下がり、足が下草を踏みしめたその時、突如闇の中に浮かび上がった異形の姿を貴明は見た。
それは何か爬虫類を思わせるような、そんなひび割れた肌をしており、そのあちこちに棘のようなものが突き出している。腕はひょろりと長い。肘のところからは一際長い棘が生えている。腰から尻尾のようなものが伸びており、その先にも棘が数本生えていた。しかし、それは二本の足で直立している。その足は人間のものと変わらない太さだ。まるで恐竜人間、爬虫類人間とでも言えばいいのだろうか。そんな異形が淡く青い光を纏って森の中に出現した砂漠のような場所にいるのだ。
「ま、まさか、宇宙人……?」
少なくてもこんな姿の宇宙人など見たことも聞いたこともない。花梨がよく話してくれている宇宙人の姿ではない。あからさまな異形。その姿は根元的な恐怖を呼び覚まさせるかのようだ。
貴明の漏らした呟きが聞こえたのだろうか、その恐竜人間が彼の方を振り返った。そこで彼は更なる恐怖を味わうことになる。自分の方を向いた恐竜人間の顔は、自分たちと変わらない人間の顔だったのだ。ただ、その目がまるで蛇やワニを思わせる目をしているのと、口が不自然な程裂けているのと、そこから見える舌がまるで蛇のような感じなのを除けば、だが。
「う、うわあぁぁぁぁぁっ!!」
悲鳴を上げて逃げ出す貴明。先ほどはなかなか言うことを聞かなかった身体も、今は生存本能に従ってか普段以上の働きを見せる。茂みを掻き分け、とにかく必死でその場から離れようと走りまくる。途中で懐中電灯を落としてしまったが、気にしている暇はない。とにかくあの場から少しでも離れないと。
だが、恐竜人間はそんな貴明の思いを裏切るかのようにあっさりと彼に追いついてしまった。そしてその右腕を掴むと無造作に投げ飛ばしてしまう。
「うわあぁっ!!」
そんなに力を入れたようには見えなかったのにもかかわらず大きく投げ飛ばされてしまい、貴明は地面に倒れ込んだ。叩きつけられた衝撃はかなりのものだったが、それでもすぐに身を起こそうと地面に手をつく。だが、すぐにバランスを崩してしまった。両手をついて身体を起こそうとしたのに右側に崩れてしまう。何故だと思って右腕を見てみると、いつの間にか二の腕から下が無くなっていた。ボタボタと赤い血がそこから噴き出すように流れ落ちている。
「うわあぁ、ああああああっ!?」
驚きのあまり声が漏れ出す。痛みなどは感じない。余りもの激痛に痛覚自体が麻痺してしまっているかのように。
すっかり錯乱しきってしまった貴明に恐竜人間が近づいていく。その手にはボタボタと血を流れ落としている貴明の右腕。先ほど投げ飛ばした時に勢い余って引きちぎってしまったみたいだ。その腕を投げ捨て、恐竜人間が青ざめた顔をしている貴明の顔を覗き込んだ。そしてニヤリと壮絶としか言いようのない笑みを浮かべる。まるで小動物を痛める時に猛獣が浮かべるようなそんな表情。実際にそんな表情を浮かべるのかどうかは知らないが、少なくても彼はそう思った。
「お、お、お前は……」
必死に口を開く貴明。意思の疎通をして一体どうなると言うのだ。相手はこちらを襲う気満々だ。今も殺されそうになっている。なのにどうして話しかけようとしているのだろう。心の中の冷静な部分がそう告げている。
「お前は……何なんだ?」
ほとんど自分の意志とは関係なく言葉が出た。死ぬ前に、殺される前にこいつの正体を知りたい、そう思ったのか。知ったところでどうなるものでもないと言うのに。
恐竜人間はまたニヤリと笑った。それだけだった。答える代わりに右手を振り上げる。すっと右手を無造作に振り下ろし、貴明の左足を叩き潰した。
「ぐあああああっ!!!」
貴明の口から漏れる苦悶の絶叫。
嬉しそうに、楽しそうにその叫びを聞く恐竜人間。どうやら彼が苦しむ姿を見て楽しんでいるらしい。
(何なんだよ、こいつは……陰湿すぎるじゃないか!)
余りもの大量出血に意識が半ば朦朧となりつつも、それでも相手を睨み付ける貴明。だが、恐竜人間はそれすら楽しそうに見返し、また右手を振り上げた。今度その手が振り下ろされた先は彼の腹部。すっと軽く振り下ろしただけで彼の内臓の大半が破裂し、貴明は口から大量の血を吐き出した。
もはや叫び声すら出ない。激痛すら感じない。意識は朦朧とし、目の前もはっきり見えなくなっていく。
(何で……何で俺、こんな目にあって……)
ぼんやりとする頭で考えられることと言えばそれくらいのことだった。
ただ、UFOを探しにこの山に来ただけなのに、何でこのような目に遭わなければならないのか。理不尽だ。訳がわからない。だが、確実にわかることはこのままだと死ぬと言うこと。
グシャグシャと何かを潰すような音が聞こえてくる。視線だけを音の聞こえてきた方に向けると、恐竜人間が足のようなものを口にくわえていた。誰のものか、考えるまでもない。痛みはなかった。ただ、頭の中がぼんやりとするだけ。もはや恐怖も何もなかった。
(こんなところで……こんな風に……死んじゃうんだな、俺……)
ぼんやりとする頭の中で考えられることと言えばその程度のこと。別に何がどうというものがあるわけではない。このまま死んでも、結局は同じ事なのではないだろうか。人はいつか死ぬ。それが少し早くなっただけのこと。自分でも予想だにしなかった形でそうなっただけのこと。
(それもまた……運命って奴かな……)
段々目の前が暗くなってきた。意識がなくなりかけているのだろう。このまま眠るように意識がなくなってしまえればいいのに。そうすれば何も考えることなく、楽に死ねるのだろう。
『タカ君っ!』
『タカ坊!』
不意に脳裏に響く声。それは彼のことを思ってくれている二人の少女。彼の出す返答を待ち続けている二人の女性。もし、ここで自分が死んだら二人は悲しむだろう。でも、いつまで経っても答えを出せない自分のことなど早く忘れて、他にいい人を見つけてくれたら、と思わないでもない。あの二人は充分以上に魅力的だ。すぐに新しい恋人が見つかるだろう。
(このみ、泣くだろうなぁ……タマ姉もかな……)
自分の葬式で泣きじゃくるこのみの姿が思い浮かぶ。環は葬式の場では涙をぐっと堪えるだろう。一人になってから泣くのだ。きっとそうに違いない。
(……ゴメン……こんな事言ったら余計に怒られるかな……)
泣いている二人の顔を想像し、少しの後悔が湧き上がる。が、もうどうすることも出来ない。死と言う確実に待ち受けている運命は覆しようもない。
恐竜人間がその手を貴明に向けた。ガシッと頭を掴む。このまま握りつぶそうと言うつもりなのか。
もはや既に意識の混濁している貴明にはどうすることも出来なかった。自分が何をされているのかすらわかっていない。
彼の頭を掴む手に力を入れる恐竜人間。少し力を入れるだけで彼の頭は簡単につぶれるだろう。万力でミカンやレモンを挟むように、グシャグシャになる。その光景を楽しみにしているのか恐竜人間がニヤリと笑った。
と、その時である。突如赤い光が恐竜人間に向かって突っ込んで来、そのままぶつかって恐竜人間を吹っ飛ばした。赤い光は恐竜人間を吹っ飛ばした後、ふわふわと貴明の前で、まるで彼を守るかのように浮かんでいる。
起きあがった恐竜人間は忌々しげに赤い光を見ると、大きく口を開けて吠えた。
『その姿では力が出せんだろう! そのまま黙って見ているがいい!』
何故かはわからない。だが、恐竜人間がそう言っているのが貴明にはわかった。そして、それは赤い光に向かっていっているのだと言うことも同時に理解する。
『この星で俺に敵うものなどいない! お前は黙ってこの星が滅ぶのを見ているがいい!』
恐竜人間はそれだけ言うと森の奥の闇に消えていった。
後に残ったのは瀕死の貴明と赤い光のみ。
ぼんやりとした頭で赤い光を見上げる貴明。やがて赤い光がより一層輝きを増し、彼を包み込んでいった。
「うわあぁぁぁぁっ!!」
ばっと掛け布団を跳ね上げて身を起こす貴明。ぽたりと頬を汗が流れ落ちる。全身汗だくだった。着ているパジャマの上も汗でべったりと張り付いている。
「ハァハァハァ……」
大きく肩を上下させながら荒い息を吐く。
「ゆ、夢だった……のか?」
右手と足を確認してみる。どちらもちゃんとあった。腹を撫でてみても何ともない。
「……どう言う……事だ?」
あれは夢などではなかったはずだ。腕を引きちぎられた時の痛みは記憶に残っている。足を潰された時の痛みは嘘ではなかった。内臓を潰された痛みも。だが、手も足も腹も何処にも傷はない。
一体どう言うことなのか、訳がわからない。そして、何とも言えない不快感が胸の奥から湧き上がってきた。吐きそうになるのを必死に堪え、貴明はベッドから降りる。その時になってようやく彼はここが自分の部屋ではないと言うことに気がついた。
「何処だ、ここは……?」
フラフラとドアに向かって歩き、開けようとするが鍵がかけられているのか開かなかった。ドアを開けることは諦め、貴明は部屋の中を振り返った。部屋は白い壁に囲まれていてドア以外の出口はない。天井の近くには換気用の小さい窓がある程度。
「何だよ、ここ?」
急に不安になってキョロキョロと部屋の中を見回してみるがベッドがあるだけで他には何もない。これはまさしく隔離室だ。その事実に気付いた貴明はヘナヘナとその場に崩れ落ちた。
「何だよ……一体何なんだよ! 俺が何をしたって言うんだよ!!」
そう言うといきなり立ち上がり、ドアの方に駆け寄り片手でノブを掴み、もう片方の手でドアをどんどんと乱暴に叩いた。
「出せよ! 出してくれよ! 俺は何もしてないだろ! 何でこんなところに閉じこめられなきゃならないんだよ!」
必死にそう叫ぶ貴明だが、どこからも何の反応も返ってこない。それが彼の心により一層の恐慌を呼び起こした。先ほどよりも一層強い力でドアを叩き、声をあげる。
「出せよ! 出してくれよ! 俺が……俺が何をしたって言うんだよ……出してくれよ……」
段々貴明の声が小さくなり、そして彼はドアの前に崩れ落ちた。どうやっても何の反応も返ってこない。あるのは静寂だけ。それが物凄い勢いで彼の心を砕いていく。
「何だよぉ……何なんだよぉ……俺何もして無いじゃないかぁ……何で……」
ボロボロと涙をこぼしながら呟く貴明。この何もない部屋に閉じこめられていると言う事実、そして恐ろしいまでの静寂が彼の心を完全に折っていた。
ドアの前で踞るようにして泣いている貴明の姿をモニター上に見ながら、その男は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。すぐにモニターから目を離し、後ろにいた白衣の女性を振り返る。
「もういいだろう! 出してやれ! 彼は何もしていない!」
「それは出来ません。理由は先ほども申し上げた通りです」
白衣の女性は眉一つ動かさずに男に向かって言い返した。
「だが見ていられん! このままでは彼の精神が参ってしまうぞ!」
男がそう言ってドンとテーブルを叩いた。だが、それでも彼女はぴくりとも表情を動かしはしない。まるで感情がないかのように。
「そうなったらそうなったまでです。ですがそうなることはないでしょう」
「何でそう言える!?」
「以前のデータに残されています。前の被検体は肉体のみならずその精神も著しく強化されていると」
「それは前の被検体の話だろう! 彼は違うじゃないか!」
「一時的なものです。すぐにこの状況に彼も慣れるはずです」
「それは可能性の問題だ!」
「確かに仰る通りです、柚原一佐」
白衣の女性はそう言って一旦言葉を切った。それからじっと彼の目を見つめて再び口を開く。
「ですがあなたの感情論よりはマシです」
「何っ!?」
「彼の素性を調べるに辺り、様々な情報機関を使いました。柚原一佐、あなたは彼の家の隣に住み、ずっと昔から彼のことをよく知っている。違いますか?」
「……確かにその通りだ」
「彼と彼の家族、そしてあなたのご家族はかなり仲がよろしかった、そう報告書にあります。あなたからすれば彼は息子のようなものなのでしょう。一佐のご家庭には娘さんだけでしたから」
白衣の女性がそう言うのを男は押し黙って聞いている。
「そんな彼があのような目に遭っているのを見て、あなたは黙っていられない。ただそれだけのことです。息子同然の彼ですからね。ですがこれが赤の他人ならばどうか。口を挟みますか?」
その問いに男は答えられなかった。おそらくは口を挟むことはないだろう。可哀想だとは思うかも知れないが、ここまで感情的に口を挟みはしないはずだ。
「柚原一佐。そのような感情は一切廃してください。あそこにいるのはあなたの知っている彼ではない。もう違う生き物だと思うべきです」
白衣の女性の口調にはまるで感情が込められていない。事実だけを淡々と述べているだけだ。そして、その彼女を守る為に自分はここに派遣されてきているのだ。
男――柚原は無言でモニターの方を振り返る。そこには相変わらずドアにもたれかかって泣いている貴明の姿が映し出されている。あそこにいるのは隣の家に住んでいて、娘の幼馴染みの河野貴明のはずだ。生まれた時から知っている子だ。娘しかいない自分にとってはまるで息子のような存在で、上手く行けば娘と一緒にさせて本当の息子にしたいと思っていた。だが、その彼に今手をさしのべてやることすら出来ない。
「済まない、貴明君」
ただそう呟くことが、今の柚原にとって精一杯だった。
「何がどうなっているのか全くわからねぇ」
雄二がそう言った瞬間ガシッと環の手が頭に食い込んだ。
「あだだだだだだだっ!! 割れる割れる割れる割れるっ!!」
本当に頭蓋骨が割れるんじゃないかと言う程の激痛に雄二が悲鳴を上げる。それほど環の握力は並外れていた。リンゴなどは本当に握り潰せるのではないだろうか、と密かに雄二は思っていたりする。
「タマお姉ちゃん、これだと何も聞き出せないよ」
「それもそうね」
側にいたこのみがそう言ったので環は手を離した。既にぐったりとなっていた雄二の身体が地面に落ちる。それを冷たく見下ろしてから二人はその場にいたもう一人の方に目を向けた。
このみと環、二人の視線が余りにも敵意に満ちていたのか、それとも物凄く冷たかったのか、とにかくその二人から同時に視線を向けられた花梨はビクッと身体を震わせた。先ほどの雄二への行動を見る限り下手な受け答えは自分の死を意味する。ここは慎重の上に慎重を重ねなければならない。
「ねぇ、あなた。聞きたいことがあるんだけど?」
一歩だけ花梨の方に近付き、環がそう声をかける。
「は、はいっ! わたくしめでよろしければ何でもお答えしますっ!!」
やたらビクビクしながら返事をする花梨に首を傾げながら環は先ほど雄二にしたものと同じ質問をした。
「タカ坊……河野貴明はどうしたの? 一緒だったんでしょ?」
「そ、それなんですけど……」
答えにくそうに花梨が視線を泳がせる。実際のところ彼女の口から出せる答えは雄二と変わらないのだ。
あの日――既にもう三日程前になるのだが――散々買ったばかりのデジタルカメラの自慢を雄二相手にしていて、ふと気がついたら貴明の姿が消えていた。二人して慌てて探しに行こうとしたのだが、そんな二人の頭上に赤い光が現れ、それをデジタルカメラで夢中になって撮影しているといきなりその場に防衛軍を名乗る男達が現れ、デジタルカメラを没収された上に身柄まで拘束された。それから有無を言わさずこの基地まで連れてこられて二人にとっては意味のわからない身体検査を嫌と言う程受けされられ、更に徹底的な身元調査が為されてようやく先程解放されたところなのだった。
しかし、三日にも及ぶ拘束期間中貴明とは一度も会うことがなかった。あの夜に別れてから今の今まで一度も彼の姿を二人は見ていない。
「そう……」
花梨の説明を聞いた環はそれだけ言うと小さくため息をついた。
「タカ君、一緒にいたんだよね?」
「少なくても山に入る時、入ってから少しの間は一緒にいたよ。でも、いつの間にかいなくなってて」
不安そうなこのみの質問にそう答えた花梨の顔も不安そうだ。何と言ってもあの日山に誘ったのは花梨自身なのだから。
「何でタカ坊だけいなくなったのかしら? 一緒に山に入って一人だけはぐれる理由がわからないわ」
「すいません、私も向坂君と話に夢中になってて」
環の言葉に本当に申し訳なさそうに言う花梨。普段は完全マイペースで余り周りのこと、主に貴明の都合など考えない彼女だが今回ばかりはかなり責任を感じてしまっているらしい。何しろ、出てきた相手が防衛軍なのだ。何かとてもやばいことになっているような気がしてならない。
「とりあえず裏山に行ってみましょう。何か手がかりになるものがあるとしたらそこよ」
「了解であります、隊長」
環の案にすぐさまこのみが乗る。花梨もその横で頷き、一人ダウンしていた雄二も強制的に連行されていくのであった。
防衛軍の基地の前からバスと電車を乗り継いで例の裏山までやってきた四人だが、そこで思いも寄らないものを見ることとなった。
「何なのよ、これは」
目の前の光景を見ながら環が苛立たしげな呟きを漏らす。
裏山の入り口には防衛軍の装甲車が止まっており、その周辺にはライフルを持った兵士が立っている。それも一人や二人ではない。かなりの大人数だ。
「随分と物々しいな。俺たちが連れて行かれた時はこんなのじゃなかったのに」
雄二も不審げな表情を浮かべて兵士達を見やっている。
一体この裏山には何があると言うのだろうか。そもそも自分たちがどうしてこの裏山から連れ出されてあのような身体検査など受けさせられたのだろうか。それがわかればもしかしたら行方不明の貴明のことがわかるかも知れない。
「この様子だとここからは無理ね。何処か別のところから……」
環がそう言って周囲を見回していると、このみが一人の兵士の方に近寄っていくのが見えた。
「こんにちわ」
「ん……ああ、君は確か柚原一佐の……」
どうやらこの兵士とこのみは顔見知りらしい。彼は優しい表情を浮かべてこのみを見、会釈した。
「何でこんなところに?」
「向こうにある学校が私の通っている高校なんです。で、一体どうしたんですか?」
「ちょっとそれはね」
「……お父さんが指揮しているんですか?」
「一応そうなってるみたいだね。余り大きな声じゃ言えないんだけど、自分たちも何でここでこんな事しているのかちゃんとは知らされていないんだよ」
そう言って苦笑する兵士。
その後もこのみは兵士と二言三言程喋ってから環達の方に戻ってきた。
「山の中に入ったらダメだって。何か全体的に封鎖されてるみたい」
「そ、そう」
このみの報告を聞いた環がちょっと驚きながらそう答える。
「そう言えばこのみの親父さんって防衛軍の人だったもんな。そうだ、そっちの方から貴明のこと聞き出せないか?」
雄二がそう言ってこのみの方を見た。
「そうだね。うん、やってみるよ」
大きく頷き、携帯電話を取り出すこのみ。メモリに登録している中から父親の携帯電話を呼び出す。
「雄二にしてはなかなか冴えてるじゃない」
「してはってのが余計だ」
感心したように言う環に雄二はそう言い返し、少し照れたように顔を逸らした。
「それにしても……一体何なんだろうな、これは」
山一つを完全に封鎖すると言うことはそれなりの数の人員が出張ってきていると言うことになる。それだけの人員を動員するにはそれなりの立場のものがいなければ無理な話だ。そして、それだけの人員を配置してこの山を封鎖するというのには一体どう言った理由があるのだろうか。一体この山には何があると言うのか。
「やっぱりあの赤い光が何か関係しているのかねぇ?」
「実はあれはUFOでその存在を隠す為に防衛軍が出張ってきてる……ってことは無いよね、流石に」
いつものように花梨が自分の考えを述べようとしたが、すぐさま環に睨み付けられ、あっさりと自説を翻した。下手なことを言えば自分の命に関わる。それがわかっているだけに迂闊なことは言えない。
「UFO云々はおいておくにしても、やっぱり何かあるわね。雄二や笹森さんが身柄を拘束されたって言うのも気になるし」
環はそう言いながら兵士達がいる山の方を見やった。
そこに電話を終えたらしいこのみが戻ってくる。
「ダメ、今重要なお仕事の最中だって」
「……でしょうね」
じっと山の方に視線を向けながら環が答える。何かはわからないが、とにかく謎の手がかりはこの山の中にある。それだけは確信出来た。
夕方になり、辺りが薄暗くなり始めた頃、環は雄二を引き連れて再び裏山の入り口付近にやってきていた。花梨やこのみは一緒ではない。あの後、一度家に帰ると言う花梨、家に帰って母親経由でもう一度父に電話してみると言うこのみと別れ、二人も一度家に帰っていたのだ。
「なぁ、マジで行くのか? 見つかったら絶対にやばいって」
姉の後ろを歩きながら雄二が小声で尋ねる。その姉はと言うと周囲を伺うようにキョロキョロとしており、何故か非常に落ち着きがない。この様子から見ても裏山の中に潜入すると言うのは本気のようだ。
「いいから黙ってついてきなさい!」
後ろを振り返った環がジロリと弟を睨み付けて黙らせた。それから物陰から物陰へと見つからないように移動していく。兵士の見張りが厳しいのは山の入り口付近だけで、そこさえ越えてしまえばこうして物陰から物陰へと身を隠しながら移動せずに済むはずだ。出来る限り見張りのいない場所を探し、そこから山の中に入っていく。そう言う予定でいたのだが、予想以上に見張りの数は多かった。
「これじゃそう簡単にはいけそうにもないわねぇ」
「だからやめとけって」
「そうもいかないわ。何ならあんた、防衛軍の基地に行ってタカ坊探してくる?」
「何でそうなるんだよ?」
「タカ坊がいる可能性が一番高いのは防衛軍の基地。あんた達と一緒に拘束されていたらって前提条件付でね。次にいるんじゃないかと思われるのがこの裏山の中。もしかしたら防衛軍から逃げていて遭難しちゃっているかも知れない。連絡がないのは」
「この山の中じゃ携帯電話の電波が届かないからって訳か。それじゃこの物々しい警備は何なんだよ? 説明つかねぇだろ」
「いくつか想像はしているんだけどね。あくまで想像の範疇を出ないし。それでも聞きたい?」
環はそう言って後ろにいる雄二を振り返った。その目はいつになく不安げである。この場にいない貴明のことを心配しているのだろうか。
雄二は無言で頷くだけだ。
「この山に何か防衛軍が必死にならなきゃいけないようなものが墜落した。ここにいる人たちはそれの回収の為に来ている。笹森さんが見たって言う赤い光はそれ」
「……それで?」
何か思うところがあったのか眉をひそめるが、それでもとりあえず話を先に聞いてしまおうと思ったのか先を促す雄二。
「あんた達が身柄を拘束されて身体検査を色々と受けさせられたのはその墜落したものが何かやばいもの、細菌兵器か何か人体に害を加えるものだったから。どう、納得いくでしょ?」
「まぁ、な」
「で、タカ坊がどうして未だ解放されないのか? あんた達とはぐれたタカ坊はその墜落現場に近いところにいた。考えたくはないけど、もしかしたらって事もある。まぁ、それはないと思うけど」
「それで?」
「タカ坊はあんた達よりもより一層の検査が必要だった。それに何か見てはいけないものも見てしまったのかも知れない。だから未だに拘束されている」
「で、俺たちがこの山に入ってどうするんだよ?」
「余りいい方法とは思えないんだけど……タカ坊が何を見たのか、それを知りたいのよ。それを交渉の材料にしてタカ坊を解放させる」
「確かにいい方法じゃねぇよな、それは。俺たちだけじゃなく親父まで巻き込むことになる」
「私たちだけじゃ政治力も何もないからね。これもタカ坊の為よ」
環は話はこれで終わりだとばかりにまた前を向いた。そろそろ見張りが交替してもいい頃合いだ。忍び込むならその時がチャンスだろう。
雄二は黙り込んでいる。何か考えているのかも知れない。
「ちょっと! 何すんのよ!!」
いきなりそんな声が聞こえてきた。環が声のした方を見ると兵士に腕を掴まれている花梨の姿が見えた。どうやら彼女も環と同じ事を考えたのか、もう一度ここにやってきていたらしい。
「離しなさいよ! か弱い女の子相手にそんな力一杯することないでしょっ!!」
大声で喚きながら花梨は掴まれた腕を振り解こうと暴れ回る。彼女の腕を掴んでいる兵士はどうしたものかと困り顔だ。
「雄二!」
今がチャンスだと環は弟に声をかけると素早く飛び出した。無言で雄二も姉の後を追って走り出す。その時にチラリと花梨の方を見ると彼女は二人に気付いていたらしく、彼の方に向かってウインクして見せた。どうやら自らの身を挺して二人が山の中に入るチャンスを作ってくれたらしい。
(厄介な奴に借りをつくっちまったな)
そう思いながら雄二は先を行く姉を追って森の中を走り抜けていく。途中で何度も茂みなどに足を取られそうになるが、それでも二人とも足を止めることはない。いつ見つかってもおかしくないからだ。出来ることなら見つからずに山を下りたいのだが、そうそう上手く行くはずもない。
「おい! お前ら!」
横手から声が聞こえてきた。案の定見つかってしまったらしい。
「雄二、急ぐわよ!」
「わかってる!」
二人を見つけた兵士が仲間を呼んでいる間に更に奥に向かう二人。
「……なぁ姉貴、さっきから考えていたんだけどよ」
走りながら雄二は環の背中に向かって声をかけた。環が前を走っているからどうしてもそう言う形になってしまうのだ。
「姉貴の考えは、ありゃ確かに想像だ。勿論あの場に姉貴はいなかったから仕方のない部分はあるしな」
環からの返事はない。聞こえてないと言うことはおそらく無いだろう。走ると言うことに夢中で聞いてないと言う可能性もあったが、環がそんなことをするはずがないと言う確信が雄二にはあった。
「まず一つ目なんだが……姉貴は赤い光が墜落してきた何かだって言ったがそれはない。何せ音も何もなかったからな。それに爆発とかもなかった。それは俺も笹森も知ってる」
それでも環は何も言わない。ただ無言で走っているだけだ。
「二つ目なんだが、仮に墜落してきたものが積んでいたのが何かやばいものだったとして、それを回収に来た連中、ついでに俺と笹森を捕まえた連中とか身体検査をした連中だけどよ。そう言う装備は一切してなかったんだよ。もしあれが細菌か何かなら自分たちも感染する可能性ってもんがあるだろ? にも関わらずだ」
「だから?」
ようやく環から声が返ってくる。
「いや、それだけだ。どっちにしろ何かあるってのには俺も同じ意見だしな」
「なら黙って……」
そこまで言いかけた環がいきなり足を止めた。後ろを走っていた雄二が姉の背中にぶつかりそうになり、慌てて立ち止まる。
「ど、どうしたんだよ、姉貴?」
いきなり立ち止まった環を不審に思って雄二が声をかけると、環はその場にしゃがみ込んだ。茂みの地面に近いところに引っかかっていたボロボロの布きれを拾い上げる。
「……雄二」
ボロ布を手にした環が立ち上がって、そのボロ布を雄二に見せる。初めはなんだこれという顔をしてみていた雄二だが、何か思い当たるものがあったらしく急に顔色を変えた。
「お、おい……これって……」
「思い出したわね? これ、タカ坊のジャンパー……」
環が手にしているのは貴明があの日着ていたジャンパーの切れ端だった。どう言う状況かわからないが破れ落ちたのが引っかかっていたらしい。しかし、それよりも二人が顔色を変えた理由はその切れ端に明らかに血とわかるものがべっとりと付着していたことだった。
「タカ坊、怪我してるみたいね」
少し青ざめた表情の環が呟くように言う。
雄二は他にも何か無いかと足下を見回していたが、やがて何かを見つけたのか、近くにある木の方に歩いていきその根元にしゃがみ込んだ。木の根元に生えている草にも何かどす黒いものがべったりと付着しているのが見えた。既に周囲は薄暗くなってきているのではっきりとはわからないが、もしこれが血ならかなり大量に出血していることになる。先ほど環が見つけたジャンパーの切れ端から考えるに、この血の主は貴明。そしてかなりの量の出血をしていると言うことは、彼は重傷を負っている。
「……やばいよな、これ」
環の想像通り何かがこの近くに墜落していたとして、そしてここにはかなりの量の血の跡がある。どう考えても墜落した何かによって彼が負傷したとしか考えられない。それにこの様子だと下手をすれば出血の為に貴明は既に失血死している可能性がある。
「冗談じゃねぇぞ、あのバカ野郎……」
小さく呟きながら立ち上がって振り返ってみると、そこに姉の姿はなかった。周囲を見回し、その姿を探してみると少し進んだ先に彼女は立っていた。
「姉貴、どうしたんだよ?」
そう声をかけながら環の側に近付いていくと、彼女は何も言わずに前方を指差した。彼女の前方、そこは何もない、まさしく砂漠のような世界となっている。それはかなりの広範囲に渡っており、向こう側の木々が辛うじて見えるぐらいだ。
「な、何だよ、これ!?」
雄二が驚愕の声を漏らす。目の前に広がっている光景が信じられなかった。まるでそこだけ森を切り抜き、代わりに砂漠を埋め込んだような、そんな有り得ない光景が広がっているのだ。信じられないのも無理はない。
「……タカ坊はこれを見たのね……だから……」
呆然と呟く環。
「ま、待てよ、姉貴! これを見たからって、あいつの怪我の理由……」
雄二がそこまで言いかけた時、ようやく二人に追いついてきたらしい兵士達が二人に向かって手に持っているライフルを突きつけた。
「そこまでだ。おとなしくこっちに来い!」
兵士の一人がそう言ったので雄二も環も大人しく従った。何しろこっちは何も持っていないと言うのに向こうはライフルを持っている。手向かえるわけがないし、手向かうつもりすらなかった。
「全く近頃のガキは……」
ぶつぶつ兵士達に言われながら二人は連行されていく。その後ろ、砂漠のようになっている場所の一部の地面が不自然に盛り上がっていることに誰も気付いてはいなかった。
ベッドしかない白い部屋。
そのベッドの上で貴明はシーツにくるまって身を丸くしていた。ここに入れられてから何時間、何日ぐらい経ったのかすらわからない。窓も換気用の小さいものが天井の近くにあるだけ、更にずっと電気がついているので今がいつぐらいなのか全く判断のしようがなかった。
食事の時間も不規則だ。こっちが完全に寝入っているのを見計らって、目が覚めた時にはいつの間にか運び込まれている。その量もごく少量。辛うじて死なないであろう程度。
初めはこの静寂と退屈に気が狂いそうになっていたが、不思議とこの状況に慣れてしまったのか、今はさほど苦痛でもない。もっともやれること、出来ることと言えば眠るか考え事をする程度。
考えることは色々とあった。まずは自分が行方不明になっているであろう事。きっとこのみ達が大騒ぎしているはずだ。一緒にいた雄二達も心配しているだろう。周りにあまり心配をかけたくない、迷惑をかけたくないと思っている彼にとってこれはかなり苦痛を強いている。
次に考えることは何故ここにこうして自分は監禁されているのかと言うことだ。しかし、こればっかりはどう考えても思い当たることがない。自分が何をしたと言うのか、全く思い当たるような筋はないのだ。だからどれだけ考えて堂々巡り。いつまで経っても答えの出てこない疑問。
そして今までわざと考えることを避けていたこのみと環のこと。自分のことを好きだと言ってくれた二人に対し、貴明は未だに答えを出せないでいる。どちらも彼にとって大切な存在だ。少々強引なところもあるが面倒見がよく、いつも自分をリードしてくれる姉貴分の環。甘えん坊で自分によく懐いていて、いつも後ろにくっついてきていて意外と世話やきな妹分のこのみ。どちらを選んでも選ばれなかった方が傷つく。それが嫌だから、それが怖いから今まで答えを出そうとしなかった、考えようともしなかったのだが、これだけ何もすることがないとどうしても考えざるを得なくなってくる。しかし、それでも答えは出せないでいる。
いつまで経っても答えのでない考え事をやめ、貴明は目を閉じた。眠ろうと思ったのだ。起きていても仕方がない。考え事をしていたってどうせここから出られないのなら同じ事だ。
目を閉じ、どれだけの時間が経っただろうか。不意に胸の奥に熱いものを感じて貴明は目を開いた。着ているシャツの胸を片手で掴み、苦しそうに息を吐く。
(何だ……!?)
胸の奥の熱さが徐々に全身に広がってくる。それはまるで彼の身体を焼き尽くさんとばかりに。だらだらと汗が流れては落ちる。
「ぐあああっ!!」
突如胸の奥から全身に痛みが走った。悲鳴を上げて貴明はベッドの上でのたうってしまう。だが、そんなことで痛みは治まらない。何度も何度も、まるで彼の心臓が鼓動するたびにそれに合わせるかのように痛みが全身に伝わっていく。
(何だ、何だ、何なんだ!?)
全身の熱さと激痛に上手く思考出来なくなる。
(今までこんな事一度もなかったのにっ!!)
ベッドの上でのたうち回っていた貴明は遂にベッドの上から転げ落ちてしまった。それでも痛みは止まず、それどころかますます酷くなってくる。
「うああああっ!!」
訳もわからないまま絶叫する貴明。そうすればこの痛みが消えるとでも言うかのように、声を張り上げる。
と、その時、彼の脳裏に何者かの声が響き渡った。
――来るっ!!
その声を聞いた瞬間、激痛と熱を堪えるように固く閉じられていた貴明の目がカッと開かれた。
モニタールーム内でも貴明の変調の様子は映し出されていた。だが、モニターの中でもだえ苦しんでいる貴明の姿を見ても誰も表情一つ変えていない。ただ、冷静に貴明の様子を観察しているだけ。
その中でも白衣を着た女性だけ、やや感情的な目をして貴明の様子を見つめている。彼女だけが貴明の変調に何かを感じているかのように。
「折原主任」
貴明を映し出しているモニターとは別のモニターを覗き込んでいた男が女性の方を振り返った。
「例の波長が観測されました。あの被検体の突然の変調はおそらく共鳴現象だと思われます」
「来たのね、遂に。柚原一佐は?」
男の報告を聞いた女性は何処か感慨深げな表情を浮かべてそう言い、それからぐるりと室内を見回した。本当ならばこの部屋にいなければならない人物が一人いない。
「はっ、例の山の方で何かあったらしくそちらへ向かわれました!」
ドアの側に立っている兵士が白衣の女性に向かってそう報告する。
「こんな時に……いいわ。すぐにこの基地内に非常警報を出して。時間はあまり無いと思ってちょうだい。奴はもうこの近くまで来ているはずよ」
「はっ!」
白衣の女性に命令を受けてすぐさまその兵士が出ていった。本来ならば彼女に指揮権はない。だが、ここの指揮を執らねばならないはずの男がこの場にはいないのだ。だから代わりに彼女が命令を下したのだ。その権限が彼女にはある。そしてそれをこの部屋にいる者は皆知っている。
兵士が出て行ってから五分もしないうちにサイレンが鳴り始めた。基地内のあちこちであわただしく兵士達の移動が始まる。まるでこれから何者かがここを襲撃し、戦闘が起きるかのようだ。だが、それでも彼らの装備はやや重武装ながらも対人兵器が中心である。
全ての兵士達がその移動と配置を終えた時、突如地震が基地を襲った。激しい揺れが基地施設を襲い、地面に地割れを引き起こす。と、その地割れの中から何か巨大なものが身を乗り出してきた。
「な、何だ、あれは……?」
地割れの中から身を乗り出してきたのは巨大なモグラのような怪物だった。ただ単にモグラがそのまま巨大化したと言うわけではない。その身体のあちこちに水晶のような結晶体がまるでハリネズミのように突き出しているのだ。更に土を掘るのであろうやや太めの手の先には必要以上に鋭く大きな爪がある。もはや巨大モグラと言うよりもモグラ怪獣とでも言った方がいいのかも知れない。
そのモグラ怪獣は地上にその姿を現すと何かを探すようにキョロキョロと周囲を見回していたが、やがて目的のものが見つかったのかある建物の方へと移動を開始した。
「こ、攻撃開始っ!!」
この部隊の指揮官がそう叫び声を上げ、モグラ怪獣に向かって攻撃を開始させた。だが、こんなモグラ怪獣を相手として想定していなかった為に兵士達が持っているのはほとんどがライフル程度。これではほとんどダメージを与えることが出来なかった。それにこのモグラ怪獣は身体のあちこちに水晶のような結晶体を生やしており、それが鎧のようになりライフルから発射された銃弾を弾き返してしまってもいた。モグラ怪獣は防衛軍の兵士達の攻撃を全く意にも介さずにどんどんと建物に突き進んでいく。
「こんなものではダメだ! 戦車だ、戦車を出せ!」
これでは埒があかないと指揮官が無線に向かって叫ぶ。一応は待機していたのだろう、戦車隊がすぐにやってくる。
「攻撃開始! 奴をあれ以上近づけるな!」
指揮官が命令を下すと同時に戦車隊からの砲撃が始まった。だが、それでもモグラ怪獣の足は止まらない。戦車砲による攻撃すら蚊に刺された程度にしか感じていないのだろう。
「何て奴だ……」
全く攻撃の通じないモグラ怪獣を見て指揮官はただ呆然と呟くことしか出来なかった。
モニタールーム内では外の様子があるモニターに映し出されていた。
「全く何やってるのよ、ここの防衛隊は!」
苛立たしげにモニターを見ながら白衣の女性が言う。その表情には苛立たしさの他にも多少の焦りのようなものも浮かんでいた。
(でも……まさかあんな姿になっているなんて……予想外の速さで進化してる?)
モニター上のモグラ怪獣を見ながら白衣の女性は冷や汗を流している。彼女がこの場に現れると想定していたのはあのようなものではなかった。だからこそ、ここの防衛部隊は対人装備しか初めはしていなかったのだ。
「折原主任」
「え? な、何かしら?」
余りにもじっとモニターを見つめていた所為なのか、一瞬自分が呼ばれたことに気付かなかった。が、すぐに自分を呼んだ男の方を見る。
「この怪物、とでも言いますか、とにかくこれから出ている波長がデータにあるものとは別のものであることが判明しました」
「どう言うこと? さっきは……」
「はい、全体的によく似てはいるのですが細かい部分でいくつかの相違点が見つかっています。おそらくは例の被検体とは別のものではないかと」
「……彼ではない、と言うことなのね、あれは?」
念を押すかのように白衣の女性が尋ねたので男は大きく頷いた。それを見た女性は何か考え込むかのように腕を組んだが、すぐに顔を上げると、
「例のものを試してみるわ。すぐに用意して」
男に向かってそう言うと自らはモニタールームを出て行ってしまう。彼女が向かった先はこの建物の屋上であった。吹き渡る風に白衣の裾をはためかせながらサーチライトに照らし出されているモグラ怪獣を見る。
(……あの人も……あんな姿になっているのかしら? そして、あの彼も……)
感傷的になってはいけないと思いつつも、ついそんなことを考えてしまう。彼女の視線の向かう先がモグラ怪獣の方から、そのモグラ怪獣が目指している建物の方へと移された。実はその建物に貴明が監禁されている部屋があるのだ。
(あいつが向かっているのはやはりあの彼のところ……お互いに呼び合っているとでも言うの?)
戦車隊の攻撃を受けながらも、それをものともせずにモグラ怪獣は建物に向かって突き進んでいく。それを確認した白衣の女性は屋上から降り、彼女が来るのを待っていた男と共に今いる建物から出ていく。
「用意は?」
「とりあえずサンプルとしての分だけですが一応五発」
歩きながら白衣の女性が男に尋ねると、男は手に持っていたアタッシュケースを彼女に見せた。その中には五つのカプセルが入っている。
それを見た白衣の女性は小さく頷くと、男を伴い基地防衛隊の指揮官の下へと向かっていく。
その間にも戦車による攻撃は続けられており、更には応援として戦闘ヘリが数機飛んできてモグラ怪獣に向かって攻撃を始めていた。地上からは戦車砲、空中からはミサイル攻撃を受け、それでもモグラ怪獣を足止めするのが精一杯だった。ダメージらしいダメージを与えられているようには見えない。
「何なんだ、あれは……」
呆然と呟く指揮官。あのような巨大生物を相手にするのも初めてならば、全く現用兵器が通用しない存在を相手にするのも初めてなのだ。よくある怪獣映画ならば超兵器が出てきたり巨大な宇宙人が現れてあんな怪獣を倒してくれるのだが、これは怪獣映画などではない。一体どうすればいいのか、指揮官にはわからなかった。
「あんなものがこの地球にいたと言うのか……」
「違います。あれは地球上の生命体ではありません」
信じられない、信じたくないと言う感じで呟く指揮官に向かってそう声をかける白衣の女性。指揮官が振り返ると白衣の女性は辛うじて足止めをされているモグラ怪獣の方を見やり、それから指揮官の顔を見た。
「もっともあれ自体はこの地球上の生物を元にしているのでしょう。でも、その本質は地球外の生命体です」
「で、では、一体どうすればいいというのだ?」
「かつて我々が被検体としていたものからあの怪物に対する対抗手段を開発しておきました。これでならダメージを与えることが出来るはずです」
そう言って女性は自分の後ろに控えている男の手からアタッシュケースを受け取り、それを開いてみせた。
「これは分子レベルで細胞の結合を解く薬品が入っています。あの怪物は基本となる素体の他に複数の生物や鉱物を体内に取り込みその身体を構成しているはずです。この薬品を体内に注入出来れば」
「……それほど強力なのか、これは?」
アタッシュケースの中に納められている五つのカプセルを指差しながら、半信半疑の表情で指揮官が尋ねる。
「流石にあの大きさになるとこれを全て使用しても効果があるかどうかわかりません。ですが何もしないよりははるかにマシだと思います」
「……今は藁にでも縋りたい。使わせて貰おう」
指揮官は苦々しげな顔をしながら白衣の女性の手からアタッシュケースを受け取った。それから無線で部下を呼び出す。
「これは直接体内に注入しなければ効果はないのか?」
「あの怪物の身体を見るに、外側からでは効果は期待出来ないかと」
指揮官の質問に白衣の女性は戦車達や戦闘ヘリの攻撃を受けて怒り狂っているモグラ怪獣を見ながら答える。モグラ怪獣の身体は前述した通り、そのあちらこちらから突き出した水晶のような結晶体がまるで鎧のようになって表面を覆っている。そこにこのカプセル弾を撃ち込んでも結晶体に弾き返されるだけだ。結晶体に覆われていない腕や足、頭部を狙わなければならないのだが、モグラ怪獣は暴れ回っている為それも非常に難しい。
やってきた部下の兵士にアタッシュケースを渡し、指揮官が彼に二言三言伝えると、彼は指揮官に向かって敬礼をしてすぐにまた走っていった。
その頃、白い部屋の中の貴明は気が狂ったかのように部屋のドア、いや、そこだけでなく壁を叩きまくっていた。既に手の皮は破れ、血が出ているがそれでも彼は叩くことをやめようとはしない。
「出せよ! 出してくれよ!」
必死にそう叫びながら血の流れる手で部屋の壁を叩く。
「聞こえているんだろう! 出してくれよ!」
胸の奥の熱さと全身に広がる痛みは未だ治まってはいない。だが、それでもここにいてはいけないと言う何故だかよくわからない危機感のようなものが彼を突き動かしている。例え手から血が流れようとも、その痛みを越えた何かが彼を動かしているのだ。
「出せ! 出せよ!!」
貴明がそれだけ叫んでも誰一人として返事をする者はいない。
「くそっ!!」
やるだけ体力の無駄と悟り、貴明は壁に背を向けもたれかかった。身体の動きを止めると胸の熱さと痛みがぶり返してくる。何故だかわからないその熱さと痛みに苛立ちと不安が募る。更に外から小さく聞こえてくる爆発音のようなものも彼の不安を煽る一因だった。
何かが起きている。自分の身体の変調に合わせるかのように何かが外で起こっている。それが何であるかを確認したくても、この部屋に閉じこめられていてはどうすることも出来ない。何かあっても逃げることすら出来ない。
「何なんだよっ! 一体何が起きてるって言うんだよっ!!」
吐き捨てるように言う貴明。だが、その声を聞いているものは、やはり誰一人としていなかった。
と、その時だ。その部屋自体が大きく揺れたのは。まるで外から何かがぶつかったような、そんな衝撃が彼のいる部屋を襲ったのだ。
「うわっ!!」
その衝撃に貴明はまるで投げ出されるように床に叩きつけられてしまう。
「いたたた……何なんだよ、本当に……勘弁してくれよ」
痛みに顔をしかめながら身を起こす貴明。その目に少し開きかけたドアが映る。どうやら先ほどの衝撃でロックが外れたらしい。あれなら何とかこじ開けることが出来るかも知れない。完全に開き切らなくてもある程度隙間が出きればそこから抜け出すことが出来るはずだ。
貴明は立ち上がると開きかけたドアの隙間に手をやり、ぐいっと押してみたが何かに引っかかってしまっているのかびくともしない。
「くそっ、ダメなのか」
一瞬諦めかけてしまう貴明だが、また聞こえてきた爆発音のようなものにビクッと身体を震わせてしまう。さっきよりもその音は近くに聞こえてきた。それに先ほどの衝撃。ここにいたら危ない。それは自分の命に関わる程の危機だ。
「こ、こんなところで……」
もう一度ドアの隙間に手をかけて、今度は思い切り押してみた。やはりドアは動かない。だが、その時彼の胸の奥で何かが鼓動を刻んだ。彼の胸に一瞬だけ赤い光が浮かび上がり、それと同時に彼の手は物凄い力を発揮した。何かに引っかかっていて動かなくなっていたドアが一気に開いたのだ。しかもそれだけでなく勢い余ってドアはストッパーにぶつかってひしゃげてしまう。
「……な」
ひしゃげてしまったドアを見て言葉を失う貴明。それをやった自分の手を呆然と見つめてしまう。
「何だ……今、俺、何を」
呆然としている貴明を現実に引き戻したのはまたしても聞こえてきた爆発音のようなものだった。それと部屋を襲う震動。今いる建物自体が揺れているようだ。天井からぱらぱらと埃のようなものが落ちてくる。早く逃げないとこの建物が崩れるかも知れない。折角監禁されていた部屋から逃げ出すことが出来たと言うのに、崩れた建物の下敷きになってしまえば意味がない。
「逃げなきゃ……」
廊下に飛び出し、左右を見回してみる。どっちに行けばいいのか全くわからない。だが、迷っている暇もない。
――こっちだ!
再び彼の脳裏に聞こえてくる何者かの声。いや、声と言うよりも意思のようなもの、と言うべきかも知れない。それが一体何であるかはわからないが、貴明はそれに従うことにした。何故だかわからないがこの意思に従っていればここから脱出することが出来る、そう思えたのだ。何者かの意思に導かれるようにして貴明は走り出した。
何故貴明があの部屋を脱出出来たのか。その理由は簡単である。
あの監禁部屋のある建物に遂にモグラ怪獣が到達したのだ。基地防衛隊の必死の攻撃にもかかわらず、結局は止めることが出来なかった。それほどあのモグラ怪獣が強いと言うことなのだろう。
「……っ! 例の彼の安全を確保して! 彼は例の被検体をおびき出す囮に最適だわ!」
白衣の女性が自分の部下らしき男を振り返って言う。
「わかりました!」
男が頷いて走り去っていくのを見てから白衣の女性は今度は基地防衛隊の指揮官に食って掛かった。
「例のカプセルを何故使わないんですか!?」
「使わないのではない! チャンスを待っているのだ!」
苛立たしげに怒鳴り声をあげる指揮官。この基地のほぼ全ての戦力を投入してなお足止めすら出来なかったという事実が彼を苛立たせている。
それに実際のところ彼はあのカプセル弾の効果を信じてはいない。だいたいそう言うものがあるのならどうして初めからこちらに渡しておかなかったのか、それにこの白衣の女性達も信用ならない存在だ。
いきなりこの基地にやってきて、その目的も理由も何にも語らず自分たちを指揮下においたこの白衣の女性を初めとする一団。これが防衛軍の上層部からの命令でなければ、そしてやってきた一団と自分たちの間を防衛軍の中でも穏健派として知られる柚原一佐が取り持っていなければ、とてもではないが従ってはいられなかっただろう。だが、その柚原にしても彼にこの一団が何を目的としており、何の為にここにやってきたのかは教えてくれなかったが。ただ、超重要機密に属することだと言うことぐらいしか。
それはともかくこうして横合いからいちいち口を挟まれたくはなかった。それが指揮官の本音である。だが、それを口にする程バカでもない。
「攻撃を続けろ! 奴の動きを止めるんだ!!」
指揮官が再度命令を下す。
建物に頭を突っ込んだ形のモグラ怪獣に向かって戦車隊と戦闘ヘリの攻撃が再び始まった。戦車砲が、ミサイルと機銃が一斉にモグラ怪獣に襲いかかる。これで倒せないと言うことは先ほどまででわかっている。今度の攻撃はあのモグラ怪獣を動けなくし、例のカプセル弾を叩き込む為の準備だ。
カプセル弾を装填したバズーカを持った兵士がモグラ怪獣に向かって必死に走っている。カプセル弾の中身が確実な効果を発揮するには体内に直接投入するのが一番だ。だが、それをするにはモグラ怪獣の真正面の口にカプセル弾を叩き込まなければならない。流石にそれは無理なので、次善の策として鎧のように全身を覆う結晶体に覆われていない頭部を狙うことになっている。その為に最も有効な場所を探しているのだ。
だが、モグラ怪獣は頭を建物の中に半ば突っ込むような形でいるのでなかなか攻撃にいいポジションは見つからなかった。確実に当てるならかなり接近しなければならない。しかし、近付けば近付くだけ危険が増す。それにこのカプセル弾がもしも期待通りの効果を発揮しなかったらどうなる。ただ自らの命を危険にさらすだけだ。
「くそっ!」
戦車隊や戦闘ヘリによる攻撃は続けられている。だが、早くしないと弾薬切れを起こすだろう。そうなるとこのカプセル弾を確実に叩き込めるチャンスが激減する。バズーカを持っている兵士は覚悟を決めるしかなかった。物陰から飛び出すと一気にモグラ怪獣の方へと駆け寄っていく。味方の攻撃の流れ弾で吹っ飛ばされないように注意しながら彼はモグラ怪獣が頭を突っ込んでいる建物の中に飛び込んだ。建物の中からなら確実に命中させることが出来るはずだ。
廊下を駆け抜けてモグラ怪獣が頭を突っ込んでいる場所へと躍り出た兵士はすかさず持っていたバズーカを構えた。
「これでも喰らいやがれっ!!」
そう言いながら引き金を引く。バズーカから発射されたカプセル弾がモグラ怪獣の頭部に命中、爆発した。続けて二発目、三発目と連続でカプセル弾を叩き込んでいく。用意されていた五発のカプセル弾を全て撃ち込んだ後、彼は持っていたバズーカを投げ捨て大急ぎで元来た道を引き返そうとモグラ怪獣に背を向け走り出した。だが、少し走ったところで角から出てきた誰かと思い切りぶつかってしまう。
「うおっ!」
「うわっ!」
どちらも結構勢いが良かった所為か、互いに吹っ飛ばされてしまった。
「つぅ……一体誰だ、こんなところに……」
兵士の方が先に身を起こし、ぶつかってきた相手を見ると、そこにいたのは監禁されていた部屋から脱出してきた貴明であった。もっともそんなことなど兵士が知るよしもないのだが、とにかくこの場に不似合いな彼の姿を見て兵士は目を丸くする。
「お前、何で民間人がこんなところに!?」
「いたたた……」
吹っ飛んだ時に頭でもぶつけたのか痛そうに後頭部をさすりながら身を起こす貴明。
「何してる! 早く……」
先に立ち上がった兵士が貴明に向かって手を伸ばした時、いきなりモグラ怪獣が物凄い勢いで暴れ始めた。建物の壁を崩しながら大きく頭を振り上げ、後ろ足だけで立ち上がるとそのまま体重をかけるようにして前に倒れ込んでくる。先ほどからの衝撃で建物の外壁はあちこちひびが入っているような状態だった。倒れ込んでくるモグラ怪獣の体重を受け止めることが出来るはずもなく、がらがらと崩れていく。
「あぶねぇっ!!」
崩れてくる天井を見た兵士が彼の手を借りながら立ち上がろうとしていた貴明を思いきり突き飛ばした。そして自分も貴明のいる方へと飛ぼうとする。が、それよりも早く天井が崩落した。
突き飛ばされ、尻餅をついてしまった貴明の目の前で立ち込める土煙。その為、彼は自分を突き飛ばしてくれた兵士がどうなったかわからなかった。
「お、おい!!」
土煙の向こう側にいるであろう兵士に向かって声をかける貴明だが、返事は返ってこない。もしかしたら崩れた天井の下敷きになって死んでしまったのかも知れない。だが、徐々に薄くなってきた土煙の向こうに兵士が倒れているのが見え、貴明は彼を助けようとすぐにその側へと駆け寄った。
「だ、大丈夫か!?」
「う、うう……」
声をかけてみると兵士はどうやら生きているらしく呻き声が返ってきた。半ば気を失っている兵士の手を取り、自分の方へと引きずり出そうとしたが、兵士の身体は少しも動かない。よく見ると彼の足が崩れた天井の瓦礫に挟まれている。この為、彼の身体を動かすことが出来なかったのだろう。
「くっ!」
一瞬どうしようか迷った貴明だが、すぐに兵士の足の上の瓦礫をどかそうとその瓦礫に手を伸ばした。先ほど、閉じこめられている部屋から脱出した時に自分が出したあのバカ力、あれが出せればこんな瓦礫などすぐにどかせるはずだ。
「うおおっ!!」
必死に力を込めて瓦礫を持ち上げようとするが、余りにも重すぎるのか全く動かない。顔を真っ赤にして何度も試してみるが微動だにしなかった。
「さ、さっきは……」
ハァハァと荒い息をしながら瓦礫を睨み付ける貴明。さっき出せたあのバカ力が出せない。あの力さえ出せれば、と思うが出せないものはどうしようもなかった。それでも諦めずに瓦礫に手をかける。
「何やってるんだ! 早く逃げろ!」
「あんたを助ける!」
「馬鹿言うな! 俺のことなんか構わずに早く行け! でないとお前も……」
必死に瓦礫をどかそうとしている貴明に向かって兵士が怒鳴りつける。だが、貴明は彼の言うことを聞こうとはしない。
そんなところにこの場には明らかに不似合いな白衣を着た男が二人駆け寄ってきた。彼らは貴明を見つけるとその肩を掴んできた。
「河野貴明君。君を死なせるわけには行かない。我々と共に来たまえ」
白衣の男のやけに高圧的な物言いにカチンと来た貴明は肩を掴んでいる手を振り払い、また瓦礫を持ち上げようと腕に力を込める。
「何をしている。早く我々と」
「うるさいな! この人を助けるんだ! 少し手伝えよ!」
振り返りもせずに怒鳴る貴明。
「我々は君の身の安全の確保が最優先事項だ。彼には悪いが」
「巫山戯るな! この人は俺を助けてくれたんだ! 見捨ててなんか行けるかよ!」
白衣の男の言いように貴明は遂にそっちの方を振り返った。ジロリと白衣の男達を睨み付けるが、彼らは微動だにしない。
「俺のことには構うことはない、そいつを連れて行け」
睨み合っている貴明とは悔いの男達を見かねたのか倒れている兵士がそう言った。
「早く行かないとやばい。俺なんか助けている暇はないだろう」
「あんた、何言ってるんだよ!」
「バカ野郎! 早く行け、民間人のガキ! お前ら、こいつをさっさと連れて行け!」
「……済まない、感謝する」
白衣の男が兵士に向かって頭を下げる。どうやら心の底から彼を見捨てていこうと言う程冷たい人間ではないようだ。だが、彼らにとっては貴明の身の安全を確保することが何よりも最優先なのだろう。
「さぁ、来たまえ」
白衣の男が貴明の腕を掴む。
「何で……」
貴明は呆然と倒れている兵士を見る。信じられないと言った表情だ。ここに取り残されると言うことは確実に死を意味していると言うのに、それなのにこの男はどうして。
「お前の気持ちは嬉しいがな、どう頑張ったってこいつは動きゃしねぇ。運が悪かったのさ。ほれ、早く行け!」
兵士はそう言ってニヤリと笑った。どうやら死ぬと言うことを覚悟し、そしてその運命を受け入れているらしい。そう言う笑みを彼は浮かべている。そして、その笑みを貴明は泣きそうな顔で見ていることしか出来なかった。
「行くぞ」
白衣の男に促され、貴明が歩き出そうとしたその瞬間だった。
「危ねぇっ!!」
背後から聞こえてくる兵士の声。同時に貴明は思いきり前へと突き飛ばされていた。倒れた彼の頭上を何かが物凄い勢いで通り過ぎていく。その衝撃に煽られるかのように貴明は廊下を転がっていった。
「うわああっ!!」
ゴロゴロと廊下を転がり、反対側の壁にぶつかってようやく身体が止まる。ひっくり返った状態だったのだが、すぐに横側に倒れ、それから目を開けてみると廊下に向こうの方に例の兵士の姿が見えた。だが、自分を連れて行こうとした白衣の男達の姿はない。
「……な、何が……」
一体先程の一瞬に何が起こったのか。周囲を見回してみると、彼がぶつかった壁に何かが叩きつけられているのが見えた。それは人間の上半身らしきもの。一体どれだけの勢いで叩きつけられたのかぺしゃんこになり、壁にめり込んでいる。そこからだらだらと流れ落ちる血を見て、貴明は激しい嘔吐感に襲われた。口を手で押さえ、その壁の側から這いずるようにして離れる。
何があったのか、それを知るであろう兵士の方に涙が浮かぶ目を向けるとそこには人間の下半身が二つ、血を噴き出しながら立っているのが見えた。
「あ……ああ……あああっ!?」
口から漏れてくるのは悲鳴にもならない声。もしも突き飛ばされていなければあそこにもう一つ下半身が並ぶことになり、壁にももう一つ上半身が叩きつけられていたことだろう。
「何やってる! 早く逃げろ!!」
兵士の声が聞こえてきた。
半ば茫然自失状態だった貴明はその声にはっと我に返り、兵士の方を見る。彼は未だ倒れたままの状態で貴明に逃げるように手で示していた。継いで、片手を斜め上へと上げる。その手が指し示す方向へと貴明が首を向けると、そこには顔面がボロボロになったモグラ怪獣が立っており、やけにぎらついた目で貴明を見下ろしていた。
『見ツケタ』
突然頭の中に聞こえてくる声。まだ慣れていない言語を喋るかのようにそれはたどたどしい。だが、その意味だけははっきりとわかる。
『ココマデ追ッテキタカ、追跡者。ダガ、ココデオ前ヲ潰ス』
口を動かしているわけではない。だが、その声は直接貴明の頭の中に届いてくる。テレパシーか何かなのだろう。
そして、モグラ怪獣が自分を見下ろすその視線に込められている感情。怒り、憎しみ、殺意。執拗なまでに自分を殺そうと言う強烈な意思。それが貴明の体の自由を奪う。
ヘビに睨まれたカエルと言うのはこう言う感じなのだろうか。青ざめた表情でモグラ怪獣を見上げることしか出来ない貴明。もはや逃げることもどうすることも出来ない。
「何してるんだよ! 早く逃げろ!」
兵士の声が聞こえてくるが、それははるか遠くから聞こえているかのように小さい。貴明の目はモグラ怪獣が振り上げた太い腕にのみ注がれている。あれが振り下ろされれば自分など一溜まりも無いだろう。あっさり叩き潰され、原形すらとどめていないかも知れない。感情が麻痺してしまったのか、何処かぼんやりとした頭でそんなことを貴明は考えていた。
やっぱり自分は死ぬのだな、と思い目を閉じる。数日前の夜、学校の裏山で殺されたと思ったのに生きていて、あれは夢だったのかと思いつつも訳もわからずに監禁され、そして今ここでこうして怪獣の手によって叩き潰されそうになっている。最後の最後でこれほどまでの非日常に叩き込まれるとは思ってもみなかった。
自分が死んだら、前にも同じようなことを考えたことがあったな、と思いつつ口元に笑みを浮かべてみる。人間はいつか死ぬ。それが早いか遅いか、どう言った形になるか。所詮はそれだけのことだ。残された者には悪いが、これも運命なのだろう。
(でも……もう一度会いたかったな)
きっと自分を心配してくれているであろう人たちの顔を脳裏の思い浮かべる。雄二や花梨、るーこ、クラスメイト達、後輩の少女達、そして自分に思いを寄せている二人。
このみと環、その二人の顔を思い浮かべた瞬間、貴明の胸の奥で何かが激しく鼓動した。その鼓動が全身に広がっていく。カッと目を開く貴明。その胸に浮かび上がる赤い光。
「うあああああああっ!!」
突如叫び声を上げ出す貴明の胸で赤い光はその輝きを増していく。
「な、何だ……?」
まばゆい赤い光に思わず目を覆う兵士。
「うあああああああっ!!」
その叫びと共に貴明の身体が赤い光に包み込まれて宙に舞った。そして、その赤い光に吸い込まれるように崩れた建物の瓦礫などが舞い上がっていく。いくつもの舞い上がった瓦礫が組み合わさり、人のような姿を形作る。
それを見たモグラ怪獣がそこに頭から突っ込んでいった。何らかの危険を感じたのかも知れない。とにかく邪魔をするように突っ込んでいく。
だが、モグラ怪獣が突っ込んでくるよりも一瞬早く、赤い光を中心に舞い上がった瓦礫がモグラ怪獣に匹敵する大きさの石の巨人の姿となり、モグラ怪獣の頭をその腕で受け止めた。そのまま力任せにモグラ怪獣を横に投げ飛ばす。
地響きを立てながら投げ飛ばされたモグラ怪獣が地面の上を転がった。
突然現れた石の巨人がモグラ怪獣を投げ飛ばすのを基地防衛隊の指揮官と白衣の女性が呆然とした面持ちで見つめている。
「な、何だ、あれは?」
指揮官が石の巨人を指差して白衣の女性に尋ねるが、彼女はじっと石の巨人を見つめたまま何も答えなかった。いや、答えることが出来なかったと言うべきか。彼女は夢中になったように石の巨人を見つめ続けていたからだ。
(やはり彼は……)
石の巨人は起きあがったモグラ怪獣と睨み合うように対峙していた。端から見ていると、その光景はまるで会話をしているようにも見える。
「一体何をしているんだ、あいつらは?」
動かない巨人と怪獣を見て指揮官が呟く。今の間に攻撃を加えるべきかどうか。それともあの石の巨人が敵か味方か、それがはっきりしない今はまだ攻撃するのを控えた方がいいのか。その判断がつけられない。
そうしているうちにモグラ怪獣の方が動いた。鋭く太い爪を持つ腕を振り上げて石の巨人に向かって襲いかかっていく。
石の巨人は左腕でモグラ怪獣の腕を受け止めると、右手を前に突きだした。身体を起き上がらせていたモグラ怪獣の胸をその手が突き、モグラ怪獣を吹っ飛ばす。その力は強大でモグラ怪獣の巨体が宙を舞った。そのまま後方にあった建物を押し潰しながら地面に倒れ込む。
それを見た石の巨人が倒れているモグラ怪獣に向かって走り出した。かなり重量があるらしく、一歩踏み出すごとに地面が揺れる。だが石の巨人はそんなことなどお構いなしにモグラ怪獣の方へと突っ込んでいった。だが、モグラ怪獣は予想外に素早い動きで身を起こし、くるりと石の巨人の方に背を向けた。
あちこちから飛び出している水晶のような結晶体に覆われてまるで鎧のようになっている背中側を向け、石の巨人に向かってジャンプするモグラ怪獣。丁度突っ込んできていた石の巨人が、モグラ怪獣の思わぬ攻撃に吹っ飛ばされてしまう。見事なカウンターでの攻撃だった。
背中から地面に叩きつけられた石の巨人の上にモグラ怪獣が飛び乗ってくる。そのまま石の巨人を押し潰そうと言うつもりらしい。間一髪、横に転がってモグラ怪獣をかわした石の巨人は、素早く身を起こすとモグラ怪獣の背に生えている結晶体の一つに手をかけた。今度はこちらの番とばかりにその結晶体に手刀を叩き込んで破壊する。だが、次の瞬間、他の結晶体が一斉に石の巨人の方を向き、まるでミサイルのように背中から飛び出してきた。近距離からの結晶体の攻撃を受けて石の巨人が派手に吹っ飛ばされる。
今度は何とか倒れることなく踏ん張った石の巨人だが、モグラ怪獣は次々と結晶体をミサイルのように飛ばしてきた。両腕で飛んでくる結晶体をガードする石の巨人。しかし、このままではどうにもならないと思ったのか石の巨人はガードしている腕を前に突きだした。そして次から次へと飛来する結晶体を手刀で打ち砕き始める。そのまま少しずつ前進し、モグラ怪獣との距離を詰めていく。
「あの巨人は……味方なのか?」
少しずつではあるが確実にその距離を詰めていく石の巨人を見ながら指揮官が呟く。
「どうでしょうか。少なくてもあの怪物とは敵対関係にあると言うことだけははっきりしていますが」
彼の呟きを聞いた白衣の女性が真剣な表情を浮かべてそう言った。
「むう……ならば、あの怪物と巨人、どちらかが生き残ればそれが我々にとっての敵、と言うことか?」
「さぁ? まだそれは何とも言えません。何にせよ、現用兵器ではあれに勝つことは不可能に近いでしょう」
「……先ほど例のカプセル弾が使用してみたが思った程の効果は出ていないようだな」
「そんなことはありません。現にあの怪物の頭部は」
白衣の女性がそう言いながらモグラ怪獣の頭部を指差した。
彼女が持ってきたカプセル弾、その中に込められていた薬品の効果が出ているのかモグラ怪獣の顔面は酷く爛れていた。今も白い煙が上がっている。
「しかし、あの巨体では足りなかったと言うことは認めます」
「急いで量産して貰いたいものだな」
「既に始めております」
基地防衛隊が見守る中、石の巨人がモグラ怪獣の側まで遂に辿り着き、大きくジャンプしてモグラ怪獣を飛び越えた。そして空中からのキックをその頭部に叩き込んでいく。巨人自体の重さもあり、その威力は生半可なものではない。そんなキックを頭部に受けたモグラ怪獣が倒れ伏す。それを背に地響きを立てながら石の巨人が着地した。
「……終わったか?」
倒れ伏したまま、全身をぴくぴくと痙攣させるモグラ怪獣。それを見た指揮官がそう呟き、無線機を手に取った。生き残った石の巨人への攻撃命令を発しようとしたのだが、白衣の女性が手を伸ばして彼から無線機を奪い取る。
「まだ終わっていません」
短くそう言うと、彼女はモグラ怪獣の方へと目を向けた。
全身をぴくぴくさせていたモグラ怪獣がいつの間にかむくっと身体を起こし、背を向けている石の巨人をじっと見つめている。
その石の巨人は背後で身体を起こしたモグラ怪獣の気配を感じたらしく、素早く振り返った。そして、モグラ怪獣に向かって駆け出そうとして、いきなりその場に膝をついてしまう。
「何だ、どうしたんだ?」
「わ、わかりません」
突如膝をつき、苦しそうに肩を大きく上下させている石の巨人を見て指揮官と白衣の女性が二人して驚きの声をあげる。二人の位置からは見えなかったが、石の巨人の胸では赤い光が激しく点滅していた。それが何か関係しているのだろうか。更に石の巨人の身体を構成している瓦礫がぱらぱらと崩れ始めている。
それを見たモグラ怪獣は身体を起こすと、両腕を振り上げて石の巨人に向かって飛びかかってきた。どうやらこれをチャンスと思ったようだ。鋭く太い爪が石の巨人に襲いかかる。
石の巨人はとっさに両腕を広げてモグラ怪獣の腕を受け止めた。だが、初めの頃のような力はもう出せないのか、徐々に押されてしまう。と、その時、モグラ怪獣の腹からいきなり一本の結晶体が飛び出し、石の巨人の胸を突いた。予想外のところからの攻撃に石の巨人は為す術もなく吹っ飛ばされてしまう。
倒れた石の巨人を見たモグラ怪獣はその場で地面を掘り始めた。この場から逃げようと言うのか。石の巨人との戦いでそれほどダメージを負ったようには見受けられない。むしろ顔面に撃ち込まれたカプセル弾のダメージの方が大きいだろう。にもかかわらずここから逃げ出そうとしているのはあのカプセル弾の効果がようやく出てきたのか。
地面を掘り、その中に上半身を突っ込んでいるモグラ怪獣。石の巨人が身を起こし、初めに見たのはそう言う光景だった。慌てて立ち上がり、石の巨人は身体を半分くらい地中に埋めているモグラ怪獣に飛びかかった。下半身を掴もうとするが、それではまた背中の結晶体の攻撃を受けてしまうだろう。だから、と言うわけでもないのかも知れないが石の巨人が掴んだのはモグラ怪獣の尻尾だった。そのまま綱引きの要領で尻尾を引っ張る。ぐいっと尻尾を引っ張り、モグラ怪獣の身体を地面から引きずり出すと一気に投げ飛ばした。大きく宙を舞い、地面に叩きつけられるモグラ怪獣。
背中から地面に叩きつけられたモグラ怪獣を見た石の巨人は右腕を天に向かって突き出した。その腕が徐々に赤い光に覆われていき、その光が石の巨人の腕全体を包み込んだ瞬間、石の巨人はその腕を一気に振り下ろす。すると、石の巨人の腕から赤い光が飛び出し、その赤い光は光の刃と化してモグラ怪獣目掛けて一直線に飛んでいった。
何とか身を起こしたモグラ怪獣だったが、そこに赤い光の刃が襲いかかり、真っ二つにされてしまう。頭から両断されたモグラ怪獣の身体が左右に分かれながら倒れた。
「……やった……」
ずっと石の巨人とモグラ怪獣との戦闘を見ていた基地防衛隊の誰かが呟く。遅れて上がる歓声。だが、指揮官は一人険しい表情を浮かべながら石の巨人を見つめている。形はどうあれ、あの石の巨人は自分たちを助けてくれたのだ。しかし、今度はあの巨人が自分たちにその強大な力を向けないと誰が言えよう。そっと無線機を手に取り、ごくりと唾を飲み込む。だが、彼の目の前で石の巨人に異変が起きた。
石の巨人の身体を構成していた瓦礫がパラパラと崩れ始める。それは初めは少しずつだったが、段々増えていき、崩れていく欠片も大きくなっていく。見る見るうちに石の巨人はその姿を無くしていき、巨人が立っていた場所には崩れた瓦礫の山だけが残された。その山の一番上に弱々しい赤い光が見えていたが、それもすぐに消えてしまう。そして、その後には意識を失った貴明が倒れていたのであった。
NEXT