魔法多少少女ヴァレット・クロスオーバーSS

 

〜かくれ里〜

 

 

夢を見ていた。

それは、ここではない何処か。

それは、いまではないいつか。

私でない私が、私のように戦っている夢。

私でない私が、私とは違う恋をしている夢。

夢のような現実。現実のような夢。

ふと思う。

どちらが夢なのか。

どちらも現実なのか。

あるいは、どちらも夢なのか。

そんな不安定さにまどろみを感じながらも、私は目を開いた。


 

「そうだ。京都へ行こう」

どこかで聞いた様なキャッチコピーそのままの台詞を彼女が呟いたのは、年も明けた冬真っ盛りの朝のことだった。

「ふむ」僕は自分の前足を舐めつつ答えた。「で、いつ行くんだ」

「いや、えっと、そんな当たり前に返されても困るんだけど」

「ふむ」

僕は舐め終えた前足を耳の後ろへ持っていき、そこから瞼の上、鼻先とグシグシと顔を洗う。

あ〜気持ちいい。

「あのさクラウド。そこは普通、なんでいきなり京都に行きたいのとか訊くところじゃないかな?」

彼女、草薙紫雲は僕の前までやってきて座り込むと、上体を曲げて僕の顔を覗き込んできた。

僕はグシグシしていた前足を改めて舐め直しながら返事した。

「そうか、ぺろぺろ、それじゃ、ぺろぺろ、なんで京都?」

「夏まつりを見に行きたいんだ」

「ふむ、グシグシ、それでいつ、ぺろぺろ、行くんだ、グシグシ」

「う〜ん、そういう態度は無いんじゃないかなぁ」

紫雲は、顔を洗っていた僕の前足を指で掴んで、もう片手で僕の頭を軽く掴むと無理やり目を合わせた。

「やめてくれないか。せっかくセットした毛並みが台無しじゃないか」

「クラウドが人の話を聞いてくれないからだよ。さっきから生返事ばかりじゃない」

「ちゃんと聞いていたさ。京都に夏まつりを見に行きたいのだろう」

僕は座っていた腰を挙げて、わずかに背後へと後退した。それだけで彼女の掌から僕の頭と前足を引き抜くことが出来た。

猫の美しき流線型のボディラインと艶やかな毛並みだからこそ為せる技だ。人間には真似できまい。

「聞いているなら、何で何も言わないの。動機とか季節とかツッコミどころ満載なのに」

「いつから君はツッコミ待ちのボケ体質になったんだ?」僕は彼女から少し離れて、また毛づくろいを再開する。「そもそも理由なんか聞く必要はないさ。君がそんな事を言い出した理由はちゃんと判っているからね。………あの時に見たのことだろう?」

「………そっか、クラウドも覚えていてくれたんだ」

「当然だよ。あんな体験、忘れられるものじゃない。だけど、あの体験が本当のことだったのか、それとも夢だったのか、君もずっとそれが気にかかっていたのだろう?」

「うん……」そう頷いた彼女の声は、どこか懐かしそうで、「もし叶うなら、あの子たちにもう一度会ってみたかったんだ。でも京都に行こう行こうと思っているうちに、結局、年が開けちゃったけどね」

えへへ、と苦笑した彼女だったけれど、その表情にはどこか、寂しそうな色が僕には見えた。

僕は毛づくろいを続けながら、あの日見たのことを思い出していた。

 

 

 

あの日、世界は『奴』の為に緑色に染められていた。

『奴』とは、世界を破壊する為の存在だ。名前など無いし、破壊する動機も無い。ただ、辿り着いた世界を緑色の結晶体に変えて、粉々に砕いてしまうための、ただそれだけの存在だった。

その『奴』によって僕の世界は破壊され、そして僕が次に辿り着いた紫雲のいるこの世界をも破壊しようとしていた。

街は毒々しい緑色の結晶に覆われ、その中心部には全長数十メートルに達しようかというほどの巨大な結晶体『奴』が佇んでいた。『奴』がただそこに居るだけで、世界は意味もなく結晶化させられていく。

このままでは僕の世界と同じように、この世界も破壊されてしまうのも時間の問題だった。

だけど、僕はただそれを指をくわえて見ていた訳じゃない。僕の世界と同じ道を歩ませないように、僕はこの世界に切り札を用意した。

それは、魔法少女たち。

僕たち滅ぼされてしまった世界の想いの力を受け取り、世界を守るため『奴』へと立ち向かっていく三人の少女たちだ。

そして、その三人の魔法少女のうちの一人が、僕が選んだ少女、草薙紫雲。通称『魔法多少少女ヴァレット』だった。

だが巨大にして強力な敵を相手に、ヴァレットを含む三人の魔法少女たちはジリジリと追い詰められていた。

その瞬間が訪れたとき、僕はヴァレットと精神を繋げていた。僕自身は戦場から離れたところに居たけれど、彼女が見聞きしたこと、感じたことは僕も全て感じ取れる状態だった。

 

――灰路君、皆、危ないっ!!

 

『奴』の攻撃に晒された仲間を救うため、ヴァレットは咄嗟に魔法を使って彼女たちを戦場から遠ざけようとした。

だが、その為に彼女自身の回避行動が遅れてしまった。

『奴』が放った緑色のエネルギー体が、ヴァレットを襲った。

 

―――っ!!!

 

全身に電撃の様な激しい衝撃が走り抜け、緑色の光が視界の全てを埋め尽くしていく。ヴァレットは一瞬にして意識を失った。

眩い緑色の光からブラックアウトする視界の中、彼女と精神を繋げていた僕自身も、引きずられる様にして意識を失って行った………

 

 

 

………………………………………………………

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……………………

………………

…………

……

そよぐ風の中に緑の匂いがする。

『奴』とは違う、柔らかくて深い拡がりを持った懐かしい匂いに、心が安らぐ。耳の奥に聴こえてくるのは、囁くようなサラサラとした葉ずれの音。失っていた意識が、まどろみの心地よさを伴いながらゆっくりと浮上した。

目覚めた僕は、山中の竹やぶの中に居た。

周囲に拡がる竹やぶは、鮮やかながら落ち着いた印象の浅葱色。その合間を風がそよぎ、竹の葉を揺らす。

葉ずれの音が辺りに籠もり、静寂が引き立つ。

僕はしばらく、自分がどこに居るのか、何故ここに居るのかという疑念を抱くことさえ忘れて、竹やぶの中で呆けたように座り込んでいた。何も考えたくないくらい、ここは静寂で落ち着いた空間だった。

弛緩しきった身体の内から欠伸が一つ湧き上がってきて、そいつを吐き出し終えると前足を前に突き出して身体をグッと弓反らせる。尻尾を周囲の竹と同じように天に高々と突き上げながら前半身の筋肉をほぐし終えると、続いて前足を立て、後ろ脚を残したまま力いっぱい前に身体を倒して後半身をほぐす。

うん、気持ちいい。

寝ている間に乱れた毛並みを整えるため、座った状態から右後ろ脚を大きく前に伸ばし、足の付け根から爪先まで毛並みに沿って丹念に舐めていく。表ぺろぺろ、裏ぺろり、肉球ぷにぷに、爪にょっき……

「……って、こんなことしている場合じゃない!」

と、ようやく気付いたのは、右後ろ脚から始まって尻尾の先まで毛づくろいし終えた後のことだった。だけど仕方無い。猫って奴は急激に環境が変わると、自分を落ち着けるために毛づくろいしたりする生き物なのだ。だから仕方ない。

「とにかく、ここは何処だ。いや、それよりも先ずヴァレットの安否を確認しないと」

あのとき『奴』の攻撃をまともに喰らったのだ。致命傷とは行かなくても、僕自身まで意識を失ってしまったことを考えると、彼女も間違いなく気絶しているだろう。

僕は目をつぶり、意識を集中してヴァレットの気配を探る。

(…いた。近いな)

ここから猫の脚でも数分とかからない場所だ。だけどまだ気を失ったままらしい。捉えた意識は曖昧で掴みどころが無い。

『ヴァレット…ヴァレット…』法力で呼びかけながら、彼女が居るであろう方向へ走りだす。『無事かい、ヴァレット。無事なら無事と返事するんだ』

うきょ?

『何だ、その返事? お〜い、ヴァレット』

『う、う〜……星、☆が見えるよ〜……ガクッ』

きゅん

『起きろ、紫雲! 気絶しながらさらに気絶するなんて器用な真似はしなくていいから!』

うきゃ

『ふぁ…? え、あ、クラウド』

ようやく彼女の思考が目覚める。実際にまぶたも開いたようで、彼女の視界も僕に感じ取れるようになった。

うきゅん♪

目覚めた彼女が目にしたのは、真っ赤なバッタのデカイ頭だった。

『!!!!!!!!!!

「!!!!!!!!!!

衝撃的な光景に彼女のショックが重なり、僕たちの繋がりが絶たれてしまった。だがそんなものは関係無しに、彼女のリアルな悲鳴が竹やぶを超えて聞こえてきた。

僕は一目散にそちらへ向けて駆け出した。

竹やぶはすぐに途切れ、その先にあったのは滔々と流れる渓流だった。

その石河原に、仰向けに倒れている彼女の姿があった。

紫色の長髪が水のように周囲に拡がり、その中で両腕を頭上に掲げまるで万歳しているような格好のヴァレット。しかもタイトスカートだというのに左足は片膝を立て、右足はあろうことか蹴りあげたように、大きく振りあげられている。認識阻害魔法がかかっているとはいえ、かなりアレな格好な倒れ方だった。

「ヴァレット!?」

このケシカラン倒れ方は、きっとあのバッタの化け物の仕業に違いない。カッとなった僕は法力を開放し、この身を紫色に染め上げながら河原へと飛び出した。

「こい化け物。僕が相手になるぞ…!」

紫の毛並を炎のように逆立て、フーっと威嚇の唸り声を上げながらヴァレットの傍に陣取った僕は……

うきゅぅぅぅん(泣)

河の流れの中で涙目になりながら引っくり返ってもがく例のバッタの化け物の姿を見つけたのだった。

「クラウド!」僕の背後でヴァレットが起き上がった。「よかった、無事だったんだね」

「うん、まあ」

「あ、あれはいったい何? でっかいバッタ!?」

「と言うより……バイク?」

バイクとバッタを混ぜて紅く塗って見ました、といったデザインの生き物(?)だった。それが川の中でもがいてる。

……もしかしてあれ、ヴァレットが投げ飛ばしたんだろうか。そう考えると彼女のケシカラン倒れ方にも納得がいく。きっと巴投げあたりで川にぶん投げたんだ。なにしろ彼女の寝起きの悪さは折り紙つきだ。

ちなみに、どうみても大型バイク並みの大きさがあるが、紫雲ならヴァレットに変身せずともそれぐらいはやれるだろう。

うきょっ、うきょっ!?

そのバッタバイクは相変わらず川の中でもがいている。

うきゃ、うっきゃぁ♪

違った。水浴びして楽しんでいる様だった。昆虫デザインの大型バイクが小動物の様な鳴き声を上げながら水浴びをする…なんというシュールな光景。

固まってしまった僕とヴァレットの前に、バッタバイクがざぶざぶと水をかき分け河原へと上がって来る。首(?)から胴体までブルブルと震わせて水を落とすその様はまるで大型犬のようだ。エメラルド色の大きな瞳の間から長い触角がピンと立って、残っていた水が宙に飛んだ。

うきゅ!

「にゃ!?」

「わわ!?」

「わぁああ、ほ、ホッパーなにやってんの〜!!??」

不意に別の声が割り込んできた。

僕たちがその声の方向に顔を向けるよりも早く、一人の少女が横合いから走ってきてバッタバイクに飛びついた。

「人の前に勝手に出てっちゃだめでしょ、ほら帰りなさい、帰ってってばぁ、ああもう大人しくしなさいって、そっちいっちゃダメえ!!?」

うっきゅっきゅ

たぶん小学生くらいだろう、その少女は半べそ掻きながらバッタバイクの首(?)にしがみ付いていた。が、当のバッタバイクは気にかける風も無く、少女を引きずりながら僕たちの方へジリジリと近づいてくる。

その様子が大型犬に引きずられる小さな飼い主と言った風情で、しかもその大型犬というかバッタバイクの興味が明らかにこの僕(猫)に向けられていたので、

「フーーーーーッ!!!」

「ちょ、ちょっとクラウド、どうしたの、落ち着いて!?」

うきゅきゅきゅ♪

「だめだめホッパーだめぇぇ、ネコちゃんいじめたらだめだからね!」

「フーーフーー!!!」

「クラウド落ち着いてって、そんなに法力出したら危ないって!?」

「猫が犬に睨まれてフーー落ち着けるかシャーー!!」

うきょっうきょっ♪

「コレ犬じゃないし君も本来は猫じゃないでしょう!?」

「そうだよホッパー、あなたも犬じゃないんだし、このネコちゃんも猫じゃないって――え?」

「シャーシャー!!」

「…ネコちゃん、しゃべった?」

「シャー……あ?」

「く、クラウド…」

しまった。

 

 

 

うきゅ♪

 

 

 

「ええっと……」

謎のバッタバイクと少女との遭遇から、少々時間が経っていた。

いま、僕たちと少女は河原の手ごろな石に腰掛け向かい合っている最中だ。あの紅いバッタバイクも少女によって何とかなだめられ、その後ろの方で大人しくしている。

「えと、その…」

ちなみに最初の「ええっと」は少女の言葉で、今の「えと、その」はヴァレットの発したものだ。

とりあえず双方いったん落ち着いたものの、こうして向かい合うとお互い何を言えばいいものか言葉に詰まってしまった。

なにしろ突っ込みどころが多すぎるのだ。ここはいったい何処で、なぜここに居て、このバッタバイクは何で、この少女は何者で……訊きたいことはいっぱいあったが、多分、この少女もほぼ同じ疑問を僕たちに抱いていると思われた。

自分のことながら、世にも珍しい紫の毛並のしゃべる猫だ。これだけでもバッタバイクと充分にタメが張れそうだが、その傍に居る相棒もまた興味を抱くには充分すぎる格好だ。

白い羽とアメジストのような紫色の宝石が一体になったアクセサリーをつけた紫色のベレー帽。彼女の両耳にはロボットについているようなイヤーガードが装着されており、そこから伸びた半透明の紫色のバイザーが顔の半分ほどを覆っている。

黒と紫で彩られた袖が殆ど無いロングコートを纏ったその下は暗い紫色のタートルネックと些か短めの黒いスカート。黒いオーバーニーソックスに包まれた脚には短い編み上げブーツ。腕には指先が露出した他は肘まで覆われた黒い手袋。

なにより今の彼女の髪の色もまた世にも珍しい紫色で、それに合わせた同色のマフラー。

非日常的な状況に非日常的な力で立ち向かうためのこの姿は、バッタバイクを引きつれた少女をして言葉を選ばせるほど、インパクトを充分に与えていた様だった。

「あ、あのっ」少女が意を決したように口を開いた。「わ、私、みおりっていいます。守部 美織です。こ、この子はレッドホッパーって言います!」

そう言ってペコリと頭を下げる。どうやら取りあえず自己紹介から始める事にしたらしい。

「ど、どうも」ヴァレットも反射的に頭を下げ返した。「わ、私は、しう――ヴァレットと言います。この子はクラウドです」

「ヴァレットさんですか…その、外国の方ですか?」

「あ、いや、そう言う訳じゃ無くて、通称と言うかなんというか…」

ヴァレットがバイザーの奥から横目で僕に視線を向けてくる。僕はその視線に軽く首を横に振ることで答えた。

まだ状況が不明確な時点で迂闊に変身を解除すべきでは無い。

彼女も当然それを判っているので、念話を使うまでも無くヴァレットは頷いた。

彼女は一旦深呼吸して気持ちを落ち着けると、背筋を伸ばして真っすぐに少女―美織に改めて向き合った。

「私は魔法多少少女ヴァレット。魔法の力で困っている人たちの手助けをしている者です」

その名を名乗り、そしてもう一度、丁寧にお辞儀する。

「ま、魔法少女…さん」

流石に美織は目を丸くしている。

「あ、魔法多少少女です。多少って言うのは年齢的に少女と言う年齢でも無くなりつつあるので…」

ヴァレットは妙な弁解を始めたが、美織の反応を見るに、ここはやはり魔法少女よりも一介のコスプレイヤーで押し通した方が良かったかもしれない。まぁ嘘や誤魔化しを極力したくないと言う紫雲の気持ちも理解しているし、第一、コスプレ程度ではしゃべる猫の言い訳が付かない。

「魔法多少少女さん…うわぁ」

うわぁ、やっぱり引かれたかもしれない。そう思うには、美織の声は少々トーンが高い。もしや…

「うわぁ…本物の魔法少女さんだ」

やっぱり。

美織の丸くなった大きな瞳に、キラキラと好奇の星が輝いている。魔法少女なんてあの街の住民でも無ければ空想の産物だが、やはりこの年頃の少女にとってはサンタクロースの様な実在して欲しい憧れの存在なのかもしれない。

もしくは、平赤羽市でのヴァレットの活躍を報道などで見知っていたかだ。この場合はこの場合でプライバシーその他もろもろの観念からやっぱり正体を明かすわけにはいかない――

「――やっぱり魔法で変身したんですね! いきなり目の前でパアアァアアって姿が変わったからビックリしてたんですよ!」

「へ? 目の前で?」

どういう事かと訊いてみれば、ヴァレットはどうやら河原で気絶していた時には、紫雲の姿に戻っていたらしい。

その状態で倒れていたところを、そこのバッタバイク−レッドホッパーが見つけ、ちょっかいを出し始めた。ホッパーからのちょっかいと僕からの呼び掛けで目覚めた紫雲は、驚きのあまりに無意識に変身してホッパーを巴でぶん投げた。その様子を、ホッパーを追いかけてきた美織にバッチリ見られていたらしい。

「ねぇクラウド、私の正体バレちゃってるのかな?」

「いや、素顔はともかく素性はバレてないからまだセーフじゃないか」

「あの、やっぱり拙かったですか!? もしかしたら正体ばれちゃうと魔法が使えなくなったり、小動物にされちゃうとか!?」

「いやいや、心配しなくても大丈夫だよ。おもに私の信条的な理由だし、変な呪いとかじゃ無いから」

「そ、そうなんですか」

ほっ、と安堵のため息を吐く美織。

その様子を見て、ヴァレットがまた僕に視線を送ってきた。

良い子だね、法力会話無しでもそう言っているのが判る。確かに、悪い子ではなさそうだ。

「それで、その」と、美織。「魔法多少少女ヴァレットさんが、どうしてここに?」

「ヴァレットでいいよ。あと、ここに居る理由なんだけど、正直、私たちにもよく判らないんだ。だから、今度はこっちから質問するけど、いいかな?」

「はい」

「先ず、ここはどこ?」

「えっと、花背峠から少し超えたくらいですかね」

「花背?」聞いたことの無い地名だ。「平赤羽の近くにそんな場所があったか?」

「あの、ネコちゃん。平赤羽ってどこですか? ここ、京都市ですけど」

「なんだって?」

京都って、あの近畿の京都か。平赤羽とは属する地方からして違う。飛行魔法を使ったとしても、かなりの時間がかかるはずだ。いったいどうやってこんなところまで……

僕がグルグル考えている横で、ヴァレットが次の質問に移っていた。

「そこのレッドホッパー…だっけ、その子は何かな。やっぱり、バイク?」

「あ〜…多分そうだと思います」

「多分?

「実は私にもよくわかんなくて。ずっと昔からウチの近所に住みついてる変な生き物というかバイクというか、おばあちゃんが言うには精霊か妖怪みたいなものらしいんですけどね。まぁ、悪戯好きだけど噛みついたりしないし悪い子じゃないです」

「そ、そうなの?」

うきゅ

自信満々に応えたのはホッパー自身だった。

「ふぅん、精霊か妖怪……クラウドみたいなものなのかなぁ」

「一緒にしないでくれ。僕たちは妖怪じゃ無くて、概念結晶体。妖怪じゃない!」

「あはは、ごめんごめん」

「でも、おばあちゃん言ってましたよ。猫も三十年生きればしゃべるようになるって」

「ぼ・く・は・ね・こ・ま・た・じゃ・な・い」

まったく失礼な子供だ。ここは概念結晶体の基本知識を徹底的に叩きこんでやらなければならない。

そもそも僕たちは『奴』によって壊されてしまった世界の、その良識の部分の一部が結晶化したもので云々…

…と説明しようと思ったところで僕は重大な事に気が付いた。

「ヴァ、ヴァレット…」気付いた事実に、珍しく自分でも声が震えた。「気配が…『奴』の気配がどこにも無い」

まったく、どうしてこんな重大な事に今まで気付かなかったんだ。

あれか、猫だからか。

人の心を弄ぶ気紛れな性格と容量の少ない手のひらサイズのキュートな小顔のせいか。ええい、この可愛いさが憎い。

「え、あ…本当だ。でもここが京都なら仕方ないんじゃないかな。だって、平赤羽とはかなり距離があるんだし」

『今までの種子と『奴』じゃ規模がケタ違いだよ』僕は法力会話に切り替えた。『世界そのものを破壊する存在だ。あのクラスになれば世界中のどこに居ても気配を掴めるくらいの存在感がある』

『でも、それが無いって事は…』ヴァレットもまた法力会話で答える。『…もしかして、倒したって事じゃないかな。オーナちゃんや、リューゲちゃんも居るんだし』

『その可能性も無くは無いけれど、それにしたってあれだけの規模を封印したならその痕跡の気配が掴めてもおかしく無い。なのに、それさえ感じ取れないのはおかしい』

『じゃあ、その痕跡が消えるくらいの間、私たちは気を失っていた可能性も…』

『長時間放置されていたにしては身体への影響がほとんど無い。時空間移動されたかも知れない』

『ここは別世界ってこと?』

『もしくは時間だけを移動したか』僕は法力会話をやめ、美織に向かって訊ねた。「つかぬことを訊くけれど、いまは西暦何年だい?」

「へ?」

僕の質問に美織は一瞬戸惑った。当然だろう、僕とヴァレットの法力会話のタイムラグはほとんど無いので、美織にとっては急に話題を変えられたに等しい。それでも美織はすぐに答えてくれた。

その聞かされた年代は、予想通り僕たちが知っている年代とズレていた。

十七年ほど過去に。

『まさかのタイムスリップ…』

『違う世界の違う年代に移動した可能性もある。情報が少ないからこれ以上は何とも言えないけど』

『じゃあ皆はまだ戦っているの? …すぐに戻らないと!』

『どうやって?』

ヴァレットの思考が言葉を失った。同時に悔しくてもどかしい思いが湧き上がって来る。それは僕も同じだ。

だけど、今ここで焦っても仕方ない。落ち着いて原因を探るべきだ。

「あ、あの〜」急に押し黙って知った僕らを前にして、美織がおずおずと声をかけてきた。「とりあえず、ウチに来ませんか。そんなに大したおもてなしが出来る訳でもありませんけど、ホッパーが迷惑かけちゃったお詫びもしたいですし」

僕たちはまた目を合わせた。法力会話は使わない、目と目の会話。

時にはこっちの方が言葉以上に想いを伝える事がある。

しばらく互いに見つめ合って、そして僕たちは、美織の家にお邪魔することに決めた。

 

 

 

川沿いに伸びる軽トラック一台がやっと通れるほどの狭い山道を歩くこと十数分、山間に小さな集落が見えてきた。

美織の家は山に囲まれた集落の、その端に位置しているらしく、集落に足を踏み入れる前に、うっそうと茂る竹やぶに囲まれたわき道に入っていった。数十メートルほどの緩い坂道を登った先に、小さな畑を伴った平屋建ての木造家屋が見えた。

その畑でザルを抱えて収穫作業をしている女性が一人。

「おばあちゃ〜ん、ただいまぁ」

きゅー

「おかえり…なんや、やっぱりお客はん連れて来よったんか」

その女性がトマトを捥ぎながら、美織の傍に居る僕と紫雲を眺めた。美織はおばあちゃんと呼んだが、せいぜい五十代だろう、まだ老婆と言うには若い。

「お客さんって言うか、ホッパーがこの人たちに粗相しちゃって」

「また悪さしたのかい、この子は」

うっきゅ

「褒めとらんで。ほっぱ、あんたは山に帰り。ほれ、ほれ」

美織の祖母が手を振って「あっちへ行け」と示すと、レッドホッパーは意外にも大人しく竹やぶをガサガサとかき分けながら奥へと消え去ってしまった。

どうやら美織と違い、この祖母の言うことには素直に従うようだ。

「うちのもんが迷惑かけて済まんかったね。ま、あがってお茶でも飲んでき」

「あ、そのお構いなく」と、紫雲。

「ええて、そんな遠慮せんでや。詫びの一つくらいさせてもらわんと」

「そんな、特に被害を受けた訳でもありませんので…」

「ええて、ええて、すぐにお茶用意するさかい、どうぞどうぞ」

「は、はぁ…そこまで言うんのでしたら」

再三促され、紫雲はようやく頷いた。

言うまでも無いがヴァレットの変身はすでに解いてある。ただ、紫雲はいつもの少年の姿ではなく、髪の長い少女の姿を取っていた。男装している理由を説明するのも色々と面倒だからだ。

庭に面した縁側のある客間に通され、庭の畑で採れたばかりのトマトをお茶うけに、お茶を御馳走になった。

「はい、ネコちゃんにも」

美織が僕の分も用意してくれた。お茶ではなく小皿に盛られたキャットフードだった。乾燥餌ながら、匂いからして厳選素材を使用したそこそこ高めのモノと思われる。

美味しそうだ。美織が「どうぞ」と言ってくれたので早速頂くことにした。

でも、おや?

ちょっとまてよ?

「この家も猫を飼ってるの?」と、紫雲が僕の代わりに美織に訊く。

「あ、それホッパーの餌です」

さらっと答えた美織の言葉に、キャットフードにかじりつこうとしていた僕の動きが止まった。

いま何と言った?

バッタの餌って聞こえた気がするのだが?

「へえ、やっぱりあの子もごはん食べるんだ。食べ物も同じだし、やっぱり似た存在なのかな」

『一緒にしないでくれ。猫が猫の食べ物を食べて何が悪いんだ。おかしいのはあっちだろう』

『クラウドと同じ疑似生体かもってこと』

『そんなもの一目瞭然だと思うけどね。あんなのがその辺に普通に居る様な世界だったら、いよいよこの世界は異世界だと言う事になる』

『平赤羽も大概だし、むしろ世界的には近いんじゃないの』

『あんなのが種子も無しに自然発生していることが問題なんだよ』

「え〜っと、ネコちゃん、これ美味しく無かった?」

美織が不安そうに僕を見下ろしている。

むむ、あのバッタと同列扱いされるのは釈然としないが、せっかく用意してくれたモノを食べずに突き放すのも失礼にあたる。ここはこの子の顔を立てて大人しく頂くとしよう――

――と思ったら、目の前からキャットフードが消えていたという事実。

うきゅ♪

縁側から覗き込んでいた紅いバッタが長い触角を器用に使って小皿を引き寄せてやがりました。ええい、もう我慢ならん。

「シャーシャー!!!」

うきゅきゅきゅきゅ♪

「こらーホッパー!!」

美織が慌てて立ち上がり叱りつけたが、レッドホッパーは腹の立つ鳴き声を上げながら、小皿を頭にのっけてまた走り去ってしまった。

「待てー!!」

「ちょっとクラウド!?」

紫雲の制止を振り切って僕は庭に飛び出した。紅い影が竹やぶに消えていく、その後を追う。相手はバイクの形をしているだけあって流石に早い。猫のままで果たして追いつけるか……と思ったらあっさり追いつけた。

うきゅううう(泣)

レッドホッパーは情けない泣き声をあげながら、うっそうと生い茂る竹やぶの中でもがき足掻いていた。頭に乗せていた小皿も落っこちて、せっかくの餌が零れてしまっている。

「もったいないことをしたな。意地汚い真似をするからだ」

う〜きゅ

「謝ってる…ようには見えないね。反省する気ないんだろう」

きゅん

「その通りや、って言いはっとるで」

「胸張って肯定しないでくれ。はぁ、まったく、紫雲もどうしてこんなのと僕を同列扱いするんだか」

「どっちも妖怪だからやないんかい?」

「僕は妖怪じゃ無くて良識概念の結晶体ってなんど説明すれば理解してくれ………………………にゃぁぁん」

「流石にもう手遅れやわ」

いつの間にか背後に居た美織の祖母に、僕は首根っこをひょいと掴まれて持ち上げられた。

「ごろにゃん」

「気ぃ遣わんでええって。あんたのことはさっき美織から聞いとるさかいな」

「にゃんだって?」

「あんたらもおおかた神隠しに遭うて、違う世界から流されて来たんやろ」

「か…神隠し?」

「祭りの日は、二十年にいっぺんぐらいそういうのがよう流れ着いてな。まぁ明日には帰れるから深く気にせんでもええよ」

うきゅうきゅきゅ!

「ホッパー、あんたはそこで一晩反省し。晩飯も抜きや」

きゅぉ〜ん(泣)

レッドホッパーをその場に放置して、僕は美織の祖母に抱かれたまま竹やぶを出た。

家に戻った僕たちを、紫雲が申し訳そうな顔で出迎える。

「ウチのクラウドがご迷惑をおかけしました」

「そんなことあらへんよ。言葉も常識も知っとる、頭のええ猫や。飼い主の人間が出来とる証拠やね」

「え、いや人間が出来てるだなんてそんな……――って、いま、何て言いました?」

「人間が出来とる」

「いえ、その前に…言葉も常識も知っているとか、なんとか」

紫雲が怪訝な表情をしているのを見て、美織の祖母はにやにやと笑みを浮かべて、僕はその手に抱かれながらも溜息をついた。

「この人、僕が喋れること知っているし、驚きもしなかったよ」

「えっ!?」

素っ頓狂な声をあげた紫雲の背後から、美織の声が流れて来た。

「おばあちゃーん、お客さーん、それにネコちゃーん、お昼ごはんできましたよぉ」

 

 

 

「昔からこの里には神隠し伝説があってね。って言うても、人が何処かに消えるちゅう訳で無くて、その逆、何処かで消えた人がこの里に流れ着くっていう話なんやけどな」

美織の祖母は、そう淡々と説明しながら昼食の素麺を啜った。

紫雲も素麺に箸を伸ばしながら、質問した。

「私たちみたいな人たちが、よくここに来るんですか?」

「しょっちゅうってわけでもあらへん。流れてくるのは祭りの日だけ、それも二十年から三十年にいっぺんぐらいやね。私の代じゃ、あんたらが二度目のお客さんや」

「へぇ」

ずずー、っと二人揃って素麺を啜る。

素麺は一人一皿では無く、卓袱台の真ん中に置かれた大きな調理用ボウルに山盛りにされていたものだった。どう見ても五〜六人前はありそうなそれが、見る見るうちにへっていく。特に紫雲が箸を動かした時が顕著だ。

「ところで、私たちのように神隠しにあった人たちって、みんなこの家を訪れるんですか?」

「そうや。まぁ、昔からの仕来りみたいなもんやけど、一番の理由は、お客が流れてくる場所がウチの地所やからって単純なもんやけどね」

「あ、じゃあ私たちが美織ちゃんと出会ったのって、もしかして……」

「偶然やないで。祭りの日はだれか流れついとらんか見回るのがウチの習慣やからね」

美織の祖母がひょいと素麺をすくいあげる。

その直後に紫雲の箸もボウルに伸びたが、その中身はほとんど空になっていた。

「おや、もう無くなってもうたんか。……美織」

「は〜い。いま、おかわり持っていくね」

台所から美織のはきはきとした声が返って来た。小さな身体にエプロンを付け、グラグラと沸きたつお湯の入った大鍋で、大量の素麺を湯がいている。

紫雲が慌てて、

「そ、そんな。これ以上ごちそうになるなんて悪いですよ」

「気にせんといて。お中元で素麺ばっかり貰うてしもて、えらい余ってしもとるんや」

「…そういうことでしたら」

「はい、おまたせしました。山盛り素麺第三弾で〜す」

新しいボウルが、ドスンと重い音を立てて卓袱台に置かれた。美織は空のボウルを回収して、また台所へ引っ込んで行く。

美織がお昼も食べずに働いているように見えるが、もちろんそんな事はない。美織や僕も交えてお昼を食べ始め、未だにこの二人が食べ続けているだけの話だ。

紫雲の大食漢ぶりはよく知っているが、一緒に食べている美織の祖母も同じくらいの大食漢……という訳でも無い。紫雲のペースに合わせてゆっくりと少量ずつ食べているだけだ。多分、紫雲が遠慮せずに食べれるようさりげなく気を遣ってくれているのだろう。

僕はその様子を縁側で日向ぼっこしながら眺めていた。

「しかし、あんた達がまだ普通の人で助かったわ」

「………

美織の祖母の言葉に、紫雲は微妙な表情のまま素麺を啜った。仮にも魔法少女の肩書を持つ身としては反応に困ることだろう。

しかし僕から言わせれば紫雲は充分に常識人だと思う。比較対象が平赤羽の住民だとか、喋る猫を引き連れているとかという異論は無視する。そもそも評している美織の祖母でさえ、バッタバイクなんてものを飼っている人間だ。

「私たちの前に来たお客さんって、どんな人たちだったんですか?」

「前のお客さんは、人っちゅうかねぇ。車やらバイクやらに化ける大入道みたいな人たちやったわ。そんなんでも言葉はちゃんと通じたし、悪い人たちでも無かったから良かったんやけどね。でも素麺は食べてもらえんかったわ」

「へ、へぇ」

紫雲は曖昧に頷きながら、僕に向かって法力会話を飛ばしてきた。

『ねぇクラウド、これって冗談? 関西的なお笑いなの? 爆笑すればいいの? 突っ込めばいいの?』

『いや……割と本気だったりするんじゃないか』

『でも、前のお客さんって人間じゃないって言ってるんだよ。って言うか、車とかバイクに化ける大きな人たちって、多分あの変圧器と同じ名前のサイバネティックな宇宙生命体の人たちだよ』

そんなトランスがフォームしそうな方々に素麺を勧めたのか。それほどシュールな光景も他にはあるまい。美織の祖母が魔法少女とそのマスコットぐらいで動じないのも納得というものだ。

『というか紫雲、そんなことより他に訊くべきことがあるだろう?』

『あ、そうか』

「ところで、そのお客さんたちはどうなったんですか?」

「次の日の朝には居なくなってもうたよ。きっと帰ったんやろうな」

当たり前のように美織の祖母はそう答えた。

「帰った…って、元の世界にですか。どうやって?」

「さぁてね、理由や理屈はよう知らんわ。やけど昔からお客ってのは、そう言うもんやからね」

「どうして、帰ったと判るんですか?」

「虫の知らせ…やね」

「虫の?」

美織の祖母はふと、庭に目をやった。奥の竹やぶをひとしきり眺めて、ふっと目に笑みを浮かべた。

「お客が返ってしばらくするとね、帰った証を虫が知らせてくれるんよ。ま、あんたらにとっては不安な話やろうけどね……」

美織の祖母は目に笑みをたたえたまま、その視線を紫雲に移した。

安心させるような、温かい微笑だった。

「心配あらへん、明日にはちゃんと帰っとるよ。やからね、今日はこの里でゆっくりしてき」

 

 

 

せっかくだから里の祭りを見ていくと良い、と勧められたが、祭りが始まるのは日が暮れてからの話だった。

適当にくつろいでいれば良いとも言われたので、お言葉に甘えて縁側でゴロゴロしようと思ったのだが、紫雲が落ち着かなさそうにソワソワしているのが気になった。

元の世界のことが心配なのもあるだろう。それに加え、お客とはいえ、半分は拾われた身だ。世話になりっぱなしになるのが心苦しいのだろう。

なにか手伝えることが無いか探す紫雲の前に、水の入ったバケツと柄杓、たわしを持った美織が庭先に現れた。

「あ、美織ちゃん。お掃除? だったら手伝うよ」

「そんな、お客さんに働かせるわけにはいきませんよ。ゆっくりしてください」

「甘えてばかりって言うのも性に合わないの。迷惑でなければ、なにかさせて欲しいんだ」

「ん〜、そういうことでしたら」

「ありがと」

紫雲が玄関から回って庭先に出た。そのついでに寝ていた僕の首根っこをひっつかんで持ち上げる。

「ふにゃぁ…なにするのさ」

「クラウドも手伝うんだよ」

「猫の身で何をしろと?」

「猫の手も借りたいって言うでしょ」

役に立たない代名詞だよ、それ。と言おうとしたが、紫雲は僕を片手に、もう片手に美織からバケツを受け取って歩き出した。

「で、どこを掃除するの?」

「ウチのお墓ですよ。そこの竹やぶの向こうにあるんです」

庭のわきに竹やぶがあり、そこに細い道が続いていた。少し進むと、竹やぶの中に開けた場所があり、そこに自然石を切り出した形のうっすらと苔むした石碑が立っていた。

表面には「守部家代々の墓」と刻印されている。

「じゃあ私はお墓を磨きますけど…」

「それじゃ、私たちは周りの草むしりしてるね」

「すいません、お願いします」

「こっちこそ、手伝わせてくれてありがとう。でも、偉いね。いつもこうやって掃除しているんだ?」

「いつもじゃないですよ。お祭りのときぐらいだから、一年に一回ぐらいです。それ以外はお父さんやお母さんがやっていたんですけどね、でも、いまはもう二人ともいないから……」

そう言って、美織は墓石を磨き始めたが……

その後ろで紫雲が硬直していた。

『ちょっとクラウド、私もしかして地雷踏んじゃった!?』

『あ〜…どうだろう? 両親の姿が見えないのは確かに不思議だったけれど』

『そういえば、お昼だって美織ちゃんが作ってたし、なんか色々としっかりしてるし、これってやっぱり……』

ふい、と美織が振り返って紫雲を見た。それで二人の目が合う。

「えと…紫雲さん。どうしたんですか?」

「あ、ご、ゴメン」

「へ? ちょっと、何で急に謝るんですか!?」

「だって、その、ご両親の話題とかはやっぱり、その…」

「ご両親? …あっ、そういうことですか! いえいえいえ、全然気にすること無いです。って言うか、お父さんもお母さんも普通に生きてますから!」

「え、生きてるの?」

「はい、今日はお祭りの準備で朝から居ないだけです。私とおばあちゃんは、お客さんが流れ着くかもしれないから、こうしてお留守番してるんですけど」

「なんだ、よかったぁ。私てっきり…」

「あはは、私こそ紛らわしい言い方してゴメンナサイ」

二人は苦笑を交わしながら、墓掃除を再開した。

「ちょっと、クラウドもそっちの草むしってよ」

「猫の手でどうしろと言うんだ」

「手じゃ無くて口でくわえてむしればいいんじゃない? だって草好きでしょう。ほら、ときどき道端の草とか食べてるし」

「あれは毛玉処理のために仕方なくやってるんであって、好き好んでやってるわけじゃないのだよ」

「ふぅん、猫の身も大変だね」

他人事のように言うがこの姿は元々、紫雲の潜在意識によって与えられたものだ。もっとも、気に入っているのも確かなので、好きでしている苦労とも言えるけれど。

結局、僕は手伝うことも無く――そもそも本気で猫の手を借りようと思っていたのだろうか――二人の邪魔にならないように隅っこで草にじゃれついていたり、虫を追いかけたりして、時間を潰した。

虫を追いかけていたら、竹やぶの少し奥の方で相変わらず竹に挟まりっぱなしのバッタバイクを見つけた。

「ふふん、少しは反省しているのかな」

ふぁ〜うきゃあ

変な声で鳴いたと思ったら欠伸でした。

眠そうに頭をこっくりこっくり揺らしていて、その度に長い触角も前後にぷらんぷらんと揺れている。

その先端がちょうど僕の目の前でぷらんぷらんするものだから、気になって思わず前足が出た。

「えい」

きゅぁ〜

寝息みたいな鳴き声と共に、ひょい、と触覚が逃げる。

けれどもすぐに降りてくる。

「えい、えい」

きゅぁ〜…きゅぁ〜…

ぷら〜ん、ぷら〜ん。

「えい、くぬ、えい」

ひょい、ぷら〜ん、ひょい、ひょい、ぷら〜ん。

「えい、くぬ、くらえ、えい」

ねこぱんち、ねこぱんち。

右左でわんつー。

くらえジャンピングアタックぬこぱんち。

「クラウド〜、お掃除終わったから帰るよ。ほら、いつまでも遊んでないでさ」

「失礼な。誰が遊んでるって?」

「じゃあ、遊ばれてたの?」

「違う。これは猫の狩猟本能による野生の――」

「やっぱり、ねこじゃらしじゃない」

「みぎゃー」

紫雲に首根っこ掴まれて家に戻った。その間「じゃらされていた訳じゃない」と抗議したが、結局無視された。

うきょきょきょきょ

竹やぶからバッタバイクの笑い声が聞こえた。

……あいつ、実は起きてたな。

 

 

 

夕食の時間までの間、縁側で昼寝していたら不思議な夢を見た。

 

 

 

冬枯れた景色の中、あの墓碑に二人の男が手を合わせていた。

二十代前半くらいの、二人の若者。一人は肩に、大きめのベルトの様なものを下げている。

 

――なあ、雄介…

――ん、何だ…?

――やっぱり、続けるのか…

――ああ、続けるよ。その覚悟で、手を合わせてきた…でも、木越まで付き合う必要は…

――俺も付き合う。のけ者は嫌だ…

 

二人が交わす会話が聞こえてくる。

何について語っているのは判らない。でも、この二人が何かの覚悟を背負おうとしているのは感じ取れた。

 

――おい美織、俺もお前を守ってやるよ。だから、こいつはその証だ……

 

のけものは嫌だ、そう言った木越と呼ばれた男が、雄介と呼んだ男の、その肩に下げられたベルトに向かって語りかけた。

けれど、その顔が急に不機嫌に曇る。

 

――なんだよ、その態度……

(別に、木越さんなんか当てにしてないわよ。せめて、足手まといにはならないでよね)

 

声ともつかぬが二人の間を流れた。

不思議と、それがベルトの中から聞こえたものだと、僕には判った。

 

――むむっ……

 

木越は怒るどころか、逆に悔しそうに顔をしかめ、

 

(で、でもね…一応気持ちは受け取っておくわよ………あ、ありがと)

――ばかやろ……

 

ベルトのバックル、そこにある水晶のような石の中に、少女の姿が見える。

少女は舌を突き出して、あかんべえをして見せた。

 

――こいつ、腹立つなぁ……

 

(へっへ〜んだ)

 

水晶の少女と男との、子供っぽく、益体も無いやり取り。

それをすぐ傍で、見守っている男の姿。

どうしてだろう。

この瞬間がとても楽しく、嬉しくて……

そして愛おしかった………

 

 

 

日が傾き始めた夕刻。

美織と、美織の祖母と、そして紫雲も手伝ったと言う夕食を食べ終え、僕たちは祭りがおこなわれるという場所へと繰り出すことになった。

「ところで、どんなお祭りなんですか?」

「火祭りって聞いたことは無いかい。京都じゃ盛んなお祭りや。ほれ、大文字の火祭りとか」

ああ、と紫雲は頷いた。

大文字なら僕も知っている。京都の周りを取り囲む山の一つに、焚火で巨大な「大」の字を描くお祭りだ。

「まぁ、ウチの里でやっとるのは、そんな大したもんやないけどね。単に神社前の畑でかがり火を焚くだけの質素なもんや」

美織の祖母は留守番していると言う。

「二人とも、ちょっとこっちおいで」

美織の祖母は、家の奥から数着の浴衣を引っ張り出して来て、それぞれの寸法に合うかどうか見定め始めた。

紫雲は初めは遠慮していたものの、二人に強く勧められたのと、それとやっぱり服を選ぶのは楽しいのだろう、嬉しそうに着付けしてもらっていた。

美織は紅色の金魚柄、紫雲は濃い藍染めの花柄の浴衣に決まった。

「うわぁ。紫雲さん、綺麗」

「そ、そうかな。ありがと」

こうして女物の浴衣に身を包み、長い髪もアップにまとめた姿を見ると、幾ら普段男装しているとはいえ少年と信じて疑われていないと言う事が嘘のように思えてくる。紫雲の幼馴染でさえ気付いていないのだからどうかしてる。

「その姿、灰路君に見せてやればどうなるかな」

僕の問いに、紫雲は苦笑しながらこう答えた。

「きっと、なんで女装してるんだっ!?って笑うに決まってるよ」

「……ひどいな、幼馴染」

「ハイジさんって、紫雲さんの恋人ですか?」と、美織。

「はいぃっ!?」

不意打ちにも近いその質問に、紫雲の顔が真っ赤に染まる。

「い、いや、灰路君はただの友達って言うか、幼馴染なだけでその、私のこと絶対に異性として見ていないと言うか………うん、見て無いよね。仕方ないけど」

あ、自分で否定して、それがあんまりにも図星なんで、自分で落ち込んだ。

まぁ男と思いこまれたままで恋愛感情が生じても、それはそれで問題がありそうな気がする。いや、問題無いという人たちも居ることには居るんだが。

「つまり、好きってことなんですねぇ」

「うっ…」

ニヤニヤと笑いながら美織がたたみかけてくる。なりは小さくてもやはり女性だ。恋愛話になると容赦ない。

「美織、あんたも人をからかえる立場やないやろ」

美織の祖母が、孫の着付けを行いながら口をはさんだ。

「小さいときから、夢の中の王子様になんぞ夢中になってからに、少しは成長したらどうや」

「うわ、おばあちゃん。お客さんの前でそんな話やめてよ」

「へぇ、夢の中の王子様?」

紫雲が、助かったとばかりに美織の祖母の話題に乗っかった。

「せや。この子、昔っから夢の中に出てくる兄ちゃんに恋しとるんや。どんな人やって訊いても、かっこいい人やってことしか判らんし、現実にはおらんのやろって言っても、いつか逢える気がする。って」

「わーっ、おばあちゃん、やめてやめて! そんなことまで言わないで!?」

「なんや、最近その兄ちゃんに名前付けたんやなかったっけ?」

「付けて無いっ、私が付けた訳じゃないっ!」

「けど、たしか…ゆうす――」

「わーわーわー!!」

「あぁもう、しい子やねぇ」

べしっ、と美織は頭をはたかれた。

「はい、これで着付けはお仕舞いや。あとは、ほれ、この小物を持っていき」

美織の祖母がそう言って差し出したのは、小さな白い塊の根付だった。

金属でも石でも無い。きめの細かい繊維の塊のようなもの。

「あ、これって繭ですか」と紫雲。

「そう、お蚕さんの繭玉や。祭りの日にはこれを持っていくんが習慣でね」

そう言って、繭玉の根付を帯につけてくれた。

繭玉の傍に小さな鈴も付けられていて、それがちりんと涼しい音を奏でた。

「それと、夜道は暗くなるからね。はい、提灯」

懐中電灯で無いのは、祭りの雰囲気を壊さぬためらしい。この里の風習だそうだ。

美織の祖母に見送られて、僕たちは家を出た。

 

 

 

夕闇に暮れていく里は静寂に満ちていた。

響き渡るのは、からり、ころり、と下駄の音と、帯に付けた繭玉根付の鈴の音、そしてどこか遠くから、かすかにヒグラシの鳴き声が渡ってくる。

「なんだか、人の気配が全然しないね」と、紫雲。

「今日はみんな、もう祭りの場所に行ってしまったんですよ」と美織が答えた。

「お祭りって、里の中でやるんじゃないんの?」

「少し離れているんですよ。ちょっと遠いんですけど、祭りが始まる頃には着くことが出来ると思いますよ」

その言葉通り、里を抜けた後もまだ祭りの会場らしきものは見えてこなかった。

美織は里を抜けた後、山の裾をぐるりと回り込むような細い道へと足を踏み入れた。一応舗装してあるものの、ガードレールも無い林間道だった。

夕陽は徐々に傾いていき、高々と連なる山麗の向こうに落ちていく。辺りは、あっというまに闇を濃くしていった。

僕たちの進む道には、時おり思い出したように瞬く古ぼけた街灯がまばらにあるばかりで、酷く薄暗い。そんな街灯もさらに進めば、もう設置されていなかった。

美織が、渡された提灯に火を入れてくれた。懐中電灯と違って、足元を照らすその光は小さく頼りない。

猫目の僕や、常人以上に夜目がきく紫雲でなければ歩き辛いと思うのだが、美織も道に慣れているのか、危なげなく歩みを進めていた。

暗闇の中、森の向こうからサラサラと水の流れる音が聞こえて来た。どうやら川沿いを歩いているらしい。

更にしばらく歩くと、不意に前方に、大勢の人の気配が集まっているのが感じ取れた。

祭りの会場に着いたのだろうか。木々の向こう側なのだろう、提灯らしきぼんやりとした光が幾つも、ちらちらと見え隠れしていた。

しかし、それにしては静かだ。太鼓や笛の音も聞こえてこない。

道を巡って、木々の向こう側に出る。

会場は広々とした河原だった。そこに大勢の人々が手に手に薄暗い提灯を持って佇んでいる。誰もが静かに息を潜めているようで、しかしそれは何やら不気味……というより、荘厳な緊張感が辺りを支配をしているように感じられた。単なるイベントを超えた、厳粛な伝統の重みを感じる。

会場の奥には川の流れがあり、それを挟んだ向こう岸には田園らしき場所が拡がり、そのさらに奥には急な斜面がそびえ立っていて、そこに真っすぐ上にのぼる石段と、その奥に鳥居の影が良い闇にボンヤリと佇んでいた。

京の奥地にあるこの里の、歴史と自然の懐に包まれたような宵闇の中……

突然、その静寂を破って一筋、軽やかな笛の音が突き抜けるように吹き鳴らされた。

その笛の音は川向こうの畑からだった。

笛の音を合図に、山の鳥居の奥から、松明を掲げた人影が現れた。

手にした松明に照らされたその人影は、きらびやかな紅色の羽織を纏った男の姿だった。腰には水晶をはめ込んだ金属製の腰帯をつけ、そこに一振りの剣を下げている。そして、その顔には不思議なお面を付けていた。

それは衣装と同じ紅色をした異形の面。

鋭い牙を持ったような口元に、エメラルド色に輝く巨大な瞳、額から天頂へ伸びる、角とも触覚との思える二本の突起物。その面はまるで鬼のシャレコウベのようでもあり、昆虫の顔の様でもある。

異形の男が松明を掲げて石段を降りてくる。すると今度はまた別の場所から、もうひとつ松明を掲げた人影が現れた。

山から現れた男とは裏腹に、川の流れから湧き出るように現れたのは、女性だった。巫女の様な装束にやはり腰には水晶をはめ込んだ腰帯を付け、顔には同じ面を付けている。

山から降りて来た男と、川から上がってきた女の二人は田園に辿りつくと、その場を松明を掲げながら軽やかに走り回り始めた。

笛の音に合わせながら田園を駆け回るその姿はまるで韋駄天のよう、いや、松明に照らされた紅色の衣装に身を包むその姿なら火の化身、まさしく火天と呼ぶべきか。

火の粉を舞わせながら二人の火天が駆け抜けた後には、次々と狐火が虚空に浮かび上がり、その数は瞬く間に増えて行き田園を埋め尽くした。

田園を埋め尽くした狐火は、よく見ればそれは田園のあちらこちらに2〜3mほどの距離を置いて設置された、人の腰ほどの高さの篝火だった。それが何百と川向こう一帯の田園を埋めつくすように立てられている。

どこからともなく吹き渡っていた笛の音に、続いて太鼓の音が加わった。

その鼓動に沸き立つように、山からは女性たちが、川から男性たちが、二人の火天の後を追うように松明を掲げながら大ぜい現れ、手近な篝火から次々と火をともしていく。

瞬く間に、幻想的な火の海が視界いっぱいに拡がった。その火の海の中で舞うように駆けまわる二人の火天の姿。

まるで夢では無かろうか、狐に化かされたのではなかろうか、僕は何度も目をしばたたかせた。

「ニッコウさまと、ゲッコウさまだよ」美織が弾んだ声で説明した。「男の方が、太陽のかみさま、ニッコウさま。女の方が月のかみさま、ゲッコウさま。実はあれをやってるの、私のお父さんとお母さんなんですよ」

嬉しそうに語る美織は、上気した顔で川向こうに視線を送っていた。

川向こうの熱気はいつしかこちら側にも伝わっていて、周囲の人々も先ほどまでの静寂はどこへやら、篝火がひとつ点くたびに溜息のような歓声を漏らしていた。

赤々と照らし出された川向こうに、その火の海に照らされて一際巨大な松明の姿が浮かび上がった。

5〜6mほどの大きさだろうか、しかし揺らめく灯りに浮かび上がるその影は尚一層大きく、そして妖しく、神秘的に思えた。

その巨大な松明に、周囲に火を付けて回っていた男女が集まってくる。

ニッコウ、ゲッコウは――美織の両親は、鳥居に続く石段の中腹へ移動し、二人寄り添うように眼下の光景を眺め下ろしている。

太鼓と笛の音が急転調し、激しく勢いのあるものに変わった。

さぁ、さぁ、さぁ、と女たちから声が上がる。せぇの。

せいやっ、と男たちが威勢のいい掛け声を上げ、幾つかの松明が巨大松明に向かって投げられた。

火はクルクルと回りながら宙を舞い、しかし巨大松明には当たらずにどれも地へと落ちた。

女たちが、火を失った男たちに新たな松明を手渡し、そしてまた、さぁ、さぁ、さぁ、せぇの、と声をかけた。それに合わせ、男たちから、せいやっ、とまた火が宙を舞った。

幾つかの火が巨大松明の天頂付近にぶつかり、激しく火の粉を舞わせた。川のこちら側の見物人からも思わず声が上がる。しかし巨大松明に火が付くことはなく、火は地上で大きく飛び散った。

それでも火は次々と舞い上がり、その間隔はどんどん短くなっていく。

笛の音、太鼓の音、女の掛け声、男の威勢、宙舞う火に、一喜一憂する見物人の声援。

果たして誰が巨大松明に火をつけるのか、男たちは先を争うように火を投げ上げ続ける。

女たちはそんな男たちに火を渡しながら、声援と掛け声でその背を押す。

さぁ

さぁ

さぁ

せぇの

せいやっ

気が付けばその掛け声は、見物人からも上がっていた。火が巨大松明にぶつかるたびに、僕も紫雲も期待と興奮の歓声をあげた。

しかし、巨大松明に火はなかなかつかない。

そのまま時間だけが過ぎて行き、もしかすると祭りは火が付かずに終わってしまうのではないか、とそんな危惧が頭の片隅をよぎった矢先――

投げ上げられた火のひとつが天頂に収まった。

火はしばらくそこでくすぶっていたが、いきなりぱっと明るくなり、たちまち激しい炎の塊となって噴き上がった。

歓声が上がる。

拍手が起きる。

拝む人さえいる。

川向こうで、こちら側で、沸き立っていた興奮と歓声がやがておさまっていき、気が付けば笛の音も太鼓の音も消えて、静寂が再び辺りに満ちた。

巨大松明を含む幾百もの篝火の、薪の爆ぜる音が辺りを圧し、盛んな炎が夜空を焦がす。

しかしそれも数分のことで、巨大松明はその身にまで炎を及ぼすと、ぐらりとゆれて倒れて行った。どーん、と重い音が山々に木霊となって響き渡り、金蛾の麟粉のように大量の火の粉が舞う。

河原に身を横たえたまま燃え続ける巨大松明の周りに男女が集まり、川のこちら側でも川の瀬ギリギリまで見物人たちが集まり、眺めるなり、拝むなりしていた。

止んでいた笛の音が、また忍びやかに響き渡った。

石段の中腹で下界を眺めていたニッコウ、ゲッコウの二人が、眼下の光景に背を向けて石段を登っていく。

その先の鳥居の奥へ二人が消えて行ったのを見届けた後、ふとそのさらに上に目を上げると、いつの間にか山の端に昇っていた満月が、祭りの火に煙らされて、うっすらと紅を帯びて浮かんでいるのが見えた。

 

 

 

里の人々には、この祭りの後にも後片付けや集会があって大半が会場に残るらしく、いま帰り道を歩いているのは僕と紫雲と美織の三人だけだった。

せっかくの祭りの日に、他の人たちと別行動させてしまって申し訳ないという気もしたが、それを彼女に伝えると、気にしないで下さいと言ってくれた。

「集会って、つまり宴会のことですから、お酒飲めない子供が居てもしょうがないんですよ。それに、祭りの日に来る「お客」をもてなすのも守部家の祭りの仕来りですよ」

だって、これでも守部家の跡取り娘ですからと美織は言った。

行きと違って、月灯りに照らされた帰り道は、一度来た道と言う気安さもあって軽やかに進んだ。

「このお祭りは、出逢いのお祭りだって、おばあちゃんは言ってました。祭りの準備のために、ウチの里だけじゃなく、他の里の人たちや、関東の親せきも集まってくるんです。だから、いろんな人と出会えるってのもあるんですけど……」

それだけじゃない、と美織は言った。

「太陽を現すニッコウさまと、月を現すゲッコウさま。松明の火と、川の水。山と、川。昼と、夜。自然と、人間。男と、女。そんな色々なものが集まって、出逢うためのお祭りなんだ…って、おばあちゃんが言ってました。そのお祭りの中心に、私の生まれた家が位置していることが、ちょっと誇らしくて、嬉しいんです」

あのニッコウ、ゲッコウというのは、守部家の夫婦が代々務める習わしだったらしい。

本来は関東の方にも「守部家」があり、今年はそちらの夫婦が務める番だったのだが、もう高齢だと言う理由から、ここ数年はずっと美織の両親が務めているのだと言う。

「いつか私も大人になったら、ニッコウ、ゲッコウを務める日が来る……重大なお役目だけど、だからこそ、憧れてもいるんですよね」

「でも、あれは夫婦で務めるものなんでしょう。相手はどうするの?」

「う〜ん、それはまぁ、先の話ですから」

と、美織ははにかみながら答えた。

それをみて、紫雲はクスリと笑った。

「夢の中の人だと良いね」

「うん…」と頷いて、美織はすぐに慌てて首を横に降った。「え、あ、いやそんなの無理ですって!」

月灯りの下でも美織が顔を赤くしているのが判った。

でもその前、「うん」と頷いた時の、どこか遠い目をしていたその表情にも、僕は気づいていた。

ああ、そうか。この子は本当に恋をしているんだな。

不思議とそんな事が判ってしまったのは、同じような恋をしている子をいつも傍で見続けて来たからだろう。

好きな人が傍に居るのに、触れ合えない。想いが届けられない。そんな、恋。

だから――

「大丈夫さ」僕は言った。「相手がどこに居ようと、誰であっても、例え夢の中に居ようとも……きっと出逢えるさ。僕たちが君と出会ったようにね。だって、このお祭りは出逢いのお祭りなんだろう」

僕の言葉に、美織は嬉しそうに「はい」と頷いた。

「そうですよね。だから、私は紫雲さんや、ネコちゃんにも出逢えた。…ふふ」美織は微笑んで、僕と紫雲に向き直った。「私の代のお客さんが紫雲さんたちで良かった。あなた達と出逢えて、本当に良かった」

 

 

 

白々と輝く満月が中天から僅かに西へ傾いた真夜中。僕は縁側から庭へと出て、辺りを散歩していた。

夜風に乗って辺りの草むらから虫の鳴き声が聞こえてくる他、家はすっかり寝静まってしまって物音ひとつしない。

平穏な夜だ。

昨日まで、いや本当に昨日かどうかすら判らないけれど、平赤羽市で世界の存亡をかけた戦いを繰り広げていたのがウソのようだ。

あれは夢だったのか、それとも今この瞬間こそが夢なのか。あの火祭りの夢幻の様な光景を思い出すと、それはどちらでもあり得そうに思える――

――と、考えながら歩いていたら、目の前にハナチョウチン膨らませながらイビキかいて寝ているバッタバイクに遭遇した。これこそ非現実的と言わずして何と言う。

きゅか〜……きゅか〜……

ずっと竹やぶに挟まっているくせに、呑気に寝たおしているこのバイクの精神構造とはいったいどうなっているのか。

寝息と共に膨らんだりしぼんだりしているハナチョウチンがついに弾けて、レッドホッパーはちょっと身体を震わせて、ふがふがと鼻を鳴らした。

すぐにまた新しいハナチョウチンが膨らんだりしぼんだりを繰り返す。

僕はレッドホッパーの上に飛び乗って見たが、それでもコイツは起きる気配が無い。頭の上まで移動して、爪を伸ばした前足でハナチョウチンをつついてやった。

ぱちん、

ふがふが、

すぴー、きゅか〜。

全然、起きやしない。

面白いのでしばらくハナチョウチンを割り続けていたら、いきなり触角がグルンとうねって、触覚ならぬ触手のように僕の身体に巻き付くと、そのまま背後に大きく投げ飛ばされた。

どうやら防衛本能の一種らしい。あいつ、ハナチョウチン膨らませたままだったから、寝ながらやったのは間違いない。

と、空中を飛びながらそんな事を思うくらいの余裕が、僕にはある。伊達に猫をやっている訳じゃない。空中での姿勢制御は十八番だ。

竹やぶを飛び出し、空中を放物線を描きながら庭先の縁側に向かって落ちて行く。間もなく落下地点。

よし、今こそ見せよう、猫の必殺奥義、キャット空中三回転――すちゃ。

『やりましたよ、にゃんこセンセイ!』

『ああ、もう五月蠅い』

心の中で歓声を上げたら法力会話で苦情が来た。

誰とは言うまでも無く、僕の相棒だ。

『どうしたんだ、紫雲。眠れないのか』

彼女はあてがわれた客間で、蒲団を敷いて寝ている筈だった。

完全に寝言ったのを見計らって紫雲の蒲団から抜け出してきたつもりだったが、もしかして起きていたのだろうか。

『起きていたんじゃなくて、起こされたの。クラウド、君が夜行性なのは仕方ないけど、部屋から出て行くなら網戸ぐらいちゃんと閉めて行ってよ。隙間から蚊が入ってきて大変だったんだから』

『む…そうだった。すまない』

しかし猫の前足では開けることは出来ても、閉めることは難しいのだ。だから勘弁してほしい。

と、言ったら紫雲は仕方ないなぁと文句を言いつつ、蒲団で寝たまま法力を使って網戸を閉めた。

『変身せずにこれをやると疲れるんだからね』

『だったら起きて、手で閉めればよかったんじゃないか?』

『やだ、面倒くさい。だいたいクラウドが開けたんだから、クラウドが閉めるべきでしょ』

『だから、猫の前足では――』

『法力、使えるでしょ』

『むー』

『帰ってくるときはそうしてね』

それきり、しばらく会話が途絶えた。

けれど、やや間を置いて、

『ねえ……帰ることが出来ると思う?』

少し不安そうな、紫雲の思い。

『ああ、帰れるさ』

僕は迷わず答えた。

本当は根拠なんてない。ただ、美織の祖母の言葉を信じる他に無い。

それでも……

『うん、そう…だね』

紫雲も、肯定した。

お互いに心を繋げた相棒同士だ。数え切れない不安の種を曝け出しあったところで、それは慰めどころか、合わせ鏡の反響のように無限に増えて行くだけのこと。

どうせ無限に増えてゆくのなら、不安よりも希望の方が良いに決まっている。

そんな風に思える、思う事が出来る強い心を持った相棒。

草薙紫雲。

『…ありがとう、クラウド』

『こちらこそ』

君と出逢うことができて、良かった。

お互いの心が重なり、不安が消えて行く。

『私…もう寝るね。クラ…ウドも…早く寝るんだよ』

『だから、猫は夜行性なんだ』

『ああ、昼間に爆睡してたものね…だから、あれほど昼寝のしすぎは良くないって……』

『話が繋がって無いな。猫の習性だと何度も――』

『網戸…ちゃんと閉めてきてよね……ふぁ』

欠伸の様な睡魔を投げつけてきて、紫雲の意識が眠りに落ちた。

というか、ずっと寝ぼけていたのと違うだろうか。どうりで話がかみ合わなくなってきたと思った。そんな相手に僕は気を遣っていたのか。

だったら不安の種でもぶつけて目を覚まさせてやればよかったな――ふぁあ。

どうやら紫雲の睡魔にあてられたらしい。僕も欠伸が出て来た。重くなってきた瞼をこすりつつ縁側を歩いて部屋に戻る。

閉まっていた襖に前足をかけ、奥にあるベッドの上に跳び乗って、寝ている人間の胸の上で丸くなる。網戸だけ閉めた窓から入ってくる夜風が心地よくて、あっという間に眠りに引き込まれそうになったが、そういえば襖を閉めていなかったことを思い出して、法力を使って襖を閉めた。

それで疲れが出たので、僕はそのまま眠りの底へと落ちて行った。

「う…ん……ネコちゃん?」

そういえば紫雲は、襖じゃ無くて網戸だけ閉めていたとか、ベッドじゃ無くて敷布団だったとか、この胸も紫雲にしては真っ平だなとか……

そこに気が付いたのは、目が覚めてからずいぶんと後になってからのことだった。

 

 

 

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……

また、夢を見た。多分、夢だ、そう思う。

僕たちは相変わらず守部家に居た。だけど少し様子が違う。

家の中はすっかり暗くなっていたが、その中が荒れ果てているのが判った。

どこかカビ臭く、ひんやりとした空気。耳を澄ませば、り、り、り、と庭の方から幽かに聴こえてくるのは、夏虫たちの音色。

すっかり人の手を離れてしまった廃屋に、庭先から白い月灯りが差しこみ、居間の様子を朧気に照らしあげる。

居間の中心に、美織が居た。

そして彼女の前には、ボロボロの服を身にまとった、全身傷と痣だらけの男が、死んだように眠っていた。

この男にどこか見覚えがあった。どこで見たのだろう、と思い出そうとしたとき、

 

――雄介さん……

 

美織が、男に向かってそっと呼びかけた。

ああ、そうか。彼は、あの夢の中で石碑の前で覚悟を語っていた二人の男の内の一人だった。と、思い出した。

しかし、「雄介」と呼ばれた男は身動き一つしなかった。

ただ、かすかに上下する胸だけが、かろうじて彼が生きている証拠だった。土埃や汗、そして大量の血で汚れたその上着は、あちらこちらでずたずたに破れ、どす黒く染まっている。

美織は手に真新しいタオルと、ミネラルウォーターのペットボトルを持っていた。ミネラルウォーターでタオルを濡らし、彼の顔をぬぐった。

額から、頬へと。そっと濡れタオルで触れて行く。

首元を拭き、ボロボロになった上着をはだけて胸元へ。

大量の血が、乾いてこびりついていた。その血をぬぐい去ると、その下から塞がりかけた傷口が幾つもあらわになった。胸元から腹部にかけて、その引きしまった身体のあちらこちらに数え切れないほどの青黒い痣が浮いている。

彼は戦っていたのだ。それが判った。あのときの覚悟のままに幾つもの激しい戦いを戦いぬき、そして、力尽きた。

このままではきっと持たないだろう。傍目から見ていてもそれが判った。

(クラウド…)

ふと、僕を呼ぶ声が聞こえた。

紫雲だ。けれど、辺りを見回してもその姿が見えない。いや…彼女の姿どころか、僕自身の身体も見えないのに気が付いた。

そうか、夢だ。夢の世界だからだ。僕はここが現実じゃないのだと思いなおす。

(紫雲、傍にいるんだね)

(うん…これは、美織ちゃんの夢?)

(そうかも知れない。けれど、そうじゃないかも知れない。でも、確かなことが一つある)

(うん……このままじゃ、この人が危ない)

(できるかい、紫雲)

(うん)

すぅっと、彼女の気配が強くなる。

(……僕は、変わる。私へ変わる。守る私に。正義を貫く私に)

姿は見えないが、紫雲の胸の内が熱くなるのを感じる。

その熱さを抱え、堪えながら、彼女は呪文を唱えた。

(マジカル・チェンジ・シフト。リバース・リヴァース、フォー ジャスティス……)

僕の意識の中に、変身してゆく紫雲のイメージが拡がる。

紫色の宝石が胸から生まれ出て、宝石は筆へと形を変えるそれに続き、彼女の胸の辺りから服がオセロをひっくり返すように組み替っていく。

水色のワンピースから黒と紫の装束へと。

そうして……黒い髪が紫色へと変化後、最後にバイザーが形成され、変身が完了する。

彼女の名は、ヴァレット。

平赤羽市のアイドルにして、ヒーローにしてヒロインたる、正義の魔法多少少女。

ヴァレットの法力が、横たわる雄介に向かって注ぎ込まれていく。彼の腹部に光が集まり、そこに水晶をはめ込んだ金属製のベルトが現れた。

法力が、ベルトの水晶に注ぎ込まれていく。

今にも途絶えそうだった雄介の呼吸が、徐々に深く、しっかりとしたものに変わっていく。

 

――雄介さん……良かった

 

美織が、安堵の息を漏らした。その目に涙が浮かんでいる。彼女が顔を上げて、その潤んだ瞳で、僕たちを見た。

 

――ありがとう。あなた達と出逢えて、よかった……

 

姿の無い僕たち。夢の世界に入り込んだ僕たちに向かって、美織の思いが届けられる。

雄介の腰のベルトが一際強く輝いて、辺り一帯を包みこんだ。

光の中に、美織の姿が消えて行く。周囲の景色も消えて行く。

そして、僕たちは――

 

 

 

夢を見ていた。

 それは、ここではない何処か。

 それは、いまではないいつか。

 私でない私が、私のように戦っている夢。

 私でない私が、私とは違う恋をしている夢。

 夢のような現実。現実のような夢。

 ふと思う。

 どちらが夢なのか。

 どちらも現実なのか。

 あるいは、どちらも夢なのか。 

 そんな不安定さにまどろみを感じながらも、私は目を開いた。


 

「……どうかしたの?」

彼女が問い掛ける。

覗きこんでくる彼女の顔を見上げながら、ヴァレットは思った。

ああ、そうか。帰って来たんだね。

ヴァレットは、微かに笑みを浮かべながら答えた。

「少し、夢を、見ていたの。色々な夢を。いつかどこかにある、色々な可能性を」

そう、色々な可能性の世界を見てきた気がする。

それはときに、全てが幸せに終わったハッピーエンドの未来だったかもしれないし。

それはときに、全てが始まる以前の、こことは関係の無い過去だったかもしれない。

「そうなんだ。……ねぇ、そのなかでは、勝てている世界もあるのかな?」

「判らないわ。でも、きっと大丈夫よ」

「どうして?」

「そっちにも、貴女がいて、私がいて、皆がいた。だから。悲しい事とか、こっちと同じ様に起こるのかもしれないけど。きっと最後は負けないわ」

「うん、そうだね。そしていつか、それがみんな繋がって、世界が変わるんだよね」

「ええ。だから」

緑色の廃墟の中。

魔法少女と、魔法多少少女が、空を見上げた。

全てが結晶と絶望に覆われつつある世界の中。

彼女達の眼には未だ希望が映っていた。

彼女達の後ろには、仲間達がいた。

「休憩は、ここまで。ここから一気に大逆転しましょう、オーナちゃん、皆!!」

「うん、ここからが、本当の勝負だよ……!」

翠の結晶に閉ざされた世界の中、ヴァレットは飛び立っていく。

その手に繭玉の根付が握られている事に、自分でも気づかぬまま――

 

 

 

――そして、半年後……

 

 

 

冬枯れた京都に、僕たちは来ていた。

色々と忙しい日々の中、やっと取ることが出来た余暇を利用して、ようやく訪れる事が出来た京の街。でも、あの日たどりついたあの場所が、いったい何処にあるのか、僕たちにはさっぱり見当がつかなかった。

唯一の手掛かりは、あの日、美織と初めて出会った時に彼女が口にした「花背峠」という地名だけ。

地図で調べてみると、その地名は確かに存在していた。

京都市街地から遥か北。連なる山々を幾つも超えた奥にある、険しい谷間。そのどこかに、あの里は隠れている。

「……僕は、変わる。私へ変わる。守る私に。正義を貫く私に――」

人目につかない場所でヴァレットに変身し、空から山を越えてその場所へ向かう。

うねる大波の様な峰また峰を超え、深い谷間のひとつひとつをしらみつぶしに調べ回って、数時間。

「あ……あった、あったよ、クラウド!」

ついに見覚えのある山間の集落を見つけた。

そして、その集落の片隅にある、竹やぶに囲まれた平屋建ての家屋も。

だけど、そこは……

「そんな……」

廃屋だった。

雑草だらけの庭、外れかけた雨戸や戸、傾いた屋根、人気のない寒々とした室内。

それなのに、玄関の表札には無情にも「守部」と書かれていた。

僕たちはあのとき、確かに十七年前の過去にいた。

けれど、十七年後の世界には、彼女たちは居なかった。

美織たちがどこへ行ったのか、僕たちにはそれを知るすべは無い。生きているのかさえも……

「ちゃんと帰ることが出来たよ。…そう、伝えたかったのにな」

ヴァレットは手にしていた繭玉の根付に目を落とした。

「紫雲…」

帰ろうか。そう言おうとした矢先に、どこからともなく奇妙な鳴き声が聞こえて来た。

 

――うきゅ〜ん…うきょ〜ん……

 

忘れようも無い。こんな奇妙な鳴き声を出す奴はこの世で一匹しかいない。

「バッタバイク!」

「え、レッドホッパー!?」

 

――うっきゅ〜♪

 

鳴き声は竹やぶの奥からだった。

近くに細い道がある。そう、あの墓石がある場所だ。そこに踏み込んだ僕たちは、そこであるものを目にした。

それは、綺麗に手入れされた守部家の墓石だった。

表面はちゃんと磨かれ、苔も落とされている。周囲の雑草もちゃんと摘み取られていたし、そしてなにより、墓石の前には活けられてから、まださほど日が経っていないと思われる供花があった。

誰かが、ちゃんとこの場所を守っているのだ。

それは美織なのか、そうでなくても、美織につながる誰かに違いない。その事実を知ることが出来て、僕たちの心には安堵感が拡がった。

 

――うきゅーん♪

 

すぐ近くの竹やぶがガサガサと揺れて、長い触角を揺らしながら紅色の間抜け面がひょっこりと現れた。

「ホッパー!」

ヴァレットが思わず駆け寄ろうとしたとき、レッドホッパーが長い触角をひょいと揺らして、ヴァレットの目の前に伸ばした。

その先端がヴァレットの間近をかすめ、ヴァレットが思わず身を引いた時、すでにその手にあった繭玉の根付はレッドホッパーの触角の先端に絡め取られてしまっていた。

うっきゅきゅ〜♪

悪戯を成功させた悪ガキの様な鳴き声を上げながら、レッドホッパーはまた竹やぶの奥へと引っ込んで行く。重厚なエンジン音とエグゾーストノートが噴き上がり、レッドホッパーは竹やぶの奥へ奥へと消えて行ってしまった。

山々に残る木霊の残響を聞きながら、僕とヴァレットは茫然とレッドホッパーが消えて行った方向を見ていたが、やおら、ある事に気が付いた。

「まさか……虫の知らせって、この事か」

「じゃあ、根付を持って行ったのって、もしかして……」

きっと、届ける為だろう。

僕たちがちゃんと元に帰れたことを、今でも美織につながる誰かに伝えるために。

そう思うと、何故だか無性に嬉しくなった。

「ふ、ふふふ……」

「ははは………」

ヴァレットと僕は笑いだした。

笑みは、二人の心の間を反響してどんどん膨らんで行く。寂しさも、悔いも、不安も何も無い。

繋がっている。ただ、そのことだけが嬉しい。

ああ、本当に――

 

――君と出逢えて、良かった。

 

 

 

―了―