第13話 中と外・8
「それじゃあ、そっちは今の所何も起こってないんだね?」
風呂から上がった後、紫雲が行ったのは平赤羽市にある自宅への電話だった。
留守番をしているクラウドへの確認事項があったためである。
いつもであれば法力による会話であり、今もそれを行うのに支障はないのだが、
電話を使ったある事の確認のついでに、流れでなんとなく使用する事にした紫雲であった。
『……何も起こっていない、というと語弊はあるが』
そんな紫雲の質問に対し、クラウドは少し間を空けてから答えた。
「え?」
『少なくとも今この時は問題ない。
君が帰って来てからでも十分間に合う事柄だ』
実際にはもう少しだけ急がねばならない事柄なのかもしれない。
今日起こったあれこれについて報告を受けたクラウド自身はそう考えないでもなかった。
だが、紫雲を気遣う灰路や櫻奈、彼女の友人達の配慮を考慮した上で今はそう口にするに留めた。
「……本当に?」
『ああ、大丈夫だ』
本当は灰路達の心情を含めて伝えたいところだが、そうしてしまうと紫雲はそれこそ急いで帰ってきかねない。
だから彼らがいかに紫雲を思っていたかは彼女が帰ってから伝える事にしよう……
灰路達に内心謝罪しつつ、クラウドは言葉強めにそう呟いた。
自身の『法力による腕』で宙に浮かせている、少し古い型の電話の受話器へと向かって。
『だから紫雲達は予定通り帰ってくればいい』
「……分かった。そうするよ」
クラウドがそこまで言うのなら、きっと大丈夫なのだろう……そう判断して紫雲は頷いた。
だが、それはそれとして、気になる事が他にもある。
「話は変わるけど、そっちで私の携帯、見なかった?」
『君が持ってるんじゃないのか?』
「うん、私もそのつもりだったんだけど、なくて。
掛けてみたら電源が切ってあったから、なんともしようがなくて」
自宅に掛ける前、紫雲は自身の携帯へと電話を掛けた。
しかし、告げられたメッセージは、掛けられた電話は繋がっていない・電波が届き難い場所にあるのでは、というもの。
これでは落としたのか忘れたのか、そのいずれかの確認すらままならない。
いや、そもそもにして、電車に乗る前に自分はマナーに従って携帯の電源を切っていなかっただろうか……?
『ふむ。今僕の【端末】で調べたが、少なくとも家には置いていない。
そしてこちらに警察や駅からの落し物連絡などは来ていない』
「となるとまだ拾われていないか、そもそも落としていないか、か」
『今から君が通ったであろうルートを探してみようか?』
「ううん、そこまでしなくていいよ。
私の荷物の何処かに隠れてしまっているのかもしれないし……もう一度確認してみる」
『了解した。……なるほど、道理で』
メールしたにもかかわらず返事がない、という灰路からの情報を、
櫻奈を交えたフォッグとの法力会話で聞いていた事をクラウドは思い出した。
より厳密に言えば、自分・櫻奈・フォッグの法力会話と、灰路・櫻奈・真唯子・征・明の普通の会話の同時進行会議での話題だったが。
当初灰路は、メールを送ったという事だけを伝えていたのだが、
少し後になって櫻奈からその返事の内容について問われて口篭り、
最終的に皆から突っ込まれて返事がなかった事について渋々と答えていたという。
おそらく、いざとなれば連絡を取るのは難しくない事、
下手に紫雲に連絡を取ってやぶへびになる可能性、
その辺りの説明の面倒さから、当初はあえて口にしていなかったのだろう。
『灰路君、面倒臭がりなところあるから』
以前、何かの話題で紫雲が苦笑気味に呟いていた事がふと脳裏を過ぎる。
さておき。
紫雲が携帯を忘れた、というのは灰路同様、クラウド自身も違和感はある。
だが、生真面目な紫雲がメールを送ったのに返信をしない理由としては間違ってはいなかった。
ゆえに、道理で、と改めて納得した次第であった。
「? 何の事?」
『ああ、いや……』
その辺りについて馬鹿正直に話す事は、
何をメールしたのかを紫雲に伝える事に等しい展開に、
それこそ灰路が懸念したやぶへびになりかねない事から、
クラウドは話の方向性を別のベクトルへと変化させる事にした。
『道理で、灰路君とのやり取りでなくこちらとの連絡にしたわけだ、と思ってね。
携帯があったらメールか直接かはともかくとして、僕じゃなく灰路君と言葉を交わしてたんじゃないかな、紫雲は』
「う。それは、その、そうかもだけど……」
どこか笑みを含めた言葉調子もあり、クラウドの思惑は効果覿面であった。
顔は見えないが少し赤らんでいるであろう紫雲が、クラウドには容易に想像できた。
なんとも微笑ましい事である。
「なるべく連絡しない縛りがなかったらクラウドにも連絡しようと思ってたよ? ホントだよ?」
こちらに来る際、紫雲は皆から余程がない限り連絡しないように言われていた。
それは些細な事でも心配になって紫雲が帰ってこないように、という皆からの気遣いによるものであった。
それが分かっていたからこそ、紫雲は到着の報告すらクラウドへの法力会話に留めていたのである。
携帯があれば到着メールくらいは皆に送っていたのだが、と内心でしょげていたが。
『はいはい、分かってる分かってる。
じゃあ、そろそろ切るよ。
なに、あと一日後には帰ってくるんだから、大体の事はそれからでいいだろう』
「うん、そう、だね。
じゃあ、一日というか半日後くらいに」
『うん、おやすみ紫雲』
「うん、おやすみクラウド」
最後にそう締めくくった後、紫雲は静かに受話器を置いた。
物持ちがいいというべきなのか、草薙家の伝統なのか、壊れない限り滅多に買い換えないため、自宅同様少し古い型の電話をなんとはなしに眺めてみる。
そうしながらも浮かぶのは、クラウドの反応、何処かへ行った携帯、街の事……それから。
「……よう」
「凪……?」
今日喧嘩してしまった、従弟のこと。
それが微かに頭に過ぎり掛けていた瞬間に、声を掛けられて紫雲は少し驚きながらも振り返った。
驚いたのは突然さにではない。
凪の気配が近くを通りかかろうとしていたのは気付いていた。
電話が置かれていたのは玄関先なのだが、その近くにはトイレや洗面台がありそちらに用事なのだろうと思っていた。
そうでなく、喧嘩していたはずの自分に話しかけてくれた事に、紫雲は驚いていたのだ。
「ああ、なんだ」
向き直った凪は、何処かバツが悪そうに頬を掻きつつ暫し何かを言いよどんでいた。
だがこうしていても埒が明かないと考えたのだろう、意を決して明確に口を開いた。
「少し話がある。外でいいか?」
「……うん。話してくれるのなら何処でもいいよ」
紫雲としては自分の態度が悪かったがゆえに怒らせてしまったのに、話しかけてくれる事がありがたかった。
ゆえに場所であれ、話の内容であれ、凪に心のままに任せたい、そう思っていた。
そんな凪の背中を追って、玄関から少し歩く事数十秒。
屋敷の庭園で足を停めたのに従い、紫雲もまた立ちつくした。
夜の少し冷えた……今の季節では涼しいと言える風が通り抜ける。
見上げれば空には満天の星空。
平赤羽市ではそれなりの高度でなければ見る事が出来ない、幾重もの星の輝き。
そんな星々と僅かに欠けた月、そして少し離れた屋敷からの明かりで照らされた庭園は、
そういう感性に疎いと自分では認識している紫雲ですらも長く眺めていられるであろう幻想的な光景となっていた。
そんな場所を眺め続ける事に、紫雲としては問題はない。むしろ望む所と言ってもいい。
だが、いつまでもそうしてはいられないだろう。
となれば、先程は凪が口火を切ってくれたのだから、今度は自分の番。
凪が口にしたいであろう話の内容そのものは明確には分からない。
だが、少なくともそのきっかけになればと紫雲は夕方の謝罪を改めてしようと考えた。
あの時、そして今までは無理だったが、今の状況であれば出来そうな、口にする事位までは凪が許してくれそうな気がしていたからだ。
「凪、夕方は……」
そうして紫雲が言葉を紡ごうとした瞬間。
「夕方の事は、俺が悪かったよ」
その紫雲の言葉をきっかけにしてなのか、まさにそのタイミングだったのか、凪が口を開いた。
「カッとなっちまったつってもいくらなんでも無茶苦茶言い過ぎた。
お前が女なのは生まれた時からなんだし、そりゃあ、変わる部分だって出てくるよな。
だから、謝るよ。わりぃ。
嘘が嫌いなお前に、ずっと嘘吐いてろなんて言った事も含めてな」
「……謝るのは私の方、ううん、私も、だね」
実の所。
凪からの話、それが夕方の事である可能性が高い事はなんとなく分かっていた。
だが、自分と凪のこれまでの関係性から考えて、あっさりとその話になるかは確信が持てなかったのだ。
自分も凪も、意固地になってしまう部分がある。変に捻くれてしまった部分がある。
だから、どうなるのだろうかと、不安、ではないが難しく考えすぎていた、のかもしれない。
「私は私で、心構えが出来てなかった。
せめてそれがちゃんと出来ていたら、あんなに凪を悲しませなくてもよかったはずだから。
私も、ごめん」
だからこそ、紫雲はそういったもの全てを込めて凪への謝罪を口にした。
「じゃあ、まぁ……お互い様って事でいいか?」
「凪がそうしてくれるのなら」
「……じゃあ、この件はチャラな」
「うん」
二人は互いを見なかった。
なんとなく庭園を、夜空を眺め続けたまま、言葉を交わし続ける。
……紫雲は、風呂場での命との会話をなんとなく思い出していた。
自分達は、確かに大人に近付いているのだろう。
こうした形で言葉を、心を交わす事は、少し前の自分達には出来なかった事だ。
以前の自分達であれば、口喧嘩に終始して……そうして心を交わす事をしながらも、どこかで何かを有耶無耶にしていた。
それは何処か嬉しくもあり、なんとなく少しだけ寂しくもあった。
「チャラはチャラとして、筋が通らないから少し言わせてもらうとだな」
「うん」
「なんかさ、俺、悔しかったんだよ。
女らしくなってきたお前に、ちっとも勝てなくてさ。
これでも、結構鍛えたし、色々挑戦したりしてたんだぜ?」
「うん、ちゃんと伝わってたよ」
「……それはこっちもだ。
お前が前にも増して馬鹿みたいに強くなってるのは、感じてたさ。
だけどな、だからこそ、追いつきたいんだよ。
変わっちまうものはたくさんあるけどな、変えたくないものだってあるんだからな」
「……うん。そうだよね」
紫雲にとっての凪がそうであるように。
凪にとっての紫雲がそうであるように。
そういうものは確かにある。きっと誰にだって。
「まぁだからってムキになりすぎた。
チャラになったからもう謝らないけどな。謝らないけどな」
「うん、それでいいんだよ。凪らしいしね。
……というか、私、そんなに、その、らしくなってるの?」
「あん?」
「だからその、女、らしくなってるのかな?
私自身はあんまりそんな気しないっていうか、凪にもそう見えてるのかなって」
「……そういうところがっつーか、見た目も、まぁ、それなりにな」
「そう、なんだ。なんか凪にそう言われると嬉しいような何というか……複雑だなぁ。
ただ、今日ちゃんとできてなかったのは、きっとそういう所のせい、ううん、そういう所を私なりに整理出来てないせいだと思う」
「整理出来てない?」
「正直、自分自身、不安定なんだって思ってる。
ちょっと事情があってね。
最近、女の子の格好をする事が少なからずあって」
「……ほぉ」
「多分、ソレが影響してるんだと思う。
自分自身の軸は、ぶれてないと思うんだけど、
普段の自分がどちらなのか、ちょっとフラフラしてる感じなんだ」
「どちらって?」
「男なのか、女なのか、ってこと」
「……そりゃあ、女でいいんじゃないのか?
夕方いちゃもんつけておいてなんだが」
「そうかも、なんだけど。今はまだ普段は男の子の格好してるし、しなくちゃいけないから。
だからまだ、ちゃんとした答は見つけられないのかもしれない。
今出来る、というかようやく見つけられそうな対応法で精一杯。
でもね、自分がしたい事、なりたいものがなんなのかは、よく分かってるんだ」
「……男の格好を続けてでもしたい事、か」
「うん。
それを目指していく事で、
凪や昔の僕を知っている人が知ってる『草薙紫雲』は、もしかしたら変わっていくのかもしれない。
でも、それでも、そうなのだとしても、したい事はやめられない、やめるわけにはいかない。
それが、僕の、私の、草薙紫雲の、夢の形だから」
大事な従弟である凪を含む、
たくさんの人の幸せをほんの少しでも守るために守れるように、などと口にしたら凪には怒られるだろう。
俺はお前に守られる筋合いなんてない、上から目線してんじゃねーなどなど。
実際、傲慢で、上から目線なのだろう。
そんなつもりはないと思っていても、自分がしようとしている事を踏まえた上でそう思う事自体がそうなのだろう。
自分の根本はどうしようもなくエゴイストなのだと、紫雲は最近思うようになった。
だが、だとしても変えられない、変えたくないものなのだ。
ずっと追いかけてきた、これからも追いかけていく夢なのだから。
「だから、先に謝っておくね。
これからの私が、凪にとって嫌いな人間になったら、ごめん。
変えたくないものを変えたら、ごめん」
なんとなく。
その時だけは、紫雲は凪を見つめたていた。
凪もまた、そうするであろう紫雲を見つめ返していた。
そうして受け止める紫雲の視線は、真っ直ぐだった。煌いていた。
「……その心配はないだろ」
それは、どうしようもなく腹が立つほどに、十年以上前から変わらない、夢を見据えている瞳。
「え?」
「お前のしたい事なんて、いつもどおりの正義の味方なんだろうが。
耳タコレベルで聞かされたから、嫌でも覚えてるっての。
そこが変わりでもしない限り、俺の知ってる、くっそむかつくお前らしさは変わらないままだろうぜ」
「……そうかな。うん、そうだといいな」
「ちっ」
苦笑い気味に穏やかな微笑みを浮かべる紫雲を眺める凪。
そんな中で、風が吹く。軒先に飾られた風鈴の音が鳴る。
今の暑さを思えば、むしろ涼しいはずの夜風が少し冷たく感じたのは、
自分の売り言葉を紫雲が買ってくれなかったからなのか、あるいは自分の温度が上がっていたからか。
……あえて、深く考えない事にした。
「ところで、紫雲」
「なにかな」
「高崎さん、良い人だな」
「? うん、そう私も思ってるけど……」
「あの人には口止めされてたんだが……」
唐突に彼女の名前が出た事に紫雲が首を傾げていると、凪は当初と同じ気まずげな様子でソレを語った。
聞かされた紫雲は、当初は驚き、最終的には嬉しそうな笑顔を形作っていた。
「ありがとう、凪。話してくれて」
「こういうのって、ちゃんと伝えた方がいいだろ?
なんだよ、その顔。俺だってそれ位は分かるんだぜ」
「いや、やっぱり凪は私より大人だなぁってシミジミ」
「……当然だっての」
「あと、清子さん彼氏いるからね。かっこよくて優しい人」
「分かってるってのっ! つーか、後半の情報はいらねーだろ!」
「あはは。じゃあ、そろそろ戻ろうか」
「……あー、その、なんだ。
その前に一つ頼みっていうか、提案っていうかがあるんだが」
「ん? なに?」
そうして問い返した先で凪が呟いた言葉を、紫雲は迷いなく受け入れた。
今度はきっと大丈夫、そう確信する事が出来た。
そうして、ヴァレットに関わる人々にとって様々な出来事が起こった一日が終わろうとする中。
一日最後の、そして明日に大きく繋がる出来事が起ころうとしていた。起こっていた。
「……あぁ……なんか、熱いな。やけに」
スペードと名乗る事に決めた異能者の男は、
ハートと名乗る事にした少女から今日の宿として提供されたホテル、
その近くにある、寝付けずに身体を動かしにやってきた公園で胸を服の上から掻き毟っていた。
数日前、平赤羽市に訪れてからだった。
『力』の昂ぶりと共に、自分の中で何かが蠢いている。
男はそれを、噂の平赤羽市、そしてヴァレットやオーナといった存在への期待、希望、羨望、野望そういったものへの裏返しだと思っていた。
だが本当にそれは……いや、そうだ、そうに決まっている。
だからこそ、こんなにも……壊したくてたまらなくなっているのだ。
自分が持っていないものを手にしたモノ達を、世界を。
一刻も、早く。
だが、同時に思い出しもしていた。
この衝動に反する約束……ヴァレットと戦わせる代わりに2日待て、というソレを。
騒動を起こすのは仕方ないにせよ、怪我人を出すな、というものを。
「ああ、約束はした……確かに約束はしたが……」
どこか熱を持ったまま、ぶつぶつと呟きながら、ぼんやりと歩き出す。
公園から繁華街、そしてその中にある裏路地へと。
そして。
「じゃあ、この金はもらっていくな、おっさん」
「素直で結構結構。互いに損がなくていいこった」
「いや、私は損になってるんだが……ぐぅぅ、ヴァレットさんとか来てくれないかなぁー!?」
そこで行われていた強請りの現場を目の当たりにして、スペードは笑った。
その顔そのものは獰猛な獣が歯を剥き出しにする様ではあったが……
何故か、それを浮かべるまでの表情の動きは、機械めいた自動的で無機質なものであった。
「ヴァレットか。いないからな、この場には。
そして……これは、アイツらが悪いよなぁ?
怪我人が出たとしても、ノーカンだよなぁ?」
そんな言い訳めいた口実を後押しに、状況は動き出す。
それを見計らったかのように、時刻は深夜十二時を回る。
今夏の平赤羽市の日々において、一二を争う騒がしい一日が始まろうとしていた。
……続く。