第7話 守られる非日常と潜みし日常
Q 貴方は魔法多少少女ヴァレットを知っていますか?
「いやいや、もう知らない人いないでしょ」
「知ってる知ってる。あれだけ毎日飛び回ってたらねー」
「遠目から限定なら見た事ない人、平赤羽市にはいないだろうな」
「知らない、とは言えないな」
Q 貴方はヴァレットをどう思いますか?
「うんうん、リアル正義の味方だね。かっこいいよねー」
「うーん、まぁ、どうもこうもないというか特に思う所はないというか……別に誰に迷惑を掛けてるわけでもなし」
「いや、ヤバイよねうん。もう、ハァ……たまらないっていうか……」
「神」
「正直胡散臭いね、自称正義の味方なんて。……彼女はあくまで”志望”を自称? どっちでも同じだろ」
「今の所はボロ出してないのかもしれないが……言葉や行動を鵜呑みにするだけは危険だ」
「怖いわー。わたしあの子が炎とか氷とか出してるの見た事あるんだけど、あれ、とんでもないと思わない?」
「今は悪人退治しかしてないが、悪人がもし居なくなったら……どうなるんだよ、アレ」
Q ヴァレットの正体について、どんな人物だと思いますか?
「えー? 見たままじゃない? どっかの女の子が正義の心を燃やして頑張ってるんだよ」
「うーん、特に興味ないというか……中身が有名人とかならまだしも」
「分からないなぁ……うん、知りたいけど、想像もつかないというか。じ、実は、見た目より若かったりしたり……ふふふ」
「中の人などいない」
「少なくとも頭は良くないだろうな。まぁ考えの足りない若者なんだろうさ」
「正義を隠れ蓑して何かを企んでいる知能犯だ。人々の信頼を得てから何かをやらかすね、彼女は」
「正体? よくわからないけど……危ない子なんじゃないかしら」
「ああいうのは、正体撹乱のために普段全く違う姿してるんじゃないか? 下手したら男なのかもしれない」
調査結果、平赤羽市市民のヴァレットの認知度が極めて高い事が改めて分かった。
認知度で言えば、解答を拒否したものを除けば8割。
殆どの平赤羽市市民が彼女を知っていると考えて間違いないだろう。
ここ数ヶ月、彼女は多くの市民の目に付く事件を複数解決している事からすれば不自然ではない。
そうして事件を解決して回っている彼女が、純粋に、かはともかく現状善意の人間だと考えている人間は、調査対象の7割だった。
だが、彼女の行動について、今後の彼女について疑念を抱いている人間は半数と、意外と多い。
それというのも、彼女が掲げている「市内平和と正義探究」という目的が胡散臭く見えるかららしい。
何の報酬も得ずに街の平和を守ろうとする存在、というのは、素直に受け入れ難い存在なのだろう。
そんな彼女が、一体どんな想いで日々を生きている人間なのか、私自身、興味深く考えている。
ゆえに、今日も丸一日掛けて彼女の足取りを追っていこう。
魔法多少少女ヴァレットこと、草薙紫雲の朝は、早かったり遅かったりまちまちである。
早朝の新聞配達は、彼女にとって安定して続けられている唯一のアルバイトだ。
平赤羽市において早朝は、事件が起こる確率が最も低い時間帯なのだ。
彼女は性別を偽り、幾つかのアルバイト面接を受けている。
だが採用されたのは短期のものばかりで、長期のものは受からない、あるいは始めたとしても長続きしない事が多い。
ヴァレットとしての活動による弊害なのは疑いようもない。
彼女はそれでもなお幾つかのバイトを探している。
それほどに草薙家の経済状況は悪いのかというと決してそうではない……むしろ良好だ。
彼女の姉、草薙命は医者として技術面でも精神面でも優秀な人物で、誰かが医院に通う足が途切れた事はない。
祖父母が残した遺産もそれなりにあり、平赤羽市から離れた町に住む、いまだ存命の曾祖母の財産もある。
草薙紫雲がアルバイトをする必要性は殆ど無いだろう。
にもかかわらず彼女がアルバイトを行っているのは、
自身の大食による家計圧迫を気にしている事、
姉に対して小遣いをせびるのに申し訳なさを感じている事
将来的に何をするにしても貯金は必要だと考えている事、など様々な理由の複合によるものである。
……もっとも、貯金については趣味や生活が優先で中々出来ていないようだ。
そういう所を見ると彼女もまだまだ若い、ということなのだろう。
閑話休題。
今日の草薙紫雲の朝は……どうやら、遅い方らしかった。
本来なら今日は早い朝のはずだったのだが、
昨日新聞配達のバイト仲間が急病になり、その分を代わった為に、今日が休みになっているようだ。
『……はぁ。紫雲、おはようの時間だ』
人語を話している猫。
なので、口の動きから会話を読み解く事は可能だ。
彼の名前はクラウド。
猫の姿をした、別の何か。
怪しい存在だが、少なくとも草薙家の人間や誰かに害意をもたらすつもりはないようだ。
しかし、それ以上の事は今の所分からない。現在調査中である。
『紫雲、そろそろ……ふふぎゅうう!?」』
草薙紫雲は寝起きが悪い。
寝起きの悪さの程度にもランクがあり、
目付きが悪い状態で自ら起きる場合が最良。その場合クラウド氏のダメージはゼロ。
最悪の場合は、歯軋りと共に辺りにあるモノを掴んだり投げ飛ばしたりする。
『おぎゅうぁぁっ!?』
今回は下の中といったところだろうか。
クラウドを引き込み、ぬいぐるみか何かと勘違いしているのかしっかと抱き締めている。
普通の女の子の身体能力であれば可愛らしいものだが、彼女は超人だ。
当然凄まじい負荷が彼には掛かる。
頻度としては十回の内三回はこうなっている。
彼がいない頃の彼女はどのように起きていたのか……気になるところである。
『……ぁー……んんぅ……クラウド、おはよう』
ある程度抱き締めた事で満足したのか、クラウドを解放した後、彼女は目覚めた。
この辺り、もしかしたら彼女の内面的な不安や不満などの噴出なのかもしれない。
今後はより観察する必要がありそうだ。
『おはよう、紫雲』
クラウドは先程までのダメージをおくびにも出さない。
寝起きの悪さは自覚していても、周囲への被害には気付いていない草薙紫雲を気遣っての事なのだろう。
今回は違うが、彼女が無意識にモノを投げ飛ばしている時なども彼は瞬時に片付けている。
実に紳士的な対応である。
『……あー、シャワー、浴びなきゃね……うん』
『紫雲、下着を忘れずに。
あと今日は休みじゃないんだし、男物と女物間違えないようにね』
完全な覚醒には至っておらず、寝ぼけ調子で彼女は立ち上がる。
クラウドの言葉から察するに、どうやら過去間違えて女性用のショーツを穿いて登校した事があったらしい。
その時の草薙紫雲の狼狽振りは是非見てみたかった。
もう少し早くヴァレットの正体を突き止めていれば、心からそう思う。
『ふぅ……』
シャワーを浴びた後の彼女がまず行うのは、しっかりとさらしを乳房に巻き付け、抑え付ける事である。
同学年の女子の平均より彼女のバストは大きめ、豊満と言っていいサイズだ。
男装しなければならない彼女がそうなってしまっているのには何かの皮肉を感じさせる。
ちなみに、何故彼女のバストサイズを知っているのかのは、調査ゆえに仕方なかったと言い訳させてもらおう。
その際身体的特徴を記録する為にじっくり観察しなければならなかった事についてもだ。
なお、その際は危うくこちらの存在、視線に気付かれそうになってしまった。
若干の悪意、ではないがそういったものが混ざった事で、負の気配に敏感な彼女に感じ取られそうになってしまったのだ。
それ以後、こうした場面を観察しなければならない時は、平常心を心がけている。
出来る出来ないはともかくとして。
閑話休題。
そうしてシャワーと男装を済ませた彼女は、姉と共に朝食を取る。
食事の準備はそれぞれの状況に合わせた交代制であるらしい。
今日は、草薙命によるもののようだ。
ちなみに、姉妹の料理の腕は、姉である命が圧倒的に上のようだ。
草薙紫雲は、基本的にどんなものでも美味しく食べられる体質のようで、
それが災いして自分で作る料理を他人がどう感じるかがよく分からないようだ。
クラウドによると「紫雲が作る料理は、不味くはないけど、なんともだね」という事らしい。
『ごちそうさまでした』
『おそまつさまでした』
そうして今時の家庭にしては礼儀正しく食事と片付けを終えた後、草薙紫雲は家を出た。
彼女が男子生徒として通っている県立慶備学園に向かう為である。
『おはよう、草薙君』
『よう、草薙』
『おはよう、二人とも』
通学途中に遭遇したのは、彼女の級友であり部活仲間である新城入鹿と久遠征である。
彼らと話す時の彼女は、青春時代を生きるごく普通の学生だ。
一ヶ月程前までは、もう少し表情が硬かったのだが……それだけ彼らに心を許すようになったのだろう。
今日の……今の彼女は柔らかな笑顔で挨拶を交わしていた。
『……』
『久遠君、どうかした?』
『いや、なんでもない』
……それが良い事なのか悪い事なのかは、これからの彼女の生き方によるところか。
さておき。
学生としての草薙紫雲は優等生、基本的にはそう言って問題ないものだろう。
学業は中の上から上の下。
どんな事でも真面目にひたむきに粘り強く当たっていく事から教師達の印象も悪くない。
一部中学時代の草薙紫雲を知るものには恐れられているが、人間関係は大体良好。
素晴らしい学園生活を送っている、と言えるだろう。
『……! あの、先生』
『草薙、どうかしたか?』
『トイレに、行って来てもいいでしょうか?』
あくまで、今の所は、だが。
『急がないと……!』
許可を得て、申し訳なさげに教室を出た彼女は、人の目が届かない場所まで移動する。
そう、こちらの目も届かない死角に入り込むのだ。
変身の際は、より『視線』を敏感に感じ取っているらしく、
無意識か意識的かは分からないが、こちらの明確な『視界』のギリギリ外に出ている。
まぁこちらも存在を気取られてはまずいので、多少遠慮しているからでもあるが。
それに、こちらに意識を取られて彼女が間に合わず、犠牲者が出るのはこちらとしても、個人的にも望むところではない。
それゆえに決定的な瞬間は今だ目撃出来ていないが、草薙紫雲が消えた周囲の場所から彼女が飛び出してくる以上、疑う余地はない。
そう、彼女がヴァレットである事は。
『フッ……!』
そう確信できる材料は他にも幾つかある。
彼女が偽りの理由で授業を抜け出し、学園を飛び出した理由である現在町中で起きた事件……
異能の暴走体と戦っている際に見せている体術もその一つだ。
数百年以上前から伝承されている、草薙家の体術。
ヴァレットは……ヴァレットとしての草薙紫雲はそれをあまり使いたがらないのだが、誰かを助ける必要上使わねばならない時は使用を躊躇わない。
彼女がそういう性格をしているのは、過去含めた調査で理解できる事だ。
そうして使用される体術は、見るべきものが見れば、古武術の流れを汲むものなのは分かる。
現にこちらも僅かな足運び、ある程度の流れに沿った身体の動きなどで彼女が草薙家の関係者だと気付く事が出来たのだから。
彼女らが使う術は、一朝一夕で身につくような代物ではない。
長い時間の中で練磨され、実戦で磨き上げられてきた技術の集大成。
だからこそ、見るべきものが見れば、ただならぬものだと理解が及ぶのだ。
あの家の術士達は、そうして磨き抜かれた技術を用い、依頼を受けて妖怪変化や異能者などと対峙している。
依頼する側はそういった怪異の被害者達が多いが、こちらからの依頼でより凶悪な存在と戦う事もある。
草薙紫雲自身もそうした依頼を何度か受けて危なげなくこなしている、プロフェッショナルなのだ。
……数年前にそうした依頼で見掛けた時は、外見上は普通の少年に見えた事と高い能力のギャップに驚かされたものだ。
『さぁ、描き直しの時間です。……イレイズ・ブレイクッ!』
そうして修行と実践で培われた体術を持って、暴走体の攻撃を回避し、いなし、街中で暴れていた異能の暴走体を文字どおり一蹴するヴァレット。
『……概念種子、回収完了』
止めに放った技、イレイズ・ブレイクは、こうした騒動の大本を封印に導くための技らしい。
これまでの観察から把握できた事だが、この所起こっている街の騒動の大半は、人や動物、物体に入り込んだ緑色の光球によるのようだ。
最近情報交換を行うようになったある人物から詳しい情報をもらえる事になっているので、その辺りについては後日整理するとしよう。
『大丈夫? ……うん、よかった。
あ、皆さん、騒動の種は封印しましたので、この子は普通の野良猫になりました。
なので、どうか普通に接してあげてくださいね』
騒動の元となった猫を優しく抱きかかえて無事を確認したヴァレットは周囲に告げた。
そうして周囲の反応を見渡した上で、猫を地面に下ろす。
が、その猫はジッとヴァレットを見上げて、動こうとしない。
『え? あれ? 行っていいんだけど……』
『ヴァレットに懐いたんじゃないの?』
『そうかもな』
『そ、そうなんですか? う、うーん。嬉しいけど、今はちょっと困るかなぁ……』
解決まで遠くから見ていた野次馬たちの言葉に困惑する様子を見せるヴァレット。
彼女の優しさと厳しさのバランスは、時折読み難い。
冷静冷酷に相手を叩きのめし、突き放す事もあれば、どこまでも甘くなる場合もある。
もしかすると、このままだと彼女は子猫を放っておけず、連れて行く事になるかもしれない。
そうなると、こちらの今後の調査のみならず、彼女自身の活動にも影響が出るかもしれない。
それはこちらとしても色々と困る事態になる。
……仕方がない。
「……やれやれ。
ほら、これの面倒は私が見ておくから、君は行くべき所に行きなさい」
野次馬の一人だった私は、しょうがないなぁ、という形で前に出る。
本来こうして目立つのは仕事の上でも個人的にも気が進まないのだがやむを得まい。
……野次馬の中にいると思しき、ヴァレットの熱狂的なファンの視線が痛いが、見なかったことにしよう。
ともあれ、そうして前に出た私は、ヴァレットの前に座り込んでいた猫をひょいっと抱きかかえた。
突然抱きかかえられたことに猫は驚いていたようだが、すぐ静かになってくれた。
「いいんですか?」
「なぁに、折を見て離すだけだからね。
それに、このくらいの猫が一匹ほしかったのさ。
この子が嫌そうでなければ、飼ってもいい」
これについては嘘を言っていない。
色々と動いてもらう文字通りの飼い猫がそろそろもう一匹ほしかったのだ。
この猫にその素質があるかは分からないが、なかったら普通に飼うだけだ。
それに、異能を使っていたこの猫について調べたい事もある。
そんな様々な事情を踏まえた上での私の発言に、ヴァレットは一瞬考えたようなそぶりを見せた後、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。このご恩はいずれ必ずお返しします」
「大仰だな。だが、機会があれば受け取ることにしよう」
「はい、是非。それでは、また」
そう告げた後、ヴァレットは空飛ぶ絵筆……ライと名付けている事は、彼女が通う学園のジオラマ研究会のホームページなどで知っている……に乗って、飛び去っていった。
ものすごい速度だが、さもありなんである。
なにせ彼女は授業をトイレという理由で飛び出しているのだから。
あまり長々と抜け出す事は、言い訳が立たない的な意味でも、お通じが良くないと誤解されかねない意味でも、できないだろう。
さて、ここから急ぎ追いかけてもいいのだが……一時的に学園近く(と言っても少し離れているが)に設置してある式神に意識を送る事にしよう。
こちらでは直の目で見たかったこともあり、彼女の観察と同時並行で収集していた情報を元に先んじて現場に来ていたが、とりあえず日常に戻るのであれば式神による観察でいいだろう。
式神ではあの能力は使えないのだが、まぁやむを得まい。
『……大丈夫なのか?』
『はい、ご心配をお掛けしました』
授業の終わりギリギリに戻った草薙紫雲は、それからしばらく経った昼休みに担任により生徒指導室へと呼び出されていた。
先程のような授業抜け出しがここ最近何度か起こっていた為である。
最近めっきり減っているが、本来そうあるべき、まともな教師、担任であれば心配するのは無理からぬ事だろう。
特に、草薙紫雲の事情や過去をある程度知っている人間であればなおさらだ。
『まぁ、お前だからサボりの類じゃあないんだろう。
大丈夫だと言うのなら、あえて深くは訊かない。
だが、こんな事が続くようなら内申にも響いてくるし、もっと悪い事態だって起こりうる。
それは理解しておいてくれ』
『はい。本当に申し訳ありません』
呼び出される前には私本人が学園に戻る事が出来たので、会話はよく『視える』。
二人の真剣な……というよりは幾分か鋭さはないが……表情も。
担任は本当に草薙紫雲を心配し、彼女は本当に申し訳ないと思っているのが良く分かる。
『これは個人的な忠告なんだが。
人助けをしていて、お前自身が不幸になったら、助けた方も心が痛むんだぞ』
これは、担任が草薙紫雲の過去……中学生時代に不良グループを相手取っていたこと……を知っているからこその言葉であり、それ以上の意味はない。
まして、草薙紫雲が魔法多少少女ヴァレットだ、などと思うはずもない。
だが、人助けをしている、という大本が間違っていないので、その言葉は彼女に思いっきり当て嵌まり、突き刺さるものだった。
『人助けをするなとは言わないが、自分の事も忘れずにな』
『……お心遣い、本当にありがとうございます。
可能な限り、善処します』
『……そうか。
じゃあ、もう行っていい。昼休みに悪かったな』
『こちらこそ、申し訳ありませんでした』
席を立ってから深々と頭を下げて、草薙紫雲は生徒指導室を出て行った。
『……情けないなぁ』
誰もいない廊下で、彼女はただ呟いた。
それは、不甲斐無い自身への嘆きであり、発破を掛けるための言葉だ。
彼女は、他の誰かや何かを責めない。
彼女の生活を圧迫している暴走する何か、悪事を働く人間達、この街の状況を。
数々の悪事や誰かを苦しめるものに憤りや怒りを感じ、その事については責めたとしても、
自身への影響については何一つ責める事をしない。
草薙紫雲は、魔法多少少女ヴァレットは、
現状をどうにかできない、自身の力不足をただただ悔やみ、それをバネにさらに精進を重ねるだけ。
それが、見ようによっては傲慢な、正義の味方志望の彼女のあり方だ。
『昼休み、まだ大丈夫だよね』
時間を確認し、彼女は急ぐ。
新城入鹿や久遠征、時にその周辺の人間達との昼食へと。
楽しい時間を無駄にしまい、と廊下を走りはしなくとも、彼女なりの高速歩行で。
そんな彼女の姿は……どこにでもある、ごく普通の学生のものであった。
皆との食事に間に合った事に喜び、友人達と話し、穏やかに笑う姿を含めて。
『……そうか、やはり良い先生だな』
日は傾き、いつしか夜になっていた。
草薙紫雲は、湯船に浸かりながら戸越しに洗濯中の姉と会話を交わしている。
放課後、幾つかの部活動に参加したりなどした後、
ヴァレットに変身し、日課のパトロールとして平赤羽市上空を巡回。
その後適当な人気のない場所に下りて着替えた後、トレーニングがてら彼女の家が管理しているかつて祖父母が経営していた道場までジョギング。
道場では体術や幾つかの術、魔法とおぼしきものの訓練をこなした後、再度のジョギングで帰宅し、今に至る。
順序が変わったり、省略される事柄もあったりするが、彼女はこれをほぼ毎日こなしている。
彼女はさして疲れを感じていないようだが、こうした疲労は知らぬ間に蓄積されるものだ。
まして、ここ最近の彼女はヴァレットとしての活動がかなり多くなってきている。
先日の銀行強盗事件以降、平赤羽市特有の異能以外の異能による事件も増えてきたからだ。
今はまだ危険はないが、この生活が続けば彼女の身体が持たない日もやってくるかもしれない。
せめてもう少し彼女の理解者が増えれば、負担を軽減する事は可能になるだろうが……。
『それでも、やはり話せないか?』
『……話せる訳、ないじゃない』
それが彼女の素性を明かす事と等しいのであれば、増やせるはずはない。
草薙紫雲の危惧は正しい。
彼女がヴァレットである事を知られれば、それは彼女の身の破滅に繋がるからだ。
現に、彼女の素性を知りたがっている人間が、そうした存在に繋がっている人間がここにいるのだから。
『そうか。……いつまで続けるんだ?』
『続けられるだけ続けるよ』
それはここのところ高い頻度で幾度も交わされているやりとりだ。
草薙命は草薙紫雲がヴァレットであることに思うところがあり、
草薙紫雲はそれを知りながらもヴァレットである事をやめられない。
埋めきれない溝へのジレンマが、二人の間でより深くなりつつある。
だが、この件について私が出来る事は何もない。
これは家族の問題だからだ。
私に出来るのは、精々彼女の正体を知ろうとする他の者達を追い散らすことぐらいだ。
今まで時折そうしてきたように。
『ねぇ、クラウド』
『なんだい紫雲』
男装を解き、少女らしい装いのパジャマに着替えた草薙紫雲が、クラウドに問いかける。
おそらく、その声は、男装している時ともヴァレットの時とも違うものなのだろう。
『……どうなるんだろうね、これから』
『そうだね。まだ例の存在は現れていないからね、予測がつかない』
互いに寝転んだままの、内容的にも口調的にもぼんやりとした会話。
そのぼんやりさは、最大欲求の一つである睡眠欲が彼女達を襲っているからなのか、
彼女達もまたこれから先の事が分からず、不安であるがゆえのものだからなのか。
『現れないならそれに越したことはないけどね』
『そうだね、どの世界にも現れないでいてくれたら、いいんだけど……』
『……その心配をするのもいいけど、とりあえず今の紫雲は明日の新聞配達を忘れずにね』
『……うん、ありがとうね』
深く考え込もうとする草薙紫雲を察してか、クラウドは日常の事柄を口にした。
そして、そんなクラウドの心遣いを理解し、礼を告げた紫雲は眠りに落ちていく。
このようにして彼らの一日は終わる。
時折事件で起こされる場合もあるらしいが、切に願う。
眠りくらいは邪魔しないでほしいと。
慌しい日常を過ごす彼女が全てを忘れられる、唯一の時間なのだから。
こうした日常を一日追ってみて、それを何度も繰り返すたびに私は思う。
草薙紫雲という名の少女は、正義を探求し、皆の平和を願う以外は……ごく普通の少女なのではないか、と。
優しい家族や親しい友人達の生活を愛し、ままならない学生生活に苦悩しながら、そんな日々を清く正しく生きようとしている、嘘の嫌いな少女。
それを彼女は『魔法多少少女ヴァレット』という仮面で覆い隠し、今を生きている。
ヴァレットを含め、この日常は彼女が望んで送っているのだろう。
それでも、ヴァレットという嘘を吐き続けている限り、彼女は幸せにはなれない……私にはそんな気がしてならないのだ。
ヴァレットでさえなければ、正体撹乱という理由がなければ、
草薙家の決まり事による男装も年齢的に無理があるからという形で終わりに出来る。
そうすれば彼女は、幾つかの非日常こそ抱えているが、基本的には普通に生きていけるだろう。
彼女が望んでいない嘘を吐く事無く、ただの……青春時代を生きる少女として。
だが、私にはそれをどうする事も出来ない。
私の仕事は……国から与えられた私の仕事は、魔法多少少女ヴァレットの能力、並びに正体を探る事で。
私は、それを仕事として請け負っている一介の公務員……という名の諜報員、国に仕え続けている忍に過ぎないのだから。
ヴァレットの能力は、あまりに強い。
個人が持つには大きすぎるほどの力だ。
彼女がその気になれば凄まじくとんでもない事が出来るのは、市民ですら理解している。
そんな彼女を国が、政府の人間が放置する理由はない。
ゆえに、警戒する政府の一部の人間が、国家の危機を回避すべく、彼女に首輪を付けるべく正体や弱点となるような能力の詳細を探るように指示を出したもの、それが私だ。
命令を受けて、私はヴァレットを調べ上げた。
自分と同じ、平赤羽市を愛する平赤羽市民にそうする事に躊躇いはあったが、仕事は仕事と割り切って。
そうして彼女を、彼女が関わっていく事件を追う中で、私にも異能が芽生えた。
鍛え上げ、育て上げた忍としての能力や術とは別の……おそらく、十年前に端を発する異能。
それは『透視』の力。
あらゆるものを透かして見る事が出来る能力。
建物を通り抜けて特定の存在を看視し続ける事も、衣服をすり抜けて所持品を見抜く事も、生物の生体構造そのものを見る事も可能な力。
突然発現した能力だったが、使いこなす事は難しくなかった。
自身の身体を知り尽くし使いこなす忍にとって、自分の中から生まれ出たものを使う事など息を吸う事と同じだったからだ。
ただ、正直この力がなければ、彼女の正体の確信を得ることは出来なかっただろう。
この能力を使わずに調査し始めた当初は、彼女に察知、警戒されてろくに近づく事すら出来なかった。
草薙家の末裔として磨き上げられてきた能力は、それほどまでに凄まじかった。
だが、気配を殺した上で、かなりの遠距離からでも『見通す』事が出来る能力を使い出して以降は、近付かずとも観察が可能になった。気付かれないようになった。
流石の草薙紫雲=ヴァレットでも気配を捉えるには遠距離過ぎる事や、
彼女が害意に敏感過ぎるあまりにその他には若干無意識に警戒を緩めてしまう事、
この異能が外界に強く働きかけるようなものではない事がそれを可能にした理由と推察される。
そして、私に彼女の正体を知って悪用するようなつもりがない……正体を報告するつもりがなくなっていた事もそこには含まれるだろう。
彼女の正体が、政府内に存在する、一部の心無い人間に知られたらどうなるか、など想像に難くない。
彼女の能力を好き放題に利用する以外の何があるというのか。
そうなれば、純粋な正義を信じる彼女はどうするのか、どうなるのか。
……いずれにせよ、その末路は誰にとっても大きな悲劇と危機を招きかねない。
だからこそ、私は既に把握している彼女の正体をあえて伝えていない。
大体うら若き乙女を好き勝手に利用するなんて、性質の悪い悪役のすることだ。
私はそんな格好悪い大人であるつもりはない。
……いい歳をした男が少女を付回しているのがどうなのかは置いておこう。仕事だから。あくまで仕事だから。
だが、私に出来る事は、その位でしかない。
……もっとも、私の直属の上司がおそらくそんな諸々を見抜いて笑顔で了承してくれているからこそ可能な事だが。
所詮お役所仕事な私にはこれが限度で、限界だ。
彼女の幸せは、彼女自身でどうにかしてもらう他ない。
他に出来る事と言えば、彼女が幸せになる事を願う事ぐらいだろうか。
いや、あともう一つあるか。
「……今日もご苦労様だな」
真夜中、そんな嘆きをコンビニで買ったビール片手に公園のベンチで飲み干していると、隣に男が一人座ってきた。
知らない人間ではない。
最近知り合った、利害関係の一致している存在だ。
「菫の花は、今日も咲いていたか?」
「ああ、綺麗に咲いていたさ」
「……花壇にちょっかいをかけるような真似はするなよ?」
「分かっているさ」
私がそう答えると、男は満足げに頷きながら書類を手渡してきた。
「これは?」
「花壇を……土地を所持している連中が満足するような資料だ。それでご機嫌をとっておいてくれ」
「分かった。……このままでいいのか?」
「何がだ?」
「花は咲き続けられない。いつかは……」
「なに、大丈夫さ。その花は枯らさない。
そして、本人も咲き続ける事を望んでいるだろうからな」
それは、そのとおりなのだろう。
彼女は自身の夢を追いかけているだけだ。
追いかける事に疲れ果てたとしても本望だろう。
だが、そうして追いかける夢と彼女の本質が完全に一致しているかは別問題だ。
限りなく近い形だったとしても、完全に一致しないのであれば、その僅かな歪さは彼女を苦しめるだろう。
そう、今現在も彼女の青春を脅かしているように。
「じゃあ、私は行く。
これからもウィンウィンの関係でよろしく頼む。
今後もいい仕事を期待してる」
だが、そうして立ち去っていく彼を……岡島財閥総帥、岡島黄緑を止める事は私には出来なかった。
彼の存在や行動彼女を助けているのも事実であり、
私が今ここで危惧を口にしても、おそらく彼の行動に変化はないのだから。
彼にとっての最優先は……平赤羽市の発展なのだから。
思う事はないでもない。だが。
「……ああ、私は私の出来る仕事(こと)をやろう」
結局のところ、そういう事だ。
彼女も、彼も私も、それぞれの出来る事をやるしかないのだ。
例え、その先に何が待ち受けていたとしても。
私の出来る事など限られている。
まして、彼女という他人に……実際には殆ど会った事もない人間に出来る事なら尚更に。
祈る事と……あとは、信じる事だ。
正義の味方という夢を追いかけている少女が、大人が勝手に練り上げている理不尽を吹き飛ばしてくれる事を。
もしそれが裏切られたのだとしても、それはそれで仕方のない事だ。
その時は一緒に酒を飲むのも悪くない。
それもまた人生だ。
そうした諸々を、私は再度ビールと共に飲み干した。
そのついでに見上げた夜空に、星は見えなかった。
……続く。