第9話 中と外・4
「やっぱ、デカイな」
灰路達がたむろっていたのは、平赤羽市の中心街の一角。
この街のあらゆる事業・事柄に関わっている岡島財閥、その本社ビル近くの公園だった。
何故彼らがこんな所にいるのかというと、四人の異能者のうち……正確には異能者ではないらしい少女が岡島財閥総帥に用事があるかららしかった。
ちゃんと正式なアポイントメントをとった上での事らしく、関係者ではない灰路達は、彼女の用事が終わるまで暫し待つ事となっていたのである。
「無駄に大きい気がするが、大会社の本社ビルなんて何処もこんなもんなのか?」
近くの自販機で買ったジュース片手に、100メートル以上はありそうな本社ビルを見上げながら灰路は続けて呟いた。
その他の面々も同様にジュースを口にしながら、なんとなくビルを眺めていた。
そんな彼らは普通の街なら極めて目立つ集団だったが、ここは平赤羽市。
ここでは多少目立つ集団に収まっており、道行く人に多少の視線を浴びる程度に収まっていた。
普通の街、昨今の風潮なら、不審者扱いで通報されているかもしれない。
「まぁ、こんなもんだろ」
灰路の呟きに答えたのは明だった。
明は、手にしたコーラで喉を潤してから言葉を続ける。
「俺の中学時代の友達の親、結構大きな会社やってたんだけど……その会社のビルはここまでじゃなかったが、それでもそれなりに大きかったし」
「ああ、多々良か。確かにアイツの親の会社も結構だったけど……まぁ流石に岡島には敵わないよなぁ」
岡島財閥は、この国はおろか世界でも名が知られている大財閥である。
関わっていない産業がないんじゃないかと言われるほどの幅広さ、品質の高さが売りで、岡島の作るものは故障知らず、という認識が世界中にあるほどだ……というのは平赤羽市住人の常識だった。
常に作るものが不安定&爆発するどこぞの狂魔術師にも見習わせたい(そもそも見習わせる以前の問題だが)などと灰路は思ってみたりする。
「しっかし、あのお嬢ちゃん。
こんな会社とビジネスの話が出来るなんてたいしたもんだな」
「ビジネスとは限らない……と言いたいが、正式なアポを取って総帥に会うんだ、ビジネスだろうな」
「あの子の乗ってた機械、凄かったもんねー」
現状は少女の『仲間』である大男や青年、少年が呟く。
彼らの呟きに、うんうん、と櫻奈が頷いた。
「そうだねー。リュ……」
「……櫻奈」
「あ、あはは、真唯子ちゃんもそう思うよね?」
「ま、それは確かにね。
……シャッフェンほど無茶苦茶なマシンじゃないけど」
普段はシャッフェンの事をマスターと呼ぶリューゲこと真唯子だったが、自分をリューゲと呼ぼうとした櫻奈を窘めた事もあり、今はそれを控えていた。
ちなみに、櫻奈は認識阻害魔法があるので、本名でいくら呼ぼうと全く問題はない。
「あの子のは、まぁなんというか、良い意味で手堅い感じだったかな」
「いやいやシャッフェンが無茶苦茶過ぎるんだろ」
「まぁ、おじさんは……ん?」
「……?」
「どうかしたのか? 宮古守、法杖」
明や征も交えての話の最中、小さく首を傾げる櫻奈と、軽く周囲を見渡す真唯子の様子に灰路は声を掛けた。
「櫻奈でいいですよ〜 えと、その、なんか……」
「ちょっと変な感じがしただけよ。……特に騒ぎ立てるほどじゃない、と思う」
「そうそう、多分」
「なら、いいが。……」
灰路がふと『異能者』組を見ると、彼らは彼らでなんとも言えない表情をしていた。
そうさせる『何か』に気を向けているからなのか、こちらに意識を向ける事さえしていない。
こちらの会話が不自然に思われたのなら、そのフォローをしなければと思っていたので、それはそれで助かるのだが。
(……何かあったのか? こいつらも二人と同じ『何か』を感じ取ったのか?)
様々な疑問から、どうかしたのか、と声を掛けるべきなのか少し考えるものの、今はまだやめておくべきだろうと結論付けた。
少し話した程度でしかないのだ、下手に距離を詰めると不信感を抱かれる。
先程までの会話の感触だと、もう少し踏み込んでも大丈夫そうだが……。
(いや、それはもう少ししてからだな)
そう考えて、灰路は話の方向性をただの世間話へと戻す事にした。
彼らがそうして色々な事を話しているうちに。
「お、戻ってきたぜ」
公園の入口に少女が姿を現した。
真っ先に気付いたのは、この中では一番視力が高いらしい大男だった。
彼の声に反応して、皆も彼女の姿を遠目で確認する。
「ん? 何か様子が変じゃないか?」
「変って言うか、凄く怒ってる様な……」
「ああ、怒ってるな」
少女の様子を眺めて、彼女の『仲間』達が呟く。
実際、少女はいかにものっしのっしと擬音が付きそうな、肩を怒らせた歩き方をしていた。
「え、そうなの?」
「……そういう表情はしてるわね」
「よく見えるな、真唯子ちゃん。というか他の人達も」
「どうした? なんかあったのか?」
「どうしたもこうしたもないですわよっ!」
少女が側までやってきたタイミングで灰路が尋ねる。
流石にこれは聞かないわけにはいかないか、と代表する形で声を掛けたのだが、そんな灰路をキッと睨みつけて、少女は半ば叫ぶように言った。
「折角人がはるばる海を越えて先進的な携帯端末の試作品を持ってきてやったというのに……
新機軸ではあるが操作性が複雑過ぎる? 自分以外の使用者の事を考えていない?
パパやママと同じ事言うなんてっ!
まったく、これだから常識の枠に収まっている奴らはっ……!
特に、あの総帥とかいう偉そうな男っ!」
「そりゃ偉そうだろ。総帥だからな」
「総帥?」
「えー? 総帥も分からないのー? これだから……子供はなぁ」
言葉の意味が判らず、首を傾げる櫻奈。
そんな彼女の胸の辺りを眺めてから、少年がシミジミと呟いた。
少年の視線には全く気付いていない櫻奈は、思うままに素直に言った。
「うん、分かんない。意味知ってるなら教えて?」
「しょ、しょうがないな。えーとその、一番偉い人っ!」
「あーまぁ、その認識でもいいけどな。総帥ってのは、組織全体を指揮する奴の事で……」
「分かりやすく言えば……会社の社長なんだが、普通の会社の社長より凄い奴の事さ。
たくさんの会社の社長より偉い社長、みたいな感じだな」
少年、灰路、征の流れでの解説を聞いて、櫻奈は、ポン、と手を打った。
「なるほど、漫画とかである神様より偉い神様、魔王を越えた大魔王みたいな感じかな」
「ん? 合って、るのかな、それ」
「まぁ間違ってはないだろ」
明の疑問に突っ込みっぽい言葉を向けつつも灰路は少女の様子を一瞥する。
プンプン、と擬音を振りまいていそうな可愛い怒り方だが、実際彼女からすれば本気で怒っているのだろう。
これから暫く一緒に行動するのに不機嫌なのは面倒だ……と思ったのも事実ではあるが、それ以上に可愛い女の子がそうして不機嫌なのはいただけない。
我ながら難儀な性質なのは分かってはいるのだが、十年来によって培われた部分なので簡単には変えられない。
そんな諸々の思考を挟みながら、灰路は少女に声を掛けた。
「で、どういう携帯なんだ?
よかったら見せてくれよ。新しい技術ってのは面白そうだ」
「……まぁいいでしょう。本来は企業秘密ですが、やはり庶民の意見も大事ですから」
言葉だけ見れば腹が立つものなのかもだが、少女の容姿や言い方も相まって、不思議と悪印象はない。
むしろ苦笑すら湧いてくる。
実際苦笑しつつ、携帯端末を受け取った灰路はレクチャーを受けつつ、皆が興味深げに覗き込んだり眺めたりする中で操作してみた。
「……ふむ。いいな、これ」
音質や画質が携帯機器の領分を大きく越えている。
アプリケーションソフトも最新のものからかなり昔のものまで問題なく使用できるようだ。
その多機能をを最大限押し出したいようだが、その幅広い『それぞれの機能』に移行する際のストレスを最小限にするためなのか、画面にタッチしての操作性や切り替えの反応が過敏すぎるようだ。
機能の切り替えが手早く行えるのはいい事なのだが、操作を間違えてしまった時など逆に驚かされたり、過剰な過敏さにストレスがたまってしまうかもしれない。
岡嶋財閥の総帥とやらの言いたい事もなんとなく分かる。
過敏な操作性に追従できる若い人間には問題ないが、機械が苦手だったりすると極めて扱い辛いのは事実だろう。
だが、それはそれとして。
「確かにちょっとだけ使い難いかもだが俺的には別に問題ないな。
多機能ぶりで十分お釣りが出る。
かなり欲しいんだが」
「でしょうっ!?」
「ああ、これだったら値段が多少高くても買っていい、というか買いたいな、うん。
まぁ高過ぎると困るけどな」
その辺りは既に総帥とやらが指摘しているのだろう。
なら余計な事を語る必要はない、と灰路的に言いたいことだけ口にする。
余程欠点を指摘されていたのか、灰路の素直な肯定に少女は目を輝かせた。
「ふっふ、わたくし自身が作成した端末の良さが分かるとは……庶民にしてはやりますわね」
「お前自身が作ったのかよ、凄いな」
「ふっふっふ、もっと褒めてくれてもいいんですよ」
そうして少女が見るからに元気になっていく様子を眺めて、櫻奈は思ったままに呟いた。
「おおー。艮野のお兄さん、すごいなぁ」
「アイツは女の子に対してのフォローは慣れてるっぽいからな」
征的に、女に甘いという共通点のある艮野灰路と直谷明の違いはここにあると思っている。
灰路は、基本的に女性に向ける言動や感情が『軽い』。
これは、言動その他に実がない、というわけではなく、相手が返しやすいように言葉や声の調子などを調整している、という事。
言うなれば、日常の挨拶や、コンビニやスーパーの店員の定型文。
であるがゆえに、ちょっとした会話などを転がすのが上手く、出会ったばかりの集団を盛り上げるのに適している。
対して明は、逆で女性に向ける言動や感情が『やや重い』。
一部の例外を除き、様々なやり取りを真面目に返す傾向が多い為、人によっては野暮ったく感じられるだろう。
だが、それが真剣な悩みを抱えている女性に対しては真摯さが伝わり、好印象に感じられる。
そして、灰路はソレを意識してやっており、明は逆にソレをさほど意識していない。
女に甘いという共通点がある二人だが、そのスタンスはよく見ると結構違っているのである。
「……アレと直谷さんが一緒なら、合コンとかで重宝するでしょうね」
「ほう、よく見てるじゃないか」
どうやら自分と同じような事を考えていたらしいと察し、真唯子の発言……というより洞察力に征は感心した。
「合コン?」
「いやいやいや、櫻奈ちゃんはまだ知らないでいい知らないでいい。
というか俺と一緒ならってどういうこと、真唯子ちゃん」
「分からないなら分からないままがいいと思うわ。
きっと、それが直谷さんの良さなんでしょう」
「んん……? よく分からないが、褒めてくれてるんだよね。
なら、ありがとうだな、うん」
「どういたしまして。
それはそうと、あっちもとりあえず落ち着いたみたいだから、そろそろ何処かに行きましょうよ。
いい加減立ちっぱなしなのは疲れたわ」
真唯子の指摘どおり、灰路との会話で少女の機嫌が直り、それに伴い、彼女の仲間達も上機嫌になっているようだ。
付き合いが殆どないだろうに、少女の機嫌に彼らがつられているのは、共通の目的ゆえの仲間意識からなのか、それとも……いずれにせよ、不機嫌であるよりも上機嫌の方がやりやすい。
であるならば、今の内に『それぞれ』の今日の目的を進めるべきだろう……そういう意図を込めてだろう真唯子の発言に、即座に同意・反応したのは征だった。
「おーい、そろそろ歩かないか?
話すにしても涼しいところの方がいいだろ」
「……そーだな」
本筋を忘れて会話を楽しんでいた灰路は、征の発言意図を読み取り、思考を立て直す。
とりあえず、上機嫌な間に彼らの目的をスムーズに果たさせておくべきだろう。
紫雲が帰ってくるまでの時間稼ぎとして、目的達成を引っ張るのもありと言えばありだが、それで彼らを不機嫌にさせて暴発させかねない状況にするのは本末転倒だ。
そして、どうせ付き合うなら互いに楽しい方がいいに決まっている。
そういう思考を経て、灰路は彼らに問い掛けた。
「じゃあ、まずは何処に行く?」
「メシにしようぜ、メシに。ここはパーッと美味いもの食べたいところだよなぁ、おい」
「その金を出すのはそこの女の子と約束した僕の予定なんだが……というか、パーッとってどのぐらいなんだ?」
「えー? 百万円くらいじゃないの?」
「いやいやいや、値段設定がいい加減過ぎるし高過ぎるだろ……」
「流石子供、イメージそのままを口にしやがる。だがその素直さはいいぞ」
「ふふ、ご心配には及びません。
百万程度わたくしにとってははした金!
今非常に気分がいいので、わたくしが奢って差し上げてよっ!」
「うーん、そういうの、わたし良くないと思うなぁ」
「割り勘でいいでしょ。
変に高い所行く必要があるわけでもなし、その辺のファミレスで済ませればいいし」
「櫻奈ちゃんと真唯子ちゃんの言うとおりだと思うよ、俺は」
「大人数だし焼肉とかってのは?」
「……征。折角決まりそうだったのに、混ぜっ返すなよ」
「いいじゃない焼肉。焼肉最高」
「ファミレス言い出した本人が掌クルクルっ!?」
「……目を輝かせてんのは【どっち】の意味合いでなんだよ法杖」
なのだが、会話を交わしているうちに結局グダグダになってしまう灰路達なのであった。
「あー、楽しかったわー」
夕焼け空の下、満足げなそんな声を上げたのは清子だった。
そんな彼女と共に周囲を木々に覆われた坂道を歩くのは、音穏と紫雲。
彼女ら三人は、今日一日屋敷の裏手にある川で遊び倒した。
遊び疲れた後は少し休憩しつつ色々な事を話し、体力が回復したらまた遊び……そんな事を繰り返し、日が傾いた頃合で彼女達は帰途についていた。
「ね、言ったでしょ?」
「うん、まぁ、スミマセンでした」
行く前は川遊びを見縊っていた清子だったが、遊び始めて少し経つと一番はしゃいでいたのは他ならぬ彼女であった。
当初は多少でも水に濡れる事を気にしてもいたが、濡れた服も今日のように晴れていればさほど時間も経たずに乾く辺りが夏である。
当然というべきかすぐに気にならなくなった。
それらを思い返し、我ながら子供だったなぁ、などと恥ずかしくなりつつも清子は素直な心境を口にする。
「でもなんでなのかしらねー。何故かついついはしゃいじゃったわ……」
「普段はほら、こういう事あんまりしないからじゃないかな」
平赤羽市で川遊びが出来る場所は限られているし、高校生にもなるとこういう遊びをしようと思っても出来なかったりする。
だからこそ新鮮に感じるのだろう、紫雲はそう考えていた。
そうして話しながら紫雲達が草薙家の屋敷の裏口……というより裏門だが……に辿り着いた時。
「……おう、お帰り」
表のものよりは幾分小さい裏口から凪が姿を現した。
「ただいまー」
「結局来なかったね。楽しかったのよ?」
「そいつは残念ッスね。ところで、紫雲」
「……えっ? あ、うんっ! なにかなっ!」
今まで自分には話し掛けもしなかった凪が、唐突に声と意識を向けてきた事に動揺しつつも即座に反応する紫雲。
そんな嬉しさを隠せない様子の紫雲とは対照的に、凪はぶっきらぼうな表情と調子のままで続けた。
「ちょっと付き合ってくれよ。組手がしたい」
「うんっ! やろうやろう」
「今すぐで、いいのか?」
「勿論だよ。場所は……」
「道場でいいだろ。……言っとくけど、見学は遠慮願うからな」
「はいはい、別にいいですよーだ。どうせお兄ちゃん負けるだけだし」
「……じゃあ行こうぜ」
「う、うん」
音穏に対して言葉を返さず、凪は歩き出す。
そんな凪の様子に少し戸惑い、音穏と顔を見合わせながらも、今は折角話し掛けてきた凪を優先すべきかと考えた紫雲は、彼の後を追った。
「組手って?」
そうして去っていく二人の背中を見送りながら、清子は浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「うーん、空手、じゃないな。
喧嘩の訓練というか、殴り合いの練習というか試合というか……あ、そんな物騒なものじゃないんだけど」
喧嘩や殴り合いという言葉にだろう、少し驚いた様子を見せる清子に気付き、音穏はフォローを入れつつ、言葉を続けた。
「うーん、仲が良い程喧嘩するって言うか、昔からずっとやってる事なんだよね」
「昔から?」
「うん。最初はなんというか、ほら、男の子同士のよくある喧嘩な感じだったの」
「ああ」
直谷明、久遠征という男二人の幼馴染がいる清子はそれですんなり納得できた。
男子はたまに……人によっては『よく』なのだろうが……そういう事をやりたがるのである。
「紫雲お姉ちゃんもつい何年か前までは男の子っぽかったから。
二人でどっちが強いかってやってたんだよ。
まぁお兄ちゃん、紫雲お姉ちゃんに一度も勝てた事なかったんだけど」
「一度も?」
「うん。だってお姉ちゃん滅茶苦茶強いんだもん。
横で見ててお兄ちゃんが勝てそうだったのって、小学生の最初頃くらいで。
お姉ちゃんは毎年なんか眼に見えて強くなっていったっていうか凄くなっていったっていうか。
お兄ちゃんも負けじと色々やってるみたいだけど、まぁ、結果はさっき言ったとおりで。
……だからお兄ちゃん、その事で色々思うところがあるんじゃないのかな」
「紫雲につっけんどんだった事?」
「うん。お従姉ちゃんに負け続きで悔しいから拗ねてる……ってのは少しはあると思う」
「そう、なんだ……」
ふと、思い返す。
そう言えば、幼馴染達も変な事に意地になったり、ムキになったりしていた。
それが男子特有のものなのか、子供特有のものだったのかは分からないが、凪の心を占めているものは『そういったもの』なのかもしれない。
そんな事を思いながら、清子は二人が去っていった後をぼんやり眺めていた。
「変わってないね、ここ」
草薙家の屋敷、その敷地内にある道場に入って、紫雲は呟いた。
こことは別に修行場があったりするのだが、そちらよりもここは少し狭い。
もっとも、狭いとは言っても格闘技の修行を行うのに十分な広さはあるが。
「……そりゃあ、変わりようはないだろ。
俺ら以外に使う人間がいない以上、大改装する必要があるわけでもなし」
「まぁ、それはそうなんだけど」
夕焼けの赤い光が差し込み、磨き抜かれた板張りの床がその光を反射して煌いている。
心身を磨く場所たるここを使用する際は、礼儀として最低限掃除はするように、という紫麻の言葉が思い起こされる。
「今日、ここを掃除してくれたのって凪?」
「そうだが……」
「ありがとね。
今年もここにきたら真っ先に掃除しようと思ってたんだけど、今回はなんだかんだで先送りになっちゃってたから」
そう言って紫雲が笑い掛けると、凪は背を向けた。
「凪……?」
訝しげに呼びかけた、まさにその瞬間だった。
「はぁっ!」
「っと!」
相手を引き込んだ上で、振り向きざまに放つ回し蹴り。
ある程度喧嘩慣れした人間でも回避が困難であろう一撃。
少なくとも凪は何度も喧嘩で使って成功していた事から自信を持っていた。
しかし、紫雲にはあっさりと回避されてしまう。
「うん、いつもどおり、って事だね」
ここに来た時点で勝負は始まっている……それは子供時代から何も変わっていない二人にとってのお約束だった。
笑いながらの紫雲の言葉に、凪は一瞬だけ笑みを……今夏初めて紫雲に向ける笑みだった……浮かべて応えた。
「そういうこったっ!」
蹴りの後、続けざまに右ストレート、左フック、さらにローキックと前に進みながら繰り出していく凪。
(去年より一段と鋭く、重くなってる。すごく鍛えたんだね、凪)
凪の成長に、紫雲は今は心でだけ笑みを浮かべた。
凪の成長が純粋に嬉しくもあり、強敵の存在にワクワクしているのもありの、そんな感情を紫雲は自覚していた。
(それに、なんだろう? 何か凄みがある……?)
凪そのものが纏う気配、雰囲気には、去年までにはなかった何かがある。
それを警戒しつつ、凪の攻撃の全てを紫雲は回避していく。
一見紙一重に見えるが、実際にはかなり余裕がある。
そう広くはない道場で壁際に追い詰められたりせず、上手く立ち回っているのがその証だ。
しかもそれは手を抜いているわけではない。
余裕を持って回避しつつ凪の決定的な隙を窺っているのだ。
凪にはそれがよく分かった。
何度も何度も何度も紫雲と喧嘩染みた組み手を繰り返している凪だからこそ。
「くそぉっ!」
数十発と放った攻撃がまるで当たらない歯痒さから凪が叫ぶ。
その際の、振りが大きな右ストレートの隙を紫雲は見逃さなかった。
「ふっ!」
回避一辺倒から一転、紫雲は短い息を零しながら凪に向かって一歩踏み込み、凪の右ストレートを左手で払い飛ばしながら右拳を凪の腹部に叩き込んだ。
「が、はぁっっっ!?」
自身の腹部に叩き込まれた拳に、凪は悶絶する。
その一撃には、極小さなモーション、コンパクトな振りからは想像出来ない重さが込められている。
例えるならボーリングのボールを全力で投げ付けられたような、実際にはそれを数倍上回るであろう威力の打撃に、凪は膝を付き掛ける……が。
「まだ、まだぁっ!」
「!」
懸命に堪え、凪は前屈みの状態から頭突きを繰り出す。
一撃に耐え切った事に薄く驚きながらも、頭突きを後ろに音もなく後ずさり避ける紫雲。
だが凪は頭突きを繰り出した勢いのまま右ストレートとは言い難い、乱れた拳を伸ばす。
今度こそ届く。凪はそう確信した。
我武者羅でパンチの体を為していないが、速さも威力も十分のはず。
「……ッ!」
「なっ……!?」
だがしかし。
紫雲は拳の軌道を冷静に見極め、それすらも余裕を持って回避し切ってしまった。
そこに生まれるのは、我武者羅に繰り出した一撃ゆえに生まれた大きな隙。
そして、紫雲がソレを見逃さない事を凪はよく知っていた。
その予想通りに、紫雲が動く。
組み手という範疇内ながらの全力の一撃を解き放つべく、身体を大きく反らし、拳を振り上げた……その瞬間。
プツン。
そんな耳に捉えるのが困難な微かな音を立てて、紫雲の着ていたキャミソールの右肩紐が切れ、キャミソールの右胸部が捲れ落ちた。
原因としては、体格的に少しキツめだった服を着通しだった事、その状態で激しい運動を繰り返した事だったが、そんな原因を冷静に思考出来る人間はこの場にはいなかった。
「っ……」
いつもならさらしを巻いているのだが、今日は……正確に言えばこちらに来てからは胸を隠す必要性が無く、巻いていなかった。
更に言えば、元々持って来ていなかった事もあり下着も付けていなかった為、紫雲は顔を赤らめながら捲れ掛けたキャミソールを左手で慌てて抑えて、大きく飛び下がった。
しかし、その際動揺からなのか、着地時に足をもつれさせてしまう。
「あ、ぅっ……っととぉっ!」
あわや尻餅を付きそうになるも懸命に堪え、紫雲は右胸を抑えながらも体勢を整える。
脚の全ての指先に力を込めつつ……その際指に込められた力だけで板が軋みを上げていた……上体のバランスを取って、起き上がり、構え直す。
そうして油断無く構えるも、凪の追撃はなかった。
「……凪?」
勝負なのだから遠慮なく追撃してくるだろうと思っていた紫雲は、訝しげに呼び掛けた。
それに対し凪は。
「なんだよ、それ」
「え?」
「なんなんだよ、それはっ!」
尋常ではない怒声を紫雲に叩き付けた。
蝉の鳴き声以外静かだった道場が、声で揺れたのではないかと錯覚させるほどの。
「な、凪? どうかしたの……? 今の、攻撃してもよかったのに、気を遣ってくれたの……」
「ふざけんなっ! そんなので勝って嬉しいもんかよ!
気遣い?! そんなのを、俺にさせんなよっ! 俺なんかより、ずっと強いお前が!」
「え……?」
「大体なんだよ、お前……そんな格好のまんま組み手しようなんて、俺を舐めてんのか。
去年までのお前だったら、ちゃんとソレらしい格好に着替えてからやってたんじゃないのかよ」
「そ、それは……」
確かに、そうかもしれない。
凪が組み手を持ち掛けてくれた事が嬉しくて、頭から吹き飛んでしまっていた。
こんな格好で動き回るのは初めてで、服の丈夫さ他、考慮していなかった事もある。
それらの理由を口にするのは容易い。
だが、言い訳染みたそれを簡単に口にしてしまう事こそ凪を馬鹿にしているのではないか。
服を貸してくれた音穏や、今日一緒に遊んでくれた清子を言い訳に巻き込んでしまうのではないか。
そう考えた紫雲は、それらの理由を口にせず、ただ頭を下げた。
「ごめん、その、気が回らなかった。じゃあ、着替えるから、その後また……」
「そんな気になれるわけ、ないだろ。今のお前の姿見た後で殴る気なんか出るか」
そう言われて、紫雲は今の自身の姿を、状況を客観的に考えた。
実情はどうあれ、女の格好をした人間を一方的に殴りかねない状況……それは、凪の考えている、目指している【男】がするべき事ではないだろう。
「そもそも、気を緩め過ぎなんだよ。
さっきだって、去年のお前だったら裏口で俺が出てくるまで気付かないなんてなかっただろ。
さっさと気付いてお前から声を掛ける位してただろうが」
「……」
凪の言葉に、紫雲は何も返せなかった。
紫雲にとって、凪の言葉は紛れもなく正論だと思えたからだ。
そうして黙ったままの紫雲に、凪は言葉をただ積み重ねていく。
……怒っている、というよりも泣き出してしまいそうな、そんな表情で。
「なんでだよ……なんでそんなに変わったんだよっ……!
なんで、女なんだよ、お前……
身体がそうなったからって、心まですっかり女なのかよ
なんで、俺より強いまんまで、そんな女らしくなっちまったんだよ……
そんなんなら、俺達にも最初からずっと男だって嘘吐いてろよっ……!」
そう言い残して、凪は紫雲に背中を向け、道場を走り出ていった。
残されていく激しい足音が、紫雲の耳に突き刺さる。
「……凪……ッ」
道場に残された紫雲は、凪に向けて伸ばしていた手を下ろして、項垂れた。
項垂れる事しかできなかった……。
……続く。