第4話(後編) とある偶像と平赤羽市
「……クラウド、ありがとう」
少年を探してくれるよう頼んでいたクラウドとの【法力会話】により、
彼の居場所を把握したヴァレットは、黄緑との会話の後ものの一分と掛からずにクラウドと合流した。
そこは、パークの片隅で入口からは最も遠く離れた場所。
公園のようになっており、弁当などを持参した人々はここを利用してピクニック気分を楽しめる、と泉次から貰ったパークの地図には書かれていた。
そろそろ昼食の時間なので、人がいるのではと思ったのだが……奇妙な事に、人気はなかった。
完全に、というわけではなく一人か二人薄い気配は感じるが、少なくとも見える範囲にはいない。
その辺りの【事情】になんとなく見当をつけつつヴァレットが告げた礼に、クラウドは肩を竦めるような所作で答えた。
「礼を言われるほどの事はないさ」
「そんな事はないよ、うん。ホントに」
クラウドの毛並みは乱れに乱れたままだった。
強引にプールに入れられたであろう全身は、夏場なので大分乾いているのは不幸中の幸いというべきか。
いや、毛並みが乱れたまま乾いているのは不幸というべきだろうか。
ともあれ、そんな身体を整える時間を削ってまで探してくれていたのだろう。
……すっかり猫の身体(擬似)に馴染んだのか気に入ったのか、
最近は毛繕いをはじめ、猫としての身嗜みに拘るようになっていたのを知っているだけに、ヴァレットは申し訳なかった。
「気遣いは無用だよ。今は君の為すべき事を優先するといい」
そんなヴァレットの表情から心情を読み取ったのか、
クラウドは頭を振って、少し離れた場所でこちらに背を向けて座り込んでいる少年を指し示した。
「……うん。今はそうさせてもらうね」
頷いて、子供に近付いていくと徐々に何かが強くなっていく。
それは先程、子供達の元に降り立った時も感じていた冷風。
まるで近付けば近づくほどに強くなる……ここだけまるで冬になったような空気の流れを感じ取ったからか、周囲には誰もいない。
いや、違う。
それも少なからずあるのだろうが、それ以上に本能的に【何か】を感じ取ったのではないか、ヴァレットはそう推測した。
(なるほど……)
ここに至って、ヴァレットは自身の直感的な見当がそう外れたものではない事に確信を抱きつつあった。
だが、今はそれよりも優先すべき事がある。
「こんにちは」
「ヴァレット……?」
穏やかに呼びかけると、少年がゆっくりと振り向いた。
別に有名になりたいわけではないが、どういう存在なのかを知られている、というのはこういう時にありがたい。
時間がない状況では自身についての説明を省く事ができ、即座に本題に入る事が出来る。
そんな事を考えている中、ヴァレットに向き直った少年は、所在なさげに視線を彷徨わせた後、やるべき事を思い出したかのように慌てて小さく頭を下げた。
「ご、ごめんなさい」
「何がですか?」
「えと、その、いろいろ。
さっき、挨拶もせずに、いなくなったこととか……それから、えっと、皆から、僕の事、聞いたんでしょ?」
「スキーが出来るって、凄く自慢してた事なら。
挨拶は……そうですね、出来る時はした方がいいですね、ええ」
少年の言葉や態度に、ヴァレットはほんの少し気を緩めた。
所謂【ガキ大将】的なタイプだったら話し合いは難しいかもしれない、と思っていたが杞憂だったようだ。
おそらくこの少年は基本的には良い子なのだろう。
スキーの自慢は、あくまでクラスに馴染む為の手段であっただけ。
最初に威張ってしまい、引っ込みがつかなくなった事がズルズル続いてしまっていたのだろう。
そして、先程の出来事にしても、クラスメート達と少し距離と時間を置いた事で頭が冷えたのか、感情的にもなっていない。
子供である事を考えると冷静になるのが早い気はするが、ヴァレットの予想が正しければ、不思議ではあるが予想の範疇内ではある。
そうして少年の状況や心情を推し量るべく彼をじっくり見ていたからか、
彼は何処か気恥ずかしげに再び視線を彷徨わせた後、チラリとヴァレットに視線を向け、呟いた。
「僕を、怒りに来たの?」
「……私が怒るつもりはありません。
それはきっと、クラスメートの皆さんと話した結果……話していく中で決める事で、決まる事です」
「話して、くれるのかな」
「さっき皆さんとは話してきましたが、それはきっと大丈夫ですよ。
本気で怒ってる子はいませんでしたし」
「ほ、ほんと?」
「ええ。
でも、もし不安なら……私が後ろからこっそり見守らせていただきますから。
安心してみんなの所にもどってください。
……でも、話す前に貴方にはやるべき事があるはずです。
そして、それは……貴方が一番よく分かっているはずです」
「みんなに、謝ること、だよね」
少年の言葉にヴァレットは深く頷いた。
その肯定に安堵したのか、少年は溜まっていたものを吐き出すように言葉を、心情を並べていく。
「……僕ね。怖かったんだ。
僕、生まれたのは、この町だったけど、ママの仕事で北の方の町に行かなくちゃいけなくなったらしくて。
ちょっと前に、それがなんとかなったからこっちに行くことになって。
元いた場所に帰るだけだって、パパやママには言われたけど、僕には分からなくて」
不安で話さずにはいられなかったのだろうソレを、
ヴァレットはしっかり少年を見据えつつ、頷きながら、一言一句逃さぬように耳を澄ませていた。
「転校する前、僕にはすごいことができなかった。
勉強も、運動も、みんな普通で。
スキーだって、あっちだとみんな普通に出来て。
出来ない子だって、いなかったわけじゃないけど、少なくて。
そんな僕だから、知らないみんなの中で何も出来なくて、自信がなくて、縮こまってたんだ。
でも、転入してすぐに、スキー教室があって。
こっちじゃみんなそんなに上手くなくて、あっちじゃ普通だった僕が一番だった。
一番だったこと、僕生まれて初めてでね……褒められて、嬉しくなって、つい偉そうにしちゃった。
勉強も、こっちが少し遅れてたから、先を知ってる僕は頭が良いような気分になって、おんなじようにやっちゃって……」
「貴方の気持ち、私なりに、ですけど、少し分かるような気がします。
皆に出来ない事が自分に出来る事を知ってしまうと、自慢したくなっちゃいますよね」
「え? ヴァレットも、そうなの?」
「ええ。
でも、私は、それで昔友達に嫌われてしまいました」
正確には自慢をしていたわけではない。驕っていたのだ。
そんな事はないと思っていながら、心の何処かでは確かに思い上がっていたのだろう。
自主的な身体強化の試行錯誤、草薙家の術伝承の為の修行。
正義の味方になりたい、という思いの下、それらで自身を鍛え上げ続けた【ヴァレットになる少し前までの】紫雲は、その力で誰かを助けようと躍起になっていた。
人に迷惑を掛ける色々なものに挑み続けていった。
それが知らず気付かず、力を誇示する結果になっており、多くの同級生達から距離を置かれていた時期があった。
数年前、不良グループを相手取っていた時が最もそうだった。
困っている人達を、友人を助けようと必死に、我武者羅に立ち向かっていた。
だが、全てが終わった後……様々な状況が絡み合った結果、不良グループが解散した時、紫雲に残ったのは達成感などではない。
むしろ真逆の、後悔の念ばかりであった。
不良グループとの対峙そのものは、おそらく今の自分でも選択するだろう。
問題なのはその向き合い方だ。
数年前は、自身の強さを笠に着て腕力を持って黙らせるばかりだった。
当時は、それしか方法がなかった。話し合いの余地はなかった。
少なくともそう思っていたのだ、その時は。
だが、全てにおいてそうだったのか。
暴力、腕力以外での解決方法は本当に全くなかったのか。
今にして思えば、他の手段があったのではないかと思えてならない。
なんにせよ、最終的に紫雲は暴力を誇示し続ける事しかできなかった。
……実際の所どうだったのかや、紫雲の周囲にいた人々がどう思っていたかはともかく、少なくとも紫雲自身はそう思っている。
ゆえに、その対峙は、今現在も紫雲にとって後悔だった。
そうして当時の事を思い悩み続けている紫雲……ヴァレットとしては、少年に【誇示する】事での後悔をしてほしくはなかった。
今にして思えば、先程の子供達との会話では、どちらかと言えば少年寄りだったのかもしれない。
独善的にならないよう、客観的である事を意識していたつもりだったが、
その上でもし少年寄りだったとするのなら、少年と自身を無意識に重ねて見ていたのかもしれない。
勿論、自身のどうしようもない過ちと、この少年のささやかな誇示とは重なるべくもないのは重々承知しているが。
「その人たちとは、どうなったの?」
「仲直りできた人もいますけど、仲直りできなかった人もいます。
できなかった人達の事を思い出すたびに、私はずっと、ずっとずっとずっと、どうしてあんな事をしてしまったんだろう、と思い続けています」
「……ヴァレットは、どうして、そんな自慢をしたりしたの?」
「それは……みんなと仲良くしたかったから、だと思います」
「!」
「自慢をする事は、ただのきっかけでよかったはずなんです。
そうしてきっかけを作って、みんなとお話できるようになって、遊んだりできるようになって……
そういう事をずっと続けていって、出来るだけたくさんの人と仲良くなりたかったんです」
かつてはそうだった。一番初めはそうだった。
それこそが、紫雲が正義の味方になりたいと思った最初の、一番の理由だった。
誰かを守る事でたくさんの誰かと関係を作り繋がっていく、正義の味方の在り方に憧れていた。
そうする事で、両親がいない寂しさを、心の穴を埋めようとしていた。
いや、今でも憧れてはいる。
だが今は様々な経験を重ね、紫雲なりの成長を経て、いつからかそれは一番の理由ではなくなっていた。
「貴方は、どうでしたか?」
そんな自身の経験を思い起こしながら、ヴァレットは少年に問い掛けた。
「みんなと、仲良くしたかったから……うん、そうだよね。僕もそうだったんだ」
そうしてヴァレットが自分を引き合いに出した結果なのか、少年は素直に口にしていた。
少年が自慢した、してしまった根本的な理由と、そうした結果どうなったのかを。
「僕もね、きっかけが、ほしかったんだ。仲良くするための何かがほしかったんだ。
でも、すごく心細くて、そうする勇気の代わりに、これはどうだって言えるものが、これならみんなに負けないんだって、言えるものもほしかったんだ。
二つともほしくて、欲張って……でも、ちやほやされるようになって嬉しくなって……はじめの気持ちを、忘れてて。
そうしてたら、いつのまにか、嫌われるようになってて……
だから、僕、今日パークにも来たくなくて、ずっと冬だったらいいのにって思ってて……」
「でも、貴方はここに来たじゃないですか。
今日貴方が何を思って、何を考えてここに着たのかまでは、私には分かりません。
でも、逃げたりせずに、ここに来たのは……立派な事だと私は思います」
今日何が行われるのか、何を言われるのか、少年は概ね理解していたはずだ。
だが、それでも彼はここに来た。
単純な意地なのか、威張っていた事へのケジメなのか、ここで謝ろうとしていたのか、あるいはそれら全てが絡み合っていたのか。
いずれにせよ、威張り続ける事だけに拘っていたのであれば、ここには来なかった筈だ。
ただ威張り続けたければ、立場を少なからず守りたかったのであれば、この場を避けるのが一番の方策だったはずだ。
それでも、彼はここに来たのだ。
「ここに来ようと決めたときの気持ちと、みんなと仲良くしたかったという気持ちを思い出したのなら、忘れなければ、きっと大丈夫です」
「そう、かな」
「ええ。
誰だって自慢したい事があります。
誰だって寂しい時があります。
それが理由で喧嘩したりする事もきっとあるでしょう。
でも、ずっと喧嘩をしていたい、なんて思う人は、そんなにいないんじゃないでしょうか。
人は皆それぞれ違う所はありますが、そういう所は皆そんなに変わらない、そう私は思いますよ。
それとも、貴方は、クラスメートの皆さんとずっと喧嘩がしたかったんですか?」
ヴァレットの問い掛けに、少年はブンブンッと力強く首を横に振った。
「なら、本当の気持ちを素直に伝えれば、きっと大丈夫です。
皆さんなら……貴方のクラスメートなら、分かってくれます」
「……もし、みんなが、一人も、分かってくれなかった時は?」
「もしそうなった時は、きっと辛いでしょうけど、何度も話してみてください」
「ど、どのくらい?」
「貴方が、みんなに威張ってしまった分……それよりも少しだけ多めに。
それでもなんともならない時は、私もちゃんとお手伝いします。
でも、私はきっと大丈夫だと思いますよ」
「どうして?」
「普通はそんなにずっと威張っていたら、もういいや、って喧嘩もしなくなるんじゃないかなって、私は思うんです。
でも、みんなはずっと今まで貴方と話したり遊んだりしてくれてたんでしょう?」
「……あ」
そう。
本当に、心底相手を嫌っていたのならそもそもこんな……今日のような機会は設けないはずだ。
ここに至るまでの段階で無視するようになり、ただ孤立するだけのはずだ。
場所にしたって、夏休み中は解放されているだろう学校のプールでもいいはずだ。
だが、そうなってはいない。そうしてはいない。
そこにどんな気持ちがあるかなどは、当事者ではないヴァレットには推し量りようもないが……。
「だから、大丈夫ですよ」
だが、少年や、そのクラスメート達と話して、その素直さに触れた彼女はそう思えた。
そう思えた事が確かに伝わるように、ヴァレットは少年の肩に手を乗せて微笑んだ。
少年は、自身の左肩に乗せられたその手と、ヴァレットの顔を順番に眺め見る。
そうして視線が重なった瞬間、ヴァレットが小さく頷いた事が最後の一押しになったのか、少年の表情はパーッと明るくなっていく。
「うん……うん、もう、冬じゃなくていいんだね」
「ええ。冬じゃなくても、貴方はきっとみんなと仲良く出来ます」
「ありがとう、ヴァレット。
僕、今から戻って、ちゃんとみんなと話すよ。
そうだ、うん、夏になって、いいんだね……」
そう、断言した瞬間だった。
少年の中から、何かが飛び出したのは。
ヴァレットとしては、そうならない事を望んでいたが、そうなるだろうと予測していた事が形になった瞬間だった。
「え?」
少年の中から弾かれるように現れた何か……緑色の光球は、
二人から少し離れた場所で、先程まで少年自身が生み出していた冷気を束ね、纏めながら、自らを氷と化しながら歪に盛り上がり、膨れ上がっていく。
最初は掌大だった大きさは、既に大型犬ほどの大きさとなっていた。
紛れもない、概念種子の具現・暴走である。
周囲に誰もいなかったのは、少年の中にあった、膨れ上がりかけていたものを異質な冷気と共に感じる事で本能的に危険だと避けていたのだ。
概念種子の具現・暴走を決定的にする要因は、大別すると2種類ある。
すなわち、種子の概念を否定するか肯定するか。
表面上否定しようとしながらも内心では肯定したいと思っていたりなどの複雑なケースもあるが、
今回はシンプルに少年が概念種子の在り方を否定した事で、種子が彼の中に居辛くなり乖離してしまったのだ。
「あ、あれは何?」
少年を歳相応以上に冷静にさせていた……【冷やしていたもの】がなくなったからか、彼は先程までより大きく感情を動かしていた。
「……あれは」
話すまいか、とも考える。少年は【事実】を知らずともいいはずだ。
これは今回の出来事と関係ない……とは言い難い部分もあるが、直接的には繋がっていないからだ。
だが……。
「貴方がみんなと仲良くしようと決めたから零れた、冬を望み続ける貴方の中にあった心の欠片です」
ヴァレットは、事実の一部を話す事を決めた。
少年が決意したという事を証明するために。
間違いなく変わろうとしているのだと、少年自身が自分自身を信じられるために。
それが少なからず辛い……心の痛みを伴うものだろうと理解した上で。
「ぼ、僕の?」
「ええ」
頷きながらヴァレットは形を成していくソレ……概念種子【氷山】を見据える。
すでに人の大きさを越えつつある【氷山】は、確かに、少年の中に宿っていた概念種子だ。
冬を望む少年の思いが種子を育て、少年の拒絶が種子を外界へと解き放ったのは間違いない。
だが、だとしても。
「でも、あれは貴方自身じゃありません。
貴方が作ろうと思って作り上げたモノではありません。
だから、何一つ貴方が気に病む事はありません」
「で、でも……」
「大丈夫です。
私が、貴方の心の片隅に仕舞い直しますから。
今は、とりあえず私が預かろうと思いますが……そうしても、いいですか?」
ヴァレットの問いに、少年は少し考えた末に、大きく首を縦に振った。
ヴァレットは、思う。
今も、昔とさして変わらないのだろう。
力を誇示する事も、力づくである事も。
そうなるまいと考えた所で、変わらない所は変わらないし、変えられない所はどうあっても変えられない。
先程の岡島黄緑との会話を思い出す。
そうだ。
結局の所、押し付けなのだ。
でも、それでも。
かつての後悔があるからこそ、今こうして言葉として伝える事が出来る。
ただの押し付けにならないように、自問自答を繰り返し、誰かに問い掛け、尋ねようという思考、想いを忘れずにいる事が出来る。
いつか、今の自分をかつての自分のように後悔する時があるのだとしても。
今この瞬間はこれでいいのだ、そう思える。
過去の痛みがあるからこそ、今を良くしようと思える。
この少年にその在り方を押し付けるつもりはない。
痛みなんかない方がいいし、失敗せず今を良くしていける人だっているのだ。
だが、こんな自分を見る事で、彼が何かを得る事が出来ればいい……そんな想いを内に秘めて、ヴァレットは立ち上がった。
「クラウド」
「うん」
「む、紫色の猫……?」
「ああ、彼は、私の家族で相棒のクラウドです」
「こそばゆくも嬉しい限りだね。うん。
やぁ少年、ただいま紹介に預かったクラウドだ」
「は、はじめまして」
「で、ヴァレット。この子をさっきの子供達の所に連れて行くんだね?」
クラウドに問い掛けられたヴァレットは、再度問い掛けるように少年に顔を向ける。
状況に戸惑い、キョドキョドとしていたが、ヴァレットの視線と、その意図に気付くと、うんうん、と頷いた。
それを確認した上で、ヴァレットはクラウドに対し頷く。
「ええ。お願い」
今現在も渦巻き、膨れ上がっていく概念種子を、改めて観察する。
今は自己保存の為に大きくなろうとしている以外何もしていない。
だが、こちらが種子封印を行おうとしたり、他の何かが害をなそうとすれば……
いや、自身を消し去りそうな夏の日差しが続くだけで、いずれ動き出すだろう。
「その後は……出来ればここ周辺だけで決着をつけようと思うんだけど、
そう出来ない可能性もあるから、ここら一帯にいる人達を、ううん、念の為にパークにいる人達みんなを一時的に避難させるべきだよね」
「うん、そう……」
「ふむ、確かに。そうするべきなのだろうが」
クラウドが頷こうとした瞬間、ガポッという何かの音と共に唐突に第三者の声が響く。
ヴァレット達が驚きと共に振り返った先には、岡島黄緑がいた。
彼女達が驚いた理由は、彼の登場の唐突さだけではなく、現れた場所にもある。
黄緑は、ヴァレット達がいた近くの地面にあったマンホールから出てきたのだ。
彼のスーツ姿も相まって、シュール極まりない。
「話は聞かせていただきましたよ。全部ね」
「何故マンホールで……?」
「いや、隠れつつ会話を聞ける場所が他になかったものでね。
さておき、どうやら一騒動起こるようですね。いや、もう起こった後か」
「……クラウド、この子を」
「分かった。少年、皆の元に案内しよう。ついてきたまえ」
「う、うん」
「クラウド、これからの事は戻ってきてから改めてね」
「了解した」
「ね、ねぇヴァレット、ほんとに大丈夫なの……?」
緩やかな巨大化・肥大化が続く概念種子……すでに一軒家ほどの大きさとなっている……と、黄緑の登場で不安になったのか、少年は問い掛けた。
「ええ、大丈夫です」
そんな少年の不安を払いのけるよう、ヴァレットは自信に満ちた……内面はともかく……ニッカリとした笑みを形作る。
「それよりも、これが終わった後、貴方さえ良ければ、また話を聞かせてください。
……その時は、貴方の名前を教えてね」
「え?」
「私、貴方と友達になりたいから」
「う、うんっ!」
「ん。じゃあ、そろそろ行こうか、少年」
そのやり取りで不安は掻き消されたのか、少年はクラウドに連れられて駆け出そうとする……そんな背中に、黄緑が声を掛けた。
「ああ、ちょっと待った。少年」
「え? な、なんですか……?」
「ここは全天候型の施設だ。冬は天井を閉めた上で温水プールに出来る。
つまりどの季節でも利用出来るわけだから、ずっと冬だったとしても無駄だったと思うぞ」
「は、はぁ。そうなのかなぁ……」
「というか、今その情報要ります? ……あー、クラウド」
「うん。少年、行こうか」
彼女には珍しい、呆れ顔での突っ込みを入れた後、概念種子の状況を一瞥したヴァレットは改めてクラウドに誘導を促した。
それを受けて、クラウドは少年を引き連れてこの場を離れていく。
「……あの子に責任はありません」
クラウド達が完全に離れたのを見計らって、ヴァレットはまず最初に告げた。
少年を庇う彼女の言葉に対し、黄緑は大仰に肩を竦めて見せた。
「私としてもそう言いたい所ですがね。
だが……あれを先程の少年が生んだとするのなら、こと今日に限ってはそういうわけにはいかないな」
それまでの丁寧口調から一変した、何処か高圧的な言葉遣いと共に、少し目を細める。
ただそれだけの所作ながら、黄緑からは凄味が滲み出ていた。
今までの自分への対応はあくまで【依頼した・された】あるいは【お客様】へのものだったのだろう。
そうではない、本当の意味での岡島財閥総帥なのだろう姿で、彼は言葉を続けた。
「避難の判断は当然だな。何はともかく人命が第一だ。
だが、理由や原因はともかく、オープン当日にいらしたお客様を避難させるほどの騒ぎ……
これを何のお咎めもなしに無罪放免、というのは承服しかねる」
黄緑の言っている事は当然の主張なのだろう。
大人である子供であるという事からの大小の差はあるが、彼からすれば無罪とは言いかねるのは当たり前だ。
だが、ヴァレットとしては……
まだまだ子供ではあるが、まだ大人ではないとは決して言えない……
そんな中間の立ち位置の少女としては、少年を守りたかった。
かといって、黄緑の、大人として間違っていない主張を完全に否定はしたくない。
だから、そういったもろもろを呑み込んだ上で、一瞬瞑目した後、ヴァレットは言った。
「責任は、私が取ります」
「ふむ。どうやってだね?」
「この状況において一番避けるべき事は、ここにいる人達に被害を与えない事のはずです。
怪我人さえ出さなければそれでいい、とは決して思いません。
施設の損害や、皆さんの楽しい時間を奪う事など問われるべき事は多くあるでしょう。
ですが怪我人を出さなければ、パークにとっての最悪の状況は避けられるはずです。
その為にすべき事を、私が責任を持って果たします」
「どうするかの詳細は?」
「あの存在を、可能な限り周囲に被害を与えずに封印します。短時間かつ人的被害無しで。
状況によりますので確約はできませんが、被害を最小限にする努力はお約束します」
「ふむ。短時間、か。それはどの程度だ?」
「……状況を開始して5分。いえ、3分で」
「まぁいいだろう。
だが、それはそれとして……損なったパークのイメージはどうしてくれる?」
「……あくまで、施設とは関係のない事故だと、私が説明します」
自分の説明では説得力がないかもしれない、納得してもらえないかもしれない、などとはこの状況では言えなかった。
一対一ならまだしも、不特定多数の人間に直接的に語りかけて、納得できるように話す、など経験のない事だ。
だが、それでも誠心誠意を込めて、少年にもパークにもパークに関わった人達にも罪はない、そう伝えるしかない。
「悪くはないが、それだけで足りるとでも?
そして、損なったイメージによる今後の損害は?」
「どちらにせよ足りなかったら……私が、その分を補填します」
「ほぉ。具体的には?」
「お恥ずかしい限りですが、何をどうすれば償いになるのか……具体的には何一つ今は思いつきません」
責任を取る、と言いながらの自身の体たらくぶりに、ヴァレットは情けなくなる。
所詮自分も子供でしかないのだ。
大人の世界の責任をどう取ればいいのか……ある程度は考えられても、それが正しいとは確信できない。
しかし、それでも、やらなければならないのだ。
「ただ、施設的・金額的な被害にしても、損なったイメージにしても、いつまでかかるかは分かりませんが、必ず、お返しします。
私に可能な事である限り、私に出来る、全てをかけて」
「……ふむ。
先程の少年のせいだと一言言えば済む話じゃないのか?
そうすれば、君が負うべき責任は殆どない。
おそらく、どうなったところでアレは今日中に具現化していただろう」
話を全て聞いていたという黄緑の指摘は、間違ってはいない。
自分が関わる関わらないに関わらず、あの概念種子は今日中に活性化し、具現化していただろう。
少年が【夏を拒絶するしない】の選択をした時点で。
少年はそこまで追い詰められていた。心の鬱積を溜め込んでいた。
であったとしても、だ。
「だとしても、彼に取るべき責任は何一つありません。
もしどうしても取るべき責任があるのだとしても、それはもっと別のものです」
「……その、彼が取るべきもっと別の責任の為に、君がこちらの責任をどうしても取ると?」
「ええ。先程の言葉に嘘偽りはありません。
今回の事は、私が責任を取ります」
あの少年が、必要以上の罪悪感を抱える事無く皆と笑えるようになるのであれば、なんだって成し遂げてみせる。
ヴァレットは、その決意を胸に秘め、その想いを乗せるように真っ直ぐに黄緑を見据える。
その視線を受け止めて、何を思ったのか……黄緑は、ヴァレットに鋭さを感じさせる視線で応えつつ、言った。
「……いいだろう。言質は取らせてもらった。
では、確認しよう。
私の愛する平赤羽市民に傷一つ負わせずに、特定の範囲内で今回の状況を収拾する。
それが出来なかった時は、君が何かしらの形で責任を取る。
その代わり、こちらはパーク来場者への対処を行い、事態収拾の成否にかかわらず、あの少年に対し、私は必要以上に責任を追及しない……それに間違い、異論はないか?」
「ありません」
「分かった。契約は成立だ。
であるならば、その責任を果たしてもらおう」
「ご了承いただき、ありがとうございます。では早速……」
「まぁ待て。
一つ聞くが、この状況は後どれくらいもつと思う?」
「夏の日差しの他に外界からの接触その他なければ……あと10分程度なら」
「ふむ。時間帯的には悪くないな」
「???」
「今から8分後の11時半。
そこを君のいう状況開始の時刻としよう。
合図にサイレン的なものを鳴らす。
それまでにここ周辺は封鎖した上で、パークに来ている人々への対処をきっちり行っておこう」
「可能なんですか? 8分でそんなことが?」
「平赤羽市でパークを開く以上、こういう状況は想定していたからな。不可能ではない」
「……それは凄いです」
「ふふ、お褒めに預かり光栄だ。
では、私はその為にこの場を離れさせてもらう。
君はその間、せいぜい3分で決着を付ける手段を模索しているといい」
「わかりました。よろしくお願いします」
「……冗談のつもりとは言え、嫌味の言い甲斐がないな、君は」
あっさりとしたヴァレットの返事に、少し眉を顰めていた黄緑だったが、最後には口の端を小さく持ち上げていた。
「……もう、そろそろか」
概念種子【氷山】の暴走体から数十メートル距離を取って対峙するヴァレットが呟いた。
周辺施設に人はもう殆どいない。
この辺りが他施設……大型ウォータースライダーや飲食店などなど……に囲まれるような形になっており、
見通しは悪いので肉眼での確認は出来ていないが、戦闘の影響が出そうな範囲内での人の気配はなくなっている。
それより少し離れたところ……紫雲が察する事が出来るギリギリ辺りにまだ気配は幾らか感じるのだが……。
『時間が迫っても何人か目撃なりするかもしれないが、それは避難確認その他を行っているうちのスタッフだ。
彼らも時間になったら退避するように言っているから、君は時間になったら遠慮なくはじめてくれていい』
黄緑がそう言い残していた事が頭を過ぎる。
遠慮なく、と言われてもそうはいかないのだが……。
『どうやらその心配は必要ないようだ』
「みたいね」
状況開始一分前の段階で、彼らはヴァレットから見える位置に出た上で、OKサインを送ってから去っていった。
少し離れた高所から……ヴァレットよりも広範囲を視界に収め、状況を把握する為に……法力で話しかけるクラウドに頷いて、ヴァレットは身構えた。
その近くには【絵筆】がフワフワと浮いて待機している。
「……ふぅ」
夏の日差しがジリジリと衣服に熱を与えている。
だが、それを気にする必要はすぐになくなるだろう。
目の前の存在も、暑さに身体をくねらせる動きが最高潮になっている。
見立てより時間も少し早いが我慢も限界、と言った所か。
「……状況、開始!」
黄緑が言っていたサイレンが鳴り響く。
まさにその瞬間に【氷山】は動き出した。
夏の日差しに消されまいと大きくうねり、より膨張して、巨大化していく。
それはまさに、山だ。
十数メートルほどの小さな氷山、それが擬人化したような氷の手足を生やし、その頂上付近には擬似的な顔が作られていく。
児童向けの絵本に出てきそうな、デフォルメされた悪役のような面持ち……どことなく可愛さを感じさせる……に、ヴァレットは内心でだけ苦笑する。
だが、笑ってばかりはいられない。
今回は時間制限のある戦いなのだから。
「水に囲まれたこの場所なら……チェンジング・パレット、ブルー!」
ヴァレットの頭上に、直径一メートル程度の青い空間の穴が展開される。
以前の失敗を反省し、練習は十二分だ。
それでもミスする時はあるのだろうが、今の自分ならミスはないと確信できる。
そして、その確信が成功を呼び寄せる。
「青く染まりて、静なる冷の具現となる!」
空間の穴が、ジャンプしたヴァレットを通り抜け、彼女の姿が一変する。
ベレー帽は、アクセサリーはそのままに、より密着した形状に変化、
コートはマフラーの付いた部位以外が消え果て、
その下の衣服は、デザインは大きく変わらず、ハイネック+スカートのワンピース水着へと変化、
オーバーニーソックスはそのまま、
編み上げブーツは雨天用のロングブーツに刃のようなヒレを付けた形へと変わる。
そうして、それらの変化が終わった後、空間の穴は消え、
同時にヴァレットの衣装の色が髪色を除いて全体的に青主体のものへと変色、
直後、ヴァレットの身体から衝撃波が溢れ出て【それ】は完成する。
「ヴァレット・ウォーター、参上っ!」
これこそヴァレットの水中・水系統魔法特化形態。
属性付与のないヴァレット自身の法力放出の魔法と水、氷系統以外の魔法以外が使えなくなるというデメリットがあるが、
代わりに【水】への圧倒的な影響・制御能力を持つようになるヴァレットの属性特化形態の一つである。
「ふぅ……」
無事に形態変化出来た事の安堵とともに、自らが地面から吹き上げさせた水で精製した水柱の上にふんわりと降り立つ。
同時にそこを中心として水を溢れさせ、巨大な……自身が黄緑に提示した戦闘区域範囲内全てを覆う……水のドームを展開、さらに、そこから法力で水を制御し、範囲内の施設の表層を覆いつくしていく。
それは、法力を張り巡らせた、いわば水の防護壁である。
こういった繊細さと範囲の広さを両立させる魔法の使用は正直かなり消耗する。
ヴァレット=紫雲は肉体やそれに類する術などの制御は得手なのだが、ヴァレット時の魔法などの外界に強く干渉する系統の術はそちらほどに得意ではないからだ。
そもそもの形態変化の魔法にしても、自身の肉体だけの制御ならばさほど難しくはない。
だが、形態変化時は外界との繋がりが密接であるがゆえに、その制御・調整は単純な肉体制御よりもぐんと難しくなっている。
日頃から訓練を続けており、それらの制御力は以前よりかなり上がっているとはいえ、まだまだ未熟である事はヴァレット自身よく分かっていた。
だが、どの道今回は三分だけだ。それ以上は許されない。
その短期決戦の必要性から、紫雲の集中力は最高潮となっていた。
このコンディションで三分間ならば、広げた水を手足のように操る事が出来る。
「……周囲にこれだけ水があるなら、不足はありません」
この形態は、水中では変形した【絵筆】による高速移動を可能するのだが、
地上ではそれとはうって変わった殆ど動かない戦闘スタイルを取る。
というより基本的には水中専用の能力なので、地上では動きその他含めて弱体化してしまうのだ。
だが、周囲に水が溢れたこの環境なら、能力を活かすには十分。
「そちらが水や氷を操る能力なら、こちらも同様の能力で対応します。
アイスランス・ファランクス……!!」
青い魔法の輝きを点し、広げた両手を組んで一つにする……
直後、両手から迸る青い閃光から無数の氷の槍が飛び出した。
氷槍の群れは、蔓のように四方八方に生長しながら【氷山】を取り囲んでいく。
これこそ、ヴァレット・ウォーターの必殺技の一つ。
間断ない氷槍の軍勢で相手の逃げ場を封じ、閉じ込め、最終的に棺と化してしまう技。
以前この形態・必殺技を使用した時には、水中戦に特化した概念種子の使い手を一方的に撃退した。
だが。
「っ!?」
幾重にも氷槍を重ねて作り上げていく棺に、その形成中途で皹が入る。
ヴァレットは、さらに法力を高めて、氷の密度を上げていこうとするも……。
「くっ?! 押し負けた……ッ!?」
皹はむしろ大きく広がっていき、ついには棺を破壊するに至った。
いや、それどころか。
『アイスランスを取り込んでいる……!』
クラウドの言葉通り、棺から這い出た【氷山】は自身を取り囲んだ氷の棺を取り込み、さらに大きく膨れ上がっていく。
同時に【氷山】は自身の身体から雪を含んだ寒風を放出する。
それと共に、ドーム内の冷気が更に強くなる。
おそらく、より自身が存在しやすい環境を作ろうとしているのだろう。
この結果に、ヴァレットは険しい表情を浮かべていた。
『やはり、あの少年は冬の属性を持っているようだな。
それが概念種子にも強い影響を与えている』
「氷の能力で冬の属性持ちか……強い訳ね」
人にはそれぞれの生まれによる属性が生まれながらに備わっている。
それは異能を持つ持たないに関わらず、誰もが持っているものだ。
所持している属性の数や、それによる運勢や能力、才能の強弱は人それぞれ。
ヴァレット=紫雲は8月生まれで、夏の属性も持っているが、その属性による能力への恩恵・影響は少ない。
属性を利用した儀式や術なども使えなくはない、といった程度のものでしかない。
そんなヴァレットに現在進行形で相対している【氷山】は、
ヴァレットよりも季節の属性による影響が大きい上に、それが概念種子の力の方向性と一致している。
『君のウォーターでも真っ向勝負は難しい、とまでは言わないが。
流石に全力を出さなければ苦戦は必至だ』
より強化を果たした【氷山】は、自身に攻撃を繰り出したヴァレットを完全に敵と認識したようだ。
自身の周囲に宙に浮く雪玉を複数形成し、それを一斉にヴァレットに向けて打ち出した。
ヴァレットは、自身に向かう雪玉……時速は200キロを越えている……の軌道を、自身のより強い法力制御圏内に入ると同時に支配権を奪い取り、変化させる。
制御権を奪った雪玉は、勢いを殺いだ上でふんわりと地面に下ろす。
だが、それは完全ではなく何個かは制御を奪いきれずヴァレットに直撃する。
普段なら回避運動を取る、あるいは拳で完全迎撃が可能だろう。
だが、回避は周囲が破壊される可能性を考えて出来ず、拳での迎撃は防御壁の操作に集中していて手一杯……一部しか撃ち落せない。
先程の雪玉制御は周辺に張り巡らせた防御壁のついでで一部可能だっただけ。
撃ち出された全てを制御下に置くには、防御壁を解除しなければならないが、それは本末転倒だ。
結果、雪玉というより氷の弾丸ともいうべきそれを、肩、胸、頭、右腕、左足……身体全体で受け止めることとなる。
「……っ。そうね」
額に痛みを……出血には至っていない……感じながら、ヴァレットは白い息でクラウドの言葉を肯定した。
絶対、とは言えないまでもそれなりの防御力を備えているはずの装束を越えてのダメージ。
さらに、ヴァレットが展開していた水のドームはいまや氷付けにされ、ヴァレットと【氷山】のいる空間は、吹雪吹き荒れる氷の檻と化していた。
それらは【氷山】が並ならない力を持ったものに育ちつつある事を、ヴァレットに実感させた。
だが、それでも、全力を出せば押し切ることは不可能ではない。
そもそも能力者としての基本性能が違うのだ。
しかし、それは【倒す事が出来る】という意味合いの事であり、周囲の被害を考えたものではない。
そして、それはヴァレットの本意ではない。
『一分経過。どうするヴァレット』
「……同系統で駄目なら”全く逆の属性”を使えばいい」
範囲外に寒波の影響を出さないように、氷の……凍らされてしまってはいたが制御権はまだこちらにあった……防壁を維持しながらヴァレットは呟いた。
こういった異能との対峙において、
初見ではまず基本形態・戦闘体勢で相手の様子を確認する紫雲=ヴァレットが、初手から形態変化を使い、必殺技を出したのは短期決戦の為。
相手と同系統の能力をあえて使ったのは、同系統であっても制御力が上であれば、むしろ簡単に制圧できると考えての事だった。
だが、それは目算が狂ってしまった。
制御力はヴァレットが上である事に間違いはないが、その差が想定より大きくないため、手加減が出来ない。
手加減をしない場合、他ならぬ自分自身が周囲に被害を与えかねない。
であるならば、
相手の力を利用して圧倒するのではなく、
全く逆の能力を使う事で、相殺した上で僅かに上回る他ない。ないのだが。
『前回の反省を忘れたのか?
ウォーターは特訓でマスターできたがあっちはまだ未完成なんだぞ』
ヴァレットがあえて同系統の能力を使ったのは、ウォーターと真逆となる形態が未完成だったから、というのも理由である。
正確に言えば、形態変化自体は完成しているが、その制御力はウォーターほど習熟していないのだ。
『しかもこの状況下だ。
君の事だ、皆に迷惑を掛けまいと力の制御にはぶっつけ本番でも成功するだろう。
だが、君は君自身の事を度外視する傾向が極めて強い。
その結果が前回の失敗だ』
以前の事件で、ウォーターから通常形態に戻ろうとして失敗したのは、周囲へ被害を出すまいと意識しすぎたゆえだった。
結果、ヴァレットは衣服の変換を失敗し、衆目に肌を晒す破目となった。
『今回は、時間制限もある、前回よりも切迫した状況だ。
緊張その他前回の非じゃない、つまり今回も……』
「ごめんなさい、クラウド」
指摘、いや、心配する言葉を続けるクラウドを遮って、ヴァレットは言葉を紡いだ。
心配を遮った事と、これからやろうとする事への、心底からの謝罪を込めて。
「反省を忘れていない。貴方が怒ってくれてくれた事も忘れてない。
なにより、今心から心配してくれている事が、私はとても嬉しい。
でもね、誰も傷つかずに、あの子が無事に解放されるのなら。
万が一の私の恥なんて、私はどうでもいいの」
『どうでもいいわけないだろ……僕や命にとっては、どうでもいいわけない』
「うん、だから、ごめん」
黄緑に指摘された押し付けといい、つくづく自分はエゴイストなのだ、とヴァレットは思う。
根本的には正義の味方とは程遠い人格なのだと嫌になる。
それでも、ここは貫かなければならない。
『ね、ねぇヴァレット、ほんとに大丈夫なの……?』
あの少年が浮かべていた不安や心配を掻き消そうとした、取り除こうとした、その責任を果たす為に。
『ハァァ……まったく、君は、どうしようもなく君なんだな。
仕方がないな、万が一を失くすよう、僕も力を貸そう』
「え?」
やれやれと言わんばかりの声音でクラウドは法力の声をヴァレットに送り続ける。
そこに込められている感情は、呆れとはまったく反対のものである事は疑いようがなかった。
『君の【絵筆】は、僕が君の異能を覚醒させた際の影響で生まれたツールだ。
君の概念種子の産物でもあるが、僕の一部だったものでもある。
ゆえに、今も繋がりがあるそこから僕も法力を注いでサポートしよう』
「……クラウド、その」
『帰りに、僕と命用のスイーツをコンビニで買ってくれ。
心配させる分、紫雲は我慢だからね』
「……うん、約束する」
『さて、会話している間に、あと一分切ったぞ。大丈夫か?』
「うん。クラウドが手伝ってくれるのなら、一分あれば十分。
じゃあ、行くよ……!!」
決意と共にイメージするのは、今纏っている姿とは真逆の姿。
自身の全身を流れるモノと同じ熱さを抱く、鼓動の力。命の炎の力。
そんな、頭の中でイメージングが完了するとと同時に、水柱を蹴ってヴァレットは叫んだ。
「チェンジング・パレット、レッド!」
ヴァレットの頭上に、赤い空間の穴が展開され、彼女の身体を通り抜けていく。
ウォーターの時同様に、ソレと共に姿が変わる。
密着していた帽子は、何処か軍帽めいた形状に。
ワンピースの水着だったものは、基本形態からデザインは大きく変えないままに、レスリング選手のユニフォームのような形に。
ロンググローブは、手の甲から肘部までの中心一直線部分が鋭角的な形に隆起、それぞれの先端に法力の噴射口が形成される。
オーバーニーソックスはそのままに、ブーツがロケットブースターを縮小させたような形状へと。
通常形態へと戻っていた【絵筆】は、半ばから分割されると同時に、ヴァレットの背中の左右にそれぞれ浮遊。
通常形態ではコートだった肩部そのものはそのままだったが、
そこから伸びていたマフラーは急激に収束、糸のような形状となり、
それがヴァレットの背後に待機していた【絵筆】の先端部に入り込み【接続】される。
結果二つとなった【絵筆】は、スラスターのような形で両肩に装備された。
それらの形状変化が全て終了した後、青主体だったカラーリングが赤主体へと一転する。
……まるで、血に染まるかのように。
直後、ズンッと、ヴァレットの身体が内部からの衝撃で震え、
同時にロンググローブ、ブースター、接続された【絵筆】の噴射口から赤い法力が炎のように溢れ出た。
「赤く染まりて、熱と血の権化となる……!
ヴァレット・ブラッド、参上!」
その名のとおり、血のように赤くなった装束を纏うその姿は、ヴァレットの炎熱・血系統魔法属性特化形態。
今現在のヴァレットが形成可能な5つの特殊形態の内の1つである。
『ヴァレット、防護壁に這わせていた法力が消えている』
クラウドの指摘……【絵筆】をとおして繋がっているからかいつもより声が近く感じる……に、ヴァレットはただ【頷いた】。
先程の形態変化で解き放たれる余剰エネルギーを強引に体内に閉じ込めた事や力の制御により、声に出して返事をする余裕がなかったからだ。
属性変化に伴い、法力による施設への防御が消滅しているのはヴァレットにも分かっている。
だが、今はまだ【氷山】の影響により単純な氷の壁としては維持されている。
「く、ぅぅぅっっ!」
それを溶かさないようにヴァレットは自身の体から零れている熱気をどうにか制御、自身周辺のみの影響で済むように熱を【折り畳んだ】。
自身の生み出した熱そのものには耐性はあるが、法力そのものの圧力はいかんともしがたい。
言うなれば、連続するくしゃみや咳を強引に止めている状態、その数十倍以上の負担をずっと身体全体に掛け続けているようなものなのだ。
そうして全身に負荷を掛けてでも、完全には溢れ出る熱量を殺しきれていない。
だが、相対するものが常に強い冷気を放っている【氷山】だからこそ、ある程度相殺で済んでいる。
これなら短時間であるなら施設への影響は大きく出ないだろう。
だが、それも長くは持たない。
長時間の対峙が続けば、今度は逆に周辺の地面や施設をヴァレットの熱で溶かしかねない。
「ふぅぅっ……速攻でいかせていただきます」
身体をどうにか落ち着けたヴァレットは、ゆっくりと右手を空に翳す。
その動きが自身に何かをするものだと判断したのか【氷山】の暴走体は、ヴァレットを氷付けにしようと氷の触手を伸ばす。
それは形状こそ違えど先程ヴァレットが放ったアイスランス・ファランクスそのものだった。
しかし、氷の触手はヴァレットに触れる事はおろか、彼女の周囲数メートル圏内に入った段階で解け消え、無力化されていく。
それに動揺したのか【氷山】は、擬似的な顔を、驚いている顔文字のような形状に変化させつつ、両手から氷塊……先程の雪玉が銃弾とするなら、こちらは砲弾……を連続発射する攻撃へと切り替えた。
だが、それらも全てヴァレットに到達する前に解け消えていく。
「本当に素直な子ですね」
あの【氷山】の攻撃は、無意識に垂れ流している冷気以外は全てヴァレットにだけ向かっている。
半ば破れかぶれになっているのに、攻撃の標的はあくまで彼女だけだった。
それゆえに、氷塊による施設その他への被害はまったく出ていない。
あくまで単純な、自身の外敵を払おうとする暴走に留まっている。
これが大人であれば、もっと複雑な動機と絡み合って予測不可能な行動に出る場合もあるだろう。
「その素直さに感謝を込めて……!
この姿でのとっておき、お見せします!!」
概念種子【氷山】が攻めあぐねて、戸惑い、首をかしげ、次の攻撃を考えているその間断。
その隙間を縫って、ヴァレットは自身が【折り畳んだ】熱量と法力を右手に集中させる。
直後、大きな炸裂音が響くと同時に、ヴァレットの右手から赤い光が炎の竜巻となって吹き上がる。
その竜巻は吹雪に負けずに、いや、まるで吹雪を食らう龍のようにドーム内を吹き荒れた後、
竜巻で形成された竜巻となり、さらにその先端が姿を、形を変えていく。
それは、炎光で構成された【手】。
竜巻から、竜巻で構成された竜巻を経て、そのエネルギーを凝縮され完成した……巨大な炎の手だった。
「ぐ、うぅっ……」
その際、基点となるヴァレットの右腕、右手が、より高められた上で一転に集中した法力による圧力で悲鳴を上げる。
自身が生み出した熱そのものには耐性があるが、法力による過負荷は想定以上だった。
ミシ、ミシ、ギシ、ギシシ、とヴァレットは自身の右手に確実なダメージが蓄積されているのを感じていた。
だが……この程度の痛みに、負けている時間はないし、負けるつもりはない。
そして、負ける気は全くしていない。
不思議なほどの自信に満ちたまま、真っ直ぐに【氷山】を見据え、ヴァレットは極限まで高めた力を解き放った。
「ブラッドフレア……!」
大きく手を広げたまま、ヴァレットは右腕を振り下ろす。
彼女の動きに連動し、巨大な炎の腕が伸びていき、その手が【氷山】へと振り落とされる。
危険性を察知したのか【氷山】が回避めいた身じろぎをするも、逃げるまでには至らなかった。
否、その巨大さからは想像も出来ないほどの速さゆえに、回避が間に合わなかったのだ。
そうして繰り出された炎の手は、文字どおりの存在となっていた巨大な【氷山】全体を包み込み、掬い取る。
自身の【手中】に【氷山】を確実に捉えたヴァレットは、今度は振り下ろした時と逆の、アッパーカットの軌道で再度腕を振り上げた。
そうして、頭上高くに掲げた手を、まるで何かを握り潰すかのように強く握り締めて、叫んだ。
「……グラッパーッ!!」
ヴァレットの手の動きに追随して【氷山】を掴み取っていた炎の手が完全に閉じられた。
さながら、凄まじい握力を持った人間が、手にした林檎を握り潰すかのように。
直後、ゴォンッ、という周囲に衝撃音が響き渡る。
炎の手を通じて、自身の手にも伝わってきたその衝撃で【結果】を確信したヴァレットは、ゆっくりと炎の手を開いた。
すると、その中から緑色に輝く光球が現れ、ふわふわと天に昇っていく。
緑色の光球すなわち、露になった概念種子の核を捉えたヴァレットは、役目を終えた炎の手を影響最小限を意識しながら霧散させつつ、即座に地面を蹴った。
「チェンジング・パレット、ヴァイオレット……!」
飛び上がった直後に、ブラッドから通常形態に移行する為の法力の穴を潜り抜ける。
【前回】は失敗した工程だったが、今回は失敗する事無く変化に成功、
いつもの姿へと戻ったヴァレットは間髪入れずに白い法力の穴を展開し……。
「……アンド、イレイズ・ブレイク!」
こちらも通常の形態に戻っていた【絵筆】を呼び出し、手元に引き寄せ、対概念種子の切り札を繰り出した。
氷山という鎧で守られていた種子の核は、それをヴァレットの一撃……ブラッドフレアグラッパーで丸ごと破壊された事で反撃も防御も出来ず、いともあっさりと白い魔法の一筆を塗りつけられた。
【……】
一瞬だけ白い光に包まれた光球はすぐに緑色に戻った後、
未だ残っている氷のドームをグルグルと……何処か楽しげに回った後、
地面に着地したヴァレットが掲げていた【絵筆】の先端から中へと入り、消えていった。
「概念種子【氷山】、封印完了。……ふぅ」
未だ氷のドームが残っている……ブラッドでの影響を最小限に出来た証……のを確認し、ようやくヴァレットは安堵の息を吐いた。
慣れない形態からの、まだ実践で使用したことのなかった技、そこからの通常形態への再変換……それらが上手くいった事。
そして、何より三分内で無事に大きな被害もなく決着が付けられた……すなわち、あの少年が大きな責任を背負う必要がなくなった事に。
『うん、見事だヴァレット。……うん、ホント安心した』
「クラウド?」
『あー……安心したからか、少し眠い』
おそらく【絵筆】を通じての法力の制御に余分に法力を回してくれたのだろう。
いつも以上に安定感……いや、安心感があった。
右手のダメージも最低限で済んでいる。
おそらく自分一人で制御していたなら、右手のみならず、全身にもっと大きなダメージを負っていただろう。
『この後は、またウォーターに戻って、ちゃんと水をあるべき場所に戻すように』
「うん、分かってるよ、クラウド。だから安心して眠ってて。後で迎えに行くから」
『……そうか。うん、そうさせてもらおう……』
そうして意識が遠ざかる……クラウドの内在法力の鼓動はしっかりしていたので、本当にただ眠っただけ……クラウドに感謝の念を送る。
「ありがと、クラウド。……ん?」
そんな自身の周りをフラフラと、時にクルクルと【絵筆】が飛び回っている。
封印した少年の種子か、クラウドが【根回し】してくれた影響からか、いつもより意思めいたものを感じる。
その、何処か小動物染みた動きに、ヴァレットは苦笑した。
「そうね、うん。貴方も、無茶に付き合ってくれてありがとう」
近くにやってきた辺りで撫でると【絵筆】は、飛行する際は噴出している紫色の光を尻尾のように振ってみせた。
そんな、ある意味でもう一人の【相棒】ともいえる存在の様子に微笑ましさを感じていた、その時だった。
『……ぉぉぉぉぉっ……』
周囲……というには遠くから、たくさんの人々があげたと思われる喚声が響き、同時にそれと同等の拍手の音が聞こえてくる。
「……? なんだろ。って、まさか」
もしや、と思ったヴァレットは飛翔・急上昇し、パーク内に備え付けられた巨大スクリーンに目を凝らした。
そこには、ほんの少し前の……種子を封印した直後の自分の姿が映っていた。
画面の右上には【緊急生魔法ショー! ヴァレット脅威の大活躍!!】などという勢いのある文字が書き踊っている。
それら認識する事で確信したヴァレットは、渋面で呟いた。
「また、はめられた……」
「どうしたのかな? こんな人気のない場所で」
事件から数時間が経った後、施設関係者の出入り口に佇んでいるヴァレットに声が掛けられた。
いかにもご機嫌といった調子の声を掛けたその人物は、ヴァレットの『予想通り』に岡島黄緑だった。
「貴方が来るだろうと思ってです」
言いながらヴァレットは、黄緑の近くに歩み寄り、手にしていたカードを差し出した。
それは泉次からもらっていたフリーパスカード。
「これ、お返しします。どうやら居所が分かる仕掛けがしてあるみたいですから」
「やるな、ヴァレット。もう見抜いたか」
「流石に分かりますよ。……最初からその可能性は懸念していましたが」
渡した当人である泉次の人柄もあって、疑いたくはなかったのだ。
だが、何度も続けて居所を捕捉されたのは不自然すぎた。今この時も含めて。
カメラでの監視で捕捉している可能性も考えたが……
そちらの場合と自分が知らずカードを所持し続けた場合の『メリット』を比較して、カードの細工の可能性が高いとヴァレットは判断したのだ。
正体露見の証拠にもなりえるため、元よりカードを持ち帰るつもりはなく、パークで預かっていてもらおうとは最初から考えていた。
いたのだが……結果として、それ以前に、というかそれ以前の問題で返却する事になるとは。
うやうやしく自分にカードを手渡してくれた泉次の事を考えると、ヴァレットとしてはいい気分にはなりえなかった。
そんな彼女の表情から思考を読んでか、カードを受け取りつつ黄緑は言った。
「泉次を悪く思わないでくれ。
カードに仕組んだ発信器含めて、今日の企みは全部私の立案・実行だ」
「そうでしょうね……。
おそらく、知っていたら篠崎さんはもっと違った反応をしていたでしょう」
「うむ。そのとおり。人柄を見る目は確かなようだ」
「これでも一応、色々な方々を見てきているので」
まだまだ未熟だと紫雲自身承知しているが、それでも彼女が様々な人間・存在と相対してきたのは事実。
直感で信じた者に裏切られたりした事も幾度かあったが、それすらも経験として、今の草薙紫雲が、ヴァレットがいる。
だが、それをもっても『読みきれない存在』がいる。
……まさに目の前の存在が、そういうものだった。
ゆえに、ヴァレットは気を引き締めつつ、岡島黄緑に向き直った。
その黄緑は、そんなヴァレットの真剣な視線を受け止めながら、会話を続けていく。
「カードについては後日改めて何の仕掛けもないものを渡そう」
「それは……いえ、それを受け取るか受け取らないかは、今は保留させていただきます。
さておき、こうしてここに来ていただいた以上、貴方には尋ねたい事があります」
ここまでの出来事でヴァレットは、黄緑に対してどうにも落ち着かない感情を抱きつつあった。
それが自身の偏見によるものなのか、そうではない『事実』なのか、彼女は確かめるべきだと考えていた。
彼が、他ならぬ、平赤羽市と深く結びついている岡島財閥の総帥であるがゆえに。
「それは構わないが。あの少年達の顛末を確認しなくてもいいのかな?」
「それは既に終えています」
事件の後、ヴァレットが呆気に取られていた時間は短かった。
それよりも、少年達のその後が優先され、気に掛かっていたからだ。
自身から生まれたものをショーにされてしまった少年の心情も含めて。
ゆえに、ヴァレットはとりあえず隠れて様子を見に行った。
大方の場所は事前にクラウドから聞いていた。
隠れたのは、自身という大人の部外者が謝罪の場に直接的に存在している、少年やクラスメートに心理的な圧力での和解を強いる事になるかもしれないと考えたからだ。
ここまでお節介を焼いておいて、と思わないでもないが、これ以上は彼ら自身に任せたかったのである。
ともあれ、そうして隠れて状況を見守らせてもらったところ……無事、彼らは和解する事が出来たようだ。
最初から会話を聞けたわけではないが、どうやら、少年が素直に謝罪した事と、お互いに苦手分野を教え合う事で和解が成立したらしい。
とりあえず、その事に安堵したヴァレットは改めて彼らの……少年の元に姿を現した。
少年の概念種子の顛末について謝罪しなければならないのではないか、そう考えて。
だが、そちらについては杞憂に終わった。
『ありがとう、ヴァレット。
あのおじさんと一緒になって、そういう事にしてくれたんだよね』
少年はどうやら、あのショーをヴァレットと黄緑が自身に気を遣って……彼自身のせいだと思わないように、派手なショー仕立てにしてくれたのだと思ったらしい。
『クラスの皆、ヴァレットの魔法がすごくて、その時は、僕の事なんかどうでもよくなってたみたいで。
それに、ヴァレット、すっごく簡単にやっつけてくれたよね。
僕の悩みごと、全部吹っ飛ばしてくれたみたいで、僕もどうでもよくなっちゃった。
あ、あやまることが、じゃないよ? あやまるのは大事なことだったもんね、うん』
少年曰く、あれが少年の産物だと言ってはみたが、信じてもらえなかったらしい。
なんにせよ、黄緑がショーという形にした事が功を奏したのは間違いないらしかった。
だが、それはそれ、これはこれ。追及すべき事は他にある。
そのためにも、クラウドにはこの場にいてほしかった。
なんとなく理解が進んできた岡島黄緑という人物の傾向から助言が欲しかったのは正直な所だが、自分の不甲斐無さゆえに負担を掛けてしまったのだ。
今はゆっくり休んでいてほしかった。
「ふむ、ならそれはいい。
で、聞きたい事というのはお客様方をちゃんと外に避難させなかった事かな?」
「そうです」
「その必要がない、そう判断したからだ。
君はあの圏内で事件を解決させる、そう約束してくれた。
それを信じた結果だよ」
「そう思ってくれたのなら、そのことは嬉しく思います。
ですが、万が一の場合も想定した上で、私は避難を頼み、貴方は了承した……そう思っていたんですが」
「思い返してくれ。
私は対処する、とは言ったが、避難を徹底させるなどと約束はしていない」
「そう言うと思いました」
ここまでのやり取りで、ヴァレットは岡島黄緑という人物の人柄をようやく掴みつつあった。
何度か相対した事のある【虚実を織り混ぜてでも自分の目的を進める】タイプ。
おそらく、自分と最も相性の悪いタイプだ。
「ですが、それは……」
「まぁ詭弁、屁理屈、と言いたい気持ちも分かる。
避難を徹底させなかった件については素直に謝罪もしよう。
だが、私としてはそれが色々な意味でベストだと判断した結果なんだ」
「色々な意味で?」
「ああ。
君があの異能を取り零す、おそらく1%未満の可能性も吟味した上で、だ。
あの時君に言ったようにこういう場合も確かに想定はしていた。
が、短時間での避難誘導を実地した事はない。
それに、何せオープン初日だ。
皆浮き足立って、まともな判断が出来ない可能性もあった。
ゆえに、お客様にはあくまでショーと通しておいた。
その方が、万が一余波なり逃がすなりになっても【ショーの中の事故】として冷静な判断が出来る公算が高かった。
君には聞こえないようにしていたが、お客様方へのショーの説明も危険を織り込み済みのものだったしな。
皆、それを承知で残っていたんだ。
それに、ショー仕立てなら君が懸念していた”皆の楽しい時間を奪う”危険も多少軽減される。
結果としては多少どころではなく皆大満足だったようだがね」
言っている事に大きな破綻はない。
そして事実、そのとおりなのだろう。
ショーとした事そのものも、少年自身が許しているのであれば、ヴァレットとしては別段追及するつもりもない。
……あくまで、万が一の被害の有無、その可能性を抜きにすれば、だが。
ないが、なんとなく精神的な疲れがドッと沸いてきたような、
そんな気分になっていたヴァレットは、ソレが滲み出ているような脱力気味な声音で言った。
「なら、最初からそう言ってください。
言ってくださっていれば、私もそのつもりでやりましたし、貴方に余計な疑念を抱かずに済みました」
「まぁそれについても謝ろう。
その方が君もやりやすいと思ったのと、伝えない方が面白いリアクションを期待できるんじゃないかと思ってしまったんでね。
まぁ実際はそれほどのリアクションでもなかったのが残念だったが。
だがまぁ、パークのイベントとして見れば上出来だ」
「……またも貴方に疑念を抱きそうです。
貴方は……貴方は、平赤羽市の発展を望んでいるんじゃないんですか?」
「質問の意図が分からないが答えよう。勿論だ。
私は私の生まれ育った町を、町に住まう人々を愛しているし、ゆえにその発展を心から望んでいる」
「質問を変えましょう。
その発展のためなら周囲を混乱させるような手段をいくら取っても構わないと思っているんですか?」
尋ねるならここだろう、そう考えて、ヴァレットは根本的な、もっとも尋ねるべきだろう疑問を口にした。
一週間前、泉次は彼の理念について懸命に語っていた。
彼のあの言葉を疑いたくはなかった。なかったが、もうこれ以上は素直には信じられない。
巻き込まれたのが自分だけなら、ここまで尋ねるつもりはなかった。
だが、今回は間接的にあの少年を巻き込んでおり、
そのつもりがないと確信していたとはいえ、市民を巻き込む危険性もあったのだ。
彼の企みに巻き込まれていくのが自分であれ誰であれ、
今後似たような事を繰り返せば、万が一の危険、その可能性が、万に一つで現実にならないとは限らない。
であるならば、それを引き起こしかねない行動を取る彼の真意を、真情を知りたかった。
「……なるほど、そういう意図か」
そんな思いでヴァレットが問うと、黄緑はここまでの機嫌良さげな表情を隠すように口元に手を当てた。
頬を撫ぜる様にその手を下ろした後、露になったのは……【氷山】を封印する前の、総帥としての彼の顔だった。
「君が信じるか信じないかは自由だが。
泉次さんが語ったであろう、より平赤羽市を大きく、豊かな活気溢れる街にする、という俺の理念には嘘偽りはない。
その為ならば、多少の混乱や混沌があってもいい、いや……むしろあった方がいい、そうは思ってはいる。
いるが、その混乱や混沌で市民を不必要に巻き込むつもりも、犠牲にするような事も行うつもりはない。
そう、誰一人として、だ。
俺は……平赤羽市を、世界で一番面白く、愉快で、幸せな街にしたいからな。
そんな街に【犠牲者】なんて、つまらないし、幸せじゃないだろう?」
二人の視線が交錯する。
ヴァレットは、今までの人生においても数えた程度しかない相手を射抜かんばかりの眼を向けていた。
だが、それをまともに受け止めても、黄緑の眼は微塵も揺らぐ事はなかった。
「……」
「……」
それを確認し、ヴァレットは小さく息を吐いた。
「……分かりました。
今はもう、これ以上この件について問い掛けをするつもりはありません」
「ほぉ。私を信用してくれるのかな?」
先程までのご機嫌な調子に戻っての黄緑に、ヴァレットは目を伏せつつ答えた。
「素直にそう出来るほど、私は子供ではありません。二度も騙してくれましたからね、ええ。
ただ、何を思っての言葉にせよ、先程の貴方の目は本気だった。
だから、今はもう何も言いません」
「そうかそうか、それはよかった。
だがしかし、私としては君に言わなければならない事がある」
「……なんですか?」
「君は約束を破った。その分を補填してもらわなければならない」
「えっ!?」
ここに来て飛び出した、全く予想外の言葉に、ヴァレットは眼を丸くした。
「そんな事はないはずです……!
施設の被害はなかったはずですし、誰も怪我を負ったりはしていない……」
そんな馬鹿な、とヴァレットは思考を過ぎらせる。
黄緑は、そうして狼狽している彼女の右手をビシッと変なポーズをつけつつ指差した。
「君のその右手。あの技でダメージを受けているようだが? 先程から動きがぎこちないぞ。
それに観察していたが、あの雪玉は後に残るダメージではなかったとは言え、結構痛かったのではないかな?」
「っ!? いやいやいや! 私はノーカン! ノーカウントですよっ!?」
「私は【愛すべき平赤羽市民】と言った筈だ。
君も平赤羽の市民なのだろう? だったら約束の範疇内だ」
「そ、そう言ってもらえるのはなんとなく嬉しいんですが、それは屁理屈ですっ!
私は私を対象外だと認識していて……」
「それをちゃんと確認しなかった君に落ち度があると思うのだが?
契約の際には、必要事項を確認する……大人にとって当たり前の事柄だ」
「うぐぐっ!?」
ヴァレットは知らない。気付かなかった。
黄緑は、あの時の彼女にそれほどの余裕がなかった……皆を守ろうとするがゆえに余計な問答を差し挟むまいとしていた、そんな彼女の思考をしっかり読みきっていた事を。
「ふーむ、責任かぁ。何をしてもらおうかなぁ」
「ううう……」
「だが、まぁ、私も君にそれを確認しようとしなかった。
度を越えて意地悪な面がなかったとは言えないだろうな、うん。
そこでだ、お互いに……いや、皆にとっての妥当な落とし所を作ろうと思うんだが……どうかな」
楽しげかつ意地悪げな笑みを向けながらの黄緑の提案を、ヴァレットは顔を引き攣らせながら聞き入れるしか出来なかった。
「はーい。それでは水泳教室を始めまーす。
皆さん、ちゃんと準備は出来ましたか?」
『はーい』
それから一週間後。
夏真っ盛りの青空と太陽の下、平赤羽ウォータープールでとある企画が行われていた。
その進行役にして教練役でもある女性……少し前に現役を引退した水泳選手である……の言葉に、参加者数十人は元気良く返事した。
参加者は老若男女揃っており、その中には【氷山】を生み出した少年やそのクラスメート達もいる。
そんな参加者達の返事に満足げに頷いた後、女性は自身の横に立っている、この企画で自身をサポートしてくれている少女に呼び掛けた。
「ヴァレットさん、今日もよろしくお願いしますね」
「……はい」
頷く少女……ヴァレットはバイザーだけは装着しているが、それ以外はいつもの魔法で変換された防護服ではない。
分類としては競泳水着ながら、レジャー用としても使えそうなデザインの水着を彼女は纏っていた。
「ちなみに、ヴァレットさんが着ているのはオカジマスポーツから発売されている今年の新作です。
ファッショナブルながらも実用性も抜群、かつお値段もお手頃なので、もし良かったら女性の方は購入をご検討ください」
女性の宣伝文句に参加者は大いに笑い、ヴァレットは若干顔を引き攣らせながらも笑顔を形作った。
「そ、それはともかくとして。
今日も皆さん、気をつけて水泳を学んでください。
私も監視員兼教室の助手兼一生徒として協力させていただいてますが、一番大事なのは皆さん一人一人が気をつける事ですから」
『はーい』
ヴァレットの言葉に、再び生徒達が元気な声を返す。
岡島黄緑の語った『落とし所』。
それは、概念種子【氷山】を生んだ少年やそのクラスメート達、その外希望者達を招いての無料水泳教室+αだった。
これにより、
黄緑が考える最低限の【少年の責任】を果たさせつつ、
彼が水泳が得意になり、夏を好きになる事で将来的な異能暴走の引金を減らし、
クラスメートとの和解の時間と好機を与える。
岡島財閥としては、
パークの市民へのイメージアップを測り、
市民が訪れやすい場所としての浸透をしつつ、
イベンター向けに、水泳教室と同様もしくは全く別の、パークで行える企画やイベント推奨を行う。
そして、水泳教室の安全さ・健全さをアピールする為にヴァレットを監視員として雇う。
その際、財閥の系列であるオカジマスポーツの商品アピールとして、ヴァレットに売り出し中の水着を着てもらう。
『これで皆それぞれ多少は損しつつも、利益は確実に出るだろう? ヴァレット以外は。
ああ、ヴァレット以外は』
そうして挙げられた案に心ならずも論破されたヴァレットとしては、黄緑の言葉と得意げな顔を思い出すたびに溜息が出る。
今回の呼び出しにより、今日もジオラマ研究会の集まりを休む事になってしまうかもしれない事も溜息の理由だ。
二人が部室にいるまでに間に合えばいいのだが。
(なんだかなぁ……)
ここ暫く、体よく岡島財閥に……黄緑に利用され続けている事に、ヴァレットはなんとも言えない気持ちに陥る事もあった。
あの黄緑の言葉は信じられるものだったのだろう。
だが、彼はこうも言っていたのだ。不必要に巻き込むつもりはない、と。
つまり必要ならば巻き込むのだ。今回の自身がそうであるように。
今の所は、犠牲を出すつもりはない、という言葉も同様に信じるしかない。
だが、彼が今後どう動くかについて何も考えない、わけにはいかなくなった。
よもや、岡島財閥総帥と知り合いになった上、少なからずその思惑を考えなけれなばらないような状況になろうとは思いもよらなかった。
そこまでしなくてもいいだろうとは思う。
自身の考えている最悪の可能性は、過剰な心配である可能性の方が高いのだろう。
だが、それこそ万が一を考えると考慮しないわけにはいかない、そうヴァレットは考えていた。
岡島財閥総帥・岡島黄緑。
それほどまでに彼の影響力は大きいのだ。
悪人ではないが、自分とは相性の悪い人物。
妙に異能に詳しい様子もあり【一般人】なのかどうか含めて、正体不明・予測不可能なヒト。
今回の一件で、ヴァレットの中には岡島黄緑という人物はそう刻み込まれていた。
彼の動向に注視して今後のあれこれを少しでも予測していくのは、骨が折れそうだった。
だが。
「ったく、ちゃんと足上げろよ。せんせーも言ってただろー」
「わ、分かってるよ……」
「がんばれー」
ああして、少年達が無事に仲良くしているのを見ると、そんな負の気持ちは簡単に消し飛んでしまう。
黄緑の動向含めて、全部何とかしてみせる、そんな気分にさせられる。
黄緑は【利益】がない、などと言っていたがそんな事はない。
ああ、そうだ。【利益】は十分だ。
「ほら、そこ教室にかこつけて女の子に絡まなーい」
「な、絡んでないッスよ、センセ。ただ教えてるだけで」
「いいのぉ若いのは。
うむ、ワシも頑張らねば。
先生さんとヴァレットさん……ワシにもじっくり泳ぎを、ゲッヘッへ、アババッ?!」
「ちょ、そこの奥様落ち着いてっ!?」
「あのお爺さん元気ですねぇ」
「あれは元気というより別の何かなのでは……?」
こうして、皆が笑顔でいてくれること。楽しく暮らしてくれること。幸せであること。
それこそが、今の草薙紫雲が正義の味方を目指す、ヴァレットであろうとする、一番の理由なのだから。
「坊ちゃまぁぁぁっ!?」
「おお、その呼び方久しぶりだな泉次さん」
平赤羽市の中心街のほぼ中心に位置している、岡島財閥の本社社屋。
数百メートルにも及ぶそのビルの最上階に位置している総帥室に半ば殴りこむように入ってきた篠崎泉次に言いながら、自身もそう呼ぶのは久しぶりだと岡島黄緑は振り返る。
そんな黄緑のいる手前の机に、バンバンバンッ!と両手を叩きつけて泉次は叫ぶように言い放った。
「聞きましたよっ! 今回の件、あまりと言えばあまりじゃないですかっ!?」
「ああ、ヴァレットの事か?」
「他に何があるとっ!? 」
「誤解があるようだから言っておくが、俺は彼女に何かを強制させる気はないぞ」
「水泳教室の監視員をやらせておいて何を……」
「それはそれだ。
俺が言っているのは、彼女の気が本当に進まない事、彼女が真に望まない事だ」
呟きながら、黄緑は机上に設置されていたコーヒーメーカーを確認した。
コーヒーが出来上がっている事を確認し、サーバーを取り外す。
「確かに、俺は彼女を利用する気満々だ。
今回もソレで大いに得をさせてもらったからな」
初日のヴァレットの活動や今現在の水泳教室は大きな反響があった。
パークが予想以上に盛況している事とどの程度結び付けられるのかはまだ調べ切れていないが、それでも無関係と言い難いのは間違いない。
嘘が発覚する前に彼女は金額的な被害について触れていたが、今はむしろ逆。
こちらがお金を払ってもいいぐらいだと黄緑は考えていた。
……もっとも、ヴァレットは受け取るまいが、とも。
更に言えば、各地の新聞やテレビなどもパークでの『ショー』を取り上げまくっていた。
ネットでの反応に遅れる形だがマスコミもヴァレットについて本格的に食いつきつつある。
黄緑の想定どおりに。
「だが、俺は彼女の意志を捻じ曲げるつもりは毛頭無い。
そして利用した分だけ便宜をしっかりきっちり図るつもりだ。
例えば、彼女の正体漏洩の可能性を減らす、彼女が大掛かりな事件に巻き込まれた時はフォローする、とかな」
サーバーからカップにコーヒーを注ぎながら言葉を続ける。
今の所、ヴァレットの能力の高さゆえに大きな被害も、正体が露見する状況もない。
だが、今後もそうだとは言えない。
個人として彼女は最大限の努力をしているのは理解しているが、それにもいずれ限界は来るだろう。
黄緑としては、それを陰ながらサポートしようと考えていた。
……彼の目的の為には、彼女には全力で【正義の味方】をやっていてもらった方が都合が良いからだ。
「彼女は彼女の思うままに動いてくれればそれでいい。
俺は、それをほんの少しだけ、彼女が動きやすいようにサポートするだけだ。
その結果、彼女は平赤羽市をよりよくするための良き【偶像】になってくれるだろう」
平赤羽ウォーターパークでの出来事や市民達のリアクション。
直接ヴァレットと会話をした事。
それらで黄緑は確信していた。
約十年掛けて自分が推し進めていた計画に間違いはなかったのだ、と。
「あの、駆柳姉妹は良い仕事をしてくれたし、してくれている。
彼女達が集めた情報や記事のお陰で、色々と省く事が出来た」
黄緑の言葉で、泉次は近頃は異能関連の事柄を追い続けている駆柳羽唯と、
先日からネット版学校新聞の記事欄を借りてヴァレットを追いかけ出した羽唯の妹、駆柳つばさを思い出した。
羽唯の黄緑へのインタビューをたまたま横で聞いていたり、
今回ヴァレットに接触するに当たっての情報として記事を読んだ事から、二人の事は記憶に新しかった。
当然、ヴァレットに興味津々の黄緑が二人を知らない理由はない。
「省く事が出来た、とは?」
「余計な手間を、だよ。
偶像としての候補は他にも何人か存在している。
だが、やはりというべきか、ヴァレットが最適だ。
彼女は決して万能ではない。
人を信じるゆえに足をすくわれ、自らを苦闘に晒す、未熟な正義の味方だ。
だが、万能ではないからこそ、この発展途上の平赤羽市の偶像としては相応しい。
あの姉妹の記事もあって、その確信に至る時間を短縮できた。
彼女達にも、いつか報いなければな。
が、今はヴァレットが優先だ」
じっくりと注ぎ終わったコーヒーを一口含む。
市販の安い豆で煎れたブラックは、黄緑にとっては不味い代物だ。
だが、その不味さこそが黄緑にはありがたかった。
美味しいものばかりでは、本当の味を……何が良くて悪いのかを見失う。
ゆえに時には不味いものを口に入れる事も必要なのだ。
現実にしてもそうだ。
望まない状況が続き、ずっとずっと長い【待ち】の時間があったからこそ、ようやく到来した好機を正しく見極める事が出来る。
「魔法多少少女ヴァレット。
彼女を慕うものは多いが、心底忌み嫌うものも少なくはない。
そういった諸々を含めて注目され、中心となる……それが俺の思う偶像の在り方だ。
今後は彼女を利用して、平赤羽市にとって害になるものを排し、有益なものを拾い上げていこうと俺は思っている。
そして、彼女は俺の想定どおり、そうなるように立ちまわってくれるだろう」
「……そうなりますか?
ヴァレットさんは、坊ちゃまの予測や想定を越える存在だと私は思いますが」
「そうだろうな。
彼女の存在や力は俺の想像を遥かに越えていくだろう。
もしかしたら、平赤羽市はおろか世界すら救う力すらいずれ獲得するのかもしれない。
だが、彼女の行動そのものはおそらく俺の予想の範疇内にしか収まらない。良い意味でな。
断言してもいい。
彼女が彼女である限り、ヴァレットはきっと俺の予測どおりに動く」
「……坊ちゃまのお言葉、正直あまりいい気分はしませんね」
「そうだろう。泉次さんはいい人だからな」
「私はごく普通の良識と常識を持っているだけです」
「それをちゃんと持ってる奴なんて、そうはいないさ。自慢していい。
まぁなんだ、なんなら、泉次さんも計画に参加してくれ。
その中で俺がヴァレットを悪用している、と感じたら、ヴァレットに全てを伝えてくれていい。
結果ヴァレットが俺を成敗するのなら、それはそれで構わないさ。
それもまた平赤羽市を活性化させるだろう」
「いやいやいや、坊ちゃま一人で済めば自業自得ですが、それは岡島財閥にとって致命的なんで避けていただきたいのですが」
「なら、ヴァレットを利用する計画に協力してくれ」
「素直にそれが出来るようなら苦労はしませんよ……」
「まぁそうだろうな」
篠崎泉次はグループを支える優秀な人物の一人である。
だが、泉次や彼の家族達、財閥の重役達が真に評価しているのは、彼の実務能力ではない。
勿論実務も抜きん出て優秀なのだが、それよりも評価しているのは、御人好しな彼の人格により生まれている人脈や信頼である。
黄緑が彼をヴァレットの元に派遣したのは、そういう効果を狙ってのものである。
そして、事実彼は僅かな期間でヴァレットから好感を得ている。
それが最初の基盤としてあったからこそ、今回の企みが成功したと言ってもいいだろう。
ゆえに、今後も泉次は欠かせない。
彼には当面自分とヴァレットの間に立ってもらうべきだと黄緑は考えていた。
……自身が、彼女からの信頼を得る、その時までは。
「さっきも言ったが、だからこそ泉次さんも協力してくれ。
彼女が自滅するならまだしも、俺自身は彼女を不幸にするつもりはない。
そういう手段を取りそうになったら止めてくれるよう進言を頼みたいんだ」
「しかし……」
「これは、平赤羽市と彼女の為でもある。それでもか?」
泉次は、彼の祖父の代から岡島財閥に仕えており、幼い頃から黄緑を知っている。
それゆえに、彼の言葉と表情に嘘がないのは分かった。
だが、かと言って、部外者たる少女を彼の企みに巻き込んでもいいものどうか。
彼女の為、と黄緑は言うが、それはあくまで彼がそう思う【彼女の為】なのだ。
ともあれ、そういった思考を経て、泉次は答えた。
「……暫し考えさせていただきます」
「ああ、今はそれでいい。
そうだ、参考資料としてこれに目を通しておいてくれ」
言いながら、黄緑は泉次に何かを投げ付けた。
慌ててキャッチ受け取った泉次が手を開くと、そこにはUSBメモリがあった。
「これは?」
「俺が立てた、裏平赤羽市発展計画……って所だな。
知ってるヤツだけが使うプロジェクト名は【プロジェクトVI】だ」
そう言って、黄緑は笑った。
その表情はやはりというべきか、何処か禍々しくも穏やかな……相反するものを内包する、そんな笑顔だった。
泉次はよく知っていた。
この笑顔をしている時こそ、黄緑が一番充実感を得ている時なのだと。
そして、泉次はよく理解していた。
この笑顔を浮かべている時、それは確実に誰かが黄緑の企みに巻き込まれて大変な目に遭う時なのだと。
(……せめて、祈ろう。というかフォローしよう。うん)
あの心優しい少女が、黄緑に必要以上に振り回され、必要以上に心身ともに消耗する事だけは回避できるように。
篠崎泉次は、強く強く決意したのだった。
……続く。