第12話 確立する偶像と崩れ行く何か
「草薙、来てないな」
朝のホームルームと一時限目の僅かな隙間の時間。
クラスで上位の真面目人間にして、クラス一の御人好し草薙紫雲がいない事に気付いて直谷明が呟く。
「最近多いわよね……また人助けしてるのかしらね?」
明とは彼氏彼女な関係である高崎清子が呟く。
そもそも、紫雲がクラス一の御人好しと認知され始めたきっかけが『遅刻』であった。
四月の半ば頃、このクラスになって数週間経っていたある日、紫雲が大幅に遅刻した事があった。
紫雲はそれについて寝坊だと語り、
その時間の数学担当教諭に心底申し訳なさげに頭を下げまくり、
さらには皆の授業を邪魔したと放課後の掃除まで請け負おうとした。
その数日後、そんな遅刻の真実が、学園朝礼での学園長の話で明らかとなった。
学園長が語った内容は、
この学園のとある男子生徒が、道に迷い、困っていた老夫婦を助け、
自身が遅刻するのを承知で二人を目的地まで送り届けた、というもの。
その男子生徒は最初から最後まで自身の素性、名前を語ろうとはせず、御礼も受け取らなかったという。
助けられた老夫婦は自分達のせいで遅刻したのは申し訳ないと考え、
そのフォローと改めての御礼をするべく、後日学園に問い合わせたのだ。
男子生徒が所属する学園については、
彼が着ていた制服から判明しており、前日わざわざ学園までやってきた老夫婦が、
その日遅刻した男子生徒全員の顔写真を確認した所、間違いなくこの学園の生徒、当人である事が判明。
学園長は、名も名乗らず、お礼も受け取らなかった男子生徒の謙虚さを褒め、
生徒達に学園の規律は勿論大事だが、それ以上に大事なものがある事を説いて語った。
その話の中で、男子生徒の名前は明らかにならなかった。
生徒が伏せてほしいと懇願した為、ならなかったのだが……
その生徒が紫雲である事がクラスメートにはバレバレだった。
何故なら朝礼の前日、紫雲が名指しで学園長室に呼び出されていたからだ。
更に言えば、呼び出しの後帰ってきた紫雲の手には有名菓子の紙袋が持たされていたからでもある。
紫雲自身は「なんでもない」のごり押しで誤魔化していたのだが、
朝礼で明らかになった事を踏まえれば、誤魔化しのしようもなかった。
集会のあと、教室へと戻ったクラスメート達は紫雲へと様々な意味であたたかい視線を送った。
その視線を向けられた事により、幾つもの感情が混在したなんともいえない表情を形作る紫雲に、
「何も言うなって」「わかってるわかってる」などの言葉が送られた事で、
紫雲は更に表情の複雑さを深めていった。
そんな出来事や、
それ以前以後で紫雲がクラス内外を問わない、
誰かの困り事に首を突っ込んでいたあれこれが加わっていき、
クラス内での紫雲のポジション的なものが作られていき……
現在の、草薙紫雲=度を越えた御人好しの認知に至っている。
中には半ばからかいの意味で『御人好し』と笑う者もいる。
だが、紫雲は変わる事なく『御人好し』を続けている。
閑話休題。
つまり、それゆえに真面目な紫雲の遅刻は『そういったもの』ではないかと清子は語っているのだ。
「……そうなんじゃない、多分」
清子の呟きに答えたのは、近くの席に座っていた、新城入鹿。
同じジオラマ研究会に所属する、共通の趣味を持つ紫雲の友人……なのだが。
「どうしたの、新城君」
「? なにが?」
「新城君なんか……いや、なんでもないわ」
彼の言葉が若干ぶっきらぼうに聞こえたのだが……
不思議そうに首を傾け、こちらに向ける入鹿の表情を見て、
気のせいだったかも、と清子は自身の疑念めいた思考を霧散させた。
仮にそうだったとしても、大した事ではないような気もするのだ。
征との絡みを介して……明と一緒にジオラマ研究会の手伝いをした事もある……
入鹿とは多少親しくなったと思っているのだが、
時々自分の拘りや趣味、そういったもので感情の起伏が若干激しくなる以外、
新城入鹿という男子は、良い意味で普通の常識人で、悪い人間ではない、はずだ。
不機嫌だったのも、日曜日朝の特撮番組での意見のすれ違い、ぐらいじゃないだろうかと思える。
そも、入鹿が紫雲に対して悪感情を抱き、それが長続きする可能性は低い。
元々趣味が合う人間同士だし、紫雲は彼にとって研究会の危機を救った恩人である。
『ヴァレットと同じか、それ以上……いや別のベクトルでの恩人って言うべきかな、うん』
詳しくは知らないが、入鹿がヴァレットに助けられた事も含め、
紫雲が恩人である事は、度々彼自身の口からも語られている。
その時の、彼の穏やかな表情を思えば、尚の事、二人が対立するようには思えない。
「草薙君、次の授業までに間に合えばいいわね」
「うん、ホントそう」
「全くだ」
会話に入ってきた、自身の幼馴染にして紫雲と入鹿の友人、
同じ研究会の会員たる久遠征と同時にシミジミ頷く表情を見て、やはり杞憂だと清子はただ苦笑した。
「……やれやれ参った」
こんなはずではなかった。
岡島黄緑は、岡島財閥本社屋最上階の総裁室……つまり彼の為の部屋で小さく呟いた。
時刻は深夜。
彼の本来の、表向きの仕事である岡島財閥総帥としての業務は終わっている。
そんな現在彼が向き合っているのは、
眠気覚ましのコーヒーを入れずとも、目が冴えてしまう事実にして、
岡島黄緑個人としての十年来の業務にして計画であった。
「本当に、参った」
彼の眼前には、彼の部下たる異能保険のエージェント達が収拾してくれた、
平赤羽市の異能関係の様々なデータの統計、最近の異能犯罪の傾向その他のデータが表示された、
いくつものパソコンの画面が並んでいた。
中央には、彼が贔屓にしている魔法多少少女ヴァレットの画像、並びにデータが表示されている。
彼女の活躍は、彼の部下にして、彼にとっては育ての親の一人でもある篠崎泉次にかつて語ったとおり、黄緑の想定どおりであった。
だが。
その活躍、彼女そのものの影響力は……正直に言えば、黄緑の想定を上回りつつあった。
その主原因はなんなのか……それは、ヴァレットがあまりに『強過ぎる』からだった。
ヴァレットが強過ぎるがゆえに、平赤羽市の内外での事件の大半は彼女により解決される。
それゆえに彼女ばかりが目立ってしまい、
彼女さえいれば、平赤羽市はどんな事が起こっても平和だという認識が市民の大半に広がりつつあった。
その影響ゆえか、彼女以外にに活動している、善意の異能者……
『ヒーローアンドヒロインズ』の活動が少しずつ下火になりつつあるのだ。
……そう。
彼らの中にも、ヴァレットがいる限り、自分が動くまでもないだろう、そんな考えが蔓延しつつあった。
ある程度は、元よりそのつもりではあった。
魔法多少少女ヴァレットという一番輝くであろう偶像を柱として、
平赤羽市の異能者達を正しく繋ぎ合わせ、平赤羽市を活性化させていく事は、黄緑の計画の一つであった。
だからこそ、彼女を輝かせる……目立たせる状況に介入させる事態を、黄緑自ら幾つか作りもしたのだ。
だが現状は少しずつ、しかし確実に計画からズレつつある。
平赤羽市のヴァレットへの依存度が高くなり過ぎつつあり、彼女への負担は増大していく一方。
そして、最大の問題は、それでもヴァレットは何も変わらずに活動を続けている、いくだろう、ということ。
おそらくなんらかのアクシデントで万全の状態でなかったとしても、
一度彼女の力を必要とするような事件が起これば、彼女は何の躊躇いもなく介入し、問題なく解決する。
ヴァレットがそう出来てしまう事こそが、現在の状況を招いている。
そうならないように調整したつもりだった。
だが、ヴァレットの成長、魅力が周囲に与える影響が、調整を上回りつつある。
ふと、過去話した時の、彼女の笑顔が思い浮かぶ。
『まぁ、それはそれとして、貴方の事はまだ少し苦手ですけどね』
――いや、認めよう。
もう既に上回っているのだ。様々な意味で。
「……認めたくはないが、泉次さんの危惧が当たったという事か」
あの、境目となった銀行強盗事件以降、彼女はより自分達に協力してくれるようになった。
泉次を介さずとも、彼女は自分に気さくに接してくれるようにもなった。
そうして自身に協力させる事が、
より彼女の負担になり、より彼女の影響力を増すだけなので、最近の黄緑は彼女との接触を避けていた。
だが、そうしないわけにはいかない、
互いの協力が必要な異能による事件も度々起こっており、その度に彼女の必要性を痛感させられる。
確かに、平赤羽市を自身の理想どおりにする為に、彼女の存在は欠かせない。
だが、このままでは、彼女を偶像にさせ過ぎてしまう。
「……なんとかしなくてはな」
計画の微調整をしなければならない。
その為に、多少自身が道化になり、痛い目を見たとしても、だ。
「よし、この日だ」
その日、11月下旬のとある一日。
平赤羽市にある、県立慶備学園の文化祭が行われるその日、
大計画を完遂する為の突発的小計画の実行日とする事を、黄緑は決定した。
……それこそが、彼の望まない『ある結末』を決定付けた要因となったと、今は知る由もなく。
「うーん……今日休む事になるなんて……」
こんなはずではなかった。
魔法多少少女ヴァレットこと草薙紫雲は、
夕方に差し掛かる時間帯、自室のベッドで布団を被り、横になったままぼんやりと呟いた。
ヴァレットの活動や、
男装している都合上、身体測定などの行事を避ける為に学園を休む事は幾度もあった。
だが、そうして欠席する事を紫雲は望んでいるわけではなかった。
多少無理してでも、遅刻してでも……遅刻にしても避けたいのだが、昨日もそうなってしまった……学園に行きたいのに。
「そりゃあ、風邪らしい風邪も、久しぶりだけどさ……」
若干熱っぽい身体を布団の中でもぞもぞ動かし、自分の熱の写っていない場所へと転がり微かな涼をとる。
そうしてベッドでの安静を命じられた事への気を紛らわせる彼女の中には、後ろめたさと、悔しさと、寂しさが絡み合っていた。
「それだけ紫雲の身体に疲れが蓄積してるという事だよ。
先程までグースカ眠ってたのが良い証拠。
本来の紫雲なら、あの程度で風邪を引きはしないだろうし」
紫雲の相棒にして家族たるクラウドは、机の上から彼女を見下ろしながら言った。
あの程度、というのは昨晩起こり、ヴァレットとなって解決した事件で水中追跡戦を行った事である。
確かに季節は秋も終わりつつあり、平赤羽市の主流たる川の中もそれなりに冷え切っていた。
だが、水に入っていた時間は数分程度であったし、草薙紫雲という存在の強度を考慮すれば、なんという事はない、はずだったのだ。
しかし、現状はこれである。
朝方、何事もなかったように学園に行こうとした紫雲の微妙な挙動の鈍さに、
姉であり医者である命が気付き、
この頃の不健康な……ヴァレットとしての活動への注意・指導も含めて、
早々に学園に紫雲の欠席を連絡、休まざるを得ない状況にしてしまった。
「まぁ学園に行ってれば、いつのまにやら治ってる程度ではあるけどね」
それゆえに、紫雲は万全とは言えずとも、
それなりに動ける状態で学園を休まざるを得なくなってしまったのである。
「それが分かってるのに、朝はどうして姉さんの援護したの……?」
クラウドは命の言動や判断を全面的に支持、
諦め悪く学園に行こうとする紫雲を、二人して完全に論破、ベッドに押しやった。
その事を恨み、には思っていないが、恨みがましい視線で抗議する紫雲。
そんな紫雲に対し、クラウドは自身の心情を猫らしからぬ肩の竦めで表現し、答えてみせた。
「こっちのアドバイスを無視するから、その意趣返しだよ。まぁ反省もらいたかった方がメインだけど。
君は最近アドバイスを無視しすぎじゃないか?」
「そんなことは……基本的にはないと思うけど」
「基本的にはね、聞いてほしい肝心なところでごり押しするだろ、紫雲は」
「それは、無視じゃないと……思うけど」
「聞いた上で有効だと判断しても従わないのは無視だと思うけど?」
「ぐぅ……ごめんなさい……」
それだけ最近の紫雲、ヴァレットに余裕が無くなっている、という事でもあるのを、クラウドは気付いていた。
本来の草薙紫雲であれば、もう少し他者の意見を聞き入れようとする。
誰かを守る為にならエゴを貫く紫雲だが、決して他者の意見を蔑ろにしたいわけではない。
むしろ真逆で他者の意見を聞き入れられない状況になれば、心底申し訳なさを感じ、そんな自身を恥じている。
だが、そんな彼女が、他の誰かの意見を受け入れにくい状況、時間や余裕のない状況の加速が、この所ずっと続いていた。
平赤羽市に発芽した概念種子の開花の増加。
それに伴う、街そのものの異常や、そこを付け込み入り込む、異能を操る悪党達。
それらは増加の一途を辿っていた。
だが、それに追随出来るほどに、ヴァレットも強くなっていた。
各種特殊形態をマスターしつつあり、力そのものも増していく一方のヴァレット。
多少の体調不良は、ヴァレットとしての活動の足枷にすらならない。
もし今事件が起こっていても、彼女は問題なく現場に向かい、問題なく事件を解決出来るだろう。
だが、その強さゆえの……ヴァレットとしての完璧な活動が、草薙紫雲としての生活の余裕を奪っている。
それを彼女に指摘するべきなのだろう、そう思ってもいた。
だが、そうしたところで彼女は……。
クラウドがそう思い、密かに悩んでいた矢先であった。
彼女の携帯端末から、着信を示す音楽が鳴り響いたのは。
「……誰だろう」
上体を起き上がらせ、棚に置いていた携帯に手を伸ばす。
そうして、メール着信用の音楽……
特撮の挿入歌をBGMアレンジした曲の終わりと共に、
送信先を確認するとそこにはよく知った名前があった。
「新城君……見舞い?」
「なになに? なるほどあの二人が見舞いに来てくれる、と」
紫雲の肩に乗って、メールを覗き見るクラウド。
そこには、ジオラマ研究会に所属する新城入鹿と久遠征が見舞いに行く旨が書かれていた。
「クラウド、人のメールを盗み見るの良くないよ」
「問題なさそうだと君の表情で判断したまでだよ」
「……屁理屈めいているなぁ」
「さておき、どうする?」
「決まってるよ……感染するといけないから、来ない方がいいよっと」
クラウドの問いに答えながら、返信のメールを送る。
気持ちはとても嬉しいが、
誰かに風邪を感染させるリスクとは釣り合わない……
とまで言ってしまうのは大袈裟かもしれないが、事実紫雲の心情であった。
なのだが、一分と掛からずに帰ってきた返信への返信メールの内容は、そんな紫雲の考えとは裏腹のものだった。
「迷惑なら行かないけどって……そりゃあ、その、全然迷惑じゃないけど……でもなぁ」
そんなの気にしないから行きたいという入鹿の返信に、
紫雲は一見すると渋々な、よく見ると微妙に口元が緩んだ顔で呟いたとおりをさらに返信する。
すると、今度は征からの新規メールが送られてきて、そこにはこう書かれていた。
『迷惑じゃないなら行くからな。
どうしても拒否したければ迷惑だと明確にするように。
後、文化祭に向けての進捗相談やらもあるからな』
「……うぅ、うつるかもしれないのに……でも、それなら仕方ないかなぁ……」
とかなんとか言いながらも、正直な所。
「お見舞いかぁ……ふふ」
「嬉しそうだね」
「……うん。申し訳ないけどね。
友達が家に来るなんて、あんまりなかったから。
その時の為の備えは、一応色々してたんだけど」
「ふむ、それを踏まえて尋ねるが、紫雲、その格好でいいのかな?」
「はっ!?」
今の紫雲は、女性向けのデザインのパジャマでさらしもしていない状態だった。
紫雲が所持している私服は、八割が『男装用』である。
それ以外は個人的に可愛くて購入したものだったり、
厳格な曾祖母に会う時に着用せざるを得なかったものだったり。
今このパジャマを着ていたのは、今日は休みになったのならせめて気分転換に、と折角だから着ていたのだが。
「そうだね、うん、着替えないと。……」
「どうかした?」
「うん、その……パンツもトランクスに変えた方がいいかな、って」
「……それは、念を入れすぎじゃないのか?」
「私もそう思うけど……パンツのラインとか見えたりしないかな」
普段そういった事を気にした事がないので、自分ではよく分からないんだけど、と紫雲。
そんな彼女に、クラウドは冷静に突っ込みを入れた。
「そもそも布団から出ないか、生地が厚いズボンを履けばいいんじゃない?」
「うん、それだけなら、それでいいんだけど」
「他に気になる事でも?」
「ほら、漫画とかアニメとか、こういう風邪のお見舞い回で却って大騒ぎすることあるじゃない。
大袈裟なものだと、葱を巻いたり、その、お尻に差したり。
もし、そんな事にでもなってズボンとか下ろされた時に、その、今履いてるみたいなのだと、男装がバレちゃうかもだし」
「紫雲……大丈夫?
風邪を引いて思考の方向がおかしくなってない?
そもそも、そんな事態になったら男装もクソも……ごほん、失礼。ともあれ、ないと思うけど」
今度は明確に呆れ気味な声音でクラウドは言った。
「そこまでの展開は、最近ではギャグマンガでも滅多に見ないと思うが。
それに、見舞いに来るのは久遠君と新城君なんだろう?」
クラウドは間接的に二人の事を知っているし、話も聞いていた。
なので、本人達には申し訳ないと思っているが、彼らの人格を一方的にある程度把握出来ている。
「あの二人はそういう事はしなさそう……まぁ、二次元絡み大好きな久遠君が若干怪しくはあるか。
だが、彼は基本的には常識やマナーを弁えている人間だろうし。
それこそ、二次元の女の子達に嫌われないようにね。
精々棚の本を許可を得て見るくらいじゃないか?」
「うん、そうなんだけどね……」
実際、紫雲は二人を疑ってはいない。
普通にお見舞いしに来てくれるだけだろう。
だが、それはそれ、これはこれ。
草薙紫雲という人間は、基本念には念を入れる、万が一にも対策を忘れない、手抜きをしない人間であった。
……あと『熱』に浮かされて、普段と違う考えになっている部分は否定できない。
風邪と、友達が家に来るという滅多にない事柄という『熱』に。
「まぁ、その、ついでだから、一緒に着替えておくよ」
「必要ないと思うが……まぁ、念には念を入れておいた方がいいのは事実か。
なんせ、ここは平赤羽市なんだし」
実際、ここはいつ何が起こるか予測不可能な街なのだ。
真夏に雪が降る事もあるし、夜が昼になった事もあったし、仮想のアイドルが実体化した事もある。
いきなりここに竜巻が発生する、ような事態が起こらないとも限らない。
……まぁ十中八九杞憂だが。
「それに、万が一で、飛び入りで他の誰か……駆柳さんが来ないとも限らないし」
「ああ、彼女か……」
新聞部・元副部長、駆柳つばさ。
彼女に関しては、信頼以前に記者としての彼女がどう動くのか予測が出来ない面がある。
どうやら草薙紫雲の過去を知っているらしい、というのも不安材料だ。
そういった思考結果から、紫雲は三人に謝りながらお休み中の男子生徒としての紫雲を構築していった。
「よし、ほぼ、完璧」
男性向けのパジャマに着替え、下着も替えた。
元々女子としての私物は、こういう時を想定して、箪笥の一番下の引き出しにまとめられている。
しかもそこは鍵付きで、鍵は自分しか知りえない場所として、天井裏に、ネズミなどにもっていかれないよう螺子で固定している。
もし定番の流れで部屋のアレコレを調べられたとしても、それこそ想定外の事でも起こらない限りは大丈夫だろう。
……紫雲としてはそこも備えたかったが、流石に不確定要素はどうしようもないと諦めた。
「じゃあ僕は居間でゆっくりしてるよ」
「え? ここにいていいよ?」
「それこそ、念には念を。
僕の方がボロを出さないとも限らないからね。
あと、ライ、君も来い。
好きにしていいけどとりあえず部屋から出ておこう」
紫雲の机で最小スケールモードで彼女を見守っていたライに呼びかける。
すると、彼はクルクルと回転してクラウドの頭の上に飛び乗った。
「十点満点!」
「いや、人の頭の上に乗らないように注意してほしいんだが。
やっぱり今日の君はテンションおかしいな」
「そ、そうかなー」
「まぁそういう時もあるさ。じゃあ行くよ」
そうして、ライを頭に載せたまま、クラウドは紫雲の部屋を去っていった。
小さく手を振ってそれを見送った後、改めて紫雲は部屋と自身を見回しておいた。
「よし、後気になることは、一つだけ、かな」
その為の備えとしてメールにて入鹿に連絡を入れてから、紫雲は布団の中に潜り込んだ。
その10分後。
紫雲の部屋にノックが響いた。
「んん。どうぞー」
若干上ずった声でノックに対して返事をする。
すると、それに答える形でドアが開き、新城入鹿と久遠征が入ってきた。
ちなみに、駆柳つばさはヴァレットの記事を書く事に忙しく、今回は遠慮したとの事だった。
「いらっしゃい。ね、寝たままでごめんね」
なんとなくの気恥ずかしさは解けず、少し、自身でも緊張しているのが分かる声音で二人に告げる。
すると二人は、入鹿は手をパタパタと横に振って、征は無駄に不敵な様子で笑って見せた。
「具合が悪いんだろ。気にするなよ。
わざわざメールせんでもよかったのに」
紫雲は、入鹿へのメールで、
具合が悪くて横になったままになるだろう事、
玄関は開けっ放しにしているから自由に入っていい事を伝えていた。
ただ、後半はともかく、前半は実際には少し事実と違う。
多少熱っぽくはあるが、横になりっぱなしになるほど体調は悪くない。
実を言うと、さらしを丁寧にキッチリ巻く時間がなかったので、
普段よりも胸の膨らみが分かってしまうため、それを意識されない為……に他ならない。
一応目立たない程度には締め付けているが、完璧とは言い難い。
それゆえの念のための、嘘。
その事に紫雲は実体のない、でも確かな痛みを覚えながら、会話を続けた。
「そう言ってくれると、助かるよ。……!? ってその、えっと。
久遠君、それはなに?」
通学鞄以外に彼が持ってきていた荷物……幾つかある買い物袋の一つから飛び出しているものを見つけて、紫雲は言った。
その声が、震えてこそいないが、若干動揺を含んでいるのは紫雲自身分かっていたが、堪え切れなかった。
「どう見ても葱だろ」
そう。
少し前にクラウドと話題に出た葱がそこには存在していた。
「うん、葱だね。草薙君大丈夫? 葱以外の何かに見えるほど熱があるの?」
「そういうわけじゃないけど……それで、何をするつもりなの?」
「ん? ああ、お前の風邪を治す為に尻にでも刺そうかと思ってな」
「!?
いやいやいや、それはその、
久遠君の気持ちはありがたいんだけどっ、
心配してくれるのは、凄くありがたいんだけどっ、お願いだから、やめて、ほしいなぁ……って」
事も無げに言われて、紫雲は全力で遠慮すべく慌てて声を上げた。
その際、彼女の目は若干涙目気味になっていた。
そんな紫雲の反応に、征はなんとも言えない表情で答えた。
「ちょっとした冗談だ。
ただの、家族に頼まれた夕飯の材料だよ。
本気でそれをすると思われてたんなら少しショックなんだが」
「いや君は時々それをやりかねないやつでしょうが……僕が草薙君の立場でも同じように警戒するよ」
「……うーむ。そうか、俺ってそういう奴か……」
「えと、その、ついそう思っちゃって、ごめん……」
実際、紫雲としても本気でそれをすると信じたわけではなかったのだが、
よもやと思いつつも想定していた状況を展開されて、つい焦ってしまったのだ。
そんな申し訳なさを謝罪しようと、頭を分かるように下げようと、紫雲は起き上がろうとする。
だが、そんな紫雲を、征は笑いつつ「起きなくていい起きなくていい」と制した。
「いやいや、気にすんなよ。それこそ冗談だ。
いつもより弱ってるレアな草薙を、ついからかいたくなっちまったもんでな」
「そういうところだよ、久遠君」
「ん、反省する。
そういう訳だから、気にするなよ、草薙。
俺も気にしてないからさ」
「……ありがとう」
紫雲は礼を告げてから、起き上がりかけた身体を再び横たえさせた。
「えっと、その。
そのお詫びってわけじゃないけど、座布団とお菓子は用意しているから、座って、食べて、どうぞ」
紫雲の指差した先には、小さなテーブルがあり、
その上には、何本か何種類かのペットボトルのジュースと、幾つかのお菓子の袋や箱が積み重なっていた。
折角のお客様だから、と、
買い物にこそいけなかったが、
せめて家にあったものを準備しておいたのだ。
喜んでくれるといいけど、と二人に笑みを向ける紫雲。
だったのだが、二人は、笑顔とは逆ベクトルの、呆れ気味な視線を彼女へと返した。
「……草薙、お前、学園休んだよな?」
「休んでるんだから、余計な気遣いはしないでいいんだよ」
「全くだ」
「いや、その、はい。余分な心配掛けてごめんなさい……」
「ま、思ったより元気そうで良かったよ。
ふむ……」
そう呟くと、征の視線が部屋の至る所に向いた。
……女の子要素のあるものは、ちゃんと片付けたつもりだが、征の高い観察力を考慮すると不安である。
そんな、内心ひやひやしつつ、表情はどうにか笑顔の紫雲に、観察を終えて征が言った。
「ふむ、棚が結構空いてるな」
「あ、ホント」
「ああ、ほら、それは特撮関係のあれこれを部室に持っていってるから、その分だよ」
これに関しては嘘偽りないところなので、色々な意味でホッとしつつ答える紫雲。
棚の上半分は主に特撮ヒーローの可動フィギュアや変身アイテムが置かれていたが、答えたとおりの理由で今は若干空いている。
下半分は参考書や漫画や小説の一部、大きめの雑誌などが詰め込まれている。
ちなみに、入りきらない分の本は、机の棚や隅に積み重ねられており、命には新しい棚を買うなりの整理を命じられている。
「ふむ、フィクションのお約束的な意味でちょっと棚の本を見せてもらっていいか?」
「いいよ」
こちらは高い可能性で起こり得る、
クラウド及び自分も予測していたとおりの行動だったので、紫雲は動揺せずに頷く事が出来た。
「あ、新城君もいいからね」
「いや、まぁ……うん」
興味はあったのか、チラチラ部屋を観察していた入鹿にも勧めておく。
実際、自分も友人の部屋に招かれたら興味津々であったろう。
征程積極的に訊けはしないだろうが。
「お、エロ本とかあるんだな」
「……正確にはエロ本っぽい本だけどね」
「変な所真面目だなぁ、草薙君は」
征が発見し、入鹿が覗き込んだのは、
こういった時のカモフラージュ用、そして男子学園生としての勉強として、買っておいたそれっぽい本である。
三次元ものと二次元もの、それぞれ数冊購入しておいたわけだが……。
「ふむ。草薙はこういうの恥ずかしがって隠しそうな気がしたんだが……意外だな」
「う」
流石の観察力、正解である。
もし本気でそういう本を購入していたら、とても本棚に堂々と置けはしない。
それこそ女の子品々封印引き出しの奥の奥に入れておくだろう。
今の所そういうものは買っていないので、もしもの話ではあるが。
「ふむ、これみよがしに置いてある事からすると……」
「す、すると?」
「おそらく、これはカモフラージュ!」
「?!」
「本命のエロい本は何処かに隠してるんだろ?
まぁ安心しろ。流石にそこまで明らかにしようとは思ってないからな。
そういうのは、あの子達に嫌われる……」
「いや、二次元の女の子じゃなくてもそれやったらドン引きだよ……」
「分かってる分かってる。どうした草薙、顔が引き攣ってるが」
征のカモフラージュ発言でかなり肝を冷やしたためだが、
そんな事を知る由もないであろう二人への対応として、紫雲は顔を引き攣らせたまま言った。
「その、えっと……ノーコメントで!」
「そんな大声で言わんでいいから。悪かったよ、安静にしててくれ」
「あの、その、怒ってるわけじゃないからね? つい声が出ちゃっただけだから」
「……いや、ホントにすまん」
「僕もごめん」
「お、怒ってないって言って……! むむ」
途中からの二人の変化……申し訳なさげな顔が、どこか苦笑めいた表情に変わるのを見て、紫雲は気付く。
「からかわないでよ……こういうデリケートな事でさ」
むー、と若干ジト目になるのを自覚しつつ、紫雲は二人に文句を告げる。
だが、その紫雲自身の表情も途中から笑みになっていた。
「はっはっは、そういうもんだろ、ダチってのはさ。
でもまぁ、ほどほどにしとくさ。
草薙、こういうのに耐性なさそうだし。なぁ?」
「……。あ、う、うん。そうだよね。ホントそう。うんうん」
「いや、全力で頷いてる新城君も同じタイプな気がするのは僕の気のせい?」
「俺もそう思うぞ。
よし、次は何かしらの理由つけて新城の家に行って、エロ本について弄ってやろうぜ」
「うん、そうしようか」
「あ、いや、それはどうかやめてください……」
「弄る奴は弄られる覚悟がある奴だけだぜ……っと。
ほぉコイツは……いいよな、これ」
次の話題を展開させるために征が本棚から手にしたのは、最近お気に入りの少女漫画の一巻目。
ネットであらすじを読んで気になって購入した結果、結構ハマってしまっている。
「久遠君も知ってるんだ。うん、いいよね」
「……どういうやつなの?」
一人内容を知らないらしい入鹿の疑問に、
征はコミックを見せびらかすように軽く振って見せながら説明する。
「主人公と、幼馴染の男と運命的な出会いをした男の、今時珍しいくらいの三角関係王道恋愛……。
描写が丁寧で綺麗なんだよなー。
んで、明確な悪人は居ないから基本ゆるいんだが、
誰もが真剣に恋をしてるからシリアスな時もあって、心ならずもすれ違ったりして……
でも、基本皆和気藹々で……そんな感じで実にいい青春してて、男にもお勧めだな」
「そうだね、男女問わない面白さだと思う」
「ああ。
予言しておくぜ、近々絶対アニメ化か実写化される。
俺的に実写化は勘弁願いたいんだがっ!」
「気持ちは分からないでもないけど、近所迷惑だから大声はやめてね」
「すまん、つい」
「ははは。
しかし、へぇ、そんなに面白いんだ……」
「良かったら貸すよ。わ、と、僕は穴が開くほど読んだからね」
「うん、そうさせてもらおうかな。
でも草薙君、少女漫画も読むなんて意外だな」
「草薙は基本ヒーローマニーだからなー。新城でなくてもそう思うわな」
「そういう、ものかもね。
まぁ、でもほら、一応僕達も青春時代なわけだし、恋愛にも興味はあるしね、うん」
実際そのとおりだと、紫雲は思っている。
偏見かもしれないが、十代後半ともなれば恋愛に興味が出ない方が少なくないだろうか。
勿論、興味がなくても全然問題はない。そういう人もいていいのだ。
ただ、草薙紫雲は興味がある。ないとは言えない。それだけの事。
恋、恋愛、愛。
男装している事もあり、自分は明確に経験した事が殆どないもの。
ゆえに、興味を覚えても不思議はない、と思うわけで。
そう言えば、と思う。
十年前……あの雪が降った日に、女の子として一緒に遊んだ、あの、男の子。
かつて、そういう男の子が、いた。
あの男の子の事は、今でもたまに思い出す。
今にして思えば、あれは……あの時感じた、胸の疼きは、初恋、だったのかもしれない。
あれから再会する事はなかったが、彼は今頃何をしているのだろうか……。
「お、なんか遠い目をしてるな……初恋でも思い出したのか?」
「あはは、いや、そんな……うん、実は」
そのものズバリな征の発言に、
嘘を吐くような事じゃない(男女を別にすれば)かな、と考えながらも、
照れくささから視線を彷徨わせつつ、紫雲が真面目に答えようとした瞬間。
部屋の隅。
ゴミ箱の陰にある、何か丸まった薄紫色の布が、紫雲の視界に入った。
「……っ!!???」
それを、それがなんなのかを認識した瞬間、紫雲の全身から血の気が引いた。
「草薙?」
「どうしたの? なんか……」
「ああ、いやそのっ! ほらあれ!」
慌てて『ソレ』に二人の視線が向かないように、反対の方向を指差す……が、そこにはなにもない。
精々、いつかは忘れたが、プラモの塗装中、失敗して塗料を零した床の赤い染みぐらい。
「?? 何もないが……」
「あ、いや、その勘違いだったよ、えっとゴキブリさんがいたような気がしたけど、床の染みだった。
昔、プラモを作ったときの失敗でね……」
そうして世間話へと移行しつつ、二人の視線に注意しつつ、紫雲の思考はあの布へと向けられていた。
(あれはまさか、先程脱いだ……パンツ、なのでは……!?)
いや、そんなはずはない。
確かあれ、すなわち下着、パンツは、玄関の鍵を開けにいったついでに、
それまで着ていたパジャマと一緒に脱衣所の、洗濯物籠の中に突っ込んでおいた。
さらに万が一を考慮して、覆い隠すべく、その上に男子としての私服を重ねておいたはずだ。
……そのはずなのだが、風邪のせいなのかどうにも自信がない。
似たカラーのハンカチの可能性は、ある。そういうハンカチを持ってはいる。
それこそ、以前箪笥に仕舞う時に落としていたのかもしれない。
それならばいい。
だが、万が一、あれがパンツ、もしくはセットで購入したブラジャーだったりした日には。
(客観的に考えましょう。
年頃の男子学園生の部屋に女の子の下着類が落ちていました。
その場合、それを知った友人達の反応は……!?)
控えめに言って変態。
というか、一歩間違えれば犯罪を疑われかねない。
……いや流石に犯罪は疑われないだろう。
この二人は、そういう意味では自分を信じてくれている、と思う。
それこそ、紫雲はそういう風に二人を信じていた。
ただ、少なからず、二人の自分を見る目は変わるだろう。
若気の至りという形で状況を納得してもらえて、
見る目が最大限変わったとしても、
この二人なら自身に向けられるのは精々生暖かい視線ぐらいな気はするが……。
(うぅぅ……それは、すごく……困るっ!?)
そうだとしても、数少ない友人にそんな視線をずっと投げ掛けられるのは辛すぎる。
いや、ヴァレットである事を隠すために必要なら甘んじて受けるが、出来る限り避けたい事態なのは間違いない。
色々な意味で危機的な、緊急事態である。
紫雲の脳裏に即座に行動の選択肢が並べられていく。
自分での回収……無理だ。
法力の力場を伸ばしての回収は出来ない事はないが、
確実な操作の為には、あれに視線を向け続けなければならないだろう。
そんなの、あれの存在に気付いてくださいといっているようなものだ。
観察力が高い久遠君が確実に気付くだろうからだ。
視線を向けなくても回収は出来るかもしれないが、失敗時のリスクが高すぎる。
万が一、二人のどちらかの顔面にパンツを落とそうものなら……恥ずかしさで死ねる自身がある。
なら、ライを呼ぶか。
いや、今は確か外に修行に……町内一周タイムアタックをしにいったとクラウドが語っていた。
自身をより速く事件の現場に到着させる為に、という想いであるらしく、
そういう成長は大変喜ばしい事なのだが、今はただただ残念というか間が悪いというか。
仕事中の姉・命をわざわざ電話なりメールなりで呼びつけるわけにはいかない。
しかもその理由が、パンツの捜索あるいは回収の為なんて、言える筈がない、色んな意味で。
そもそも時間的に間に合いそうにない。
となれば。
『クラウド! クゥラァァウゥゥゥドォォッ!?』
確実に家にいる、相棒にして家族たるクラウドに頼む他ない。
そう決断して、紫雲は法力による【声】をクラウドへと送信した。
『お願いっ! 事情は、その、こんな感じでっ!』
状況を言葉でなくイメージで伝えられたクラウドは、どことなくゲッソリしてそうな【声】で答えた。
『……それはあれか、僕にパンツを探すか、君のパンツ(仮)を咥えて持っていけと?
あのさ。
こう、あれだ。
それなりの成年男性が女子のパンツを咥えて、歩きさっていく姿を想像してご覧よ。
僕がそれをするってのは、気分的にはそんな感じなんだけど。
君の代わりに僕に変態になれとでも?』
『そうは言ってないから!
そこは、ほら! 尻尾とか手とか法力とか何でもいいからっ! お願いっ!!』
『あー、うん。まぁ友達は大事だものな。分かったよ、すぐそちらに向かう』
『大至急速やかにお願いします!』
よし、後はクラウド来るまで二人の気を引いておけばいい。
そう難しくはないはずだ。
ただ、意識をアレに向けずに済むように世間話をすればいいのだ。
今だって、それなりに出来ているはずなのだから。
そう紫雲は思っていたのだが。
「で、大丈夫なのか?」
「……え?」
そうしてクラウドとの会話に意識を向けていたので、話半分の状態になってしまっていた。
いや、正確には話の内容は把握していたのだが、反応が遅れてしまったのだ。
話は、塗装ミスの話からジオラマ研究会へと移っており、
そこから文化祭に向けての出し物の準備についての確認、そして。
「……今度の日曜日、朝から文化祭用の撮影や動画編集の最後の大詰めをしようって話」
という話になっていたのだが。
紫雲の反応から、それを聞いていなかったと取ったのか、ほんの僅かに表情を硬くしながら入鹿が言う。
緊急事態とは言え、それはあくまで自身の迂闊さによるもので、大事な話の途中だったのに。
二人への申し訳なさを込めて、紫雲は首だけ動かして小さく頭を下げた。
「うん。そうだったね。ごめん」
「いや、大丈夫なのかって話なんだが?」
「そうだよ。
草薙君、このところ、研究会への参加、三日に一回くらいになってるから。
新しく始めたってバイト、そんなに忙しいの?」
「そういう、わけじゃなくて。
でも、その……バイトだけじゃなくて、しなくちゃいけないことが、幾つかあって。
詳しくは……話せないんだけど。本当に、ごめ……」
「いやいや、謝らなくていいから、寝ててよ」
「そうだぞ」
胸に注意しながら、起き上がって謝ろうとした紫雲を二人は手で制する。
「……うん。ありがとう。日曜日は、ちゃんと行くから」
諸々への申し訳なさからなのか、あるいは不調ゆえか。
いつもの彼女であれば、嘘をつきたくないがゆえに付け加える、
可能な限り、とか、万が一がない限りとか、
そういった、良く言えば嘘を吐きたくないという誠意を、
悪く言えば保険となる言葉を、紫雲は抜け落としていた。
そうして、抜け落としたままに無理矢理に紫雲は笑う。
二人に気を遣わせない為に、苦く、小さく、笑う。
そうする事が、僅かに、でも確かに何かを狂わせ、動かしている事に気付かずに。
いや、今この時も、何かを動かしていた。
新城入鹿の中の、何かを。
「……っ」
紫雲の心底辛そうな、申し訳なさげな顔。無理に浮かべる、微かな笑み。
それを見ていると、居たたまれなくなる。落ち着かなくなっていく。
いや、正確に言えば、それは今に限った事ではない。
紫雲と共に部活したり、遊んだりしていると、
今浮かんだものと同じベクトルの何かしらの感情が胸を疼かせる事が、今までに何度かあった。
……その気持ちがなんなのか、入鹿はよく分からなかった。
だけれども、今、こうして浮かぶ何かを、放置は出来なくて。
「……草薙く」
何かを形作ろうと、名前を口走ろうとする入鹿、だったのだが。
「へっくちゅっ!?」
そこで、不意に紫雲から飛び出してしまったくしゃみ。
それは図らずも入鹿の言葉をかき消してしまった。
……今日の、ほんの少しらしくない草薙紫雲は、迂闊にもそれに気付かなかった。
結果、ここにあった何かしらの感情は、可能性は、霧散して消えていった。
「おいおい……そんな調子で日曜日、っていうか明日は大丈夫か? とりあえずティッシュティッシュ」
くしゃみを手で押さえた紫雲に気を使って、征が周囲を見渡した。
無論ティッシュを探す為である。
……だが、それこそ紫雲が今一番してほしくなかった動きであった。
(いや、細やかな心遣いは嬉しいんだけどっ!)
「あ、いや、そのっ……い、今はいいかなって、いやその、トイレにいく時に洗うしっ!
というか、今から行こうかなっ」
「いや、確かすぐ近くにあったし、衛生面を考えて今拭いておけばいいだろ」
「そうだよ。そういうのちゃんと拭いとかなくちゃ……ん?」
そうして二人ともがティッシュを探し始めた次の瞬間、紫雲にとって起こってほしくない事が起こってしまった。
すなわち、件の薄紫の布を、入鹿に発見されてしまったのだ。
「あっ……!?」
「これは……」
「あ、いや、その、えっと……!? ち、違っ……!」
いつもの紫雲であれば即座にベッドから跳ね起きて、奪い去る事も出来ただろう。
だが、さらしが十分でない今、下手に動けばさらしがずれて胸の膨らみが目立ちかねない。
なにより、二人の、自分を気遣っての行為を邪魔したくないと、何処かで強く考えてしまって。
結果、紫雲は上半身を起こす以外に、何も出来なかった。
(終わり、だ)
思わず目を瞑って項垂れる。
そんな紫雲に、入鹿は。
「どしたの? ほら、使いなよ」
「……え?」
ごく普通の調子で、声を掛けてきた。
その普通さに、紫雲は恐る恐る目を開く。
入鹿は、手に握った何かを紫雲へと差し出していた。
そこにあったのは、薄紫色の……ハンカチ。
「これでとりあえず拭いておけば……」
「いや、こっちにティッシュあったぞ、こっちでいいだろこっちで」
入鹿からハンカチ、征からは一枚のテイッシュ、そうして二人から差し出されるものに、紫雲は。
「は、ははは、ど、どっち使おうかな……ははは……」
困惑と、安堵が入り混じった笑みを、疲労感と共に浮かべるしか出来なかった。
(やれやれ)
そんな彼らの様子を、混乱に紛れていつの間にか部屋に入ってきていたクラウドは、
溜息か、安堵か、いずれにしても小さな息を零して眺めていたのだった。
「あの調子だと、明日には学園に来れそうだね」
見舞いを終えての帰り道。
草薙家を出て数分後、赤く染まった道を歩きつつ、入鹿が口を開いた。
ただ、その口調と表情は、言葉ほど優しいものではなく、安堵だけではない複雑なものだった。
「ああ。……あれでよかったのか、新城は」
「なにが?」
「本当は、訊きたかったんじゃないのか?
最近の草薙が前以上におかしい事について。
んで、今日もどうも様子がおかしかったしな」
「うん……」
以前も似たような状況はあった。
草薙紫雲が、自分達に困っているのに相談一つしてくれなかった状況。
その時は、あの……ヴァレットの『絵筆』、ライブラッシャーことライと名付けられた存在の事だと思っていた。
だが最近、困っていたのはその事だけではなかったんじゃないのか……入鹿はそう思い始めていた。
その事を問い質したくなかったかというと、嘘になるのだろう。
だけど。
「……訊きたかったよ。でも、結局出来なかった」
紫雲の、喜んだり、苦しそうにしたり、色とりどりの表情を見ていると……どうにも、出来なかった。
「分かる気はするけどな。
最近の草薙は……なんていうか……んーむ」
「何? なんか奥歯に何か挟まったような、その感じ」
「……それは、あんまり俺から言うのもな、って思ったもんだからな」
「???」
「ま、その辺り含めて、もう少し問い詰めてみるのは、何も今日でなくていいだろ」
「……そうだね。
今日はお見舞いと打ち合わせが主目的だし」
「……本当にそう思ってるか? 思えてるか?」
「……うん」
「……。なら、いいけどな。
あ、そうだった」
「どうかした?」
「目的が俺にはもう一つあったんだった。
忘れ物、というか、土産を渡し損ねた」
三人共通の趣味にして話題たる、日曜日朝の特撮シリーズ。
その番組の、各種変身アイテムと連動する、小型玩具……
その内の、紫雲がまだ手に入れていない一種をプレゼントしようと持ってきていたのだが、うっかり渡しそびれていたのだ。
「メモと一緒にポストに入れてくるから、先に帰っててくれ」
「……フゥ」
二人が去った後の部屋で、紫雲は男装用のパジャマを脱いでいく。
一連の出来事による緊張で若干汗をかいてしまったためだ。
もう大分乾いていたが、クラウドが持ってきてくれていたタオルで念のために拭いておく事にする。
「……」
何一つ身に纏わない、自分の裸体を見下ろす。
そこにあるのは、紛れもなく女性の身体。
当然だ。草薙紫雲は、女なのだ。草薙家の言い伝えの、運命の男児ではない。
なんで、なのだろうか。
なんとはなしに、左胸の膨らみを、握り締めるように、掴む。
実際には痛くないその胸を。その奥の疼きを抑え付ける様に。
男であったなら、こんなにも嘘を吐かずに、重ねずにいられたのに。
だけど、男の自分であった場合、ヴァレットの力を得られたのだろうか。
男として育った自分は、彼らと普通に友達になれていたのだろうか。
今の自分だからこそ、彼らと出会えたのではないだろうか。友達になれたのではないだろうか。
「馬鹿だ……私は……」
答えのない疑問。出るはずのない疑問。それを分かっているのに考えてしまっている自分自身。
そうしている時間は無駄だ。
少なくとも、今草薙紫雲は女であり、ヴァレットであり、それを撹乱する為に男装している。しなければならない。
結論は、既に出ているのだ。
「……。クラウド、いいよー」
だから、そんな全てのもやもやを心の奥底に格納し、
今日三着目のパジャマへと着替え、部屋の外で待っているクラウドへと呼びかける。
「ふむ。まったく、無駄な気疲れだったね」
手も触れず法力でドアを開いて部屋に入ってきたクラウドは、淡々と呟いた。
結果から言えば、紫雲の心配は完全な杞憂であった。
紫雲の記憶どおり、着替えた下着やパジャマは洗濯物籠の中に入っていたのだから。
「ぐ」
「でも、そのお陰で、というべきかは分からないが体調はより良くなったみたいだね」
自身の『眼』で紫雲の状態を観察するクラウド。
彼らが来るまでは多少あった程度の彼女の熱は、平熱レベルまで下がっていた。
「喜怒哀楽が目まぐるしかった事による、ショック療法的な何かのせいかもね。
彼らのお見舞いは大いに効果があったわけだ」
「……うん、とってもね」
クラウドの言葉を受けて、紫雲は微笑んだ。
色々ドタバタしたし、トラブルのせいで途中受け答えが雑になってしまった所は申し訳なかったが、
それでも……友達二人が家に来てくれた事は、大いに嬉しかった。
きっと、それが快復を早めてくれたのだと、紫雲は信じたかった。
「これなら、うん、明日には学園に行けるし、今からでも……」
日課のトレーニングするには支障がない、と命が耳に入れたら激怒しそうな事を口にしかけた、その時だった。
「!」
紫雲が、発生した概念種子の気配を感じ取ったのは。
そう遠くない場所に、おそらく種子の暴走体が具現化している。
「……大丈夫か?」
「大丈夫だよ。さっきクラウドが言ったんじゃない。
二人のお見舞いは効果があったって」
「無理を、してないか?」
「知ってるでしょう? そんな訳ない」
そうだ。これが紫雲自身が望んだ、紫雲のしたい事。
正義の味方になる、という夢を目指している、その在り方なのだ。
入鹿にとってのジオラマ、征の二次元への愛……それと同じ、大切なもの、そう思う事をあの二人は許してくれるだろう。
(駆柳さんの、ジャーリストとしての情熱も、そうかな)
あの熱意は、とても素晴らしい、素敵なものだ。
そんな熱意の隙間を縫って、彼女もジオラマ研究会を時々手伝ってくれている。
この間は、征に付き合う形で明や清子も手伝ってくれた。
だからこそ、次の日曜日は、約束どおりちゃんと研究会に参加したい。
手伝ってくれた人達の気持ちに応える意味でも、文化祭向けの作品をしっかり仕上げたい。
だからこそ、ヴァレットとして、少しでも街を平和への近付ける、その一助となりたい。
街が平和になればなるほど、草薙紫雲としての時間は増えるはずだから。
……今は、その逆だけれど、いつかは、きっと。
「マジカル・チェンジ・シフト! フォー、ジャスティス!!」
その願いを込めて、紫雲は変わる。魔法多少少女、ヴァレットへと。
そんな彼女の意志に呼応して、既に帰宅、紫雲の部屋の片隅にいたライが本来の大きさへと戻っていく。
「それじゃあ、行こうか」
ライと、そしてクラウドと頷き合い、周囲の確認をして、ヴァレットは窓から飛び出した。
しかし、やはりというべきか、今日の流れに沿う形なのか、それはいつもどおりの彼女の行動ではなかった。
いつもの彼女であれば、万が一を考慮して、一度高高度まで上昇してから移動を開始する。
だというのに、今回は周囲の確認のみに留まり、そのまま現場へと向かってしまった。
一つでも多く、少しでも速く事件を解決したい、困っている誰かを助けたい。
そんな、正しい思いに囚われていた。気付かない内に自身を縛っていた。
それゆえに、気付かなかったのだ。
草薙家に向かう途中だった、友人の姿を、見落としてしまっていた。
「……やっぱり、そうか」
久遠征は夕焼け空を見上げ、草薙家のある辺りから翔けていく、紫色の流星を眼で追いかけて呟いた。
人気のないその道で、赤く染まった彼の表情を知る者は誰もいなかった。
それから、暫しの時が流れて。
「……ごめん、ライ、急いでっ!!!」
こんなはずでは、なかった。
ヴァレットは最高速で目的地まで移動しながら、唇を噛み締める。
時刻はもう昼だ。日曜日の、昼下がり。
入鹿と、征と約束していた時刻は、とうの昔に過ぎ去っている。
今日に限って、朝から大小の事件が連続して起こっていた。
ずっと活動しっぱなしだった。
約束の時間を過ぎるまで、いや過ぎても、紫雲はヴァレットとして動かざるを得なかった。
それを言い訳にしたくない。起こってしまった事は仕方がないのだ。
それに、誰も怪我するような事態にならなかったのだ。
自分の手を、誰かに届かせる事が出来たのだ。
とてもとても喜ばしい事だ。
そう思っている事に、何一つ嘘偽りはない。
だけど、今急がなくてはならない状況は、それはそれ、なのだ。
そう考えてしまうのは、自分が未熟だからなのだろうか。
……いや、後で考えよう。
今は約束が最優先なのだから。
周囲を確認した上で学園の校舎裏に着地し、変身を解除。
急いでくれた御礼もそこそこにライを胸元のポケットに入れた上で、
今度は草薙紫雲として、即座に文字どおり疾風の如き速度で駆け出す。
「よかった、窓が開いてるっ!」
それから一秒も経たずに辿り着いた部活棟。
ジオラマ研究会のある3階の窓……換気の為か空いているそこを目掛けて、紫雲は地面を蹴った。
十数メートルの跳躍は、紫雲にとってさほど苦ではない。
何の問題もなく窓の縁に着地、
行儀の悪さ、人としてのモラル、そういったものに内心で反省と謝罪をしつつ、
廊下に降り立ち、再度駆け出す。
自分の友人達がいる、研究会の、部室たる教室に。
「ごめんっ! 遅れちゃって、本当に……ごめっ!?」
扉を開け放ち、そこに二人がいる事を確認した上で、紫雲は頭を下げようとして……出来なかった。
入口近くに立っていた、入鹿が自身の首元へと手を伸ばし、制服の襟を掴み上げていたからだ。
それは、避けようと思えば避けられた。
入鹿の動きは、しっかりと見えていた。
でも、だからこそ、動けなかった。
彼の、怒っているような、泣いているような、そんな顔を見てしまっていたから。
こんなはずでは、なかった。
この場にいる誰もがそう思っていた事を。
この場にいる誰も知る由はなかった。
……続く。