第4話(前編) ある偶像と平赤羽市
「ヴァレットさんっ! ちょっと待ってくださいっ! お話があるんですっ!!」
「はい?」
ヴァレットが声を掛けられたのは、彼女が平赤羽市の片隅にある商店街にて犯罪行為を行った異能者を無力化し、警察に引き渡して、帰ろうとした時だった。
普段(主にこういった騒動の後に)声を掛けられる事はあるが、ここまで切羽詰ったような声は滅多になかった。
なので、気に掛かったヴァレットは、魔法で宙に浮かび掛けた身体を地面に下ろし【絵筆】は近くに浮遊させたままでその人物と向き直った。
異能者を捕まえる騒動の中出来ていた、殆どが見物人で構成された人混みをかき分けて現れたその人物……苦労を感じさせる、皺の多い顔付きの男は、額の汗をハンカチで拭ってから名刺を差し出した。
「私、こういうものです」
「岡島財閥、観光アミューズメント部門本部長、の、篠崎泉次(しのざき・せんじ)さん……?」
本部長という肩書きから察するに、相当なお偉いさん、のはずだ。
しかも岡島財閥の本部長ともなれば、かなりの人物ではないだろうか。
そんな驚きの中、それでも表向きは平静にヴァレットは問うた。
「何故、貴方のような方が、私みたいな人間に……?」
「いやいや、ご謙遜を。むしろ私では役不足……っと、これは誤用ですな。
ともあれ、私では貴方とは釣り合いが取れませんゆえ、本当は財閥総帥が窺おうとしていたのですが」
「はい?!」
どんな状況であれ、基本冷静であろうと努めているヴァレットもこれには驚いた。
平赤羽市の産業・企業のほぼ全てに絡み、世界的にも名が知られている岡島財閥の総帥が、自分に会いに来ようとしていたなど思いつきもしない状況だ。驚かずにはいられなかった。
「総帥はご多忙な方で、
流石にいつ何処に現れるかも分からない貴方の為に行動を制限されるのはマズイと、
総帥よりは動く事が出来て、失礼には当たらないだろう役職の私がこうしてきたというわけです」
「いや、なんというか……すみません。凄く、すごく恐縮です。
私のような暴力的な小娘に、篠崎さんや皆様、社会人の貴重なお時間を煩わせてしまい、申し訳ないです」
目を伏せて、小さく頭を下げるヴァレット。
正直、言葉そのままに申し訳ない気持ちだったからだ。
紫雲にとっての【世間にとってのヴァレット】は、過激な自警存在だという認識しかなかった。
平赤羽市の住民から応援や声援を貰っている事については、正直とても嬉しく感じていたが、あくまで一部の人々のあたたかさ、優しさによるものでしかない、と思っているのである。
そんな紫雲の内情はさておき、謙遜するヴァレットに好感を持ったのか、泉次は彼女に穏やかな笑みを向けた。
「気になさらないでください。私としても貴方に会える事は楽しみでしたので」
「……重ねて、恐縮です」
ヴァレットは、こういう状況でのちゃんとした言葉を知らないんだな、と自身の未熟さをシミジミと痛感しながら答えつつ、そもそもの所を尋ねる事にした。
「その、それで、私にどのようなご用件が?」
「はい。少し前ヴァレットさんは、海水浴場での異能騒ぎを解決されたとの事」
「あ、噂の全裸事件」
「〜〜っ」
人混みの中、何処からか零れた声にヴァレットの顔が赤く染まる。
先日の、海水浴場に現れた、概念種子【潜水】の使い手たる【人異】を捕まえるにあたっての顛末は、いつの間にやら結構な噂になってしまっているようだった。
噂になっている【その場面】の画像などが出回っているわけはないが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。
まぁ、それもこれも自分の未熟さが招いた事なので、文句は言えない。
この恥ずかしさも甘んじて受けよう……ああ、でも、やっぱり恥ずかしい。
「あー、いや、人の噂は75日と言いますし、気になさらないほうが良いかと」
「え、ええ。そうですね。お気遣いありがとうございます。……努力します。
それで、その、その事件が何か?」
「その事件そのものが重要視されたわけではないのですが、決定打になったといいますか。
単刀直入に言いましょう。ヴァレットさんに平赤羽ウォーターパークのイメージガールになっていただきたいのです」
「…………私がっ?! イメージガール!?」
平赤羽ウォーターパーク、と言えば、近々開園されるはずの岡島財閥による大型プールを中心としたアミューズメント施設だ。
それに関する記憶を掘り起こしている最中だったヴァレットは、予想外のとんでもない話を脳内に飲み込むやいなや、パタパタと手を横に振って全力で否定の意を示した。
「いやいやいやいやいや、私なんか相応しくないでしょう。
もっと適役の方がきっといらっしゃいますよ、絶対、いや絶対。
それに、イメージガールがどのような仕事なのかは存じませんが、
私の活動の都合上、安易にお引き受けする場合、関係者の皆様方にご迷惑を掛ける可能性が高いです」
そもそも、紫雲としてはヴァレットとして長期間の何かしらの仕事……想定していたのは誰かの護衛だったり、有害な何かの退治だったりだが……を引き受ける気はあまりなかった。
万が一、億が一何かしら長期間引き受けた場合を想定してみた事はあるが、通常自身が行っている事との兼ね合いは極めて難しく、それゆえに引き受けられないだろうと結論付けていたからである。
そもそも最近は事件の多発によりちょくちょく学校も早退する事態も起こっている。
今は夏休みになっており、授業を欠席する事態は当座ないのだが、夏休み中のジオラマ研究会の集まりを何度か休む事態も起こっており……。
『まぁ、草薙君は理由なくサボったりしないんだろうけど』
と、新城入鹿に少し苦笑されてしまう、という事もあった。
久遠征を誘った上で、自ら入部を表明した紫雲としては極めて心苦しい事であったので、二人にはただただ謝る他なかった。
二人は快く許してくれているが、そんな状況にある中で似たような状況を更に増やすわけにはいかない……そう考えて、ヴァレットは結論を述べる。
「そうして誰かに迷惑をお掛けするわけにはいきませんので、申し訳ありませんがお断りさせていただきます」
せめてもの誠意として、ヴァレットは深々と頭を下げる。
しかし、泉次はそれで納得できなかったのか、先程までの穏やかな表情とはうってかわって、というより1周回って当初の、必死な顔に戻って食い下がった。
「な、なら、せめてオープン当日のゲストになっていただけませんか?!
その日だけで構わないんですっ!」
「ど、どうしてそんなに必死に……?」
「我が財閥が総力を挙げて建設したウォーターパークは、メインターゲットは市民ですが、これを平赤羽市の観光スポットの一つとして推していきたいという狙いもあるのです……!
今回それに成功すれば、今後の平赤羽市の発展にも繋がります……!
そうなれば、そこからさらに多くの観光スポットを作る事も可能っ!
より平赤羽市を大きく、豊かな活気溢れる街にする……それは、この街で生まれ育った総帥の望みなのですッ!」
「……」
同じく、平赤羽市で生まれ育ったヴァレット=紫雲としては、総帥の望みは少なからず分かるような気がした。
総帥が考えている【より大きく豊かな活気溢れる街】がどのような形になるのかにもよるが、平赤羽市がより素敵な街になるのであれば、紫雲としては肯定しかない。
そんな心情もあって少し心震わせていたヴァレットに、泉次はなおも畳み掛けるように言葉を続けていく。
「その為にも最高のスタートダッシュが必要ですっ!!
その為に出来る事は全てやっておきたいのですっ!」
「そんな思惑があったのですか……。
でも、それでしたら、私などより有名な人を……アイドルや俳優、水泳選手の方々などをお招きした方が集客力はあるかと」
「勿論、そういう方々もお招きしてはいます。
しかし、それだけでは外向きのアピールでしかない……
平赤羽の内外問わずアピールするには、市民からの強い人気・要望もあり、一部ではありますが外部からの高い注目度を誇るヴァレットさんをお呼びしない手はない、そう総帥は判断されたのです。
……まぁ総帥自身の個人的な趣味もありますが」
「え? 今何かさらっと気になる発言があったような……」
「それにっ!
貴方をお招きすれば、様々な犯罪への抑止力としての効果も十二分に見込めますっ!
他ならぬ貴方が来るとなれば、良からぬ事を考えての来訪者は少なくなるはずです」
「そうなのでしょうか……あまり、そんな気はしませんけど」
ヴァレットは男の言葉を過大評価だと感じていた。
逆に、周囲で見物していた人々は、男の評価は過大ではないが、後半部分については逆にヴァレットにいろんな意味で期待している変人を呼び寄せるのではと思っていたが、さておき。
「ですからどうかっ! どうか初日だけ!」
「いや、あの……」
「どうか、どうかご慈悲をぉぉっ!」
「……」
最後には掴みかからんばかりに懇願してくる泉次の様子に押されていたヴァレットだったが……悩んだ末にこう答えた。
「……分かりました。
それでは、一日監視員としてなら、オープン当日にお邪魔させていただきます」
ヴァレット的にはこっそり行って、こっそり様子を見て、こっそり帰るのがベストではないかとも考えたが、こう期待されてしまっていては裏切るのは心苦しい。
彼の想定しているようなゲストとして役に立つ自信はまったくないが、せめて防犯の手伝い位はしよう……そうヴァレットは決断したのだ。
「あ、ありがとうございますっ! それでは、御礼についてですが……」
「いえ、それは結構です。
私のエゴでお引き受けした事なので。何より正義の味方志望としてそういうものはいただけません」
「しかし、それでは私や、岡島財閥がが世間様に顔向け出来ませんっ。
せめてプールや遊具の他、レストランなどの各種施設・サービスのフリーパスカードをお受け取りください」
「しかし、それは……」
「ぼ、防犯の為にはそれぞれの施設やサービスについての理解が必要でしょう?
それに腹が減っては戦はできぬと言います」
「む。それは、そうかもですが……うーむ」
「もらっていいんじゃないのー?」
「いいだろ、別に。もらっとけもらっとけ」
「気にし過ぎだってぇ」
考え込んだヴァレットに、周囲の人々が声を掛ける。
見回した彼らの表情と言葉に後押しされる形で、ヴァレットは頷いた。
「分かりました。フリーパスカード、ありがたく頂戴します。
あ、そうでした。……重要な事をお聞きするのを忘れてました」
「な、なんでしょう?」
真剣な表情でのヴァレットの問い掛けに、泉次のみならず見物人も息を飲む。
それに気付いているのかいないのか、ヴァレットは極めて真面目な表情で言った。
「入場料はおいくらでしょうか?」
【『「え?」』】
「何分今月はピンチなモノでして、前もって聞いておかないと準備できないかもしれないので」
「……いえ、招待しましたので、そういうのは結構ですよ」
ヴァレットは変な所が抜けている……話の行方を窺っていた人々はそう思ったのだった。
そんな事があった日の夜、草薙家。
「しかし、随分お前も偉くなったもんだな。
岡島財閥直々に依頼・招待されるとは」
「うぐ」
紫雲が湯船に入って今日の事を思い返していると、そんな思考を読み取ったかのごとく命がガラス戸越しに話しかけてきた。
表情は曇りガラス越しなので見えないが、きっと意地悪そうに笑っているのだろう。
だが、正直紫雲としては姉の言葉に強く反論できなかった。
自分が偉くなった、などとは微塵も思わないが、あの話を引き受けたという事は、そう取られても仕方がないのではないか……そう思うのだ。
「そ、そんなつもりはないけど、今回は引き受けないのは申し訳なかったの……私だって、平赤羽市民だし」
「まぁ、そうなんだろうがな」
今度は小さく溜息を吐いているのだろう調子で命は……今日は彼女が当番なので、風呂場前にある洗濯機に姉妹の衣服を投げ込みながら……続ける。
「そうして一度前例を作ると、今後似たようなことが起こりかねないだろうに。
今日と同じような状況を作られた上で頼まれた場合、ちゃんと見破って断われるのか?」
「……じょ、状況によるかな。あ、あと善処するよ。うん、出来る限り」
「まったく……つくづく愚妹は愚妹だな」
「うぐぐ」
「というかだ。もっと他にやり方はないのか?」
「やり方って?」
「力を受け取ったお前にしか出来ない、お前がやるべき事があるのは分かっている。
だが、その形は【ヴァレット】以外にはないのか? そういう事だ」
「……ないよ」
ヴァレットとして行っている様々な事は、草薙紫雲では出来ない事ばかりだ。
ヴァレットという仮面を被っているからこそ、正体不明の存在だからこそ出来る事がある。
少なくとも、紫雲が紫雲としてヴァレットと同じ事を行えば、命や友人、クラスメート達に迷惑しか掛からないだろう。
素性が分かってしまえば警察は自分を放置しないだろうし、
概念種子を持つ異能者達にしても素性を調べた上で襲い掛かってくるモノも出てくるだろう。
「ヴァレットじゃないと、駄目だと思う」
「つまり、まだこの生活を続けるのか?
そんな身体で、まだ男装を続けられるのか?」
「……」
指摘されて、紫雲は湯船に沈んでいる自分の身体を見下ろした。
そこには、男として偽る事が困難になってきた、ギリギリ歳相応だろう女性としての身体がある。
紫雲としては、女性として大きく若干筋肉質な体付きは自分が思うような女性らしくない、という認識だった。
……目に見えて変化している一部を除いては、だが。
数年前までは、こんな身体になるなんて思いもよらなかった。
胸の膨らみもさして大きくなく、いつまでも男で通せると思っていた。
でも、そうではなかった。そうならなかった。
恋らしい恋もしないままに、身体だけはいつの間にか……多少は少女らしいものになっていた。
……分かってはいる。
ずっと男装を続けられはしない。
女である事を明らかにしなければならない日は、いつか必ずやって来る。
そして、それはそう遠くない未来だ。
だが、そうなったとしても。
「男装は、無理になるのかもしれない。
でも、ヴァレットは続けるよ。
私が、私である限り」
「……まったく、難儀な事だ」
そんな想いを込めた自身の言葉が、姉にはどう届いたのか、紫雲には窺い知れない。
ただ、いつも心配や苦労ばかりかけている事に変わりはない。
今の自分が何を言っても言い訳にしかならない事も。
「姉さん……」
「まぁ、いい。ああ、分かっていた事だ。お前は……愚妹だからな」
きっと姉はそれを感じ取ってくれている……そう思うのは自分の勝手な想像なのだろうか。
いや、そんなことはない。
自分が変わらず愚妹であるのなら……勿論、もっと良い妹になろうとは思っているのだが……姉は、やはり変わらず自慢の姉なのだから。
そんな思考を肯定するかのように、紫雲が発しようとしたネガティブな言葉を遮った上で、命は言った。
「だが、それはそれとして、だ。
そもそもヴァレットの姿が、魔法少女でなくお前の好きなヒーロー的な姿ならこんな苦労はしなかったと思うんだが。
その場合、むしろ女を明らかにした方が正体の撹乱になるだろうし。
ずっと男装して余計なアレコレを溜め込んでたから今のヴァレットになったんじゃないのか?」
「うぐぐぐぐ、反論できない……」
ちなみに。
この後、街の巡回を終えて帰ってきたクラウドにも殆ど同じ事を言われ、紫雲は二重に凹む事となった。
そんな事があって、一週間が経ち。
平赤羽ウォーターパークのオープン当日。
「っと、お待たせしました」
ヴァレットは、先日の商店街でのやり取りを見ていた者が偽者として堂々と入り込む可能性を懸念して、待ち人が現れるのを確認した上で空から約束の場所に降り立った。
少なくとも、そうすれば魔法使いである事は証明できる、と考えての事だが……結果から考えると余計な懸念に過ぎなかったようだ。
平赤羽ウォーターパークの一般入口から離れた位置にある従業員など関係者達の出入り口であり、資材その他の搬入口でもあるその場所で彼女を出迎えたのは、先日の本部長・篠崎泉次と……もう一人だけだったから。
(? 誰、だろう?)
そのもう一人……なんというか、存在感のある人物だとヴァレットは感じていた。
世間ではイケメンと呼ばれるだろう、端正な顔立ち、切れ長な目。
髪型がオールバック……征も同じくオールバックだが、整え方が違うのか、別の髪型に見える……の為か、それらの要素は殊更印象強くなる。
スーツの上からの推量ではあるが、体付きは細身ではあるが、ひ弱という感じではない。
むしろ無駄なところだけを削ぎ落とした、という風情である。
かつて修行の一環で対峙した武芸の達人達を『一振りの名刀のようだ』と感じたことがあったが、それに似た雰囲気を、彼は纏っていた。
何処かで見たような、会ったような気がする、そんな人物を誰なのだろうと思いながらも、ヴァレットはとりあえず挨拶を交わす事にした。
「おはよう、ございます」
「おはようございます、ヴァレットさん」
「本日はお招きいただきありがとうございます」
「いや、それはこちらこそです」
先程からのヴァレットからの視線に気付いていたのか、もう一人の男が自ら前に出る。
男はヴァレットに頭を下げてから、朗々と名乗った。
「お初にお目にかかります。
わたくし、岡島財閥総帥、岡島黄緑(おかじま・こうろく)と申します。以後お見知りおきを」
「……?!」
流石に大声を出して驚きたい心境だったが、それはどうにか堪える。
成程、この存在感は只者ではないと思っていたが……いや、しかし、それでも違和感は拭えない。
一般人とは思えないこの雰囲気……だがしかし、財閥の総帥ともなれば、この位の人物でなければならないのかもしれない。
そんな思考を交えつつ、ヴァレットは改めて名乗る事にした。
「は、はじめまして。
ヴァレットと名乗っている、正義の味方志望の、魔法使いです」
「存じていますよ、魔法多少少女ヴァレット。
貴方の武勇伝、活躍は同郷の人間として誇らしい限りです」
「恐縮です。
ですが……あくまで私は、自分勝手に過剰な自警行為を繰り返しているだけの未熟者。
市民の皆様の心遣いでかろうじて見逃してもらっているだけの、か細い存在ですから。
そんな私に岡島財閥総帥が自ら出迎えてくださるとは、光栄です」
「志望などと言わず、正義の味方と名乗ってもいいのでは?
貴方は既に幾度となく平赤羽市の住人を助けている。
文句を言う者は、そういないでしょう」
「いえ、先程も言いましたが、私はまだ未熟者。
自ら正義を名乗れるほど、立派な人間ではありません。
本当に正義の味方なら、もっとちゃんと……いえ、すみません」
こと【正義の味方】に関する事柄・話題には、つい熱くなってしまうのは自分の悪癖だ。
なんとはなしに恥ずかしくなった事もあり、ヴァレットは赤面しつつ途中で話を打ち切った。
「……素晴らしい」
「……まただよ、この人」
そうして少し身を縮こまらせたヴァレットを全身くまなく観察した上で、岡島黄緑は言った。
彼の言葉に対して、泉次が小さく呆れ気味に呟いているのに気付いているのかいないのか、黄緑は言葉を続けていく。
「やはり、貴方は素晴らしい。
正直、ここで自ら正義の味方を明確に名乗っていたら幻滅していたところです。
やはり貴方は私の記憶通りの……いや、想像以上の人だ」
「そ、そうですか」
褒められている、のだろうか?
それにしては、彼が浮かべている表情は、何処となく悪そうな笑顔に見える……いや、それは自分の主観でしかなく失礼だ。
ヴァレットは初対面の人物にそんな事を考えてしまった事を反省し、頭を振って、その思考を散らした。
「ともあれ、今日は宜しくお願いします」
「は、はい。こちらこそ」
そうしてヴァレットと黄緑は握手を交わす。
ヴァレットこと紫雲は、このような人物と縁が出来た事を不思議に思いつつも、今後こうして話す事はないだろうと思っていた。
が、実際はそうではない。
この岡島黄緑とは、今後も色々と関わっていく事になる事を、この時の紫雲はまだ知らなかった。
それから、式の段取りなどについての簡単な説明が、ヴァレット含む集められた関係者各位に行われた。
テレビの中で見知った有名人が間近にいたり、
そんな人々に話しかけられたりするという状況をはじめ、
様々な不慣れな事柄に戸惑いながらも、ヴァレットは自分の為すべき事のために確認しなければならない事項の書かれた書類何度も何度も読み直す。
そうして、ヴァレットが悪戦苦闘し、関係者達が準備を進めていくうちに、予定の時刻を迎え……開幕式が始まった。
先程会話を交わした岡島黄緑の挨拶に始まり、
招かれていた平赤羽市に縁のある有名人……アイドルや政治家、漫画家や小説家、映画監督など……のコメントが続けられていく。
訪れていた数千……いや、それ以上の人々はそれを眺めながら、オープンを今か今かと待ち侘びていた。
その間ヴァレットは、そうして集まった人の多さに驚きながらも、事前に話し合ったように邪魔にならないよう上空で状況を見守っていた。
集まった人々を害する者が現れた時は、即座に対応できるように……そう身構えていたのだが。
『最後に。
平赤羽市にお住まいの方ならば誰もが知っている、特別ゲストをお招きしています。
それでは、お呼びしましょう……魔法多少少女、ヴァレットさんっ!』
「……………………はい?!」
全く想定外の言葉と渡されたプログラムには記載のないイベントを黄緑により投げ付けられ、ヴァレットは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
さらには、空中待機中の姿をしっかりカメラに捉えられており、パーク備え付けのスクリーンに自身の姿がアップで映し出された瞬間に、彼女は悟った。
(あ、これ完全にはめられてた)
しかしこうなってしまえば後悔する時間すらなく、全てが後の祭りでしかない。
逃げようかとも思ったのだが、それをすれば黄緑や泉次の顔に泥を塗る事になる。
そうして、この開会式やパークにケチがついてしまう事は、避けるべき事態だ。
そう考えていたと思う、と思い返す事が出来たのは、全てが終わってからのこと。
この時のヴァレットは、
内心パニック状態のままでおっかなびっくりステージの上に降り立ち、集まった人々からの視線で極度にかつ壮絶に緊張していた。
だが、最終的に一週回って冷静になった事で、口が回るようになり、素直な心情を壇上で語った。
すなわち。
平赤羽市の住民として街の発展と平和を、
外からやってくる人々との快い交流を、
そして、ここがそうなっていく象徴の一つとなるような、素敵で素晴らしい場所となるのを願っている事を。
ストレートで分かりやすいその言葉が受けたのか、来場者からは大きな喝采と拍手が贈られた。
それにより再び緊張が高まった事から、ペコペコと頭を下げまくり、退場の際、コードに足を引っ掛けたりしていたが、それもまた大いに受けた。
結果としてサプライズのヴァレットのコメントは功を奏し、平赤羽ウォーターパークはこれ以上ない和やかなムードでオープンされた……。
「も、申し訳ありませんでしたぁぁぁっ!!」
それから暫し経ち。
開幕式の後の幾つかのイベントに半ば死んだ目で同席し……
依頼されていた自身の仕事(イベントを見守るのは予定では空からだったが)を終えて、そそくさと人のいない場所へと移動したヴァレットに泉次が声を掛けた。というより全力で土下座していた。
「あれは総帥が仕組んでたサプライズで私も全然事態を知らなかったんですぅぅっ!?
まさかあんな無茶振りをするなんてっ!?
ひらに、ひらにぃぃっ!」
「あ、いや、その、謝らないでください」
何処に行くとも言っていなかったのに、あっさりと発見された事と、
あまりにも綺麗で見事な土下座振りに少し驚きながらヴァレットは答える。
「無事に開会式が終わったんですからいいですよ。気にしてません」
「そ、そう言ってくださいますか……
正直あまりの申し訳なさに謝罪の方法すら思い浮かびません……」
「謝罪の必要はありませんよ。
ええ、むしろ一つ勉強できましたから……二度と引っ掛かりません、はい。絶対に絶対に」
「うう、なんともはや……ほ、本当に申し訳ありませんでした。そして、本当にお疲れ様でした」
「いえ、篠崎さんこそお疲れ様です」
泉次が気に病む事のないよう、ヴァレットは意識して自分に出来る限りで優しく微笑んだ。
それがただの『そうしているつもり』になっていないか、顔が引き攣っていないか、逆に怖い顔になってないか、極めて心配ではあったが。
そんなヴァレットの意を汲んでか、強張っていた泉次の表情は徐々に落ち着いていく。
それを見て一安堵しつつ、ヴァレットは言った。
「篠崎さんは、これからまだお仕事があるんですよね。
私だけ先に解放されてしまい申し訳ないです」
「いえいえ、とんでもありません。どうか御気になさらず。
というかこれが私の仕事なもので」
「そういうもの、なんでしょうか」
「ヴァレットさんも普段やっている事について、同じ様に言われたら私と同様に返すのでは?」
「あー……それは、そうかもですね」
「ははは。そうでしょう? 貴女はきっとそういう方でしょうから。
なので、重ねてになりますが御気になさらず」
そうして穏やかに笑みを向ける泉次に、ヴァレットは深く敬意を抱いた。
色々な出来事が起こった後だったからか頭の中ですら上手く言葉には出来ないが、大人の心遣いを感じていたのだ。
彼のような立派で素晴らしい大人になりたいものである。
「それでは、後はご自由かつご存分にこの場をお楽しみください。本日はありがとうございました」
「はい、こちらこそありがとうございました」
今はまだまだ彼のようにはなれないが、せめてもの尊敬を込めて深く礼を交わし、ヴァレットはその場を後にした。
「さて」
ヴァレットは今回泳ぐつもりが最初からなかった。
篠崎の心遣いや招かれた立場上、この場を堪能すべきなのだろうが、それについては個人的に訪れた時にしようと思っていた。
せめて、パトロール的巡回がてら折角のフリーパスカードを使って食事を堪能しよう……そう思いながら、ヴァレットは空へと飛び上がった。
既にパークを巡回する許可は泉次や関係者から貰っている。
警備その他について自分の裁量でやってくれて構わないと言われているし、この施設の規約などは事前に借りた書類で頭に入れている。
実際の所、そうそう事件などは起こらないだろうし、起こったとしてもちゃんとパーク専属の監視員や警備員も働いているのだ。
自分の出番など殆どないだろうし、そもそも、出来れば何事も起こらないのが一番だ。
「……うん、皆楽しそうだなぁ」
空から見下ろす光景は、この上なく平和だった。
家族や友人、恋人と一緒に過ごしている人々、
一人で各種プールを制覇せんと泳ぎ回っている人々、
施設やステージでのイベントを楽しんで回っている人々
この場で出会い、知り合い、意気投合している人々……皆が皆それぞれの楽しみ方をしているようだ。
そうして誰もが笑顔を零しているのを見ると、自然ヴァレットの顔も緩んでいく。
「……クラウド」
だが、そうしてほんわかしているだけのつもりはない。
自分の目の届かない場所を見て回ってもらっているクラウドに、ヴァレットは呼び掛けた。
だが。
「……あれ? クラウドー?」
いつもなら思考リンクしていればすぐ返事を返してくれるクラウドの【声】が聞こえない。
どうかしたのか、とヴァレットが思っていると。
『す、すまない、いま少しいそがし……ニャァァア!?』
「え、ちょ!? 大丈夫なの?!」
『いや、大したことじゃニャい。うん。
じっくり周囲を見て回っていたら子供にうっかり捕まってしまって……ごぼぼぼっ!?
子供には邪気がないから……ごぶほぉっ?!
ちが、違うんだ、監視員の人っ!? 僕は自分の意思でプールに入ったわけではなくて……!』
「だ、大丈夫? 助けに行こうか……?」
『も、問題ない。
こっちは暫く、逃げたり色々しているが、うん、それ以上の異常が起こったらすぐに報告する。
あ、シャレじゃないんで、今の。
君も何かあったらすぐに連絡をくれ』
「う、うん、その分だと大丈夫そうだね」
いちいち注釈を入れてくる辺りまだ余裕はありそうだ。
ひとまず安堵したヴァレットは、改めて空から人々の様子を眺める事にした。
そんな中で。
「……どうしたのかな」
パーク中心部から少し離れた子供用プールの、プールサイド。
今日の利用者の殆どは家族連れで、その大半も家族一緒に普通のプールを利用しているからなのか、子供用プールの利用者はあまりいないようだった。
それゆえに、そこで何人かの子供の表情が曇っているのは目立っていた。
少なくとも、パーク全体を俯瞰するヴァレットの……正確には紫雲自身の……驚異的な視力による視界にはよく映っていた。
ちょっとした喧嘩なのだろうか。
だったら自分が口を挟むような事ではない。
正義の味方志望を自称しているし、困っている人がいれば可能な限り助けたいとは思っているが、過ぎた干渉はかえって状況を悪くする事があるのを紫雲は経験上理解していた。
なのだが。
「少し、話を聞いてみようかな」
こんなにも皆が楽しそうにしているのだ。
こんな素敵な場所、素敵な日には、出来るだけたくさんの人に笑っていてもらいたい。
そう考える事が自身のエゴであり、傲慢だとしても。
結局放って置く事はできなかったヴァレットは【絵筆】をある程度降下させてから、子供達の近くへと降り立っていった……。
「ほらほら早く泳げよー」
「そうだそうだー」
「……」
「もぉ、そんなのやめなよー」
「そんな事してる暇があったら遊ぼうよ」
数人の子供達が、一人の少年に対してなにやら囃し立てている。
一緒に来たのであろう他数人の少年少女は、囃し立てている事に否定的な様子だった。
「どうかしましたか。……?」
そんな中、ヴァレットが空から舞い降りながら声を掛ける。
その際、ヴァレットは微かな、何かしらの違和感を感じたのだが……
ざっと周囲を見たところ、ある一つを除いて何も変わった様子がなかった。
着地直後、何処からか吹いてきた、夏にしては珍しい冷風のせいだったのかもしれない。
違和感の正体を明確に掴めなかったので、とりあえずさておいて子供達に向き直る。
「え?!」
「ヴァレット……?!」
「ほ、ほんものだ……」
「っ!」
殆どの子供がヴァレットの登場に驚いている中、
囃し立てられていた少年はその隙を突く形でその場を駆け出し、去っていった。
『……クラウド、お願い』
自身の思考や視界、そういった情報をクラウドに【送信】し、
少年の追跡を頼んだヴァレットは、とりあえず詳しい状況を子供達から聞き出す事にした。
「皆さんが、何か困っているような気がして降りてきたんですが……お話を聞いてもいいですか?」
「魔法だよ、魔法。マジの」
「すげー」
「ええと、あの、ちょっと、くちげんか、になっちゃってたんです」
殆どの子供達が、ヴァレットが空から降りてきた事や自分達の状況を魔法で感じ取った(と勘違いしていた)事への興奮に終始していたが、比較的冷静だった……先程囃し立てていたのを止めようとしていた……少女の一人が答える。
「どうしてなのか、聞いてもいいですか?」
しゃがみ込んで、子供達の視線に合わせながらヴァレットは問う。
「だって、アイツが悪いんだぜー!」
その問い掛けに答えたのは少女ではなく、先程まで魔法に興奮していた男子の一人、少年を囃し立てていた中心となっていた男子だった。
「何が、悪いんですか?」
「アイツ、冬の時はさー、スキーが出来るんだって散々自慢して、その時からずっとずっとエラソーにしてたのにさー」
「そうそう、けっこうずっとそうだったよな」
「プールの授業だと、ずっと縮こまってたんだー」
「そうだったらしいよ、私見てないけど」
「泳げないんだろーって言ったら、そんなわけないって、まだ偉そうにしてたからさ、うん」
「絶対泳げる絶対絶対だって、すごい何回も言ってたっけ」
「それで、その、今日、泳げる事をしょーめーする、させる、って話になってたんです」
子供達の言葉は、自分が知っている事を相手も当然知っている、という認識のもので、
かつそれぞれが思い思いの言葉で語りかけてくるので
情報の整理に微妙に手間取ったものの、ヴァレットはどうにかこの状況をどうにか把握する事が出来た。
ここにいる子供達は、皆同じ学校に通うクラスメートなのだろう。
先程まで囃し立てられていた少年は、冬頃転入してきたのだが、
その直後に行われたスキー教室でクラスの誰よりスキーが出来る事を自慢していたらしい。
その自慢が自信に繋がったのか、少年はずっとクラスの中心にいたらしいのだが、
夏になって水泳の授業が始まるとその自信は何処へやら、目立たないようにしていたとの事。
それに気付いたクラスメート達は、少年が泳げないのではないかと考え、追究したが、
少年は夏休みに入り、水泳の授業から逃げられたのを良い事に有耶無耶にしようとしたらしい。
それに腹を立てた一部の男子が、少年を煽り、全てを明らかにする場として今日この時を指定。
少年も逃げるに逃げられなくなったのか、それを受けたはいいものの、
本当に泳げないのか、他に事情があるのか、プールにすら入らない状況となり、
それを気に食わない男子達が囃し立て……というのが、先程の状況だったようだ。
「……そういう事ですか」
「だから、ぜーんぶアイツが悪いんだよ」
「確かに、あの子にも悪い所はあるみたいですね」
「でしょー」
「そうだよね、うん」
「でも、だからと言って貴方達が正しいというわけではありません」
【「えー!?」』
ヴァレットの言葉に、子供達の半数が不満げな声を上げる。
「なんだよ、ヴァレット、アイツの味方なのかよー」
「なんでー?」
「正義の味方なのに、悪いヤツの味方するなんて……」
自分はまだ正義の味方じゃない、と言いたくなったが、話の腰を折りそうなのでヴァレットはそこについては触れず、話すべき事を優先する事にした。
子供達が聞き入れやすく聞こえやすいような、静かで穏やかな声音を意識しつつ、言葉を紡いでいく。
「ふむ。悪いヤツ、と貴方は言いましたね?」
「う、うん」
「じゃあ、あの子の何が悪いんですか?」
「そ、それは……泳げないくせに偉そうにしてたことだよ」
「だとすると、誰だって上手く泳げたら偉そうにしていていいんですか?」
「そ、そうだよ」
「みんなに出来ない難しい事が出来るんなら威張っていいじゃん……」
「なるほど。
じゃあ、スキーが上手だというあの子は威張ってていいんじゃないんですか?」
「そ、それは違うよ! アイツがスキーの時、先にすごーくエラそうにしてたのは、その、悪いじゃん!」
「偉そうにするのは悪い事なんですか?
例えば、テストで100点をとって、どーだ、すごいだろー!って言うのは悪い事なんですか?」
「う」
「そ、それは……」
「ごめんなさい、意地悪な事を言ってしまいました。
でも、そうやって、誰だって自慢したい事、あると思いますけど、皆さんはどうですか?」
子供達一人一人の目をしっかり見据え、見回して、問い掛けるヴァレット。
その視線を受け取った子供達は、それぞれしょげたり、頷いたり、考え込んだりのリアクションをしてから、その問い掛けに答えていく。
「……そーだね」
「うん、自慢する、うん」
「そうですよね。
ただ、あの子はちょっとそれを言い過ぎただけなんです。
それって、そんなに許せない事ですか?」
「う、うーん」
「そうでもない、かも、うん」
「いやいやいや、俺は許せないぞー!
だって、アイツずっとエラソーだったじゃん!?」
「あの子が謝っても許してあげられませんか?」
「……そ、そりゃあ、謝ったら、まぁ、いいけど。謝ったら、だけど」
「う、うん」
囃し立てていた中心だった男子がそれを認めた事で、彼同様の思いを抱いていた子供達も同意していく。
とても素直で良い子達だなぁと、ヴァレットはシミジミ思った。
……自分が子供の頃はもっと捻くれ曲がっていたので、心苦しいやら恥ずかしいやらだが。
少し前の泉次との会話で『大人の形』を勉強させてもらっていたのが功を奏したのかもしれない。
ともあれ、どうにかこちらの子供達と話し合う事が出来た。
その事に安堵はするが、それだけで終わるわけにはいかない。
そう考えたヴァレットは、子供達に頭を下げた後、立ち上がって告げた。
「皆さん、ありがとうございます。
それじゃあ、ちょっと待っていてください。私があの子を探してきますので。
戻ってきた後は、皆で喧嘩せずに話し合ってくれると嬉しいです」
「う、うん」
「こんなにたくさん人がいるのに、大丈夫?」
「見つけられるのー?」
「だいじょーぶー?」
「ええ。私、一応魔法使いですから。では、ちょっと行って来ます。
……さて」
少し歩き、子供達から離れていく。
この間に事情を【聞かせた】クラウドと、法力による思考会話で情報交換を行う。
クラウドは既に少年の位置を把握してくれているとの事だ。
(後は、彼の所に赴いて、さっきあった事を話して……)
考えをまとめながらも、自身の頭上に浮遊待機させていた【絵筆】に手を掛けた時だった。
「マメですね、あんな子供の喧嘩にも首を突っ込むとは」
「……まぁ、性分なので」
突然、物陰から声が投げ掛けられる。
振り向いた先、近くにあったトイレの裏手から現れた声の主は、岡島財閥総帥・岡島黄緑だった。
「それでも、普段はそこまではしなかったと思います。
今回については過剰なお節介だと私自身思いますので」
「……全く驚きませんな。唐突に出てきたつもりだったのですが」
「こちらへの視線や気配を感じていたので、誰かがいるのは分かっていましたから」
あの場でハッキリ感じた”変わった様子”がそれだった。
そして、その独特の気配は今日感じ取ったばかりなので、それが彼だと判別するのは難しくなかったのだ。
「いやいや、やはり貴女は凄い。しかし、分からないな」
「何がですか?」
「先程の会話、施設巡回中にたまたま遭遇したので聞かせていただいていたのですが……
もっとあの子達が悪いとハッキリ叱るべきだったのでは?」
「……」
「集団で一人に対して何かを強制する、それ自体が悪いと思いませんでしたか?
かつてあの少年に非があったのは事実でしょうが、それはそれこれはこれ。
貴女も言っていた様に、少年は”言い過ぎていただけ”のようだ。
何か……いじめなどを行っていたというわけではないだろう」
実際そのとおりだろう……ヴァレットもそう考えていた。
もしいじめに近い事が行われていたというのなら、あそこで黙っているとは思えない。
そこまでの事がなかったからこそ、彼らは謝れば許すと言えたのだろう。
「であるならば、あの場でもっと強く彼らを叱るべきだったのでは?
正しい事は正しく、間違っている事は間違っている、と」
「そうかもしれません。ですが、私はそうすべきではないと思ったんです」
「それは何故?」
「私は……馬鹿ですから。
私にかろうじて分かるのは、どんな理由があったとしてもやってはいけない事、だけです。
あの場でそれがハッキリしていた、とは私には思えませんでした。
それに、あそこに至るまでの出来事やあの子達の関係を深く知りもしない立場の人間が、明確な善悪を決めるのは……ただの価値観の押し付けです」
「なるほど。
だが、しかし……普段の貴女がそれを行っていないとでも?」
「……」
「私は、今日貴女にゲストとして来ていただくにあたって、貴女の関わった事件を可能な限り調べました。
結論として、貴女は確かに正義の味方たろうと努力している人間だと確信するに至りました。
だからこそ、私は貴女により強く興味を抱くようになりましたし、今日ここに招く事に躊躇いを感じなかった。
ですがそれは、貴女が平赤羽市で起こっているアレコレに貴女個人での判断を下しながら立ち向かっている、という事実とは別の事です」
「ご指摘、御尤もです」
「ああ、勘違いなさらず。
私としては、これまでやこれからの貴女の判断が間違っている、などと指摘・追及するつもりはありません。
ただ、強弱はさておいても、貴女が”価値観の押し付け”を行っている事に変わりはないんじゃないか、
そうであるのなら、あそこで喧嘩の仲裁をする事も、ハッキリと善悪を決めた上で彼らに指摘する事も、さして違いはないんじゃないか、
そう疑問に思っただけです」
黄緑の言葉は、常にヴァレットが……草薙紫雲が悩み、考え続けている事そのものだった。
草薙紫雲は、幼い頃からずっと正義の味方を目指し、それゆえに色々な出来事に首を突っ込んできた。
その事そのものが正義という価値観の押し付けなのではないかと気付き、悩みだしたのはいつからだったのか。
正義の味方を目指すものとして、紫雲は何かの事件に関わる際には、自身の判断が独善的にならないように意識していた。
だが、そうして事件に関わる事そのものが独善的なのではないだろうか?
事件に関わり、判断を下す事そのものが独善的以外の何者でもないのではないだろうか?
であるなら、事件の中での判断がどうであれ、最初から全てが独善でしかないのではないだろうか?
であるならば、黄緑の指摘は至極当然だ、
いずれにせよ独善でしかないのなら、その強弱に違いはないのかもしれない。
「……岡島さんのおっしゃるとおりだと思います。
貴方の言う様にちゃんと叱る方が正しいのかもしれません。
それを選択しなかった事が私の価値観の押し付けだ、と言われても私には何一つ反論はできません」
だが。
「私はただ、できるだけ、あの子達が穏便に……いえ、最終的には笑い合って仲直りしてほしい、そう思ったんです。
そうなるためにはどうすればいいのか、私なりに考えた結果が、ああいう形になった、それだけの事です。
喧嘩するほど仲が良い、なんて言葉もありますけど……そういう関係性でないなら、出来る限り喧嘩なんかしない方がいいって、私は思ってます。
誰かに押し付けがましいと思われたとしても……私のその結論は変わらないと思います」
独善の強弱に、その上での結果に違いがなかったのだとしても。
全てがただの押し付けに変わりないのだとしても。
やはり、草薙紫雲は、ヴァレットは思うのだ。
誰かが困っていて。
誰かが笑顔になれずにいて。
自分が関わることで、そんな状況をほんの少しでも好転できるのなら、変えられるのなら。
関わっていきたいのだ。自分に出来る全てをかけて。
それこそが、子供の頃から自分が夢見、憧れ、目指している【正義の味方】なのだから。
「申し訳ありませんが、これにて失礼します。
あの子を見つけなければならないので。
……興味深いお話、ありがとうございました」
そう告げた後、ヴァレットは【絵筆】に飛び乗り、去っていった。
一人残された黄緑は、空へと続く、微かに残る紫色の光の軌跡を見上げたまま、一人呟いた。
「……ふふ。やはり、君は、そういう人間なのだな。
ああ、うむ。そうでなければ折角の平赤羽市が泣くというものだ」
そうして浮かべる彼の笑顔は、何処か禍々しくも穏やかな……もし、その表情を見たものがいれば、もう一度見直して確認してしまうだろう……相反するものを内包する、そんな笑顔だった。
……続く。