第14話 変わらないままに、変わるもの・1
朝。日中の暑さを忘れたかのような涼やかな空気が漂う早朝。
約束の時刻よりも早めに目を覚まし、屋敷を出る。
そうして向かったのは、屋敷の裏手、少し離れた所にある小さな、と表現するには少し語弊のある滝。
昨日川遊びした場所よりも少し上流にあるそこで、周囲の気配、世界を感じ取りながら、衣服を脱ぎ、滝に打たれる。
何一つ身に纏わない姿で、身体の余す所なく伝っていく水の一滴一滴、その流れさえも見通していく。
いつもであれば、人目がないとは言え、外で肌を晒す事に恥じらいがあり、多少の抵抗のあっただろう。
いや、今もないわけではない。
それよりも優先している……今回の事で身に付けつつある、自分に最適な心の在り方が自身の中を駆け巡っているだけ。
その在り方に従って、自己流の滝行を終え、気を引き締めた後は、今この時に相応しい衣を身に纏っていく。
……最後に、いつとは違う、ある変化を自身に加えて、準備完了。
「後は、掃除をしないとね」
呟いて、彼女は戻る。
昨日交わした約束を、自分なりの最善の形で果たす為に。
「……っ」
昨日交わした約束を果たすべく、朝食よりも早い時刻で起き、道場にやってきた凪は、そこにあるモノを目の当たりにして、思わず息を呑んだ。
道場の一番奥、威風堂々といるのは、自身の『いとこ』にして……様々な関係性を持つ存在、草薙紫雲。
少し前に磨かれたばかりであろう、差し込む光を弾き、キラキラと煌く床の上に正座し、瞑目する紫雲もまた、そのように見える。
なんとなく歯痒い限りだが、そう感じてしまったのは……道場と一体化したかのような居住まい、気配を放っているからだろう。
それを助長しているのは、いとこがその身を包んでいる、全体的には紺色の衣服。
袖が存在しない事を除けば、柔道や空手の道着のようでもあり、法衣のようでもあり、作務衣のようでもあるソレがなんなのか、凪は知っていた。
それは、草薙家の後継者達が『戦う』時に身に纏う……彼らにとっての正装。
「おはよう、凪」
凪の気配に気付いたのか、ゆっくりと目を開く紫雲。
そうして、基本的に掛けている伊達眼鏡を外した、真っ直ぐな視線で凪を見据える。
「お、おう。つーか、なんだその格好」
思わぬものを見せられて少し動揺してしまったのが隠し切れないままに凪が問うと、紫雲は穏やかな声のまま答えた。
「相応しい格好をさせてもらってるだけだよ。
再戦の機会を与えてくれた凪に対しての礼儀でもある」
再戦。そう再戦だ。
昨日の夜、二人が約束した事、それは『喧嘩』のやり直し。仕切り直し。
朝のうちに、完全にあーだこーだの諍いを消して、いつもどおりの自分達へと戻り、周囲に余計な心配を掛けた事を謝罪する。
そのけじめをつけるには、やはり自分達にはそれが、いままでどおりが一番自分達らしい、という結論に至ったからだ。
ただ、そういったアレコレを意識して向かった先に待ち受けていたものが、今までどおりとは少しズレたものだったので少し面食らってしまったわけなのだが……。
「というか、お前髪が伸びてない?」
後ろで纏められた紫雲の髪について……ボリュームからして明らかに昨日よりも量が増えている……指摘すると、紫雲は小さく頷いた。
「魔、じゃなくて、術で少し伸ばしたんだ。今の私らしい私の姿になる為にね」
「お前らしいお前、ね」
「うん。男装はまだ続けるけど……本来の性別から目を背けないように、隠さないようにってね。
凪みたいに、本当の私を知っている人達の前では、自然体でいたいから」
面食らわせた原因は、堂々と告げた。正確に言えば……名乗りを上げた。
「草薙家、第三十八代正統継承候補、草薙紫雲。
昨日の不覚悟を埋め合わせる為、全力でお相手させていただきます」
そう告げた後、紫雲は床に手を置き、深々と頭を下げた。
紫雲のそんな姿を見て、凪は……思わず口元が緩んでいた。
「なるほど。実にお前らしいな」
通すべき礼儀を、筋をキッチリ通す。
通してなかったらキッチリ謝って、正々堂々仕切り直す。
理解すれば何てことはない。
どうしようもなく生真面目でクソ真面目な、自分のよく知る草薙紫雲だった。
姿はどうあれ、紫雲は紫雲なのだと、よく分かった。これからも、きっと。
「よし、立ちやがれ。この白耶凪が受けて立ってやらぁ。手加減遠慮は一切してやらねぇ」
「うん、そうしてくれると嬉しいな。
いつものように、これからも」
そうして向かい合って、構え合う。
いつもそうしているように、既に勝負は始まっている。
だから、攻め込まない理由はない、ないのだが。
「……」
「……っ」
昨日と、違う。
紫雲が纏っている気配、気迫……そういったものの質が昨日とは全く異なっている。
この道場の隅々まで、紫雲から放たれている何かしらで満ち満ちている。
言うなれば、結界。
少しの身じろぎさえも察知され、そこに込められた全てを見透かされそうな、そんな空間が出来上がっている。
ゆえに、攻め込めない、踏み込めない。
不用意に一歩踏み込もうものなら、そこに絶対の終わりがやってくる……そう思わせる何かが今の紫雲にはあった。
昨日の紫雲も全力であり真剣であったはずだ。
心構えが不完全であったのかもしれないが、それに違いはなかったはずだ。
草薙紫雲のいとこたる白耶凪だからこそ、それをよく理解していた。
だが、違う。
何かが昨日とは、決定的に変わっている。
だから、昨日のように不意を突く事さえ出来ない。
(これが、本当の――今のお前って訳かよ)
唇を噛み締める。
思い知らされている事実が、どうしようもなく腹立たしい。
自分の中の何かが、疼いて、脈動する。抑えきれなくなりそうになる……。
(だが、それでこそ、お前だ)
しかしそれでいて、笑い出しそうになる自分もいる。
いやむしろ、楽しくてたまらなくなってきた。
そちらの方がどうにも抑えきれなくなりそうだ。
脈動はそのままに、楽しさもそのままに。
相反するものが両立する事で、自分の中の何かが高まっていくのを、凪は感じていた。
「……ふふっ」
「……ははっ」
ふと、視線が重なり合い、自然と笑みが零れる。
悪くない気分だった。
だから、今はこれでいい、そう思えた。
「フゥゥゥ……ッ!」
硬く硬く握り締めた拳を、深く深く腰だめに構える。
今の自分に出来る、最高の一撃、最強の拳を叩きつける為の、前準備。
それを解き放った結果は、分かっている。分かりきっている。
どう放った所で、カウンター一閃、返り討ちだ。
今の白耶凪では、今の草薙紫雲には、絶対に敵わない。
だが、だからといって、何もしないではいられない。
そのどうにも腹立たしい結果を受け入れる為に……いつか越える自分になる為に、今の自分の全力を解き放つ――!
「ハ、ァ、ッ……!!!」
ダンッ、と力強く地面を蹴る。
風そのものになったかのような感覚と共に、拳を撃つ。
型としては、ただの右ストレート。
だけど、今は、自分の中にある全てのリズムが一致した今は、あらゆるものを打倒し得る一撃に思えた。
「……!」
紫雲の表情が、僅かに変わる。目が驚きで見開かれる。
行けるのかもしれない。敵わないと思っていたものに届き得るのかもしれない。
だけれども、そう思えたのは一瞬だけ。
タンッ、と軽やかな音が響く。
それは、紫雲が地面を蹴った音……いや、実際にはそう聞こえたような気がしただけなのかもしれない。
その際の動きがまるで、舞を踊っているかのように優雅であったから。
舞に合わせてあえて鳴らした、楽器のようにも思えたのかもしれない。
それは、突っ込んできた自分にタイミングを合わせた、ただ一歩分の踏み込み。
同時に放たれたのは、ただの右ストレート。
だけどそれは、風をも越える、電光のカウンター。
気がつけば。
凪は道場の天井を見上げていた。
痛みはない。
一撃が当たったはずの顔面には、僅かに何かが触れたような感触しかなかった。
ただ、一撃の衝撃が、全身を突き抜け、駆け抜けていき……今、こうして倒れていた。
凄まじい一撃だったはずなのに、後に残るようなダメージなど、恐らく何一つとしてない。
「ったく。こんなもんか」
小さく呟く凪。
悔しくてたまらないはずなのに気分は晴れやかだった。皮肉げに笑えもする。
それはきっと、変わったように見えて変わらないもの、を確認できたから、なのだろう。
だから悪くない、そう思えた。
「……今日は、私の勝ちだね」
上半身を起き上がらせると差し出される手。
そこから視線を上にあげていくと、よく知っている、忌々しい、……な、従姉の穏やかな顔があった。
なので、凪はその手は無視して、自分の力だけで立ち上がった。
「今日も、だろうが。嫌味かてめぇ」
「いや、そんなつもりはないんだけど。
そう思うんなら、次からは凪が勝ち続けて、同じように言えばいいじゃない」
「ああ、そうしてやるよ。
その無駄に膨らんでたおっぱいに一撃撃ち込んでやる」
「……無駄に膨らんでたの部分要らないよね?
なんだったら、おっ……んん、胸も明言しなくていいよね?
さっきの私の一撃、顔だったんだし、顔に返せばいいよね?」
「俺はお前みたいな器用な打撃は出来ないっての。
だから衝撃をしっかり吸収しそうな場所としておっぱいを選んでんだよ。
言ったよな、遠慮手加減無用だって。お前も肯定したの忘れてねぇからな」
「それは、そうだけど……」
「……。よし更に遠慮無用してやるぜ。
紫雲のおっぱい、紫雲の乳、紫雲の乳房、たゆんたゆんの、ゆっさゆっさ……」
「それはただのセクハラでしょ!? 小学生かっ?!」
「なんだよ、男のダチの方が多いだろうに、耐性ねぇな。
まだ男装するんなら慣れとけよこのぐらい」
「ぐ、うぅぅ……それは、そうだけど……普段はちゃんと……でもそれは言い訳だし……ぐぐぐ」
「さて溜飲が下がったところで、そろそろ飯の時間だぜ。
時間遅れると余計な勘繰りされるし、ババァに無駄に怒られちまう」
「……ババァ言わない。普段からそういう言葉遣いだから無意識にドンドン言葉が汚くなってくんだよ?」
「お前は形に拘りすぎなんだよ。敬意があればいいだろ、言葉なんざ多少汚くても」
「形に拘らなさ過ぎるのもどうかと思うけど。あと言葉を軽く考えるのは良くないよ」
そうして、二人は口喧嘩を交わしながら道場を軽く……自分達が使った場所だけ……掃除し、その場を後にする。
「……」
「何だよ、まだ掃除し足りないのか?」
「いや、そういうわけじゃないけど……ん。じゃ、行こうか」
二人が去って暫し後――道場の中空に【それ】が突然出現した。
否、正確に言えば、凪が現れた頃からずっとそこにいた存在が、姿を具現化させた。
『……。
概念種子【力】の所持者、お前を認めてやる事にした。
近い内に接触してやろう、光栄に思え』
それ――緑色の結晶体が、声無き声で呟いていた内容が世界にとってどれほど重要な意味を持つのか、今はまだ誰も知らなかった。
……続く。