第6話(後編) 変わりゆくものと挑戦者達
「……本当に異能が使われているというのなら、私が行くべきですね」
黄緑の言葉……今現在、平赤羽市で起こっているという銀行強盗……を聞いてヴァレットは呟いた。
事件が起こっているのが黄緑の語ったとおりに駅前だというのなら感知可能圏内……つまり、ここでなら概念種子の発生を感じ取れるはずだ。
だが、今はそれを感じられない。
つまりは、概念種子に寄らない異能による事件、という事になる。
表立って概念種子ではない異能を使う存在……俄かには信じがたい。
そういう技術を持っている人間は、その手の技術の露見や流出を嫌っているものが圧倒的多数だからだ。
そもそも、科学全盛の現代において魔術などは異端であり、その使い手たちもそれを理解している。
隠さなければいけないから隠しているのではない。隠していた方がこの現代社会において都合がいいから隠しているのだ。
そんな事に頓着しない人々も確かにいるが、その大半である『技術をただ知っている、ただ使っている人々』は、そうした『異端技術の社会』の暗黙の了解に従っている。
従っていないもの……主に犯罪などに使う者にしても、そういうものが存在していないと決めて掛かられる方が都合がいいと考えているものが圧倒的多数だろう。
存在していない技術だからこそ出来る悪事があり、紫雲もそういった事件に何度か遭遇し、その解決に奔走した事があるから分かる。
ゆえに、表立って異能を使うものなどそうはいない。
概念種子の異能とそうでない異能、両方を駆使しているヴァレット本人にしても、概念種子の暴走体などが時と場所を選ばずに活動し、それを隠蔽する手段がないがゆえに結果として目立ってしまうだけだ。
草薙紫雲がヴァレットと名乗り、市内平和・正義探究を標榜するのは、そんな状況下において騒ぎは隠せないにせよ、せめて活動目的を可能な限り明らかにし……信じてもらえるかどうかはともかく……混乱や恐怖を少なからず軽減させる為でもある。
そういった状況などを抜きにすれば、ヴァレット=紫雲自身は異能の秘については拘らない方だと自覚しているが、それはそれ、異能について殊更に喧伝するつもりはない。
……そう思っている反面、困っている人を助ける為になら異能を使う時や場所を選ぶつもりはあまりない自分のエゴイストぶりにうんざりする事もあるのだが。
閑話休題。
ともかく、そういった事から表立って異能を使う存在は現れ難いはず。
それが現れているというのなら、いかなる事情があるのか……情報が少ない現状では推測も難しい。
しかし、それはそれ。
異能の使い手が罪を犯しているというのなら、放っておくわけにはいかない。
「ではすみませんが席を外します」
「待て、ヴァレット。
現段階では情報が少なすぎる。
今の状況や相手の能力の傾向を知り、対策を練ってから向かうべきだ」
黄緑の言葉に足を止めたヴァレットは、いえ、と小さく頭を振った。
「私もそうすべきだとは思います。
しかし、銀行強盗という事は、犯人達は武器を持っているはずです。
しかも異能による武装という可能性が高い……警察の方々には不慣れな相手です」
ヴァレットは、平赤羽市の警察を強く信頼していた。
それは、紫雲として、あるいはヴァレットとして、彼らに接する機会が度々あり、
それらの際に警察としての能力や意識の高さを見せてもらっていたからに他ならない。
たまに自分(ヴァレット)を追いかけてくる警官もいるが、それも警察の仕事、正義感の顕れゆえのこと。むしろ当然の事だ。
都合上、捕まるわけにいかないのが心苦しい位なのだ。
しかし、そんな彼らでも出来ない事、というより不向きな事がある。異能絡みの事件がそうだ。
概念種子の事件は突発的な事が多く、動くのに事前の段取りが必要とされる事も多い警察では初手が遅れてしまうことがある。
それは警察が組織である限り致し方のない事なのだ。
さらに、概念種子に関係なく、異能は本来世界の陰側の技術だ。
ここ、平赤羽市では概念種子の活動が活発になるにつれて、陰と陽が曖昧になりつつあるが、陽の技術しか知りえない警察では対応出来なくて当然。
スキーの道具を持たずに、スキーをしようとするようなもの、と言えるかもしれない。
今回は概念種子によるものではないようだが、そうでなくても異能相手は難しい。
「基本、異能には異能を持って相対すべきです。
そしてそれは後手になればなるほど不利になります」
そして、異能と一口で言ってもその分類となれば多種多様、様々なものが存在している。
その中でも使用難度が低い初級の術でも、術の方向性や使い方次第で想像を絶する結果を引き起こす事も出来るのを紫雲は知っている。
異能者犯罪への対抗として草薙家に依頼があり草薙紫雲として対峙した術者にも、そういった者がいた。
その術者……魔術師が使用しようとしていたのは、魔力による干渉で物質などの構造を変化させる「変化」という魔術。
それは、ただ使う、使えるというだけならばさほど難度の高い術ではない。
問題なのは、その魔術師が結界で自身の魔術の増強を行った上でそれを空気に対して使用しようとした事だった。
空気中の酸素分子を取り出し増殖、生物に対して有害な物質を作り上げ、結界内の人間含む多数の生物を殺害、それを生贄に捧げる事で異界の存在を召喚しようとしていたのだ。
不幸中の幸いで、作ろうとしていた結界が隠匿効果を含めた大規模なものだった為、
前準備段階で状況に気付く事が出来、その魔術師が事を為す前に捕縛できたので事なきを得たが、
もし発動していたら想像するも恐るべき事態になっていただろう。
比較は出来ないが、そういった前例を踏まえると、今現在はそれほどの大規模な術は展開されていないのだろう。
そも、日頃街をパトロールして回っている際、ヴァレット=紫雲がそういったものも警戒しているのだ。
そういった大規模な術式の兆候など『草薙紫雲』は使用できないが、知識としては備えているので、それらの術を防いだりする事は十分に出来る。
だが、それはあくまで現段階に過ぎない可能性もある。
今現在行われている事が、大規模な術への前段階に過ぎない、という可能性もなくはないのだ。
そんなヴァレットの警戒を知ってか知らずか、黄緑は大きく頷いた。
「分かっている。もう少しだけ待ってくれ。……そろそろだからな」
そう言いながら黄緑が携帯端末を取り出した直後、着信を告げる音楽が鳴り響く。
彼は満足げな顔を浮かべながら電話に出た。
「私だ。
……そうか。ああ、手早い仕事助かるよ。ボーナスは弾もう」
そうした短いやり取りを終えた後、黄緑は自身のデスクに戻り、備えつきのパソコンを操作した。
すると、これまた備えつきのプリンターから何枚かの何事かを書かれた紙が数枚ほどプリントアウトされていった。
「岡島さん……?」
「待たせたな。情報がある程度集まった」
何が起こっているのか分からず窺うように尋ねるヴァレットに、黄緑はプリントアウトした紙束をペラペラ振って見せた。
「情報……どういう事ですか?」
「なに、うちには優秀な保険調査員がいるんでね。
異能保険を作るからには、専用の調査員が必要になるだろう?
だから、全国各地を探し回って、それなりの人材を集めているのさ。
彼らには保険の対象者絡みの調査の他、異能関係で色々と動いてもらっている。
今回も事件が起こってすぐ動いてくれているだろうと確信していたが……ああ、心配ない。怪我などはないさ。優秀だからな」
「そう、ですか」
少し表情を曇らせたヴァレットの発言を先回りして、黄緑が言う。
まさに考えていた事を言い当てられて、ヴァレットは僅かに驚く。
……まぁ、彼と出会って以後そういう事はしばしばあったので当初ほど驚かなくなったが。
「それより、調査で色々な事がわかった。
情報を元に作戦を練りたいと思うんだが、手伝ってくれないか」
「それはむしろ私の言葉なんですが……いえ、というより」
「言っておくが、俺達を巻き込みたくない、情報だけ欲しい、という意見なら却下だ。
この情報が欲しければ俺達を巻き込め、ヴァレット。
……俺だって我が愛すべき平赤羽市民を守りたいんだ」
情報や協力はありがたい。ありがたいが危険な状況に『誰か』を巻き込みたくはない。
そういったヴァレットの基本的な心情を先程同様に見抜いた上での言葉に、ヴァレットは数秒瞑目し、思考する。
だが、この状況下では答は一つだけだった。
「……分かりました。岡島さん達の力、お借ります」
現状は長々悩んでいられる状況ではないし、情報は必要だ。
思考は数秒だが、ヴァレットとしては熟考した上での苦渋の決断を下す。
それを後押ししたのは……黄緑の『市民を守りたい』という自身と同じ思いだった。
「立て篭もっている者達に通達する! 今すぐ武装を解除して投降しろ!」
平赤羽市の中心街、その大通りに面している銀行の前にはライオットシールドを持った警官隊が居並んでいる。
その中からスーツ姿の男性が……当然ながら彼も警察官で、現場指揮を行っている……が拡声器を使って呼びかけていた。
先程から数分おきに勧告が繰り返されているのだが、一向に動きはない。
「……中の状況はまだ調べがつかないのか?」
「残念ながら。どうやっているのか、僅かに近付いただけでも感知され、うかつには近づけない状況です」
勧告を行っていた男が、近くにいた警官に問うもソレに対する答えは芳しくないものだった。
「どうなってんだ……」
このような大規模な事件こそ初めてだが、ここ平赤羽市では日常茶飯事になりつつある異常な事件に対抗すべく様々な訓練を常日頃から行っている。
銀行強盗なども想定の範疇内であり、マニュアルも作っていたのだが、そのことごとくが通用しない現状に男のみならず警官隊は焦りを感じていた。
近くにいた無関係の人間達はどうにかこうにか避難させたものの、現在進行形で事件が起こっている現場の事を把握できていないのもそれをより引き立てていた。
「中にいた職員達全員の無事は確認できたか?」
「殆どは避難していたようなのですが、職員全員の無事はまだ確認できていません」
「……そうか」
そもそも、この強盗事件は初っ端からおかしかった。
いきなり押し入った強盗達は、今から強盗すると堂々と告げた上、職員や客が警察を呼ぶのも気にも掛けず、銀行の中へと押し入っていったという。
その際、デモンストレーションなのか、威圧目的なのか、手から炎や吹雪を出したりしていたらしい。
そう、手から、だ。
銃器やスプレー缶を使った即席火炎放射器などではなく、手から直接。
目撃していた人々によると、そういった武器こそ持っていたが、それは全く使っていなかったらしい。
俄かには信じがたい所だが、ここは平赤羽市なのだ。
常日頃から様々な怪人や化け物が、それらを撃退している不思議な力の使い手も当たり前に目撃されている。
一般市民だけではなく、最早警察でさえそれらの存在を信じざるを得ない異常な街、それが今の平赤羽市なのだ。
その証明と言わんばかりに完全に氷で覆われ凍結されている銀行の入口が、その事を改めて警官達に認識させていた。
だが、そうだとしても、だ。
それを前提したとしても、今回の状況は初めてとしか言いようがない。
奇妙な能力の使い手複数人が同じ目的……犯罪の為に行動を共にして、明確に目立っても構わないとばかりに動いているのは。
そんな初めてづくしの状況に警察が戸惑っている中。
「っ!?」
唐突に凍結されていた銀行の出入り口……自動ドアが炎に包まれる。
直後、氷が解け落ちたドアから悠々とした足取りで数人……いや十人ほどの黒い覆面の男達が現れた。
彼らの手には情報どおり銃器……何処から持ち込んだのかこの国には似つかわしくないマシンガンなど……があり、
それらを持っていない数人は、現金がつまった……これみよがしに溢れさせているようにも見える……バッグやケースを手にしていた。
「……投降する気になったか?」
あまりにも堂々と現れた為、皆呆気に取られてしまう。
だがいつまでもそうしてはいられないと勧告を続けていた男が、拡声器を使って話し掛ける。
すると、一歩前に進み出た男達の中で一際身体が大きな人物……何故かその一人だけ目立つ赤いマスクをつけている……が答えた。
「さっきから勘違いも甚だしいな。
俺達は立て篭もっていたわけじゃないし、投降のつもりもない」
「そうだそうだー」
「リーダーの言うとおりだぞー」
どうやらリーダー格らしい男の言葉に、他の男達が囃し立てる様に言葉を続ける。
「俺達は銀行の中身をじっくり物色していただけだ。
んで、それも一段落ついたからそろそろドロンしようと思って出てきただけだぞ。
しかし……おーおー凄い包囲網だなぁ」
全く包囲に動じていない様子のリーダー格に、呼び掛け続けていた男は内心動揺する。
だが、それを押し隠した上でリーダー格に再度話し掛けた。
「投降する気は、ないんだな?」
「ああ、ないぞ」
「ならこちらは実力行使に出るぞ。発砲もする」
「お好きに」
「……」
どうやら本当に投降するつもりはないらしい事、人質の類はないらしい事を確認し、男は周囲に目配せした。
直後、声なき命令を察して周囲の警官達が盾を掲げて突撃を開始する……だが。
「なっ!?」
「ぐぅっ!?」
警官達は見えない何かに阻まれてある程度の距離……十数メートル以上は近づけなかった。
見えない何か……それは風。
男達から警官達に対して吹きつける強風が、彼らの前進を許さなかった。
先程から幾度か警官達の接近を阻んでいるそれが、目の前の人物達によるものだと警官達は確信する。
何故なら、苦闘する警官達を、彼らはさも当然とばかりに余裕の笑みを浮かべている以外は何の反応も見せず眺めていたからである。
「止むを得ないか……! 発砲するぞ!」
出来れば使いたくなかったが、と男は懐から拳銃を抜き放ち、リーダー格の脚を狙って発砲する。
だが、そうして撃ち出された弾丸さえも強風の前に阻まれ、虚しい金属音を響かせながら地面に転がるのみだった。
「なっ!?」
「無駄無駄。そんな普通の武器じゃ俺らをどうともできやしないぜ」
「全くだぜ」
諦めずに近付こうとする者や、幾度か躊躇いながらも発砲を続ける警察の悪戦苦闘ぶりを風の壁の向こうで自慢げに笑い続ける男達。
その様子に男を始め、警察の人間は唇を噛み締めた……その時。
「……では、これはどうですか?」
風のように爽やかな、凛とした声が響き渡る。
それは、決して大きくはないのに、その場全体に行き渡るような不思議な……魔法のような声だった。
その声が響くと同時に、自慢げにしていたリーダー格の男の身体に、上空から伸びてきた紫色の光の縄が巻き付かれる。
『「なっ!?」』
未だ風の防壁は警察の前進を阻んでいる。それをまるでものともせずに貫通して男を『掴んだ』光の縄は蛇のように動き、男の全身をより強く拘束する。
それを為した存在を確認すべく皆が見上げた空に、彼女はいた。
「あれは……! ヴァレットかっ!」
そう、最早平赤羽市に知らない者はいない、そう言っても過言ではないだろう存在。
警察では存在や扱いについて未だに決めかねている奇妙で異質な……市民は正義の味方だと認識している存在。
そんな存在である所の魔法多少少女ヴァレットが、一体いつからかそこに……空に浮かんでいた。
この場での指揮を取っていた男は、驚きとも喜びとも自身さえ分からない声を上げながら彼女の姿を眺め……何か違和感を覚えていた。
「魔法多少少女ヴァレット、市内平和と正義探究の為、参上しました……!
風の防壁術を仕込んだ道具を所持しているようですが……」
そんな違和感など知る由もないだろう、いつもより低いトーンの名乗りと共に現れたヴァレットは、自身の指から伸ばした光の縄を維持したまま警官達の前方に降り立つ。
直後、彼女は光の縄と繋がっている腕を天を指差すような所作で振り上げた。
「ひぇぇえええっ!?」
ヴァレットの動きに連動し、縛られたままのリーダー格の男は空へと引き上げられ……警官達が一番密集していた場所へと放り落とされた。
その際、男の懐から淡い光を放つ、緑色の宝石が転がり落ちる。
「その程度であれば、私の魔法を阻害する事はできません。
……横からしゃしゃり出てきて申し訳ありませんが、そちらの逮捕をお願いします。今なら危険はありませんので」
「すまない。……確保っ!」
「了解っ!」
「っしゃぁっ! てめ、こら調子こきやがってっ!」
「神妙にお縄につきやがれっ!!」
「ぎゃああっ!?」
現場指揮をしていた男は、話し掛けてきたヴァレットに頷きつつ指示を出す。
それにより周囲の警官達は今までの鬱憤を晴らす勢いでリーダー格の男に覆い被さっていった。
ヴァレットはその様子を確認し、男へと伸ばしていた光の縄を霧散させ、改めて未だ風の防壁の向こうにいる男達に向き直る。
「はっ、ボスの予想通り出てきやがったな!」
「これでも喰らえっ!」
リーダーを捕えられた筈の男達は微塵も動揺を見せず、手から次々と炎を解き放つ。
その狙いは当然というべきかヴァレット。
彼らを守っていた風の防壁はその向きを変え、男達の放った魔術をその流れに乗せた。
そうして射出速度を上げられた魔術は、ヴァレットにあっさり直撃、その証明とばかりに衝撃音を撒き散らす。
「はっ! まともに喰らいやがった……!」
「避けられないでやんのー!」
「そうでは、ありません」
その様子に男達が歓喜の声を上げるも、即座にそれを否定する声が爆発の向こうから響く。
全く動じていない声の主は、魔術が直撃したはずのヴァレット自身。
「避ける必要がないので、避けなかったまでです」
男達が放った炎は、彼女に何の影響も与えていなかった。
何かを焼け焦げさせるどころか、何かを燃やす臭いさえ残して、発していない。
「これが貴方達の最大攻撃手段ですか?
そうであるのなら、もう投降すべきだと思いますが」
「う、うっせぇ、ならこれはどうだよ!」
淡々と告げるヴァレットとは対照的な焦りの声と共に数人の強盗が、手にしていたマシンガンを彼女へと解き放つ。
これもまた風に乗せて運ばれた為に速度や威力は通常の銃弾を上回っている。
そんな銃弾の暴風が彼女へと何の遠慮も容赦もなく吹き荒れた。
「なっ!?」
「ぃっ!?」
様々な騒動を見慣れていた平赤羽市の警官達も、咄嗟に何か反応する事さえできず、驚きの声を上げるのみだった。
強盗達にしてみればそれが当然で、いかにヴァレットが魔法の使い手でも無残な姿になるしかないという確信しかなかった。
だが。
「……ふぅぅぅ」
連続した銃撃音の後、その確信は覆された。いとも簡単に。
ヴァレットは……立っていた。先程同様に何事もなかったかのように、平然と。
彼女は、素手で掴みとっていた銃弾の全てを、息を吐きながら地面に零し捨てる。
連続する軽い金属音と共に転がっていく銃弾を目の当たりにして、強盗達は驚愕した。
「なぁぁっ?!」
「嘘だろっ!?」
「これが本物の魔法ってことかっ?!」
「……違います。この程度なら、魔法や魔術を使わずとも十分に対処できます」
ヴァレットは、自身の背後にいた警官達に怪我はないか確認した後……彼女としては全て銃弾を掴み取ったつもりだったが念のために……眼を細め、冷たい視線で強盗達を眺めながら告げた。
「魔術道具もですが、こんな危険な武器まで使用するなんて……貴方達、覚悟は出来ていますか?」
「ひぃっ……!」
「それはこっちの台詞だぜ、ヴァレットさんよ」
そう言いながら、銀行の奥から新たに一人、男が現れた。
彼は手にした銃をヴァレット、ではなく、自身が抱きかかえている女性所員……銀行の制服を着ていたので明らかである……のこめかみに突きつけていた。
「人質の命が惜しかったら、抵抗をやめな」
「……やはり、指示役が別にいましたか」
ヴァレットの呟きで、現場指揮をしている男は理解する。
先程ヴァレットが捕まえた赤いマスクの男は囮であった事に。
注意を向けやすいように彼だけ目立つマスクをつけ、本来のリーダーは状況の推移を見守っていたのだ。
そして、ヴァレットに対して自分達の武器が有効打にならないのを確認して、本当の有効打を伴って今現れた、という事なのだろう。
最初からこの状況になるのを見越した上で。
「見抜いてたか。
へぇー……やっぱ、力を手に入れて調子こいてる小娘、じゃないな、お前。
そりゃあ素人じゃ敵わないわけだわ」
「貴方、自分のやっている事が分かっているんですか……?」
静かに、それでいて誰にでも怒気が感じられる言葉を放つヴァレット。
しかし男はそれを意に介した様子もなく悪びれず答えた。……人質に、銃をより近く押し付けながら。
人質の女性は「ひっ」と声を漏らし、その顔を恐怖に引き攣らせる。
「ああ、銀行強盗やって、面倒臭い状況になったから人質とって逃走だよ。他に何がある?」
「……。そうですか」
女性が怯える姿を見て、ヴァレットは今にも飛び掛らんとしていた自身の構えを解いた。
その様子を満足げに眺めた男は、僅かに後方に下がり、彼女との距離を取りつつ、続けて周囲へと声を上げる。
「さっきの言葉はヴァレットだけに言ってるんじゃないんだぜ?
警察でも誰でもいい、この女の命が惜しかったら逃走に適した乗り物をよこしな」
「……分かった」
現場指揮をしていた男は歯噛みして頷き、近くにいた自身の部下に車両の準備を指示した。
そうしながら、内心でヴァレットに対して怒りにも似た文句事が浮かんでいる自分自身に苛立っていた。
彼女は指示役が別に存在している事を見越していたという。
であるなら、それを想定した動きをするべきだったのではないか。
人質の存在が明らかになるまで犯人達を刺激するような動きをするべきではなかったのではないか。
あるいは自分達になんらかの……それこそ魔法でも使って情報共有すべきだったのではないか、と。
……だが、分かっていた。
それはただのイチャモン染みた意見でしかなく、彼女が来るまで状況の好転はおろか、動かす事すら出来なかった自分達が抱くべき感情、言葉ではないという事を。
「へ、ざまぁみろってんだ……ボ、ボスぅ、早く俺を解放するように言ってくれよ」
リーダー格と見せかけていた男……警官達に押し潰されたままだった……が、声を上げる。
しかし、ボスと呼ばれた男は非情な答を返すのみだった。
「そんな義理はないな。
ったく、あっさり捕まりやがって……ソイツは煮るなり焼くなり好きにしていいからな」
「そ、そんなぁっ!?」
「そんなもクソもあるか。隙を見せた馬鹿の自業自得だ。
さーて、逃走をただ待ってるってのは暇だしなー」
言いながら周囲に探るような視線を泳がせた男は、最終的にそれをヴァレットで停止させる。
そうして、彼女の身体のラインをなぞり上げるような、纏わりつくような視線を送った後、事も無げに呟いた。
「そうだなぁ。ヴァレット、この場で脱衣ショーやってくれよ」
『っ!?』
「なーに、逃走までの余興だよ。俺はそれをじっくり撮影させてもらう。
……お前らは、見物の片手間でいいから金を積む準備をしてろ」
「了解っ」
「いい見世物ですねぇー、そいつぁ」
「いやー、さっき殺さずに済んでよかったぜ」
「全くだ」
彼らの言葉に誰もが動揺する中、ボスの眼を見て、現場責任者の男は直感した。
この男は短絡的に何かをやらかすタイプの人間ではない。理性的、計画的に事を動かすタイプの人間だ。
幾つもの事件において、そういう類の人間を何人か逮捕した事のあるからこそ分かる。
こういった人間は、一つの行動に複数の意味を持たせ、それにより自身の狙いを着実に成功へと近づけるのだ。
あの粘っこい視線からしてヴァレットの身体に欲情しているのは事実だろうが、実際には逃走まで自身達への注意を引き下げる餌にするつもりなのだろう。
この状況を打開しうる可能性を持つヴァレットの動きには警察としても意識を向けざるを得ない。
そうして向けた先にあるモノが若い女性の裸身であれば男としては……それぞれの好みや例外などもあるだろうが大多数は……少なからず心乱されるものだ。
勿論警察というプロである以上、意識してそういった思考を封じる事が出来るだろうが、それも完全とはいかないだろう。
なにせ、意識を向けざるをえない対象がヴァレットなのだ。
平赤羽市の警察では奇妙な事件の解決の際に彼女と協力し合った事が幾度かあり、それゆえにこの街の警察官は彼女に対して好悪交えた様々な思いを抱いている。
そんな彼女の危機に何も思わない者は、決して多くないだろう。
そうして、否が応でも視線を向けざるを得ないものをそこに置く事で、逃走までの準備を少なからず分かり難くする……それこそがボス格の男の狙いに間違いあるまい。
男達の死角から僅かでも距離を詰めようとしている警官達が、さきほどより距離を詰められないでいる事がその証明だ。
先程目算で確認していた【移動限界】が更に広くなっている。
ヴァレットの言っていた風の防壁術がより広く展開されているのだろう。
元より影響を受けない可能性が高いヴァレットではなく、警官達の動きをより確実に封じる為に。
(なんて卑劣な……!)
そう考えると、男には怒りしか沸かなかった。
先程まで僅かにヴァレットに対して向けてしまっていた漠然とした苛立ちが反転していた。
そんな自身の身勝手さは承知だが、それでもやはり怒らずにはいられない。
彼女のような乙女の肌を、こんな場所で晒すような真似など許せるはずもない。
そんな怒りの篭った男のみならず警察官達全体の視線を知ってか知らずか、ボスの男は飄々と言葉を続ける。
「従わなかったらどうなるか、分かって……」
「分かりました。では、何処から脱げばいいんでしょうか?」
【「『なっ?!』」】
ヴァレットは、そんな卑劣な要求に対し、あっさりとした言葉で答えた。
それにむしろ驚いたのは警官達であり、強盗達であった。
ボス格の男もそれには少なからず驚かされたらしく、僅かにマスクの穴から覗かせている目を見開かせていた。
「は、サバサバしてんね。お前、恥じらいとかないの?」
「人の命と私の羞恥心。どちらが重いか、比べるべくもないと思いますが」
淡々としたままで口調でヴァレットは語る。
いや、淡々とした、どころではない。彼女の表情も言葉も冷たさすら感じるものだった。
それは、今までメディアが断片的に接触して報じてきた『魔法多少少女ヴァレット』からはかけ離れたものだった。
これまでの彼女は、不思議な事件に巻き込まれた誰かへ気遣うためのあたたかい表情を向け、礼を告げられて照れ笑ったりなど、真面目さの中に感情を垣間見せている、そういう印象だった。
だが、今は違う。
これまでが竹刀だったとすれば、今は抜き身の真剣のような、冷たさと鋭さ、危険さを兼ね合わせた雰囲気を纏っていた。
遠巻きから眺めていた警官達やボス格以外の強盗達は、彼女が発しているソレに気圧される。
だが、強盗達のボスは理解していた。
それが真剣だとしても、当たらなければ、振るわれなければ、どうという事はない、と。
「……まぁ、いいや。
脱いでくれるんなら、俺としては問題ない、というかむしろありがたいしー?
というわけなんで、お好きなところから脱いでくれていいぜ。
言っとくが、俺以外の奴は撮影するなよ? コイツは今後の飯の種になりそうだからな。
もし俺以外にカメラを向ける奴が一人でもいたら、人質を殺す」
「そ、そんな……ひどい……」
「あ?」
ボス格の男の要求に避難の声を上げたのは、その腕の中にいる人質の女性だった。
彼女はガタガタ身体を震えさせ、眼鏡の奥に涙を浮かべながらも言葉を続けた。
「ひ、人質の、私がいればいいでしょう……?
か、彼女をヒドイ目にあわせるなんて……うぅっ」
自身が人質に取られたせいで警察もヴァレットも身動きが取れずにいるのだ。
だがかといって、自分が殺されてもいい、などとは簡単に口には出来ない。
そんな自分が情けなくて、不甲斐無くて……せめてもの勇気を振り絞って、彼女は声を上げたのだ。
だが、そんな彼女の勇気は、男には何も響きはしなかったらしく、彼はむしろ彼女をせせら笑うような表情を形作る。
「おーおー、中々勇気ある女だなぁ。じゃあお前が代わりに……」
「その必要はないでしょう。
というより、彼女をそうさせるのは貴方に隙が生まれるだけだと思いますが」
代わりに脱ぐか、という男の提案を遮ったのはヴァレットだった。
実際、彼女の言葉は間違っていない。
抱きかかえた人質の衣服をどうにかする場合、男自身には少なからず隙が生まれるだろう。
「はっ、馬鹿だねぇ、お前」
だが、それを忠告する事で、ヴァレットは彼女が突くべき【隙が生まれる瞬間】を自ら潰した。
おそらくは人質である女性をこれ以上辛い目に遭わせない為に。
事前分析どおりの心底からの御人好しぶりを……男からすれば愚かでしかない彼女の行為を、彼は笑った。
(……まぁ、だからこその計画だしな)
この銀行強盗計画は、100%逃走可能である事を確信した上で実行したものだった。
逃走の邪魔をするのが警察だけなら手に入れた魔術道具を使い、
万が一……いや百が一位で現れると見越していたヴァレットに対しては人質を使い、
途中までは警察が準備した車両を、途中からは最初から準備済みの別車両に乗り換えて、捜査を撹乱しつつ逃走する……そう出来る確信が男にはあった。
警察は魔術という未知の前には何も出来ない。
ヴァレットは恐るべき脅威だが所詮は正義の味方を気取った小娘。
やり方としては美しくないが、最悪目の前で人質を殺せば動揺して何も出来なくなるだろう。
(どうやらコイツ、想定以上に肝が据わってるようだが……それでもな)
ヴァレットが底抜けの御人好したる正義の味方である以上、自分達の優位は揺るがない。
そんな絶対の自信ゆえに、男に恐れはなかった。むしろ楽しくてたまらない、とばかりにヴァレットに命令する。
「さぁ、脱げよ」
「言われるまでもなく」
ヴァレットは、スル……と最小限の動きで纏っていたコートを脱ぎ、地面に置いた。
「へぇ……いいねぇ」
ただ一枚コートを脱いだだけであるにもかかわらず、
その際の流れるような所作や彼女の女性的なボディーラインが露になる様子は、何処か艶やかさを感じさせるものであった。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ……ヴァレット……!」
強盗達の下卑た視線がヴァレットに注がれるのを目の当たりにして、女性は涙を流し、目を伏せた。
彼女は明らかに自分を庇ってそうなっているのに、自分は何も出来ずにいる……その事が悔しくてたまらなかったのだ。
正直目を背け続けていたかった。
だが、自分が背け続けるのはやってはいけない事のような、そんな気がして女性はおそるおそるながらも再びヴァレットに目を向ける……その瞬間。
(……え?)
それはほんの一瞬だった。
自分とヴァレットの目が合った瞬間……その瞬間だけ、彼女は何処か、困ったような、申し訳なさげな視線を彼女に送っていた。
それでいて、大丈夫、と語っているような穏やかな、状況にそぐわない微笑みのようにも……少なくとも女性にはそう見えた。
「ほらほら、焦らすなよ。皆先が見たいんだぜ」
だが、それはやはり気のせいだったのだろうか。
男の声に気を取られた後、再度視線を向けると彼女は無表情に脱衣を再開しようとしていた。
「……」
無言のままヴァレットはトップスであるタートルネックの裾に手を掛け、捲くり上げていく。
下には何も着ていないらしく、彼女の白い素肌が徐々に外気に晒されていく。
「いいぞいいぞー!」
「早く胸見せろ〜!」
その様子に、興奮した強盗達が声を上げ、警官達は唇を噛み締める。
そして、ついに彼女の、女性の象徴たる柔らかな膨らみの下部がボスのカメラに写された……まさにその瞬間だった。
「っ!?」
「なに?!」
「なんだっ!?」
「何かと思えば、ヘリだと……逃走用、ってわけじゃあないよな」
急接近してきた轟音に、その場の誰もが見上げた上空には、一機の大型ヘリがあった。
その外見は遊覧や撮影などに使われるものではなかった。
カラーリングや形状は軍などに使われているタイプのものに近い……そうして突如現れたヘリをボスが分析していると。
『よぉ、強盗さん方、小さい犯罪だな』
そのヘリから、見ただけで上等だと分かる身奇麗なスーツに身を包んだ一人の男が、身を乗り出して拡声器から声を発していた。
『私は、岡島財閥総帥、岡島黄緑。
そんな銀行を襲う事で得られるものより、もっともっと高価なものをプレゼントしてやろう。
……射出っっ!』
男……黄緑の発した言葉の直後、ヘリの真下に繋げられていた複数のコンテナの一つが切り離される。
コンテナはある程度の高さまで降下すると唐突に爆散した。
わけの分からなさにその場の誰もが混乱する中、辺りにコンテナの中身だった様々なものが散らばっていく。
「いたっ……って、これ、ダイヤ?! っうぉっっ!? って、こっちは金塊……!」
「すげぇ、こっちのケースには現金が入ってるぜ!」
様々なものの正体は、現金や宝石類、そういった誰がどう見ても高価だとわかるモノばかりだった。
中身を理解した強盗達が沸き立つ中、彼らの頭上から黄緑が更に声を張り上げた。
『そんなちっちゃい犯罪の為に人質やらは割が合わんだろ。
コイツはくれてやるから、人質は解放してやれ。
それで不満ならまだまだくれてやるぞ……二段目、射出っ!』
続けて二つ目のコンテナが切り離され、一つ目と同様に途中で爆散、またも豪華な雨を周囲に降らせた。
多少警戒していた強盗達の殆ども、今度も高価な品々だった事で気が緩んだのか、逃走準備そっちのけで散らばったものを拾い集めていく。
「うっひょぉ! こりゃヤベェ」
「想定外のボーナスだぜぇ!」
そんな部下達の様子に、ボスは思わず声を荒げた。
「ちっ、お前ら、計画を乱すんじゃねぇ! 拾ってもいいが、まず逃走準備をだな……」
そうして、彼が人質から僅かに意識を離した、その瞬間。
「……かかったな」
小さく呟くと同時に、黄緑がパチィンッと指を鳴らす。
その瞬間、地面に光を放つ線が走っていき、一つの図形を地面に描いた。
地面にいる人々には、一人を除いて全体像を把握できないであろうソレは……五芒星。
そうして、魔力の込められた光線で描かれた五芒星の魔法陣による結界は、完成と同時に白い光を辺り一帯の空間に放った。
『なっ!?』
強盗達が驚きの声を上げる。
光と共に展開された中規模な結界。その効果は……魔術効果の抑制。
魔術の効果を弱め、結び付きを緩める効果は、強い魔術を打ち消す事はできないが、弱い魔術であれば発動すら出来なくする。
その基盤となったのは、黄緑が貴金属などを撒いたのに紛れて結界構築の中心点に放った、結界起動の魔力を込めた宝石。
そうして結界が完成した結果。
「……っ!?」
それまである一定以上は強盗達に近づけずにいた警官達が、一歩踏み出す事に成功していた。
すなわち、風の防壁が消え果ていた。
皮肉な事に、ソレに気付いたのは阻まれていた警官達が先であり、防壁を展開して油断していた強盗達は数秒遅れの認識となった。
そして、勿論誰より早く状況の転換に気付いたのは、彼女に他ならない。
「ライッ!」
あえて服を脱ぎかけのポーズのままで……ギリギリまで従順である事で強盗のボスに刺激を与えず、気を引きつけ、油断させておく必要があった……ヴァレットは呼びかけた。
直後、ボス格の男が立っていた地面近くで何かが光り、その輝きに弾かれたかのようにソレが男の眼前に現れる。
それは【絵筆】。
穂先の部分が光で出来ている、一見すると玩具のようにも見えるモノ。
だが、それが玩具などではないことはすぐさま明らかとなった。
何故なら、普通の絵筆のサイズだったそれは、強盗の眼前で浮いたまま高速回転しながら巨大化していったからである。
「なにっ!?」
成人男性よりも一回り大きいサイズとなった……いや、戻ったソレに男は見覚えがあった。
そう、ヴァレットが飛行する際に乗っている【絵筆】。
(……そうか!)
現場指揮をしている男が納得する。
ヴァレットが現場に降り立った時に違和感を感じたのは、彼女が常に手にしている、あるいは乗っている【絵筆】が存在しなかった故なのだと。
おそらくは、今この瞬間の為にあえて出していなかったのだ、と。
彼は知る由もない事だが、ヴァレットはコートを脱ぐ過程の中で、さりげなく小さくなっていた【絵筆】……ライを地面に下ろし、密かにボスへと近付けさせていたのである。
「はん、そんなこったろうと思ったよ。
絵筆(おまえ)も動くなよ、人質を殺したくなかったらな」
だが、男が呆気にとられたのは一瞬だけだった。
そうきたか、と驚かされはしたが想定のギリギリ範囲内だったからだ。
向こうが何かしらでこちらを動揺させ、人質から銃を離す瞬間を狙うだろう事は分かっていたのだ。
魔術が破られようと焦る事は何一つない。
人質に銃さえ向けていれば、彼女らには何も出来ないのだから。
男はそう確信していた。
「……ええ、そう思うだろうと、思っていました」
そうしてほくそ笑んでいた男の背後から、静かで鋭い……刃のような声が響いた。
「っ!?」
笑みが一瞬で凍りつく。
その声と、ヴァレットが消えている事を男が認識するのと同時に、銃を持っていた手に凄まじい痛みが走った。
「がぁっ!?」
人質に向けられていた銃口は、手首ごとあらぬ方向に捻り向かされていた。
引金に掛けていた男の指も、捻られた彼の手を掴む何者かの手、その指……人差し指と中指に強引に挟まれ、引き抜かれると同時に、指二本だけとは思えない凄まじい力により圧し折られている。
それを為したのは……男の気がライに向けられた一瞬だけで男の背後に回り込んでいた何者か……当然ながらのヴァレットによるものに他ならない。
「て、てめぇっ!?」
ボス格の男は信じられなかった。
状況を覆されないよう、銃と人質には細心の注意を払っていた。
だが、ほんの一瞬……いや、ソレにすら満たぬ隙間程度意識が逸れただけでこの様だ。
文字どおり目にも止まらぬ速さで背後に回られ、人とは思えない剛力により銃が人質に対して使えなくされてしまった。
いや、こうしている間にも既に銃は奪い捨てられ、自身の動きを封じられてさえいる――!
「今ですっ!」
「は、はいっ!」
ヴァレットの声に弾かれるように人質の女性は警官達の方へと駆けていく。
警官達は警官達で、ヴァレットが男の背後に回ったのを認識した時点で……彼女らを距離を置いて見ていたからこそ男より早く状況を認識できた……動き出していた。
女性を確保しつつ、思わぬボーナスによる浮かれと動揺で浮き足立った他の強盗達を簡単に無力化していく。
ボス格の男以外は素人に毛が生えた程度でしかなかった強盗達は、武器を使う間も無く、あるいは魔術を発動しようとしても出来ず、物量と技術の差で押し潰されていった。
やはり平赤羽市の警察は凄い、とヴァレットは彼らの動きに感嘆し、感謝した。
人質救出後、自身も周囲の強盗達を叩きのめすつもりだったが、その必要がなくなったからだ。
「この、化け物がぁっ!」
人質が保護されたのを確認したからか、自身を押さえ込んでいたヴァレットの力が緩むのを感じた男は、強引に彼女の手を振り払い、体勢を整えようとする。
――そこで、疑問が過ぎる。
先程までの恐るべき剛力を考えれば、自分が彼女を引き剥がせるはずはない。
もしかして、緩んだのではなく、あえて緩ませたのではないのか。
男はそう思考しながらも、それでも状況を好転させる可能性は捨て置けず、体勢は立て直さねばならなかった。
そうして疑念を挟みつつ体勢を立て直し、振り向いた瞬間、ハイキックを放ったヴァレットの靴底が男の顔面にめり込んでいた。
そのまま男は誰もいない方向に大きく蹴り飛ばされ、数十メートル離れたゴミ捨て場に叩きつけられた。
脱いだコートを着直しながら、ゴミの中に埋もれていく男に変わらず視線を向け続けるヴァレット……その近くにライが、ヒョコッ、と舞い降りる。
「ありがとう、ライ」
短めな感謝の言葉と小さな笑みを相棒に向けると、彼は光の穂先で構成された、彼にとっての尻尾をブンブンと振って、喜びを表現した。
出来れば撫でて、もっと褒めてあげたい所であったが、そうもいかない事をヴァレットは知っていた。
「うがぁっ! ペッペッ……!」
ヴァレットが感じ取っていたとおりに、未だ意識のあった男がゴミの山から這い出てきた。
自身に纏わり付いていたゴミを払いながら男は彼女を睨みつける。
「てめぇ……読んでやがったのか。最初から全部を……!」
「私だけでは読みきれませんでした。
貴方達をこの場に留めて下さった警察の皆様や、事が起こってからずっと情報を収集してくださった方々のお陰です」
今ここに至る全ては、彼女達がここに来る前に組み上げていた解決策そのままだった。
調査員達の情報……魔術にはしゃいでいる様子やそれを諌める者がいなかった様子……から、ヴァレットと黄緑は、危惧していたような大規模な術への前準備などはなく、彼らが魔術の素人である事を見抜いた。
魔術を当然のように行使できる存在は、これ見よがしに見せびらかすように魔術を使用したりしない。
大多数の魔術師にとって、それは当然の事であり、誇るべき事ではないからだ。
むしろ見せびらかすような輩は、魔術師としての普通の価値観を持った者にとっては忌むべき存在のはずだ。
なにより、調査員によると魔術の使用の際、彼らの身体からは魔力の流れが感じられなかったという。
では何故素人である彼らに魔術が普通に使えているのか……それは魔力が込められた道具によるものだ。
そも、人間が魔術を使用するには様々な修練や知識の蓄積、幾つかの条件が必要となる。
そうした諸々の備えを完成させ、日常的に術を扱えるようになったモノが魔術師なのだ。
なのだが……日常的に術を使える、といっても、それぞれの得意不得意や自身の居る環境による都合もある。
気軽にやりたい事があるのに状況的にできない、そういったことに悩まされるのは魔術師と言えども普通の人々と変わらないのだ。
そうしたものを回避あるいは軽減するために、魔術師は簡易的な術式や魔力を既に組み込んだ道具を使用する事がある。
こうした魔術道具は簡易術式として使用する他、更に強力な魔術を使うための増幅器としても利用出来る。
杖であり、護符であり、宝石であり……そのカタチは魔術師によって千差万別なので割愛する。
それらの魔術道具は必要なアレコレを既に組み込んであるがゆえに、簡単な手解きで使用できるようになる。
練習すれば、説明書を読めば誰もが使用できる家電のように。
だが、これらは便利な反面欠点もある。
使用者が魔術の知識を持たない場合、組み込まれた魔術しか使えないし、魔力補充の方法が分からなければ使い捨てになってしまう。
そして、組み込まれた簡単な魔術しか使えない場合、より強力な術式の前では簡単に打ち消されてしまう。
そこに注目したヴァレットと黄緑は、銀行強盗達がいる圏内に強力な結界を張る事で彼らの道具を無効化させる作戦を考えた。
それを為すのは、魔術師でもあるという黄緑の持つ魔力の込められた宝石類。
宝石類は、強盗達が使っていると思しき道具より強力なもので、
それを調査員達に五紡星の形で設置してもらい、その上で結界を発動させる。
高度な術者であれば増幅器がなくとも結界を張る事可能であり、黄緑もそれは可能だが、
今回は強盗達に道具を与えた何者かの力量が完全に読み取れなかった事から、
念には念を入れて強力な道具で強力な結界を張る事になった。
しかし、それだけではおそらく不足だと二人は見越していた。
彼らがさっさと逃亡せず銀行内部にいるのは事前に練った逃走計画に沿って、警官達すら利用する算段なのだろう。
そうした計算高さや手際の良さなどから、首謀者がこうした事態を予測できない程に愚かだとは、二人には思えなかったのである。
おそらく、非常手段として人質が取られている可能性が高いだろう、とヴァレットは推測した。
だが、さしもの調査員達も銀行内部の詳細までは調べられず、その有無は明確に確認できなかった。
更に考えれば、仮に人質がいた場合でも、黒幕はギリギリまで伏せておくだろう。
であるならば、目立つヴァレットを囮にした上でそれを引きずり出しつつ同時進行に魔術無効化の結界準備を進める他ない。
正直な所、彼女としては出来る限りそれは避けたかった。
まず人質を救出し、その安全を確保してから強盗達を一網打尽にしたかった。
だが、人質の有無さえ分からない、一刻を争う状況では、取れる手段は限られていた。
そうした様々な状況を吟味した結果最終的に下した状況解決策……それが今ここに至るまでの全てである。
苦渋の作戦ではあったが、どうにか人質を解放できた事、ほぼ組み立てていた流れどおりに推移している事に僅かに安堵しつつ、警戒は緩めずにヴァレットは言葉を続けた。
「それに、貴方のような人とは何度も戦っていますから。
しかし、まだ意識があるとは……私とした事が、見誤りました」
「は、こちとら、それなりにヤバイ奴を知ってるんでな」
「それが貴方達の協力者であり、出資者という所なんでしょうね」
「フン、さてね」
「……なるほど。
貴方自身に巡っている術式が今ハッキリ確認できました。
どうやら本当に強力かつ厄介な存在が貴方方の背後には存在しているようですね。
魔術による誓約を掛ける事で貴方を強化した上で、それと差し引きで自身に繋がる情報を制限、状況によっては削除する……そんな事が出来る存在は、今の現代社会にはかなり限られているはずですが」
「……っ」
ヴァレットの推測に、男は内心舌打ちしていた。
彼女は明らかに魔術や魔道、そういった異能についての知識をかなり高いレベルで所持している。
先程も確認した事項だが、改めて認識する。
間違いなく『根源の違う異能』を手にしただけの存在ではない。
(こんな厄介極まりない奴の相手なんかしてられるか……!)
男に魔術道具を提供した協力者は、今回はただの余興だとしており、好きにやればいいと語っていた。
だが、このまま続けていれば余興では済まない。
彼女の手により捕まってしまえば、おそらく脱出すらままならなくなる……そう判断し、男は逃走用の魔力の篭った宝石の使用を試みた。
そちらには一際強力な術式が込められているらしいから、この状況でも使用できるはずだった。
だが。
「言っておきますが、逃走用と思しき術式の入った宝石は既に潰させていただきました」
「なにっ!?」
ヴァレットが語りながら取り出したのは、まさしくそのために持っていた宝石だった。
正確に言えば、その残骸。その宝石は完全に粉々になっており、ヴァレットが事も無げに放り捨てると、砂のように更に崩れ去っていった。
その様を見て、男は始めて明確な動揺を表情に浮かべていった。
「しかし、貴方のような人は他に何処に何を仕込んでいるか分かったものではありません。
確実に意識を絶った上で、逮捕してもらいます」
ギュゥ……ッと、力強く拳を形作るヴァレット。
追い討ちを掛けるように他の強盗達を完全に無力化させた警官達が男を完全に包囲していく。
「ま、待てっ! 待ってくれっ!」
「さっき聞きましたよね?
何をやっているのか、分かっているのか、と。
……貴方は【分かっていた】んでしょう?」
先程は、当たらなければ、振るわれなければ、どうという事はない……そういう認識だった【真剣】。
だが事ここに至っては、当たらない、振るわれないなどと思える筈がない。
彼女から放たれる圧倒的な【意志】に気圧されたのか、男は一歩下がりながら両手を上げた。
「分かった。分かったよ降参だ。まったくおっかないなぁ……」
そうして、降参の意志を示す……フリをして、準備を整えた男は切札を切る。
それは腕の袖に巧妙に隠していた武器。
魔力の流れに注目すればするほどに見逃すだろう【至極普通】ながらも最新の技術による改良が施された、短銃ながらも大型銃に匹敵する威力を備えた仕込み銃。
そして、男は魔術こそ知識のみだが、こうした武器の扱いは手馴れていた。プロだと自身を認識する程度には。
そうした自信の元、人質に対して牽制として使う場合とは比較にならない速度で抜き放った短銃を、ヴァレット……ではなく、彼女がいる場所から大きく逸れた方向にいる警官へと発射する。
男は理解していた。
ヴァレットに撃ったところで通用するはずもない。
だが、彼女以外の人間に撃てば、隙は生まれる。
それを突いて、この場を離脱する事は十二分に可能……その確信が男にはあった。
――男は忘れていた。
そうした確信を先程いとも簡単に崩されていたという事実を、動揺ゆえか抜け落としていたのだ。
――男は理解が足りていなかった。
事前に調べていたつもりのヴァレットの【力】は、彼女の能力の全貌、その半分程度でしかないのだ。
そして、それらの認識の甘さが男にとって最後の失敗となった。
「……ッ!」
――ヴァレットは気付いていた。
男には最後の切札がある事を。
明確な逃げ道を防ぐのを優先したゆえに、推測に過ぎなかったそちらまでは潰せなかった。
その悔しさがあればこそ、男の所作、挙動、視線、それらを見逃さなかった。
ゆえに、男が降参とは明らかに違う反応を見せた時点、銃が撃たれる直前に彼女は駆け出していたのだ。
ヴァレットは、超人である。
それは、ヴァレットになれるから、なったからそうなのではない。
変身以前……【草薙紫雲の時点】で超人なのだ。
草薙紫雲の状態でも、銃弾の軌道を見切ることも銃弾を掴み取る事も可能。
そして、そこから概念種子を使う最適な状態であるヴァレットになった事で、より可能になる事が増える。
身体能力そのものや流れる血液や神経伝達速度、そういったものの更なる強化やコントロールもその一つ。
それらを完全に制御した状態のヴァレットは、超人を越えた超人となる。
ヴァレットは、自身には向けられなかった銃弾にいとも簡単に追いつくと、その側を駆け抜けながらソレを掴み取っていた。狙われた警官は当然として、万が一他の誰かにも当たらないように。
そうした一連の流れの中、彼女の視線は強盗からまるで逸らしていない。
この間、時間にすれば刹那以下。
そうして、軌道にすれば大きなカーブを描きつつ、男との距離を最遠最速で詰めたヴァレットは、最早躊躇なく男の顔面に右ストレートを叩き込んだ。
「!?」
男は自分が殴られた事にすら気付かないままに、再度弾き飛ばされ、地面に転がった。
その途中で放たれた紫色の光の縄が巻きつき、男の回転が止まる頃には彼は雁字搦めとなっていた。
今度こそ完全に気絶していた。
「貴方には聞きたい事が色々ありますが、逮捕後にそれを出来る権限は私にはありません。
……残念な事です」
男に追いついた上で静かに見下ろすヴァレットの眼は、酷薄だった。
近付こうとした警官達の足を、思わず止めてしまうほどに。
「いやはや……大したもんだ。流石ヴァレット」
連行されていく強盗達……口々にヴァレットへの恨み言を吐き捨てていた……を、
事件への介入について警官達に謝罪しつつ最後の一人まで見届けていたヴァレットに、ヘリから降りてきていた黄緑が声を掛けた。
彼女は小さく首を振りながら、彼に向き直る。
「それは、むしろ岡島さん達の方です。
綿密な調査もですが、あれだけの品々をこうも短時間で準備できるなんて。
本当にありがとうございました。調査員の皆様にも感謝をお伝えください」
「いやなに、こんなこともあろうかと、ってやつだよ。
一応財閥総帥なんでな、誘拐強盗その他の事件に対応できるよう、色々と準備はしてる。アレはその一つだ。
調査員達への礼については了解したよ」
「ありがとうございます。
それはそうと、散らばった品々、急いで回収しなくていいんですか?」
「焦る必要はないだろう。ここにいるのは殆ど警官だ。
それに、あれはあの女性やもしかしたら巻き込まれていたかもしれない市民、警官達を助ける為に支払おうとした代価であり、必要経費だ。
帰ってこなくても別に構いやしない」
「……そうですか」
そうして二人が会話している中。
「ヴァレットさん、その、ありがとうございました」
人質となっていた女性が、警察官達……現場を指揮していた男もいる……に連れられて、話し掛けてきた。
女性の言葉にヴァレットは少しだけ目を伏せる。
「……私には御礼を言われる資格はありません。
もっと安全に、もっと確実に貴方を助けられる方法が、私には取れませんでした。
貴方が御礼を告げるべきは、警察の方々や協力してくださった岡島財閥の総帥や財閥関係者の皆様です」
「も、勿論、その方々にも感謝してますし、します、はい。
でも、ヴァレットさんがいなかったら、多分……あ、いえ、その警察には無理だとか思ってるわけじゃないですが」
背後で待っている警官達を気にしてか慌てて女性は付け加えるが、彼らはその言葉に苦笑するのみだった。
彼らのその様子に安堵したのか、再度女性は言葉を付け加えつつ、ヴァレットに向けて小さく頭を下げた。
「えっと、だから、その、やっぱり、ヴァレットさんにもありがとうなんです、はい」
「……私こそ、ありがとうございます」
脱衣を強要された時、彼女が声を上げてくれた事にヴァレットは感謝していた。
あんな状況でも振り絞る事が出来た彼女の勇気はヴァレットを強く奮い立たせるものであり、状況を変える時間を作る一助ともなってくれていた。
感謝すべき事は、それだけではない。
彼女には自分を糾弾する資格がある。
声を上げてもらった事が嬉しかったのは事実だが、それは彼女を危険に晒す事でもあった。
そんな危ない箸を渡らせてしまった事に加え、そもそも確実安全に彼女を助ける手段の構築が自分には出来なかった。
今回彼女をかなり安全に助ける事が出来たのは、岡島黄緑や彼の抱える調査員、警察の協力によるところが大きい……少なくとも、ヴァレットはそう認識していた。
にもかかわらず、自分にも御礼を言ってくれるなんて……そんな想いで胸を熱くしていた彼女は自身の心そのままを言葉にし、声に乗せた。
「貴女の勇気と優しさに、心からの感謝を」
「え? それって、おかしいような。助けられたのは私……」
「あー、そろそろいいかな? 君には幾つか聞かなくちゃいけない事があるんだ」
先程からの苦笑を崩さず、警官の一人に言われ、
彼女は申し訳なさげにヴァレット、黄緑、警官達に代わる代わる頭を下げていく。
「あ、はい、すみませんでした。では……」
「失礼するよ、ヴァレット。
出来れば君にも大いに話を聞きたいところだが……今回はやめておこう。
その代わりの人物もいるようだし」
「うむ、私が彼女の代わりとして大いに協力しましょう」
現場を指揮していた男の言葉に、黄緑が鷹揚に頷いた。
財閥総帥らしいというべきなのか、無駄に偉そうな黄緑を見て、男は呆れ気味な笑いを浮かべる。
「……はい、えぇ、総帥。
そうしてくださるのはありがたいですし、ヴァレット共々協力していただいたのは分かっておりますが。
現場をかき回してくれたこともまた事実なので、その辺りもお忘れなく」
「か、返す言葉もありません……皆さん、本当に申し訳ありませんでした……!」
「君はさっきからずっと謝って回ってくれてるだろ、もういいさ。
だが、ヴァレット……協力してもらってなんだが、我々は君の味方というわけではない。
今後もその事を忘れずにおいてくれ」
「……お心遣い、痛み入ります」
「では、失礼します。総帥は後で迎えをよこしますので」
二人に向けて、警察式の敬礼を向けた後……男が率先して行った事に、どこかおっかなびっくりな様子で周囲の警官達も続いていった……女性を伴って彼らは去っていった。
それを見送った後、うーむ、と唸りつつ黄緑が首を小さく傾げる。
「君はあれだな、こういった状況にトラウマでもあるのかね。
こういった場合、御礼を告げるのが殆どで、文句を言う奴はあまりいないと思うが」
「……どうなんでしょうね」
黄緑の質問とも取れる呟きに対し、ヴァレットは曖昧な言葉に返すに留めた。
そうでもないと返すのも、その逆を返すのも躊躇われたからだ。
……ただ、間違いようもない事実は、御礼を言ってもらえて嬉しかったという事だけ。
「そうか。どうも君は、思っていたより単純な正義感を持っているわけではないようだな」
「そうなんでしょうか。……そうなんでしょうね」
「……そんな君には今更なのかもしれないがね、ヴァレット」
単純な正義感……それについて、ヴァレットが思考していた中、改めて呼びかけられて彼女は顔を上げた。
そこには、真剣というには穏やかだが、笑顔というには厳しい、そんな表情の黄緑がいた。
「この平赤羽市は、おそらくこれから世界で最も騒がしく、活気に満ち、混沌な街になるだろう。
今までもそうだったが、これからは更に。
おそらく、今日の事件はその象徴であり、境界線だったんだろうと俺は考えている」
「……」
「それに伴い、様々な価値観が、思想が錯綜していくだろう。
君も、今日のような事件に立ち向かう事が多くなる……いや、違う。
君に立ち向かう者達が、今後は増加していくのは間違いない」
「私に、立ち向かう? 私が、ではなくてですか?」
「変化していく平赤羽市……その中核近くに、街を守ろうとする君は常にいる。
ゆえに、その変化を利用するもの、嫌うもの、促進するもの、千差万別なそれらは君への挑戦者となる。
例えるなら、君は平赤羽市におけるディフェンディングチャンピオンだからな」
「いやいやいや、そんな立派な存在ではありませんよ、私は」
「君はそう思うかもしれないが、周囲はそう思ってくれまい。
その中で君が見せる、今日のような冷静な面を、冷酷さと取るものも出てくるだろう。
これまでの君を見てきた市民達の中には、君のそういう面を受け入れられなく……いや拒絶するものも出てくるだろうな」
「……」
騒動が起こる前、岡島財閥本社社屋総帥室で黄緑がヴァレットに差し出した二種類のコーヒーは、そういう意味合いがあった。
片方は、大量生産かつ品質が悪いが、それゆえに非常に安い豆によるコーヒー。
不味いかもしれないが多くの人に行き渡り、流通している。ある意味で受け入れられている。
もう片方は、希少であるがゆえに高価な一級品の豆によるコーヒー。
美味しいがしっかり育てるのが困難で数が少なく、それゆえ高価で多くの人には行き届かず、馴染みがない。
これらは同じコーヒーという飲み物でも、味は全く違う。
更に言えば、不味かったり、美味かったりの違い、その感じ方の度合いは個々で全く変わってくる。
この二つは、黄緑からすれば天と地ほど違う味の差があるように思えるが、そう大した差を感じられないと思う者もいるだろう。
また、コーヒーを飲みたい者にとっての向き合い方もそれぞれに違いが出てくるだろう。
ただコーヒーというモノを質に拘らず飲みたい者にとっては大量に購入できる安価な豆がいいのだろうが、
純粋に美味しいコーヒーを飲みたい者にとっては、安価な豆によるものはコーヒーと認めがたく、選択肢にすら入らない場合もあるだろう。
この、たった二種類のコーヒーでも、人によって様々な向き合い方、反応があるのは、想像に難くない。
黄緑は、そんな極端な二種類のコーヒーをヴァレットに飲ませ、感想を聞いた上で、そうしたコーヒーの『違い』について語りつつ、彼女への問い掛けを展開していくつもりだったのだ。
市民、異能者、正義……そうした単語として意味合いとしてひとくくりには出来ても、その個別のあり方は、受け取り方はそれぞれ違うものについて。
そんな【コーヒー】を飲み干さざるをえない、向かい合っていかざるを得ないヴァレットという存在は、それらをどう受け入れていくのか。
あるいは、どう飲み干されるのを希望するのか。
そうした問い掛けをするつもりだった。
黄緑がヴァレットにそんな問いを投げ掛けようとしていたのは、彼女のメンタルケアの為に他ならない。
彼女が己の主軸に据えているであろう正義という価値観は、疑い続ける事に価値がある。
恒常的に疑いなく遂行されるようになる正義は、最早正義ではない……そう黄緑は考えている。
おそらくそれを理解しているだろう彼女は自身で常に問い続けているのだろうが、
個人で完結しているソレは澱んでいく可能性を孕んでいる。
いずれ誰かに問われた時に、彼女が考えている正義が、彼女自身からズレてしまっているような致命的な状況にならない、なっていないとは限らないのだ。
黄緑は、彼女がそういった状況に陥る可能性を多少でも減らす為に、彼自身が澱みを飛ばす何かになるべく、彼女へ正義について問うていこうと……例え、今の彼女にその意味が理解できずとも……考えていたのだ。
だが。
「そうして拒絶・相反するモノが現れていく事も踏まえると、君への挑戦者は今後ますます増え続けるだろう。
そんなモノ達による事件を重ねるにつれて、市民の君や異能者に対する見方は更に変化を続けていく。
ソレ如何によっては、いずれ、ごく普通の市民と異能者の市民の、個人同士ではないグループ同士の対立も生まれるかもしれない。
そこには、君が探究を標榜している正義などどこにもないのかもしれない。
ゆえに、そうなった時、誰の味方でもあり誰の味方でもない君は全てを敵に回す可能性すらあるだろう。
そうなった時、市民であり、異能者であり、正義の味方たらんとする君は、どうする?」
「……私は、誰にどう思われようと為すべきだと思った事を為すだけです。
私は誰かを不幸にするものを打倒する、そういうものであろうと思っています。
もし私が平赤羽市を不幸にしかしない存在だというのであれば……私は私自身を打倒します」
「君は、それでいいのか?」
「ええ。みんなが笑顔で暮らせる事こそ、私の最優先ですから」
「……ああ。そうだろうな。そんな気はしていたよ」
あの二種類のコーヒーを、味の違いをを理解しながら両方とも美味しいと言ってのけた瞬間から、なんとなく思っていた。
自身の考えは、もしかしたら少し過剰な心配に過ぎないのかもしれない、と。
この街がどうあれ、市民が、異能者達がどうあれ、彼女は彼女を続ける……その確固たる決心を彼女はいつからか既に備えている。
魔法多少少女ヴァレットは、自身に課した正義の味方志望としての在り方を、そう易々と崩しはしないのだろう。
……岡島黄緑が、誰になんと言われようとも平赤羽市を愛し続ける岡島黄緑で在り続けているように。
どうやら、彼女の中身はそうそう澱む事はなさそうだ。
(やれやれ。余計なお節介だったのかね……)
全く難儀な事だ、自分も、彼女も、と内心でのみ黄緑は呟く。
彼女にそう言うとそんな事はないと、否定するだろう。
彼女が仮に自分にそう言ったのなら、自分もまた否定するだろう。
そうして、本人達は互いにそれを難儀と思っていない事が、尚更に難儀だと黄緑は笑った。
「ただ……」
「ん?」
黄緑がそうして笑っている中、ヴァレットが少し躊躇うように言い淀んだ後、頬を一掻きした。
それは照れ隠しだったのか、バイザーの下に隠された顔を少し赤らめながら彼女は告げる。
「気遣っていただいた事、とても嬉しかったです。今日助けていただいた事も」
「……。そうか」
そんなヴァレットの顔を眺めて……なんとなく、黄緑は考えた。
心配は基本必要ないようだが、これまで同様の心遣いは続けてもいいだろう、と。
「まぁ、それはそれとして、貴方の事はまだ少し苦手ですけどね」
「仕方ないな。君にどう思われようが俺は俺だからな」
そうして、ヴァレットはニッカリと、黄緑は禍々しくも穏やかに……彼らの笑顔を交し合った。
二人は気付いていなかった。
そんな自分達をつぶさに観察していた二つの存在を。
その一方……黒いスーツに身を包んだ長身痩躯の男は、銀行の隣のビルから全てを見終わった上で呟いた。
「……間違いないな。やはりヴァレットの正体は草薙紫雲、彼女だ」
もう一方……黒いコートに身を包んだその人物は、中心街から遠く離れた廃墟となった映画館に一人佇んでいた。
(……どうやら、テストは終わったようですね)
銀行強盗事件の一連の流れを、魔術によりスクリーンに投影していた人物は、満足げに【上映】を終了させた。
この人物こそ、強盗団に魔術道具を、ボス格の男に魔術についての知識を提供した存在だった。
(やはりヴァレットをどうにかする事はできませんでしたか。
ええ、そうでなくては困ります)
高い報酬を餌にして、どこぞの傭兵崩れをボスにして強盗団を結成させ、ヴァレットにけしかける。
それでヴァレットが活動不能になるようであれば時期尚早だったのだろうが、予想どおりに彼女は彼らを一蹴した。
まぁ、あの傭兵崩れは渡した予算のピンはねの為に、部下の質を落としたのが裏目に出たようだが。
(自身を過信したものは哀れ極まりないですね。結果としては理想的でしたが)
ともあれ、彼女らは世界に異能が明確に存在していることをアピールしてくれた……上々の結果だ。
ボスの男は【一般人】にしてはそこそこ有能なので使い捨てるのは少し惜しかったが……自身が抱えている幾つかの組織に替えは多少ある。
それに、人材が不足してきたら、呼び戻せばいいだけの事だ。
その際は、じっくり本物の魔術を教授してやるのも悪くない。
(やはり、この街は実験場としてベストです。
表も裏もない、そんな素晴らしい理想郷を作るためのテストケースとして)
平赤羽市は異能が存在している事が当たり前の街になりつつある。
あの【概念種子】と称されているものによる、この世界由来ではない異能をきっかけとして。
そんな異常な街が、世界に存在している事が周知され、当たり前になれば……そこに蔓延っている異常もまたいずれは世界にとって当然のものとなる。
(様々な異能が、化け物が、人間が己が力を隠す事無く跳梁跋扈する世界……楽しみですね)
いつか実現するであろう自身の理想の社会に、ソレはほくそ笑んだ。ニタリニタリ、とほくそ笑んだ……。
だが、一つ言っておかねばなるまい。
こうして勿体ぶった最終的な黒幕のように活動開始した『彼』だが……【偶像】と名のつくこの物語において『彼』は黒幕でもなんでもないし今後本人が出る幕は微塵もない。
というか、似たような事を考えている組織や人間の一つでしかなかったりする事を『彼』は知らないのだ。
そう。
これこそが平赤羽市。
様々な存在が、様々な思惑を持って交錯する舞台となっていく街。
この世界の地球において、もっとも混迷を極めていく街の変化、その第一段階であった。
……続く。