第5話 ワガママと命持つ絵筆

















「……あれ?」

 唐突に起こった思わぬ事態に、ヴァレットは……正確に言えば、数秒前まではヴァレットだった草薙紫雲は困惑していた。
 困惑の元は、目の前に浮かぶ【絵筆】である。

「ん。……んん」

 そう、変身を解除したにもかかわらず、そこに浮かんでいる【もう一人の相棒】。
 何度か【格納】を試みているのだが、上手くいかない。

『これは……紫雲、いつもどおりに変身を解いたんだよね?』

 ヴァレット時からの思考リンク及び法力による会話を続けていた相棒にして戦友にして家族たるクラウドの声が頭に響く。
 その言葉に、紫雲は周囲の状況を確認しつつ頷いた。

「うん、いつもどおりに」

 変身を解除する際、紫雲は周囲の確認を怠らない。
 先程確認した時と変わらず、周囲には人の目はなく、近頃は街中でも設置が増えている監視カメラの類もない。
 なので、当座は大丈夫なのだが……。

『ふむ、何かしらの攻撃を受けた……わけではないな』
「そうだね、そういうわけじゃないと思う」

 自分に起きている状況を分かっているのかいないのか、当人たる【絵筆】はふわふわと変わらず浮いていた。
 ……飛行する際、ロケットの噴射口さながらに法力を放出する部位から溢れている光の穂先を、犬の尻尾のように振っている以外は、いつもどおりに。

「そう言えば」

 微笑みを浮かべつつその様子を見ていた、紫雲はふと思い当たった。

『なにか、心当たりでも?』
「ほら、前も話したじゃない。
 こないだのパークの事件の後から、この子、何か変わったみたいだって。
 もしかしたら、ハッキリとした自我が目覚めたのかも」

 この子、と言った瞬間に【絵筆】の尻尾が一瞬停まった事に気付かず、紫雲は言葉を続ける。
 平赤羽ウォーターパーク開幕日に起こった事件。
 そこから生じた諸々は、今も紫雲=ヴァレットを悩ませているのだが、それはそれ。
 さておき、あの事件で種子回収を行って以後【絵筆】は少し変化した……紫雲はそう感じていた。

【絵筆】は、紫雲がヴァレットとしての能力を獲得した際に受けた外部影響……つまりクラウドの干渉により精製された、能力を円滑に使用する為のツールだ。

 クラウド達、異世界良識概念結晶体・ピースに力を与えられた存在は、幾つかの恩恵を得る、らしい。
 紫雲は未だ自身以外の同様の存在と遭遇していないので、
 そういった人々が自身とどの程度同じでどの程度違うのかは分からないが、クラウドによると、そういうもの、らしいのだ。
 恩恵の最たるものは概念種子やそれに連なる力や影響をを封印・消滅させる浄化の力【白】。
 それ以外でも、僅かながらの能力強化、自身以外の概念種子能力の察知能力などなど、
 いつか現れる存在に対抗する意味合いでも、ピースに見込まれた概念種子所持者は強力な異能を駆使しやすい土壌を与えられている。
 ただ、概念種子そのものは他の、基本的な種子能力者とは大差がない、いやむしろ同じである。
 ピースによる強化も実際の所ほんの僅か、ちょっとした底上げ程度でしかないらしい。
 紫雲におけるヴァレットは、クラウドによって揺り起こされた、草薙紫雲にとって概念種子能力を最大限使用しやすい状態というだけなのだ。

 閑話休題。
 つまるところ【絵筆】は、紫雲の概念種子の一部からクラウドの【恩恵】により作り出されたものである。
 そんな誕生経緯だけに、紫雲とは繋がっているが独立しているとも言え、外的な影響を受けやすくもある。

『つまり、あの事件で封印した【氷山】の影響を受けたんじゃないかと?』
「……正確に言えば、それだけじゃなくて、今まで封印した種子や私やクラウドの経験、そういったものの積み重ねによるものじゃないかなって」

 元々【絵筆】には、ヴァレットの意思に反応して動き、ある程度自立行動する機能がある。
 だが、少し前から……パークでの出来事以降、その反応がより機敏になったと感じる事が何度かあった。
 自身が能力を使いこなすにつれ、それに連動する形で、
 以前よりも呼びかけへの対応力・反応速度が高まったからだと紫雲は思っていたのだが、実際には違っていたのかもしれない。

 今現在【絵筆】には、これまで封印した、未だ持ち主に返還していない概念種子を格納してある。
 そも、概念種子はいずれ来る【敵】に立ち向かうために与えられた能力なのだ。
 今はまだその段階に至っておらず、様々な問題から封印が施されているが、その際の連携・協力の必要上【繋がり】が作られているという。
 直接的ではないにせよ、それが【絵筆】に少なからず影響を与えていた、という可能性は捨てきれない。
 持ち主であり、生みの親である紫雲やクラウドの経験蓄積による影響も全く無いとは言い切れないだろう。

 などと色々考えられはするのだが、どの要因が直接的な原因なのかは分からない。
 少し前の【氷山】との対決の際にクラウドが【絵筆】と繋がった事、今までで一際強い意志の残滓を持った種子を封印した事が、大きな一押し、いや二押しになったのは間違いなさそうだが。

『僕らがよく見る特撮やアニメに出てくる、意志を持ったマシンみたいだね』
「そうだね。……もしかして、私達のそういう部分も影響されたのかな?」
『ない、とは言い切れないな、うん』

 ただなんにせよ、今一番問題なのは何が原因でこうなったのか、ではない。

「まぁその辺りは後でじっくり考えるとして……どうしようかな」

 そう、ここにいる【絵筆】をどうすべきか、である。
 
「あ、いや、置いて行ったりはしないから、ね。落ち着いて」

 自身に向けられた視線を感じ取ったのか、不安げにフラフラ浮かぶ【絵筆】に紫雲は言った。
 元より置いていくつもりなどない。
 ないが、どうすればいいのか……と言っても取るべき手段は元より一つしかなかった。

「まぁ、家に帰る以外にないけどね。
 えっと……貴方、一人で家に帰れる?
 こう、高高度に上がって、そこから家まで移動して、真上から一気に降りる、みたいな」

 薄情かもしれない、と思うが、それが出来れば一番いい。
 ヴァレットに変身した状態で家まで帰るのは、正体露見の可能性を高めるので紫雲としては避けたかった。 
 紫雲のままで【絵筆】に乗るのも同様の理由から却下。
 であるなら【絵筆】単独で帰宅してもらうのが一番いいように紫雲には思えたのだ。
 紫雲が帰宅して、周囲を確認した上で空から降りてもらって、即座に家の中に隠す……というのが可能なら一番ベスト、なのだが。

「う、うん、そうだよね。難しいよね」

 言っている意味が分かっていないのか、それとも一人で帰りたくないのか、
 プルプル震えている【絵筆】の様子から察して、紫雲は言った。

「ちゃんと一緒に行くから、ね」

 もし本当に自我に目覚めたばかりだとしたら流石に気の毒だと思っていた事もあり、慌てて宥める紫雲。
 そんな二人のやり取りを紫雲経由で眺めていたクラウドが提案する。

『じゃあ、紫雲の頭上、ほんの少し上を飛んでもらって一緒に帰宅するのはどうだろう?
 それで見られそうだったらその時だけ何処かに隠れてもらうとか。
 その時だけ、うん、その時だけだからね』
「……それがよさそうだね」

 紫雲同様クラウドの声が聞こえているのか【絵筆】は、頷くように縦方向に身体を振って見せた。
 クラウドの案を肯定しているのは、おそらく間違いないだろう。 
 無理強いをさせているのかもしれないのに、こうして素直に協力してくれている【絵筆】に、紫雲は申し訳なさと感謝を込めてその身体を撫でた。

「いい案をありがとう、クラウド。じゃあ、行こうか。
 ……どうかしたの?」

 数歩踏み出しても動こうともしない【絵筆】の様子をいぶかしんで紫雲は問う。
 すると【絵筆】はブンブン、と身体を横に振って見せた。
 何でもない、そう言いたいらしい。

「なんでもないの? ホントに? ……それなら、いいんだけど」

 精神リンクしている際のクラウドほどには心の機微や雰囲気が互いに伝わらないのは少しもどかしい。
 実際にはクラウドよりも自身に近い存在のはずなのに伝わらないのは、何か理由があるのか……色々考えたいところではあるが、今は家に帰るのが優先である。
 そういった思考は、無事に帰宅した後でも十分出来る。

「それじゃあ、帰ろう。私達の家に」

 そう考えた紫雲は【絵筆】に呼び掛けて歩き出した。
 声を掛けられた【絵筆】はブンブンと穂先の尻尾を振ってから、彼女の後を、その頭上を飛んでいく。
 
(……ん。こっちかな)

 時間帯が時間帯なので、歩く人が皆無の道というのは難しいだろう、そう考えて紫雲は可能な限り人が少ない道を選んで進んでいく。
 その際の判断は、道を歩く人の気配と過去の経験によるものである。
 人の気配は、殺気などの【より強い目的意識】を持っている時が特に感じやすい。
 なので、通常の気配というのは、それなりに意識を集中しないと感じ難い。
 そもそも気配を感じ取り難い人間もいたりするので、完全な気配察知は、いかに十年来修行している紫雲でも困難である。
 ただ、今回に限ってはよく知った道を歩いている事が助けになっている。
 子供の頃は、冒険とも修行とも言えない動機で自宅の近所を駆け回ったものだ。
 その頃とは変わった部分もあるが、この辺りは平赤羽市の中心街ほど開発の影響を受けていない。
 ゆえに、この時間帯は何処が人気がない道なのか、ある程度の察しがつく。
 それと気配の有無を組み合わせれば、少なくとも最悪の道を避ける事は出来る。
 更に言えば、協力者もいてくれるのだ。

『こちらクラウド、帰宅途中と思われる女子数人を足止め中……
 うーん、これ可愛い動作になってるんだろうか』
「えと、その、頑張って!」
『うん、まぁなんとか……。
 ……うん、僕は擬似生体だからチョコはOKなんだけど。下手な知識を植えつけるわけにはいかないか。残念』

 こうして、クラウドが紫雲と【絵筆】の行く先々で、
 なんとかなりそうな人を遮ったり足止めしたりしてくれている隙を突いて、紫雲は歩を進めていく。

 そうして悪戦苦闘を重ねて十数分、どうにかこうにか紫雲と【絵筆】は帰宅する事が出来たのだった。






 



「……なるほど、そういうことか」

 仕事から帰宅した紫雲の姉、草薙命は事情を聞くと、ふむ、と頷いた。
 帰ってきた矢先、主人の帰宅を迎える犬よろしく自身を出迎えた【絵筆】に対し、
 彼女は穏やかな表情を向けながら自己紹介する。

「はじめまして、になるのかな?
 何度か互いに見ているが、会話をするのは初めてだからな。
 知っているかもしれないが、君の生みの親で主たる女の姉の草薙命だ」

 命が名乗ると【絵筆】は身体を縦に数度振った。
 嬉しげに頷いている、と思しき【絵筆】は自身の穂先を手の形に変形させて命に差し出した。
 それを見た命は、目を輝かせてその手を握り返す。

「おぉ。なんて賢い子なんだ。よろしくよろしく」
「命、テンション高いね」
「姉さん、動物好きだから」
「……動物なのか、あれ。というか、それにしては僕とは初対面の対応が違うような……」
「クラウドはビジュアルは猫だが、中身は違うだろう?
 こっちはホントに動物っぽい……ふふ」

 楽しげに【絵筆】の身体をもう一度なでながら命。
 その言葉に、クラウドはなんとも言えない表情を浮かべた。

「いや、そのとおりなんだが……なんだろうね、なんか悔しい」
「う、うーん」
「それはそうと愚妹。とりあえず、風呂に入ってきたらどうだ?
 今日はなんとなくいつもより汗っぽい感じだぞ」
「あー、今日は暑かったからね」

 夏は終わり、現在9月に入ってはいたがまだまだ残暑が厳しかった。確かに、それも汗をかく理由の一つではあるのだろう。
 だが一番の理由は帰宅までのちょっとした緊張によるものだろう。
 帰宅後も【絵筆】をどうするか、クラウドと話していたため、制服から着替えもまだしていない状態だった。
 そういった状況を見た上で、とりあえず落ち着いて来い、命はそう言っているのだ。
 
「ん、じゃあ、お先にごめん。ちょっと汗を流してくるね」

 風呂は命が帰って来てすぐに入れるように既に沸かしている。紫雲の帰宅後の日課の一つである。
 今日のような状況であっても、こういった日課……これに限らずトレーニングやヴァレットになってのパトロールなど……を基本欠かさず行っている辺りが紫雲らしいと思いながら、クラウドと命は去っていく紫雲の背中を見送った。

「……ふむ。しかし、またおかしな状況だな」
「うん。まぁ、考えなしに動き回るような子じゃなくてよかった、というところか」
「そうだな、と言いたい所だが……あの子、いないぞ。
 私も今気付いたんだが」
「え!?」

 ……そうしてクラウドが驚きの声を上げた直後だった。

『あははははっ!』
 
 風呂場の方から、紫雲の笑い声が響いてきたのは。
 爆笑と言っても差し支えないそれは、紫雲をよく知る二人でも滅多に聞かないもので、二人は思わず顔を見合わせていた。

「〜♪ って」

 時は少し遡って、数分前。
 紫雲が脱衣所でいそいそと男子用の制服を脱ぎ、
 最近はより硬く締め付けるようになったさらしを解いて、
 お気に入りのヒーローソングを歌いながら風呂場に入ると、そこには。

「え?」

 風呂場の中、浴槽の真上で、まるで湯気に持ち上げられているかのようにふわふわ浮いている【絵筆】がそこにいた。
 一瞬、何が起こっているのか混乱した紫雲だったが【絵筆】の状況を観察し思考を整えてから尋ねる。

「えっと、その……私の身体を、洗ってくれるって事なのかな?」

 身体を洗う用のタオルを法力の穂先……ロボットアームとでもいうべきか……で持っていた事から、紫雲は彼の思惑をそう察した。
 ちゃんと紫雲用のタオルを持っている辺り、ある程度自分の記憶や知識が流れている、蓄積されているのは間違いなさそうだ。
 さておき【絵筆】がやる気満々にタオルやボディソープを準備している姿は微笑ましい。
 なので、紫雲は苦笑しつつ素直な言葉を口にした。

「……うーん、じゃあ、折角だし頼もうかな」

 そして、現在。
 
「なるほどな」

 突如響いてきた笑い声を聞きつけて命が風呂場にやってくると、その理由が丸分かりとなる状況が展開されていた。

「あはははっ! ちょ、やめぇっ、くすぐったっ……ひゃんっ……ふ、ひぃ、はははははっ!」

 法力光の穂先を活用して紫雲の全身をくまなく洗っている【絵筆】。
 それは紫雲に痛さを感じさせない、かつ身体を洗うという行動として弱すぎもしない、絶妙な力加減なのだろう。
 だが、その絶妙さで自分以外の何者かに身体を洗われる……いや、触られるというのは、少なくとも紫雲にとってはくすぐったい以外の何者でもなかったようで。

「も、もういいよぉ、う、ひ、はははっ! いや、ひふっ、だからね……はははははっ!」

 腋の下や足裏、うなじ、指の隙間、耳の裏などをタオルのみならず泡をつけた穂先によっても丹念に擦られた紫雲は、笑いながら床をのた打ち回っていた。
 当然というべきか怪我をしないよう【絵筆】は穂先を使ってフォローしているのだが、それもまたくすぐったいらしい。
 結果、決して人様には見せられない体勢で爆笑を続けている紫雲の姿がそこにはあった。
 
「命、何が起こってるんだい?」

 命と一緒に一緒に来ていたが、ひとまず彼女に状況を見てもらった方がいいだろうと判断し、脱衣所の外から尋ねるクラウド。

「……まぁなんだ、ただのじゃれあいだ。命の危険はない。
 ところでクラウド、私の携帯を取ってきてくれないか?」
「?」
「愚妹のあんな大爆笑は滅多に見られないからな……使い道はともかく、とりあえず録画しておきたい」
「君は何を言ってるんだ……」
「それはさておき、少なくとも、この様子を見る限りこの子は間違いなくいい子のようだ。
 生まれたばかりの状態と仮定して、多少の滅茶苦茶さはあるだろうが、意志を交わせば十分に解決出来るレベルだろう」
「まぁ、それはそうだろうね」
「ふ、二人とも……ははは、話ひ、てないで、た、助けてぇ……あはははっ……笑ひっ死にっしそほっふひはははっ」

 こうして紫雲は人生で最も笑った瞬間として、この日この状況を記憶する事になったのだった。


 









 それから一夜過ぎても状況は変わらなかったが、幸い翌日は日曜日。
 命やクラウドとともに経過を観察するにはまたとない機会となった。
 なのだが、決定的な打開策がないことに変わりはなかった。
 時折格納を試してみた紫雲だったが、変わりなく【絵筆】は具現化したまま。
 ゆえに紫雲はそのままに日曜日の日常を……日曜日朝の特撮番組視聴、トレーニングやヴァレットになってのパトロール、ネットを使っての情報収集などなど……を過ごしていった。
 いつもと違うのは、それらに【絵筆】を伴っている、という事だが、
 彼は基本紫雲達の言いつけを素直に聞く良い子であった事もあり、むしろいつもより賑やかで楽しい日曜日だと紫雲は感じていた。
   
 そうして【絵筆】が消えない状況になって2日目の朝。










「……ごめんね、流石に連れて行けないんだ」

 月曜日になり、学び舎に向かうべく男装を整えた紫雲は【絵筆】に諭すように語り掛けた。
 しょぼん、という擬音が聞こえてきそうな動きをする【絵筆】を見ると心が痛む。
 だが、こればかりはどうしようもない。
 連れて行くにはあまりに目立ちすぎるし、問題なく一緒に行く為の方法は思いつかない。
 そう考えて昨日の夜に「明日はクラウドと一緒に留守番するように」頼んだのだが……はっきりとした返事は返ってこなかった。

「案の定、というところかな」
「うん……それはいいけど、なんでそんなに首が傾いてるの?」
「寝違えたんだ。うん。心配はいらない。数時間で戻る」

 寝起きの悪い紫雲が寝ぼけて自身を引きずり込み、抱きしめたり関節技をかけたりしたのだ、とは言えず、クラウドは言葉を濁した。
 そういった自覚のない紫雲は、素直にクラウドの言葉を信じ「だといいけど、痛くなったら伝えてね」と返した後、再び【絵筆】に向き直った。

「姉さんは仕事だけど、クラウドが一緒にいてくれるから、ね?
 それに終わったらすぐに帰ってくるから。
 そしたら、昨日みたいに遊ぼう?」

 今日は休んで一緒にいてあげようか、とも思ったのだが、それは出来ない。
 このところ、ヴァレットとして活動する機会、時間が増えてきている事もあり、早退や欠席をせざるを得ない状況がより増えてきていた。
 命に口裏を合わせてもらっている事、
 ちゃんと授業を受けられないでいる状況、
 所属している幾つかの部活動……特に今一番忙しい、というかやる事が多いジオラマ研究会に参加できないでいる事など、心苦しい事ばかりが続いている。
 そんな状況なので、学園にちゃんと行ける時はちゃんと行っておきたかったのだ。

「本当に、ごめんね」
 
 だとしても、申し訳ないと思う事に変わりはない。
 だからせめて、ちゃんと事情を説明して、ちゃんと謝ろう……
 そうして紫雲が言い聞かせる事で納得したのか【絵筆】はゆっくりと身体を縦に振った。

「……ありがとう。じゃあ、クラウド、お願いね」
「分かった」

 紫雲はクラウドの返事にひとまず安堵した……が、決して心底からのものではない。
 クラウドに呼びかけた瞬間、ピクリ、と【絵筆】が揺れたような気がしたのも、それを助長した。
 だが、だとしても行かないわけにはいかない。

「じゃあ、行って来ます」

 そんなもやもやを強引に押し込めて、紫雲は登校した……のだが。











「ぶっ!?」

 昼休みになった直後【絵筆】の事を心配しつつもジオラマ研究会の二人……新城入鹿と久遠征の二人と話していた紫雲は思わず吹いた。
 窓の外、紫雲からかろうじて見えるだろう、という位置から、ニョキッ、と【絵筆】の一部が見えたからだ。

『クラウドっ! クラウドォッ!?』
『……やはりそちらに行ったのか。
 すまない、そうなる前に、君に知られる前に連れ戻そうとしたんだけど無理だった。
 空を飛ばれると正直きつい』

 法力会話で呼びかけると、申し訳なさげなそんな返事が戻ってきた。
 クラウドによると、午前中はジッとしていたのだが、
 退屈凌ぎになるかと居間に誘い、一緒にテレビを見ていた矢先急に飛び出してしまったのだという。

『正直、脈絡がなさ過ぎて反応が遅れた。重ねてすまない』
『……気にしないで、うん』

 急に飛び出してしまったのはいたしかたない。
 それに【絵筆】の飛行速度は、自身の……ヴァレット単独での飛行速度を遥かに上回る。
 それを追いかけろというのは酷だし、そもそも二人に無理を言ったのは自分なのだ。

 だが、それはそれとして現状は何とかしなければならないのだが……。

「草薙君?」
「おい、どうかしたか? さっきから視線が泳いでいるが」
「う、うん、ごめんごめん」

 そうして思考に埋没しつつも、二人の会話は聞いていた紫雲だったが、完全に平常心というわけにはいかなかった。
 流石に教室に入ってはいけないと分かっているらしいのだが、窓の外でピョコピョコ動く様は心臓に悪い。
 見つかって騒ぎにならないように【絵筆】なりに気をつけているのだろうが、それも時間の問題だ。

 誰かに見つかる事自体には問題はない。
 問題は見つかった後、何が起こるのかが予測出来ない事、その後どう対処するのが最善なのかを模索するのが困難な事だ。
 だから、紫雲としてはこのまま見つからないままに状況を改善するしかないのだが。

(どうする? ここからどうするのが一番いい?)

 紫雲は急ぎ解決の為の思考を巡らせた。
 とりあえず、まず【絵筆】と話をしなければならない。
 クラウドのような法力会話ができればいいのだが、何故か【絵筆】とは上手くいかないでいた。
 クラウドの推測によると【絵筆】は紫雲、すなわちヴァレットの一部である為、
 法力会話はただのエコー、山びこの様に反響するだけにしかならないのではないか、との事だが、
 今は何故会話出来ないのかは重要ではないので、思考の隅に追いやる。

 となると、直接会話するしかないのだが、問題はその場所だ。
 今ここで窓を開けて会話など出来る筈もない以上、場所を探さねばならない。

 屋上に行くか? 
 いや、この時間帯は場所を問わず人目が多い。
 屋上に人気はなくとも、そこに行く過程を目撃され、不審に思われるかもしれない。

(私が出入りしていても不自然でなく、この時間帯は人が少ない場所……はっ)

 こちらに視線を送っている二人を見て、紫雲の脳裏に【最適な場所】の心当たりが過ぎった。

「午前中からなんか上の空だったが、なんかあったのか?」
「草薙君が注意して立たされるの、僕はじめて見たけど」
「ああ、先生の方も首傾げてたしな」

 ……征と入鹿、二人の心配げな言葉にますます心苦しくなる。
 ある一つの節目に差し掛かっている状況下で部活欠席が多いこのごろ、ただでさえ二人には申し訳ない事ばかりなのだ。
 その上、あの場所の私的使用はその上乗せなのだが、止むを得ない。

「ちょ、ちょっと朝から気分が悪くてね……」
「その割りに顔色は……まぁいいや。じゃあ保健室に行くか?」
「それには及ばないよ。ちょっと歩いて、こう、息を整えてくるから、うん」
「え? お昼はー?」
「僕の事は気にせず、二人は食べてしまってて。
 僕はどうするか気分次第にするから」
「ああ、それはそうと草薙、例の……」
「じゃあ、ちょっと失礼」

 そうして紫雲は可能な限り自然を装って、教室を後にした。
 その際、何気ない所作で【絵筆】に移動するように示しながら。

「……おかしいな」
「おかしいね」

 残された二人は、彼女の……二人にとっては【彼】だが……様子を訝しげに眺めていた。

 



 




「よし、今だよ」

 紫雲はその場所……ジオラマ研究会の部室に入るとすぐに鍵を掛け、窓を開けて【絵筆】を招いた。
 その際、窓の外の様子を……目撃者がいないかをしっかり確認した上で。
 ヒュッと小さな風が通り過ぎたかのように【絵筆】が部室に入ったのを確認し、紫雲はすぐさま窓とカーテンを閉め切った。

「……どうして、来たの?」

 そうした後、紫雲は研究会の皆で改造中のジオラマの上を経由して、部室の隅に収まった【絵筆】をジッと見据える。
 咎めたいわけではなかった。
 自我が生まれたばかりだというのなら、暫く一緒にいてあげるべきだと紫雲自身思っていたし、そうしてあげたかった。
 自分の都合でそう出来ない自分自身に苛立ちを感じはしても【絵筆】そのものに怒りを感じてはいなかった。

 だが、そうだとしても、自分は留守番を頼んで、この子は了解してくれたはずだったのだ。
 なのに、何故この子はここに来てしまったのだろうか……。

【……今にして思えば番組チョイスが悪かったかもしれない】
「どういうこと、クラウド」
【いや、その、僕的に昨日の命の発言が気に掛かってだね、勉強しようと思って動物番組を見ていたんだ。
 その子にしても、子供ならそういうものに興味があるかもしれないと思ったものだからね。
 ただ、番組内容が、飼い主のふれあいや親子やらの取り上げが多かったような……】
「……うん、まぁ、なんとなく分かった」
【すまない、配慮が足りなかった】
「起こった事は仕方ないよ。……」

 そうして状況を理解した紫雲は【絵筆】に視線を向けた。
 その瞬間、ピクッ、と【絵筆】が震えるような所作をしたのに、紫雲は軽くショックを受けた。
 今の自分は怒っているように見えるのだろうか……いや、こういう時は誰だって過剰に反応してしまうものだろう。
 かつて命も……。

「あ」

 そうして、紫雲は思い出した。
 命が語っていた、かつての自分の事を。
 両親が亡くなった後、紫雲は精神的に閉じ篭っていた時期があったという。
 紫雲自身も僅かに記憶にある。

 カーテンを閉め切った、薄暗い部屋。
 テレビだけが光源だった、影の世界。

 そんな暗い部屋の中で、ずっと特撮ヒーロー作品を見続けていた事。
 命や祖父母が心配して部屋に入るたびに、紫雲は怒られると思っていたのか身体を震えさせていたらしい事。
 そして、皆がそんな自分に付き合って、一緒にテレビを見てくれた事。

『トイレや何かで少し席を立とうとするたび、お前はジッとこっちを見上げてたな。
 私達を視線で縫い止めるように。
 涙を堪えた眼で、ジッとな』

 それはいつだったろうか。
 何を話題にしていた時だったろうか。
 その辺りはおぼろげだが【その部分】だけは、明確に覚えている。
 懐かしんでいるのか、穏やかな、優しげな……それでいて少し苦しそうに語る命の顔を、紫雲は覚えていた。

(……ああ、そうか)

 そうして、思い出した事で紫雲は思い知った。
 自分が【絵筆】にしてしまっていた事を。

「……ごめん」
【!?】

 声を掛けながら【絵筆】に歩み寄った紫雲は、優しく【絵筆】に触れてから深く頭を下げた。

「ごめんなさい。私、貴方にひどい事したんだね」
【――】
「本当に……」

 今日の【絵筆】は、かつての自分だ。
 いきなり【いつもどおり】ではなくなって、戸惑いと寂しさに震えていた自分だ。
 そんな、かつての自分には姉や祖父母がいてくれた。
 だからこそ、紫雲は辛く、悲しい時期を乗り越える事が出来たのだ。

 なのに、自分は【絵筆】を置いていってしまった。
 信頼しているクラウドがいてくれたから……それを心の何処かで言い訳にしていたのではないだろうか。
 一人でも誰かがいてくれるだけでも【違う】……その事は、紫雲自身分かっていたのに。
 姉や祖父母がいてくれたからこその【草薙紫雲】だと、今の自分はよく分かっているはずなのに。

「本当に……ごめんなさい……っ」  
  
 情けなくて涙が出てきそう……いや、実際に紫雲は泣いていた。
 頭を下げたままだったゆえに、その涙はリノリウムの床に落ち、小さな小さな水溜りを作る。
 そんな彼女を目の当たりにした【絵筆】は慌てた様子で身体を横に振った。

「――え? ……ヴァレット、しうん、わるくない?」

 法力による光の穂先で肩を揺すられた紫雲が促されて顔を上げると【絵筆】は穂先の一部を使って文字を刻んでいた。
    
『ぼく、むかしのしうんほど、さびしくなかった。
 くらうど、いた。みことおねーちゃん、ようすをみにきてくれた。
 さびしかったけど、それだけじゃなくて、えと、その。
 でも、さびしいのもほんとで。
 でも、きっと、しうんがおもうよりさびしくないよ。
 ほうかごまでは、がまんできるくらいのさびしさだから。
 だから、ぼくのほうこそ、がまんできることを、がまんできずに、ごめんなさい。
 だから、なかないで』

 光の軌跡による文章は、空中にそう記して、やがて消えていった。
 それを紫雲は言葉なくただ眺めていた。
 なんと言えばいいのか何を言えばいいのか、分からずにいた。
 
『紫雲。
 前々から言おうと思っていたが……君は、何事に対しても真剣かつ真面目、大仰に受け取りすぎる。
 それは君の長所でもあるが……今はどちらかというと短所だな。
 逃げられた僕が言うのもなんだが、そんなに深刻に受け取らなくてもいいと思うよ。
 そうだね?』

 そんな紫雲に助け舟を出すような発せられた、クラウドの法力による声……それに【絵筆】はコクコクと頷くように身体を縦に振った。 

「でも、私は……」
『……仮の話だが。
 命が君に対して、同じような状況で同じように涙を流して悔いていたら、君はどうする? どう思う?』
「えっ?! いや、えっと、姉さんは全然悪くないよっ!? その場合私がきっと悪い……」
『その言葉は、そっくりそのまま彼が今思っていることだと思うんだが』
「っ……?!」
『紫雲。
 少なくとも、この場合悪いのは言いつけを破った彼だ。
 その事は、彼もよく分かっているはずだ。
 そして、それを理解できる程度の知識や意識……いや、心を彼は備えている。
 だから、深刻に思い悩む必要はない。
 そこそこに怒ってあげればいいさ。
 推測になるが、命もかつての君にそうしていたんだろう?』
「……うん、そう、だけど」

 クラウドの指摘どおりだった。
 かつて、今よりもはるかに幼く、間違った事ばかりしていた頃の自分に対し、命が声を荒げた事は殆ど……もっとも古い記憶に僅かに残る程度……なかった。
 やってはいけないことを何故やってはいけないのか説明し、厳しくも穏やかに改善を促してくれた。

(……姉さんは、やっぱりすごいよ)

 自分はこうもすぐに自分の事ばかりでいっぱいいっぱいで、どうすればいいのか考える事もままならない。
 だが、かつての命はしっかりと姉らしく真っ直ぐに自分に向き合ってくれていたのだ。
 当時の姉は、今の自分よりずっとずっと大変だったはずなのに。 
 そんな姉のようにいますぐなろう、というのは無理な話だ。
 以前の、駆柳つばさとの係わり合いもあって、最近はより強くそう思うようになったし、今は尚更だ。
 だが、だとしても、そうなろう、と努力する事は今の自分にも出来る。
 
(……帰ったら、姉さんにありがとう、って言わなくちゃ)

 きっと、唐突に何を言ってるんだお前は、と言われるのだろうが、ちゃんと伝えよう。
 ちゃんとそう言える様になるために、そして何よりもこの子に申し訳ないと思うがゆえに、紫雲は改めて【絵筆】に向き直った。

「えっと……まず、改めてごめんなさい。
 私に、色々と足りないものが多いから、寂しくさせてしまって。
 でも……あぁ」
『どうかした?』
「ごめん、クラウド、やっぱり怒れないよ」

 何処か頼りなさげに震えながら中に浮かんでいる【絵筆】を見ていると、とても怒れたものじゃない。
 紫雲としてはそもそも自分の方こそ悪い気がしてならないのだ。

「だから、今は……もし貴方が許してくれるのなら、お互い様、にしてくれるかな」
『紫雲……』
「だ、だって……え? ダメ? ちゃんとしかってほしい?」

 光の穂先による文字を見て戸惑う彼女に、クラウドは溜息交じりで呟いた。

『彼の方が余程しっかりしてるんじゃないのかな、これ』
「うぅ。え、貴方まで頷いちゃうの? ……うぐぐ」

 クラウドと【絵筆】、両者に突っ込まれて紫雲が肩を落とした、そんな時だった。

「……っ!?」

 ガチャガチャ、とドアから音が響いた。
 考えるまでもなく、ドアに鍵を差し込む音だ。
 近くに来ていた人の気配は察していたが、普通に通り過ぎるものとばかり思っていた紫雲は、表情はともかく内面は慌てた。
 
(仕方ない……)

 紫雲は、こんなこともあろうかと、常日頃から用意している念のため装備の一つ、擬装用の【紙】を一枚取り出した。
 この【紙】には絵が法力により描かれており、紫雲の意志で描かれていたものが実体化する。
 今回実体化したものは【大きな布】。
 紫雲はそれをを広げ【絵筆】を覆い隠し、彼を誘導し足元に……ジオラマの置かれた台の下に下りてもらう。

「やっぱりここにいたか。予想通り鍵まで掛けてからに」

 その直後、カーテンを閉め切った薄暗い世界に僅かな光が差し込む。
 光……廊下の向こうにある窓からの陽光と共に、戸を明けて現れたのは、久遠征と新城入鹿だった。
 鍵を使っていた事……部室の鍵は、各部活の責任者なら簡単に借りる事が出来る……から、そうだろうなぁと思っていた紫雲は、予測が当たった事で多少落ち着きを取り戻す。

「……二人ともどうかしたの?」 
「それはこっちの台詞だよ、草薙君。
 急に焦った顔でどっかいくもんだからさ、気になっちゃって」
「そうだぞ、草薙。
 それにお前、頼んでた例のブツの事忘れてるだろ?」
「あ」

 後ろの戸を閉じながらの征の言葉に、紫雲は間の抜けた声を上げた。
 そう言えば、昼休みに現在絶賛放映中の王電仮面ダブルVの変身アイテムを交換する約束をしていた。
 その変身アイテムは数多くの種類があり、昔からある【硬貨を入れてガチャガチャ回すと出る、カプセルに入った玩具】で一部販売されている。
 番組にハマっている紫雲もそれなりに回しているのだが、出が悪いのかタイミングが悪いのか、一番ほしいアイテムだけ出てこない日々が続いていた。
 そんな彼女の話を聞いて、同様に購入して、ほしいアイテムをダブらせている……何個も持っている征は、タダで譲る旨を伝えた。
 しかし、紫雲としてはタダで貰うのは申し訳なく、
 話し合いの結果、今後同様の状況に征が陥った場合、彼女がダブったものを譲る事で決着した。

 そんな訳で、先週の別れ際、紫雲は征達が見ていて分かるほどにウキウキと帰宅していった。
 そうして帰った姿や、普段からダブルVを熱く語る様子を考えると、アイテムを持ってくる事を忘れているのは、実に紫雲らしくなかった。
 ……ちなみにそれらの特撮系アイテムはジオラマ研究会に利用する事も多々あるので、学校からは持込を許可されている。

「その事忘れてどっか行くなんて、お前にあるまじき所業、おかしいと思うのが自然だろうが。
 だから気になって追いかけてきたのさ」
「ぅう。そ、それは、ごめん。
 でも、僕がここにいるってどうして……」
「簡単な推理だ。
 何かしらの緊急事態が起こった際、学園内で俺達が不自然じゃなく利用出来る場所は限られてるだろ」
「うぅ」

 紫雲にとって、二人の言葉はどこまでもぐぅの音も出ない正論であった。
 二人のどちらかがが自分と同じような行動をとれば、自分も心配して様子を見に行こうとするだろうし、同様に居場所を推測するだろう。
 彼女的には冷静に怪しまれない行動をつもりだったが、二人にとっては丸分かりの焦った行動でしかなかったのだ。
 そうして言葉に詰まる紫雲……その足元に転がっている見慣れない布を見ながら……征は苦笑した。 

「ホント、お前って二次元的なやつだな」
「え? 紙っぽいってこと?」
「いやいや、そうじゃないそうじゃない」
「まぁ、草薙のそういうところが俺的には面白いんだが」
「って、それよりも本題だよ本題。
 どうかしたの、草薙君? 本当に具合が悪いわけじゃないんだよね?
 こないだから研究会休み気味なことと関係があるの?」
「え? いや、そういう、わけでも、ないかも、だけど」
「ほら、また」
「え?」
「そういうの、全然君らしくなくない?
 草薙君、こういう真剣な話してる時、そういう曖昧な返事、しない奴だって僕は思ってたんだけど」
「……」
「そんな君らしくないことするくらい大変な事になってるんなら、こう、もっとさ。
 相談できる人に相談したらいいじゃないか」

 入鹿にとって紫雲はヴァレットと同じくらいの大恩人だ。
 征を伴って入部してくれたことで、ジオラマ研究会の危機的状況を助けてもらっている。
 先輩達が抜けた後、話の合う人間すら少なくなっていた自分と趣味の話をしてくれた数少ない存在だったから、というのもある。
 いや、それらを抜きにしても、だ。
 紫雲が困っている、というのなら力になりたかった。そこに理由はない。
 それは入鹿の偽らざる、素直な気持ちだった。
 
「その、えっと例えば……」

 だが、力になれるのが自分だとは断言出来ず、入鹿はしどろもどろだった。
 それは断言できるほどの……確実に紫雲の力になれる自信がなかったためである。
 そうして言葉に詰まる入鹿の気持ちを汲み取って、征が言葉を繋いだ。

「まぁ、なんだ。
 新城が言おうとしているだろう、俺も同意見な事を言わせて貰うとだな。
 草薙の何かしらの面倒な事情に、俺も新城も理由なく無遠慮に踏み込むつもりはない」

 征は、紫雲の中学時代について、明から少なからず聞いていた。
 様々な術を受け継いでいるという実家のアレコレも紫雲の口から多少聞いている。
 ……そして、それ以外にも何かの面倒な事情があるらしいことを、征は察しつつあった。
 そうでなければ、クラスの誰もが知るほどに真面目な紫雲が研究会を何度も休むわけがない。
 入鹿もそれを薄々察しているからこそ、こうして心配しているのだ。

 おそらくだが、そういう面倒な事柄を紫雲自ら進んで口にする事は滅多にないだろう。
 説明しなければならない……誰かが疑問に思って尋ねたり、説明しなければ筋が通らなかったり、そういう時にしか話さない。
 話す事で誰かを不快にさせたくない、巻き込みたくない……推測だが、そう考えているがゆえに。

 つくづく草薙紫雲という人間は二次元的だと征は思っていた。
 様々な事情や、一言では語れない過去、そしてなにより度を越えたイイヤツさ加減。
 オタクとして二次元に身を置こうとしている征だからこそ、そういう人間だからこそ気になるし、気に入っているのだが。
 
 さておき。
 紫雲に限らず、そういった口にしたがらない事情は、概ね誰かに気軽に踏み込んでほしくないものだ。
 征は二次元の様々な物語で、そして幼馴染たる明の色々で、そして自分自身の状況や心情でよく理解している。

 ゆえに、紫雲の事情には、余程厄介な状況になっていない、そう見える限りは介入するつもりはない。
 ないのだが。
  
「ないけどな。
 俺らに手伝える事があったら、言ってくれていいんだぞ?」
「……っ」

 征の横では、入鹿が力強く頷いている。
 それをチラリと確認するように一瞥してから、征は言葉を続けた。

「そりゃあ、なんでも言ってくれとか無責任には言えないし、何でも出来るわけじゃあない。
 んで、そもそも草薙も俺らに面倒掛けたくないって気遣った結果言わないでくれてるんだろうけどな。
 だけど、俺らに出来る範囲なら手伝うさ。
 そのぐらいはしてやりたい程度の仲だと思ってるんだけどな、俺は」
「そ、そうだよ。うん。本当に、そのとおり。
 なんかただ頷いてるだけな感じがするんだけど、久遠君の言うとおりだから仕方ないね、うん」
「そこは言わんでもいい言わんでもいい。で、だ」

 征の視線の意図……そこはお前が言え、という心遣い……に気付いて、入鹿が尋ねる。

「その、いま、君が困ってるのは、僕達には相談できないような事なの?」
「……」

 二人が自分に向けている、穏やかな、それでいて真剣な表情。
 それを目の当たりにした紫雲は、悩んだ。表面上にはあまり出していないが悩んだ。悩んでいた。
 そして、苦しかった。息が出来なくなる位に。

 二人は、間違いなく自分を心配してくれているのだ。
 
 今ここで二人に事実を……根本的なヴァレットの事を含めて話す事ができたら、どんなにいいだろうか。
 だが、それは自分の我が侭だ。
 話しても、この二人は正体を吹聴するような事はしない。
 それは、以前入鹿が【箱庭】による出来事を話した時の征、
 駆柳つばさが絡んだ出来事の後の入鹿の行動で、より強く確信できる。

 だが、そうだとしても、だ。
 ヴァレットの正体が自分である事を明かすのは、やはり危険だと紫雲は思うのだ。

 概念種子の能力のみならず、
 魔術や超能力などのこの世界の異能、あるいは人ではない超常存在達は、
 僅かな要因から人の秘密や記憶を探る術を持つものも少なくない。
 紫雲自身でさえ、簡単な探査術式や痕跡を追跡できる式神などを使用出来るのだ。
 ましてその道のプロフェッショナルともなれば、紫雲の想像を越える探査術を使用できるはずだ。
 注意を払ってはいるが、そういった存在がヴァレットの正体を知っているかもしれない者達を嗅ぎ付けないとは言い切れない。
 
 たまに、こういった自分の思考が自意識過剰なのでは、と思う事もある。
 ヴァレットという存在そのものはそんなに大層なものではない……少なくとも紫雲自身はそう思っている。
 だが、概念種子を封印し、悪事を妨げるヴァレットを恨みに思うもの、
 かつて犯した過ちから、草薙紫雲という存在を憎んでいるものは、確実に存在する。
 自身を見据えて復讐を誓った者達を、ヴァレット=紫雲はしっかり記憶に留めている。
 
 そういった者達が、優秀な探査術所持者を頼った上で、
 ヴァレットの正体を知る為に、知っているかもしれない人々を危険に晒す可能性は、決してゼロではない。

 ゼロでない以上、楽観的な思考をする事は絶対に許されない。
 自意識過剰だろうが、警戒を怠るわけいにはいかない。

 である以上、ヴァレットの正体を知る人間は可能な限り最低限にすべきなのだ。
 
 だが。
 
 我が侭だとわかった上で、
 危険に晒す可能性がある上で、
 いつか誰かに正体を自ら明かすべき時がやってくるかもしれない、そんな可能性も紫雲は考えていた。

 もしも、そんな時が訪れるのだとすれば、それはおそらく……。

(……今はまだ、その時じゃない。
 ううん、その時が来ない様にしないといけない……!)

 そうである以上、今は全てを話す事は出来ない。
 出来ないが、それでも話せる限りは話したかった。

 ――そうした、思考と煩悶の果てに紫雲は意を決した。

「そう、だね。その……相談しても、いいのかな?」
「も、勿論だよ」
「あぁ、草薙が話していいと思う事ならな」
「ありがとう。そして、具合が悪いだなんて言って……」
「それはいいから、気にせず話を進めてくれ」
「そう、だね。その事も含めて、ごめん。
 ……じゃあ、その、見て驚かないで、とは言えないか。
 驚く可能性が高いと思うけど、声を上げないようにお願いするね」

 そうして紫雲は【絵筆】を隠していた布を捲りあげた。
 そこにあったもの……捲くり上げられたのを察してチョコン、と宙に浮かんだ……を見て、二人は揃って驚きに眼を見開いた。

「お。おぉ〜! コレは予想外でちょっとビックリ」
「え? ……え? これって、ヴァレットの……?!」
「うん、実は窓の外で飛び回ってるのが、視界に入ってね。
 気付いたのは、今の所僕だけだったみたいで」

 紫雲の話を聞きながら、二人はキラキラと目を輝かせていた。
 その輝きは、ジオラマ研究会で色々な試行錯誤をしている時のものと同じ。
 そんな二人を見ていると、先程までの自分の中に渦巻いていたモヤモヤとした感情が薄れていくのを紫雲は感じていた。
 それでいて、少なからず嘘を吐かなければならない事に再びモヤモヤしつつ彼女は続けた。

「えーと、言葉は通じる、というか意志があるというか、みたいなんだけど、なんだか、ここから離れたがらなくて」
「ふむ。ヴァレットと何かしら約束をしてるのかもな」
「それって、またここで何か事件があるって事?」
「そうとも言いきれないが……まぁそこは重要じゃないだろう、今は」
「そうだけど……それはそうと、草薙君は……えっと、コレ、いや、この子なのか?
 ともかく、隠そうとしてテンパってたってこと?
 うーん、別に放っておいてもいいような」
「いやいや、放っておいたら見つかって騒ぎになるかもしれないだろ。
 そうなったら、ヴァレットが回収しづらくなる。
 それをヴァレットマニーでそれ以前に御人好しな草薙が放置できるわけないだろ?」
「ああ、そうか、そういうことね」
「う、うん、そういう、感じで」

 心苦しいが、折角なので征の推論に便乗させてもらおう……そう考えて、うんうん、と頷く紫雲。
 
「そういうことなら、暫くここにいてもらえばいいさ。
 俺らが黙ってれば、特に騒ぎにはならないだろ」
「そう、だよね。うん」
「そういう事にしてくれると助かるよ。……二人とも、ありがとう」

 せめて言葉だけでも、と心からの感謝を込めて紫雲は告げる。
 すると征は照れているのか、少し視線を逸らしつつ頬を掻いた。

「なんで草薙が礼を言うんだよ」
「真面目な草薙君らしいと言えばらしいけどね」
「そりゃあそうだが……折角ならヴァレットたんに言ってもらいたいね、俺は。
 とまぁ、そういうわけだから、さっきも言ったが暫くここにいるといい」

 とりあえず結論が纏まったと判断した征が【絵筆】に話しかけると、放出され続けている光の穂先の一部が文字になる。

『ここにいて、いいの?』
「こ、この子筆談できるのか……!」
「すげぇな。流石魔法少女の相棒」
「実際棒っぽい形状だけにね……とか思っただけだよ、うん」
「いや、それは言わなくていいから」
「まぁ新城のボケはともかく、そんな遠慮しなくていいさ。
 というか、筆談できるんなら話せる範囲でも詳しい事情を説明してくれると助かるんだが」
『……むずかしいこと、かけない』
「ああ、まぁそんな気はしてた」
『ごめんなさい』
「いやいや、謝らなくていいから」
「そうだぞ。あぁ、ヴァレットが迎えに来たら出て行ってくれていいからな」
「それまで誰にも見つからないように気をつけてね」
「……二人は、優しいね」
「なんだよ、唐突に。というか当たり前だろ。
 そういう男でないと、今はまだ二次元にいる俺の嫁達が恥をかくからな」
「うーん、色々と台無しだ」
「久遠君らしくていいと僕は思うけどね、うん。……」

 二人が受け入れてくれたお陰でとりあえずここにいれば安心、という状況になった事に紫雲は安堵する。
 ただ、問題はまだ解決されていない。

 昼休みが終わった後はどうするか……放課後までは我慢してくれるのだろうが、一緒にいてあげたい気持ちもある。
 しかし、それは過保護すぎるのだろうか。

 仮に、放課後まで待ってもらった場合はお詫びもかねて一緒に帰りたいのだが……草薙紫雲の姿のままでここから一緒に帰る口実というか、状況が思いつかない。
 隙を見て、上空で待機してもらって、昨日同様のルートで合流してもらうのがいいだろうか。

「それはさておき……ここにいる間は、その布で隠れてもらうしかないな。
 今はともかく、誰がいきなりは言ってくるかも分からんし。
 うーん、こういう時大きさを自由に変えられるといいんだろうけどな」
「あぁ、割とあるよね、それ。普段はペンダント的な何かに変換してたり」
「……そうだね」

 内心では「その手があったか」と呟く紫雲。
 だが、今は状況的にそれを試せないので、家に帰ってからにしようと考える。

「まぁ今は別にいいけどな。
 さて、とりあえず一段落したところで、頼み事がある。
 お前の写真、撮っていいか? 折角だから資料を集めたい」
『?』
「ああ、ほら、これ」

 首を傾げるような動作から【絵筆】の戸惑いを感じた入鹿は、ジオラマの影に置いてあった【絵筆に乗るヴァレット】のフィギュアを掲げて見せた。

「こういうのを作ってるから、その参考にさせてほしいんだよ。どうだ?」

 ヴァレットと自分のフィギュアを見て興味を持ったのか、尻尾のように穂先を振る【絵筆】に苦笑しつつ征が尋ねる。
 すると【絵筆】は『??』とクエスチョンマークを穂先に形作りながら紫雲に自身の先端……彼にとっての顔のようなものようだ……を向けた。
 紫雲は内心で「いやいやいや」と焦りながらも表向きは冷静に答える。

「あ、えっと、なんで僕に聞こうとしてるのか分からないけど、いいと思うよ?」
 
 今回のみならず、常日頃から二人にはお世話になっている。
 それについて、せめてもの、少しでも恩返しになれば……そう考えて、少し分かり難い形かもしれないと思いながらも【絵筆】に伝える紫雲。
 彼女の発言を理解したのか【絵筆】は肯定の意志として身体を縦に振った。

「……そうか。助かるよ。
 心配するな、ネットに写真をアップしたりはしないから」
「また駆柳さんにネット炎上されたら大変だもんね」
「別に炎上は怖くないぞ。うん。面倒ではあるが」

 そうして会話を交わしながら、征と入鹿は携帯端末のカメラ機能で【絵筆】を前後左右写真に写していった。
 これは自分もやらないと不自然かも、と考えた紫雲は数枚彼ら同様に撮影しておく。
 その際、宙に浮く角度やポーズ(?)などの二人のリクエストに【絵筆】は素直に、かつサービス満点で応えていた。
 そんな撮影会らしきものが一段落ついたところで、征が口を開いた。

「うむ、いい資料が手に入った。ありがとうな……っと。
 ところで、コイツ、名前あるのか?」
「さぁ? 少なくともそういう話は聞かないね。草薙君は知ってる?
 そういう噂とか」
「僕も、聞いてないね」

 実際の所、紫雲は【絵筆】の名前をずっと考えてはいた。
 こうなる前から名前を付けてあげたかったのだ。
 そうして色々考えた結果、最有力候補は既に思いついている。
 思いついているのだが、踏ん切りがつかない理由があった。

「可愛い名前かな? カッコいい名前かな?」

 紫雲が踏ん切りのつかない理由をズバリ入鹿が口にする。
 紫雲としては、自身の相棒であるがゆえに、折角だから良い名前をつけてあげたかった。
 この子自身が喜んでくれるような、愛着を持ってくれるような、そんな名前を。
 その拘りゆえに決める事が出来なかった。
 自我に目覚めた、というのなら尚更のことだ。
 はたして、彼としてはどういう名前がいいのだろうか……。

「うーむ、魔法少女的には華やかさがある方がいいんだろうが……ヴァレットだしな」
「ヴァレット、かっこいい印象強いもんね」

 かつて助けられた経験からか、入鹿のヴァレットのイメージは颯爽としたものだった。
 ……別に思い浮かぶものもあるが、それについては入鹿自身思い出さないようにしているものだ。
 そういった思考を打ち消す為なのか、若干早口気味に入鹿は言葉を続けた。

「かっこよさと華やかさ、その両方を感じさせる名前なのかな。
 あるいは苗字と名前を分けたつけてたり?」
「いやいや、そういうのは二次元でもあまりないからな。
 精々正式名称と愛称があったり、とかだろう」
「……なるほど」
「って、勝手な推測するよりコイツ本人に聞けばいいのか。
 お前、名前ある? ……ないのか」
「それはちょっと寂しいね」
「……」
 
 身体を左右に降った【絵筆】は何処となくショボンとしているように見える。
 紫雲だけではなく、征もそう思ったのか、彼はこんな事を口にした。 

「もしかして、お前、名前がないのが不満で家出してる、とかそういう事じゃないよな?」

 その瞬間【絵筆】の身体がビックゥッ!?と眼に見えて震える。
 直後、チラリと紫雲の様子を窺うような素振りを一瞬見せた後、彼は光の文字を中空に浮かべた。 

『ぼく、かえる』
「え?」
『おせわになった、ありがとう』
「お、おい……」
「ちょ、ちょっと……!」
『ごめんなさい』

 そうして、呼び止めるような声をそれぞれが上げるも、
 それに対しての【謝罪】を口にするのと同時進行で穂先の一部で窓を開けた【絵筆】はあっという間に空の彼方へと消えていった。
 一連の動きはまさに疾風で、紫雲ですら引き止めるアクションを起こせないほどのものだった。 
 一陣の風が過ぎ去った後、征と入鹿は困惑や驚きが入り混じった表情で、カーテンがはためく窓の向こうを見送っていた。

「あー、帰っちゃった……」
「帰る事はないのにな。
 なんか、後味が悪いな。気にしてなきゃいいんだが」
「……」

 紫雲には、何故【絵筆】が帰ったのかが理解出来た。
 なにせここには【ヴァレット本人】がいるのだ。
 いたたまれない気持ちが湧き上がり、ここに居辛くなってしまったのだろう。
 ここに来た……いやもしかしたら、ここ数日ずっと現れただったままの理由かもしれない部分を言い当てられたがゆえに。

「なんで……? そうならそうと、伝えてくれたら……」

 紫雲は思わずそう呟いていた。
 名前を名付けてほしい、そう言ってくれていたら、それこそ考えていた名前について話し合う事が出来た。
 遠慮していたのなら何故なのか、その必要なんか何処にもないのに、自分はそんなにも話し掛け辛かったのか……そうしてショックを受けた紫雲が呆然と空を見据えていると。

「うーん。ヴァレットを、気遣ってるんじゃないのかな?」 

 紫雲の言葉を『何故ヴァレットにそれを話さないのかという』単純な疑問だと認識した入鹿は、思ったままに言葉を紡いでいく。
 
「え……?」
「少ししか話してないけど、あの子、多分……ううん、きっといい子だよね。
 いい子だから、自分の名前を早く決めてくれ、なんてヴァレットを急かしたくなかったんじゃないかな」

 初対面の自分達のリクエストに快く応えてくれた事や、素直な感情の発露を見て【絵筆】の人柄をそう認識していた入鹿の推測。
 それは征も同意見のようで、顎に手を当てながら、うむ、と鷹揚に頷いてみせる。
 
「ああ、俺もそんな気がする。……やれやれ。
 気遣いしてくれるのはいいが、し過ぎて過剰に遠慮されるとやり難いよな。
 そう思わないか? ……草薙」

 そう言って、征は意味ありげな笑みを紫雲に向けた。
 一瞬、紫雲は自身がヴァレットなのだとバレたのでは、と思ったがそうではないとすぐに思い直した。
 征が言っているのは、ほんの少し前、自分が二人に遠慮していた事についてなのだろう、と。

『相談できる人に相談したらいいじゃない。その、えっと例えば……』
『俺らに手伝える事があったら、言ってくれていいんだぞ?』

 二人が自分に向けてくれた言葉。
 自分があの子に向けて呟いた言葉は、それと同じベクトルのものではないのだろうか。

 遠慮されるとやり辛い、という征の言葉。
 今の自分が感じている歯痒さは、きっとそれなのだ。
 
「……そう、だね。うん」

 つまり、それは今の自分の思いを、征や入鹿にもさせていたという事に他ならない。
 二人の言葉で少し冷静さを取り戻せたからか、
 今すぐに【絵筆】を追いかけたい気持ちが芽生えていた紫雲だったが、それと同じ位二人に伝えなければならない気持ちがある事に気付く。

「久遠君、新城君、さっきは……っ!?」

 紫雲が気持ちをを伝えるべく言葉を紡ごうとした、まさにその瞬間、彼女は感じた。
 ここから少し離れた何処かで概念種子が活動しているのを。

 概念種子の活動=悪事とは限らない。
 だが、紫雲が感知できるほどの概念種子の活動は、
 世界に何かしら影響を与えるレベルのもので、
 そういったレベルの活動が人に何かしら迷惑を掛けるものである事が多いのは事実だ。

 クラウド曰く、概念種子の能力発動が例えば身近な何かを見たり聞いたり触ったりするだけ……
 つまり能力の影響が、能力者の【内部】、日常生活の中で収まる程度である場合は紫雲でも感知するのは難しいらしい。
 だが、それがより遠く、深く見たり聞いたり触ったり……
 何かしらの強い目的意識を持って、能力を発動させていたのであれば、種子の発動は途端に感知しやすくなる。
 それは、例えるなら声や音。
 独り言や近くの人に聞かせるのであれば小さい声や音でいいが、より広くより多くに聞かせたいのであれば大きくしなければならない。
 そして、そういったものが大きくなれば、当然それは感知しやすくなる。
 ヴァレットはそれを拾って、概念種子の活動現場に向かうのである。
 勿論、どんな場合も確実にそうであるとは言えない。
 能力の熟練者であれば、影響その他を最小限にする事も不可能ではないだろう。
 だが、ヴァレットが相対する事の多い能力の暴走体は、影響を小さくしよう、というような意識は皆無だったり、能力に目覚めたばかりでそういった制御ができなかったりが多い。
 
 そういった事情から、ヴァレットが感知可能な概念種子の発動というのは、騒動の種の可能性がそれなりに高いもの、という事になる。
 
(……これは、空? 悪意はあまりない……暴走体か)

 そうして数秒で情報整理した紫雲は、形にしようとしていた征達への言葉を変化させた。

「……っと、ごめん。ちょっと電話が掛かってきたみたいだ。
 姉さんか、バイト先かな?」

 ポケットに入れている携帯は無論着信の気配を見せていない。
 知り合いといる時、場を離れるための理由として、紫雲が使っている【嘘】の一つだ。

(……ああ。今日は、何回目の嘘を吐いたんだろう)

 そういう嘘を吐く度に、紫雲は苦しくなる。
 なるが、そうする以外の適切な手段が思いつかない。
 ゆえに、紫雲は多くの場合……いや、ほぼ全てにおいてそうしているように胸の痛みを抑えながら、言った。
 嘘を吐きたくない……今日尚更に吐きたくなくなった二人に向けての嘘を。

「少しの間だけ、席を外すね」
「……そうか」
「すぐ戻ってくるつもりだけど、予鈴が鳴っても戻ってこなかったら気にせず教室に戻ってて」
「え? そんなに込み入った話になりそうなの?」
「どうなのかな? ちょっとわかんない。じゃあとりあえず行ってくるよ」

 そうして慌しく研究会の部室を飛び出した紫雲は、
 戸を閉めた事と廊下・窓の下に誰もいない事を確認して、その身を窓の向こうへと躍らせた。
 ジオラマ研究会は、部室棟の3階にあり、当然その階から地面まではそれなりの高さがある。
 だが、紫雲はそれをさして気にする事なく、並の人間なら最低骨折するだろう高所から何事もなかったかのように着地。
 そのまま、学園内で探し出していた変身するのに問題のない場所へと移動、周囲に問題がない事を確認した上で、変身のキーワードを小さく呟いた。

「マジカル・チェンジ・シフト……フォー、ジャスティス」

 キーワードの後、紫雲の学生服がオセロをひっくり返すように組み替っていく。
 体型を隠す為にやや大きめである制服から、女性としてのスタイルが見て取れる装束へと。
 衣服の変換が終了した後、髪が長く伸びながら棚引き、黒髪から紫髪へと。
 そうして変身した紫雲……ヴァレットは、一瞬だけ瞑目する。
 思考中だった事や、申し訳なさや痛みといった感情、それらをとりあえず胸の内に押し込む。
 草薙紫雲としてやるべき事、話したかった事を今は考えない。
 今の自分は、ヴァレットなのだから。
  
「……よし。じゃあ……」

 じゃあ、行こうか。
 そう呼びかけようとして、いつも変身した時は隣に浮かんでいた相棒がいない事に今更のように気付いたヴァレットは、押し込めたばかりの先程までの出来事を掘り起こす。

 ……あんな事があった後なのだ。
 一緒に飛ぶような、自分に力を貸すような気持ちじゃないのではないだろうか。
 少し前までは追いかけたい、そう思っていたが、よく考えたら追いかけた後で何を話せばいいのだろうか。
 今は自分の顔を見たくないのではないだろうか……。

 矢継ぎ早に思考を巡らせたヴァレットは、自分一人で現場に向かうべく地面を蹴ろうとする。
 だが。 

『うーん。ヴァレットを、気遣ってるんじゃないのかな?』
『気遣いしてくれるのはいいが、し過ぎて過剰に遠慮されるとやり難いよな。
 そう思わないか? 草薙』

 その瞬間、入鹿と征、二人の言葉が脳裏に甦る。

「……ああ、そうだね。うん。そうなんだよね」

 そうして教えてもらった事を思い出したヴァレットは、声と意識を重ねて呼びかける。
 大切な、もう一人の相棒に。

「お願い。力を貸して……ライブラッシャー……ライッ!!」

 生きている絵筆。そこから連想し名付けた名前……ライブラッシャー。
 だけど、それだけでは違うような気がしていた。
 そこから先の思考を助けてくれたのは、草薙紫雲としての友人達。
 彼らからの言葉を頼りに思い付く事が出来た、もう一つの名前を添えてヴァレットは呼びかける。

 直後。
 彼女の呼びかけに応え、空の彼方から紫色の光の軌跡と共に【絵筆】は舞い降りた。

「……ありがとう。来てくれて」

 彼は自分の眼前で停止し、身体を撫でる手を避けもせずに受け入れてくれている。
 身勝手な理由でずっと名前を決めず、呼ばず、怒っていても……怒られて当然だった。

 だけど、来てくれた。彼は一分の迷いなく、ヴァレットの声に応えてくれたのだ。
 その事に心からの感謝を込めて、ヴァレットは言った。

「さっきの、聞こえてたかな。貴方の名前」

 彼は頷く。身体を大きく縦に振って。

「本名は、ライブラッシャー。
 生きてるって意味を持つライブと絵筆……ブラシを掛け合わせて、私の大好きなヒーローの乗るマシンのような名前にしたの。
 でも、それだと可愛くないかなって思うから、愛称として普段呼ぶ名前がライ。
 どうかな? 嫌な名前になってない?」

 彼は否定した。身体を大きく横に何度も振って。

「ほんとにほんと?」
  
 彼は肯定した。身体を大きく縦に何度も振って。

「……よかった。
 私ね、本当は、今貴方を呼ばない方がいいのかなって思った。
 私の顔なんか、見たくないのかもしれないって。
 ……でも、それはきっと私だけの我が侭で、思い込み。
 優しい貴方はきっと、私が呼ぶ事を望んでくれてる……そう思ってよかったんだよね」

 二人が教えてくれたから、そう思えた。改めて信じられた。
 こうして、今自分に向き合ってくれている、ヴァレットとして活動を始めた時からずっと一緒に戦ってくれていた存在を。

「ごめんなさい。
 素敵な名前を付けてあげたくて、遅くなってしまったの。
 もしかしたら、貴方に誇ってもらえるような、素敵な名前じゃなかったらって、思ったら怖くて……それで言い出せずにいたのかもしれない。
 ……こんな私を、許してくれる?」

 うんうん、と頷く【絵筆】……ライ。
 彼から放出されている光の穂先は犬の尻尾さながらに、それまでで一番大きく激しく振られており、彼の気持ちを雄弁に語っている。
 そんな彼の想いを、ヴァレットは強く確認し、深く確信した。

「ありがとう。ライ。
 今までずっとありがとう。そしてこれからもよろしくね。
 ……じゃあ」

 もう迷いはない。後ろ暗い気持ちなど微塵もない。
 話したい事は、正直まだまだたくさんあったが、それは後でもいい。
 今為すべき事がなんなのか【自分達】にはハッキリと分かっているのだから。

「行こう……!」

 ヴァレットが空高くジャンプする。
 ライは彼女の足元に自身の身体を滑り込ませる。
 それは、一見するといつもと同じように飛び乗ったようだっただろう。
 だが、そうでない事は、他ならない当人達が一番理解していた。
 まるで、パズルのピースが完全に嵌ったかのような一体感と共に【ヴァレット】は空の向こうへと飛翔していった。

 過去類を見ないほど「負ける気がしない」彼女の行き先にあった概念種子が、二人の【敵】たりえたのか……それは語るまでもないので割愛する。
 














「姉さん、ありがとう」
「唐突に何を言ってるんだ、お前は」















「昨日は残念だったね」
「昨日は残念だったなぁ」
「いや、うん、そうだけど……その話、今日でもう5回目だからね、二人とも」

 翌日の放課後、ジオラマ研究会の部室にに紫雲、入鹿、征がいた。
 二人が楽しげに語る内容に、紫雲はただただ苦笑するばかりだった。 

「でも、そんなに話せなかったんでしょ? ヴァレットと」

 紫雲が電話に出るために席を外して約10分後、ヴァレットが部室に現れた。
 部室に訪れた理由は【絵筆】……ライがお世話になった事、
 そのお陰で彼の名前について語り合えた事、名付けのヒントをくれた事への感謝の為だった。
 彼女は、ライの名前について由来と名前、愛称を二人に語った後、
 今は時間がないので長く話は出来ずにすぐ去るが、
 入鹿の事をちゃんと覚えており、動画の完成を楽しみにしていると告げて、
 最後に改めて感謝を伝えた後、窓から飛び去っていった。
 そして、その直後……時間にすれば数秒という間を空けて紫雲が戻ってきたのだ。

 ……二人の立場から状況を見た場合、そういうことになる。

 実は、二人が話していたヴァレットは、
 紫雲が常日頃から用意している念のため装備の一つ……魔法で描いて作った式神だったりする。
 紫雲は、男装した紫雲の姿とヴァレットの姿、二種類の式神を持ち歩き、状況に応じて使用する事がある。
 制作・使用目的は、ヴァレット活動時の草薙紫雲のアリバイ作りである。
 しかし、この式神、自立思考能力が低いため、複雑な動きをするには紫雲が近くにいて指示しなければならないという欠点がある。
 この欠点さえなければ、授業や部活、バイトなどを休んだり、途中で抜け出さずにすむのだが、と紫雲は自身の未熟さに歯噛みしている。
 元々この手の術が不得手な紫雲が、魔法による底上げでかろうじて制作可能になった代物なので仕方がないと言えば仕方がない欠点なのだが、姉たる命は式神を扱う術を遥か上のレベルで身に付けているため、紫雲としては自分が不甲斐無いのだと思うばかりである。
 
 ならば、命に身代わり式神を制作してもらってはどうだろう、とクラウドが提案した事もあったのだが、
 その場合、遠隔操作や自立思考については問題はないのだが、
 式神が命からのフィードバックで紫雲の知り得ない事を知っていたり、
 紫雲の日常生活や趣味を完全には把握していないが故の不自然さ、
 それらを含めたボロが出たときのフォローが四六時中式神に意識を向けられない命には困難である事から、却下されている。
 いかに自立思考・行動が出来ても、式神が人一人に不自然さなく完璧に成り代わるにはそれ相応の準備が必要になるのである。
 
 閑話休題。

 とはいえ、ほぼ間断なく入れ替われた……直前まで廊下で操作の念を送っていたがゆえに……ので、自分に疑いを持たれる事はないはずだ。
 欠点が多い術ではあるが、上手く使えば疑いを減らすには十分。
 後はもっと精進を積んで術の精度を高めていかねば……そう考えながら、紫雲は二人への言葉を続けた。

「もうちょっと長く話せてればよかったんだけどね。……僕としても」
「それは仕方ないよ。ヴァレットは忙しいんだろうし」
「そうだなぁ。最近また変な事件が増えてきたからな。
 ヴァレットたん、ちゃんと自分の生活できてんのかね」
「……大丈夫だよ、きっと。彼女が、正義の味方を目指してるんならね」
「……。
 なんかいまいち根拠とか答になってない気がするぞ、それ。
 まぁ、それはそれとして……いやー本当に残念だったな。
 ヴァレットたん、リアルで会うと、流石の存在感だったぞ、うん」
「うんうん、僕は会うの二度目だけど、こう、なんというかあるよね、存在感」
「ああ。背が草薙と同じ位で、女の子にしちゃあ身長高くてスタイルがいいのもあるんだろうな。
 ……例の動画で着痩せするタイプだと確信したが、目算でも結構……」

 二人の言葉に、紫雲は複雑な心境となった。
 褒められている(?)こそばゆさや嬉しさ、恥ずかしさが入り混じり、なんとも言えない気持ちだ。
 ただ、彼女が感じているその気持ちには、ほんの少し、安心感、のようなものが混じっている。
 ジオラマ研究会に入ってから少し増していたそれは、昨日の出来事で以前よりさらに増しているように、紫雲には思えていた。
 そして、その気持ちの大本がなんなのか、彼女は分かっていた。
 分かっていたから、紫雲は少し顔が熱くなっているのを承知の上で苦笑のままに言った。

「久遠君、そういうのは女の子がいる場だとほどほどにね。
 二次元の女の子も、デリカシーがないのは好ましくないんじゃない?」
「む。それはそうだな。
 三次元でそういう発言してるといざ二次元に行っても、引き摺られかねん。
 その歳でこの手の話題に不慣れなのは気になるが、いいアドバイスサンキュー、草薙」
「それは人によると思うけど、どういたしまして」
「いやいやいや、二人していつか二次元に行けるの前提で話すのどうなの?」
「きっと行けるよ、久遠君なら」
「ああ、勿論だ」
「……本気だよ、この人達……」
「もし行けたら、その時はうちにインタビューさせてな、久遠君」
 
 呆れ気味の入鹿の呟きの後そう言ったのは、少し前から部室に訪れていた元新聞部副部長、現・新聞部部員の駆柳つばさ。
 彼女は二学期になって新聞部復帰し始めた頃から、ジオラマ研究会にたびたび訪れるようになっていた。
 入鹿達とは共通の話題があることからそこそこ話せる間柄となっており、彼女はそれゆえの親しげな笑みを向けつつ、言葉を続ける。

「きっとまたネットを焦がすほどに熱い記事にしたるから」
「いつか俺が果たす偉業をインタビューするのはいいが、炎上はノーサンキューだぞ」
「それは久遠君次第やろ。別にうちは炎上を狙っているわけやないからね。
 まぁ、結果としてこんがりにはなるやろうけど」
「……えーと、それは」
「狙っているのと同じ、とは言わないけど大差ないんじゃ」
「ま、それはそれとして」

 紫雲と入鹿の突っ込みを受け流しながら、つばさは言った。
 パチパチ、と小さく手を叩きながら。

「ヴァレット題材のジオラマアクション動画、第一作目完成おめでとさん」
「うん」
「ありがとう、駆柳さん」
「祝辞は受け取ろう」
「動画の宣伝はうちに任せてな。
 きっちり宣伝して、有名にしたるさかい。
 そうやね、さしあたっては噂ではヴァレットのファンらしい岡島財閥の総帥が公式にチェックしてるって言わせるくらいに」

 岡島の名前に紫雲の眉がピクリと僅かに反応する。
 が、今回に関してはそれに気付いたものはおらず会話が続いていく。

「そいつはありがたいが……ジャーナリストが私的な宣伝っていいのか?」
「良いと思ったものを伝えるのもジャーナリストやからね。
 それに、他ならぬヴァレット絡みやし。
 うちはヴァレット本人公認ジャーナリスト。あんたらも本人公認ジオラマ動画……いわばお仲間や。
 やから、うちも今後は協力したるよ」
「え?」
「補欠でよければ、部員になってもええよってこと。
 流石に本格的な参加は無理やけど、部員不足で研究会がなくなる、って事態は避けるぐらいには使ってくれてええよ。
 うちとしても、ネタになりそうな場所がなくなるのは困るし……まぁギブアンドテイクやね」
「えっと、それは……」
「助かるような不安なような、微妙な感じだな……」
「何言ってるの、二人とも。人が増えてくれるのは良い事じゃない」
「う、それはそうだね、草薙君。まぁ、その、駆柳さんがいいなら」
「面倒なら入らなくていいぞ」
「……なんか微妙に歓迎されてない気がするんやけど、まぁええわ」
「と、とにかく入部ありがとう、駆柳さん。よろしくね」
「ん、よろしゅうな。草薙はん。昔のお噂はかねがね。
 前はヴァレットで一杯一杯であえてスルーしてたんやけど、アンタにもネタ的な意味で色々期待してるんでよろしゅう」
「あはは……それはあんまり期待しないでくれると助かるかなぁ。
 えっと、とりあえず入部届け書いてもらった方がいいかな」

 そう言って、紫雲は自身の制服の胸ポケットに差し込んでいたペンを引き抜こうとした。

 その瞬間。
 紫雲が取ろうとしていたペンが、ヒョイ、とほんの少し持ち上げられる。
 周囲の人間が見ても、不自然ではない程度の匙加減で。
 それに気付いた紫雲は、取ったペンの隣に差し込まれている、一見すると同様に見えるものに感謝の念を贈る。

 この場にいる皆は知らないし、気付いていない。
 紫雲がペンと一緒に胸ポケットに差し込んでいる【もう一つ】がペンではない事を。

(……二人には、ホント感謝しかないよ)

 そこにいたのは、ボールペンサイズとなったライ。

 状況を解決した後、紫雲は最早ライを再度格納しようなどという気はなくなっていた。
 日常的に行動を共にするには難しい。だが一人にさせたくはなかった。
 そこで、征の言葉からのヒントを得て、試したのだ。
 すなわち、ライのサイズのコントロールを。
 結果、思いの他スムーズに大きさをコントロールする事が可能になった。

 クラウド曰く、ライと紫雲の意思の一致がそれを可能にしたのでは、という事らしい。
 実際紫雲も、そしてきっとライ自身もそれが正解だと確信していた。

 なので、紫雲は暫くボールペンサイズのライと共に日常を過ごす事にした。
 通常サイズの頃とは比較にならないとは言え、ヴァレットの【絵筆】と同じデザインのものを所持している、というのは誰かしらに怪しまれる事なのかもしれない。
 だが、それはきっと十分に『なんとかできる』ことだ。
 だから、紫雲はライと行動を共にする。
 いつか、ライ自身が『もうだいじょうぶ』と言えるようになる、その日まで。
 ……いや、最早行動を共にしない理由はないのかもしれない。
 ただ、こうなった今、クラウドと意味合いは違うがライとはいつも一緒なのだ。
 彼と意志を交わし合う事は、いつどこでだってできる。
 だから、その辺りについては、焦って考える事はないだろう。
 
 焦って、ではないが、考えるべき……考えたい事は他にある。
 それは色々あった結果、昨日二人に言い損ねてしまった言葉、気持ちの事。
 最早時機を逸した言葉であり、この二人なら告げなくてもいい言葉なのかもしれない。 

 だが、紫雲は思うのだ。出来るなら伝えたい、と。
 いつか、今は言えない全てを含めて、言い損ねてしまった事を告げるのにふさわしい日に。
 それが、最良の状況でなのか、最悪の状況でなのかは、予測さえ出来ない。

 ただ、言葉にして伝えたい思いがあるのは間違いない。
 伝えなくてもいいのだとしても、ちゃんと言葉という形にして伝えたい。

 ……それはきっと、不安や臆病さからだけではない。
 異能を使う【術士】だろうが、魔法多少少女だろうが、自分は人間だ。
 人間である以上、言葉を交わして交流を重ねていかねばならないし、何より紫雲自身が他ならぬ彼らだからこそそうしたいのだ。
 嘘ばかり吐いて、困らせる事が多くなってきたにもかかわらず、自分の事を心から案じてくれる……大切な友達だから。

 だが、それは少なくとも今この時ではない。
 ゆえに紫雲は、一見ごく普通に取り出したペンを、何事もなくつばさに差し出した。
 様々な思考を、想いを、ライの代わりの様に、頭の片隅と心の中に格納しながら。

「おおきに。じゃあ、ちゃっちゃっと書くと……」
「よし、まず一つ目の動画サイトに投稿完了。何回も見たがとりあえず見てみるか」
「そうだね、環境によって動画がベストな状態で見れないかもだし」
「用意した低画質版も必要なら投稿しないとな」
「ちょっ!? うちをさしおいてなにしてんの?!」  
「いやいや、これから色々なとこに投稿するし、その都度何度でも見れるでしょ」
「えぇぇっ!? こういうの、最初が大事やんっ!」
「まぁ言ってる事は分かる。
 じゃあ、再生するぞ? いいか? 勿論草薙にも聞いてるんだぞ」
「え?」
「え、じゃないでしょ。
 ほら、部員皆で作った初投稿動画なんだから。
 入ったばかりの駆柳さんはともかく、草薙君は一緒に見ようよ」
「地味にひどい事を言ってるな、新城……」
「あ、いや、駆柳さんを除け者にする意味はないよ、うん。重要度が違うというか」
「それ除け者とちゃうん?」
「とにかく、ほら、再生するよ」
「押すぞー。再生ボタン押すからなー」
「……」
 
 そうして、動画は始まった。
 それは、入鹿がヴァレットに出会う前に遭遇した【雨雲鯨】との戦いをモデルに、より激しい戦いにアレンジしたもの。

 可動フィギュアのヴァレットの動き……細かい動きのコマ撮りや、ヴァレットを乗せたライをさらに乗せた小型ドローンを動かす飛行シーンなど……を入鹿が行い、
 征は鯨やヴァレットの魔法部分のCGをネットで配布されている素材などを元に制作、
 紫雲はそれ以外の諸々……カメラ撮影しながら照明の動きやジオラマに仕込んだ仕掛けを絶妙なタイミングで作動させたりなど……を担当。

 それらを組み合わせて撮った内容を、三人で意見を交わしながら編集し仕上げた……そんな動画。

「お、おぉぉ! 思ったより、凄いなぁ。うん、宣伝のやる気沸いてきたわー」 
「ん。んん。うん、なんだろうな。何回も見てるのに、いい感じに見える。
 いかんな、もっと客観的に見ないと」
「いやいや、一回目くらい贔屓目で見ていいんじゃないかな、うん」

 見る人間が見れば、稚拙だというのかもしれない。
 所詮アマチュアの作品だと言われても仕方のないものなのかもしれない。

 だけど。
 彼らにとって、今この瞬間、この動画は……間違いなく初めての最高傑作だった。

「……うん、いい」

 赤い夕日が差し込んだ、騒がしい部室。
 今この場にある、赤く染まった全ては、遠い記憶の薄暗い部屋とはまるで違っていて。

「すごく、いいよ」

 そんな光溢れる世界を視界に入れた草薙紫雲はそう呟いた。そう呟く事しか、出来なかった。
  
 
 



 







 ……続く。






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