ヤンデレな生き方(後編)
世の中というものは、基本的に良い人間と常識人が損をするように出来ている。
良い人間・常識人はルール無視上等(とは微妙に違う気もするが)の非常識人や悪人の後始末を担当せざるをえない事が多いからだ。
別に悟った事を言いたい訳ではないんだけど、ここ数日の事を思うと心からそう思わざるを得ない。
私・来栖路恵と、その彼氏である所の(赤面)人河良くんの心的負担的な意味で。
「業都くん、ここ教えてくれない?」
「まぁまぁ花尾お嬢さん。ここはこの私、来栖路恵にお任せ下さい」
「アナタが?」
「あー……じゃあ、仕方ない。俺が教えるわ」
「ちょ、何故にそうなるっ!?」
「だって、お前頭そこまで良くないだろ。腕力とかの身体能力は凄まじいけどな。
というわけで、気は進まないがちょっと来い」
「ありがと〜」
「……来栖さん、少しお話したい事があります。とりあえず剣道場まで」
「雨音さんっ!? 丁寧語はやめてっ!! 正直怖いから!!
あと剣道部所属の有段者が剣道場に来いって体育館裏と変わらないっ!?」
「ねぇねぇ、業都くんと来栖さんって幼馴染なんだよね」
「……まぁな」
「恋愛関係とかにならなかったの?」
『いやいやいや、ありえないありえない』
「うわ、凄いシンクロだね、2人とも。……羨ましいな」
「……ええ、そうね(ニコリ)」
「いやいや、良くんそんなんじゃないのよ?
あと雨音さん、その笑顔怖いから。あれ? この展開デジャヴ?」
「近い展開ならいくらでもあっただろうが……ホント記憶力鳥並みだな。
もう少し物事を意識して記憶力を高めろ」
「うっさいわね。そんなの向き不向きでしょ。
ホントアンタは昔から小言っぽく馬鹿にしてばっかり……ってわけでもなかったっけ。
むしろ一緒になって馬鹿やってたような……」
「……うるさい馬鹿。お前みたいな奴と一緒だと小言が多くなるのが当然だろうが」
「ふむふむ、なるほど。
つまり業都くんは世話焼きタイプと。うんうん、やっぱり私のタイプ」
「……来栖さん。お話が」
「ちょっ?!」
「ま、まぁまぁ。雨音さん落ち着いて」
「いつものことだが……なんだこれ」
「……いいなぁ……」
「業都くん、なに読んでるのー?」
「新聞だ。
最近俺ら位の歳で馬鹿な事をやらかす奴の特集記事読んでる」
「進はホントその手の奴に目がないわねー。
で、どんな事が書いてるの?」
「最近特に増えてる、精神的に病んでる奴らの記事を。
なんか少年院から出てきた奴のインタビューとか、罪に至る10日間とか興味深……って、おい何する花尾。
勝手にめくるなよ」
「そんなつまんないのよんでないでさ。
ほら、こっちにもっと笑える記事載ってるじゃない。
やっぱ人間笑いよ、笑い」
「ぬ、確かにこっちはこっちで面白いな」
「でしょでしょ?」
「来栖さん。剣道場」
「ちょっ、雨音さんっ!? だんだん端的かつ直接的になってるんですけど?!」
「というか、今のは路恵ちゃん悪くないと思うんだけど」
「じーっ」
「なんだ、花尾。そのヌラッとした視線は」
「いや〜、その雨音さん作のミートボールが美味しそうだなぁって」
「……言っとくがやらんぞ。流石に最初に作ってきた弁当位は全部食べないとな」
「全部って……進、この量食べきれるの?」
「えーと、二十箱位あるのかな、これ」
「正確には二十二箱よ、人河くん」
「……ああ、食べるとも。食べてやるとも」
「うんうん、そういうのかっこいいね。
じゃあ、私はそんな業都くんをおかずにご飯を食べようっと」
「…………それは私の台詞であり権利よ」
「二人ともその発言はアレよ、問題だと思うわ」
「ねぇねぇ業都くんは……」
「……たまにはお前の話が聞きたいんだが」
「え?」
「興味がないわけでもないからな。
というか根掘り葉掘り聞こうとする事に飽きた。いくらなんでも、な」
「だってぇ。業都くん、凄く私のタイプなんだもん。
そういう人の全てを知りたいと思うのは当然じゃない?
だってひとを好きになるんだもん」
「当然かどうか知らんが、近い気持ちになることはあるだろうな」
「じゃあ、業都くんが私に興味がありってのは、そういうことでOK?」
「さあな。ただ、俺ばっかりってのは気に食わないだけだ」
「……ふふふ。いいわよ。
乙女の秘密に関わらない事なら教えてあげる。じゃあ何を知りたい?」
「じゃあ、そうだな。定番で行くか。前通ってた学校はなんて名前でどんな所だった?」
「……来栖さん」
「何故に。これは私関係ないし」
「分かってるわ。そんな事よりちょっと付き合ってほしい所があるの」
「? 何処に?」
「……………………………藁人形を買いに。というか作りに」
「うわぁ」
「……はふぅ」
「はは、お疲れ様」
ある日の放課後。
他に誰もいない教室でその日もどうにか乗り越えた疲れを溜息にして吐いていると、良くんが教室に入ってきた。
「もしかして、待ってた?」
「うん、実はそうだったりして」
「あー……その、ごめんね。つい寝ちゃってた」
「いや勝手に待ってただけだから」
申し訳なさそうに、それでいて照れ臭そうに笑う良くん。
それを見て、私は思わず呟いていた。
「あの時も、こんな感じだったね」
あの時……すなわち約2ヶ月前の放課後。
私は1人声を殺して泣いていた。
理由については今はもう思い出せないから、多分ささいな事だったんだろうと思う。
そんな時だった。良くんが声を掛けてくれたのは。
その時、私達はクラスが違う事もあり見ず知らず。ぶっちゃけ無関係だった。
でも、そんな関係で状況だったのに、たまたま廊下から私の姿を見かけた良くんは凄く真剣な声で「大丈夫?」って声を掛けてくれた。
それだけじゃなくて、ジュースを持ってきてくれたり、
邪魔なら何処かにいくけど、と言いながら教室の外から様子を窺ってくれたり、
私がある程度調子を取り戻すまでそこにいてくれた。
『あー……その、ごめんね。ストーカーっぽくて』
そうして申し訳なさそうに、それでいて照れ臭そうに笑ってくれた。
私はそれをストーカーだなんて思えなかった。思えるはずがなかった。だから、言った。
『ううん、そんなことないよ。
でももし、誰かにストーカーだなんて言われたら私の友達だからストーカーなんかじゃないって、堂々と言ってね。
私と友達なのが嫌じゃなければだけど』
『い、嫌だなんて……そんな事ないよ。えっと、じゃあ、その……友達って事で』
『うん、友達って事で』
そうして交わした握手から友達関係が始まって、1ヵ月後と少し(進達に少し遅れる形で)の後、良くんの告白で私達は付き合う事になった。というか、私的には付き合ってもらえるようになったというか。
「うん。そうだったそうだった」
「ほんのちょっとの偶然が、私と良くんを出会わせて、今こんな関係にしてくれてる。
不思議なものだよねぇ」
「そうだね。僕達の場合、それが良い方向に行ってくれたけど……」
「ああ、そうだよね……進たちの場合はね……
すでに彼氏彼女な関係、というか進の彼女が雨音さんなのが色々な致命的な気がするというか」
「うーん、雨音さんは路恵ちゃんが思うよりは冷静でマトモ、もとい常識的だと思うけど」
「そうかなぁ」
「むしろ僕は……
こういう事言うのは良くないとは思うけど、
花尾さんの方が冷静じゃないというか、焦ってるような気がする」
「焦ってる?」
「いや、気が短……じゃなくて性格上ノンビリできないだけなのかもしれないから、
何とも言えないけど……無理してる感じがするというか、
少しでも早く仲良くしようとしてるみたいっていうか……」
「まぁ、そう思えないことはないけど、それはやっぱり性格じゃない?
好きな人とは一日でも早く距離を詰めたいって思うのが当たり前だと思うし」
「……そうだよね」
シュン、と落ち込む良くん。
この場合、自分の先入観で花尾さんを見ていたことに落ち込んでるんだろうなぁ。
「余計な事は考えなくていいの。
今はこの状況を乗り切る方が重要なんだから。元気出して元気出して」
「……うん、そうだね。ごめん。そしてありがと」
「どうしたしまして」
そうしてお話を終えた私達は教室を出た。
と、そこで。
「あれ、先生……と、進?」
廊下に出て少し歩いた所で、うちの担任と進が話している場面に出くわした。
担任は私達の存在に気付いたからか、ちょうど話が終わったからか、進に何かを言った後、私達に「じゃあな」と軽く手を振ってから去っていった。
「おう。お前らか」
同じく私達に気付いた進はこちらに振り向いた。
何処か詰まらなそうな、少し渋いものを食べたような、そんな表情で。
「……ちょっと、アンタ何かやらかしたの?」
「どうしてそう思う?」
「微妙に苛ついてるような顔してるから。
何かして先生に注意された……違う?」
「違う。あれだ、花尾の事について言われただけだ」
「花尾さんの? どういうこと?」
「……要はあれだ、転校したてだから心配なんだと。
んで、最近よく一緒にいると思われてる俺とたまたま会ったから、今日もそれについて話してただけだ」
良くんの疑問に、進は詰まらなそうな表情を変えないままに答えた。
……なるほど、納得。
今その辺の事を突っ込まれるのは微妙に仲が良くなって来たっぽい進としては反応し難く、うんざりなのだろう。雨音さんの事もあるし……って。
「納得したからそれはいいけどさ。
それはそれとして、雨音さんは?」
常に進の側にいる事を望んでるくさい彼女の姿がここにないというのは違和感というか不自然というか。
というか、なんか怖い。理由はないけど怖い。
「あー、アイツにはちょっと頼み事しててな。
それで今はいないんだよ」
「……まさかと思うけど、ていのいい厄介払いとか考えてないでしょうね」
「厄介払い、か。違う意味ではそうかもな。
……お前の考えてる事とは違うぞ。
そうだな……言うなれば」
言葉の最中で、進は笑った。
その笑いは、何処か変な、怒っているのに泣いている様で、それでいて楽しげな、歪な笑い方をしていた。
そんな笑みのまま、進は言った。
「日常らしい、日常のためさ」
そんな日常が暫し続いたが、いつまでも続かないのが日常。
というより、アイツが、進がこの状況を看過し続けるはずがないと思っていた。
数日前のアイツの発言からもそう思えたが、根拠はそれだけではない。
私が良く知るアイツは色々と問題山積みだが、いつまでも同じ所で足踏みを続けるような奴じゃないからだ。
というか、そろそろ雨音さんが限界に近いだろうし。
「……そろそろ、いいだろ」
だからなのか、あまり使わない、人気が少ない、
というか基本殆どないルートでの帰り道でアイツがそう言い出した事にはさして驚かなかった。
アイツがそう言ったのは、花尾さんが転入してきて十日目の放課後。
位置的にはそろそろそれぞれの帰り道に別れていくかいかないか、という辺り。
花尾さんが大事な話があるから少し時間を貸してと進(と雨音さん)に言った直後だった。
その内容は、言わずもがなだろう。
そんな言葉に対しての返事としてはおかしい、唐突で冷めたその言葉に、花尾さんは思わず動きを止めていた。
私と良くんは少し後から、雨音さんは進の隣に佇んでその様子を見ている。
偶然なのか、花尾さんを半ば取り囲むような形になっていた。
「え? なに?」
「アンタに付き合うのは疲れたと言ったんだ。
もうこれ以上は断る。下手をすると命に関わるかもしれないんでな」
進がそう言った瞬間。彼女の表情が、あからさまに歪んだ。
というか、命ってどういう……?
「え、一体、何の……」
「とぼけたくなるのは分かるが、とぼけても無駄だ。
草雪女子学園から転校したということだが、むしろ出たばっかりなんだろ?
まぁ、出たばかりと言うには多少期間が開いてるが、なんにせよまた犯罪はまずいんじゃないか?」
「………っ! な、なんで……?」
「普通に学校の名前を言えば怪しまれないと思ったんだろうが、
時期外れの転入、それに担任が以前の高校についてぼかしてた時点で怪しさはあった。
あと、妙に……過剰なくらいに心配をしてたしな。
で、嫌な予感がしたから悪いとは思ったが色々調べたし、俺を囮にして愛にも調べてもらった。
プライバシー云々は俺の目的にとっちゃアウトオブ眼中だから苦情は受け付けん。
何事もなければ公表する気はないし、ここで追及するつもりもなかったんだが、な」
「……女子学園とか、なんの事なの?」
「少年院の中で短期処遇の人間を収容する施設とか女子少年院では、
院にいた子が社会復帰した後、
履歴書なんかに在院歴を書いても目立たないような配慮がされてるの。
例えば女子学園、なんて普通の学園っぽい名前をつけたりね。
もっとも、女子学園ってついてたら全部『少年院』って訳じゃないからそこは考え違いしないようにね」
「少年院……?」
つまり、彼女は何かしらの犯罪を犯してソコに入っていた事がある……そういうことなのだろう。
信じ難い。信じ難いのだが……ことこういう事で進は冗談を言わないし、
この手のコイツが『調べた』事で間違っていた事など今まで一度もない。
ゆえにそれは事実、なのだろう。
「……」
進の言葉、雨音さんの説明に、花尾さんは言葉を失っていた。
私と良くんは何も言えずに……いや、ただ何も言えずにいたのは私だけだった。
良くんは、真剣な、いつもは見せない険しい顔で状況を見据えていた。
その顔に驚きはない。まるでこうなる事がわかっていたかのように。
「この10日間、アンタの動き、視線、表情をジックリ見せてもらった。
んで、分かった。アンタの顔はこっちを獲物としか見てない」
「そ、そんな事……?!」
「同じなんだよ、好きだって飯を食ってた時の『顔』と、俺を見据えてた時の『顔』が。
そして、引っ掛かってたのは路恵に言ってた10日ってキーワード。
新聞、ネットやその他で色々調べたんだが……
アンタが前の彼氏と付き合ってた期間が10日間じゃなかったか?」
「……!!」
「10日もありゃ、その辺りを調べるには十分なのさ。
で、どうなんだ?
ここで色々な意味で引いておけば、俺はこれ以上アンタに干渉しないんだが」
「……」
「おい」
「またなのね」
「……?!」
「また、また、またまたまた、じゃまが、じゃまをするのね」
言いながら、彼女は震えた手でポケットから何かを取り出した。
カッターナイフより小さいあれは……彫刻刀?!
「いっつもそう。いっつもそうなの。
わたしがだれかをすきになるたびにだれかがじゃまをするの。
そしてすきになったひとはわたしをすきにならないの。
まえもそうだった。あのひともそうだった」
「それで独り占めにしたくて殺人未遂か。ふん、ヤンデレのつもりか?」
「……!!」
誰かが言ってたような、新聞かネットで見たような……あれは、そう、思い出した。
確か、数年前に同学年の男子を殺そうとした女の子が捕まったというニュースを。
そして、その子がつい最近出所したというニュースを。
ここに来て、私は思い出していた。
多分その女の子が彼女……花尾香子さんだと、私はなんとなく理解していた。
「聞いてるかどうか知らないが、一つ教えておいてやる。
世界には許されるものと許されないものがある。
それを分け隔てるのはたった一つ……何かの一線を越えるかどうかだ」
「……」
「要は頭の中だけまでなら人を殺そうが犯そうがソイツの自由だが、
それを実行に移すのはまずいってこった。
最悪実行に移したとして……それが人としてのモラルを完全に逸脱してしまったらアウト。
ただそれだけのことだ。越えたか、越えてないか。それが全てだ。
逆に言えば、越えてさえいなければどんな人間だって許される。
許す事が出来るんだ。どんな人間でも、な」
その言葉は、誰に向けたものだったのか。
それが分からない人間はこの場にはいないだろう。
「おっと、モラルが分からない、なんて言うなよ?
少なくとも日本ではソレを知らない奴なんか殆どいない。
いるのは知っていて、分かってない奴だけだ。
最近の世の中にはそういう奴が多くてホント困るよ」
「……」
「まぁ、もっとも。俺の彼女はヤンでてもアンタと違って一線を越えない、立派な奴だがね」
「……っああああああああああああああああああ!!」
次の瞬間、花尾さんは進に向かって走り出した。
でも。
それよりも早く動く影があった。
「籠手っ!!」
雨音さんが、いつの間に抜き放っていた竹刀……
基本学校の倉庫に仕舞っているはずの……で彼女の左手の甲を叩き、彫刻刀を落とす。
「あうっ!?」
かなり強く打ち付けたらしく、彼女の顔は明らかな苦痛で歪んでいた。
「……貴女。越えてはいけない一線を、少なくとも私にとっての越えたわね」
それを為した雨音さんは、進を守るように彼女の前に立ち塞がる。
彼女の顔は冷たい笑いで彩られていた。
「ヤンデレ。勿論進さんは否定の意味で言ったんでしょうね。私もそう思うわ。
貴女は確かにヤンでいるのかもしれないけど、愛情が一欠けらも感じられない。
この10日間殆ど一方的に語りかけるばかりで、自己満足しかなかった。
相手を愛そうとする意思が微塵も感じられない。
哀しいわね……そんな事だから、あなたは誰一人振り向かせる事が出来ないのよ」
「く、ぅっ」
「……そして、ボロが出たな。
少なくともここ最近の授業で彫刻刀を使うようなものはなかったし、お前はそういう部活に所属してもいない。
にもかかわらず、それを持っていたのはどうしてだ。
以前、お前が被害者を傷つけた際に持っていたものと同じ凶器を」
「……っ!!」
「殺人未遂。正直、看過は出来ないな。
アンタと同様に罪を犯してもしっかり更正する人間もいる以上、尚更だ。
焚き付けたと言われそうな気もしないでもないが、
この程度で逆上するんならどの道アウトだろ。
まぁ、彫刻刀を所持してた時点で駄目だが」
「あ、その、やっぱり警察に……」
同情なのか、優しさなのか……
この場合は残念ながら同情と言わざるを得ないだろう……良くんが少し前に進み出た。
「そりゃあ、そうだろう。
お前が良い意味でも悪い意味でも甘いのは知ってる。
だが今回は余計な甘さは言いっこなしだ。
お前の、そして路恵の為でもある。分かるだろ」
「……そう、だね」
そう呟いて、良くんがうなだれた瞬間だった。
「っ!!!」
花尾さんが身を翻し、駆け出した。
その手には、別の、彫刻刀。
そして、彼女が進その先には……………良くんが、いた。
そう認識した瞬間。
何かが、はじけた。
花尾香子は、正直分からなかった。
何故今度こそ上手くやろうと思っていたことが失敗してしまったのか。
本当は、そんなつもりはなかったのだ。彼らが言う一線なんか越えたくもなかった。
でも、気付けばこうなっていた。
転入したあの日、昔傷つけてしまった人に良く似た人と眼が合った。
その深い眼に惹かれると同時に、思ってしまったのだ。
あの人に似ているこの人とちゃんと付き合えれば、あの時のやり直しが出来る。あの時の過ちを越えて、あの時の罪を犯す前の自分に戻れる、と。
そう、勘違いをしてしまった。
期限は10日間。
あの人と付き合っていた期間までに付き合えたら『勝ち』だと思い込んでしまった。
好意がなかったわけじゃない。いやむしろあったからこそ、余計にそれを成し遂げたいと思ってしまったのだ。
昔の自分を越えて、新しい、幸せな自分になりたいと。
例え、どんな妨害や障害があったとしても振り向かせて見せようと。
最終的に、どんな手段に訴えてでも。
彼女は気付かなかった。
その考えが、以前犯した過ちと全く同じ結論だという事に気付けなかった。
それほど盲目になってしまっていた。冷静に物事を見れなくなっていた。
だから、分からなかった。
自分が一体何をしようとしていたのか。
自分が本当の本当は何をしたかったのか。
そして、今。
「……っ!」
何故自分は動けずにいるのか。
無我夢中で逃げようとした。その先にある障害物を排除して、逃げようとした。
だが、出来ずにいた。
その原因を求めて、香子は改めて現状を把握しようとした。
が、それは彼女が考えたような意味では果たせなかった。
前触れもなく走った稲妻のような痛みがそれをさせてくれなかった。
「いま、ナにをしようとしタの?」
痛みの元は、右腕。
痛む左腕の代わりに彫刻刀を取り出した、右腕。
その痛みの元である右腕を掴んでいたのは……来栖路恵だった。
「もうイちど、きくよ? いま、なにを、しヨうとしたの?」
何処か舌足らずのような、イントネーションがおかしい言葉が零れる。
その声の主である路恵の薄暗い眼が、クルンと廻り、香子を見た。
この間も、凄まじい腕力でミシミシと音が響きそうなほどに香子の腕を掴んでいる。
「あ、あぁぁぁっ!!?」
「ねぇ、こたえテ? おしエて?」
たまらず上げた悲鳴にもまるで動じない路恵。
為すすべなく、香子の手から彫刻刀が零れ落ちる。
それでも構わずに路恵は香子の右腕を握り潰す意志を込めて手の力を強めていく。
「痛い痛い痛い痛い痛いぃぃぃっ!!?」
「わタしから、カれをとるの? だいじなこを、トっちゃうの?」
香子は見た。自分を見る路恵の眼を。表情を。
それを見て、彼女は痛みを忘れた。痛みよりも恐れを感じた。ただ怖さを感じた。
まるで、闇だ。
例えるのなら、星の無い宇宙。
暗闇で触れられるものがなく、身動きも取れない。何一つ出来ない。
「っ、ひぃぃっ!?」
全身の力が抜けるのを、香子は感じていた。
崩れ落ちる彼女の股から液体が滴り落ちていく。
だが、それでも路恵は手を緩めない。
「なら。わたしはゆるさない。にどともう、ぜったいに……」
路恵のもう片方の腕が、上がっていく。
その手が香子の首に伸び、締め上げようとした、まさにその瞬間。
「駄目だ! 路恵ちゃんっ!!」
我に返った良が駆け寄り、彼女を、路恵を抱きしめた。
ピタリ、と路恵の動きが止まる。
「大丈夫。僕は大丈夫。君も大丈夫。僕は君に守られてる。君は僕が守る。だから……大丈夫」
「……………」
「お願い、だから……信じて……」
「………………………………………………………あれ」
路恵の眼が、表情がいつものものに戻っていく。
「わたし、何を?」
きょとん、と事態が全く飲み込めていない路恵。
そんな路恵に進と愛は口々に言った。
「いやぁ、びっくりしたぞ。いきなり花尾に向かっていくんだもんな」
「人河くんに矛先が向いて、よっぽど気が動転したのね」
「え、そうなんだ……」
「そうそう。悪いな。凄い形相してたから驚いてすぐには動けなかった」
決して嘘は吐いていない。
そこにそんな表現では収まらない何かが込められていただけなのだから。
「って、えと、良くん。私もう大丈夫だよ?」
「……」
「……うん、まぁ、いいんだけど」
そうして抱き締め、抱き締められる二人を一瞥してから、進は香子に向き直った。
「おい」
「いやぁっ!! やめて……痛いのやめて……殺さないで……!!」
「心配するな。俺達は一線を越えないし、アイツに越えさせるつもりもない。
……あーくそ。警察に突き出すつもりだったんだが、これだとマズイよなぁ。
後味も悪いし」
「それなら……暫く様子見って事でいいんじゃないかしら?
これで彼女も色々と分かったでしょうし。
気になるのは自殺の線だけど……まぁ、それは大丈夫でしょう。
殺さないで、なんて言う人間はそう簡単に自殺しないわ。
後はご家族にある程度事情を話して様子を見てもらう。
必要なら、私達も協力すればいい……違うかしら?」
「ああ、それでいいと思う。的確な判断助かる。
というわけだ花尾。俺達の都合もあるんでな。
お前を警察に突き出すのは無しになった。
エゴだと罵ってもらっていいが、それはそれとしても折角の機会を無駄にするなよ。
色々言ったが、お前はまだ取り返しがつくんだ。……アイツと、路恵とは違って」
アイツ以降の言葉は小さく呟きながら、進はまだ抱き締められたままの路恵を親指でさした。
「……」
「ミートボールの事を笑わなかったのは、お前で三人目だ。
その事は今でも嬉しく思ってるよ。
だから、頼む。
今更言っても説得力がないのは承知だが、出来るなら戻ってくれ。
普通の優しい女の子に。取り返しがつくうちに」
「……う、ううううう……!!」
進の言葉に香子は地面にうずくまった。うずくまって、泣いた。
その様子を進は何処か悲しそうに、愛は冷たい視線で見つめていた。
「じゃあね」
来栖路恵は去っていく。
スッカリ暗くなった中、忌々しいほどの輝く笑顔で。
自身が抱えている問題を知りもしないままに。
今回の全てが丸く収まったと信じきって。
ちなみに、花尾香子については既に自宅まで送り、事情説明も済ませている。
彼女の両親が比較的話の分かる人種で良かったという所だ。
こうして、あっさり片がついたのは、丸く収まったように見えたのは、運が良かっただけだ。
「おめでたいこと」
私・雨音愛が呟くと、進さんは肩を竦めつつ言った。
「……そう言うなよ。アイツ自身のことは伏せとかないと悪化しちまうからな」
「うん、そうだね」
「……悪いな、路恵を止めてもらって」
「いや、僕の方こそ。余計な甘さでまた彼女のアレを……」
「気にするな。
花尾の事を考えると、結果的にこっちの方がいい結末だったかもしれないしな。
花尾を警察に突き出す事で路恵にしこりを残す危険性もあったしな。
……ところで、アイツがいない今の内に聞いておくが右手の怪我の経過はどうだ?」
「ああ、うん、大丈夫。もう少ししたら包帯も取れるよ。多分」
10日前。
私は見ていなかったが、彼の右手は来栖さんと握り締めあった事でひびが入ってしまっていたらしい。
来栖さんは、6年前の事件のせいで色々異常になってしまっている。
まず味覚が無い。というよりそもそも味覚が無いという自覚が無い。
かつての味の記憶が味覚があるように誤認させているだけだ。
次に肉体的な異常。
彼女の身体には本来あるべき限界抑制が無くなっている。
要するに自分の身体の負担関係なく肉体の性能を引き出してしまう状態にある。
それらの理由から来栖さんは料理を不得手としている。
有り余る力は包丁などの調理器具の扱いをコントロール出来ず、
作ったものは歪な形のものばかりとなってしまうのだ。
さらに今と昔の味覚のズレがあり、料理の味も微妙に狂いがちだった。
人河くんが弁当を隠して食べるのは、
その辺りの事情を他の誰かに僅かでも察する事を避け、
彼女への好奇を逸らそうという彼なりの心遣いなのだ。
彼が来栖さんに作る弁当が焦げていたりで若干不格好なのも、
そうすることで彼女の遠慮や不安を僅かでも軽減出来るようにという考えだった。
閑話休題。
他の異常としては、部分的な記憶力の欠如もしくはアンバランスさ、
記憶そのものの欠如が上げられる。
味の記憶の誤認はこの辺りとのバランスではないかと進さんは推測しているが、
医学的には全くお手上げの状態の為、推測の域を出ないらしい。
さらに極稀に見せる精神的な不安定さをはじめ、
数えてしまうほどの『崩壊』を彼女は内包していた。
彼女は自分の両親が殺されている事さえ、半ば理解できていないのだ。
そんな彼女がごく普通の生活を出来ているように見えるのは、
進さん、ご両親、そして彼女の祖父母の様々な配慮や手回しによるものに他ならない。
「……そうか。お前には苦労かけるな」
だから人河くんへの進さんの言葉は文字通りの意味だった。
ここ最近来栖さんがより普通に生きられるようになった(らしい)のは、
その事情を全て知り、その上で彼女と一緒にいる事を決意した人河くんの存在も大きいのだ。
彼の存在による精神的なバランスの良化が彼女にいい影響を与えている、らしい。
もっとも依存度も高くなってしまうという危険も常に孕んでいるのだが。
そんな進さんの言葉に人河くんはいつもの笑顔で応えて見せた。
「そんな事はないよ。だって僕は路恵ちゃんが好きなんだから。
こんなの苦労でもなんでもないさ」
嫌味など微塵もない。心底からそう思っている顔だ。
そういう男の子だからこそ、進さんは来栖さんのこれからを彼に託しているんだと思う。
二人の間には路恵さんの幸福な未来というものを共通とした友情が成り立っている。
その友情は美しいが……正直嫉妬してしまう。どうしようもなく。
時として嫉妬する事が悪いと思えないほどに。
「じゃあ、僕も帰るよ」
「なんだ? 近くだから色々話しながらでも帰れば……」
「邪魔したくないんだ。ここの所二人きりになれなかったみたいだから」
そう言って、人河くんは私に笑って見せた。その心遣いは素直に嬉しかった。
……ようやっと自分の嫉妬が悪いものだと思えた。
「……人河くん、お疲れ様。また明日ね」
「うん。雨音さんもお疲れ様。また明日」
そうして彼は去っていった。
後に残されるのは、当然私と進さんだけ。
「……今回もなんとかなったな。外れではあったが」
だというのに、真っ先に口にするのが彼女の事なのは正直腹立たしい。
だが、それを今更気にしてもしょうがない。
「の、ようね」
来栖さんが言う所の進さんの悪癖は、全て彼女の為にある。
6年前の事件で、自身の両親と、隣に住んでいて、その日たまたま自分の家に遊びに来ていた友達を殺されてしまった彼女の為に。
その事件で何故かただ一人、肉体的には無傷で生き残った彼女は、その代償なのか精神を壊してしまっていた。
何故彼女だけが生きていたのか、そこに理由があるのかないのか……それはわからない。
進さんはその点が気にかかって彼女の周辺、人間関係を常にチェックするようになった。
様々な本やネット、資産を使ったコネを使い、そうして得た知識や能力をフルに使って。
だが、犯人はとっくの昔に捕まっているし、
その動機が単なる強盗だと警察の調べでハッキリしている以上進さんの考えは杞憂に過ぎないし、行動は余計なお世話だ。
しかし、それでも彼は彼女の側で彼女を守っている。
幼馴染の彼女の為。
そして、その時殺された、来栖さんを大好きだったという双子の弟さんの為に。
「しっかし、類は友を呼ぶというか……ここ最近網に引っかかる奴が多すぎる」
網……周辺の人間関係を把握する事は、彼女に近付くものの裏を見る為のもの。
かつての事件の関係者(何度も言うが私としては杞憂だと思う)
がどんな形で彼女に迫るか分かったものじゃないという彼の心配から出た行動だ。
そして、ここ最近その網に引っかかった何人かというのが来栖さんを心から好きになった人河良くんであり、私・雨音愛だ。
「迷惑掛けて申し訳ないわ。私もその網に掛かった一人だから」
私が網に引っ掛かったのは、
来栖さんに近付いたからではなく、
彼がかつて私をテストした際、
テストの存在に気付き、進さんに興味を持ち、彼に接近した為だ。
あわよくば、いずれ使える駒。あるいは下僕にしようと考えて、私は進さんに接近した。
だが、そこで私は逆に進さんに『本性』を引きずり出された。
私はその時に、心を助けてもらった。救ってもらった。命を、もらった。
下らない帝王学のせいで子供としての心を壊された私に、
『お前はただのガキだよ。どうしようもなく残酷で純粋な、ただの子供さ』
進さんはそう言ってくれたのだ。
そこで私はようやっと『生まれた』のだ。本当の私として。
そして初めて開かれた世界で初めて眼にした男の子に恋をした。
インプリンティング……初めて見た者を親だと認識する、刷り込み現象。
それは既に親のある私にとっては恋として作用した。
分かっている。自分がどうしようもなく病んでいる事は。
分かっている。自分が思っている以上に自分が壊れてしまっている事は。
だが、それでも、彼がいなければ、私はもっと壊れてしまう。
だから、私は彼の側にいる。
例え、彼の優しさを利用しているのだとしても。
せめて、それを彼への感謝の行為に代えて、共にある。共にありたい。
そして、それ以上に。
この人が笑っていてさえくれるのなら。
私の命なんか、私の心なんか、惜しくない。
「病んでいてごめんなさいね」
「別に謝る事じゃない。
それに、何回も言ってるが、俺はそんなお前の事好きだぞ。
純粋すぎるお前は、俺にとっちゃ清涼剤……って、言い方が悪い気がするな。
気に障ったらすまん」
「いいの。私は貴方の力になれるのなら。
そして欲を言えば貴方を独り占めにさえ出来れば。
だから、貴女をあの女から引き離す為なら、私はどんな手段も取るわ。
それが例えどんなに屈辱的であったとしてもね」
「……そうか。それが結果的にアイツを助けるのならそれでいい。
だが、一生続くかもしれないぞ」
「なら、一生貴方の側にいられるって事ね?」
私は笑う。
あの女の事は……気に入らない。
だが、相手がいる限り進さんに手出しはしないのが分かっている以上、彼女は私の敵ではない。
別に、彼女の事を同情していないわけでも、哀れんでいないわけでもないし、嫌っているわけでもない。
彼の側にいる一点が気に入らないだけだ。
ただ、それだけのこと。
だから私は彼女が彼と一緒にいる時間をゼロにし、
私が彼の側にいる時間を無限にし、
それでいてこの人が最高の幸せを手に入れるための思考を巡らせる。
その布石の為には、現状ではこの状態がベストであるに過ぎない。
後は最終的な到達点まで、上手く立ち回ればそれでいい。
もし辿り着けなかった時は……せめてこの人が幸せである道を選ぼう。
……もう、既にこの時点で様々な矛盾が生じているのが分かる。
今後もそれを認識できるかどうか……正直な所自信はない。
だから、私が正常な思考を続けられる間に。
「私は、貴方が笑ってくれる限り、貴方が許してくれる限り、貴方の側にいたいな」
その願いを、何の疑いもなく信じられるカタチで叶えたい。
「……お前が飽きるまで、好きにすればいいさ。
まったく。なんというか……お前はヤンデレの鏡だな」
「……うふふ」
そうして、私は笑う。
そのカタチが例え、どうしようもなく病んでいるとしても。
ただ、この人のために笑う。
それが私の選んだ、ヤンデレな生き方。
……終わり。