※読んでいただく前の注意点
この物語には人によっては不快に感じられるであろう、もしくは気分が悪くなるような展開、キャラクターの行為がございます。
そういった事柄に抵抗のある方は、何卒この物語を読む事をお控えくださいませ。
そういった要素があっても構わない、
あくまでフィクションだと納得出来る、という方だけこの先へとお進みください。
お手数をお掛けして申し訳ありませんが、何卒ご容赦くださいませ。
淡白な人間なりの世界の救い方
『世界全てと、大切な誰か一人の命、どちらかしか選べないならあなたはどちらを選びますか?』
それは、フィクション……漫画やゲームなどでは割とよくある選択肢だろう。
いつか、多分何かしらのSNSだと思うが、そんな事を問われた覚えがあった。
何かしらって記憶力ないのかよ、と突っ込まれても正直困る。
雑多な日常を送る社会人であれば、その中での情報の濁流の中に転がる欠片の扱いなんてそんなものだ。
答えない選択肢もあったのだが、俺……何処にでもいる、二十代半ばの平会社員(日本人男)は、なんとなく興が乗ったので答えた。そうした事は覚えていた。多分、会社勤めや人間関係で積もったささやかなストレス発散の一環だったのだろう。
で、なんと答えたのかというと。
『どちらを取るかと問われたら、俺は世界全てを取る。
迷いなく、などとは言えないが、それでも世界を取るだろう。その大切な誰かが俺自身だとしても』
そう答えた。嘘偽りのない俺の本音だった。
誰かを犠牲に世界を守るなんて間違っている、と何処かの誰かは言うのだろう。
そりゃあ俺もそう思う。
正しいか間違っているかで言えば、俺は間違っていると思うし、積極的に誰かを犠牲にしたいなんて思っているわけではない。
だが、世の中には往々にして、両方取りできない時があるのだ。
まして、その辺にいる凡人の、毎日をぼんやり、それでも普通に生きるのが精一杯の俺なら尚更に。
そういう状況において、フィクションでは、世界も大切な誰かも両方助けると断言する主人公がいる。そんな場面がある。
そんなシーンを見る度に、よく断言できるなと、俺は思っていた。
斜に構えた皮肉ではない。本当にそう思うのだ。
万が一世界を、自分以外の全て……自分だけならまだしも……を犠牲にする可能性があると考えたら、俺は怖くて恐ろしくてそんな選択は出来ない。
とてもじゃないが、そんな大きすぎるもの、俺なんかが背負えるはずがない。
もし俺がそんな状況に追い込まれたら、現状維持、つまりその状況で言えば、片方を選ぶのが関の山だ。
というか、それに限らず状況を大きく変える何かを、俺は持っていないのだ。
学生時代、俺は淡々とサッカーに打ち込んでいた。毎日毎日ドリブル、シュート、パス、基礎体力作りを欠かさなかった。好きなサッカーで大活躍したかった、そんなシンプルな理由だった。だけど、そのシンプルな理由で周囲の誰よりも練習できた。苦にならなかった。
でも、それは実を結ばなかった。どれだけ練習しても、正しい指導を受けても、俺はレギュラーになれなかったし、ただの一度も試合に出れなかった。サッカーに限らず、勉強とか、趣味とかでもそういう事が幾つかあった。
それで全てを諦めて何もかもにおいて努力しなくなったとかそんな事はない。サッカーは未だに好きだから、近くの公園でボールで遊んだりもしてるし、草サッカーに参加したりもする。
ただ、どう努力しようが、どう立ち回ろうが、俺には変えられないものは変えられないのだと分かっただけだ。
まぁ、そういう言い訳めいたあれこれを差し引いても淡白な事を言っているなぁと自分で思う。
以前一度だけ女の子と付き合った事があったが、その子からも別れ際に言われたものだ。
『冷たくないけど、淡白な人。あなたは私を心から大切にしてくれなかった』
俺としては、そんなつもりは全くなかった。
彼女との時間は楽しかったし、大切にしていたはずだった……だけど、多分それは俺なりでしかなかったのだろう。
彼女からのメールや電話、SNSでのやり取りを、明日仕事があるからと早く打ち切った事は多かった。
その分の埋め合わせをしようと休みに遊びに出かけもしたが、翌日の仕事や予定を踏まえて、夜遅くなる事は出来るだけ避けた。
いずれの場合にしても俺自身は長々と続けて構わなかったが、彼女も仕事だろうからと、
でも、彼女を言い訳に使うのは申し訳なくて、俺が仕事だからと打ち切ってきた。
それを積み重ねた結果、彼女とは別れる事となったのだが、
今でも俺がした、なんというか、合理的な判断は間違っていないと思っている辺りが、
こと男女関係においてそういう価値観を持ち出している辺りが、俺のどうしようもない、淡白なところだと自覚はしている。
世界云々についてああ答えておいてなんだが、俺個人としては明日世界が終わっても別段いいんじゃないかと思っている辺りもそうだ。
世界が滅んでほしいと思っているわけじゃない。
サッカー以外の趣味の一つであるゲームを幾つかクリアしてないとか、
応援している動画配信者の続きが気になったりとかささやかな楽しみもあるし、
就職する事で離れてしまった家族や友人、大多数の人達が困るのは明らかなので、世界には続いてもらった方がいい。
だけど、俺個人の事情や状況だけを切り取ったのなら、そこまで続けなくてはならないことはないし、別にいいかなと思ってしまうのだ。
色々な環境や状況、学習や反省が重なった結果、こういう、大部分は一般人、淡白な所は人並以上の俺が形成され、今ここにいる。
閑話休題。
ともかく、そんな一般人かつ淡白な俺なので、誰かと世界なら世界を取る……そう返信した。
そうして『あの質問』にそう答えて、どの位だっただろうか。そんな事もあったっけ、位の時間が流れた後。
春が近付いているのに一番の冷え込みを見せる二月の半ば、寒さに身を縮ませ、白い息を吐きながら、自宅アパートに向かう俺の目の前に一人の少女が訪れた。
「私、あなたに決めました」
仕事終わりの帰り道、幾つかの街灯が壊れかけたせいで薄暗い夜道を逆に照らしているんじゃないかと思える、淡い光を放っているような、神秘的な、少なくとも染めているとは思えない、蒼穹色の髪と眼を持った、明らかにごく普通でない少女が、俺に向けた第一声はそれだった。
少女のビジュアル的なインパクトも相まって、何がなにやら分からない俺に、彼女は俺のプロフィール、すなわち名前、生まれ育ち、住所に学歴、経歴、SNSでの書き込み……本名は名乗っていないはずなのに全て筒抜けだった……などなどをつらつらと口にして、最後に『あの質問』への俺が出した回答そのものを口にして、こんな事を呟いた。
「つまり、あなたに世界を選んでほしいんです。私ではなく、世界を。
まぁ私は大切な人ではないですから、幾分楽な選択になると思います」
インパクトある部分を差し引いてもそこそこ可愛いかもしれない女の子が、屈託のない笑顔でそんな、よく分からない、それでいて興味を惹かれずにはいられない事を言うものだから、俺はただただ困惑して首を傾げる事しかできなかった。
そんな俺を見て、そりゃあそうですね、と、少女は場所を近くの喫茶店に移しての事情説明を提案した。
惹かれはしたが、正直凄まじく怪しかったのでなかった事にして帰ろうかとも思った。
だが、先程俺の個人情報を丹念に調べられたのを思い出して怖くなったので(逃げても無駄かもとも思った)俺はとりあえず話を聞く事にした。
そういう流れで移動した、暖房が効いた喫茶店内……アパートの近所にあったが利用した事はなかった……で聞かされた内容は、想像以上に突拍子がなかった。
簡単に言えば、文字どおり世界か彼女かの選択を、俺に委ねたいという事らしい。
より正確に言えば……世界を維持する為に、俺に自分を殺してほしい、という話だった。
それについての大まかな流れはこうだ。
とある『何か』が、この地球上において人間が、人間だけが世界にとっての異物、害だと考えている。人間の世界は、不純物だらけ、矛盾だらけのどうしようもない、醜いものでしかない、と。
だが、人間も世界から生じた、世界の一部である事も『何か』は理解している。
ゆえに、人間が生存すべきかどうか判断する為に、ある程度の期間経過、もしくは条件が重なった時……スパンとしては平均して数十年に一度位らしい……に、人がこれからも生存していいかどうかの試験を行うようにした。
試験が行われる際、人間の中に、世界を殺す毒を持った少女が生まれる。
毒の少女は、試験が近付くとその証として髪や瞳が蒼く染まり、同時に毒を持つ事の自覚自覚や必要な知識が覚醒するので、それを元に事態を収拾しなければならない。
事態を収拾、すなわち『人間が生きられる世界』を守るには、決められた日時、タイムリミットあるいはチェックポイントとなる日から三日以内に少女は死ぬ必要がある。
少女がその期間を過ぎても生きていた場合、少女の毒は発動し、世界に撒き散らされて人は滅びるからだ。
……この時点で色々と突っ込みたい事が俺には生まれていた。
まず『何か』とは何か。そいつに人間を裁く権利があるのかどうか。
それから毒とはなんなのか。具体的にどういったもので、本当に対処のしようがないのか。
よしんば毒云々を信じるとしても、それで本当に世界が滅びるのか。
そして、それらの根本的な是非、すなわち目の前の、熱々なコーヒーを美味しそうに、でも猫舌なのかちびちびと飲んでいる、髪が蒼い以外は普通に見える少女に、本当に世界の命運が握られているのか。
「そりゃあそう思うでしょうね」
その辺りを思わず突っ込むと、少女は他人事のようにほんわかふわふわと、彼女の腰まで届く髪がそうであるように頷いた。
正直俺は少女の回りくどい、狂言めいた自殺願望に付き合わされそうになっているのでは疑念があったのだが、どうにもそれはなさそうだった。
初対面で判断できる事ではないかもしれないが、この見た目と雰囲気がふわふわな少女が自らの死を望んでいるようには見えなかったのだ。……積極的な死は、だが。
ともあれ少女は俺の疑問に順序良く解答してくれた。
「まず『何か』や毒そのものについて、ですね。
それについては詳しくお話しする事が禁じられているというか、そうした方がいいのでそうなっています。
分かりやすくする為に、便宜上毒と表現するようにしてますが、実際にはもっとややこしいものなんですよ、それ。
んで、詳細や正確な所を説明にするのは面倒臭い、
ではなく明らかにするとそれを利用しようとするどうしようもない人達がどこから湧いて来るか分かったものじゃないですからね。
同じ理由でそれをもたらした『何か』についても答えるのは薮蛇以外の何者でもありません。
だから毒とか『何か』についてはよく分からないけど滅茶苦茶に危険なもの、ぐらいのふわふわ加減でいいんです。
そう納得してください。
毒の対処法については、私……代々の毒の少女が知る事以外にはない、としか。
代々で色々試してはいますが、成果は出ていませんし。
あ、ちなみに事前に私を殺して事態を収拾しようとすると状況によってはより確実でえげつない強力な毒を撒き散らす結果になるらしいです。
ま、私にも防衛機構が幾つか備わっていますからそう簡単にはいきませんけどね。
そうそう、自殺もノーカンなので。
というより自殺では私死ねないんですが。
次に、世界が本当に滅びるかどうか、ですが、
実際に何度かお試しで何が起こるのかを見せた事がある、いえ、あるそうです。
何事も信じてもらわないと始まりませんからね。
そのように私の『知識』にありますし、立ち会った人の子孫もいらっしゃって、今現在協力していただいてます。
それをすぐに信じられるかどうかというと無理があるでしょうが。
そして、本当にわたし少女と世界が天秤に掛けられているのかどうか。
これもまた、初対面のあなたに信じろというのが無理な話ですね。
ただ、この事は世界各国の大統領とか総理大臣とか、
えっとその、とにかく偉い人は皆知っていて、納得済みで全面協力です。
だからこそ、私はあなたについての個人情報全てを把握出来たわけですし……まぁそれだけだと説得力に欠けますからね。
なので、信じてもらうためのあれこれを準備してます。
まず私の能力の一端として……」
言いながら少女は自身のコーヒーカップ……まだ半ば以上中身が残っている……をスッ、と対面に座っている俺へと押し出した。
「私は眼を瞑っていますので、このコーヒーに砂糖でも塩でもなんでも好きに入れてください。
何がどの程度入れたのか、先程話した防衛機構、これは毒殺への感知のための能力ですが、それで分かります」
とりあえず、俺は好奇心もあいまって、テーブルに置かれていた調味料……喫茶店なのに妙にラインナップが充実している……を思うまま混入してみる事にした。
眼を瞑った少女が本当に見えていない確認をしっかりした上でだ。……結果は、見事というしかなかった。
「砂糖スプーン七匙、いえ、山盛りで五匙分ですね。
もっとややこしい入れ方をしてもよかったのに。それにお砂糖だけだなんて、優しいですね」
恐ろしいまでに正確な……一体どうやってのなのか、量だけでなく入れ方まで把握されている……解答の後、クスリ、と少女は微笑んだ。
花が綻ぶようなとは、こういう事を言うのだろう。そういう可憐な笑顔だった。
「でも、これだけだとただの特技紹介でしかない? ごもっともです。
しかし、毒の証明の為に誰かを傷つけるのは私としては不本意です。
ですから後は、別の方向から信じていただく事にします」
そう言って少女がスッと差し出したのは、一枚の紙切れ。
可愛らしい、俺が自分から進んで買う事は一生ないだろう、だが決して嫌いではない色とりどりの花があしらわれたデザインの便箋だった。
そこには……『明日俺に起こる事』がリスト化され、記されていた。
結果から言えば、そこに書かれていたは全て実現した。
通勤に使っている電車の遅れ、
会社で下された唐突な有給付き休職辞令、
昼食に利用していたファーストフード店でのささやかなトラブル、
暇潰しにプレイしていたソーシャルゲームので最高レアキャラクターが当たりまくり、
そして……ささやかな喜びとして購入していた宝くじの、一等当選、などなど。
「信じる気になりましたか?」
昨日に引き続き現れた少女に、これまた昨日と同じ喫茶店の同じ席で問われ俺は、
基本淡白な俺には珍しい精神的な疲労感と僅かな恐怖、昨日から続くほんの少しの好奇心、とそれよりも少し多い興奮めいた感情がミックスされた状態で、でも表面上は淡々渋々と頷いた。
大体の事は偶然で片付けられない事もないが(ソーシャルゲームについてはゲーム内で表示されている確率を考えればかなり無理があるが)少なくとも宝くじの大当たりに関しては個人の悪戯で実現可能な事ではない。
八百長めいた事をして俺に当てさせたとして、俺が宝くじを購入している事を知っていて、かつその番号を把握し、それを当選番号にする権力なりが必要になるからだ。
全く逆のアプローチとしてなんらかの予知能力だとするなら、結局オカルトめいた、毒云々と同じく信じるか信じないかの話にしかならない。
で、あるならば……少なくとも毒の話はある程度の人間に認知されている、そう考える方が、そっちの方が、まだ幾つかの証拠がある分信じられるだろう。
合理的に俺はそう判断した。
だから俺は、最低限は信じた事を素直に認め、口にした。
だが、それを信じるのなら……前の前の少女は死ななくてはならない、殺されなくてはならない、という事になる。
「ええ、そのとおりです。
……死ぬのが怖くないのか、ですか。そりゃあ怖くて嫌ですよ。
誰が好き好んで死ぬもんですか。
世界の為に笑って死ぬなんて私には絶対に無理です。
でも私が生きてたら世界が滅ぶっていうんなら、私は死にますよ。
あなたならこの判断を理解してくださるはずですよね?」
例の俺の回答を踏まえてだろう少女の言葉は強かった。
声音とか音量が強いとか大きいではない、なんというか揺らぎのない、
少し違う気がするが、自信満々、という表現が一番近い気がした。
つまり、それだけ彼女は覚悟を決めている、ということだろうか?
なんにせよ、彼女のそんな『強い』発言に、俺は先程同様に少し渋々とだが頷いて肯定した。
人の命は、簡単に何か……下世話な話だが、お金とか貴金属とか土地だとか……そういったものに代えられるような軽いものではなく、重いものだと俺は俺なりに認識している。
そして、命と命は基本的には等価値だとも。
であるならば、多くの命と一つの命ではどうなのか?
その答は、既に答えたとおりであり、今の所俺はその意見を翻すつもりはない。
「ええ、とても素敵な回答です」
満足げな表情に、俺は僅かに……
なんだろうか、自己犠牲精神に気圧されているのか、
戸惑いつつ、同時に浮かび上がってきた疑問について尋ねてみた。
仮に俺が協力を了承したら、彼女は、彼女に協力している人達はこれから何をさせようというのか。
少女を殺す為の訓練でもしろというのだろうか。
「いえ、そういうことはありません。簡単ではありませんが、そう難しくもない事です。
私と一年間共に暮らしていただいて、最終的に私を殺してくださればそれで」
そんなとんでもないことを、彼女は日常的な会話のように、昨日と同じくなほんわかな笑みで言った。
一年間。
それは、少女の毒への耐性、あるいは抗体を俺に持たせるために必要な期間。
少女と寝食を共にする事で、それは俺の中に構築されていくという。
そうして対象の人物が耐性を身に付けると、
その証として右手か左手か、どちらかの手の甲に蒼い……少女を染めているのと同じ色の痣が浮かび上がるらしい。
そうして耐性を持つに至った誰かが少女を殺す事で、少女の毒は『相殺』されるとの事だ。
この時点で毒はウィルスめいたものでないと俺は確信した。
そうであったなら筋が通らないというか科学的にはありえない無茶苦茶な話だからだ。
となるとやはり、オカルトめいた呪い的な何かだろうか。
そう呟くと、少女はこちらをからかうようにクスクス笑いながら……
昨日からの積み重ねで、よく笑う子だという認識が強まった……
昨日頼んだものと同じーコーヒーに砂糖を入れて、カチャカチャとリズミカルにかき混ぜながら言った。
「さぁそれはどうでしょう?
私達には理解出来ない、何処からかもたらされた凄まじい科学技術によるものかもしれませんよ?
まぁその辺りはあなたが特に気にする必要はありません」
やはり、昨日話したとおりその辺りは答えるつもりがないのだろう。
それを察した俺は、別の事柄について尋ねる事にした。
そもそもの、根本的に気に掛かる事が一つあったからだ。
すなわち、何故『俺』でなければならないのか。
そう問い掛けると、彼女はこちらにとっての重要な事だと感じ取ったのか、
居住まいを正し、表情を引き締めてから、改めて口を開いた。
「……私的に、死ぬのは、殺されるのは嫌ですけど、仕方ないと思うんですよ。
それこそ、あなたが答えたのと同じ理由です。
私も、世界と誰かなら、世界を取る派の人間ですから。それが私自身でも。
でも、わざわざ友達とか家族とか親しい誰かに殺されたいわけじゃないです。
私を殺した人にずっと悔やんだり悲しんだりしてほしくないですから。
かといって、私を殺してもなんとも思わないような人に殺されたいわけでもないです。
なんか腹立つじゃないですか、そういうの」
そりゃあそうだと納得する。
納得して殺されるつもりなのに、殺した事を一生悔やまれるのは困るだろう。
かと言って、殺してもなんとも思われないのはなんとも寂しいし、
むしろ喜ばれても「うわぁ……」としか言いようがない。
「我が侭ですかね、私」
少しトーンを落とした言葉を、いや、と俺は否定する。
まだある程度信じたとは言え半信半疑だが、世界の為に死ぬというのなら、
そのぐらいは言ってもバチは当たらないだろう。少なくとも俺はそう思う。
「……よかった。えと、まぁ、とにかく。
だから、私の考えに近い価値観を持つ、私を殺す事にそこそこ悲しんでくれても、割合あっさり立ち直ってくれそうな、私の嫌いな、ごほん、そんなに好きにならないだろうタイプの人を選んだわけです」
なるほど『あの質問』はそれを推し量るためのものだったわけか。
だが前半はともかく、後半の、好きにならないタイプについての意図が掴みかねた。
「何故そんなタイプを選ぶのか、ですか?
さっきお話したことの延長線上ですよ。
私が好きになるような人に、最終的に私を殺してほしくないからです。
私、自慢でもなんでもないですけど面食いです。
だからあなたみたいな、そんなにかっこよくないおじさんは嫌い……
ごほん、ではなくても、必要以上に好きにはならないでしょうし」
前言撤回していい? 割と君、我が侭じゃないか?
というか、こっちは君をフォローしたのにどストレートにこちらをディスってくるのはよくないんじゃない?……と口では文句が出ていたが、俺の顔は笑っていた。
なんというか、彼女が口にした事が、俺には凄く納得出来る理由だったから、なのかもしれない。
決して笑えるような話題ではなかったのだが、一番笑えないはずの彼女が笑っていたので、ついつられてしまった。
そんな俺の文句を、変わらない笑顔でスルーして、少女は説明を続けた。
「そういうわけなんで、あなたの答を私が気に入った事と、世界的な権威があなたを徹底的に分析した結果、
あなたと私は根本的に近いと判明した事と、
あなたの、私が好きになりえないビジュアルから、私はあなたを選んだわけです。
一人よりも世界を取る、その為の人材として」
その報酬は、当たった宝くじなのだろうか?
確かに一等はデカいが……人の命、それが個人であれ世界であれ、命と引き換えであるなら、
軽過ぎる、とまでは言わないが、正統な取引と言えないだろう。
「そう思ってくれているのはなんか嬉しいですね。私も同じ考えなので。
ああ、ご心配には及びません。
あれはこちらの事を信じさせるための先行投資で、本当の報酬は別に用意していただく手筈になっています。
私自身のお金ではないので、ちょっと心苦しい所はあるのですが……まぁそれを言い出したらこれから先の事でいちいち悩む事になるので、とりあえずスルーします。
つまり、あなたが断わるにせよ、あれはあなたの好きにしていただいて構いませんので」
つまり、数億のお金が『どうでもいい』扱いになるほどの、本当に世界の危機、という事なのだろう。
正直完全には理解が追いついていないが、そう判断せざるを得ない。
「そういう事です。で、どうしますか?
あなたは十三人いる候補者の一人ですから断わってくれても別の人の所に行くだけなんで気軽に答えてくださっていいですよ。
でも、断わるのは勿体無いと思いますよ? あなた不労所得って単語大好きでしょう?」
好きじゃない社会人、いや会社員がいたら教えてほしい。
いや、そういう人はきっといるのだろうが、
それはお金ではない何かで仕事を見る事が出来る素晴らしく充実した人生を送っている人だろうなぁ、羨ましい事だ。
ともかく、不労所得により引き篭もっても余裕で生活可能になる、というのは俺的に一つの夢だと言える。
いやこれを夢だというのは、夢を本気で追いかけている人に失礼かもしれないのだが、
まぁ夢は人それぞれという事で勘弁して欲しい。
「全体的に同感です。
さておき本題ですが、あなたは私と同じ家……
とある場所のマンションを予定していますが、そこで一年間一緒に過ごしていただきます。
そこでの義務は一切ありません。労働も、納税も私と一緒にいるだけで果たされるわけです。
そして、私にはこれから一年間、世界のために死ぬ報酬として、好きに生きていいオーケーが出てます。
いろんな国からバックアップを受けてますから、遊び放題です。
つまりおじさんも一緒に遊び放題なんですよ?
さらに一年後には、全部無事に終わったら、一生余裕で生活出来るお金が報酬としてあなたの懐に入ります。
まぁ、行動を共にしなくてはならないのが最低条件なのは面倒ですが、そこは我慢していただくとして。
どうでしょうか? 悪い条件ではないと思いますが」
正直そこまで保障されると逆に心配になるというか、全部終わったら機密保持で抹殺されるんじゃね?という疑惑すら湧いてくるわけなのだが。
だが、そういう事を通り越して、俺は少しワクワク、
こう言ったら不謹慎かもしれないから、少し言い方を変えると高揚していた。淡白な人間なりに。
俺のような、その辺にいる一般人が、
そんな世界の大事に巻き込まれるなんて、昨日まで想像すら出来なかったからだ。
そして、それら以上に淡白な俺の思考回路が判断していた。
半ば信じたこの状況を俺がスルーするのは方々で無駄が生まれるし、俺自身の精神衛生上もよろしくないのだと。
まず俺がこれを断わった場合、同じようなやり取りを彼女は、いや正確に言えば彼女と彼女の協力者達は幾度も繰り返す事になるだろう。
その上、俺の宝くじ同様の信じさせるための先行投資も繰り返し重ねるとなると、時間とお金の無駄遣いが過ぎる。
そして、彼女を殺す、という事。
それがどのようにして行われるのかは今の所俺には分からない。
いや、どんな手段によるかはこの際問題ではない。
誰かが彼女を殺す、という事柄には変わりはないのだから。
人を殺す事は是か非かで言えば、俺は圧倒的に非だ。
基本的に死にたい人間はいないはずだし、俺も積極的に死にたいと思った事はない。ゆえに非。
だが、既に解答しているとおり、
多くの人命……人間社会そのものと、誰か一人の命であるならば、人間社会そのものを取るべきだろう。
彼女自身がそう認めているように。
冷酷だとか淡白だとか非人道的、サイコパスと言われたとしても、俺はこの意見を翻す事はできない。
であるならば、同じように、一般的な常識として殺人を否としている他の誰か、
十二人の候補者とやらがそうかはわからないが、そんな誰かに、
俺がしたくない事を擦り付けて普通の生活に戻れるかというと、そう出来る気はしない。
勿論人を殺したらそれ以上に戻れるはずはない。
だが、誰が殺してもそうなるというのなら、
他の誰かではなく淡白な俺が……する、べきなのだろう。
そうしたいわけでは決して、絶対にないが、そうせざるを得ないのだろう。
だから俺は、俺の合理的で淡白な思考回路は、八割がた、彼女からの契約を引き受けるべきだと判断していた。
だが、そういった諸々を含めても、足りなかった。
未知に対する不安要素、それなりに納得している日常から離れる理由、これが夢物語ではない確証、
そして何より人を殺さねばならないという事柄、そういうものを越えていく何かが。
俺は、その足りない何かを埋めたかったのか、あるいは埋めたくなかったのか、
半々だろうなぁ、という淡白な判断の元で、最後の質問をする事にした。
「そんなに候補者がいる中で、あなたを真っ先に選んだ理由、ですか?
まぁ、ささやかな事ですよ。あなた、ヴァーチャルムーバーのアカツキ・ヨアケさん、好きでしょう?」
ヴァーチャルムーバー、所謂、ヴァーチャルな体を持った動画配信者でありアイドル、のようなものだ。
そんな世に数多いるヴァーチャルムーバーの中で、
俺はアカツキ・ヨアケという、アイドルを目指している少女を応援、
そちらの業界の言い方で表現するならば、推していた。
熱狂というほどではないが、
彼女のゲームプレイ配信や様々な面白動画をたまに見て、高評価ボタンを押す程度には応援している。
社会人をやっていると癒しはほしくなる。俺にとって、少なからず彼女はそうだった。
「実は私もそうなんですよ。トワイライターです」
トワイライター……ヨアケが名付けた、彼女を推す者達の総称だ。
そして、そう言いながら彼女が見せたのは、
通販で買う事が出来る、彼女のモチーフカラーたる紫と蒼と橙で彩られたバンダナを巻き付けた右腕だった。
……実は昨日から気付いており、そうでないかと思っていたのだが、マジだったかー。
「だからあなたを……え?
共通の趣味はあなたを必要以上に好きになる要素になるんじゃないかって?
い、いいじゃないですか、そのぐらい!
さすがに、根本は似ているとは言え、趣味とかで全く共感できない人とは生活できないでしょうっ!?
それに、大丈夫ですぅ〜! 私はおじさんみたいな人、そんなに好きになりませんからぁ〜!」
はにかみながらも興奮し、少し大きめの音量となった彼女の返答は……足りないものを埋めるのに十分なものだった。
彼女の表情か、トワイライター、すなわち同類だからか、その合わせ技なのか、深くは考えない事にした。
そして、決して悪い印象を持たなかった彼女を殺す為の契約である事も、俺は考えたつもりで、深くは考えていなかった。覚悟したとは言えずとも、理解した上で契約したつもりでしかなかった事に、この時の俺は気付いていなかった。
そう、ここから、俺の中で一つの毒が浸透し始めた事にも。
そうして、俺は彼女と共に一年を過ごす事を決断、契約を成立させた。
翌日の朝、約束していた時刻に俺の自宅たるアパートの駐車場には、明らかに場違いな軍隊が使っているのだろうトレーラーが停車していた。
トレーラーの中からこれまたトレーラーと不釣合いな蒼い髪の少女が降り立ち、笑顔で挨拶してきた事で、
俺は改めて、そしてようやく自分が非日常に足を踏み入れた事を実感した。
そのトレーラーにはいかにも屈強な人達(なんでも各国から選抜された少女と俺のボディーガードらしい)が十数人ほど乗っており、俺達はそんな彼らに囲まれた状態で、改めて事態や状況の説明を受けた。
説明してくれたのは、この問題への対抗の為に作られてそろそろ三桁目の年数に入ろうかという世界的な組織の中間管理職的な人らしかった。
らしい、というのは、巻き込まれたとは言え、区分的に一般人の俺には詳しい情報は渡せないがゆえの曖昧な自己紹介によるものだった。
ともかく、その中間管理職の女性……おそらく俺とそう歳が変わらない、エリートなのだろう……は、
生真面目さが伺える契約の確認や念押し、俺や少女への心配その他で移動の間ずっと喋り倒していた。
その中で一番に印象に残った言葉はというと
「いい? 我が侭は許すわよ、ええ。だってあと一年しか生きられないんだもの。
世界の為に死を選ぶなんて事、本当はさせたくない……
でも避けられないというのなら、好きに生きてほしいのは私も、ここにいる皆も本音よ。
でもね、過剰な迷惑掛けるは辞めてよね?! 我が侭と迷惑は違うからね!」
という力説だった。
なんでも、毒の少女のサポートを代々引き受ける事になっている家系であるらしく、
歴代の色々な事、つまり歴代がどうせ死ぬのなら死ぬ前に思いっきり好き放題生きてみたいと掛けた迷惑についてを聞かされているのだとか。
まぁ先の事を話すのなら、その力説は、ほんのちょっと虚しい結果になるわけなのだが……。
それは、さておき。
世界各国が周知アンド協力というのは伊達や酔狂ではなかったのは、すぐに思い知る事になった。
まず、トレーラーからジェット機、船、電車、世界各国を様々な、凡そ思いつく限りの移動手段で渡り歩いた事。
なんでも、少女の存在を徹底的に隠れさせる為の手段であり、その途中では囮作戦も実行されていたらしい。
囮に使った人達は無事なのかという少女の問い掛けに中間管理職の女性……渾名が少女と俺の協議の結果『部長』になった……は、何事もなかった旨を伝えた。
というか、実際の所ここまでする必要はない程度に、少女を明確に狙う輩は存在しないとの事だ。
「下手に手を出して世界そのものが滅びるのは誰も嫌なものよ。
もっとも、ごくたまにそういう事に頓着しない、深く考えてない馬鹿か、世界が滅びてもいい、
いえ、それが目的のどうしようもない輩もいるけどね」
との事らしい。
もっともそういう存在は各国の連携で徹底的にマークされており、こちらに手を出すどころの騒ぎではないらしいが。
ともかく、そうして世界中を行ったり来たりする事、三日。
最終的に俺達が到着したのは、
俺達の……目鼻立ちや趣味から察していたが、彼女も俺と同じ日本人だ……生まれ育った国の片隅の、海に面した小さな町。
一見ごく普通の町だが、そこは既に少女の為の街となっており、
そこで生活している皆、少女の関係者、並びに協力者と全てが入れ替わっているとの事だった。
これが、世界のバックアップが伊達や酔狂ではないと感じた三つ目だった。
ちなみに二つ目は世界規模での囮作戦である。
さておき、そんな町の中にある、普通の、というには、外装や内装を見ただけで無理があると分かる、
実際住むとなったら結構なお値段であろうマンション、その最上階の一室。
折角だからそれなりに豪華な場所に住みたいという彼女の要望により選ばれた其処こそが、俺と彼女が二人きりで一年間を共に過ごす為の部屋だった。
そう、生活自体は二人きり。
二人きりなのは、俺以外に彼女を殺せるものをなるべく作りたくないかららしい。
その場合、万が一、そう例えば俺が不慮の事故などで死んだ場合困るんじゃないか、と意見したが、
そうならないように対抗策は施してあるらしい。
というより、俺が疑問に思うような事、まずいんじゃないかと思う事には大体対策などが準備されており、
そう出来ないものはどうあってもそう出来ないものである、との事。
要は、俺は少女との生活に集中さえしていればいい、そういう事らしかった。
「ちなみに、私に性的な意味で手を出そうとしたら、速攻で軍的な人達が踏み込んできてくれますからね?」
入居して初めての夜、彼女が笑顔でそう言ってきたので、俺はしないしないとパタパタと手を振った。
「むぅ。その冷静なリアクション、私に魅力がないと?」
そういうわけでなく、根本的に誰かが、女の子が嫌がるような事を俺はするつもりはない。
俺は一般人で、だからこそルールはしっかり守るものだ。
そもそも守る守らない以前に誰かに嫌がらせしたりが好きじゃないが。
「……さすが、同胞、トワイライターですね」
移動中、暇な事もありヨアケの配信を一緒に見たりしていたので、俺と彼女はそこそこ打ち解けていた。
一年間を過ごすにあたってそれなりに打ち解けておくべきだろうと感じていたから、
淡白な俺なりにそうなるように努力していた。
おそらくは彼女もそうだったのだろう。
彼女は初対面から朗らかに、グイグイとこちらに話しかけ、リアクションを探り、
俺が少し過剰なんじゃないかと思えるほどにはしゃいでいた。
だが、そうしてある程度打ち解けていても、男女が一緒に生活するとなると、また話が変わってくるわけで。
同居生活が本格的に始まると打ち解けたのが嘘のように、とまでは行かないが、
それまでより微妙な距離感が、俺達の間には生まれていた。
そりゃあそうだ。
確実に俺に耐性を持たせるために可能な限り一緒にいなければならない都合上、
部屋の数は十分過ぎるほどあるのに使う部屋は一部のみ、
朝晩の着替えを可能な限り近くで行ったり、
入浴の際も近くで音だけ聞かされる羽目になったり、
トイレも用を足すまで扉の近くで待ってみたり、寝る際のベッドも一緒だったり、などなどなのだ。
この部屋の中の事は、最低限のプライバシーを守るため、脈拍数など以外は監視・認識・把握されていないのだが、そうだとしても辛い。
これらは現時点では強制ではないが、
耐性がつくのに時間が掛かる場合は、より密着した生活を強制される事になるという。
耐性が身に付くまでの期間には個人差がある為、万が一を避けるにはそうせざるを得ないとの事らしかった。
そして、俺はまだしも、俺はまだしも、もう一度言うが、お れ は ま だ し も、向こうは若い女の子なのだ。
何が悲しくて最近知り合ったばかりのおっさん(俺は自分がまだ若いと思っているが、彼女からすればそうだろう)の生活音を聞かされなければならないのか。
俺は何もしていないのに申し訳ない気持ちになってくる。
だが、ずっとこのままというのは流石によろしくない。
俺は淡白なので構わない、うん、まぁ、どうにかこうにかなんとか構わないで済むが、彼女の精神衛生上、よろしくない。
なので、共同生活を始めて五日後、俺は状況を打開するべく彼女に、あるささやかな提案をした。
「ヨアケさんもやってた、友情破壊ゲームをしないか、ですか?」
友情破壊ゲーム、すなわち双六で目的地を目指すゲームの最新版。
何が友情破壊かというと、勝つ為に相手を陥れる必要があり、その手段が豊富過ぎるほどに豊富で、もしそれを全種やりきった暁には友情もクソも何も残らない、そう言われている。
言われているが、生憎俺はそうなった事がない。何故ならば。
「喧嘩したくなくて遠慮してえげつない妨害が全然出来なかったから?
ゲームの主旨理解してますか?と言いたい所ですが……私もそうだったんですよね……。
だからこそやってみようじゃないか、そういうことですか……いいでしょう! その提案、受けて立ちます!
私もヨアケさんのようなプレイを人間相手に一度やってみたかったんです!
家族でも友達でもないおじさんなら遠慮なく出来そうですし、是非やりましょう!」
じゃあ互いに遠慮無しでやってみる事にしよう。
「はっはっは、吠え面かいたりヨアケさんみたいに調子乗った挙句にブーメラン喰らわないでくださいよ?
興が冷めますからね。まぁ私相手ならそうなる可能性が濃厚ですけど。ふふん」
彼女が自信満々にそう笑っていられたのは、開始一時間だけだった。
「ひ、ひどいじゃないですかぁぁぁ!? 忖度! 忖度してくださいよぉぉぉ!」
少女はやはり少女で、まだ若かった。
なので、互いに遠慮無用であるならば、より狡猾な大人のダーティなやり方の前には為す術がなかった。
というか、俺も今までやった事がなかった分、ついつい調子に乗ってやりたい放題してしまった。
結果、俺達は大いにヒートアップした。
何時間もぶっ通しで遊び倒し、そろそろやめようかと俺が勝ち逃げしようとすると、
彼女はこれまでの屈辱を返さないと気が済まないと罰ゲームをプラスアルファした再戦要求し、
結果罰ゲームを自分で喰らう破目になり、水着姿で(俺はしなくていいと言ったのだが。言ったんですよ)ゲームを続行していった。
そうなってしまった以上、
それまでの微妙な遠慮、線引きなど何処かに吹っ飛んでしまったらしく、
彼女はそれまで時折見せていた口の悪さを全開にしてこちらを罵りつつも悔しがり、
俺も普段は内心でのみ呟く少し乱暴な言葉を若干解放して対抗した。
そんな一夜が明けた後、俺達の間にあった微妙な距離感は見事に粉砕されていた。
「うぅ、もうおじさんに遠慮なんかしてやんないですからね。この変態」
さすが友情破壊ゲームである。
ほんのちょっと距離感をどうにかしようとした結果、微妙な距離感まで破壊してくれるとは。
一緒に大事なものも色々破壊してしまった気もするが。
あと、水着姿とか諸々は君が言い出した事じゃん。
「ふーんだ。知りませんっ」
そうして彼女は不満たらたらにそっぽを向いたのだった。
……そんな時間を過ごす内に、ある毒が、少しずつだが確かに俺の中を巡っていた事に、その時の俺は未だ気付いていなかった。
こうして、俺達の関係性、というか生活は微妙に変化した。
それまでは食事は出前で頼んだり、ファミレスで済ませたりなどなど自分達で作る事はなかったが、週の半分を自炊(交代制)するようになった。
「前にも言ったとおり、私は食べたものの成分が分かりますから、
毒物に勘付いたらすぐに吐き出せますし、そもある程度の耐性ならありますからね。
いやだからと言って毒物を口に入れたくはないんですけど、
ともかくある程度なら毒にも強いんで、どんなにまずいご飯でも大丈夫ですよ? 安心して作ってください。
まぁ罵倒はしますけど」
そうのたまうだけあって、彼女自身の料理は結構美味しかった。
ちなみに俺の料理は酷評された。一人暮らしの自炊で鍛えたつもりだったのだが……少しショックだった。
それから、互いの洗濯や掃除などの家事を手伝ったり茶化したりするようになり、
その合間合間で世界的権力により各種取り揃えられたゲーム機をふんだんに使用、
一人ずつプレイしては交代、時には同時にプレイしたり対戦したり、
あるいはアカツキ・ヨアケの配信をこれまた世界的権力で購入された最高級品の大画面で共に視聴したりと、いい意味で遠慮のない同居生活が明確な形となった。
ちなみに、彼女がよく笑うのは、別に打ち解けを意識していたものではなく、そうしたいからそうしていただけらしかった。
……俺だけ余計な気遣いをしていたのかと思わないでもなかったが。
彼女が自然に笑っていた、そう考えるとなんとなくだが悪い気分ではなかった。
そうして俺達二人は、大雑把な監視の下で『俺達の家』となったマンションでの生活を三ヶ月続けていった。
……後から思えば。おそらくこの頃が純粋に一番楽しかった。
いつか訪れる確定された未来を強く意識せずに過ごせた時期だったからだ。
そして、俺が、俺の中に染み渡りつつある毒の存在に薄々と気付き出した時期でもあった。
そんなある日の事、俺は夢を見た。
一見すると何も代わり映えのしない世界。街中。
だけど、そこに人はいない。正確に言えば、生きた人は『ほぼ』いなかった。
人がそこら中に倒れ伏し、山積みとなっていた。
皆、泡と血を吐き出し、手足は捻り曲がり、むき出しになった目は、怨嗟を語る全ての目は、一人の少女を見据えていた。
そんな視線を数え切れないほど受けていた、蒼い髪のその少女は、
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい、と尽きる事なく繰り返し、ただそこに立ちつくしていた。
そんな現実めいた迫力の、悪夢を。
「ああ、大分耐性がついてきたんですね。思った以上に早いです」
ただ事じゃないかも知れないと判断しその事を話すと、少女は苦笑していた。困ったように、笑っていた。
彼女曰く、俺が見た夢は、俺が完全な耐性を得る前段階で見る、
あってはらならない予知夢でありシミュレーション、
少女と俺が『毒』を通じて繋がってきている事の証なのだという。
つまり、また一つ、少女の言葉が、現状が真実である証拠が提示されたという事。
少しずつ状況は動いている、それは分かった。だが、俺にはそれ以上に気になる事が一つ出来ていた。
「もし私が死ななかったらどうなるか、ですか? 私言ったでしょう? 世界か、私か、って。
つまり、私はそうなったら死なないんですよ。人間の世界を代償に、私は生き続ける事になります」
その答に、俺は全身が総毛立った。いや淡白なので、少し大袈裟かもしれないが、それに近い感覚に襲われた。
つまり、自分以外の人間を絶滅させた世界で、彼女はただ一人、人として生きていかねばならないのだ。人を滅ぼしたという、あまりにも過酷過ぎる重責を背負ったままで。
「ホント、そんなの勘弁してほしいですよ。
だから私、あなたがいてくれて、契約してくれてよかったと思ってます。……これでも感謝してるんですから」
そう。そのとおり。彼女をそうさせないために、俺は契約したのだ。
俺がちゃんと仕事をすれば、彼女はああならずに済む。……そのはずだ。
「そういうことです。ほら、そんなことより、今日はあなたが朝食当番ですよ」
彼女自身の顛末、訪れる可能性の一つだというのに、彼女は朗らかに笑い飛ばし、今やるべき事を俺に示した。示してくれた。
そうして俺は、非日常の中の日常へと戻っていった。
……ジワリジワリと、より多く、より強く回っていく毒の存在を、半ば見ない振りをしながら。
それから三ヶ月は、それまでと殆ど同じ、それでいて少し違う日常へと変わっていった。
何せ、世界からの援助で時間と資金は腐るほどある。
なので、二人、そして部長や警護してくれている皆と話し合って、色々な所に遠出するようになった。
東西南北の名所巡り、美味しい物の食べ歩き、フィクションのモデルとなった場所巡り……所謂聖地巡礼などなど、
行ける場所は軒並み虱潰しで足を運んで、楽しんでいった。
二人で楽しむ事が七割、後三割は警護の人達や部長も巻き込んで。
……きっと、それは薄っすらと見え始めた何かから、目を逸らす為だった。
そしてそれは俺だけでなく、彼女も、あるいは部長や皆もそうだったのだろう。
「……また、来年会いましょう、かぁ」
そんな日々の中で巡ってきた、
アカツキ・ヨアケの活動一周年記念ファーストライブイベント……
活動を続けた彼女はいつしか、正しくアイドルへとなっていた……からの帰り道。
イベント会場から最寄の空港で、
一見普通の通常便、実際は貸し切りの、マンションのある街近くの空港への国内線を準備中の待ち時間、彼女はポツリと呟いた。
最終便という事もあってか、俺達の周囲に殆ど人はいなかった。俺達を護ってくれている、馴染みの人達の姿が遠目に見えるだけだった。
「来年、きっとヨアケさんは、もっともっと輝いてるんでしょうね。ふふ、見れないのが少し残念」
行列が出来るほどに美味しいスイーツを品切れで食べ逃した、そんなニュアンスの残念さを彼女は口にしていた。
実際には、そんな日常的なものではないのに。
本当は、なんで、どうして、私だけが、と嘆き悲しんでもおかしくないのに。
気付けば季節は夏。出会ってから半年が過ぎていた。
薄着の彼女は、中々に視線のやり場に困るスタイルをしていて「やっぱり変態でスケベですね、おじさんは」などと当たり前に冷たい視線で罵倒され、
淡白な俺はそれに対して、ハイハイそうですね、と受け流し、その後は普通に談笑するのが普通の毎日。
そうして、俺達は互いのあれこれを罵り合いながら、色々な事を話すようになっていた。
本当に色々な事だ。
こうなる以前の生活の事も聞いたし、
ヨアケの好きな所も大いに語り合ったし、
性的な話も若干踏み込んでみたし、
音楽のジャンルの好み、サメ映画の奥深さ、使用する家電への拘りや、
ミートソーススパゲティに茄子は入れるべきかそうでないか、
などなど、話してない事は殆どないんじゃないかと思えるほどに。
だから、というべきなのだろうか。
今俺は、殆ど話していない事……すなわちきみ少女は本当に生きていく事が出来ないのか、
来年、また彼女のライブに一緒に、ではなくても行けないのかどうかの疑問について口にした。してしまっていた。
……きっとヨアケのライブの後で、俺らしからぬ程度に気が昂ぶっていたからだろう。
「ああ、いわゆる、私を救って世界も救う、みたいなですか?」
言われて気付く。
俺自身、かつては検討する事さえ怖いと思っていた事を、可能性を口にしている事に。
だけど、そう思ってしまったのだ。それは叶わないのか、そう考えてしまったのだ。嘘にはできなかった。
だから素直に、でも何処か渋々と頷くと少女は苦笑した。なんというか、他人事のような、楽しそうな苦笑いだった。
「おじさんが私にとっての王子様、運命の人的な、正義の味方的な人だったとしても、それは無理でしょうね。
過去同じような疑問を抱いて、精一杯足掻いた誰かの記憶も私の中にはあります。
……悲しいことですけど、皆失敗でした。
失敗して、諦めて毒を殺す事を選択しました。
だから、私は最初から諦めてるんですよ、それ。
そう簡単に諦めきれるものなのか、ですか?
いや、その記憶結構生々しいんで。
どれだけ皆が奮闘してたのが手に取るように分かるというか。
あれだけやってもダメなら、諦めるしかないなかなって。
そもそも、私、何かを変えられるような人間じゃないんですよ」
その言葉に、俺はなんとなく覚えがあった。
俺自身が、心の何処かで何度も呟いて、自分の形として納得出来るようになってきた言葉だった。
「前にも話しましたけど、蒼くなるまで私は普通だったんですよ。
あなたとは色々違うけれど同じな、どこにでもいる、一般人、一般女子、そういうものでした。
だから、こうなって暫くは、私は……正直、興奮したんですよ。
自分が死ぬべき存在だって部分を、都合良く見て見ぬふりをして、良い所だけ見て、はしゃいでたんです」
ああ、それは。
「私は物語の世界に足を踏み入れたんだって、
世界を左右する、主人公とか、ヒロインとか、そんな凄い人になったんだって……勘違いしてたんです」
すごく、よく分かる。分かってしまう。半年前の俺が、まさにそうだった。
「でも、違うんです。違ったんです。
段階を経て、代々の女の子達の、耐性を持った人達の記憶を見せられて、心底分かりました。
世界を左右しているのは、私に宿った毒であり、私自身じゃない。
私自身はどこまでも、何も出来ない……
私自身の中にある毒さえどうこうも出来ないない、毒に抗おうとも出来ない、しない、
本当に、ただのヒトでしかないんだって」
そして、今の俺がまさにそうだった。
「私は、あの人たちみたいにはなれません。
絶対に変えられないものを変える為にあがくなんて無理です。不可能です。
不甲斐無いとか、情けないとか言われても、それが私なんです」
今、俺達は互いに共感し合っていた。
この半年、ずっと一緒にいたからこそ、俺は彼女の気持ちを、彼女は俺の気持ちを共感出来ていた。
ああ、本当にそう出来たらいいなと思う。
未来を変える為にあがいてあがいてあがき抜く、そんな事が出来たら素晴らしい。
夢を追いかけて叶えたアカツキ・ヨアケのようになれたら素敵だと思う。本当に本当にそう、心から思う。
だけど、俺達にそれは出来ない。
淡白な俺は、今この時でさえ『そうやって代々があがいても無駄なら何もできないんだろうな』と判断しているし、
本質的には普通の女の子でしかない少女は自分では世界のルールを覆せないと諦めている。
そうか、そうだよなぁと彼女の言葉に、俺は心底頷いてしまうのだ。
「ホント、あなたは淡白ですね。私も、そうなんですけどね」
そう、それが、俺達なのだ。
だけど、だけれども。
そんな諦めがあるがゆえに、俺達にしか出来ない事があるのを俺は知っていた。
少なくとも、少なくとも俺達は。
「……でも、そんな私でも、いいえ、私達でも……ヨアケさんの来年を、守ることはできるんですよね」
……ああ、そのとおりだ。反論の余地など微塵もない。
俺の考えていた事そのものを少女は口にしていた。
いつもの彼女らしからぬ悲しげな、しかしそれでも真っ直ぐに前を見据える、そんな顔で。
そう、そのとおりだ。
何も変えられない俺達だけど、何も変えないままでいる事はできる。
何も変えられないからこそ、この世界を、この世界のままで、現状維持する事はできる。
無責任に全てを投げ出す事が出来ない、世界なんか背負えない、弱い俺達だからこそ、今の世界を維持する事位は出来るのだ。
俺達が好きになった、推している人のこれからを、守る事はできるのだ。
その手段が、殺される事、殺す事であったとしても。
ああ、そうだ。心の何処かで直視できないでいた。
認めよう。俺も彼女と同じように、都合の悪い部分を見ないようにしていた。
俺は半年経ったらここにいる少女を殺す。
そう契約したのに、その責任や、事実を、直視出来ていなかった。
覚悟できずに、ただ中途半端に理解して、事実を信じただけだった。
だけど、もういいだろう。
もう、分かっているはずだ。
今ここにある全ては紛れもない現実で、彼女を殺す事でしか世界は維持できず、彼女を殺す事でしか彼女の心は救えない。
あの夢のように、悪夢のような世界の中心で彼女に泣いてほしくない。
引き換えに自分が死ぬのだと殺されるのだと分かっていてもなお他の誰かの未来を願う女の子を、
そう願う事が世界を背負えない自身の弱さだと理解してそれでもなお他者の未来を願う女の子を、
俺のどうしようもない弱さで、あんな地獄に叩き落したくない。
だからこそ、契約を果たそう。
半年後、覚悟を決めて、この女の子を、殺そう。
彼女自身が殺される覚悟を、こんなにも強く固めているのに、俺だけが逃げ出すわけには行かない。
今更、そう、半年、
ともすれば家族や友人を越えるような濃密な時間を共にした彼女を一人にするわけにはいかない……いや、そんな義務感ではなく、一人にしたくなんかなかった。
……その想いは、あえて口にせず、俺は別の事を――すなわち彼女と同じ決意を、ヨアケの未来を守る事についてを言葉にした。
年上の俺の方がちゃんと覚悟できてなかったなんて、情けなくて恥ずかしすぎて本音なんて言えるはずもなかったから。
「流石、トワイライターです。
でも、そこは俺の命に代えても君の未来も守って見せるー!とか言ってくれません?」
いや話を振り出しに戻すのはやめようよ。
というか、そう言えない俺だから選んだんだろ、君、と、俺は語れない本心を冗談で包んで、うやむやにした。
「ええ、そのとおりです。
あなたは私と同じく一般人で、主人公じゃなくて、ゲームでとは言え女の子を泣かせる人間のクズです。
そう、あなたに人殺しをさせる予定の私と同じく、ですね」
ああ、君を殺す事でしか助ける事が、手伝う事が出来ない俺と同じクズだ。
そうして、俺達は決して冗談にすべきではないだろう、殺人についての事柄を、今度は明確に自覚した上で笑い合った。
部長が飛行機の準備が出来たと呼びに来るまで、泣くほどか、泣いてからか、
いずれにせよ何がおかしいのか自分達でも分からずに笑い合った。
だけど、それはその時において正しい冗談であり、笑いであったと思っている。
例え誰が何を言おうとも、その時はだけは、絶対に。
……そうして、俺の中でまた毒が回っていく。強く、深く。
そこからの五ヶ月は、基本ゆったりとした穏やかな時間を過ごすようになった。
当初の、同居し始めた頃のようにマンション中心の生活。
大体はあの頃と変わりないが、彼女は編み物、俺は絵画……
というかイラスト、その他色々な事に挑戦するようになったりで、より趣味の幅が広まった。
あと、事前に念押しされていたので若干心苦しかったが、
迷惑を承知で部長達に頼んで、ある事にも挑戦……いや、挑戦出来る足掛かりを作ってもみた。
少女に提案した時、きっと彼女は文句を言いながらも快く了承してくれると思っていたので、
予想どおり、罵倒しつつも笑って了承してくれたのが嬉しかった。
予想どおりだったからではなく、彼女がやはり俺の思うような女の子であった事が、嬉しかったのだ。
そして、彼女との生活が始まって十一ヶ月と少し。
俺の右手の甲に印が浮かび上がった。彼女と同じ色の、蒼い痣が。
そうなって、彼女も、俺も、部長も、皆も、分かってしまった。
もう、終わりなのだ、と。
「おはようございます」
同じベッドでどちらともなく目を覚まし、いつもと変わらないように挨拶を交わす。
この一年、繰り返してきた日常。非日常だった一年間での、日常。
それは、この最後の日も変わりなかった。
「今日は私が食事当番でしたね。ちょっと待っててくださいよ」
最初はどこに何があるか彼女も俺も戸惑っていたが、
今はもう眼を瞑っていても何処に何があるか分かる、そう言っても過言でない気がしていた。
そんな手馴れた様子で彼女が朝食を準備するのを眺めつつ、俺も準備を始める。
食後に飲むコーヒーの準備だ。
朝食が洋風であればともかく、
彼女の作る朝食は基本、白米、目玉焼き、味噌汁の定番和食三点セットなので、食後に飲む事になるのだ。
彼女が一番お気に入りのコーヒー豆、が既に焙煎されたものをコーヒーメーカーにセットする。
豆から準備するのは面倒だし、最初から準備されている商品があるならそれでよくない?という一部面倒臭がりな俺と彼女の意見の一致によるものである。
「いやそれを言ったら極論同じ豆から作られたインスタントコーヒーでいいって事にならない?」とたまにコーヒーを一緒に飲む事があった部長は突っ込んでいたが、俺達はそれを二人して論破(強引)して、彼女を涙目にさせた。
「いやぁ、部長さんには悪い事をしてしまいましたよね」
いやホントにね。彼女にはずっとお世話になりっぱなしだった。
勿論一年を通して俺達を護ってくれていた皆、そして俺の、彼女の目の届かない所で苦慮していただろう人達にも。
「本当に、感謝しかないですね。……じゃあ、食べましょうか」
そうして俺達は朝食を取っていく。
いつもと変わりなく、初めて見た時は感動した大画面で垂れ流すニュース番組を横目に、適当な話題を交わしながら。
いつもと変わりなく、ある一つ以外は、特別な事をしない、そんな朝。
それが、俺達が決めた、最後の時間の過ごし方だった。
そうしていつもどおりに食事を終えて、俺は席を立った。
ただ一つの、全てから逸脱した行為のために。
そう、彼女を殺す、そのために。
殺す方法は、なんでもいいらしい。
耐性を持った俺であれば、どんな手段で彼女を殺しても支障はない、との事だった
であるならば……毒だろう、と俺達は話し合った末、結論付けていた。
絞殺、刺殺、溺死、落下死などなど、どれもこれも死ぬ際に辛すぎるし、殺す側としても辛すぎるので、
互いに一番辛くない死の手段として毒殺を俺達は選んだのだ。
『世界の毒である私が、毒で死ぬって皮肉が利いてて面白いじゃないですか』
そう決めた時の彼女の言葉が思い起こされる。
そう、これまでは彼女の体質上、不可能ではないが困難な事だったが、
今は、今日は、俺の手によるものなら労せずして出来るのだ。
半年前の空港で、改めての決意の記念に、
互いの為に選び合って贈り合ったカップにコーヒーを注いだ後、俺は彼女にそろそろ入れる旨を伝えた。
「はい、じゃあ、お願いしますねー」
砂糖を入れるかのような感覚で、テレビの電源をリモコンで切りつつ、彼女は俺に告げる。
返事して、俺が棚から取り出したのは、
その手のプロフェッショナルが作ったという、苦しまずに殺す事が出来る、
飲んで数分で効果が出るという粉状の毒薬。毒を殺す為の、毒薬。
少し甘みが付いているというそれは、奇しくも、彼女の髪とほぼ同じ色をしていた。
これをコーヒーに混ぜ、彼女が飲めば、全てが終わる。
彼女が殆ど毎朝飲んでいたコーヒーに、入れてしまえば。
そう、毎朝。遠出した時も、彼女はいつもコーヒーを飲んでいた。
特別好きではないけれど飲まずには入られない、落ち着かないと呟いていた彼女。
それは好きって事なんじゃないか、いやカフェイン中毒?と突っ込みを入れていた俺。
そんなささやかなやり取りでケタケタと笑い合っていた、俺達。
そんな、一年間の記憶が……思い出が頭を過ぎる。
……そうして、俺に――毒が回り切る。
この一年間、徐々に俺を侵食していた毒が、
ここに来て、一番そうあってほしくないタイミングで俺の中で明確に形になっていた。
彼女を本当に殺すのか? 俺が?
この、少し口は悪いが、愛嬌のある優しい女の子を?
何故彼女が死ななくちゃいけないんだ?
彼女よりも死ぬべき人間は、他にたくさんいるんじゃないか?
彼女に生きていてほしいと思わないのか?
見ず知らずの大勢の誰かより、彼女の命をとるべきではないのか?
そんな、今まで浮かんでは消していた、
彼女に近付く度に浮かんでいた、
彼女への情ゆえに浸透していった迷いという名の毒が脳裏を、心を、魂を過り続ける。
そうなる事で、今この瞬間に至るまで見ないようにしていた、認識するべきでなかった、ある事実が、突きつけられる。
毒に耐性のある俺は彼女と共に生きていけるんじゃないのか、
そこで彼女を生涯慰めながら共に生きていくべきではないのか、という甘い誘惑が。
その根拠は、かつて見たあの夢。
あの夢は俺の視点から見たものだった。
基本的になんでもありな夢を根拠にするなんて、と思わないでもない。
だが、あれが彼女が語ったとおり予知夢でありシミュレーションであるならば、可能性はある。
そして……彼女はその事、俺がどうなるのかについて言及していなかった。
俺の推測は全部出鱈目で俺も死ぬから言及するまでもなかった可能性は十分にあるが、あるのだが。
毒の粉を掬い上げたスプーンが、揺れる。決めていたはずの覚悟と共に。
ああ、今なら分かる。
世界なんかどうでもいいと大切な人を選ぶ気持ちも、苦渋の末に両方救うと断言する気持ちも。
全て投げ出してしまいたい気持ちも。
俺の心の、魂の隅々まで浸透した毒が、俺を撹拌する。誘惑する。
ああ、だけど。
答は、最初から決まっていて、俺はそれを翻す事は出来ないし、しない。
だから、時間にすれば数秒の……淡白な俺に相応しい悩みを越えて、俺はスプーンを傾けた。
蒼穹色の毒はコーヒーへと注ぎ入れられ、かき混ぜられ、消えていった。溶けていった。俺のくだらない迷いと共に。
だって、そうじゃないか。
彼女は……今この瞬間、世界を選択する俺だから、契約、違う、約束したんだ。
一年間ずっと俺達が一緒にいたのは、この瞬間の為だったんだ。
そうしなかったら、この一年が嘘になる。無意味になる。
今の俺の心情を誰も理解できないとしても、誰に人殺しだと言われても、俺は、彼女を殺す。
往生際悪く毒が囁く。
今ならまだ間に合う。
無意味になるというのならこれからで、彼女と共に生きる事で意味を作ればいいじゃないかと囁き続ける。
だが、それは所詮屁理屈で、戯言だ。勝手な俺の幻想だ。
本当の事は、彼女と共に過ごしてきた時間の中にこそある。
『……でも、そんな私でも、いいえ、私達でも……ヨアケさんの来年を、守ることはできるんですよね』
ああ、彼女は確かにそう言った。迷っていたかもしれない。悩んでいたかもしれない。
でも、そう言ったんだ。俺と、自分自身に向けて、宣言したんだ。あの時、俺が彼女を殺す覚悟を決めたように。
彼女の強がりかもしれないだろう?
彼女は、本当はそういった建前を越えて助けてほしいのかもしれないだろう?
それは、最初からある程度の覚悟を決めていた彼女に対して失礼すぎる。
というか、彼女がいつか言っていたとおり、俺と彼女はよく似ているのだ。
だから、彼女はそう思わないと、そう思っていても望まないと断言出来る。
今この瞬間、毒を入れた俺と同じに。
ならせめて、お前も一緒に死ぬべきじゃないのか? 彼女一人を逝かせて、恥ずかしくないのか?
それも、彼女は望まない。そうなったら彼女はきっと悲しむ。
彼女は……自分ではなくて世界を選んだ。その世界の中には、俺も含まれているのだ。
ほんの少し、いや、正直に言おう。
どうしようもなく、悲しい、寂しい。悔しい。苦しい。
淡白な俺が、激情に駆られている、そう認めざるを得ない程に。
悲しいんだ。寂しいんだ。悔しいんだ。苦しいんだ。だけど。
『ホント、あなたは淡白ですね。私も、そうなんですけどね』
そう。今は激情に揺れていても、根本的には淡白で合理的なのが、俺なのだ。
それこそが、彼女が選んでくれて、信じてくれた……今日この時を委ねてくれた、俺なのだから。
「じゃあ、いただきます」
白いテーブルに向かい合って座り、俺が置いたカップを持ち上げ、殆ど同じタイミングで口の奥へとコーヒーを運ぶ。流し込む。
俺は三分の一ほどを、相変わらず猫舌な彼女は、ほんの少しだけを。
「……ほんのちょっと、塩っぽいですね」
そうしてコーヒーを一口飲んだ後、両手で包み込むようにカップを抱え持ったまま、彼女は笑った。
「一滴分の、涙の味です」
そりゃあ、涙の少し位は出るし、うっかり混ぜてしまったりもする。
いくら淡白な俺でも、その程度の心の動きはあるぞ、と抗議しておく。
「それは、そうですよね。……私も、その位ですけど。ええ」
少し慌てつつも静かにカップを置いて、彼女は自身の目尻からうっすら零れかけた涙を、
俺と同じく、実際には一滴よりもちょっと多めのそれを拭った。
そうして、ははは、と笑い合う俺達。
これまでと同じように、それでいてほんの少し違う形で。具体的に言えば、そう、涙数滴分。
きっと、それが、淡白な俺、いや俺達の……一年間の結果だった。
そう、思っていたのだが。
「あー。ほんのちょっとだけ後悔ですね。
もう少し位は、気楽に殺してもらうつもりだったんですけど。
でも……それが、そうなってくれた事が、ほんのちょっと心地良いです。あなたには、申し訳ないんですけど」
どうやら涙数滴分より、もうちょっとだけ涙多めかもしれない、そんな結果だったようだ。
だから俺も、少し震えていた彼女の言葉に、震えをどうにか抑えた声で同意する。
そう言ってもらったのは、正直悪い気がしない……いや嬉しい、と。
「そういう事なら、殺し殺される私達の仲なんですし、お互い様って事にしますか。
……ふふ、同意ありがとうございます。……しかし、なんでしょうねぇ」
言いながら、彼女は一年の大半を過ごしてきたマンションの一室を眺め見る。
何度も一緒に立った台所、
夜景を見ながら馬鹿な事を語り合ったベランダ、
幾つもの話題を共有したテレビ、
並んで座って寛いでいたソファー、
そして最後に、俺がパソコンで描いてプリントアウトした、
漫画調な、自業自得でそうなった水着姿に憤慨する彼女のイラストを見て、苦笑する。
「死に際になったらもっとロマンチックな事とか、真に迫ったセリフとか、
死にたくないとかの命乞いとかもっと色々出るものかと思ったんですが……ただ笑えてくるだけですね」
笑いながら、それでいて感慨深げに、一瞬だけ俺と視線を交錯させた後、彼女は目を伏せた。
そうしたまま、顔を僅かに赤らめつつ、彼女は。
「ああ、そうそう。おじさんに、最後に伝えたい事がありました。おじさん、わた」
形にしようとした言葉を途中で打ち切った。
伏せていた目は伏せたまま、顔の赤らみは時の流れの中でいつしか薄れていき。
満足げな、いやきっと満足しきった、小さな微笑みだけを、口元に乗せて。
チッ、チッ、チッ、と、時計の秒針が時を刻む音だけが響く中、そんな彼女を見て、俺は呟いた。思わず呟いていた。そうせずにはいられなかった。
ずるくないか、それ? 最後の最後でさ、と。
彼女は、それに答えなかった。何も言わず、項垂れて、微笑んだままだった。
気付くと、彼女の髪は、黒く染まっていた。いや、きっと元に戻ったのだろう。
そうして、ごく普通の少女は、現状維持を成し遂げて、世界を救って、眠りについた。
「……これからどうするの?」
一週間後……春が近付いているのに一番の冷え込みを見せる二月を越え、
あたたかさを帯びてきた三月の空気を肌で感じながら、彼女と俺の為のマンションから歩き出して、少し。
そこで待っていた、ずっと俺達を見守ってくれていた部長が声を掛けてきた。
「……そう。そんなにショックだったのね。これからずっと引き篭もって生きていく、なんて」
いやいや、引き篭もりたいのは昔から変わらないですから。
不労所得で生活したいってずっと思っていましたし、彼女にもそう語っていましたし。
「私が言うべきことじゃないけど、それでいいの?」
それは彼女に顔向けできる生き方なのか、という意味なら、俺は堂々と胸を張ってそうだと肯定・断言出来る。
もしもあの世があるのなら、彼女はきっと笑ってくれるだろうから。
それに……俺は、彼女を、人を殺したのだ。
もう、元々の生き方は出来ないし、
家族や友達にどんな顔をして会えばいいかも分からない、いや会うべきですらないのかもしれない。
誰であれヒトに関わるべきではないのかもしれない。
「いや、それは……世界を、彼女を、救う為に……必要な……っ!」
部長の気持ちはありがたかったが、どんな理由であれ、俺が人を殺した事に変わりはない。
その事実を捻じ曲げちゃいけない。
全てが終わった後、俺は裁かれてもいいと思っていた。
部長達はそうしないだろうけど、結果として梯子を外されて、
全てを明らかにされた上で死刑になる可能性も俺は考慮していた。
淡白な俺なりに覚悟していた。
結果から言えばそうはならなかった。
だけど、罪に問われなかったとしても、俺は彼女を殺したのだ。
そして、彼女もまた、自分を俺に殺させた。どんな理由があれ、それを俺にさせたのだ。
互いに背負いきれない罪悪感を負う事を承知の上で、俺達はそうしたのだ。
……だけど、抱え込み過ぎは彼女を悲しませてしまうだろうから、
彼女を悲しませない程度には、難しいけれど、どうにか楽しく生きていこうと思います、と部長に告げる。
というか、そんな事よりも二人で頼んでいた事は大丈夫なのかが俺には気に掛かった。
折角だから、もう会えないかもしれないからと問い掛けると、
戸惑いと悲しみが入り混じった表情だった部長は、咳払いで場を整えてから告げた。
「大丈夫、貴方達の詳細なデータはちゃんと分析させるわ。貴方達が身を粉にしてくれたものだから」
いや、そんな大げさなものじゃないですし、と否定しておく。
半年前、俺達は俺達では何も変えられないけれど、
次の二人が何かを変えられる可能性を考えて、より詳細な俺達のデータ収集を提案していた。
科学は日進月歩、俺達以前の二人が生きていた時代では分析できなかった事もできるようになっているのだ。
そして、世界がバックアップについている俺達ならその全てを調べてもらえる。
皆に迷惑を掛けるのは申し訳なかったが、折角可能なのだ、しっかり利用しない手はない。
それに加え、俺達は毒への対抗手段について、俺達以前の二人が試していない事にチャレンジしていた。
なんというか、まぁ、色々と。
ゆったりな生活を崩さない程度に時間を割いた上で、何がどう影響するのかわからないので手当たり次第に。
実はイラストとか編み物とかも楽しみを兼ねたその一環だったりしたのだ。
それらは、俺達のプライバシーや人権とかそういった、
かろうじて尊重されていた事に一歩踏み込む提案だったが、
それで誰かが救える足掛かりくらいになるのなら悪くない、と俺達の意見は一致した事で実施された。
俺達は現状維持が精一杯だったけど、次の誰かは、こんな……こんな事を終わらせられるかもしれない。
それはとても素敵な事だと、俺達は思ったのだ。夢見たのだ。
「……申し訳ないけど、そうはならないかもしれないわ。
もっと残酷な事を言うのなら、次の二人は、そもそも全部放り出して逃げるかもしれない……」
まぁそれが当然な気はするから、そうなったとしてもそれはそれで仕方ないのだろう。
むしろ今まで続いていた事が奇跡的なのだ。
俺達は弱かったから逃げた上で素知らぬ顔で生きる事は出来なかった。
逃げて自責の念の駆られて死んだように生きるのなら、しっかり死んだ方がいい。
俺達はそう判断して実行した。それだけだ。
「弱くなんかないわ。貴方達二人は、自分の責任に向き合って、為すべき事を為し遂げたのよ。
貴方は現状維持が精一杯だって嘆くけど、その現状維持で私達は今生きているの。
貴方達が、世界や自分自身に絶望せずに、
自分以外の誰かの為に、死にたくない、殺したくない気持ちを押し殺してくれたから、今があるのよ。
忘れないで。
私は、ずっと貴方達二人を見てきた私達は、
貴方達が世界を守ってくれたって、ちゃんと知ってて、それを忘れたりはしないって事を」
真っ直ぐに俺を見据えての彼女の言葉は、嘘偽りのない、綺麗な感情が込められていた。
そう伝わってきた。
そう、こういう人だから、こういう人達がいてくれたから、俺達はこの一年を楽しく過ごす事が出来たのだ。
「いや、その、礼を告げるのは私達の方だと思うんだけど……」
恥ずかしそうに頬を掻く彼女は微笑ましく、俺と同い年だと思えない程に可愛らしかった。
そうして、話を終えて、互いの無事と感謝を述べて彼女と別れ、歩き出し……ふと立ち止まって、思う。
結局、毒はなんなのか、という事。何の思惑を持って作られたのか、という事。
少なくとも、毒を作った何かしらは自己犠牲を肯定しているのだろう。
こんな状況は、巻き込まれた人々に自己犠牲精神、
もしくはそれに類似している精神性……例えば俺のような淡白で合理的な……がなければ成り立たない。
それこそ、とっくの昔に世界が滅びてもおかしくはないのだ。
そういう、誰かの為に自分を捨てる瞬間を見たいだけなのだろうか。
それをもって、人間の善性を試しているのだろうか?
彼女達が語ったように、人間に価値があるかないか、生きるべきか死ぬべきか試験しているだけなのだろうか。
……根拠はないなんとなく、なのだが。
俺には、試験は体のいい理由でしかなく、
世界が滅びるという状況への対処の中で起こる関係者の感情の動きを見たいが為に作られた都合のいい舞台装置のように思えてならなかった。
そもそも、一年を共に過ごした後で、その対象を殺すという行為……人間の善性を見る為にしては悪趣味が過ぎるのではないだろうか。
もしかしたら、そういったあれこれを踏まえてもなお、
世界を選べるような精神を見たいのかもしれないが……いずれにせよ、答は恐らく出ないのだろう。
あるいは、そうあるいは、これらを含めて、まだ俺達人類は試験の最中なのかもしれない。
試験を終えたはずの代々の毒の少女達や俺達、全てひっくるめて、まだ試験は終わっていないのかもしれない。
俺の右手の甲に未だ残っている痣がその証のように、俺には思えた。
全てが終わったら、髪の色が戻った彼女のように、俺の痣も消えるはずだったのだ。
だが一週間経って、彼女の埋葬が無事終わって、未だ世界が続いているのに、消えていない。
これは、何かを変えられないはずの俺達がやってきたなにかしらが、知らず何かを変えていたのだろうか。
問題は手当たり次第やりすぎて、何がこうなった直接的な原因・理由なのか全く分からないという事なのだが。
『なんとも締まりませんね。まぁ、私達らしい気もしますけど』
彼女がいたら、そんな事を呟いて微笑んでいるだろう。
そう思うと、なんとも笑えてきた。
正直、まだ少しだけ泣きたい気分だけど笑えていた。
まぁ、その辺りは、おいおい考えていく事にしよう。
彼女が作って、贈ってくれた蒼い毛糸の手袋の奥で疼く痣を、ポンポン、となんとなく叩いて、再び歩き出す。生きていく。
俺は、少女よりも世界を優先した淡白な男だ。
そうして、少女を犠牲に選んだ世界を、
誰に厚顔無恥だと言われても、あーはいはい、そうですね、と受け止めながら生きていこう。
互いの在り方を変える事すら出来なかった俺達が、それでもあの日々は幸せだった、と胸を張る為に俺は生きていきたいのだ。
俺が、俺達が笑い合って生きた、この世界を続けたいのだ。
……とりあえず、アカツキ・ヨアケの活動二周年記念ライブ、いや彼女が活動を終えるまでは世界が続く事を、俺は願った。
俺と過ごした彼女の色と同じ空を見上げながら。
……終わり。