最終話 草薙紫雲と魔法多少少女ヴァレット











 県立慶備学園、ジオラマ研究会の部室。
 そこは、ここ数ヶ月の間、三人の会員が楽しく部活を、ジオラマを使った動画撮影を行っている場所だった。
 時折、補欠会員や会員の友人達も立ち寄ることがあり、その事も含めて、やはり楽しさばかりの場所だった。

 会員たる、草薙紫雲、新城入鹿、久遠征。
 彼らは彼ら自身が認め合っている、共通の趣味を持つ友人同士である。
 
 そして、彼らの気質は、類は友を呼ぶというべきなのか、近しいものがあった。
 皆基本的に穏やかであり、感情を爆発させる事が少なく、
 もしそうなって無関係な誰かをもし巻き込んだら、己を恥じる……そういう人間である。

 そういう気質を、彼らの周囲の人間全てが周知しているわけではない。

 だが、それでも多少人となりを知っていれば「らしくない」と思える事はある。

 だからこそ、それは見る人間が見れば、違和感のある光景だっただろう。
 新城入鹿が草薙紫雲の襟元を掴み上げている、その形は。

 だが、ここにいる三人は、そうなってもおかしくない事を理解していた。

 だから紫雲は掴まれても何も言わなかった。
 殴られても仕方がないと思っていたし、罵倒も甘んじて受けるつもりでいた。

 だけど、同時に分かっていたのだ。

「……ごめん。カッとなった」

 叫びだしそうな顔をしていた入鹿は、そう言って顔を俯かせて襟から手を放した。

 ――そう。
 彼はきっとそうするだろう事を。

 それが分かるような、友人同士だったから。
 
 だけど、だからこそ紫雲は痛かった。胸が、その奥が。震えて仕方なかった。

「違うよ、謝るのは遅刻した僕の方で……」
「ああ、そうだな」

 そう声を上げたのは、この場にいたもう一人、久遠征。
 彼はいつもと同じ、どこか飄々とした調子で続けた。
 ……そう努めてくれているのは、紫雲にも入鹿にも分かっていた。

「で、草薙はどうして遅れたんだ?」
「それは……」

 全てを知っている存在がいれば「人助け」をしていたからで通ると思うだろう。
 そして、紫雲がそう言えばこの二人は納得するだろうとも。

 だが、草薙紫雲は自らそれを口に出来ない。
 それは、そのつもりはなくても、この遅刻を助けた誰かのせいにする事ではないかと考えて。

 そして、その事を久遠征は理解していた。

「言えないんだろ?」
「……!」
「まぁ、そうだろうな。草薙だからな。
 困ってる誰かを助けて遅刻したなんて言えないよな。
 そりゃあ分かるさ。
 そんな事は、新城だって知ってるし、分かってる。
 仮に他の理由でも、お前が理由もなく約束事に遅れたりするはずなんかないって。
 んで、仮のその理由が話せないなら、どうしようもなく話し難い事だってのも分かってるよ。
 だから、俺達はそれに踏み込むつもりはない、そのつもりだったよ」

 征はそこまで言うと、頭を掻いた。
 そして、彼には珍しく、言い難そうな渋面で告げた。

「でもな、もうそれで済ませられなくなってきたんだよ。
 前よりダチになったからこそ、な。
 草薙、お前今の状況分かってるのか?」
「……それは、っ」
「分かってるよ、久遠君。
 草薙君はちゃんと分かってる……そうだよね?」

 二人は、静かな視線で紫雲を見据える。
 殺気ではない。怒気でもない。
 ただ、問い掛ける為の視線。
 だからこそ、それは紫雲の心をより抉る。

 そうなる事も二人はなんとなく分かっていた。
 だが、それでも、それでもあえて問い掛けなければならなかったのだ。

「……うん。分かってる。よく分かってる」
「そうか、なら、これからど……」
「そっか、なら、いいよ」

 征と入鹿の考えは限りなく近かったが、それでも全く同じではなかった。
 それは彼らが『知っている事』の差によるものでもあり、
 草薙紫雲という人間に抱く感情の微妙な差異でもあった。

 それゆえに、入鹿は声を切り替えていた。明るい声で言葉を紡いでいった。   

「分かってる事をグダグダ言っても仕方ないしね。
 というか、文化祭まで一週間もないんだし、出し物ちゃんと準備しなきゃ」

 入鹿は知っている。
 自分の中にある、自分の思いどおりにならない感情や思考の存在を。
 だけど、知っているからこそ、制御できる。
 本当に言葉にしたい事も、含めて。

「言っておくけど、謝るのはもうなし。
 久遠君もいいよね、それで」
「……お前がそう言うならな。
 そんな訳だから、草薙。
 マジで今謝ったらぶん殴るからな」

 そうか。

 紫雲は、気付いた。
 もう自分には、謝る資格すらなくなってしまったのだと。
 二人がそう思っていない事は分かっている。
 分かっているからこそ、なくなったのだ。

「……分かった。うん。遅れた分は、作業で取り戻すよ」

 ならばせめて二人の意を汲もうと、紫雲は言った。
 その言葉を紡ぐ事が精一杯だった。






 



 その後。
 彼らはいつものように、ジオラマ研究会の活動を行った。

 文化祭当日に部室で流し、当日動画サイトでも公開する動画の最終撮影と、
 展示する、撮影に使用したジオラマやフィギュア、小道具などの準備。

 途中呼びつけられた征の幼馴染の直谷明や高崎清子、
 取材と称して手伝いに来た駆柳つばさを巻き込んで、それは表向き何事もなく終了した。

「それじゃ、また明日ね」
「うん、また明日」

 夕方というには少し早い時刻。
 別れ道で、入鹿は紫雲と征に手を振った後、家路を進む。
 その背中が遠ざかるのを見届けてから、征は言った。

「今日は、無理してたな。誰も彼も」
「……久遠君にも、無理をさせたね」
「そうだぞー。ったく面倒な空気にさせやがって」

 謝りたくても謝れない紫雲、
 言いたい事を言えない入鹿、
 その二人を見守る征。

 征が、既に別れていた幼馴染二人を呼んだのは空気を変える為であり、
 自分達の空元気を維持させる「他の誰かの視線」を必要とした為であった。
 つばさの……彼女も途中の別れ道で既に別れている……来訪は予測していなかったが、征的には彼女に感謝せざるを得ないと思っていた。

 空元気でも維持させておけば、いつの間にやら多少は元気も戻る……
 その意図であったが、若干中途半端になったと言わざるを得ない。

 ではあるが、その中途半端のお陰で。

「これに懲りたら、そろそろアイツには話しておけよ。
 多少、難しくてもさ」

 ずっと言えずにいた事を口に出来る、そんな空気になったと征は判断した。

「……!?」

 多少、のイントネーションに込められたもの。
 それを紫雲は直感的に理解した。
 勘違いではないかとも思った。
 だが、どこか悲しげに苦笑する征の表情が、推測に間違いはないのだと確信させた。

「ああ、全然関係なさげなことなんだが。
 この間、見舞いに行ったろ?」

 それゆえに言葉を失う紫雲に、征は続けていく。
 明言はせず、それでも気付いた事を伝える為に。

「あの日の帰り道、ヴァレットたんが飛んでいくの、見かけてさ。
 相変わらず頑張ってるなって思ったよ。
 自分の生活を、すり減らしてさ。
 無理すんなって言ってやりたいんだけど、街がずっと騒がしいのは分かるしな……。
 俺はせめて祈ってるのさ。彼女が幸せである事を」
「久遠く……」
「っと、皆まで言うなよ?
 俺はもう十分だよ。
 二次元の女の子達に好かれる良い男ってのは、察しもいいもんさ。
 ただ、一つ忘れないでくれ。
 俺や新城は、楽しくやりたいだけさ。
 二度とは巡ってこない学園生活ってやつを。
 お前を含めた、な」

 撃ち抜かれた、ような気がした。
 自分の中にある大切なものを、破壊するのではなく、気遣っているからこその銃弾に。

 だから、分かった。

 久遠征が今求めているのは、紫雲からの謝罪の言葉や感謝の言葉ではない。
 ただ、彼の言葉を受け入れてほしいという、その一念。

 そして、だからこそ、今は何も言わないでいい、という思いを。

 それに甘えていいのだろうか、いや今こそ全てを話すべきではないか。
 そんな思考と思いの渦に囚われ、何も出来ないでいる紫雲に、征は最後の言葉を告げた。

「ま、そんなわけだからさ。
 俺にはいいけど、察しが普通なアイツにはそろそろ話してやってくれ。
 正義の味方の正体バレが危ないのは事実だが、
 もう俺が分かっちゃったんだから、この際一人も二人も変わらないだろ。
 じゃあな。
 文化祭、楽しもうぜ」

 そうして笑顔を残して去っていく征に、紫雲は何も言えなかった。
 何も言えずにいる自分が情けなくて、恥ずかしくて、俯いた。
 
「……素晴らしい友達だな」

 そうして立ち尽くす紫雲に声を掛けたのは、草薙命であった。
 曲がり角の影から現れた彼女は、泣きそうな顔をしている、男装姿の妹に言った。

「私は、彼らに感謝している。そして、言葉の一部に同意している。
 二度とない学園生活を楽しんでほしいという事に。
 そして、それは愚妹、お前もそうしたいはずだ。
 だが……今、それはもう破綻しようとしている」
「……その話は、家に帰ってからにしない?」

 妹のらしからぬ弱音。
 自分か、もう一人の家族となったクラウドにしか見せないであろう部分。
 今は、それを見過ごすわけには行かなかった。

「駄目だ。
 家は……休むべき、帰るべき場所だからな。
 つまらない話は外で済ませるに限る」
「……そう、かな」
「ああ、そうだ。
 話を戻すが……元よりお前の学園生活は破綻しかかっていた。
 そして、先週保護者たる私が呼び付けられた時点で、ほぼ破綻した」

 そう。先週の木曜日。
 授業途中の抜け出し、遅刻、早退、成績の悪化、
 それらが最早看過出来ない程に積み重なった結果、
 命を交えた生活指導……状況によっては停学や退学も視野に入れた……が行われる事が決定した。
  
 文化祭が間近だからという理由で指導そのものは少し先に持ち越されたが、最早猶予は無くなったと言える。

 そう。
 草薙紫雲が、学園生として生活出来る猶予は、もう殆どないのだ。なくなってしまったのだ。
 他ならぬ紫雲自身が、それを削り切ろうとしていた。



 それは、あの駆柳つばさも違う形で指摘していた。
 新聞部に纏わる事件から数ヶ月、ヴァレットとつばさは何度か会っていた。
 記事のネタ提供や、記事内容の詳しい確認などの為に。
 ……ちなみに、ヴァレットの正体当てについては、今の所目星がつかないからとつばさは行っていない。

 閑話休題。
 その、つばさと最後に会ったのは一週間と少し前。
 
 ある意味、彼女がその時語った言葉こそ、
 今に至る状況の始まりだったのかもしれないと、今になって紫雲は思っていた。

『あんた、悔しいけど正義の味方としてはキッチリしとる。
 ……いや、わざわざ否定せんでいいわ。
 それに、本題はそこやない。
 キッチリし過ぎてるのが、気になるんよ』

 意味が分かりかねると首を捻るヴァレットに、つばさは言った。

『正義の味方としてのアンタに不備はない……正直完璧過ぎると思うとる。
 でもそれは裏を返せば、アンタの正体側に過剰な負担が掛かってるってことやないの?
 うちは……アンタの取材を続ける限り、アンタと友達になるつもりはないけど……。
 それでも、うちの記事以外で、正体が書かれたり、悲惨な目にあってほしいわけやないから。
 せいぜい気をつけることやね』

 何処か照れ臭そうに言うつばさの遠回りなようでストレートな優しさが、ヴァレットは、紫雲は、嬉しかった……。

  

 そうしてつばさが指摘してくれた事を紫雲としても改善したいと思っていた。
 だからこそより事件解決に奔走した。
 だが、その結果が、少し前に引いた風邪であり、今の状況であった。

 そして今は、もっとも近しい存在である命に指摘されるに至っている。
 紫雲は、その事も含めての胸の疼きを抱えながら、命に向き合っていた。

「お前が、今のままの生活サイクルを続けるのなら、もう学園には通えなくなるだろう」
「……っ」

 今までは、まだ大丈夫、街はもう少し落ち着いたらちゃんと通学できる、と言えた。
 だが、もうその言葉は使えない。

 今現在の平赤羽市では、ほぼ毎日なんらかの、普通の人間では解決出来ない事件が起こっている。
 ヴァレット……自分が絶対に動かなければ解決出来ない、とは紫雲も思ってはいない。

 だが、結局の所、草薙紫雲は、魔法多少少女ヴァレットは動かずにいられないのだ。
 きっと大丈夫だからと、希望的観測で放ってはおけないのだ。
 万に一つでも可能性がある以上、誰かの命を取りこぼす訳には行かないのだ。

 ゆえに、今の状況を放り投げるわけには、生活の形を変えるわけにはいかない。 

 だから、大丈夫だと口にしても、それがただの嘘にしかならない事を紫雲自身が理解していた。

 そうして言葉を失った紫雲に、命は追い討ちをかけるべく淡々と指摘した。
 
「にもかかわらず、だ。
 お前は自分をより追い詰めると分かっていて、例の喫茶店でのアルバイトを増やした。
 それは、愚妹。
 お前はとっくの昔に気付いていたからだ。
 この生活は破綻する。そして、私と喧嘩し、家を追い出される、と。
 だから生活費、もしくは学費を貯めておきたかった……そんな所だろう?」
「……うん」

 嘘は、吐けなかった。
 姉には、どうあっても吐けなかった。
 正確に言えば、吐く意味が全くなかったからだ。
 血を分けた、という意味で言えば、たった二人きりの家族なのだから。

 そんな思いで頷くと、命は「はぁぁぁ……」と深い深い溜息をついた。

「馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、ここに極まれりだな。
 言っておくが、私はお前を家から追い出すつもりはない」
「え……?!」

 正直言って全く予想外の言葉に、紫雲は目を見開いた。
 そんな紫雲に、命は浮かべた渋面を隠す事なく言葉を続けた。 

「……まぁ、極まれり、などと言ったがお前の危惧は間違っていない。
 お前がヴァレットになって最初の頃は、今のような状況になったら、そのつもりでいた。
 だが……変わったものがたくさんあったからな」

 街の状況。
 ヴァレットという存在の必要性。
 そして、紫雲の夢に対する強い想いへの理解……。
 それらには、命の考えを少なからず変えざるを得ない要素が詰まっていた。
 
「それに、だ。
 正直、今のお前を家から放り出そうものなら野垂れ死にしかねない。
 クラウドから言われた事だが、事実そのとおりだと私も同意した」
「クラウドが……?」
「ああ。
 彼……いや、アイツは、お前の事を案じていたよ。
 自分の宿願……例の宿敵とやらへの対処よりも、お前の人生をな」

 異世界良識概念結晶体。
 世界を破壊するものと戦うために生み出された、概念種子の導き手たる存在。
 
 その彼が、自身の目的よりも、紫雲の人生を優先したいと願っている……
 それがどれほどの意味を持つ事なのかを、紫雲は理解出来ていた。

 彼とは、出会ってからまだ一年と経ってはいない。
 いないが、ずっと共にいたのだ。
 最終目的こそ違うけれど、同じ方向は確実に向いて、一緒に駆け抜けていた『同類』で、家族なのだから。
 
 込み上げて来る。熱い感情が。
 その熱は、目から形となって、流れ落ちていく。

 そんな妹の、彼女らしからぬ姿を目の当たりにした命は、いつもより優しい声音で語りかけていく。

「……だから、な。私はお前を追い出したりしないよ。
 だがな。
 これだけは言っておく」
「な、に……?」
「もう、両立は無理だ。
 慶備学園二年生たる草薙紫雲か、平赤羽市の正義の味方たるヴァレットか。
 お前にとって優先するべきなのはどちらなのか、明確に選ぶ時が来たんだよ、愚妹。
 分かってるだろう?
 今これを曖昧にすれば……致命的な、取り返しのつかない事を引き起こす」

 分かっている。
 今のままの生活が続けば、どちらかの何かを取りこぼすだろう事は。

 どちらかを選択すれば、それもまた大切な何かを失う。

 ただ、選択をすれば、最悪の事態を引き起こす事を避ける事はできる。
 専念すれば、どちらかで『正体』が露見して、周囲の人間を巻き込むような事態を起こす可能性を格段に減らす事はできる。

「……私は、これ以上は何も言わない。
 どちらを選択するのかを決めるのは、他でもないお前自身だ」
「姉さん……いいの……!? 私に、選ばせて……選んで、いいの……?!」
「お前の事だから、そんなつもりはないんだろうが……私に決断を委ねるな。
 私にそれを委ねたら最後、
 私がお前に命じる事は決まってるだろう?
 その内容は、よく分かっているだろう?」

 ああ、分かっている。
 ヴァレットになってからずっと、その是非については言葉を交わしてきたのだ。

 深く頷く紫雲に、命は告げた。

「だが、それが私の私情を多分に含んだものなのは分かっている。
 ゆえに言葉にはしない……卑怯ですまないな、紫雲」
「卑怯だなんて、そんなこと、あるわけない……!」

 紫雲は大きく、頭を横に振った。
 そうする事で中空に散らばった涙が、夕日になりかけの陽光に照らされて、宝石のように輝いて、流星のように落ちていく。

「ごめん、ごめん、ごめんなさい、姉さん……!
 私、私は……っ!」
「謝る事なんか、何もない」

 そう言って命は紫雲に歩み寄り、手を伸ばし……彼女の頭を優しく、優しく撫でた。
 
 謝るべきなのは誰なのか。
 命はあえて語らなかった。
 それが堂々巡りになることはわかりきっていたから。
 だから、もうそこには触れずに、こう告げるのみだった。

「さぁ、帰ろう。つまらない話は終わりだ。
 お前がどんな決断をしても、帰る場所は変わらないさ。
 今までも、これからも、ずっとな」
「……ぅ……ぁ、ぁ………………………う、ん。うん、帰ろう、姉さん」

 紫雲もまた、あえてこれ以上の堂々巡りを選ばなかった。
 そうしなかった姉の意志を大切にしたかったから。
 だから、涙を堪え、懸命に心を整えて、くしゃくしゃの顔で告げた。

 そうして姉妹は帰っていく。家路を辿る。
 かつて紫雲が幼かった頃そうしていたように、手を繋ぎ合いながら。









「……紫雲」

 その日の夜。
 互いへの感謝と謝罪、様々な事を語り合った後、ベッドに潜り込んだ紫雲にクラウドは語り掛けた。
 ……まだ明確には聞いていなかった、だがおそらくは分かりきった、彼女の決断を尋ねるべく。

 薄暗い闇の中、それでも変わらぬ高い視力で迷いなくクラウドを見据えて紫雲は言った。
 静かに、それでも確かな言葉で。

 彼が尋ねようとしている事がなんなのか、分かっていたから。

「答は……決めてるよ。
 きっと、クラウドも分かってるとおり。
 でも、答を出すのは文化祭が終わってからにしようと思うの。
 なんとか、それまでは両立を頑張るよ」
「……そうか。それでいいと思うよ」
「ありがとう、クラウド」
「さっきも言ったけど、それは僕の台詞だよ」

 そうして『二人』は笑い合った。苦く、それでもどこか澄んだ形で。

 

 







 そして数日が経ち、その日がやってきた。
 すなわち、県立慶備学園、文化祭。

「おはようさん」
「おはよう、二人とも」
「おはよう、久遠君、……新城君」

 その日の朝、ジオラマ研究会の三人は、通学路の途中で待ち合わせていた。
 少し早い時間での待ち合わせは、
 部室での展示物や同時に行う予定の動画のネット配信の最終最終確認を行う為のものであった。

「でも、わざわざ早起きして確認する必要なくない?
 昨日もしたじゃない」
「念の為だよ。
 分かるだろ?
 こういうのは当日なにかしらが起こるものなんだよ。
 朝到着したら展示物が壊されてたりとか」
「いや、それはライバルとかがいる部活で起こるものであって、
 僕らと敵対しているような人もいないでしょ……」
「あはは」

 二人のやり取りを見て、紫雲は笑う。
 入鹿は、そんな紫雲を一瞬だけ、チラリと一瞥する。

 あの日……思わず襟元を掴んだ日曜日から、
 何処となくこちらを伺っているような様子……だったような気がしていたが、
 今はそれを感じない、と思う。正確な所は分からないが。
 友達が少なく、人の機微に疎い事が、今はただ悔やまれる。

 だけど、今は少なくても構わないとも思っている。
 ここにいる二人は、そう思わせてくれる、自分には勿体無いほどの友達だ。
 まぁ、そう思っているがゆえに彼の事を心配しているのだが。

 そうして、会話を交わしつつ歩き出した三人の少し先で。

「……?!」

 一台の黒いリムジンが停車した。  
 その車に、紫雲は見覚えがあった。

「? なんだろ」
「いかにも金持ちの乗ってる車だな。しかも超が付きそうな」
「……そうだろ? そういう分かりやすさの為にあえて乗ってるんだ」

 言いながら車から降り立ったのは、一人の男。
 やはり、その人物を紫雲は知っていた。

「……アンタ、確か」
「ご存知のようだね。
 だが、折角だからあえて名乗ろう。初対面、だしね。
 岡島財閥総帥、岡島黄緑だ。名刺はいるかな?」
「折角だからもらっておきますよ。何かの役に立つかもしれないし」
「久遠君は正直だなぁ……」
「……いただきます」

 一礼した後、征、入鹿、紫雲三人にそれぞれ名刺を渡した後、黄緑は笑った。
 ……ヴァレットとして初めて会った時の、対外的な表情だ。

「素直でいいな、久遠征君」
「……なんで俺の名前を?」
「私の事を知ってるなら察しはつくんじゃないかな。
 ヴァレットに執心な私が、
 ヴァレット公認の部活をチェックしていないわけがないだろう?
 ゆえに、君達の事は調査済みだ。
 駆柳つばさ君や、直谷明君、高崎清子君の事もね」
「なるほど……」
「納得するのもなんだけど、なるほどとしか言い様がないね……」
「そ、そういうものかな……いや、そういう人なんだけど……」

 最後の方は小声で言いながら、紫雲は彼がこちらに視線を向けている事に気付いた。
 だが、紫雲はあえてそれに気付かないふりをした。
 あくまで今の自分は初対面の、男子学園生に過ぎないのだから。

「それで、その総帥が何か御用でしょうか」

 だが、無視しすぎるのも不自然なので、浮かんだ疑問を口にしておく。

「いやなに、午後に余裕が出来たら、そちらの文化祭に、というより君達の催し物にお邪魔しようと思ってね。
 いきなり来て驚かせるよりは、先んじて言っておいたほうがいいかなと出勤のついでに待っていたんだ」
「総帥は暇なんですか?」
「久遠君、物怖じしないなぁ」
「ははは、しなきゃいけないことはたくさんあるが、優秀な社員のお陰で焦る必要はないからね。
 暇ではないが、暇が必要な時に暇を作る事は出来る。
 いざという時力を貸してもらえる人間関係は大事だという話さ。
 覚えておくといい。
 と、そろそろ失礼するよ。
 三人とも、今日はゆっくり文化祭を、青春を楽しみたまえ。
 今日はきっと平和なはずだから」

 そう言い残すと、黄緑は再びリムジンに乗り込んだ。
 すぐさまリムジンは動き出し、文字どおりあっという間に遠ざかっていった。

「なんだったんだろ、あれ」
「さぁなぁ。ヴァレットたん推しの気持ちは分かるけどな。
 ……それだけだったのかね」
「……どう、だろうね」
「まぁどうでもいいか。
 客としてくるならちゃんとその時に歓迎すればいいしな。
 じゃあ、行こうぜ。
 折角の文化祭なんだ。
 こんな所でグダグダしてるのは勿体無いだろ」
「まぁ、そりゃあそうだね。行こう行こう」

 そうして二人は歩き出す。
 紫雲もそれに倣って足を動かす……ただ、それと同時に行っている事もあった。
 
『クラウド、お願いできる?』

 彼が何か意図があって自分達に接触してきたのか、あるとしたらその意図はなんなのか、それは分からない。
 少なくとも、彼の人となりから決して悪意ではないのだろうが……
 どうにも、何かが気に掛かった。
 嫌な予感とも言うべき何かが、紫雲の中に生まれていた。

 ゆえに、クラウドに法力による声で彼の監視、というと言い方が悪いが、実際それが一番近い行為を頼む事にした。

『分かった、任せておいてくれ。
 追跡が必要になるかもしれないからライも連れて行くよ』

 クラウドが即座に肯定、紫雲の鞄からコッソリヒョッコリ這い出したライと同時に動き出してくれた気配を感じて、
 紫雲は意識を明確に自分の方へと向け直した。集中した。

 祭は始まる前が、その準備こそが楽しいという言葉を、紫雲は何処かで聞いた事があった。
 その言葉は、決して間違っていないのだろう。

 確かに、今ここに至るまで、ワクワクしていた。

 ジオラマを使った動画……
 ヴァレットを使った、という事に照れくささを感じていたが、それはそれとして嬉しかった……
 の撮影でのあれこれ。

 必要なものをあちこちに三人で、時に二人で買いに行った。
 どうしたら一番見栄えがするかを、アニメや特撮を一緒に見る事で研究した。
 つばさも交えて、どう宣伝するかをファミレスで話し合った。

 今ここに至るまで色々な事があった。
  
 だけど、いよいよ祭が始まろうとする今だって同じ位楽しい。

 二人と最終確認を行い、ホームルームが始まる時間になったから教室に向かい。
 クラスメート達と挨拶を交わし、クラスの催し物についても語り合い。

 きっと、文化祭が始まっても、この楽しさは変わらない。
 いや、もっと楽しさは加速する。

 美術部として提出した、展示用のイラストは少し荒れたものになってしまった。
 幾つか幽霊部員などとして参加している他の研究会や同好会には、あまり協力できなかった。
 だけれども、皆笑って許してくれていた。
 気にしないでいい、当日一緒に楽しもうよ、と。

 だから今日はきっと忘れられない日になる。
 生涯の内で指折りの忘れられない、楽しい一日になる。

 そう。
 何も起こらない、その限りは。

「よし、いよいよだねー」
「うん……」

 ジオラマ研究会のある部室棟に、入鹿と紫雲は二人で歩いていく。
 征は、クラスの催し物への手伝いをしてから向かうとの事だった。

「どんな一日になるのか、楽しみだね」

 そう言って、紫雲は微笑んだ。
 入鹿が思わず動悸を意識するその表情は、穏やかで、楽しそうで、そして何処か……悲しそうに、寂しそうに見えた。
 そして、それが……。

「新城君?」
「あ、うん。そうだね。僕もそう思って色々考えてボーっとしちゃってたよ」

 浮かんでいたその感情に戸惑いを覚えながらも、入鹿は笑った。
 そうして、二人が質の異なる、それでも何かが何処かが似通った笑みを交し合っていた時だった。

『……紫雲』

 紫雲の中に、クラウドからの声が響く。
 彼が収集した情報の全てが込められた、呼びかけ。

 そこには、クラウドの苦悩も込められていた。
 伝えるべきかそうするべきではないのか。
 だが、最終的に彼は決断した。

 ……伝えようとも、伝えまいとしても、紫雲は。
 
 だからこそ、せめて紫雲の希望に沿おうと、クラウドは決めた。

 彼女が何を選択するのか、分かりきっていたから。

『うん。分かった』

 端的に、紫雲は頷いた。
 覚悟をしていたから、不思議と心に波は立たなかった。
 少なくとも今この時は、いつもどおりに、為すべき事を為すだけだ。

 そう思っている事を、クラウドは感じ取った。
 きっとそれは、法力からの意志を感じ取れずとも、感じ取れていただろう。 

 ただ。

『紫雲。……別れを済ませてからこちらに来てくれ』

 いつもどおり、それをさせる事を、肯定したわけではない。

『え……?!』
『状況維持くらいは、僕達でどうにかできる。してみせる。
 だから、ちゃんと言うべき事を、言うべき人に伝えてから、こちらに来てくれ。
 そうでないと、こちらに集中できないかもしれないだろう』

 言いながら、それは嘘だな、とクラウドは思った。
 紫雲は、彼女はきっと、集中できる。
 こんな状況でも、いつもどおりが出来る。
 だが、それゆえに、今に至ってしまったのだ。

 でもだからこそ、今くらいはいつもどおりをさせたくなかった。
 ……これが、きっと最後になるから。

『……分かった。うん、ありがとう。
 でも、出来る限り、急いでいくから』
『ん』

 そんなクラウドの意志を受け取って、紫雲は頷いた。
 クラウド達を信じて、今だけは、いつもどおりではなくなってもいいのだと。

 ――そうして、草薙紫雲は、部室へと向かう階段の途中で足を停めた。

「草薙君?」

 それに気付いて、訝しげに振り返る入鹿。

 ……彼にはずっと迷惑と心配を掛けどおしだった。
 ……彼には、もう一人の自分としても伝えなければならない事がある。



 そして、今ここに至るまで、征共々友達……親友でいてくれた。



 状況は、悠長にしていられるものではない。
 久遠君は、自分はいいからと言ってくれていた。

 だから、入鹿にだけ、伝えよう。

 そう意を決して、紫雲は口を開いた。
 響く動悸を、動揺を、懸命に堪え、抑えながら。 

「新城君、話したい事があるんだ。少し、時間をもらえないかな」







 

 こんなはずではなかった。
 その言葉が、脳裏に響き続ける。
 岡島黄緑の中をずっと駆け巡っている。

「おいおい、さっきからずっと押し黙ってるぜ」
「そりゃあビビッてるんだろ、この状況にさ」

 彼が所有する、今高速道路を駆け抜けているリムジンの中、黄緑は銃を突きつけられていた。
 突きつけていたのは、少し前リムジンの進路を偽りの工事で遮り、
 その隙を……あえて作っていたその隙をついて、襲撃してきた集団の下っ端二名。

「いやぁこんなリムジンを運転できるなんてなぁ。楽しいわ。
 でもなんでアンタ自分で運転してたんだ?
 運転手とか普通いるだろ?」
「……今日は休暇を取ってもらってたからな」
「代わりの誰かを頼むべきだったんじゃねーの?
 まぁ、いてもいなくても今の状況は変わらんだろうけどな」

 運転する、車内にいるもう一人の下っ端が笑うのに合わせて、他の二人も笑う。

 確かに、いてもいなくても状況は変わらなかっただろう。
 だが、黄緑が想定していた、いてもいなくても変わらなかっただろうものは結果。

 今、岡島財閥総帥たる自分を誘拐している、
 現在急成長中の、異能を道具として使う犯罪グループ『エクサ』……
 彼らが、平赤羽市にいる『ヴァレット以外』の善意の異能者、
 ヒーロー&ヒロインズにより派手に倒され、逮捕されるという結果は変わらないはずだった。

 この計画は、様々な意味でヴァレット一強の状況に一石を投じるための自作自演の襲撃・誘拐劇だった。

 その実行の為に、黄緑は『エクサ』に自身の動きの情報を流し、
 正体を把握しているヒーロー&ヒロインズにもそれとなく予感めいたものを感じさせる仕込を済ませていた。

 それにより、今日はど派手なカーチェイス……
 そのために高速道路は人払いをさせていた……や、各地での激闘の末『エクサ』は壊滅。
 ヴァレットだけではなく『彼ら』もこの街にいるのだと、市民のみならず『彼ら』自信にも強く印象付ける。
 
 それにより、ヴァレットにだけ負担が掛かる状況を変える、そのつもりだったのだ。

 だが、その計画は破綻した。破綻していた。

 ……ヒーロー&ヒロインズは現れなかった。誰一人として。

 動こうとして、別の事件に巻き込まれた可能性もある。
 だが、今、黄緑の計画が破綻しているという事実には何一つ変わりはない。

(どう、する?) 

 万が一の状況に備えて、自分でもある程度状況打破する準備はしている。
 だが、今から『彼ら』が現れないとも限らない。
 そうなったのなら、計画は無事再開出来るというものなのだが。

 問題は、その前に『彼女』が現れ、全てを解決してしまう事。

 そうなってしまえば、完全に取り返しがつかない。

 彼女を救うための計画が、彼女に後戻りさせなくなるものへと成り果ててしまう。

 ゆえに、どうすべきかの踏ん切りがつかず、黄緑は動けずにいた。

 それらは、実に彼らしくなかった。
 いつもの彼であれば『彼ら』の動きを読み損ねる事はしなかっただろう。
 いつもの彼であれば即断即決、状況を自ら動かして、思うままにしていただろう。

 そう出来ていない理由を、彼は薄々理解していた。
  
 だが、分かっていても動けなかった。ままならなかった。

(せめて、現状維持が、時間稼ぎが出来れば……)

 黄緑が彼には珍しい焦りを表情に浮かばせていた、その時。

 全てが、停止した。
 黄緑も、車内にいる下っ端達も、彼らの周辺を走っている『エクサ』所属の面々が乗った車やバイク、トラック。
 それらの全てが。

「……これで、暫しは時間稼ぎできるな」

 そう呟くのは、彼らの頭上……ライの上に、クラウドと共に腰掛ける、草薙命であった。

 この状況を為したのは、彼女が所持している概念種子【停止】。
 ありとあらゆるものの状況を動かさずにおける異能。

 彼女は笑う。
 現状維持しか出来ないこの力は、まさに自分に相応しいものだと……苦く苦く笑った。
 









 草薙紫雲が新城入鹿を伴って向かったのは、学園の屋上だった。
 封鎖されているはずのその場所、屋上への扉を、
 いかなる手段か分からないが紫雲は開き、二人はそこで向き合っていた。
 少し強い、冷えた風が吹いて、二人を撫でる。
 紫雲の、校則で決まった長さより僅かに伸びた後ろ髪を棚引かせる。

「……」

 入鹿は、気付いていた。
 ずっと続いている、紫雲が研究会を休み、学園に遅刻し、抜け出さざるをえなくしている何かが今も起こったのだと。
 そして、その事について何かを、もしかしたら真実を、話そうとしてくれているのだろうと。

 だが、それを『で、話ってなに』と、自分から切り出す事は出来なかった。

 ずっと望んでいたはずの事を、いざそれが叶う状況になった今は出来なかった。
 何かを壊してしまうんじゃないかと、出来なかった。

 きっと、それは目の前にいる友達……きっと親友と言っていい間柄の彼も同じだというのに。
 
 そうして黙っている入鹿に、紫雲は笑いかけた。
 先程も見た、様々な感情が入り混じった笑みを。
 そんな笑みに、入鹿の中でもまた様々な感情が行き交う中、紫雲は口火を切った。
 
「……あの日、ここで話したね。そして、お願いしたよね。
 新城君に、素敵なものを作り続けてほしいって」
「え?」

 それは、その言葉は、草薙紫雲と交わしたものではない。
 それを交わしたのが、誰だったのか……入鹿は覚えていた。忘れるはずもなかった。
 だというのに、頭が混乱する。彼が言っている事が、入鹿には理解出来なかった。

「貴方は、それを守ってくれた。叶えてくれた。
 それは僕をずっと支えてくれたよ。
 だから、今日ここに至るまで、頑張れたんだと思う」

 嘘偽りなく、紫雲はそう思っている。
 入鹿が作ってくれた素敵なものは、紫雲を奮い立たせていた。支えてくれた。
 草薙紫雲を支える、そんな力の一つだった。
 新城入鹿という、存在そのものも含めて、そうだった。
 
 そんな、返しきれない恩があって、楽しい時間を共有してきて……
 だからこそ一番嘘を吐いていた彼には、ちゃんと伝えなければならない。

 嘘偽りのない、本当の事を。

 だから、紫雲は改めて覚悟を決めた。

「新城君。
 僕は……私は、貴方に黙っていた事が二つあるんだ」

 そう言って、紫雲はズボンのベルトに手を掛けた。
 カチャカチャと音を立てて、ベルトの停め具を外し、ファスナーを下ろし、ズボンを脱ぐ。
 入鹿が何をしているのか分からず、呆気に取られている間に、
 紫雲はズボンに続いて、次々と衣服を脱ぎ捨てていく。

「く、草薙君、一体何を……え……っ!?」

 大き目のシャツを脱ぎ捨て、紫雲が纏っているのは三つのみ。
 眼鏡と、胸に巻き付けているさらしと、これまでは見えなかった……女性向けの、簡素な白いショーツ。

「え……えぇっ……??!!」

 さらしが何を隠しているのかは明らかで、
 ショーツも含めての、言語化出来ないでいる事実を半端に把握し、
 混乱しながらも入鹿は真っ赤になった顔を逸らそうとする。

 だが。

「見ていて、新城君」

 僅かに紅潮し、声を震えさせながら、紫雲がそれを停止させた。

「で、でも……!」
「お願い。
 自己満足かもしれないけど、これが私の、新城君に対する、せめてものケジメだから」

 互いに時折視線を彷徨わせながら……それでも。

「……う、ん、わ、分かった……」
「ありがとう」

 確かに、二人は向き合っていた。

 その中で、紫雲は再び衣服に手を掛けた。
 ほどき解かれたさらしが、僅かな間を置いて脱ぎ捨てたショーツが、眼鏡が、屋上の地面に落ちる。

 入鹿は、目の当たりにしていた。

 白い、日に当たった事があまりないのであろう、綺麗な肌。
 少し大柄かもしれないが、それでも、男と比較すればどこか華奢な身体のライン。
 うっすらとついた腹筋。
 驚くほどに細いウエスト。
 肉感のある太腿、そしてほどよい大きさの臀部。
 そして、初めてのはずなのに、見覚えのある……
 二つの、豊満と表現するのに不足のない、柔らかさが見ただけで伝わるような胸の膨らみ。 

「これが、私。本当の、草薙紫雲」

 青空の下で、露にされた真実を。
 そうして、一糸纏わぬその姿は紛れもなく、疑いようもなく。

「私は、女なの。
 これが、黙っていた事の一つ。そして」 
  
 もう決めた事だ。
 決めた事を覆す理由も迷う理由もない。

 だから、紫雲は高らかに叫んだ。

 もう一つの自分をさらすための、呪文を。

「マジカル・チェンジ・シフト……フォー、ジャスティスッ!!」

 紫雲の足元から風が……法力の奔流が巻き起こる。
 それが足元に散らばっていた紫雲の服を巻き上げ、彼女の身体を覆い隠し……変身が完了する。

 そこに立っていたのは、入鹿がよく知っている、入鹿を救ってくれた正義の味方志望の……魔法多少少女。

「ヴァレット……ッ!」
「そして、これが黙っていた事のもう一つで、私のもう一つの姿。
 今まで話さずにいた事、本当にごめんなさい」

 そうしてヴァレットは、ようやっと、そんな思いで深々と頭を下げた。
 本当はずっとそうしていたかったが、状況はそれを許さない。
 だから、許可を得ない事に息苦しさを覚えながら、頭を上げ、改めて入鹿と向き合った。 

 入鹿は、目を見開き、困惑と驚愕の中にあった。
 彼が落ち着く事を待っていられない事が申し訳なかったが、それでもヴァレットは言葉を続けた。

「話せなかったのは、新城君も知ってのとおりの理由。
 正義の味方が正体を明かすのは、とてもとても危ないことだから。
 私の周囲の、大切な人たちを危険に晒すことだから。
 だから、明かしたくなかったの。
 正体の撹乱の為に、男の子の格好をしていたの」

 そう語る彼女の声音は、紫雲とヴァレット、そのどちらでもあり、どちらでもなかった。
 柔らかく、人を癒すような、夏に吹く涼風のような声。
 これこそが、本当の彼女の声なのだろう。

 それさえも隠していたのか……いや、それさえも隠さざるを得なかったのだ。
 彼女が果たすべき使命の為、彼女が、草薙紫雲が、ヴァレットが追い求めていた夢の為に。
 
 ずっと、これほどのものを彼は、いや彼女は抱えていたのか。
 それでもなお、自分達の眼前で日常を続けていたというのか。
 
 その事実に、入鹿は打ちのめされ、言葉を失っていた……が、湧き上がってきた衝動に突き動かされ、ついにその口を動かした。

「な、なら……どうして、僕に明かしたんだ……?!」
「新城君には……大切な友達だったあなたには、知っていてほしかったの」
「く、久遠君は?! 彼だって、そうだよね! 僕達は、僕達みんなは……!」
「……やっぱり優しいなぁ、新城君は。
 えっとね、実を言うと、久遠君にはもう気付かれちゃってて。
 自分はいいから、新城君には話してあげるべきだって言ってくれたの。
 だから……最後に、貴方にだけは教えておきたかった」
「最後……?! 最後ってどういう事なんだよ……!」

 入鹿は自分でも驚くほどの声が自身の口から発せられた事に戸惑いながらも言葉を続けた。
 そんな入鹿に、紫雲は先程からずっと変わらない笑み……諦観したそれを浮かべたまま、答えた。

「ヴァレットであり続ける限り、私の学園生としての形を続ける事はもう出来ない。出来なくなったの。
 そして、私は……ヴァレットをやめられないし、やめたくない。
 例え、草薙紫雲をやめたとしても」
「!!」

 学園生活は、入鹿や征達との時間は、紫雲にとってかけがえのないモノだった。
 決して失いたくない、輝ける時間だった。
 
 だけど、誰かの命とは引き換えに、それを謳歌する事は出来ない。
 草薙紫雲に、魔法多少少女ヴァレットに、それは出来ない。

 自分の生活を、ある一面においての本来の生き方を投げ捨てる事は、命への、人生への侮辱なのかもしれない。

 それでも、そうだとしても『彼女』は、誰かを助けたいのだ。

 今までも、そして、これからも。

「だから、何事もなく文化祭が終わったら……ここを去るつもりだった。そう決めていたの。
 でも、誰かに……新城君に、全てを話すつもりはなかった。
 だけど、こうなって……やっぱりあなたにはちゃんと話したいと思ったの。
 だから、これは……ううん、全部が、私のわがまま。私のエゴ」

 同時にそれは信頼の証でもあった。
 入鹿はきっと、正体を明かしても、それを流布などしないという確信があった。

 ……いつかは、こんな日が来ると思っていた。

 我が侭だとわかった上で、
 誰かを危険に晒す可能性がある上で、
 いつか誰かに正体を自ら明かすべき時がやってくるかもしれない、そんな可能性も紫雲は考えていた。

 もしも、そんな時が訪れるのだとすれば。

 それは……『草薙紫雲』こそが仮の姿になる時。
 魔法多少少女ヴァレットこそが正体になる時。
 正体に繋がる『過去』を可能な限り捨て去る時。

 今が、その時だ。 

「慶備学園二年生、草薙紫雲は、今日で終わりです」

 そう告げて、ヴァレットは少しずつ浮上していく。
 行くべき場所に行く為に。

「な……!?」
「新城君、本当にごめんなさい。
 貴方にあんなに心配をかけた挙句、こんな有様の、無様さを露呈して。
 貴方にも、久遠君にも、たくさん素敵なものをもらったのに、
 何も返せないまま、全部投げ出して、自分勝手に去っていく…… 
 こんな私を、許してほしい、なんてとても、とても言えたもんじゃないです。
 ただ、ただね……!
 皆との学園生活、特に二人との研究会での活動は、本当に楽しかったです……!
 卒業まで、ずっと、ずっと続けたかった……ッ!
 私のいろんな事が嘘だったけど、
 私のその気持ちと、新城君や久遠君、皆と友達でよかった気持ちだけは、嘘じゃないですから……っっ!」
 
 浮上しながら、涙を流しながらの叫びに、
 ヴァレットとしても、草薙紫雲としても見た事がない、彼の、彼女の感情の迸りに、
 入鹿は圧倒された、いや……目を、意識を、奪われていた。
 だから、発するべき言葉を、伝えるべき意志を、一瞬見失ってしまっていた。

「ま、待って! 待ってよ……草薙君ッ!」

 だから、その声は届かなかった。 

 最後に小さく手を振って、空の彼方に消えた彼女には、届く事はなかった。

 






「っ!? 来やがったな……ヴァレット!」

 リムジンを運転していた……全てが停止していた事すら気付いていない……男が叫ぶ。
 高速道路の真ん中、リムジンの進行方向に降り立った彼女の存在に気付いて。

「よし、予定どおり……うおぉっ!」

 何事かを言い掛けた男だったが、それを言い切る事は出来なかった。
 何故なら刹那の間にリムジンに接近したヴァレットが、その動きを右手一本で停止……
 その結果、急停止させられた事で慣性の法則に従い衝撃に襲われたから、だけでなく。

 ヴァレットの左手、親指を除く四本の指先から発せられた紫光のワイヤーが、
 車のフロントウィンドを割る事なく貫通し、車内の人間全てを捉えていたからだ。

 下っ端の男達三人へ放たれた三本分は、頭部への的確な打撃、その直後はクッションとして作用するように。
 黄緑へは純粋に衝撃を和らげるためのクッションとして作用するように。  

 それを為した事を確認したヴァレットの視線が自分に向けられた事に気付き、
 黄緑は即座に車外へと飛び出していく。

「ヴァレット……! 何故君が!」
「何故も何も……貴方が危ないから来た、それだけです。っと」

 前方や後続の車やバイクに乗った者達が全員グルらしい事はクラウドから聞いている。
 ならば先に黄緑の安全を確保しようと、
 それぞれの車やバイクが一時停止するのを確認した上で、
 ヴァレットは黄緑を抱えて飛行、高速道路を進行方向から数百メートルほど遡った場所で着地した。

「とりあえず、ここで待っていてください。
 多分あの人達は素直に帰ってくれませんから、どうにかしてきます」

 黄緑を下ろしたヴァレットは再び『エクサ』の元へと飛び立とうとする。
 そんな、ヴァレットの背中に、黄緑は叫んだ。

「行くな、草薙紫雲っ!」

 その言葉に、ヴァレットは動きを停止させ、そんな彼女へと黄緑は言葉を続けた。
 彼らしからぬ、動揺を滲ませた声音で。

「俺は、知っている。知っているんだ。
 君の素性や、家の事情も……君が、正体撹乱の為に、男として過ごしている少女だって事も」
「……」
「勝手に調べた事も、これまでの事も、好きに罵ってくれていい!!
 ただ、その代わり、帰るんだ……! 君の帰るべき場所に!
 私は私で何とかする! これも私の悪巧みの結果なんだからな……!
 朝会った時に話しただろう?
 今日は文化祭だろう……ずっと楽しみにしてたはずだ……だから……今から戻れば……まだっ」
「草薙紫雲? 誰ですか、それ?」

 自分達の下へとUターンしてくる『エクサ』達を見据えていた視線を、黄緑へと移すヴァレット。

「私は、ヴァレット。
 市内平和の為に活動している、魔法多少少女ヴァレットです。
 いやできれば世界全部が平和ならいいと、いつも願い、思っていますが」

 そうして、バイザーを上げて、素顔を晒しながら、静かに、しかし力強くニッカリと笑いかけた。

「黄緑さん。私、この街が、平赤羽市が大好きです。
 この街を良くしていこうとしている貴方も……結構、好きですよ。
 まぁ苦手は苦手ですけどね」

 彼女は笑っていた。
 虚勢などではなく、それは普通に、純粋な笑顔。
 彼女は知る由もないだろうが、だからこそ、黄緑の胸には突き刺さる。強く強く。
 
「だから、この街を良くしていく貴方を守りたいんです。
 これが貴方の悪巧みの結果だとしても、少なくとも貴方は善意でそれをしていたんでしょうから。
 心配は無用です。
 今の私は……いつもより、ちょっと強いですから。
 だから、少しだけ、待っていてくださいね」
「ま、待て! 待ってくれ……ヴァレットォッ!」

 黄緑の、生涯通しても使った事が殆どなかった懇願の声は、伸ばした手は届かなかった。 
 バイザーを元の位置に戻し、倒すべき相手へと飛び去った彼女には、届く事はなかった。

「こんな、こんなはずじゃ、なかった……なかったんだ……」

 岡島黄緑は、知っていた。
 草薙紫雲・ヴァレットの事を調べつくして、直接話して理解していた。

 彼女にとって、誰かを助ける事、正義の味方になることこそが人生の優先事項であり、
 それが十全可能な人生であれば、彼女はずっと、紛れもなく確かに『幸せ』だろうと確信していた。

 そして、それは概ねは間違っていなかった。
 彼女はきっとこれからも『充実した』人生を過ごしていくだろう。

 ……もし、そんな事を彼女の前で口走れば、おそらく彼女は怒るだろう。

 彼女自身は誰かの不幸の元に成り立つ人生を、
 充実など、幸せなどとは、決して、微塵も、これっぽっちも思ってはいないのだから。
 彼女はただ『誰かの笑顔が好き』で、
『誰かから笑顔を奪う、誰かを不幸にする何かを打倒したい』……そう思っているだけだから。

 だが、そうして、人生を全力で駆け抜ける姿は『幸せ』に他ならないと、黄緑は思っている。
 平赤羽市の為に生きる自分がそうであるように。
 
 だが、そうだとしても。
 彼女が『幸せ』であったとしても。これからもそうだとしても。

 今この時、一人の少女の青春を踏み躙ってしまった事に変わりはない。

 彼女はきっと、誰も恨まない。
 全てを話しても、黄緑を許すだろう。

 だが、それでも、岡島黄緑は草薙紫雲の人生を踏み躙ったのだ。

「何が、プロジェクトVIだ……」
 
 いつか現れると知っていた『ヴァレット』を偶像にする為の、六番目の計画。
 十年掛けて嬉々と進めていた、平赤羽市のための計画が、今この瞬間はただ、おぞましく、憎らしかった。

「何てことだ……とんだ道化だ……!
 これなら、こんなことなら、俺自身が道化になっていればよかった……っ!!」

 その咆哮は誰にも届く事なく掻き消されていった。
 ヴァレットが『エクサ』と戦う余波で生まれた様々な音の中で。
 








 新進気鋭の犯罪グループ『エクサ』。
 彼らが『そう』なったのには、さしたる理由はない。
 自分達が好きに、思うが侭に生きる為に犯罪を手段に使う事を選択した、
 どこにでもいる、そういう似たもの同士な人間の群れに過ぎない。

 ただ他と違っていたのは、
 リーダーたる青年が悪事による金儲けに才覚があり、
 潤沢な活動資金を持っており、
 街の裏側で溢れるようになった、様々な異能技術や道具を大量に、桁外れに確保している事だった。

 そんな彼らが今回動いたのは、黄緑を狙っての事ではなかった。
 可能ならより活動しやすいよう、資金となる何かしらを奪い取ろうとも考えてはいたが、
 彼らにとっての最上の目的は、ヴァレットの抹殺に他ならなかった。

 正義の味方など空想の産物に過ぎないと考える彼らにとってヴァレットは理解不能な存在だった。
 金や名声で懐柔しようとしても微塵も揺るがず、
 なにかしらの金儲けで接触する度に衝突し、
 何をどうやっても殺す事ができず、少しずつ確実に彼らは消耗していった。

 このままでは『楽しく生きる事』が出来ない。
 そう考えた彼らはヴァレットを確実に葬り去る為の……
 肉体的には本当に殺せないというのなら、精神的・社会的に抹殺する事も視野に入れた計画を立てた。
  
 魔術や儀式による弱体化の結界。
 各種取り揃えた武器、魔道具。
 金で雇った、奇妙な能力の使い手を幾人も取り込み……準備は万端整った。 

 問題は、自分達が構築した処刑場にいかにして、ヴァレットを誘導するか。

 そこに、黄緑による自作自演の為の情報が流れてきた。

 岡島財閥総帥とヴァレットは、幾度か行動を共にしている事は市民の間ではよく知られていた。
 金などで動くことはない、ヴァレットのなんらかの弱みを握っている可能性も含めて、
 彼女を呼び出すにはうってつけだと誘拐計画を、それによるヴァレット抹殺計画を立てた。

 そして、その計画は実行された。
 
 岡島黄緑により、見事ヴァレットは釣り上げられた。

 さらに、抗争の中で展開された転移魔術により、ヴァレットを弱体化結界の中へと飛ばす事にも成功した。

 全てが上手く行った事に、リーダーの男はほくそ笑んでいた。
 この男、よせばいいのに指揮を執るべく、戦いの現場に足を運んでいたのだ。
 ……あわよくば、ヴァレットを捕え、公衆の面前で自分の手により辱めた後『殺』し、平赤羽市に自身の存在を喧伝するために。
 散々に自分達を振り回した、
 それでいて腹が立つほどにかっこいい、ヴァレットという存在への歪んだ欲望もそこにはあった。

 だが。
 男は理解していなかったし、知る由もなかったのだ。

 ヴァレットという存在が、自分の想像を遥かに凌駕する、弱体化が意味を為さないほどの力を持っている事を。
 よりにもよって、今日この日のヴァレットは、
 いわば一つの鎖を取り払った、過去最高の力を振るえる状態にあった事を。

 何かがおかしいと思ったのは、結界に飛ばされた直後のヴァレットの言葉だった。

「……ここは、いわゆる採石場ですね。
 喜ぶつもりはありませんが……
 いえ、ここでなら街の被害を考えず、遠慮無用に力を振るえる……その点含めて、あえて喜びましょう」

 そもそも彼らが転移先、結界展開の場としてこの場所を選んだのは、奇しくもヴァレットの発言と同じ理由であった。
 
 さしもの『エクサ』達も街中で無計画に暴れまわってテロリスト認識され、
 公権力に介入されるのは怖かったので、
 ヴァレットを殺す為の武器を遠慮なく制限なく使える場所がほしかったのだ。

 だが、それこそが彼らの決定的な敗因だった。

「八つ当たりをするつもりはありません。
 ですが……それだけの武装をした以上、相応の覚悟があるとみなしました。
 もしそうでないというのなら、今の内に逃げるか、今すぐに覚悟を決めてください……!」

 彼らはヴァレットを抹殺する為に、この場所を選んだ時点で敗北が決まったのだ。

「チェンジング・パレット、ブルー!
 青く染まりて、静なる冷の具現となる!
 ヴァレット・ウォーター、参上っ!
 アイスランスゥゥゥ! ゲイボルグッ!」

 蒼いヴァレットの投げた氷の槍で、数十体のゴーレムはまとめて凍り付き。

「チェンジング・パレット、レッド!
 赤く染まりて、熱と血の権化となる……!
 ヴァレット・ブラッド、参上!
 ブラッドフレアァァァ……グラッパァァアッ!!」

 赤いヴァレットの炎の巨腕で放った攻撃は吹き散らされ、放った連中は余波だけで吹き飛ばされ。

「チェンジング・パレット、グリーン!
 緑風吹きて、大自然の使者の代行となる……!
 ヴァレット・ストーム、参上!
 トルネード・クラッシャァァァァァッ、バーストッ!!」

 追い詰められて破れかぶれで突撃した者達は、竜巻を纏った緑色のヴァレットにより全て薙ぎ払われ。

「チェンジング・パレット、イエロー!
 黄に輝きて、天と人の怒りの一欠けらとなる!
 ヴァレット・ライトニング、参上っ!
 フルオープンッ……ボルテッ……クゥゥゥスッ!」

 止めに変わった黄色のヴァレットの全身から迸った電撃に、残った面々は完全に沈黙させられた。

 こうして、犯罪グループ『エクサ』は完膚なきまで叩き潰された。
 ヴァレットの力をまざまざと見せ付けられた彼らは、
 彼女と再び対峙するのだけは絶対に嫌だと全員改心したという。

 ただ、それはそれとして。

(……なんで、なんだよ、それ)

 電撃による薄れゆく意識の中で、リーダーの青年が見たのは。

(今のお前なら、倒せそうじゃねーか……くそ……)

 自分達に圧倒的な勝利をしてのけたというのに、
 結界の破壊により戻った高速道路のど真ん中で、ただ呆然と、抜け殻のように空を見上げるヴァレットの姿であった。









 文化祭は、終わった。
 中途とあるトラブルが起こり、
 後日もう一度文化祭が行われる事となったが、そこにはもう草薙紫雲の姿はなかった。

 草薙紫雲は、一度目の文化祭が終わった翌日、慶備学園を自主退学したからだ。

 担任はその理由をクラスメート達に深く語らなかった。
 ただ「草薙は最大限努力していたが、なんともならなかった」とだけ話した。

 その理由に納得出来なかった一部のクラスメート、高崎清子、直谷明他数名は、
 何故か気が進まない様子だった久遠征、新城入鹿を伴って、草薙家を訪れたが、
 そこにも紫雲はいなかった。

「今は、ここを離れてるんだ。
 いつかは帰ってくるが……もう少し掛かると思う。
 本当にすまない」

 姉たる草薙命がそう言って頭を下げたので、清子達はそれ以上何かを追及する事は出来なかった。

 そして、紫雲が抜けた事で、再び廃部の危機になるかと思われたジオラマ研究会は、
 駆柳つばさ、直谷明、高崎清子の正式加入により、廃部を回避した。
 というより、ヴァレットを題材にした動画やジオラマが大きな反響を呼んでいたので、
 おいそれと廃部に出来なくなったらしい。

「無駄無駄やね、草薙さんの努力」
「いやいや、んな事はないだろ」
「ないけどね。なんか、ちょっと……腹立つわ。
 もう少しなんか話してくれてもよかったじゃないの」

 つばさ、明、清子の三人曰く、退学する前に紫雲に頼まれていたという。
 その事に三人は、それぞれの複雑な表情を浮かべていた。

 また、紫雲は所属していた各同好会や部活に対しても、
 退学前に迷惑を最小限に抑えるよう方々に頼んで回っていたという。
 実は文化祭の日も、午後から各部やクラスに顔を出しており、謝罪と共に手伝える事を手伝っていたらしかった。

 ただ、ジオラマ研究会には顔を出さなかった。
 紫雲がジオラマ研究会の部室たる教室に入ったのは、文化祭の朝の最終確認の時が最後だった。

 そうして、草薙紫雲は慶備学園を去り、一ヶ月も経てば、彼がいない事が大半の存在の日常へとなっていた。
 
 その、一方で。

 魔法多少少女ヴァレットの活動、活躍は目に見えて増えていた。
 それにより、平赤羽市の騒ぎはピークを越え、ある程度の落ち着きを取り戻していた。
 ……もっとも、ある程度はある程度でしかなく、
 ヴァレットは毎日なにかしらの事件を解決すべく平赤羽市を飛び回っていた。

 そんなヴァレットの活動増加と、草薙紫雲という男子学園生の退学を結び付けて考えるものは皆無に等しかった。

 






「まぁうちは気付いたんやけどねっ!」

 自慢げなつばさに、ヴァレットは苦笑した。

「というか、本職の記者やお姉ちゃんが全然気付かないのに、うち超すごくない?」
「うん、すごいですよ。流石です」

 二人が会っていたのは、かつて約束を交わした学園の屋上。
 文化祭以後も何度か二人は会っており……少し前、つばさはヴァレットの正体を見事看破した。
 だが、それを記事にする気は今の所ないという。
 なんでも折角のネタだから最高のタイミングで使わないと勿体無いだとか。

 閑話休題。
 パチパチと素直な賞賛の拍手を贈るヴァレットに、つばさは半眼気味な視線を向けた。

「そこは、いや身近にいたんだから気付いて当然、とか突っ込まんでほしいんやけど」
「あ、ごめんなさい。気が回らなくて」
「……まぁええよ。で、学園には戻ってこないん?」
「無理ですよ。
 正直、表向きは事件が起こってないように見えるだけで、
 公表されているよりは多めに色々な事が起こってますから。
 これは、それについての資料です」

 そう言って、ヴァレットは自身がここ数ヶ月に遭遇した出来事についてまとめたレポートめいたものをつばさに渡した。

「……そっか、まぁしゃあないか。
 ん。後でじっくり読ませてもらうわ」
「どうぞ。
 それで、その……皆は元気ですか?
 特にジオラマ研究会の、皆は」
「概ねはそうやね。ただ久遠君と新城君は……」
「え……!? 二人が、何か……!」
「ふふ、なんもないよー。
 ただのジョーク……いや、その、そんな睨まんといてよ。
 ごめんて」

 そうして、いつもの契約を果たした後、ヴァレットが向かったのは『喫茶 Vorreiter』。
 
「ありがと、ライ」

 人気がない事を確認した上で喫茶店の近くに降りたち、紫雲は変身を解除。
 縮小化したライが、日課となった修行へと繰り出すのを見届けて、小さく息を吐く。
 その、小さく白い息が季節の変化を如実に現していた。

「すっかり冬だなぁ……」

 そう呟いて、喫茶店の中に入っていく紫雲。
 黒髪を腰まで伸ばし、姉から借りた衣服を纏った大人びたその姿は、どう見ても少女、否、女性であった。
 今の紫雲は、かつての男装の面影を完全に消していた。
 草薙紫雲としての痕跡を断つ為の姿である。 

「ただいま帰りました、マスター。買い物もしてきました」
「ああ、お帰り。紫雲ちゃん、お疲れ様」

 文化祭の後、紫雲は『喫茶 Vorreiter』で住み込みで働くようになっていた。

 クラスメートが自分を訪ねてくる可能性を考え、彼らに合わせる顔がない事から、
 暫く『草薙紫雲』として身を隠す場所を色々な人に相談した結果、
 バイト先の一つであり、ヴァレットの事情を知るここのマスターが住み込みで働く事を提案、今に至る。

 現在紫雲は、ここでコーヒーや料理について学びながら、
 事件が起これば即座に変身、飛び出していく日常を過ごしている。
 ……勿論というべきか、パトロールや修行も続けている。

 なんというか、思っていたよりもずっと、不思議としっくり来る毎日である事を紫雲は感じていた。

「私の人生の全ては、君をここに導く為にあったのかもしれないな。 
 だが、それも悪くはない」 

 少し前、紫雲の淹れたコーヒーを飲みながらのマスターの言葉が、本気なのか冗談なのか分からず、紫雲は何も言えなかった。
 そして「喫茶店の店員としては、もう少しトーク力を磨かないとね」とマスターに苦笑されてしまった。

『……続いては、岡島財閥総帥が打ち出した、異能者の雇用形態についてのニュースです』

 店の奥、ちょっとした休憩所の役割を持つ小部屋備え付けのテレビがニュースを語る。
 それに耳を傾けつつ店内の掃除を始めた紫雲は、ふと岡島黄緑の事を思い浮かべた。

 あの日以来、彼はヴァレットとの接触を避けるようになっていた。
 彼にとって最も信頼の厚い人物であろう篠崎泉次とは連絡を度々交わしているというのに。
 その泉次曰く「貴方に会う事が恥ずかしいのです。もう少し待ってあげてください」らしい。
 
 ……あの日、自分が告げた言葉で嫌われてしまったのかもしれない。

 そうであるのなら、謝罪と、真意を伝えたいのだが……それはまだ少し先になりそうだ。

「掃除終わりっと」

 かつてよりリラックスした、思いのままに動く事が出来、仕事も興味深い……そんな毎日。
 マスターは時折厳しいけど、それは納得出来る厳しさで、それ以上に優しくて。
 時折帰る家での姉は、変わらずあたたかく迎えてくれて。
 ライやクラウドは、変わらず共にいてくれる。

 これで平赤羽市が平和なら言う事は何もない。絶対にない。

 ……だけど、時折脳裏に浮かぶ光景があって。

 それを振り払うように、紫雲は努めて明るい声を上げた。

「マスター、そろそろ予約のお客様がいらっしゃる時間帯では?」
「ん。そうだね、そろそろ……」

 その時、ドアに備え付けられた鈴が鳴り響き、誰かが来店した事を告げ知らせた。
 時間どおりの来店者に、紫雲はまだまだ不慣れな、精一杯の笑顔と共に振り返り。

「いらっしゃいま……あ……」

 最後付近の言葉を霧散させた。そうなってしまった。
 何故なら、そこに立っていた『予約のお客様』は自分のよく知る人物二人だったからだ。

「よう。探したぜ草薙」
「……ん」

 久遠征と、新城入鹿。
 かつて、特に親しかった友人二人。
 彼らは冬の制服の上に、征は茶色のコート、入鹿は紺色のジャンパーを着込んでいた。
 ……ひとまず、何か不健康な要素は見受けられず、紫雲はホッとする。

「……その、ご」
「ごめんはなし」
「なしだな」
「う」

 真っ先に浮かんだ謝罪の言葉を真っ先に潰されて、紫雲は顔を引き攣らせた。
 あれだけの不義理をしてしまった以上、もう会うべきではないと思っていたが、
 もし万が一に偶然再会した時はまず謝ろうと思っていたのにこれである。
 暫く会っていなかったのに、思いっきり見透かされてしまっている。
 ……それが心苦しくも、どこかで嬉しかった。

 ニヤニヤとこちらを眺める征。
 何処か不機嫌そう。かつ何故か若干顔を赤らめている入鹿。

 そんな二人に向き直って、スーハー、と呼吸を整えて、紫雲は改めて口を開いた。

「……久しぶり。元気にしてた、かな」
「ま、それなりだな」
「一応ね」
「じゃあ、その……とりあえずコーヒーを頼む?」
「いんや。じゃあ、マスターさん、少しコイツ借りていきますよ。
 予約した、そのとおりに」
「ああ、そうするといい」
「え? え? どういうこと?」
「いいから、行くぞ」
「ほらほら」

 そうして、二人は若干強引に紫雲を背中から押して……
 その際、征がマスターから紫雲のコートを投げ渡されている……外へと追いやった。
 そんな三人の様子を、マスターは静かに、楽しげに微笑んで見送っていた。











「……それにしても、どうして私の居場所が分かったの?」
「うちの親父があそこに通ってんだ。
 夕飯前くらいの時間帯にコーヒーだけ頼むオッサンいるだろ?」
「あ。あの人……久遠君のお父さんだったんだ」

 確かに、そういうお客はいた。
 土日を除くほぼ毎日規則的に来店されているので、紫雲も記憶していた。
 ……薄ぼんやりと誰かに似ているような気はしていたのだが、
 まさか征の父だったとは。

「そう、そう。
 その親父が、お気に入りの喫茶店で働き出した女の子の話をこないだから何回かしててさ。
 客が零した何かの染みを完全に取れるまで丹念に拭き取ろうとしてた生真面目さとか、
 世間話で聞き出した、女の子が働き出した時期とか、
 学校の話すると、何処か気まずそうに顔を引き攣らせてるとか、色々聞いてピースがはまった」
「……世間は狭いね」
「というか、草薙……お前、親父ネットワーク、ようは店の常連連中繋がりで評判になってるぞ。
 スタイル抜群の綺麗な女の子が、懇切丁寧に応対してくれて最高だとか、癒しだとか」
「え?!」
「うん。うちの親父もその一員なんだけど、
 草薙君目当ての客が増えないように、店の事はコーヒーの味以外外に漏らしてないとか」
「あ、うん、え……いやいや……冗談だよね?」
「ふっふっふ」
「はっはっは」
「……むぅ」

 二人が笑って回答を誤魔化すので、
 紫雲はなんとも言えない恥ずかしさとともにそんな声を漏らすのが精一杯だった。
 ……そんな雰囲気が楽しくて、同時に後ろめたくて、紫雲はそれ以上は口を噤む事にした。

 そうして歩く事約十分。

「と、そんな世間話をしている内についたな」
「えっと、ここは……? 貸し、倉庫?」

 紫雲が連れてこられたのは、喫茶店の近くにある商店街の裏通り。
 そこには、シャッターが下ろされた、小屋というよりは少し大きめの建築物が3つほど並んでいた。
 その建築物の後ろには、すっかり色褪せ薄くなった文字で『貸し倉庫あります』と書かれていた。

「倉庫っていうよりアパート一室って感じだ。
 元々これを作った誰かがどういう意図だったのか今となっては分からないが、
 今は貸し倉庫ってていで貸し出されて、使われてる」
「ここに何があるの?」

 おそらく自分に見せたい何かしらがあってここに連れてきたのだろう。
 それがなんなのか、紫雲には検討がつかなかった。

 そうして戸惑う紫雲の表情が面白かったのか、二人は顔を見合わせて小さく笑った。
 その後、入鹿が懐から小さな、錆付いた鍵を取り出して見せた。
 状況から言って、シャッターの鍵であろう事は推測に難くなかった

「……見れば分かるよ」

 そう言いながらシャッターに鍵を差し込み、廻す入鹿。
 カチャリ、とロックが外れる音が紫雲の耳に届く。

「よしじゃあ……ふんぬっ!」
「ふんぬぅっ!」
「よいせぇぇっ!」
「はぁぁぁっ!」
「……開ければいいんだよね?」

 古いものであるがゆえに立て付けが悪いのか、
 中々開かないシャッターに悪戦苦闘する二人を見かねて、紫雲は手を出した。
 二人がかりでもなんともならなかったシャッターは、紫雲の指二本分の力で簡単に開け放たれた。

「あ、思ったより明る……!? これ、は……!!」 

 言葉どおり、窓から差し込む光で現状は電灯が必要ない倉庫内。
 そこに置かれていたのは……文化祭でも使用した、平赤羽市のジオラマだった。
 奥の方には、数ヶ月前に使用した様々な道具や玩具も勢ぞろいしている。

「え、と、その、これ、って……?」

 それを見て紫雲の中では、あの日々が、あの日から時折浮かび上がっていた大切な思い出が溢れかえっていた。
 それゆえ思考が働かず、思うように言葉を紡げない紫雲に、二人は穏やかな表情で説明を口にしていく。

「ジオラマ研究会、あの後、若干人数が増えたんだ。今はジオラマ部だよ」
「そうそう。動画と展示物、あとヴァレットのフィギュアとか、反響があってな」

 なんでも、つばさ達の入部からそう間を置かず入部希望者が何人か集まり、
 結果ジオラマ研究会はジオラマ部へと昇格されたとのことらしい。

「で、人数が増えて出来る事が増えたのはいいんだけど、
 部員連中のやりたい事も色々あってな。
 平赤羽市のジオラマじゃあ、ちょっと実現が難しい事の方が増えてきて。
 場所も取るから処分したほうがいいんじゃないかって話が出てさ。
 だけど、勿体無いじゃないか、こんなに良い出来なのに。
 それに……」

 促すような、何処か照れ臭げな征の視線を受けて、入鹿が頷き、言葉を続けていく。

「それに、草薙君がいないのに、勝手にそういう事決められないよ」
「え……?」
「ジオラマ部はともかく、ジオラマ研究会に君はまだ所属してる。
 書類とか、そういう事じゃない。
 僕達が、そう思ってるんだ。
 あんな辞め方を、一応会長の僕は認めてないからね」
「副会長の俺もな。副会長って役職はたった今決めたけど」
「……!!!」
「ま、そういう事だからさ。
 お前が学園辞めてから、二人、いや最終的には駆柳達も含めて五人か。
 とにかく、ジオラマ研究会で考えてた事もあって、
 皆で金を出しあって、ここに学園のじゃないジオラマ研究会を作ろうぜって事になった。
 でもなー(チラッ)学生じゃなー(チラッチラッ)安いけど維持費は痛いよなー」
「……そうするって決めてたけどあからさま過ぎるね、それ」
「分かり難いよりはいいだろうが。で、会長?」
「ん。そういう事でさ。
 まぁその、草薙君にも、ここの維持……いや、ジオラマや動画の制作にまた協力してほしいんだ」
「一応言っとくけど、ジオラマ部の方を手抜きするつもりも、
 折角来てくれた連中を蔑ろにするつもりはないからな」

 紫雲が浮かべるであろう心配事を、先んじて潰す。
 それもまた、二人が決めていた事柄だった。
 そう、全ては。

「こっちとあっち、両方を上手く利用しあって、両方共に最高の作品を作り上げるつもり、らしいぜ?」
「うん、それもそういう事。
 だから……君が嫌じゃなければ、改めて、ジオラマ研究会に力を貸してくれない?
 こっちは、あっちと違うから」
「ん。参加時間は自由だからな。
 気が向いた時にくればいい。俺らは基本毎日夕飯前か夕飯後に馬鹿やってるからな」

 全ては、紫雲と一緒に楽しく、愉快な時間を、過ごす為。
  
「どうかな?」

 そうして呼びかける……緊張ゆえに、少し声が上ずっていた……入鹿に、紫雲は、呆然と呟いた。

「……いい、の? わ、私、また皆と一緒に、過ごして、いいの……?!」
「勿論だよ」
「ああ、俺が楽しむ為に、いてくれないと困るぜ。
 コイツも、お前もな」
「わ、私、嘘吐いて、あんな、逃げ方だったのに……二人に、嫌われてるって……思って……っ!」
「いやいや、しょうがないだろ。事情が事情だ。だよな」
「ちょっと思う所はあったけどね。
 でも、もういいじゃない。
 僕も知らずに無茶を言ってたと思うし……だから、そう、お互い様ってことで」

 本当は、ずっと心が痛かった。
 紫雲がヴァレットだと思いもよらなかったから、言ってしまった言葉、ぶつけてしまった怒り。
 その事で紫雲を傷つけてしまったと、ずっとずっと悩んでいた。

 だけど、それを気にして萎縮していたら、紫雲もまた萎縮する他ない。
 草薙紫雲は、クラス随一の心優しい御人好し、なのだから。

 だから、自分の痛みを無視して、許せない自分をあえて許す。
 紫雲も、そうしてくれるように。
 彼に、いや彼女に彼女もそうすべきだと伝える為に。

「だから、もう一度始めようよ。僕達のジオラマ研究会を、ここにいる僕達で」
「ん、そういう事だな」
「……! う、うぅぅ……!」

 二人の言葉を受けて、紫雲は膝から崩れ落ちた。
 胸中に渦巻く、安堵や喜びや、自分への不甲斐無さや怒りや、そういった感情の迸りを支えきれず。

 ヴァレットであれば耐え切れたそれを、今の紫雲は耐え切れない。

 ここにいるのはヴァレットではなく。
 ただの、青春を謳歌したいと願っている……一人の少女だったから。

 もう、慶備学園二年生の草薙紫雲は出来ない。
 だけど、ただの草薙紫雲なら許されるのか……ああ、きっと許されるのだ。

 目の前の大切な友達が、ここにはいない友達が、自分を心配してくれる人達が許してくれるのだ。

 その気持ちを、無碍にはできない。
 一度踏み躙ってしまった気持ちを、また踏み躙る事なんか、出来やしない。

 それは、とてもとても大切な、心優しい人達を悲しませる事だから。

 だから、だから、許せない自分を、あえて許そう。
 誰かを不幸にする何かを打倒する、その為に。

「うん、うんっ! 私、私頑張るから! 今度はちゃんと、最後まで、二人と一緒にいるから……!」

 あの日出来なかった事を、今度こそやり遂げようと、紫雲は叫んだ。
 顔を涙と鼻水でくしゃくしゃにして、それを整えるよりも、ずっと、遥かに優先すべき決意を表明した。

 そんな紫雲と視線を合わせるべくしゃがみ込み、
 征は紫雲の肩を軽く小突き、入鹿は紫雲にティッシュを差し出した。
 ……二人とも、涙ぐんでいた。涙ぐみながら、笑っていた。

 季節は冬。
 寒風が当然のように倉庫にも流れ込んでいた。
 だけれども、暖房もないその場所に、三人は確かな温度を見出していた……。













 その、目もくらむような、確かなあたたかさゆえに。






「私、今度はちゃんと、全部頑張るから……」





 彼女が零した、その言葉の意味に、二人は気付く事が出来なかった。









「あー、それはそれとしてさ。気になってた事聞いていいか、草薙」
「うん、なにかな?」
「新城の前で素っ裸になったってマジ?」
「????!!!!! ちょ、え、それ話しちゃったの?!」
「あ、いや、その、相談しながら話してたとき、僕も結構、動揺してたって言うか……ごめん、配慮が足りなかった」
「ぐ、その、えと、そう言われたら仕方ないっていうか……私も、その、そうだったし……」
「ふむ。つまりあれだな。
 他はともかく、研究会の初期メンバーにして副会長たる俺には裸を見せるべきなんじゃないか、草薙」
「なんか無茶苦茶な事言ってるっ??!!
 というか、久遠君は二次元の女の子達がいるでしょっ!」
「それはそれ、これはこれ。それに草薙は二次元っぽいからなぁ。
 というか、正義の味方志望が、そういう不平等を許していいのか?」
「う、ぎ、ぐぅぅぅ……! う、うぅぅ……わ、分かった……見せれば、見せればいいのね……ッ?!」
「いやいやいや、何納得しようとしてんの、草薙君!」
「だ、だって、その、許してもらったし、その、不平等なのは確かだし……死ぬほど恥ずかしいけど……筋は通さなきゃ……!」
「……いや、流石に冗談のつもりだったんだが」
「………………え?」
「え、じゃないが。
 ……草薙、お前、やっぱ無駄にクソ真面目すぎるわ。
 そんな調子だと将来悪い男に引っ掛からないか心配だぞ、俺」
「「今君がそれを言うなぁっ!」」
「えー?」 



















 今日も、空に紫の流星が奔る。



「お、ヴァレット様を見れたなんてラッキーだな」
「まったくだ」



 魔法の箒ならぬ絵筆たるライブラッシャーに乗って、平赤羽市を駆け巡る彼女の名はヴァレット。



「いやー今日も町は平和だねー」
「彼女がいれば安泰だよ、平赤羽市は」


 ・・・・・
 たった一人、誰かの不幸を打倒すべく足掻き続ける……正義の味方志望の、魔法多少少女である。


 そう。
 自分がどうなろうとも、誰かのために足掻き続ける。



「ケホッ……ゲホッ……あ、う……今日も、頑張らな、きゃ……
 幸せは、たくさん、もらったんだから……その分、私は、私が……」


 
 誰も気付かないままに、何かが致命的にズレてしまった。




「私は……私……私……あれ、私って、どっち、だっけ……?」




 独り善がりの、女の子。













 ……終わり。





















○蛇足










「……ぐ……ぁ」

 ヴァレットは、倒れ伏していた。
 体中赤く染まっており、その右腕はあらぬ方向にねじり曲がっている。

 最も頑健に出来ている正体を隠す為の仮面すら、既に叩き壊されている。
 だが、それを気にする必要は既になく、状況ではない。

 何故なら、正体を隠すべき世界は既に終わっているからだ。

「これが……これが、終わり……だと、いうの……」

 見渡す限り広がる、緑色の結晶に覆われた世界。
 駆け回っていた平赤羽市は、全てが結晶により凍りついていた。

 ヴァレット自身、血溜まりに這い上がろうとする手足を取られ、思うように動けない。

 守るべき人々は、もう何も言わない、言えない。
 新城入鹿も、久遠征も、駆柳つばさも、直谷明も、高崎清子も、マスターも、矢多佳枝も、篠崎泉次も、岡島黄緑も、草薙命も。
 自身の相棒たるライは、半ばから圧し折られ、結晶に突き刺さっている。

「う、うぅっ……いやだ、いやだよぉ……こんなの、いやぁ……!」

 守りたかった人々を守れず、ヴァレットは立ち上がろうと這いずりながら泣いていた。
 そんなヴァレットを嘲笑うかのように『怪獣』達が見下ろしている。

「いや……いやだ……!
 わたしは、私は!! 
 こんなの、おわりだなんて……認めない……!」

 そんな『怪獣』達を見上げて、それでもヴァレットは立ち上がる。
 足は震え、眼は霞み、血を、涙を流し続け。
 それでも、彼女は立ち上がる。

「覆す……ぜったいに、覆してみせる……負けて、たまる、もんか、私、わたし、わたしが……どうなったと、しても!」
「あぁ……僕も、同意見だ」

 立ち上がったヴァレットの足元に、クラウドが舞い降りる。
 だが、それは最早猫の姿をしていない。
 異世界良識概念結晶体、本来の姿となっていた。

「ただ、どうなっても、なのは君じゃなく……いや、なんでもない。
 やろう、ヴァレット。
 これが君達の……いや、僕達の結末だなんて、認めるわけにはいかない。
 ああ、そうだ。
 君があんなにもがいてきた結果がこれなんて、認められないだろう……!」

 ヴァレットの鼓動に合わせて、結晶体となったクラウドが明滅する。

 その度に、ヴァレットと、クラウド、両者の力が共鳴し、高め合っていく。

 それが最高潮まで高まった瞬間。

 世界に、紫色の光が溢れて。











 ……偶像世界――、一時、停止。






戻ります