第8話 雨の日と灰色の路










 その日、平赤羽市には雨が降っていた。
 時に季節外れの雪や雹が降ったり、
 雨が降ってもいないのに虹が出たり、
 訳の分からない天候になる事がたまにある平赤羽市だが、その日の雨はごく普通だった。
 そんな雨の中。
 人気がない、裏路地を一人歩いている少女がいた。
 紫色の装束を纏った、日常から明らかに縁遠い事が分かる彼女は、魔法多少少女ヴァレットこと草薙紫雲。
 いつもなら、平赤羽市の住人達が知ってのとおり、
 空を魔法の箒ならぬ魔法の絵筆……ライと彼女自身が名付けた存在の上に乗り市上を駆け回っている彼女だが、
 今日は雨が降る中を傘もささずに、ぼんやりと歩いていた。
 ……もっとも、今の彼女の姿でごく普通の傘をさす姿はシュールだろうし、そもそも通常なら傘を差さずとも雨を避ける方法が幾つもある。
 そういった手段を取らず歩く彼女の表情は決して明るくはなかった。
 普段の彼女の凛々しさは薄れ、真剣な時は文字どおりの真剣だとするなら、今は竹刀くらいの雰囲気である。
 そんな彼女がゆっくりと歩みを進めていた中。 
 カランカラン、とベルが鳴った。
 振り返ると、そこには喫茶店、そしてそのドアが開き、一人の男性が現れていた。
 この喫茶店の事をヴァレットは……紫雲は昔から知っていた。
 五年ほど前からだろうか、
 人気のない裏路地にポツンと存在するようになったこの店の事について紫雲はずっと興味を持っていたのだが、なんとなく入りそびれていた。
 そうして入りそびれていた扉が開き、
 中から現れた黒いエプロンをつけた、
 喫茶店のマスターを絵に描いたような初老の男性……を幾分若返らせたらこうなるといった風情の男性が口を開いた。

「こんな雨の日に傘も差さずに、どうしたんだい?」

 落ち着いた、何処となく僅かな威厳さえ漂う声。
 その声になんとなく聞き入っている間にも彼は言葉を紡いでいく。

「いや、君は、音に聞こえた、異能者のヴァレットなんだろうから傘を差したりはしないかな?」
「……そうですね。この姿の時は、あまり傘は差しませんね」

 頬を伝い流れていく雨を気にもせずに言葉を返すヴァレット。
 ともすれば涙を流しているようにも見える、そんなヴァレットに彼は言った。

「よかったら、雨宿りしていかないか? 何、取って食おうなんて思ってないし、そんな真似は出来ないが。
 なんにせよ、今の君は……なんというか目の毒だよ、色々な意味で」

 ヴァレットの魔力により変換された装束は、特に概念種子への防御力が高いが、その他に対しても並ならぬ防御力を持つ。
 雨に対しても濡れないように出来ている……はずなのだが、今この時はヴァレットの気持ちを反映しているのか、雨に濡れていた。 

「そう、なんですか。
 誰かの目の毒になるのは、よくないですね。
 お言葉に、甘えさせていただきます」
「そうしなさい」

 男性の言葉に従い、ヴァレットは喫茶店の中に入っていく。
 ふと、頭上の小さな看板、そしてそこに書かれた恐らくは店名が視界に入る。

 『喫茶 Vorreiter』

 おそらくはドイツ語なのだろうが、なんと書かれているかは店に入るまでの一瞬では分からなかった。










 先程までとは真逆の、あたたかい雨……シャワーを一糸纏わぬ肢体に浴びながら、ヴァレットは呟いた。
 
「……不思議だなぁ」
 
 今現在ヴァレットは、
 喫茶店は彼の……この店の店長・マスターだと語る彼の家でもあるらしく、
 奥にあるその自宅の風呂場、シャワーを借りているわけなのだが。

「なんでだろう……」

 それは、いつもなら断わっているだろう誘いに乗っている事。
 いつもどおりならもっと遠慮なり警戒なりするだろうヴァレットは、それらの感情や思考を抱かず、今ここにいる事が不思議だった。
 直感的に、その必要はない、そう思っているという事なのだろうか。
 あるいは、今も片隅でずっと頭を過ぎっている、今日の出来事の影響によるものなのか。
 しかし、そう考えさせられている可能性もあるので、最低限の警戒は解いていない……はずだ。
  
「……心苦しいなぁ」

 純粋な親切心で言ってくれたのだろう事は分かっているのにそんな事を考えてしまう自分がつくづく嫌になる。
 つまり、それだけ『ヴァレット』がやっていることは……。

「嫌になるよ、ホント」

 思考を打ち切るべく、ヴァレットは風呂場に備え付けられていた大きな鏡を見つめる。
 そう言えば、変身した姿をこうしてじっくり見た事はあまりなかった。ましてや裸の状態なら尚更だ。
 鏡の中に映っているのは、紫色の髪と瞳を持った、背の高い、全体的に若干筋肉質な女。
 女性らしいと思える部位は、数年前と比較すれば明確に大きくなった二つの胸の膨らみくらいだろう……少なくとも彼女自身はそう思っている。

「……あれ? むぅ。お尻もなんか……太った……?……おかしいなぁ。
 トレーニングは、欠かしてないのに。……あ、今日は、まだ、か」

 髪が長くなったせいでいつもと違って見えたのかどうかはわからないが、双丘や臀部の肉の具合を確認しつつ呟いてみる。
 本音を言えば、無闇矢鱈に筋肉を付けたいわけではない。
 だが、強くなる為に必要なら、避けられないなら、それも止むなしだと鍛え続けてきた。
 そうして鍛錬を続けてきたはずなのに、このところ、身体の一部がより丸みを帯びてきているような、そんな気もしてきた。
 
「……分からないなぁ」
   
 分からないのは、それらの体の変化もだが、それについて自身がどう思っているのかもだ。
 太ったのではなく、より体が女性らしくなりつつあるのなら……それについて自分は嬉しく思っているのか、そうではないのか。
 嬉しく思う部分が、正義の味方になりたい自分が抱くべきでない甘さなのかどうなのか。
 
「……どう思う?」

 いつもなら相棒たる異世界良識概念結晶体のクラウドに聞くところを、
 鏡の中にいる『ヴァレット』に尋ねてみる。
 答が帰ってこないのは分かっていたが、尋ねずにはいられなかった。










「雨が少しは落ち着くまで、ゆっくりしていくといい」
「……すみません、何から何まで」
 
 シャワーを終えた後、服を再変換する事で乾かしたヴァレットは店内に招かれていた。
 お世話になったこともあり、コーヒーを頼もうと財布を……
 ヴァレット時の衣服の一部に含まれており、その一部を組み直して……取り出そうとしたのだが、
 本来入るつもりがなかった人間を誘ったのはこちらだからと、断わられてしまった。

 そうしておごりだと差し出されたコーヒーを飲みながら、ヴァレットは店内を観察した。
 広くない、というかむしろ普通の喫茶店よりも若干狭いだろう空間なのに、その狭さが気にならない。 
 意識しなければ狭いとは思えないのは、椅子やテーブルの配置の上手さや、窓が多く、一部を除いては明るい配色ゆえにどこか解放的な店内の雰囲気によるものだろう。
 そうして店内は『明るい』のに派手でなく落ち着いているようにも思えるのは、
 デザイン的には何処か懐かしい品々の多さによるものなのか、
 店の主が立っているのが、古き良き喫茶店イメージそのままのカウンターだからなのか。
 なんにせよ、ヴァレットとしては、不思議と心の落ち着く素敵な店内であった。

 そんな店の外の雨音をBGMに、二人は会話を交わしていた。

「言ってたとおり、服はもう乾いてるね」
「ええ、新しく組み直して、水気を変換したというか……まぁその、魔法で乾かしたという事で」

 詳しく説明しようとしてしまった自分に、ヴァレットは内心で反省した。
 最初から魔法と言えば簡単で分かりやすいのに。

「魔法ね。……今はその方がとおりがいいのかな。
 その、魔法で濡れずに済む方法はいくらでもあるだろう君が……あえて雨に打たれていた」
「……」
「人が雨に打たれる時は、傘を持っていないときか、そうしたい時だけだ。
 誰もがそんな気分の時があるように、今日の君がそういう気分だったんだろう」

 暫しの間、雨音だけが店内を支配した。 
 その雨音だけの世界を破ったのは、コーヒーをソーサーの上に置く小さな音と、それとほぼ同時に吐き出されたヴァレットの言葉だった。

「……アルバイトの面接に落ちてしまって。いえ、遅刻した自分が悪いんですが」

 話してみたらどうか、そう言われた訳ではない。
 だが、なんとなくそうしたい気分だった。
 ……自分らしくない、そう思っているのに。 

「魔法少女もアルバイトをするんだね」
「まぁ、少しでも家計の足しになりたくて。その必要性はないのかもしれませんが」
「でも、それだけ、というわけでもないだろう?
「……そうですね。自分の不足を、痛感していたんです」

 そうして、彼女は少し前の出来事を思い出し、口にしていった。










 少し前、ヴァレットはいつものようにライに乗ってパトロールをしていた。
 正確に言えば、今日は少し違っており、時間帯的に好条件な新しいバイトを……ジオラマ研究会が終わった後くらいの時間帯……見つけ、
 その面接先に向かうのと並行してのパトロールだった。

 そうして行っていたパトロールのコースはいつものコースと大体被っている事もあり、
 もしバイトが決まったのなら、部活→パトロール→バイト→トレーニング&ランニング(パトロールの補完)と流れるように出来そうだと、
 こうして考えるのは取らぬ狸のなんとやらかな、などと考えながらパトロールを終えようとしていた時だった。

 降りる場所と予定していた街外れで雨が原因なのかスリップし、トラックが暴走していた。
 そして、それにに轢かれそうになっていた一人の少女がいた。
 それを発見したヴァレットは、慌てて彼女達を助けた。助けたつもりだった。

 だが、少女からは何故助けたのかを詰問され、
 彼女を優先した結果、最低限のフォローしか出来なかったトラックの運転手には怪我をさせてしまった。
 おそらく多少は使える癒しの力でもなんとか回復できるだろう、そう判断し事実そうだったのだが……
 実際の状況はヴァレットが思っていたような、簡単な事故ではなかった。
 
 少女は語る。
 今生きているつまらない現実をどんな形でも壊したかったのだと。
 そこにちょうどよくトラックがやってきてくれたのに、ヴァレットがそれを台無しにしてしまったのだと。

「ヴァレットはいいよね」
「え?」
「なんだって、そうして、魔法で解決出来る。いい気になってるんでしょ?」

 少女が指摘したのは、
 彼女を助けた事や、トラックの運転手を回復させた事だけでなく、
 頭上数メートル上、ドーム状に展開した法力の力場でこの場にいた全員から雨を遮っていた事でもあった。

「そんな力があって、皆からちやほやされてたら、退屈なんかしないでしょ」
「……」

 退屈かどうか。
 そんな事を考えた事はあまりなかった。
 自分の出来る事、すべき事、したい事をちゃんとできるようになるべく毎日いっぱいいっぱいだった。
 
「あたしにはそんな力はない。なんにもない。退屈な人生を退屈に生きるしかないもん」
「……だから、事故に遭おうとしたんですか?
 それに巻き込もうとした運転手さんがどうなってもよかったと言うんですか?」
「どっちみち事故ってたのは運転手さんでしょ? あたしはそれを利用したかっただけだし」
「貴女……!」

 理解し難い言葉に……正確に言えばトラックの運転手の事を殆ど『どうでもいい』と告げている事に、
 その上で言外に彼女自身の事も『どうでもいい』と語っている事に、ヴァレットは思わず声を荒げていた。 
  
「貴女は、自分が何をしようとしたか……」
「説教なんてしないでよ。アンタにだけはどうこう言われたくない。
 勘違いしてるみたいだから言っておくけど、アンタはあたしを助けたんじゃなくて、その逆なんだからね」
「……いい加減もう我慢の限界だぞ、おい」

 そこで突っ込みを入れたのは、トラックの運転手の男性だった。
 
「元は俺が悪いから黙ってようかと思ったんだがな……無茶苦茶な難癖つけんなよ。
 お前の事情を見ず知らずの俺らが知ってるわけねーだろ。
 ヴァレットは俺とお前を助けたの。それが紛れもない事実なの。
 大体、お前……死ぬ気なんかなかっただろ」
「ど、どーしてそんな事が言えんのよ!?」
「自慢じゃないが、俺の視力はめっちゃ良いからな。
 お前が一瞬空に視線向けてたの、見えてたぞ。
 お前、ヴァレットがいたのに気付いた上で飛び出したんだろ」
「……っ!?」
「なんならドライブレコーダーを見せてやろうか?」
「……ふ、ふんだ。折角の気分が台無しよっ!
 もう、あたし帰るからっ!」
「待って……! 貴女、まだ……」

 ヴァレットの呼びかけに気付かず、いやあえて無視したままで少女は雨の中を駆け抜けて、去っていった。
 慌ててそれを追いかけようとするヴァレットだったのだが、トラックの運転手がそれを引き止めた。

「大丈夫だって、ヴァレット」
「え?」
「あの子、死ぬ気なんか最初からなかったのさ。
 言ってたとーり退屈を紛らわせたかっただけだろ。
 そうじゃなきゃ、今だってわざわざ自分の傘を拾って帰らないだろうしな」
「……そうかも、しれませんが」
「それよりさ、悪いけど、トラック起こしたり出来るか?
 このままだと困るんだが、割とマジで。道も半分塞いでるし」
「……」
「ヴァレットー? ヴァレットさーん?」
「……あ、ご、ごめんなさい。ええ、その、はい。トラックを起こせばいいんですよね? 起こします、はい」
「え? 素手で? ……おお……マジか……どこかの戦闘民族ばりだなぁ」

 その後、やってきた警察に事情を説明した後、解放されたヴァレットはパトロールに戻った。
 だが、その心中はいつもどおりに戻るはずもなかった。
 そして、今日はいつもと違っていた事を失念していた。




 





「……パトロールを終えた後、いつもならランニングして帰るんです。
 今日は面接を終えた後、いつものようにそうするつもりでした。
 でも、今日は、そう出来ませんでした」

 どうにか予定していた時間にはギリギリで間に合った。
 だが、それは間に合っていないも同然の間に合ったでしかなかった。
 面接した人間には、そうしてギリギリになる事が多いのであれば、ここでのバイトはやめておくべきだと指摘され、紫雲もそれに同意した。

 実際、自分の見立ては甘かった。
 予定外の事件が起こる事も踏まえての時間帯として、これならなんとなるだろうと決めたバイトだったが、現実はこうだ。
 自分の活動を考えれば、日常でのスケジュールよりもそれ以外の事柄を踏まえるべきなのに、そうしたつもりで、そうできていなかった。

『いい気になってるんでしょ?』

 少女の言葉が木霊する。
 そんなつもりはなかった。
 ヴァレットと草薙紫雲、どちらの生活も何とかできるように、色々考え込んで決めたつもりだった。
 だけど、やはり、できてはいなかったのだ。

 そんな事だから、彼女にもちゃんと向き合えなかったのではないだろうか。  

 あの出来事からずっと、ヴァレットの頭の中を少女の事が駆け巡っていた。
 彼女は、あの後どうしたのだろうか。
 おそらく、トラックの運転手の語ったとおりなのだろう。
 彼女には死ぬ気なんかなく、ゆえに心配する必要はないのだろう。
 だが、だからと言って考えずにいられなかった。
 雨に打たれながら、考えたかった。……一人で。
 ライには先に帰ってもらった。
 もし一人で帰るのが難しかったら、暫く空の上で待っていてもらおうと思っていたが、了解してくれた。
 きっとライは寂しいのに、あえて帰ってくれた。
 そう出来るようになっていた。少しずつでも確かに成長していた。
 それに比べて自分は。
 ……そうして、雨に濡れていた。

「彼女にもっと何か、してあげられなかったのか。
 憤りのままの言葉でなく、もっと別の言葉がなかったのか、そう思ってしまって」

 似たような事は何度かあった。
 草薙紫雲としても、ヴァレットとしても。
 だけど、今日は特に胸に突き刺さっていた、何かが、強く。

「ふむ。君は確実にそうできる異能……魔法を持っているのかな?」
「……いいえ」
「何時如何なる時もどんな状況でも、全ての人を救えると思っているのかな?」
「……そんな風に思った事はありません。
 私はまだまだどうしようもなく、未熟で弱いですから。
 でも、それでも、そんな私でも、誰かの力になれるのならなりたいし、助けられるのなら助けたいんです。
 私が憧れ続けている、正義の味方のように」
「そう思うのは、君自身もよく分かっているだろうが傲慢だよ」

 コーヒーを見つめるヴァレットの目は伏せられ、表情は暗かった。
 彼女の言葉を彼女自身どう思っているのかを如実に語っている。
 
「人生の責任は、ある程度歳を取った先はそれぞれに委ねられている。
 生きるも死ぬも、個人の自由だよ。
 これは自論だがね、誰にも迷惑を掛けずに死を望む人間がいるのなら、迷惑が掛からない限り、それを遮る権利は誰にもないはずだ。
 死がその人物にとっての心からの望みなら、それを自分の目の前で死なれるのは不快だからと止めるのは、勝手じゃないかな。
 そんな個人の価値観に口を挟む事もね。
 まして、自分の事も満足に管理できないような状態の人間にはね」
「……分かります。分かってはいます。
 それでも、私は……何も言わずにいるのは違うと思うんです。
 死ぬのは本当に最後の手段じゃないかって思うんです。
 死んだら、本当に何も出来なくなります。
 時に幽霊になる場合もありますが、そうなっても出来る事は限られます。
 これから何かを変えられる可能性さえ失ってしまう……それは、とても悲しい事です。
 その人の事情も知りもしないで死にたいと望むことを止める事は間違っているのかもしれません。
 ですが、その人が本当に死ぬしかないのか、考えもしないで死なせてしまうことが正しいとも思えないんです。
 本当に、傲慢だとは思うんですけど」
「……すまないね」
「え?」

 何処か笑みを帯びた謝罪に、ヴァレットは目を瞬かせた。
 そんな彼女の手前にあるコーヒーに、マスターは苦笑しつつお代わりを継ぎ足していく。

「君の考えを吐き出させたくて、少し意地悪な事を言ってしまった。
 そうしないと私自身納得出来るちゃんとした言葉を返せそうになかったからね」
「……!」
「さっきみたいな極端な例え話では、結局極端な答しか出ない。
 人の人生はもっと繊細で、もっと複雑なものだ。多くの場合は。
 その少女も、そうだろう」

 漂う湯気と共に香りを堪能しつつ、サイフォンを元の位置に戻しマスターは言葉を続けた。

「本当に死にたいのなら、もっと確実な手段を取るだろう?
 でも、そうせずに君を確認してそうしたのなら……君に構ってほしかったのか、あるいはいちゃもんがつけたかったのか。
 だから、今頃は、きっとちょっとした非日常にほくそ笑んで満足しているさ。
 ……あるいは、そうした事を、君に迷惑を掛けた事を冷静になって悔やんでいるかもしれない。
 なんにせよ、シンプルな答えはあまり出そうにないな。
 ともあれ、本当に死にたいと思っている人間は、そう簡単には決意を翻さないさ。
 翻したのであれば、まだ生きたいという事だろうし、
 そうでないのなら……さっき言ったとおりだ。
 いずれにせよ、どうなるにせよ、それについて彼女が君を悪く思うことはないだろう。
 良い意味でも悪い意味でも君の事はどうでもいい、そう思っているだろうからね」
「……そうでしょうか」
「そうだと思うよ」
「……だといいんですけど。
 あの女の子に何事もなければ、私はそれで……あ、いえ、そうでもないですね」
「ふむ? その心は?」
「出来れば、運転手さんにはちゃんと謝ってほしかったかなって」

 そう言ってヴァレットはなんとも言えない表情を浮かべた。 
 彼女の生き死に、自分の不甲斐無さに意識が向き過ぎて、その事を失念していたのを、それこそ不甲斐無いと後悔しているようだ。
 
「……どうやら、少しは落ち着いたようだ」
「え?」
「さっきまでの君は、それこそ自殺、まではいかないにせよ、切羽詰った様子だったからね」
「……。お恥ずかしい限りです。すみません、本当に」

 そう言われる事で、先ほどまでの自分を客観的に思い返したのか、顔を赤らめ、ヴァレットは肩を窄めた。
 
「ああ、あと、人間は忙しい時もあれば暇な時もある。
 今日は君にとってたまたま忙しい日だった。
 その一日を切り取って自己管理が出来なかった、は厳しすぎると思うんだが」
「……あぅ。うぅ、お気遣いいただきありがとうございます」

 ますます縮こまるヴァレットに、マスターは苦笑する。
 女性としては多少広いかもしれないが、それでも男と比較すれば細く小さな肩。

 ……その肩に、彼女はどれほどのものを背負っているのだろうか。 
 ……背負えもしないものを、背負おうとしているのではないだろうか、彼のように。 
 
「ふむ。じゃあ、今度は私の話を聞いてもらえるかな。
 雨脚はまだ強いようだし」
「……それは、その、ええ、是非」
「君は誰かの為の力になりたい、そう言ったね。そう思っていると」
「はい」
「私的に、その生き方はあまりオススメできないな。
 可能なら、早めにやめた方がいい」
「それは……どうしてですか?」
「昔、君のように思っていた男がいたんだ。
 人の為に、何かをなそうとしていた男が。
 その男はね、君ほど強力ではないが、不思議な力を持っていた……」










 そう。
 彼の力は強力ではなかった。

 高速で空を飛べはしなかったし、
 悪党を一網打尽にするような攻撃力はなかったし、
 全てを燃やし尽くすような火炎を放てはしないし、
 あるものを別の何かに変換するような奇跡を起こせもしなかった。

 ただ、空に浮く事は出来た。
 遠くのものに見えない手を伸ばし、動かすくらいは出来た。
 小さな炎や水を発生させたりは出来た。
 既にそこにあるものをちょっと改造する事は出来た。

 科学では解明できない、ほんの少し不思議な事を起こす事が出来る、そんな人物が平赤羽市には存在していた。









「その方の事は、知ってます。
 平赤羽市で初めて明確に異能者だと認知された方ですよね。
 子供の頃、テレビで見てました……凄い人でしたよね」

 最初に存在を知ったのは、七年ほど前の、平赤羽市のみのローカルなテレビ局内の番組だった。
 彼は、色々な事に挑戦していた。多くの人の手助けをしていた。
 テレビをはじめとするメディアは、彼の活動を紹介し、異能に驚き、拍手を贈っていた。
 確か、最終的には全国区のテレビ番組にも出演していたはずだ。
 
 初めて見る、おおっぴらに異能を使う存在に、当時のヴァレット……紫雲は驚いたものだ。
 異能は人を遠ざける……そう考えていた紫雲にとって、衆目の中で力を振るいながらも、受け入れられている彼の姿は衝撃であった。
 ……彼女が憧れていたものの一つが、そこにはあったからだ。

「私、町で行われていたイベントで何度か会いに行った事があるんですよ。
 優しいお兄さんだったなぁ」
「そうか……。
 そう感じてもらえていたのなら、彼も嬉しいだろうな」
「え?」
「彼は、私の歳の離れた友人だったんだ。
 彼は言っていたよ、自分のささやかな力で人の手助けが出来るのなら、なんだってしようと。
 自分と同じ不思議な力を持つ者達が、必要以上に奇異の視線を浴びないようにしようと。
 だから彼はなんだってやったよ。
 学術的な研究にも協力を惜しまなかったし、集客が必要な場所があれば何処にでもいった。
 彼のようになりたいという人間に、彼なりのこつを教えたりもしていた。
 そんな彼の顛末を、君は知っているか?」
「……いえ。
 その、だんだんテレビとかで取り上げなくなっていって。
 町でもイベントをしなくなって。
 家族に聞いたり、自分で調べたりしたんですけど、結局分からなかったんです。
 ご存知、なんですか?」
「完全に消える、途中まではね」









 
 彼はそうして、様々に活動していった。
 平赤羽市が生んだスター、そう言っても過言ではなかった。
 そうして、今ほどではないが異能は日常に浸透していった。

 だが、そうして活躍すれば、その在り方を、方法を模倣するものは出てくるものだ。良くも悪くも。

 いつしか、彼の姿を、やり方を見て、何人かが能力を発現させていった。
 彼自身が能力をレクチャーした者も、その中にはいた。
 それは今の平赤羽市に存在している異能者ほど多くはなかったし、強力でもなかった。
 だが、目立つ為の能力としてみれば、彼よりは上だった。

 空を高速で飛びまわるものが現れた。
 一撃で数人を吹き飛ばす力を振るうものが現れた。
 目に見えて分かるほどに、派手に炎や氷、電気を操るものが現れた。
 特定の物質を特定ではあるが明確に違うものに変換するものが現れた。

 彼らは、別に男を蹴落としたかったわけではない。
 彼らは彼らなりに充実した人生を送りたかっただけで。
 彼らなりに男と同じほどでなくても平赤羽市の発展を祈ってもいた。
 だが、男よりも有名になりたいという気持ちがなかったわけでもなく。

 そうして彼らが、彼らが活動を進めていくに連れ、男の居場所はなくなっていった。

 男の役割は、男でなくてもよくなっていったのだ。

 男は、ソレでいいと思った。
 自分は確かに役割を果たしたのだという満足感があった。

 だけど、そうして役割を果たした後……男には、何も残らなかった。
 不思議な力を使う以外の生き方を、男は失ってしまっていたのだ。

 






「そこにいたのは、何をすればいいのか、何処に行けばいいのか分からなくなった迷子。
 それまでが充実していたから、それ以外の行き方が出来なくなってしまった大人になりきれなくなった大人」

 別の生き方に誘うものはいた。
 だが、それは異能を暗い方向に使う生き方が大半だった。
 そうでないものもいたのかもしれなかったが、当時の彼には判別がつかなかった。
 いずれにせよ、力を使う生き方だとしても、他者を害する生き方は、彼の望むところではなかった。

 だから、彼は消える事にした。逃げる事にした。
 自分自身さえも作り変えて、何処に行けばいいのかも手探りのままに。

「そんな人間が今は何処で何をしているやらなんて、きっと誰にも分からない。
 私にももう、ね」
「……そうなんですか」
「何故こんな話をしたのかというと……ヴァレット。
 君がね、彼に似ていたからだよ」
「私が……」

 雨に打たれながらも、歩いていく姿。
 誰かの為に、そう言って考え込みすぎる姿。
 そう、それは確かに似ているのだ。
 生き方を見失ってしまった、その男と。
 だから、柄にもなく声を掛けてしまったし、こうして話をしてしまっていた。
 きっともう、誰に話すこともないと思っていた事を。
 似て非なる道を歩いた者として、話さずにはいられなかったのだ。  

「ヴァレット、君の生き方を否定するつもりはない。
 だが、その生き方の果てに何が残るんだい?
 今日君が遭遇した出来事のように、誰かの為にしたことを、その誰かによって否定され、裏切られる事もあるだろう。
 そうした出来事を越えてなお進めるのだとすれば、それだけその生き方に傾倒しているという事。
 そうして傾倒したものをいきなり取り上げられたら……きっと君には殆ど何も残らないよ。
 力を使わなければ何も出来ない、何もなせない、そんな人間になってしまう。
 人生の意味を見失った、無意味なものになってしまう。
 だから、その、異能を……魔法を使う生き方には早めに区切りをつけて、普通の女の子として生きて行くべきだ」
「……ありがとうございます」

 そう言いながら、ヴァレットは……彼女の素顔を覆い隠していたバイザーを外した。
 コーヒーの側に置いた際、コトリ、と小さく音がなる。

「ヴァレット……?!」

 その行為がどういった意味を持つのか、正確なところはマスターには分からない。
 だが、素顔を晒すという事が、彼女にとって有利に働く事は何一つないはずだ。
 だからこそ、それが彼女にとっての誠意なのだろうと、マスターは感じた。
 ……彼女が自分の素性を理解した上でそうすべきだと考えたのだと。 
 
 そうしてさらした、自然ではありえない紫色の瞳でマスターを見据えながら彼女は言った。

「貴方の心からの忠告に、心からの感謝を。
 そして、そんな言葉に抗ってしまう事に心からお詫びを」
「……そうか。やっぱり、生き方は変えられないのか」
「はい。結末がどうなるかは分かりません。
 私の結末には、何も残らないのかもしれません。
 あるいは、道半ばで消え果てしまうのかもしれません。
 それでも、私は、私の夢を追いかけます。
 きっと、その人が……分かっていながらもその生き方を貫いたように」

 そう。
 そうなのだ。
 彼女の言葉どおり、生き方は変えられなかった。
 分かっていても、変えられるはずはない。
 例え、どれほどに後悔する事になったのだとしても。
 
「……そうか。余計なお節介だったね」
「そんな事はありません。
 今日、今ここでお話を聞けたからこそ、私はまた一つ新しい覚悟が出来ましたから」

 そう言って、彼女はニッカリと誇らしげに笑った。
 穏やかな顔立ちをしている彼女の、隠しきれない強さを表している、そんな笑顔だった。
  
「ただ、もう一つ言わせてください」
「なにかな」
「その人……大先輩の生きた道は、無意味なんかじゃありません。決して」
「大先輩?」
「ええ、偉大な大先輩です」
「どうしてそう思うんだい?」
「大先輩は道を作ってくれました。
 自分の後に続く誰かの為の道を、自分自身を犠牲にしてでも形作ってくれたんです。
 少なくとも、その方がいなければ、今の多くの人に許されている私はいません。
 私はもっともっと忌み嫌われた存在になっていたはずです。
 なにより、異能を持つ人達が、今よりもずっと受け入れられずにいたはずです」
「……」
「その方自身が生き方を見失ったのだとしても、
 それでもちゃんと正しく生き続けて、誰を恨む事もなく……
 その事さえも、美味しいコーヒーに添えて、後進に伝えようとしてくれる。
 そんな生き方が無意味なわけなんかありません。絶対に。
 だから、私は、その大先輩が作られた道を私なりに引き継いで、大先輩が自慢できるように生きていきます。
 例え道半ばで、後悔するような結末になったのだとしても、それでも後悔しないように。
 ……まぁ、その、すぐに凹んだり未熟なところばっかりなので、ちゃんと生きられるのはまだまだ先の話になりそうですけど」
「そうか……」

 そう語る彼女の紫色の瞳。
 それは夜の闇と朝の光の挟間にある、そんな色のように彼には思えた。
 夜の冷たさを知りながら、それでも朝を目指す事を諦めない、そんな色のように。

「そう、できるといいね」

 だから彼は思わずそう呟いていた。
 先程までの自分の考えを捻じ曲げるように。

「はいっ……!」
「ふむ。どうやら長話になってしまったようだ」

 気がつけば、雨はやんでいた。
 窓の向こうの空からは、夕焼けの最後の残滓が差し込んでいた。

  







「今日は本当にお世話になりました」

 店の外で丁寧に頭を下げて、ヴァレットは告げる。
 お互い様だと告げるのは容易かった……だが、それはあえてしない事にした。
 それは、もっと先に告げるべき言葉のような、そんな気がしたからだ。

「今度改めてお客としてお邪魔しに行きますね」
「それもいいが……別の形で来てもらってもいいかな」
「え?」
「この店、存外お客が来るんだ。
 忙しい時の人手が必要かも、最近そう思っててね。
 もし君か、もしくは誰か都合のいい人間を知っていたら、近い内に面接に来てくれるよう伝えてくれないかな。
 この店、夜十時までは開いてるから。
 働く時間は、ここで働きたい誰かの好きにしてくれて構わない」
「ほ、ホントですかっ!? あ、いや、でも……」
「ちなみに、近日中にバイトの面接に来た誰かの事情について私は詮索しない。
 どうしてバイトの募集を知ったのかとかも含めてね」

 それもまた、お互い様だから。
 言葉にしないその想いを込めつつ、人差し指を口に当てて冗談めいた笑みを浮かべるマスターに、
 ヴァレットはどうしたものかと、わたわたとしていたが、やがて意を決したのかコホンと咳払いで彼女なりに場を整えてから告げた。

「その、では……近日中に私の知っている誰かが面接に行くかと思いますので、よろしくお願いします」
「ああ、了解」
「……では、えと、その……いずれまた」
「うん、いずれまた」

 改めて一礼した後、彼女は駆け出した。
 ……どうやらランニングで帰るつもりらしい。
 変身したままでいいのかどうかなど思わないでもないが、きっと彼女なりになんとかするしできるのだろう。
 彼女の表情は、すっかり、とまでは行かずとも確かに雨が上がっていたから。
 
 だとすれば……男が人生を見失った事も、確かに無意味ではなかったのだろう。
 あの日途絶えたと思った道は、気付かなかっただけで、未だ続いていたようだ。

「誰かの為の道、か」

 彼女の事を傲慢だと自分は思った。
 だけど、それは自分も同じ事だったのだろう。
 いや、そもそも、人間は誰もが傲慢なのかもしれない。
 一人一人の生き方を追求するという事は、そういうものなのかもしれない。
 だけれども、それゆえに誰かに贈る事が出来る言葉があるのなら。
 それゆえに、誰かの為になるような、そんな道を作る事が出来たのなら……傲慢で形作られたのだとしても、無意味なものなどきっとないのだ。

「だけど、君の行く道は、きっと険しいものになる」

 かつての人物は、存在を世界に示せばよかった。
 異能を持つものがここにいると叫べばよかった。

 だが彼女はそうはいかない。
 異能者が存在する世界で、異能者同士が、あるいは異能者とそうでないものが対峙する中で『正しい事』を見出そうとする生き方。

 それは、はっきりと見る事が困難な……人のハザマに築き上げていく灰色の路だ。
 
「……灰色の道でも、それを一緒に歩く誰かがいれば安心なんだが」

 自分はきっとそうなる事はできない。
 自分は過去の人間でしかなく、
 彼女を支える事が出来るのは、未来を見通せる賢者か、同じ世代・近い道を側で生きる愚者でしかないだろう。

「難しい、だろうね」

 自分はそのどちらでもないし、そうした出会いはそう簡単には訪れはしない。

 であるならば。
 過酷な道を歩こうとしている後輩に、出来る事があるとすれば。

「……せめて、美味しいコーヒーの淹れ方を伝授しようか」

 かつて自分が道に迷った時。
 とある青年に淹れてもらったコーヒーに、僅かでも確かに安らぎをもらったように。

 彼女が僅かでも安らぐように。
 彼女がいつか誰かに安らぎを与えられるように。

 そう決意して、彼は喫茶店の中へと戻っていった。

 暫くして、看板に電気が付き、白い光の中、黒い文字が記される。

 『喫茶 Vorreiter』

 フォーアライター、その意味は、先駆者である。
 













 ……続く。 






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