第壱話 既知にして未知の出会い(前編)
鶴素子(つるもとこ)は不安だった。
噂通りに『彼女』が頼みを聞いてくれるかどうか。
おそらくは大丈夫だろう。
しかし、100%確実とは言い切れはしない。何事も実際にやってみなければ分からないのだから。
だが、かと言って、このまま何もしない、というわけにはいかないのも確かなのだ。
他ならぬ、彼女の為に。
だから、素子は意を決し、
昼休みで騒ぐ教室の中、一人サンドイッチ片手に携帯ゲーム機を弄っていた少女に歩み寄っていった。
その少女は、周囲の騒がしさに埋没するかのようにゲームに没頭している。
彼女が手にしている最新の携帯ゲーム機からは『……お前の願いは何だ』と問い掛ける音声が零れていた。
少女は考え込んだ様子でそんなゲームの画面を見詰めている。
そんな状況に少し気後れしつつ、素子は少女に声を掛けた。
「その、壱野……さん」
素子に声を掛けられた少女……壱野夜(いつのよる)は、素子の声に反応して顔を上げた。
そうして自分を見上げる夜の顔を見て、素子は思わず息を呑んだ。
表情や雰囲気ではなく、ただ純粋な美貌に。
たかだか高校2年生の少女に『美貌』などとは大袈裟かと思う人間も多いかもしれないが、
事実彼女の容姿にはその言葉が当て嵌まっている様に思えた。これ以上ないほどに。
肩より少し長く伸ばした黒髪。
自ら薄く光を放っているかのような艶やかなそれは十二分な手入れがされているのが見て取れた。
彼女はそんな黒髪をツーサイドアップにしているのだが、そのままストレートにした方が彼女の雰囲気に合うのではと素子は思った。
彼女の”素性”を考えれば相応しくないであろう、
何処かで見たような、何処ででも見られるような、
安っぽい石を加工したらしいものをアクセサリとした髪留めも少し似合っていない。
しかし、それらの不似合いによるマイナス点を帳消しにしてしまえる容姿を彼女は持っていた。
組んでいる足は長く、顔も小顔、服の上からなので確かな事は言えないが、偽っていなければスタイルも抜群だろう。
正直、憎らしいほどに、天は二物以上を彼女に与えまくっていた。
そんな非の打ち所がない存在に思える少女、夜は、
座ったままの自分を見下ろす少女に、外見からイメージできるものより少し高い、澄んだ声音で問い掛けた。
「どちら様、ですか? 何か御用でしょうか」
「……。1年の鶴、って言うんだけど。
その、頼みごとを、依頼を、お願いしたいと思って」
素子の言葉が聞こえた為か、教室から何割かの音が消える。
彼女の言葉の意味に少なからず気付き、その先を聞きたいが為の音の消失だった。
そんな周囲の反応に気付いたらしい夜は、一瞬だけ視線を周囲に向ける。
その一瞬の内に何事か考えたのか、視線を再び素子に移してから、夜は言った。
「ここじゃなんですし、場所を移しましょうか」
そう言いながらゲームを閉じて、机の中に片付ける夜。
そんな夜の提案に素子が頷き、2人は教室を出た。
自分達に注がれていた視線、その中に隠れていた異質な視線に気付く事無く。
夜が素子を誘った先は、夏の季節……と言っても今は6月の半ばほどだが……には敬遠される日当たりが良い中庭だった。
そこには生徒の憩いの場所として提供されている場所として、オープンカフェのようなテーブルや椅子が幾つか用意され、並べられている。
それらの頭上にテントと名称するよりはマシな程度という木造の屋根が四方四本の柱に支えられ、存在していた。
その屋根によりそこは一応日陰にはなっている。なっているのだが、現状の暑さの前には何の役にも立っていない。
素子の体中から流れている汗はその証明と言えるだろう。
「暑いなぁ……遅いなぁ……」
椅子の一つに腰掛けて、額の汗をハンカチで拭いながら素子は一人呟く。
今現在ここにいるのは彼女一人。
話をする場所としてここを提案した夜はというと、素子を先に行かせた後、何処かへ姿を消していた。
「ったく、何やってるんだか……」
「……ごめんなさい。お待たせしました」
背後から掛けられた謝罪の声に少し驚きつつも振り返ると、夜がそこに立っていた。
その白く細い手には何かが入った少し大きめの白いビニール袋が握られ、ぶら下げられている。
「それから、こんな場所でごめんなさい。校内で人気がない場所なんて限られてますから」
「はぁ……まぁ、そうだけど」
「そのお詫びに飲み物をどれかどうぞ」
「ええ、うん、どれか……?」
先に行かせたのはこの為か、とか、
何本か買ってきているのだろうか、とか思いながら、
夜がビニール袋から缶を出していくのを眺める素子。
コーラ、コーヒー、紅茶、スポーツドリンク、オレンジジュース、グレープジュース、乳酸菌系飲料、エトセトラエトセトラ……。
「って、一体何本あるのっ!?」
余りの多さに思わず突っ込みを入れる素子。
ソレを受けた夜は、あはは、と照れ臭そうに笑う。
「え?
いや、その、貴方の好みを聞いていなくて、
どれを買ったら良いか分からなかったものですから……
缶ジュースですから余ったものは持ち帰れば良いですし」
それらは、暑い場所で話を聞く事になる素子へのお詫びの為に購入したのだろう。
購入の際に好みを聞かなかったのは、気を遣わせないためだったのかどうかは素子には分からない。
というかむしろ聞けよ、と、素子は思った。
「どれにしますか?」
「コーラでいいわ……」
呆れ気味に答える。
無駄遣いその他に色々思う所はあるが、
正直なところ、それは素子にとってどうでもいい事だ。
少なくとも今は重要な事を話す為だけにここにいるのだから。
コーラもあまり飲む気分ではないが、気分とは別に暑さは耐え切れないし、
要らないと言って問答を長くするのも避けたいので、円滑に話を進める意味でももらっておくとしよう。
そんな思考の元に、素子は夜の差し出したコーラを受け取った。
そのコーラを手渡した後、素子の真向かいの席に着いた夜は、
先程までより気を引き締めたのか、僅かに目を細めながら言った。
「それで、依頼とは?」
依頼。
女子高生に相応しくないその言葉は、
壱野夜という少女にとっては日常……とは言えないまでも、ありきたりのものらしい事を素子は知っていた。
彼女、壱野夜は『自称・何でも屋』だった。
誰か困った事があれば、どんな事でも引き受け、解決するという。
しかも無償で。
噂によると、中学生の頃からそういう事を始めていたらしい。
当初は正義感が強い、
もしくは思春期特有の勘違い少女の気まぐれ、もしくは暴走とも取られていたその行動や言動が、
彼女の周辺より少し広く有名になったのは一つの大きな出来事がきっかけだった。
壱野夜が中学三年生の頃。
この辺りで騒ぎになっていた真夜中に騒ぐ若者……少し古い言い方で言えば暴走族を�猯鷲佞��瓩婆曚蕕擦討靴泙辰燭里澄�
十数人でたむろしていた青年達を、たった一人の少女が、である。
青年達が比較的表通りのコンビニでたむろしていた時にそれを行った事、
最終的に警察も出てきた事もあり、その一連の出来事を目撃し、見物していた人間は結構いたらしい。
結果、彼女の行動は噂となり、それなりに広がり、
以後周囲の人間……より一回り遠くの人間は、夜を腫れ物を扱うように扱っている。
夜の周囲の人間はというと、
基本的に彼女は明朗快活、容姿端麗、文武両道、性格良好なのをそれなりに知っているので、それよりはまともに扱っている。
さておき。
少女である所の彼女に何故そんな事ができるのかという理由として幾つか当て嵌まるものに『彼女が大金持ちのご令嬢だから』という一つの事実がある。
曰く、父親のコネで総合格闘技元チャンプに格闘技を習った(夜本人確認済み)。
曰く、有り余る資金で剣道、柔道、合気道、空手、茶道など馬鹿みたいに習い続け、習得を続けている(一部のみ夜本人確認済み)。
曰く、暇を見ては海外に出向き、日本では出来ない射撃訓練を重ね、正確無比のスナイパーとなった(これは噂)……などなど。
それだけの噂(一部事実)が真実味を持って語られているのは、夜の父親に理由がある。
夜の父である壱野太陽。
彼は、彼らが住み、暮らしている丘葦水市の支配者……では決してないが、
実質的にはそう言ってしまっていいほどの影響力を持つ人間なのである。
丘葦水市において、彼を頂点とする壱野グループ傘下ではない……
繋がりがない企業・会社・店舗は探すのが難しいほど。
最近丘葦水市の中心部に新規企業の大型本社ビルが建つ予定があったのだが、
壱野グループの更なる業績向上の影響を受けて工事途中で停止している……という噂さえ立っている。
そんな状況・事実を並べてしまうと、
支配者などと揶揄されるのも当然ではあるが、実際の所は違う。
むしろ壱野太陽自身は、グループの発展を願いつつも、
それで不幸になる人間が出ない事を望み、街の状況や日本経済を常に憂えている人間なのである。
彼の助けによって倒産を免れた会社は百近くに及んでいたりするなど、嘘のような人格者だったりもする。
夜の行動……『無償の善意』については、
そんな太陽の血を引いているからだ、というのが生徒や親達の意見であり考えである。
しかし、実際の所、夜が何を思ってそんな事をやっているのか、知る人間は少ない。
素子自身も正確な所は分からない。
素子としては、そんな夜にやってもらわなければならない事がある、ただそれだけでしかなかった。
ゆえに。
素子は、夜について思う所を一時的に振り払い、彼女への『依頼』を始めた。
「あの、実は……私の友達が、その、行方不明に……」
「ここ数日騒がれている、女子高生の失踪事件絡みですね?」
「うん、多分、そうだと思う」
「……最近はそんな事件ばかりですね……」
言って、小さく溜息を零す夜。
彼女は素子の視線を感じると、ごめんなさい、と呟いた。
「それを探して欲しい、という依頼なら、既に受けています。
行方不明になっている三人のお友達から。
貴女の探して欲しい友達というのは……」
夜が述べた三名の名前。
その中に、素子が捜索を依頼しようと考えていた人物の名前は確かにあった。
「ふむ。そういう事であれば、方針は変わらずに済みそうですね」
「……。壱野さんは、この事件、のことをどう思っているの? 噂では……」
「化け物が目撃されている、という事ですね。
昨今のおかしな事件によくあるように」
夜の言葉に、素子は少し顔を顰めつつも頷いた。
化け物。人を脅かすもの。
最近……単なる噂話を情報ソースとし、仮に不確かなソレを事実とするのなら、半年前からこの街に存在し始めているもの。
可能性として時折ニュースに上がてっはいるものの、確定には至らない存在。
その存在、可能性については、基本的には一笑に付されるものだった。
当たり前だが�牴修永��瓩�存在するなど素直に認められるほど無邪気な大人はいないし、子供もいない。
アニメや特撮などに目を輝かせる子供でさえ、化け物が存在しない事はよく理解しているのが昨今である。
そんなありえない可能性を口にした素子をジッと見据えた後、夜は言った。極めて真剣な表情で。
「噂は噂ですけど……噂が立つのはそれなりの理由があるはずです。
今現在集めた情報から見るに、彼女達には家出したりする状況にありませんでした。
その事や他の情報を踏まえると、化け物はともかくとして、彼女達がなにかしらの突発的な異常事態に巻き込まれている可能性は低くないと思います。
そしておそらく、それら、彼女達は何か、何処かで繋がっている……少なくとも私はそう考えています」
「どうしてそう思うの?」
「私の勘、というのもあるのですが。
全員この学校の女子生徒である事を始めとする、幾つかの類似事項が存在しているのがその根拠です。
……まぁ、実際の真実は私的にはある意味どうでもいいですけど」
「そ、そうなの?」
「ええ。私は生憎探偵でも警察でもありません。
頼まれた事……友達を助けて欲しいというお願いに応えたい、ただそれだけですから。
……失礼、話が脱線してしまいましたね。
現在私はここ数日中、その繋がりの線から調べているのですが……中々情報がまとまらない状況です。
いえ、正確に言えば、集まった幾つかの情報を有意義に使えていない状況でした」
「でした、という事は……」
「はい。貴女のお陰で情報を有意義に使えそうです。
実の所、ある程度の目星は既に付いていたのですが、確信というか踏ん切りが付けずにいました。
先程も言ったように私は探偵や警察ではありませんが、それでも決定的な行動を取るにはある程度の判断材料は必要ですから」
「え? ど、どういうこと?」
「その辺りについての説明は……今は止めておきます。
要は、貴女のお陰で、解決に向けてある程度の目処が立った、という事です。ですが……」
「?」
「いえ、これは多分要らぬ心配です。万全にしておけば問題はないでしょう」
「そ、そう。あ、えっと、それで結局依頼は……?」
「ああ、そうでしたね。
話が遠回りになってしまいましたが、依頼はお受けします。
元々の依頼と重なっている事もありますが、それ以前に放置出来ない事ですので。
確実なお約束は出来ませんが、可能な限り結果を持ってお答えします」
「それで、その、お礼とかは?」
「お気遣いありがとうございます。
でもお礼とかは必要ありません。これは私がやりたいからやっている事なので。
さて。貴方の依頼についてはここまでとして。
……それで、先程からこちらを覗いている人は何の御用ですか?」
「あちゃー、バレバレか」
少し離れた木陰から現れた男子生徒に二人とも覚えがあった。
夜にとってはクラスメートである。
彼の名は、世田大(せたひろし)。
全国に通用するレベルのサッカー部において、一年でレギュラーを与えられている、今後の活躍を全校生徒に期待されている一人である。
おまけに、長身で爽やか、かっこよく、性格も良いと来れば、女の子にもモテる。
そういう意味でも彼は有名だった。
「あれだろ? 最近ウチの女子が行方不明になってた事件について話してたんだろ?」
大は今まで盗み聞きをしていたとは思えない堂々さで二人に歩み寄る。
そんな大の眼を見据えつつ、夜は言った。
「どうしてそう思うんです?」
「いや、最近壱野に何回か依頼とか言ってくる子がいただろ?
んで、その子達の顔に覚えがあったもんで。
気になって色々聞いて回ったら、
行方不明になった子達が、俺の、その、知ってる子達みたいだったからさ」
「それは告白された子という意味でいいですか?」
「うわっ、きっぱりだな。
いや、まぁ、うん、その通り。
だから気になってたんだよ。
で、その子が壱野の所に来たのをきっかけにさせてもらった上で協力しようと思ってな。
盗み聞きした点は謝罪するよ」
「協力?」
「その子達の事を知ってる以上、無関係、放置ってわけにはいかないだろ?」
「無関係・放置で構いませんけど」
どうでもよさそうな声音で夜は言う。
素子に対するものとは違い、対応に硬さがあるのは警戒ゆえか。
その態度に、大は困ったような笑みを浮かべつつ、言った。
「いやいやいや。俺としてはそういうわけにはいかないんだよ。
このままにしておいて、誰か死んだりしたら……その、いくらなんでも寝覚めが悪すぎる」
そこで彼は笑みを潜め、真剣な顔で夜に向き直った。
「だから頼む。必要なら土下座でもなんでもするから。
今日から俺にも手伝わせてくれよ」
「…………」
そんな大の言葉に何か感じるものがあったのか、夜は暫し考え込んだ。
そうした思考の末に、大の顔を一瞥した後、小さく息を吐いて夜は答えた。
「……分かりました。
じゃあ、今日状況説明兼ねて色々回るんでついてきてください。
放課後下駄箱で落ち合いましょう」
「うっし、了解。よろしく頼むわ」
ビシッとおふざけで敬礼する大。
ソレを見た夜は、小さく息を吐いてから呟くように言った。
「挙手の敬礼の場合、上げるのは右手ですよ」
「え? 決まりとかあるん?」
「……じゃあ、戻りましょうか」
「突っ込んどいてスルー?!」
「そろそろ昼休みも終わりますし。すみません、余計な時間をとらせてしまいました」
「あ、ううん」
最後の台詞が自分に向けられたものだと気付き、素子は首を横に振った。
夜はそう言うが、素子自身は余計な手間だとは思っていない。必要な事なのだから。
「そうですか。そう言っていただけると助かります。では行きましょうか」
そんな夜の言葉を最後に三人は席を立つ。
そうして三人が校舎に戻ろうと歩いていた最中。
「ん?」
夜達の進行方向で、一人の男子生徒が複数の生徒に囲まれていた。
それを止めに入っていると思しき男子生徒も一人いるようだが、
乱暴に胸倉をつかまれている様子は、贔屓目に見ても良い雰囲気ではない。
「おい、どしたよ?」
その状況に躊躇いなく近付いて、大が尋ねた。
基本的にどんな人間とも親しくなれるのか、
女子にモテる男子には珍しく、彼は男子とも顔が広く、友人も多いらしいので、
顔見知りがいるのだろうと二人は考えた。
その推測が正しいのかのはさておき、
からんでいた方である複数の生徒の一人が答えた。
「コイツがぶつかってきやがって、謝りもしないんだよ」
「いや、待て待て。
ぶつかったと言ってもそんなに強くぶつかったわけでもないんだし……って、壱野」
「友二君。……よければ状況を説明してくれる?」
そこに居合わせたらしい伴戸友二(ばんと ゆうじ)の存在に気づき、夜は疑問をぶつけた。
友二は、クラスメートではないが、夜にとって馴染み深い、幼馴染の友人である。
彼が事態を理解しているらしいのをこれ幸いとばかりに尋ねると、頭を掻きつつ友二は答えた。
「いや状況も何も……そこの角でぶつかったってのが普通に真実だし。
まぁ西木の奴が若干急いでた感があって、
前方不注意気味だったけど……
急停止したからそんな派手にぶつかったわけでもないからさ」
「……西木君」
夜が呼び掛けた先にいたのは、胸倉を掴まれている長身の男子生徒。
彼の名は、西木慧悟(にしぎけいご)。夜や大のクラスメートである。
彼は、ボサボサの髪を校則違反気味に伸ばしている……というか放置しており、散髪した頃位しか顔をまともに見れない。
たまに見る事が出来るその顔も特筆して語る事はなく、
それでもあえて語るなら若干目付きが悪いぐらいでしかない。
おそらく、ただのクラスメートであるのなら、たったそれだけのその情報も夜の中にはなかっただろう。
そう、ただのクラスメートであったのなら。
夜にとって慧悟はただのクラスメートではない。
と言っても親しい間柄などでは決してなく、中学・高校と同じクラスなのが5連続なだけ。
強いて言うのなら『若干腐れ縁気味な関係』という所だろう。
(……いや。でも、ないですね)
夜は、心の内だけで呟いた。
夜と慧悟には、ただの腐れ縁とも言い難い事が何度かあった。
大した事、なのかどうかのか判断が付きづらい事なのだが。
夜にそんな事を思い返されているとは露とも知らないだろう慧悟は、
詰まらなそうな、それでいてねめあげるような視線で、この場に居る人々を眺め見ながら言った。
若干小さな、聞こえ辛い声で。
「……謝った、よ。ただ、聞こえなかっ……っ」
「あぁ?」
言葉の途中で絡んでいる生徒が掴んだ胸倉を押し上げる。
その為、生まれ掛けた言葉はあっさり消えてしまった。
だが、その言葉に謝罪の意を含んでいたのは何人かには聞こえていた。
「ゴチャゴチャ言ってんじゃねーよ、根暗が」
「おい、やめろよ。一方的に」
「世田の言う通りだ。いくらなんでもぶつかっただけでこれはないだろ」
その。聞こえていた人間である所の友二と大が止めに入る。
そんな二人に男子生徒達は不満げな表情を隠そうともしなかった。
「なんだよ、お前ら。こんなキモイ奴の肩を持つのかよ」
「キモイとかキモクないとか今は関係ないだろうが」
「いーや関係有るね。俺はコイツのキモイのが気にいらねー」
「それただの因縁だろ。人間としてちっちゃくね?」
「なにぃ……?!」
売り言葉に買い言葉……というには、まだ少し弱いやり取りであるが、徐々に険悪な空気が漂っていく。
そうして、騒ぎが大きくなりつつあった最中。
パンッ。
そんな乾いた、それなりに大きな音が響き渡る。それは夜が手を叩いた音。
その唐突な行動に視線が集まる中、人々の視線に微塵も揺らぐ様子を見せず、夜は朗々と声を上げた。
「そこまでです。確かに、二人の言うとおり、貴方達のやっている事は一方的過ぎます。
ただぶつかっただけでそこまで絡む必要性はないでしょう?」
「……」
「どうしても気に入らないというのなら……私にも考えがあります」
「なんだよ?」
そう問い掛けると、夜は一転して笑顔を浮かべた。
誰もが容姿端麗と認める少女の人懐っこい笑みは、一瞬にして険悪な場を和ませてしまった。
その空気に乗ってか、夜は笑顔のまま、柔らかい声音で告げた。
「さっき買ったジュースの余りがあるので、これを差し上げる代わりに穏便に済ませて下さい」
「って、買収かよ、おい」
「それで事が穏やかに済むのなら私はいくらでも買収しますとも。
勿論、貴方達が望むのであれば、穏やかに済まない手段で事を収めても構いませんけど」
これはハッタリでもなんでもなかった。
夜はソレが出来ると思っていたし、事実、ソレは可能な事だった。
その自信を感じ取ったのか、それともこれ以上の面倒事は避けたいと思ったのか。
彼らは顔を見合わせた後、言った。
「わぁーったよ。お前に免じてここは引いといてやらぁ。それでいいだろ」
「ありがとうございます」
笑顔と言葉を交わしながら、ジュースの受け渡しを済ませる夜達。
それが済んだ直後、慧悟の胸倉を掴んでいた男が、パッ、と手を離した。
と言っても、ただ離しただけではなく付き押すような形だったため、
慧悟はたたらを踏み、バランスを崩し、地面に尻餅をつく。
そんな慧悟を見下すように見下ろして、胸倉を掴んでいた男が言った。
「ふん、運がよかったな」
「……もう一度、言って、おく。悪かった」
「はっ、今更だっての」
「……」
最後にそう言ってそれなりに満足したのか、ジュースをもらって満悦になったらしい事もあり、彼らは慧悟達に踵を返し校舎へと入っていく。
後に残された面々は、はぁ、と何とはなしに息を吐いた。
「大丈夫?」
「……ありがとう」
安否を問うた夜に向けて、尻餅をついたまま礼を告げる慧悟。
そんな慧悟に、大が手を差し出した。
「立てるか?」
「……」
慧悟は、そんな大の手を無視して立ち上がる。
大はその態度について気にする様子は見せず、むしろ笑いながら肩を竦めて見せた。
「やれやれ……その様子だと大丈夫そうだな」
「……対しては……恩だとは、思わないよ」
「あ?」
そんな大に向けてか、何事かを呟いて、慧悟がそっぽを向いた瞬間。
慧悟の頭に”何か”が当たった。
その何か……慧悟の頭に当たった後、地面に転がった物体の正体は、何の事はない、校内で売られているジュース、その紙コップだった。
「お兄ちゃん!! なんなのよ! その態度!!」
そんな声と共に二階の窓から顔を覗かせているのは、ポニーテールの少女。
夏服のシャツの襟元についている、学年ごとに分けられたリボンの色から、素子と同じ一年生だと夜は理解した。
言葉から察するにどうやら、慧悟の妹らしい。
夜がそう理解・考察している間に、兄妹は見上げ、見下ろしながら会話を続けていた。
「……流理。お前見てたのか?」
「最後の方だけねー。詳しい状況はよく知らないけど、その態度はあんまりじゃないのー!?」
「…………分かった分かった。分かったから身を乗り出すな」
言葉は平静だったものの、慧悟の動きはオロオロしていた。
彼女……流理が動くたびに、あっちこっちに身体をふら付かせている。
まるで落下した時は受け止めようとするかのように。
(シスコンか?)
(シスコンですかね?)
(シスコンかなぁ)
(シスコンか……話が合いそうだな)
そんな思考が各々の脳裏を過ぎっていたのはさておき、慧悟はオロオロ動きを続けながら、妹に向けて言った。
「あと俺にモノ投げる時は周囲に気をつけろ。俺はともかく周囲に迷惑は掛けるな」
「分かってるわよーっ! ……えと、皆さん、兄が失礼しましたー! では私はこれでっ!!」
その言葉と会釈を最後に流理は顔を引っ込める。
妹のそんな様子を見届けた後、慧悟は小さく息を吐いてから夜達の方をチラチラ見ながら、ボソボソと口を動かした。
「……この事に関しての礼は言う。でも……いずれ、思い知らせてやる……」
そうして聞こえるか聞こえないか位の声で呟いたのを最後に、慧悟は何処かに去っていく。
そんな彼の背中を眺め、大達は若干呆れた表情を浮かべた。
「ふむ。あんなんだから絡まれるんだろうに」
「世田の言う通りだな。何考えてるんだろうな」
「……」
「壱野?」
「ええ、そうですね。確かに、そうだと思います」
以前にも、似た事はあった。
この高校でも、それ以前……一緒だった中学でも。
事情は詳しく知らない。
ただ、今回のように慧悟は数人に絡まれ、暴力を振るわれていた。
その時も、夜は仲裁に入ったのだが、
何故か慧悟は夜の助けを拒んだ。散々殴られるばかりだった。
最終的に、そんな状況に我慢の限界がきた夜の手によりその数人は叩きのめされ、その状況は終了した。
そうして間に入った事について、慧悟から礼は言われたと思う。
ただ。
その時の彼はやたら首を捻っていて、何か納得しかねているのか不思議そうな顔をしていた。
そんな彼の姿は、夜の記憶の引き出しに印象深く刻み込まれていた。
「……何を、考えてるんでしょうね」
その時、慧悟の事が、彼の思考が理解できなかったのと同じ様に、今の夜も慧悟の事が分からなかった。
ゆえに、今の夜には、手探るようにそう呟く事しか出来なかった。
……続く。