魔法多少少女ヴァレット・アフター〜夏の『祭』の思い出〜














 蝉が鳴き、強い日差しが降り注ぎ、喉が渇き、基本的に青空が続く、そんな季節……夏。

 この時期、とある大きな展示施設でオタクの祭典とも言うべき一大イベントが行われる。

 その『祭』は皆が参加者……ではあるのだが、その参加者は大きく二種類に分けられる。
 純粋に祭に参加する者と、『祭』に”何か”を提供する事で参加する者。その二者に。

 ”何か”とは、所謂『同人誌』だったり、個人レベルで制作されたゲームだったり、同様のグッズだったり、あるいはコスプレだったり実に様々だ。

 それらを買ったり、見たり、それらについて語ったりする事により、
 純粋に参加している者も、提供している者も、互いに『参加者』として楽しい時間を共有し、分かち合う。

 それが毎年、とある大きな展示施設……”ここ”で行われている『祭』である。
 
 今年もそんな祭が行われている中、
 その片隅……とある同人誌制作グループ、所謂同人サークルのスペース(同人誌を頒布する際に与えられる場所)で、彼・久遠征はなんとなく不思議な感覚を覚えていた。

 というのも、昨日からこっち、クラスメートのいつもとは違う一面を目の当たりにしていたからだ。

 そのクラスメートの違う一面を見るのはこれが初めてではない。
 というか、もっと大きく違う一面をクラスメート……『彼女』は持っている。

 その『彼女』の名は、草薙紫雲。
 征のクラスメートであり、
 とある事情から周囲に女だと隠し、男装している少女であり、
 ここから少し離れた場所にある、彼らの住んでいる平赤羽市という都市の平和を守る『魔法多少少女ヴァレット』だ。

 征は知っている。
 御人好しで、正義のヒーロー好きで、腕っ節が強い『男子生徒』としての紫雲と、
 不思議な事が数多く起こり、異能を持つ者が事件を起こす平赤羽市……そこに住む人達を守る為に、己が素性を隠しながら『ヴァレット』として活動している彼女を。

 だが、今ここにいる『彼女』は、そのどちらでもないように征には思えた。

 まず普段と格好が違う。
 いつもなら男装をしている彼女だが、今の彼女はとある事情から所謂メイド服に近い黒い衣装を纏っている。
 ぶっちゃけて言えば、コスプレをしていた。

 更に言えば、普段は男装の為短くしている髪を法力(要するに魔法)により腰まで届くほど長く伸ばしている。
 そして、それに伴ってなのか、紫雲の言葉調子や雰囲気は全体的に柔らかくなっていた。

 それらが複合された今の姿を見ると、『彼』はどこからどう見ても『女の子』だった。

 そんな、今ここにいる少女は、その柔らかな雰囲気を纏い、征のオタク仲間達……同人サークルの面々と最近の特撮について楽しげに語り合っている真っ最中である。

「あー、あそこはかっこよかったですね。うん何度見返しても飽きないなぁ」
「分かる、分かるよ草薙サン」
「いや〜、女の子にアレの良さが分かるなんてな。
 ウチの女仲間二人にはどうも受けが……」
「はいはい、悪かったわね」
「まぁまぁ。人には好き好きがありますから。
 でも、普通に見て『かっこいい』って思う女の子、きっとたくさんいますよ」

 昨日会ったばかり、という事で、紫雲は彼らに対し基本的にですます口調で丁寧に接している。
 その点で見ればヴァレットの時と同じなのだが、征は、紫雲がヴァレットの時とは微妙に違う雰囲気を放っている、ような気がしていた。

 『ヴァレット』としての彼女も、
 元々の人柄からか穏やかで優しい雰囲気があるのだが、そこには何処か凛とした、強い空気も同時に存在していた。
 男装時は男装時で『素性がバレないように』という警戒心からなのか微妙に硬さがあった。

 だが、今の彼女は、基本的に纏っていた凛としたものや硬さがかなり薄くなっている。
 今この瞬間だけ切り取れば……やはり、何処にでもいる女の子のように、征には見えた。

(……艮野や浪之が見たらどう思うんだろうな、これ)

 紫雲の幼馴染であり微妙な関係である艮野灰路と、
 紫雲が女とは知らないながらも妙に波長が合っている風な浪之歩二。
 2人とも紫雲や征のクラスメートだが、紫雲に対してはそれぞれ立ち位置が違う。
 ゆえにそんな2人が今の紫雲を見た時の反応を知りたいなぁと、なんとはなしに征は思った。

(……俺が三次元に興味を持つとは珍しいなぁ)

 重度のオタクであり、二次元と三次元の優先順位が基本逆転気味である自身のそんな思考に、征は少し驚いていた。

(まぁ『ヴァレット』が魔法少女で、草薙が二次元的要素満載だからなんだろうけどな)

 そうして自身の思考について推測しながら、征はふと考えた。

 どれが『本当の草薙紫雲』なのだろうか、と。

 男装している姿か、ヴァレットか、今の紫雲か、あるいはまだ見た事がない彼女か。
 深く追求する程ではないが、軽く疑問に思った。

「ねぇ、久遠君はどう思う? 私はあのドリルかっこよかったけど……」
「王電仮面フォーセロか。ああ、アレはいい。
 他の必殺技バリエーションも気になるけど、今の所、あれが一番”らしい”技だと思う」
「だよね〜。うん、久遠君と意見が合って嬉しいな」

 振られた話題にしっかり応えつつ、
 『女の子』として趣味を語れているからかホクホク顔な紫雲を眺めながら、
 征は明日になれば忘れていそうな『議題』について少しの間思考する事にした。











 征がそんな思考をはじめたそもそもの発端は数日前の事だった。

「……久遠君から?」

 その日の夜、そろそろ眠ろうかと紫雲がさらしを解き終わり、パジャマに着替えたそのタイミングで彼女の携帯が鳴った。
 画面を開くと友人である久遠征の名前が出ていた事に、紫雲は首を軽く捻った。

 彼から電話が掛かって来る事、紫雲の側から掛ける事は、割りと良くある。
 久遠家に現在居候している紫雲ことヴァレットの複製体である魔法少女リューゲ・法杖真唯子の近況についての話を聞いたり、
 オタクである征と紫雲の共通の話題たる『空想上のヒーロー』についての熱い語り合いだったり、
 友人同士のちょっとした何気ない話だったり……などなど、割りと理由には事欠かない。

 だが、それは基本的に夕食後辺りの時間帯に行われていた。
 なので、こんな時間に……夜遅くに掛けてくる事に紫雲は疑問を感じていたのである。

(……何か急用なのかな?)

 いざという時は外出する心積もりをした上で、紫雲は電話に出た。

「もしもし、草薙だけど」
『おお、草薙か。久遠だ。悪いなこんな時間に』
「それは全然いいけど……急用?」
『まぁ、そうなるな。ああ、いや、大した事じゃないというかだが。
 少なくとも俺や真唯子の危険が危ないとかそういう事じゃない』

 ワザワザ小ネタを挟む辺り、本当に危ない状況ではないのだろう。
 とりあえず、その事に安堵した紫雲は話を進めてもらう事にした。

「それは何よりだけど……だったら何があったの?」
『さっきも言ったが、大した事じゃない。
 草薙は俺みたいな奴にとっての”夏のお祭”を知ってるよな』
「うん、それは知ってる」

 正義のヒーロー・ヒロイン関係の創作物に興味があり……というか、
 基本的に大好きでドップリ浸かり、それらへのアンテナを張っている紫雲は、
 その派生・繋がりでアニメや特撮などについてもある程度情報を耳に入れており、それなりに知識があった。
 そうして仕入れた情報から、ヒーローなどに関係がなくても、面白さから普通に見ているアニメなども幾つかあったりもする。
 紫雲が征の話についていく事が出来たり、一部話題が合ったりするのはこの辺りに理由がある。

 閑話休題。

 そんな紫雲だからこそ、征が言う『祭』についても知ってはいた。
 興味もあり、行けるなら一度は行ってみたいとも思っていたのだが……。

「それがどうかしたの?」
『その祭にだな、ネットで知り合った俺の同士……オタク仲間が同人誌を売る側として参加する予定なんだが、ちょっと困った事になってな』
「困った事?」
 
 征の言葉に、紫雲の中の御人好しレーダーがピクリと反応する。
 それに気付いているのかいないのか、征は言葉を続けた。

『今回は結構な自信作らしくてさ。
 たくさんの人に読んでほしいって、ソイツ意気込んでてな。
 ……今ネット見れるか?』
「ああ、うん、ちょっと待って」

 基本的にハイテクとは縁遠い草薙家なのだが、パソコンやネット関係はある程度取り入れていたりする。
 数年前、紫雲の姉・命が『仕事的にあった方が便利かもしれない』と若干渋々気味にそれらを使う事を決めた事が原因である。

 その恩恵を受ける形で紫雲もまたパソコン及びインターネットを使うようになった。 
 ただ、パソコンやそのソフトが若干古いので、紫雲としては環境改善を考えてはいるのだが、
 ヴァレットとしての活動が忙しい事から、勉強や新規購入資金の為のバイト時間を取れず、中々それを実行に移せないでいる。

(折角のパソコン、もっと有効に使いたいんだけどなぁ……) 

 ヴァレットとしての活動にも活かせるだろうになどと考えながら、紫雲は征に教えられたアドレスのホームページを閲覧する。
 更に征の言葉に従って開いたページには、征の仲間という人物が描いたという同人誌、そのお試し版……所謂サンプルページの画像があった。
 その同人誌のサンプルページを読んだ紫雲は思わず唸る。

「むぅ。うん、これ、いいね。素敵で……凄いよ」
『おお、分かるか』

 同人誌の内容はオリジナルのファンタジー漫画だった。
 征程二次元世界に傾倒していない紫雲だったが、その作品の作画クオリティ、物語の凄みを感じ取る事は出来た。
 知識不足からプロ級だと安易に断言は出来ないが、少なくとも紫雲には市販されている漫画に負けずとも劣らない魅力があると思えた。

「これだけの作品なら、読んでほしいって気持ち分かるっていうか、僕も続きを読んでみたいっていうか」
『まぁ作者自身が自信満々に俺に”読め、そして広めろ”って言う位だからな。
 そんな訳でネット上で出来る広告はしたりとかもして準備はほぼ万端だったんだが』
「?」
『当日協力してもらう予定の売り子兼当日の客引き要因が急病で出られなくなったらしくてさ。
 俺もさっき作者からその話を聞いたんだが……えらくガックリしてたよ。
 そんでそれが理由で本が売れなかったらとか作品には自信があるくせに何でか不安になってるっぽい』
「つまり、当日の手伝いがほしいんだね? だったら協力するよ」

 紫雲的には不在の間の平赤羽市が少し気に掛かるが、
 それについてはもう一人の魔法少女たるオーナに話しておけば大丈夫だろうと思えた。
 基本的に誰か任せを避ける紫雲が素直にそう思えるのは、紫雲がオーナを心から信頼している事の表れに他ならない。

(オーナちゃん、家族旅行行ったばかりだし、暫くは何処も出掛けないって言ってたから大丈夫なはずだよね……)
 
 オーナからお土産に貰い、早速付けている携帯ストラップを弄りながら紫雲は話を続ける。

「お、じゃない……宮古守ちゃんに行っていいか聞いてからになるけど、問題ないと思うよ」
『街の事は俺も真唯子に頼むつもりだから大丈夫のはずだぞ』
「そっか、なら尚更だね」
『ああ。まぁだからそう言ってくれるのはこっちとしては凄く助かるんだが……草薙、何するのか分かってるのか?』
「売り子さんじゃないの?」
『それはそうだが、その後に言葉を付けてただろ? 当日の客引き要因って』
「ああ、そう言えば……って、客引き?』
『ソイツ、売る為の最大限の努力をしたいらしくてな。
 だから売り子にコスプレをさせて、当日の、ネットでの宣伝その他知らない客の目を引きたいらしい』
「……コスプレ? えっと、つまり……」

 征の言葉から、紫雲はある結論を導き出した。
 というか、その結論しか出なかった。
 
「僕に、コスプレをしろと?」
『ああ』
「その、急病で出られなくなったのって……」
『女だよ。でコスプレも女の子っぽい衣装だ。
 その同人誌制作仲間……サークルのメンバーは全部で4人。
 原作・メイン描きの男が1人。
 そのアシスタント・雑務担当の男が1人。ああ、正規メンバーではコイツだけ未成年な。
 女は2人いて、1人がさっき言ったダウンしたヤツで広報・宣伝……まぁ基本的にはウェブ担当だな。
 もう1人はこういう時のための衣装作り専門。
 ちなみに俺は知識を活かした外部アドバイザー的存在だ』
「……なるほどね。それはそうと、そういう編成、一般的なの?」
『んー。同人ゲームならまだしも、同人誌のサークルなら珍しいんじゃないか? コスプレまで、ってのは。
 普通同人誌は個人製作だろうし。
 まぁそいつらもコスプレは滅多にしないらしいけどな。
 元々そうしたらどうだ?的なアドバイスをしたのは俺だから、もっと積極的にやってほしいとは思うが』
「ふむふむ。
 それにしても、アドバイス……アドバイザーかぁ。
 うん、久遠君、そういうの適任っぽいもんね。
 凄くいいアドバイスしてくれそう」
『ま、実際には人手が足りない時の補欠要因だよ』
「謙遜しちゃって。
 ともかく状況は理解したよ。それで僕に頼んだのか」
『いやさ、理解したんなら想像してるんだろうけどな。
 最初は清子に頼もうかとも思ったんだよ。
 でも、冷静に考えるとそんな事アレに頼もうもんなら殺されかねないし』

 清子。高崎清子。
 二人のクラスメートにして、友人であり、征の幼馴染でもある少女。
 ただし、オタクではない。
 それどころか、オタク的発言で自身をからかう征を『表面的には』敵視している。

 征と清子の関係性を考えれば、征の発言は理解できなくもない。ないのだが。

「いや、流石にそこまではしないよ。
 というか、清子さんはちゃんと頼めば協力してくれると僕は思うけど」

 紫雲は、清子の優しい面や、征との関係が決して悪いものでない事を知っている。
 頼んだ始めはあまりいい顔はしなさそうだが、ちゃんと真面目に頼みさえすれば最終的には渋々協力してくれるだろう。
 そう紫雲は考えたのだが。

『ちゃんと頼めば、だろ?
 正直アイツとの会話でちゃんと頼める自信がない。
 だって、からかいがいがあるしなぁ、アイツ』

 電話の向こうで征が悪そうな笑みを浮かべているのがアリアリとイメージ出来る。
 そのイメージのせいか多少頭が痛くなるのを感じつつ、紫雲は突っ込みを入れた。 

「いや、そこはちゃんと頼もうよ。
 話が色々な意味で弾むのはなんとなく分かるけど、それはそれ、これはこれだし」
『流石に真唯子に頼むのは場所柄教育的によろしくない気が』
「人の話を……ああ、まぁ、うん、そうだね」
『それに対し、草薙はそういう分野にもある程度知識や理解がある。
 一般的に見ればアレな事にも耐性があるだろ?
 全く興味がないとか、耐性がない奴らに頼むよりは、ある程度興味・理解・耐性がある奴に頼んだ方がいいと思った訳だ』
「……なるほど、改めて理解した。
 分かった。改めて、僕で良ければ手伝わせてもらうよ」

 色々言いたい事はあったが(というか言っても無駄な気がしたので)、とりあえずさておき、紫雲は結論を口にした。

「というか、むしろホントに僕でいいの? もっと可愛い女の子がいるんじゃ……」
『いや、お前がいいんだ。だから草薙が引き受けてくれるのは助かる』
「?? まぁ、それならいいんだけど」
『期待して頼んでなんだが、ホントにいいのか?』
「うん。困ってるんなら手伝いたいし。僕もこの作品を最後まで読んでみたいし。作った人に会ってみたいし」
 
 苦笑気味な表情を浮かべながら紫雲は言葉を続ける。

「それに、久遠君には色々お世話になってるしね。少しは恩返ししないと」

 真唯子の事や、自身の秘密の事などなど、征に感謝している事は多い。
 そして紫雲としては、様々な面倒事を抱えた自分にさえ、こうして普通に向き合ってくれる友人を大切にしたいと思っていた。
 なればこそ、友人の友人が困っているのなら力になりたかった。
 だからこそ、紫雲は細々とした事はさておいて、引き受ける事を決めたのだ。

 そんな思いからの紫雲の言葉に、電話の向こうの征は少し間を空けてから答えた。

『……気にしなくてもいいんだけどな。
 まぁ、それはそれとして、貰えるものは貰うけどな』
「ははは、うん、是非貰っといて。
 あーでも、その、僕を知ってる人は……多分来ないよね?」
『大丈夫だろ。少なくともウチのクラスで来そうなのは……まぁ、何人かいるけど』
「ゑっ?!」
『会場は広いし、人は多いし、よっぽどじゃないと遭遇しないだろ。
 いざって時は草薙紫雲の親戚って事にすればいいというか、そうしようぜ』
「……うん、まぁ、それでいいかな。
 えと、詳しい事はまた明日聞くけど、その、最後に1つ訊いていいかな」
『なんだ?』
「……うん、あのね、そのコスプレ、そんなに肌が……」
『ああ、大丈夫大丈夫。露出度は少ない。
 ほらサンプルにメイドっぽいヒロインいただろ? あの衣装そのままらしいから』
「そ、そうなんだ。良かった……」
『アレに比べれば、お前のもう1つの姿の方が露出してるから平気だろ』
「……むぅ」
『どうかしたか?』
「言ってる事は納得できるけど」
『けど?』
「なんでか、なんかちょっと、心に刺さったよ……」

 征の冷静な指摘に、紫雲は彼女には珍しく、少し不貞腐れたような、落ち込んだような声を零したのであった……。  


 








 と、そんなこんながあって、紫雲は『祭』に参加する事となった。

 紫雲に街を頼まれたオーナも快く了解、
 征の家族・紫雲の実姉たるの命も、
 サークル責任者(同人誌の作者)から征を経由して電話により直接事情説明を受け、
 いざという時の連絡を徹底させる約束を交わした事でOKを出し、当日以外の問題は全てクリアされた。

 ちなみに、灰路始め殆どの友人達は、紫雲達の行動を知らなかった。
 これについては恥ずかしいから言いたくなかったとかではなく、一部を除いて普通に教える必要性が無く、教える思考すらしなかった為である。

 そうして、征の家族、真唯子、オーナや紫雲の実姉である命以外に知らせる事無く、2人は『祭』へと旅立った。

 会場が紫雲達の住む平赤羽市から少し離れていた事から、紫雲達は前日の夕方頃に地元を電車で出発。
 数時間後、予約してあった会場近くのホテルに何事もなくチェックインした。

 紫雲は多少不安を感じていたものの、
 ホテルでの顔合わせ後、得意分野で話が合った事ですぐにサークル仲間に打ち解けていった。
 
 征が到着報告の際に平赤羽市に残した事で真唯子と電話で口喧嘩したり、
 着合わせしたコスプレ衣装が一部分を除いて問題なく着れた事から始まった紫雲のスリーサイズ推理合戦に紫雲が終始赤面状態だったり、
 交通費・ホテル代について協力してもらうのだから自分が出すという征の友人にして件の同人誌の作者に対し、
 あくまで自分の分は自分で払うと紫雲が主張して少し揉めたり(最終的には折半で片が付いた)、
 などした他は大きなトラブルもなく、彼らは無事にイベント当日を迎える事が出来た。

 
  










「ともかく、無事に済んで良かったです」

 与えられたサークルスペースの中、
 話題が特撮話から、特撮関係の同人誌の話題、さらに今回のイベントについてに移り、
 上々な結果に皆が満足している流れで、紫雲は言った。

 そんな紫雲の呟きに、サークル仲間の一人、アシスタント担当の太く大きな体型をした男性が答える。

「これも草薙サンのお陰だよ。急な話だったのに来てくれて助かった」

 今回頒布した同人誌は、
 彼ら的に比較的数を多めに刷っていたのだが、
 宣伝効果か、POPやポスターの効果か、はたまたコスプレ紫雲の客引き成果か、昼を回る前には完売と相成った。
 その後も訪れてくる人々への応対以外では、紫雲達が呑気に趣味の話が出来ているのも無事に完売出来たからに他ならない。

「いえ、私としては皆さんの力になれたならそれで。
 本もこうしていただきましたし。……やっぱり御代を」
『だから、それはいいって』

 紫雲の言葉に、その場の全員が突っ込みを入れた。
 参加した御礼だと今回頒布の同人誌を渡したら、紫雲が慌てて財布を取り出そうとした……という一幕があったがゆえの反応である。
 
「うぅ、すみません。
 以前年下の友達がそういう所凄くしっかりしてるのを見て、私もそうしないと、と思ったんですけど……」
「それ真唯子経由で話を聞いたけどな、それは草薙があの子に甘くてよく奢ってたって話だろ?
 今の状況とは全然違うだろうが」
「そ、そう言えばそうかも……うーん、難しいなぁ」
「……それはそうと、草薙。
 お前、色々見て回りたいとか言ってなかったか?」
「あ、うん。それはそうだけど……」
「こっちはもう大丈夫だ。ゆっくり見てきてくれ。
 初参加なんだろ? だったらもっとこの『祭』を楽しんでこいよ」

 同人誌作者たる青年が何処か不敵に笑いながら告げる。
 ……ちなみに、本人的には紫雲が気兼ねなく見物できるように、安心させるような穏やかな笑みを浮かべたつもりだったりする。

 そんな青年の表情に隠された心遣いに気付いたのかはさておき、紫雲は少し考え込んだ後、頷いた。 

「んー……分かりました。お言葉に甘えさせていただきます」
「俺も一緒に行ってやろう。解説役が必要だろ?」
「うん、久遠君が解説してくれると心強いよ。
 あ、でも、久遠君欲しい本とかあるんじゃ……」
「心遣いサンキューな。でも心配すんな。
 今回俺の欲しい本は殆ど委託販売されるらしいし、
 そうじゃないサークルのヤツは顔見知りが多いから取り置いてくれてるだろうし。
 ま、アドバイザー特権ってヤツかな」
『偉そうに言うな』

 征の発言に、周囲のサークルメンバーが突っ込みを入れる。
 が、全く動じる様子もなく征は言葉を続けた。

「そんな訳で、案内するついでに回っても十分手に入るから本の心配は無用だ。
 で、どうする?」
「そういう事なら安心してお願いできるよ。
 お願いしていいかな、久遠君」
「おう。引き受けた。
 ただ、その格好じゃ目立ち過ぎるから先に着替えてきた方がいいぞ」
「人多いだろうから、ちょっと時間が掛かると思うよ?」
「それはそうだろうが、面倒事を避ける為にもその方がいいんだ」
「?? よく分からないけど、分かった。
 久遠君がそう言うのならそうするよ。ここで待ってて。
 じゃあ、すみません。少し出てきます」

 そう言って面々一礼した後、紫雲は荷物を手にサークルから離れ、人ごみの中に消えていった。

「……なんというか、警戒心がないな」

 去っていった紫雲の背中を見送った後、同人誌作者の青年はそんな言葉を零した。
 その言葉にアシスタントの男性が頷く。

「そうだね。売ってる間、皆から結構注目されてたのに無頓着というか」   
「まぁ、その辺は色々事情があってな」

 彼らの言葉に、征は思わず苦笑する。

 普段男装している事もあり、紫雲はどうも自覚が足りないようだった。
 自身が少女としてある程度以上の魅力を備えている事や、
 今日の衣装により魅力が底上げされ、注目を浴びやすくなっている事に。
 ……ヴァレットの時も同様に視線を浴び慣れているのが、ある意味で仇となっているのかもしれない。

「大丈夫なの? 草薙さん放っておいて」
「そんな長い間放置するわけじゃないから大丈夫だろ。
 それに、アイツあれで悪意には敏感だから。邪な奴らだったらきっぱりしっかり対処するさ」

 サークルにおいて衣装・雑務を担当する女性の呟きに、征は答える。
 しかし、納得できなかったのか、彼女は言葉を続けた。

「……そうじゃない場合は?」
「へ?」
「純粋に可愛いとか思って言い寄ってくる奴らとかさ。
 普通に撮影したいとか言ってくる連中とか対処できそう?」
「……」
「あとスリとか大丈夫かしら?」
「そういや、最近多いとか言ってたな」
「カメラを足に仕込む輩とかいるって話もあったよね」
「……」
「……」
「……」
「あー、なんか凄い心配になってきたな……」

 漫画的表現が現実に具現化するのなら、今の自分の頭には大汗が流れてるんだろうなぁと征は思ったのだった。

 









「すみません、人を待たせてますので」
「そ、そうですか……」
「失礼します」

 絶え間ない人の流れの中、声を掛けてきた男に一礼した後、紫雲は更衣室へ再び歩き出した。
 さっきから似たような事が何度か続いており、人ごみもあって紫雲は中々更衣室に辿り付けないでいた。
 ちなみに、本人はそれらを全部衣装の成せる業だと思い込んでいる。

(この衣装、やっぱり可愛いもんね……。うう、今日限りなのがちょっと残念)

 そんな事を思いながら更衣室のある西会議棟一階に向かっている最中。

「あれ? 草薙じゃないか?」

 少し人ごみが薄くなった辺りに踏み込み、遅れを取り戻そうと少し歩調を速めようとした瞬間、そんな声が紫雲に掛けられた。

「へ?」

 聞き覚えのある声だった為か、思わず足を止めて振り返る紫雲。

 振り向いた先にいたのは、紛れもなく紫雲の顔見知りだった。
 彼女の……『彼』のクラスメートである波出州貴(はで しゅうき)。
 楽しい事大好き、イベント大好きの男子生徒。

 そして、男装している紫雲を男子生徒だと素直に思ってくれている者の一人である。

「やっぱ草薙じゃん。どした、そんな可愛い格好で。髪はカツラか?」
「……」

(し、しまったぁぁぁぁぁっ!?)

 何故こんな所に彼がいるのかなどの疑問さえ浮かばず、内心で紫雲は頭を抱え、自身の迂闊さを呪った。
 慣れない事の連続で疲れていたのか、女の子として楽しんで気を緩めすぎていたのか。
 なんにせよ、足を止めたのは大失敗だった。

 更に言えば、今からでも無視して歩き去ってしまえばよかったのだが、生来の生真面目さから紫雲はついその場で弁明を始めてしまう。

「え、あ、その。ぼ、私は草薙紫雲ではありませんですことよ?」
「いやどう見ても本人だろ。名前まで口走ってるし」
「……っ!?!」

 そして、それが裏目に出る始末。
 動揺からフルネームまで口にしてしまえば、最早弁解のしようもない。
 
 いや、正確に言えば、このケースに備えて、
『自分は草薙紫雲の親戚で、よく似ていて、滅茶苦茶間違われる』などといった少し無理のある弁解を考えてはいたのだ。

 だが、その予定弁解は動揺のあまりに思いっきり頭から素っ飛んでしまっていた。

「あわわわわ……」

 基本的に冷静な彼女にあるまじき慌てっぷりで意味なく右往左往して狼狽する紫雲。
 姿だけ見れば、ご主人の為に奔走している忠実で美しいメイドさんっぽいが、中身はポンコツ気味である。

 そんな紫雲に、州貴はのほほんと声を掛けた。

「大丈夫だって、心配するなよー」
「へ?」

 からかいなど一切感じられない緩い声に紫雲は思わず我に返り、州貴を見る。
 州貴はごく普通の様子で……それこそ教室にいる時と変わりない様子で紫雲に語り掛けた。

「今の草薙の事、クラスとか学校の連中に話したりなんかしないからさ」
「……。ほ、ホントにっ!?」

 それは女だとバレた事をなのか、はたまた変な格好をしている事をなのか。
 どっちにせよ、渡りに船の言葉に紫雲は思わず、ずずい、と州貴に詰め寄った。
 それにも動じる様子を見せず、州貴は緩い調子のまま言葉を続ける。

「ああ。ホントホント。
 こういう場所だし、久遠辺りに頼まれてやってんだろ?」
「あ、まぁ、それはそうだけど……」
「大変だよな、女装までして。まぁ御人好しの草薙らしいけどねー」

(女装、って事は……バレてない、んだよね)

 州貴の言葉に、女だとバレてない事に安堵する紫雲。
 そんな心情を知る由もなく、州貴は言った。

「そんなイイヤツなお前を指差して笑おうなんて趣味の悪い事はしないさ。
 何でも楽しくやるのが一番だろー?」

 軽い調子ながらも、その言葉には人を震わせる『重み』のようなものがあった。
 それを感じ取り、多少なりとも冷静さを取り戻した紫雲は州貴に向き直る。

「……うん、そうだね。僕も、そう思うよ。その、ありがとう」
「いやいや。頭下げられたり礼言われるほどのこっちゃないさ」
「そんな事ないよ。本当にありがとう。
 ……ところで、波出君はどうしてここに? アニメとか好きだった?」
「まぁ久遠ほどじゃないけどさ。一般的な男子程度には好きだな。
 というか、それ以上に、っていうべきなのかね? 
 知ってるだろうケド、俺、お祭ごととかイベントとか好きだからさ。
 草薙は知ってるか? ここ、世界中から人が来てるんだぜ。
 俺的に、そんな楽しい空間を見過ごせないっての」

 そう言って、州貴は心底楽しげな笑みを浮かべる。
 そんな、太陽さえ感じさせる表情を見て、紫雲も思わず笑いが零れた。

「そっか。なんか分かる気がするよ。
 皆が楽しそうにしてる空間って、こうなんか、いいもんね」

 お祭やイベントなど、人のポジティブな思いが溢れる場所には、そこに訪れた人々をワクワクさせてしまう何かがある。
 ……勿論、イベント内容の『波長』に合う合わないもあるだろうが。

 ここも、そういう場所だと紫雲はなんとなく感じていた。

「なんか上手く表現出来ないんだけどね」
「いや〜十分伝わったぜ。やっぱ草薙は分かる奴だな、うん」
「そうかな?」

 そう言って、紫雲はもう一度微笑んだ。
 そんな『彼』の微笑みを見て、州貴は目を瞬かせた。
 それは州貴本人も恐らく意識していない、なんとなくの瞬きだった。

「波出君?」 
「むむ、いや〜、それにしても……」
「へ?」

 州貴の左手が無造作に、ごく自然に、紫雲の右胸に伸びる。
 あまりにも自然かつ予想外だった為か、
 紫雲が反応らしい反応を見せる前に、その手は、ぽむっ、と女性らしい膨らみの上に置かれた。
   
「っ!!?!!」
「今の草薙、どう見ても女の子だよなー。これ、パッドなんだろ?」

 むにっ、ふにっ、と漫画なら擬音がついているだろう調子で州貴は紫雲の胸を揉んでいた。
 勿論、自身が触っている膨らみが『本物』だなんて夢にも思わずに。

「え、あ、うん、そ、そうだケド。うん、パッドだヨ?」

 現在進行で胸を触られながらも、全力で平静を装いながら答える紫雲。
 しかし、全身はこれ以上ないほど強張っている。 

 女性としては振り払うべきだ。
 しかし、今の紫雲は、少なくとも州貴の前においては、女性の格好をした男性という事になっている。
 そんな中で拒絶行動を取ってしまえば、女であることがバレかねない。

 それがバレれば、何故男装するのかの疑問に繋がり、そこからさらに『ヴァレット』へと繋がらないとも限らない。
 この場でそこまで発覚するのは限りなく可能性としては低いが、時間を置けば分からないだろう。
 
 仮にこの場である程度バレたとして、今現在バレてしまった友人達のように事情を話して説得・納得してもらえばいいのかもしれない。
 だが。

(だ、ダメ。これ以上、バレるわけには……!!)

 そもそも、今の『何人かに正体がバレている状況』は、自分の未熟で生み出してしまったものだ。
 そして、そんな状況は、自分の正体を知ろうとする誰かが現れた時に、皆を危険に晒しかねない可能性を多少なりとも孕んでいる。
 今の所可能性は低いが、将来的にどうなるかは未知数なのだ。

 ゆえに、これ以上、そんな危険に晒しかねない人間を増やすわけにはいかない。

 いかに強い異能を持っていても、自分が絶対的に人を救えるわけではない事を紫雲は重々理解していた。
 どんなに強くなったとしても、ヴァレットは個人でしかない。出来る事はあまりにも少ないのだ。

 だから、正体の露見は可能な限り避けなければならない。
 ゆえに、正体露見の可能性を上げる『草薙紫雲が女性である事実』も、可能な限りバレない様にしなければならない。 

 そんなわけで。

「いや、良く出来てるっていうか、良い触り心地っていうか(ふにふに、もみもみ)」
「あハハ、女装しテルなんて、ば、バレたらまずいというか、へ、変質者扱いだからネ。
 その辺も気合を入れて、るんだ、ハハッ」

 紫雲はこの状況を耐える方向で乗り切る道を選んだ。
 ゆえに、紫雲は表情に笑顔を形取り、言葉調子も若干怪しさを漂わせながら全力で平静を装っている。

 が、そんな分かり易い部分の外面はともかく、紫雲の中身は絶賛最高潮な混乱に陥っていた。

 ダラダラと正体露見の危機からの冷や汗が背中を走る。
 あるいは羞恥・焦りからの汗が流れ落ち、全身をグッショリと濡らしていく。
 汗の根本原因がどちらかなのか、両方なのか、最早紫雲には判別がつかなかった。

 顔は熱く、心臓はバクバク鳴りっ放し。
 全身を巡る血液が逆流して高熱を放っているような感覚は止まらず。
 眼は泳ぎ始め、自然さを装うべく後ろに回した手、指はワナワナと震えっぱなし。

 更に言えば、そんな状況を通行人など一部の人間が注目し始めていた。
 傍目から見れば、男が無遠慮に女の胸を触り続けているようにしか見えないので、それも当然である。
 紫雲が抵抗しない事もあり、皆口出しに迷っているが、現状が続けばどうなるのかは知れたものではない。

(う、も、もう、だ、ダメッ……)

 そんな状況の積み重ねの果てに、色々な意味の限界から、紫雲はオーバーヒート寸前となった。
 最早まともな意識を保つ事さえ出来ず、気絶か悲鳴かの選択肢のカウントダウンが紫雲の頭を過ぎり出した、まさにその時。

「おいおい波出。その辺にしろよ。周囲が訝しげにしてるだろうが。
 俺はともかく、お前は三次元に気を遣えよ」

 紫雲にとって救いの神とも言える声が響き、それにより州貴の手は紫雲の胸から離れていった。

 声の主は他でもない、久遠征。
 あの後、紫雲が心配になり、彼女の後を追った結果、この場面に追いついたのだ。

「お、そうだな。今の草薙はどう見ても……ああ、悪い」

 女装だとバレると周囲から何を言われるか分からないし恥ずかしいだろう、
 という紫雲の感情を汲み取って(正確に言えば”汲み取ったつもり”だが)、州貴は遅まきながら「どう見ても女の子」という言葉を濁した。
 ……実際には『この場所』において言えば女装はそう珍しくはないのだが。

「まったく。草薙はクソ真面目なんだから、そういう格好してるうちは混乱もするだろうが」
「そうかもな。恥ずかしい思いさせちゃったかもなぁ。そうだったらごめんな草薙」
「う、ううン? 大丈夫だヨ。僕は、平気だから。気にしないで」

 そうしてそんな状況が終わり、二人が何事もなく会話を続けている事から、通行人の視線も離れ、皆それぞれの場所へと向かっていく。
 それを確認し、征は小さく安堵の息を零した。
 そんな征に、州貴はからかいを込めつつも、薄く咎めるように声を掛ける。

「やっぱ久遠がこの格好させてたのか。
 クソ真面目云々言うんなら、こういう格好させるなよー」
「そう言うなよ。色々事情があったんだって」
「ふーん。……まぁそうじゃなきゃ草薙が引き受けないか」

 納得したのか何度か頷いて見せた州貴は、なんとはなしに時計に視線を落としてから言った。

「……んじゃ、草薙の貴重な姿も堪能したし、時間が惜しいから俺はもう行くわ。
 折角の『祭』、堪能しないとな。
 そんな訳だからまた会ったりしても声は掛けないかもだが勘弁な」
「おい、波出……」
「分かってる分かってる。草薙にも言ったけど、この事は誰にも話さないって。
 じゃ、そういう事で。夏休み終わったらまた教室で会おうぜ。
 それまで2人とも元気でな〜」

 そうして州貴は2人に手を振りながら去っていった。
 その姿が人混みの中に完全に消えるまで見送って……紫雲は律儀に手を振り返していた……から、二人は顔を見合わせた。

「……」
「……」
「あー、その、大丈夫、か?」
「……うぅ」

 征が言葉を掛けた直後、紫雲は顔を真っ赤にし、フルフルと身体を震えさせ始める。
 その目には微妙に涙が貯まりはじめている様だった。

「う、ちょ、こっちこっち」

 それを見て、征は慌てて紫雲を大きな柱の陰まで引っ張っていく。
 運よくその柱周辺には人が少なかった。
 人が全くいない訳でもないが、幸運な事にそこにいた人々や会話などに夢中で紫雲達に気を払っていない。

「う、うぅぅ、く、くぅ……」

 そんな場所に来たからか、我慢していた反動がようやく来たのか、堪えていたものが紫雲の目から零れ落ちる。
 様子としては先程と大差はないが、それでも先ほどより明らかに顔を赤らめ、どれかと言えば恥ずかしさに分類されるだろう感情を露にしていた。

 ……その姿は、やはりというか、どう見ても明らかなまでにに女の子だ。
 今の紫雲の姿を見て、普段の彼女が男装していたり正義の味方だったりしているなどとは誰も到底思えないだろう。
 それらの姿を知っている征でさえ、思えないでいるのだから。

「……その格好を頼んだ俺が言うのもアレなんだが、災難だったな。
 えと、その、どっかで泣いて来たらどうだ?」
「う、うぅ、ううん、だ、大丈夫」

 服で零れ掛けた涙を拭こうとして、紫雲は動きを止めた。
 それが服を汚すと思ったらしく、紫雲は指と手の甲で涙を拭っていった。
 その様子を見かねて、征がポケットティッシュを取り出し、一枚渡す。

「あ、ありがとう」

 礼を告げて、受け取ったそれで涙を拭った後、紫雲は征に向き直り、告げた。

「久遠君、ありがとう。お陰で助かったよ」
「いや、元はと言えば俺が悪いって事になるし……」

 基本的に二次元優先の征だが、それは三次元を蔑ろにしていいという考えでは決してない。
 それが友人ならば尚の事だ。
 そんな心情からの征の言葉を聞いた紫雲は首を横に振り、征の謝罪じみた言葉を否定した。

「いえ、その、久遠君は悪くないから。気にしないで。勿論波出君も悪くないし」

 そう言って、顔を赤くしたまま苦笑する紫雲。
 そんな紫雲の表情を目の当たりにした征は、渋い顔で頭を掻いた。

「……前から思ってたんだけど、お前、なんというか甘すぎだよな。
 もっと怒っていいと思うぞ」
「え?」
「シャッフェンとか、街で馬鹿やらかす奴とか、艮野とか。
 あと、今回無理言った俺とかさ。
 草薙は漫画の完全無欠なキャラクターじゃないんだ。
 もっと、こう、なんだ……」

 今みたいな感じでいいんじゃないのか、と言おうとして久遠は口を閉じた。
 草薙紫雲自身がヴァレットという『正義の味方』……ある意味でのキャラクターになろうとしているのを知っている以上、それを簡単に口にしていいのか躊躇ってしまったのだ。
 だが、紫雲のこういう姿を見ていると、普段の『草薙紫雲』がどうにも作られすぎているのではとも思うのだ。

 そんな征の正確な心情を紫雲は知る由もない。
 知る由もないが、紫雲は彼が自身を気遣ってくれている事については正しく理解する事が出来た。
 真剣に考えてくれているからこそ、言葉を詰まらせてしまったのだろう、と。

 だから紫雲は、そんな征に向けて、自身の素直な気持ちを口にする事にした。
 それが自分に出来るせめてもの事だと考えて。

「……ありがとう、久遠君。
 でも、うん、なんていうか、これが『私』だから。
 甘いかどうかはちょっとよく分からないんだけど……」
「……」
「ああ、でもね、怒る時は怒るよ、うん。
 折角久遠君がそう言ってくれたんだし。
 ちゃんと出来るかは、ちょっと自信ないけど……」

 ワタワタ、と擬音が付きそうな、慌てっぷりと不安さ、申し訳なさをミックスさせたような動きと表情で付け加える紫雲。
 そうして、顔を赤らめて懸命に言葉を紡ぐ紫雲を見て、征は思わず息を吐いた。

(あー……余計なお世話だったのかもな)

 何処か楽しげな、安堵めいた息を。

「いや、まぁ、なんだ。
 無理はしなくていいからな。
 無理するとろくな事にならないのは二次元のお約束だし」
「……うん。分かった。気をつけるよ。ホントにありがとう」
「気にすんな。ダチだからな。当たり前の、お約束って奴だよ。
 とにかくさっさと着替えて来いよ。
 アイツラとの話題に出てた四階の企業ブースって分かるか? その辺で待ってるから。
 人の流れから察するに、少しは空いて来てるだろうからそっちから見に行こうぜ」
「――うん、わかったっ! 待ってて、すぐ行くからっ」

 大きくそう頷いた紫雲は、フワッ……とスカートと艶やかな長髪を翻し、急ぎ足で再び更衣室へと歩き出した。
 それと殆ど同時に征もまた約束の場所へと歩き出す。

 内心で、

(こういうの、艮野の役じゃないのかねぇ……)

 などと考えながら。



 


 





「やっぱ、壮観だな」

 西館4階では、アニメやゲームを制作している企業が様々なイベントなどを展開している。
 その出入り口付近、普段なら稼動しているエスカレーターの近くで征は階下のホール……いや確かアトリウムだったかと征は思い出した……を眺めていた。

 視界に移るのは、ただただ人、人、人、人の群れ。
 通路から、出入り口から、溢れ、零れて流れ出る。
 会場全体に入ってきているのは十数万人らしいが、今ここにいるのは何人か、思わず数えてみようとして止める。
 それだけの人が周囲に、アトリウムに、この空間に存在していた。

 その群れは、征的にはこれを見るだけでもこの『祭』に来るかいがある、と思えるものだった。
 まぁ、その人の多さのせいでよく人にぶつかったり、欲しいものが手に入り難かったりするのは困りものだが。
 それについては、いつもそうであるように今日、ついさっきもそうだったし、恐らくはこれからも変わらないのだろう。
 この『祭』が『祭』であり続ける限り。

 そんな事を考えていた時だった。

「久遠君、ごめん、お待たせ」

 そう言いながら、着替えを終えた紫雲が現れたのは。

 来るであろう場所をずっと眺めていたにもかかわらず、
 彼女の接近に今の今まで気付かなかったのはどういう事なのか不思議に思いながらも、征は紫雲の方へと振り返る。

「いや、そんなに待ってない。
 というか早すぎだろ。俺がここに来て10分も経ってないぞ。
 一度別れてから15分位か? 着替え時間プラスこの混雑でよくこんなに早く来れたな」

 この『祭』において西館と東館の移動は、時として信じられないほどに時間を食う。
 距離的にはともかく、人の壁で思うように動けないからなのだが……。

「え? こんなもんじゃない? 人と人のスキマを縫って歩けば……」
「いや、多分俺とお前で歩行法がなんか違う。
 ここに来る姿を発見できなかった事といい、何か草薙家歩行奥義とかあるんじゃないのか?」
「ないない」 
「むぅ。……」
 
 征は、そう言ってパタパタ否定の意を込めて手を振る紫雲の姿を改めて眺めた。
 
 彼女は、朝”ここ”に訪れる時までに着ていたTシャツにジーンズという格好をしている。
 その姿は艮野灰路をはじめとする仲間内で遊ぶ時に何度か見ていたが、
 今日はその時とは違いさらしをしていないらしく、柔らかそうな胸の膨らみが目に見えて分かるようになっていた。
 服の盛り上がり方から察するに、その膨らみは同年代の女子と比較して大きい方だろう。

(少なくとも清子よりは確実に大きいな……)

 清子本人の前で言おうものなら、確実に制裁という名の何かしらの暴力を受けるその言葉はなんとなく心の内に留めておく。

 しかし、それはそれとして。

「……しかし草薙」
「なにかな」
「お前、普段どうやって胸隠してるんだ?」

 同時に浮かんだ疑問については口にする征であった。
 ……女性相手としては若干デリカシーに欠けているかもしれない言葉である事については、清子関係の事を考えていたからか気が回っていなかったりする。

「へ? い、いや、ほら、普段はさらししてるって言ったじゃない」

 征にとっては幸運な事に、紫雲は少しドモりながらもデリカシー不足な点については受け流した。

 自身に向けられた言葉でなければ、紫雲は状況に応じた嗜めの言葉を口にしていただろう(征が口にした言葉自体、紫雲以外にはあまり向けられない言葉ではあるが)。
 だが、それが自身に向けられた言葉であった為、紫雲は受け流した。
 女性としての自覚は確かにあるものの、所々微妙に欠けている紫雲ゆえに。

「何か異次元的な収納法でもあるのか……?」
「普通に巻いてるだけなんだけどなぁ」
「うーん、お前の歩行法もだけど、そっちも興味深いな。さらし巻いてる所見てみたいもんだ」
「そ、それは流石に無理と言うか、怒るよ、うん」
「そうそう、それでいいんだよ。少なくとも俺にはな」
「……」
「じゃあ、色々見て回るか。財布とか忘れてないだろうな?」
「あ、うん、大丈夫。そういう久遠君は?」
「当然無事に……」

 そう言いながら財布を取り出そうとした征の動きが停止する。
 と、同時に微妙に顔が引き攣っていく。

「久遠君?」
「ない。財布がない。スられたっぽい」
「えっ?」
「……」
「……」
「な、なーんてなっ! こんな事もあろうかとダミーを準備していたのさっ!」
「お、おお〜」
「馬鹿なスリめ、本物はこっち……」

 再び財布を取り出そうとして再び動きが止まる。
 そして、表情は明らかなまでに引き攣っていった。

「両方スられたっぽい……」
「えええええっ!!?」
「お、おっかしいな、ついさっきまでは両方とも確かにあったんだけど」
「……さっきというのは?」

 紫雲の表情が変わっていく。
 さっきまでの『女の子』としての表情から、征が見慣れた凛々しい表情へと。
 それを見たからというわけでもないだろうが、冷静さを多少取り戻せた征は少し前の事を簡単に思い出す事が出来た。

「草薙と別れた後確認したから、その時までは確実に。
 えーと、それで西館に移動して……あ」
「何か思い出した?」
「ここに昇る直前……ほら、そこの下らへんでさ」

 分かりやすいように下の階、この『祭』の間は停止したままになっているエスカレーター付近を指差す征。

「あそこの辺りで人にぶつかりかけたんだ。
 まぁそれ自体は良くある事だけど……ソイツ、男だったんだが、妙に帽子を目深に被ってたような」
「それはいつ位?」
「多分、えーと、5分前位か」
「その位なら、この人混みだと極端には離れてはいないはず……いや、もしかしたら、今も近くでスってる最中かも」
「いや、それはどうなんだ? 同じ場所でスリ続けるなんて迂闊な事……」
「普通はそうだけど、ダミーと本物をいっぺんに抜き取ったのかもしれないんでしょ?
 もし、それだけの腕を持ってるんなら自信過剰に、というか自己満足で……」

 そう言い掛けて、紫雲は言葉を停止させた。
 その視線は、先程征が指した場所から微妙にずれた辺りを見据えていた。

「草薙?」 
「あれかっ……!」

 そんな中、突然強い調子の声を零す紫雲。
 どうやら犯人を、少なくともそう思える要素のある人物を発見したらしい。

「え? うーんと……俺はよく見えないんだが、ソイツ野球帽っぽい奴被ってるのか?
「うん、被ってる。そして、その人の動きや視線、他の人とは違う。
 皆はそれぞれ何かしらの『目的』を見てるのに、あの人はそんな参加者の皆を見ている……!」
「本当にそうなのか? 間違いだったら面倒な事に……」
「……その心配は今なくなったよ。間違いなく【現行犯】だ」
「おいおい……。って、もしかして、あれか?」

 目を凝らして、どうにか把握する。
 確かに、さっきぶつかりそうになった人間のようだった。

「うん、あれ」
「現行犯って、動きが見えたのか?」
「うん。女の子からスって懐に入れるまで、確かに見た」
「なんつー目をしてんだよ、お前。いや、それも魔法か?」
「いや、今は素の視力でしか見てない」
「……。お前、普段眼鏡かけてなかったか?」
「あれは伊達だから。
 ……うん、どうやら単独犯みたいだ。
 グループで動いてるんなら、もう受け渡しやパスがあってもおかしくないのに、そういう動きは見せずにいる」

 少し見ただけでよくそこまで、と口にしかけた瞬間、征は思い出した。

 紫雲の幼馴染たる艮野灰路から聞いた所によると、
 中学時代の紫雲は、ある意味今より過激な行動をしていて、不良グループなんかとよくやりあっていたらしい。
 もしかすると、そういう経験から現状の、こういう類の事への把握が早いのかもしれない。

「もしかしたら後で仲間と合流するのかもだけど、その場合は流石に手に負えないし……仕方ない、今は見える人をなんとかしよう」
「へ?」
「ちょっと捕まえてくる。さっきのポケットティッシュ、まだ残ってる?」
「それはあるけどさ、ほら」
「ありがとう。使わせてもらうね」

 数枚のティッシュを取り出した紫雲は、真剣な表情で征に言った。

「すぐ戻ってくるから、その間、あの人をちょっと見てて」
「え? ちょ、おい!?」

 言い残しながら紫雲は重ね合わせたティッシュで自身の顔を覆い隠す。
 そうしたままで、紫雲は近くの女子トイレへとへと駆け込んでいった。

「アイツ、何考えてんだ?」

 言われたとおりに男を見逃さないよう必死に意識して見据えながらも呟く征。
 そんな征の抱いた疑問の答えはすぐに明らかになった。
 十数秒と掛からず女子トイレから出てきた紫雲が『征がよく知る姿』で現れた事で。

「お待たせしました」

 現れた紫雲は『その姿の彼女』らしい、ですます口調で話しかける。
 色々言いたい事はあったのだが、征はなんとなくこう言うのが精一杯だった。

「……ティッシュは正体隠しの万が一の保険か。トイレは空いてたか?」
「ええ、運良く一室だけ。お陰で”変身”出来ました。
 この姿の方が圧倒的に捕まえやすいので助かりました。
 空いてなかった時は久遠君に壁になってもらって変身するつもりだったんですけどね……」
「いつも持ってる『筆』はどうしたんだ?」
「この『お祭』は、分解できない長物は禁止でしたよね。
 構造的には分解……は出来ない事もないですけど、中に色々仕込んでますからそれはそれで問題な気がしますし」
「……なんか初耳な事実はともかくとして、コスプレじゃないのに真面目だな、ホント」
「それで、あのスリは?」
「ああ、それはちゃんと見てたよ。あそこだ」

 征が指差した先。
 紫雲が言ったように余程自分に自信があるのか、その男は未だに付近を動き回っている。 
 征の指先に男の姿を確認した紫雲は、確信を呑む込むように頷いてみせた。

「ありがとうございます。……では」

 そう言った直後、彼女は……『魔法多少少女ヴァレット』は、ふわり、と浮かび上がっていく。
 
「えっ? ……ええっ!?」
「ちょ、なに」

 それまでは格好的にはただのコスプレだと思われていたため、そしてここが平赤羽市でないため、殆ど誰も気に留めなかった。
 だが、流石にこの『ありえないもの』を目にすれば話が変わってくる。
 当然周囲がどよめくが、ヴァレットは意に介さない。
 スリをロックオンとばかりに睨み付けた状態で、征に向けて告げた。

「ちょっと行って来ます」
「おお、行って来い、ヴァレットたん」

 征の言葉に微かな笑みを返してからヴァレットは一階アトリウムへと急降下。
 あっという間に男の頭上近くに舞い降りていった。 

(……ああ、そうか)

 そんなヴァレットの姿を見て、征はなんとなくそんな言葉が自身の中に浮かび上がるのを感じていた……。










 その男は、スリとしての自分の腕に自信を持っていた。
 そんな男からすれば、この『祭』は格好の狩場、稼ぎ所でしかなかった。

 男はそれを過信だと思っていなかった。
 自身に気付き、捕まえられる奴なんかいないと確信していた。
 
 だが、それはやはり過信でしかなかった。

 男の存在を見抜き、捕まえる存在が、男にとっては不幸にも今日、その場に存在していたのだから。











「ん?」

 周囲がざわめき、どよめくのを男は感じ取る。
 それは自分への……否、そうじゃない、自分の近く、いや上……?
 
 そうして、男は振り向き、空を見上げた。

『……っ!!』

 2人の目が合う。 
 男・スリと、空から舞い降りてきた女……魔法多少少女ヴァレットの。

 目が合った刹那、男は悟った。

 何者か知らないが彼女は、自身を【追っている】のだと。
 自分をスリだと確信した上で。 

 そう知ったからには逃げるしかないのだが……男は逃げようにも逃げられなかった。
 状況によっては紛れ隠れるのに最高な状況となる人の群れは、完全に犯人としてロックオンされたこの状況ではただの壁でしかなかった。

「くっそ、どけ……!!」

 ならば人を押しのけ、突き飛ばしてでもと男が動く。
 逃げ切りさえすれば自分の勝ち、自分の『才能』は絶対なのだと確信する、ただそれだけの為に逃げようとする。

 しかし、それは様々な意味で間違いであり、既に時遅しでしかなかった。

「させませんっ!!」

 上空のヴァレットが叫びながら、男を指差す。
 直後、ヴァレットの右手人差し指から法力で生み出された紫色に光る縄が放出され、男を絡め取り……。

「フィィィッシュッ!!」

 何かのリアクションを取る間さえ与えずに上空へと釣り上げた。

「う、おお、わぁあぁぉっっ!?」

 強引に釣り上げられた魚よろしく天井近くまで振り上げられた男は、
 反動で幾度か上下左右に揺らされた後(ヴァレットの縄捌きで天井や壁にぶつかる事は無かった)、
 最終的には力無くぶら下げられる形となった。

「う、うう、すみませんすみまん……どうか堪忍してください……」

 いともあっさり捕らえられ、自信を打ち砕かれた男はただただそんな言葉を呟くばかりだった。
 そんな男にヴァレットは、怒気を孕んだ声でキッパリアッサリと告げる。

「それは財布を盗んだ方に言ってください。……そちらのスタッフの方々!」

 下の階で呆然と宙に浮かぶ女性を見上げていたスタッフ数名は、その女性本人に呼びかけられ、気を取り直した。

「え? あっ、はい」
「な、なんでしょう?」
「この方、スリです。あ、すみません。そこ少し空けてくださいますか? ……ありがとうございます」

 その言葉の後、ヴァレットが微妙かつ器用に法力の縄を揺らすと男の懐から幾つもの財布が転がり落ちていく。
 ヴァレットの言葉で空けられたスペースに積まれていった財布の量は一人で持つにはあまりにも多過ぎる。
 この『祭』では征のようにダミーとして複数の財布を持つ者もいるが、明らかにそうではない事が分かる程の財布がそこにあった。

 そんな財布で出来たちょっとした山の近くに脱力したスリの男を丁寧に下ろした後、危険がない事を確認した上で男を拘束していた法力の縄を解いたヴァレットは、スタッフを見下ろし気味のまま(人が多いので地面には降り難かった)言った。

「引き続き上からの言葉で申し訳ありません。
 すみませんが、この後の処遇と、財布の返却その他はよろしくお願いします」
「わ、分かりました。えと、その……」
「なんですか?」
「それはそうと、貴方は一体……?」

 フワフワと空に浮遊を続ける色々な意味で謎の女性に対し、当然と言えば当然の疑問を口にするスタッフ。
 
(そう言えば、ここ、平赤羽市じゃなかったっけ……)

 スタッフの言葉からその事実をヴァレットが思い出し、どうしたら、というか、どう言ったものか、と考えていると、周囲からポツリポツリと声が上がりだした。

「ヴァレット……って奴じゃないか?」
「ヴァレット?」
「って、誰?」
「ほら、あの、平なんとか市にいるって話の……」
「そうだ、あれだ、ニュースになってた」
「若干イタい……」
「あァ?! 何言ってんだテメェ?!」
「ああ、あのリアル魔法少女」
「そう、それだ、リアル魔法少女の、少し年食った方……!」
「魔法少女って歳じゃない方だ。たしか、あれだ」
「多少ってついてたな」
「魔法、多少、少女の……ヴァレット」
「ヴァレット」
「そう、魔法多少少女・ヴァレットだよ」

 ザワザワと周囲が騒ぎ出す。
 それに伴い、皆の視線がヴァレットに集中していく。
 そして、その数は尋常じゃなく多かった。

「え、えーと……」

 なまじ空に浮いているばかりに、前後上下左右360度皆の注目を浴びる形となったヴァレットは顔を引き攣らせる。
 しかし、いつまでもそうしてはいられないと思ったのか、少し顔を赤らめながら咳払いをした後、告げた。

「その、えと、知ってる方もおられるようですが、魔法多少少女、ヴァレットです。
 なんと言いますか、その、はじめまして」

 そうして、ヴァレットは周囲360度に丁寧に頭を下げ、挨拶していったのだった……。
 










「……はぁぁ、やっと、帰ってきたねぇ」
「ああ、なんか、そんな感じだ。……いつにもまして」
「?」
「いや、なんでもない」

 そんなこんながあった後、紫雲と征は平赤羽市に帰ってきた。
 駅から出てきて二人して見上げた空は、すっかり暗くなっている。

「なんというか、まぁ、お疲れさん」
「……ははは」

 二人して歩きながらの征の言葉に、紫雲は……電車のトイレの中で男装を済ませている……ただただ苦笑した。

 あの後、注目を浴びたばっかりに微妙に去り辛い状況になったヴァレットは、周囲から上がってきた様々な呼びかけ、質疑応答に少し付き合わされることとなってしまった。
 いつもならある程度簡単にあしらえるのだが、今回不慣れな場所かつ過去最大級の視線を受けたヴァレットは悪戦苦闘。
 いよいよどうしたものかと追い詰められた辺りで館内放送と近くのスタッフのフォローと注意が入り、ほうほうの体で脱出する事が出来た。

(さすがに今回はキツかったなぁ……)

 紫雲としては百戦錬磨のスタッフの判断と援護に感謝と尊敬の念を禁じ得なかった。
 これが縁で、半年後の『祭』でとある珍事が起こった際、ヴァレットは全面協力を決意する事になるのだが……。

 閑話休題。

 ともかくそうして脱出したヴァレットは正体がバレないよう、会場から若干離れた位置で変身解除、慌てて会場に戻っていった。
 その間に事後処理その他が終わっており、征の財布も無事返却、以後は普通に『祭』を終了ギリギリまで楽しみ、何事もなく撤収、現在に至る。

「今日はありがとな。んで、悪かったな、頼み事したせいで面倒事に付き合わせて」
「そんな事ないよ。
 そもそも面倒事は久遠君のせいじゃないし。
 面倒事になったのは、スリと、穏便に捕まえられなかった私の責任。
 それに……まぁ、確かにちょっと困った事もあったけど……それ以上に久遠君のお陰で今日は凄く楽しかったから。
 また、助けてもらっちゃったしね。
 私こそ、ありがとう、だよ」
「私、ねぇ」
「……あ、僕だね。うっかりしてた。帰ってきたんだし気をつけないと」

 何処かスッキリと爽やかに、それでいて困ったように照れ笑う紫雲。

 そんな紫雲に、征はなんとはなしに呟き、問い掛ける事にした。
 今日少し考えていた……そして、既に自分の中で答が出た、その疑問について。 

「なぁ。今の……今日のお前は”誰”なんだ?
 草薙紫雲なのか? ヴァレットたんなのか? それとも……」
「……。ふむ」

 そんな征の問いに、紫雲は少し考えた後に、あっさりとこう答えた。

「多分両方、だね。
 上手く言えないけど……どんな姿になったとしても、僕の心は1つだから」
「……そらそうだな」

 この一連の出来事において、征は色々な紫雲を見た。
 今見ている”普通”の紫雲、女の子の姿をした紫雲、そしてヴァレットとしての紫雲。

 だがいくら姿が変わっても『草薙紫雲』としての軸は、いつだってぶれていなかったのだろう。

 生真面目・クソ真面目で、困った誰かを放っておけない、甘く優しい人間。
 それが『草薙紫雲』なのだ。

 ”普通”の紫雲は、自分が……自分の仲間が困っている事を聞いて当たり前に助け舟を出した。
 女の子の姿をした紫雲が、波出州貴の知らず知らずなセクハラ行為に涙を堪えてまで耐えたのは、正体露見による周囲に掛かる迷惑、その僅かな可能性を考えての事だろう。
 ヴァレットとしての紫雲は……語るまでも無い。 

 どの姿も、紛れもなく『草薙紫雲』だった。
 艮野灰路などに比べれば付き合いは短いが、それでも十分に伝わっている彼女の『軸』がそこにはあった。

 彼女自身や他の誰かがどう思っているのかは分からないが、
 ヴァレットの姿でさえも、彼女が彼女自身である為の姿の1つでしかないのだろう。
 あるいは……。

(あるいは、草薙紫雲の姿がヴァレットである為の……って、そんな事はないか)

 征は、浮かび掛けた思考を振り払ってから、改めて自身の疑問に結論付けた。

 つまる所、彼女はただ彼女なだけだ。
 出会った頃から変わらない、いつからか久遠征のダチになっていた草薙紫雲なだけなのだ。

 そんなあまりにも当たり前の事実に、紫雲の言葉で改めて気付き、納得する事が出来た。

「……やっぱ、明日になれば忘れてそうな『議題』だったな」
「?」
「いや、変な事言ったなってだけだ。悪いな。忘れてくれ」
「ううん。変な事、なんかじゃないよ。
 今、久遠君に訊かれて、改めてそういうものなんだって、分かった気がする。
 私は僕で、僕は私で、僕は僕で、私は私なんだって。
 ……あ、ごめんね、僕の方こそ変な事言って」
「まぁ確かに変な事言ってるが」
「うっ」
「大丈夫だって、ニュアンスは十分伝わってる。
 要は、さっきも言ったとおり、外見がどうであれ、草薙は草薙だって事だろ」
「……うん」
「でも、まぁ、そういうのに疲れる時だってあるよな。
 軸は変わらなくても、姿を変えるのは色々面倒だってのは今日見せてもらったし」
「ははは。まぁ、ここだけの話、ちょっとね」
「コスプレでそれが少しでも気晴らしできるって言うんなら、またいつか誘ってやるよ。ダチだからな」
「う、うんっ……って、いや、コスプレで気晴らししてた訳じゃないんだけどなぁ」
「そうかぁ? 楽しそうだったと思うけどな」
「うっ。いや、その楽しくなかったわけじゃないけど、ちょっと違うというか……」
「おいおい、男らしくないな草薙。楽しかったって認めろよ」
「ぐ、うぅ〜。……その物言いというか、攻め方はちょっとズルイよ、久遠君……」

 星が瞬く空の下。
 そんな会話を交わしながら、二人は別れ道までを共に歩いていった。



 ……この時の紫雲は知らなかった。



 今日のヴァレットの活躍(紫雲的にはある意味醜態)が密かに撮影されており、
 『祭』の話題と共に全国区で放送され、それを見て実姉・命が爆笑している姿を、帰宅後目の当たりにする羽目になる事を。

 更にはその姿について、ヴァレットとしての『敵』であるシャッフェンにからかわれるわ、
 記念に携帯に撮ったサークルとの記念写真及びコスプレ姿を、後に灰路その他数名に発見され、散々弄られる羽目になる事を、

 そして、ヴァレットの存在が改めて全国に知れ渡った事で、様々な事態を引き起こす事になるのを。

 この時の彼女はまだ知らなかった。



 だから、まだ紫雲は笑っていた。
 彼女にとって数少ない『友達との夏休みの思い出』、その余韻に浸りながら。


 













 ……to be continued……?





戻ります