第二十九話 真偽交差
 

 









「ひょっとして貴方……結構嘘吐きさんなんですか?」

 今日初めて会った……と思い込まされている……青年との会話の中、美坂栞はそう言った。
 青年こと月宮紫苑は、栞の言葉に苦笑しつつ答える。

「急にどうかしたのかな?
 さっきまで僕達は普通に楽しくお喋りしていただけだと思ったんだけど」
「……突然変な事を言ってしまったのはごめんなさい。
 ただ、さっき”予想外の事が起きて驚いただけ”と言った貴方の顔は”だけ”という言葉以上に凄く驚いていた気がしたので、なんとなく」
「ふむ。仮に君の言う事が事実だったとして、君が何故そんな事を口にするのか僕には理解できないんだけど。
 僕はあまり気にしないけど、人によっては少し不躾、不快に思われるんじゃないかな」
「えと、その、すみません。
 私自身も上手く言葉に出来ないというか説明出来ないというか。
 ただ、その、なんでそんな事をするんだろうって、思ったら、つい口にしてたんです」

 少し俯き気味に呟く栞の頭には、かつてある”嘘”を吐いていた姉・美坂香里の事が過ぎっていた。
 そして、その浮かんだイメージのままの言葉を彼女は紡いでいく。

「その、ちょっと前まで、嘘を吐いてたお姉ちゃんの事を思い出してしまったからかも。
 あ、お姉ちゃんは全然悪くないんですけど。
 えーとですね、さっきの貴方の顔を見てたら、その時のお姉ちゃんの辛そうな顔を思い出してしまって……。
 だから、そんな風に無理に嘘を吐いて、動揺を隠そうとする必要があるのかなって……その、ごめんなさい」

 そう言って栞は小さく頭を下げる。
 そんな栞の姿を見てか、紫苑は再び苦笑した。
 ……ただ。その笑みは先程とは微妙に何かが異なっていた。

「そうか。
 別に無理に嘘を吐いていた覚えも、辛そうな顔をしてた覚えはないけど……そういう事なら君の言葉もしょうがないと思えるよ。
 じゃあしょうがないついでに君の疑問に答えてみようか」
「え?」

 その発言は、紫苑の役割上の戯れだった。
 栞とそれなりの親しさの顔見知りになっておく必要性を加味した、気まぐれの会話。
 そんな紫苑の発言に戸惑う栞に、紫苑は気まぐれ気分のまま言葉を重ねていく。

「僕が嘘吐きかどうかって話だよ。
 そうだなぁ、まぁどちらかと言えば、嘘吐きだね。
 ただ、一つ言わせてもらえるなら、嘘を吐かない人間はいない。
 皆多かれ少なかれ嘘を吐く。何かを……多くは自分を守るためにね。
 まぁ稀に他人を守るために嘘を吐く人間もいるけど」
「……貴方はどちらなんですか? さっきのがもし嘘なら……」
「……。
 どちらもご想像にお任せするよ」

 そう呟いた紫苑の表情は、先程の栞が気に掛かった表情とほぼ同じものだった。
 そんな青年の表情を、栞は何処かで見た気がした。
 彼に良く似た誰かがほぼ同じ表情を浮かべていた気がするのだが……その誰かが何故か思い出せなかった。

 ただ、それはそれとして。

「……むぅ」

 その表情は、栞にとってあまり肯定出来るものでないのは確かだったので。

「まぁ貴方がどちらかはさておき……私の前ではあまり嘘を吐かないでくださいね。
 その度にそういう表情をされると、どうも気になって仕方ありませんから」

 気付けば、栞はそんな事を呟いていた。

「ん? 僕の表情が気に食わないと?」
「気に食わないとかじゃないですけど……どうもさっきの顔は落ち着きません」
「ふむ。話から察するに君は嘘が嫌いで、だから君の主観で嘘を吐いている様に見える表情が気になるのかな?」
「気になる云々は分からないですけど、少なくとも、嘘が好きだ、なんていう人はそういないと思います」
「まぁ一般的にはそうかもだね」
「そんなわけなので、私と話している時は、さっきの表情をしないように常に本音で気を楽にして話してください」
「いや、そんなわけなのでと言われても。
 そもそも君の言う表情がどういうものなのか……」

 ニコニコと自身の結論と要望を告げる栞とは対照的に、困り顔を浮かべる紫苑。
 そんな紫苑に追い討ちをかけるように、栞は笑顔を浮かべたまま先程と同じ言葉を繰り返した。
 言葉一つ一つをあえて区切りつつ強調しながら。

「常に。本音で。気を楽にして。話してください、ね?」
「……」

 剣幕……とするには違和感のある静かな圧迫を受けて、紫苑はなんとなく言葉を失った。
 別に気圧された訳ではないのだが、二の句が告げなかった。

 それについて紫苑は、彼には栞の正確な心情が理解出来なかったからだ、と考えた。
 為すべき事の必要上、美坂栞という少女の今に至るまでの出来事や思い出、情報は把握している。
 だが『月宮紫苑』そのものに向けられる感情は現在進行形なので正確な分析が出来ず、今後の為の適切な言葉が選べなかったからだ、と。
 
(……どうにも、新鮮だね)

 昨日までの紫苑的には、彼女達と接する事は計画に入っていたのだが、こういうやりとりは想定の範疇を少し越えていた。
 少なくとも、昨日まではもう少し当たり障りのない会話や関係での”刷り込み”を望んでいたのだが、自身の気紛れによりその思惑は趣を変えつつあった。
 
(まぁ、悪くはないから、いいか)

 ただ、それはそれとして。
 彼女の発言意図・感情について正確な把握が出来ていないにせよ、栞の言動が他ならぬ自分を思いやってのものである事は理解出来た。
 だからなのか。

「ふむ。分かったよ。
 僕的に因果関係が理解できないけど、君の気に障る表情をしないよう、君の前では嘘を吐かない。約束する」

 紫苑は素直に栞の要望を受け入れていた。
 彼が抱えているものや、彼女達のこれからと、今のこの時間は関係ないと判断して。
 この程度ならば、自分が行うべき事に何の影響も与えないと確信していたがゆえに。

「ありがとうございます。
 そうしてくれると嬉しいです」

 紫苑のそんな思考を知る由もない栞は、彼の答が嬉しかったからか、浮かべた笑みを崩さないままに礼を告げ、嬉々とした様子で紫苑との会話を続けていった。

「じゃあ、包み隠さない会話の第一歩として、まず貴方のお名前を教えてください」
「それは無回答で」
「ええ〜? さっき嘘は吐かないって言ったじゃないですかー!」
「嘘は吐かないけど話したくない事について黙秘しないとは言ってないからね」
「むー。意地悪ですね」
「よく言われるよ。……さて。
 君とのお喋りは楽しいが……そろそろ行かなくちゃ」

 話に一区切りついた頃、紫苑は話はここまでとばかりに噴水の縁から立ち上がる。
 座ったままの栞は、臀部の埃を叩き落とす紫苑に不満そうな視線を向け、少し唇を尖らせた。

「えー? まだ名前も聞いていないのに……」
「悪いね。何か携帯に連絡があったもので」

 紫苑は栞を宥める様に笑顔を浮かべながら、振動する携帯電話を掲げて見せた。
 それを仕舞い、やれやれとばかりに肩を竦めて紫苑は言葉を続ける。

「まぁ、また近い内に会えるさ。君のお姉さんやその彼氏共々ね。
 名前はその時にでも改めて名乗るよ。
 じゃあ、いずれ近い内に」

 ヒラヒラと手を小さく振りつつ、栞に背を向け、歩み去っていく紫苑。

「……ん? あれ?」

 途中までそれに手を振り返しつつ見送っていた栞だったのだが、一つ気に掛かる事が頭に浮かび、思考をそちらに移行させる。
 数秒程度、顎に手を当てて考え込んでいたが、自分だけでは答が出ないと判断した栞は、まだ声が届く範囲だろうと声を上げた。

「あの、私、貴方に北川さんの事話しましたか……? って、もういない……?」

 しかし、その疑問をぶつける相手は、既にそこにはいなかった。
 周辺は見渡しがよく、隠れるような場所などなかった……にもかかわらず、青年の姿を見つける事が栞には出来なかった。

「……なんなんだろう」

 三度零したなんとなくの呟きが、青年についてなのか、自分の中に湧き上がっていた何かの予感へのものなのか、栞には分からなかった。











「つまらない邪魔が入ったもんだ」

 栞との会話から数分後。
 彼女といた場所から少し離れた遊歩道で、携帯を閉じつつ紫苑は呟いた。
 その表情は、栞に見せていたものとはまるで違う、心底うんざりしたものだった。

「自己保身ばかりの人間は嫌になるね。全く」

 栞との会話の最中掛かってきた電話の相手は、紫苑にとって護衛対象というべき存在である政府の人間だった。
 その、異能管轄組織たる『亡霊』の存在を知る男との電話は、紫苑としては大した実もない、くだらないものでしかなかった。 

 平たく言えば、近々身内での重要な意見交換会があり、
 その際異能者に狙われるかもしれないから自分達を護衛するように……という命令。
 より正確に言えば、その命令の形をした、紫苑を初めとする『亡霊』の異能者達を政治に、否、自分達の利益の為に利用したいという要望。
 それが先程まで携帯で交わされていた会話の内容だった。

「ホント呆れるね、どうにも」

 最早異能者らしい異能者など、彼らを狙う者など、一部を除き殆ど存在していないというのに。
 いや、その事を分かっているからこその言葉なのだろう。
 彼らのような人間が本当に命を狙われているのなら、もっと違うリアクションを取るだろう事を紫苑は熟知していた。

「フン。まぁいいさ。
 折角の食い扶持だし、国の害にならない程度には付き合おう。
 ……ただし、こちらを全て終わらせてからだけど」

 そうして薄い毒を吐き捨てた後、紫苑の思考は完全に切り替わっていた。
 言葉にしない思考、その先にあったのは、ほんの少し前……栞との会話の最中、水瀬秋子により破られた”事実の封印”の事に他ならなかった。  

(さて、秋がアレを破ったとなると、怒り心頭でこっちに向かってくるかも……いや、それはないか)

 水瀬秋子が極めて優秀な、最良の結果の為ならば一時の激情を押し殺せる人物である事を紫苑は理解している。
 彼女がそうして感情的な短絡思考を実行に移すような人間であれば今現在紫苑は苦労していない。

(むしろ、それがアレの厄介な所だな。
 だからこそ十三年前になんとかしたかったんだが……)

 十三年前時点での水瀬秋子の排除。
 その目論見は2つの理由で出来なかった。

 1つは、そもそも『水瀬秋子』という存在が『Kanon』という箱庭世界にとって必要なものだったから。
 もう1つは、水瀬秋子という存在を別の何かで補填した上で排除する案そのものを、草薙由祈の行動によって封じられてしまったからである。

 そういう流れを踏まえて考えるのなら、十三年前は草薙由祈を排除出来ただけで十分だと紫苑は思わざるを得なかった。

 もし現在も草薙由祈が存命で、秋子と手を組んでいたのなら、今以上に厄介な事態になっていただろう事は想像に難くないからだ。

(……今以上に、か)

 紫苑はたまに思考する。
 今の状況は、本当に自分の思い通りに推移しているのかどうか。
 
 確かに、ほぼ全てが予定通りに動いている。
 イレギュラーな事態も幾つかあるが、それを抑え込む算段も既に準備済み。
 そして、紫苑自身が油断無く事に当たっている以上、最終的には全てが丸く収まる、その筈だ。
 ゆえに今以上に厄介な事など起こり得る筈がない。

 だが、気に掛かる事、不安要素が皆無なのかというと……。

(あの時、草薙由祈は何故笑っていた……?)

 十三年前、紫苑は由祈を悉く上回り、封殺し、確実に止めを刺した。
 にもかかわらず、彼女は最後の最期で笑っていた。儚くも、強く、楽しげに。
 
 あの笑みの意図を、今もって紫苑は分からないでいた。
 単なる負け惜しみとして浮かべたものだったのか、全てを調和に導こうとする『月宮紫苑』への何かしらの哀れみなのか、あるいは最終的な勝利……ありえない筈の……を確信しての笑みだったのか。

 その辺りが気掛かりといえば気掛かりなのは確かであった。
 
 だが。

「……まぁ考えても仕方がないか。
 それに死者は所詮死者。今の状況を動かせはしない」

 そう。
 死者がこの世界に為せる事等何もありはしない。
 由祈の笑みに何か意味があったのだとしても、ただの感情、表情が今この時に影響を与える筈もない。
 少なくとも、紫苑はそう考えていた。
 
 万が一、あの時に何かを仕掛けており、由祈が勝利を確信していたのだとしても、その全てを抑え込む自信が紫苑にはある。
 ……全てを抑え込み、全てに勝利しなければならないからこそ、その自信があるのだ。 

「草薙由祈。
 あの世で精々笑っていればいいさ。
 自分の息子達の顛末を見届けた上でそれが続けられるというならね」

 だからこそ、紫苑は自信満々に誰にともなく……強いて言えば、由祈を始めとする自身に挑んだ、あるいは挑んでくる者達に笑って見せた。
 過去、現在、未来、その全てに打ち勝たんとする意志を示すように。
 浮かんだ僅かな疑念を吹き散らすように。
 ……それが独りよがりの宣言だと分かった上で。

 そんな一人遊びの中、紫苑はふと思った。
 今の自分の表情を美坂栞が見ていたのなら、彼女の眼にはどう映っているのだろうか、と。

 そして、そんな些細な思考が、紫苑にはなんとなく楽しく思えた。










 ……続く。

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