第二十七話 過日真解
「これから、どうしましょうか」
ものみの丘を降りた天野美汐は『真琴』にもらった羽を改めて手にし、ぼんやり眺めながら呟いた。
(この羽に秘められた力を活用すべきなんでしょうが……)
実際の所、この羽に何が出来るかなど美汐には見当もつかない。
力の軌跡を見る事は出来ても、能力そのものを把握するのは美汐にとって専門外だ。
「やはり、命さんに尋ねるべきなのでしょうね」
そう考え、とりあえず命の個人病院に向かおうと美汐は歩き出した。
決めたとおりに来た道を戻り、暑い日差しの中、自分のペースで進んでいく。
そこには何の迷いも生まれ出るはずはなかったのだが。
「……え?」
途中の分かれ道で美汐は何故か足を止めていた。
自分の認識の外で、体が逆らっている?……否。
「羽が……」
美汐は気付いた。
首からぶら下げている羽が薄く光を放っている事に。
その光が自分を導こうと、僅かに『力』を放ち、動きを制限している事に。
「……あっちにいけと?」
その言葉を肯定するように。
羽は僅かに浮遊し、美汐の行こうとしていた道とは違う道へと美汐を引っ張るような動きを見せていた。
ソレを見て、美汐はあっさり決意した。
「……分かりました。そちらへ進みます」
”彼”と真琴の母親たる『真琴』が託した羽。
ソレを信じなくてどうする、という思いもあり、美汐は羽が指し示す道へと歩を進めていった。
その先に待つ何かに、この状況を打破する鍵があると信じて。
一方、その頃。
「捨てられたって……
私もって、どういう事なの、真琴……?」
自分に投げ掛けられた沢渡真琴の言葉に、水瀬名雪は戸惑いを隠せずにいた。
戸惑いを隠せなかったのは言葉だけが理由ではない。
そこにいる妹と呼べる存在の、様々な感情が入り混じった表情に驚かされていた。
彼女は基本シンプルな感情発露の形しかなかったし、名雪はソレしか知らなかった。
そんな真琴に戸惑い言葉を返せないでいる名雪に、彼女は静かに言葉を続けた。
「祐一は、いつもそうなの。
自分の都合で誰かを切り捨てて、切り捨てた事さえ忘れる。
真琴も、名雪も、舞も……あゆだって」
夏の陽射しにさらされ、汗を掻き続ける真琴。
滝のように流れる汗が眼に入ってもなお、気にも留めず、彼女は言葉を紡いでいった。
「……どういう、こと?」
「話しても信じてもらえないから、いいよ。
というか、信じてもらわなくていいよ。
祐一に選んでもらった名雪には。
あ、でも、名雪も同じになるのかな、真琴達と」
「え……?」
「…う?」
瞬間、真琴は顔を顰めた。
何か痛みに堪えるような、そんな表情だった。
「あぅ……?!」
「ま、真琴ッ? どうかしたの?」
妹の異変に慌てて駆け寄ろうとする名雪。
そんな名雪を手で制して、真琴は言った。
「だ、大丈夫……
それより、その……変な事、言ってたみたいで、ごめんね。
なんか、真琴……おかしいの、最近。
……黒い気持ちが、抑え切れなくて…でも……」
そこまで言うと、真琴は何かを振り払うようにブンブンッと頭を振った。
「ごめん、なんでもない……」
「なんでもないって……そんなこと…」
「な、なんでもないのっ。
ほら、こんなに元気なんだからっ」
心配げな名雪に対し、真琴はブンブンと腕を降ったり、体を大きく動かしたりして見せる。
「ホントに、大丈夫なの……?」
「ホントにホントよぉ」
「……。
それなら、いいんだけど……」
「真琴は……ホントに大丈夫だから。
真琴の事より、名雪は自分の事を考えてた方がいいよ。
折角、祐一に選ばれたんだから。
今、祐一が名雪の事を大切に思ってるのは、今の真琴にも分かるから……
だから、幸せに、ならなきゃ」
懸命に笑顔を作りながらそう言い残し、真琴は足早にその場を去っていった。
「あ…」
その背に何か言葉を掛けようとした名雪だったが、結局言葉が思いつかず、
伸ばした手は宙を彷徨うばかりで、その間に真琴は路地の向こう……何処かへと走っていってしまった。
あの様子だと、少なくとも体の方は心配要らないだろう。
そう考えながら伸ばした手をゆっくり下ろす名雪。
真琴の事にとりあえず安堵した後、名雪の思考は別の事へと移行していた。
『祐一は、いつもそうなの。
自分の都合で誰かを切り捨てて、切り捨てた事さえ忘れる。
真琴も、名雪も、舞も……あゆだって』
「……切り、捨てる……」
取り残された名雪は、真琴の発した言葉で印象に深く残ったものをなんとなく呟いていた。
確かに、そうなのかもしれない。
相沢祐一は、確かに色々なものを切り捨てている。
特に過去にまつわる記憶、それに関係する人間関係。
自分の痛みからいつもいつも逃げ出している。
少なくとも、一年半前までは。
「私も、また、いつか……?」
自分が抱いたイメージを、名雪は懸命に振り払おうと頭を振った。
「そんな事、ない……!
それに、真琴も言ってたじゃない……
祐一は……」
今、自分を思ってくれている。
そのはず。
そのはずなのに……。
「……っ」
頭に浮かぶのは、祐一を抱き締めるあゆの姿。あゆに抱き締められるあゆの姿。
そうして頭に浮かぶ二人の姿を、そこから湧き上がる疑念を、名雪は振り払う事が出来なかった。
……名雪は、まだ気付いていない。
そんな自身の思考が、誰かにとって都合の良い様に方向付けされている事を。
そんな思考操作の種を、かつて『黒い沁み』という形で植え付けられている事を。
いまだ、気付いていなかった。
(墓には毎年行っているけど。
……ここに来るのは、何年振りかしら)
そんな自身の娘の状況を知っているのか知らないのか。
亡霊の為の”図書館”を出た水瀬秋子は、暑い日差しの下、浮かぶ汗を拭きながら歩き続け、ようやく辿りついたその場所を見据えていた。
そこは何の変哲もない路地裏。
少なくとも、見た目においてはそうだ。
だが、秋子にとっては……いや、秋子の他数人の人間達にとってはただの場所ではなかった。
十三年前。
ここで二人の人間が命を落とした。
一人の名前は草薙由祈(くさなぎ ゆき)。
様々な理由ゆえに本当の名を捨てた、草薙紫雲と草薙命の母親。
雪のような白髪をした、儚げでありながらも強かった女性。
もう一人の名は草薙一真(くさなぎ かずま)。
旧姓は白耶。
草薙家に婿入りした、草薙紫雲と草薙命の父親。
強き体とそれに見合った魂を持った男。
彼らは此処で車に轢かれ、事故死したとされている。
少なくとも草薙命、草薙紫雲がそう思い込んでいるのは紛れもない事実。
いや、水瀬秋子自身、そうだと思っていたのだ、つい最近までは。
命にはそれなりに話してある事なのだが、秋子と草薙家の関係は深いもの。
千年もの長きに渡り続いてきた絆が、そこには存在している。
ゆえに、秋子は事故について不審に思っていた。
『草薙家』が寿命や”敵”以外の事で死ぬ事など殆どない事を、強い一族である事を知っていたからだ。
それは秋子にとって確信と呼べるものだった。
だが、何度科学的に調べても、様々な術を行使して調べても、真実は変わらなかった。
何をどう検証しても、事故死と言う結果は覆られなかった。
すなわち、二人は事故で死んだという事実以外ありえない。
ゆえに疑念を感じながらも、秋子は事故死と言う結果に納得せざるを得なかったのだ。
だが、秋子はここ数日の間様々な事を調べ、かつてから持ち続けていた疑問をより強く抱き始めていた。
えいえんのせかい。
空の少女、星の記憶と関わりを持つ世界。
それにまつわる人間の関係者達の記憶の欠落。
親しい人が消えたにもかかわらず、誰も気付かずに回り続ける世界。
『えいえん』に関する事に付き纏う不可思議な感触と、この事故に感じる微妙な違和感。
ソレは秋子の中で、同じだと感じられるものだった。
仮に秋子の直感が正しく、その二つが同じものなら。
同じだと認識できる事実を認識できず、繋げられないだけだとすれば。
そこには、きっと何かが隠されているはずなのだ。
隠されなければならないような、重大な意味を持つ、何かが。
強引なコジツケなのは百も承知。
そもそも、事故はさておくとしても、えいえんのせかいについて人為的作為の可能性は未知数なのだ。
しかし、その二つは、それぞれ秋子が頭の中に作り上げている一連の出来事を形にした一つの『せかい』のパズルの欠片に他ならない。
単体では繋がらなくても、其処を繋ぐピーズさえあれば、その部分の絵……真実……が見えてくる。
今の秋子の中には、そんな確信めいたものが浮かび上がっていた。
だが、そう確信していても、現実的にはソレを埋める為のピースが欠けている。
「問題は、それをどうするか、ね……」
そう呟いて、秋子が頭を悩ませていると。
「秋子さん?」
突然に聞き覚えのある声が響く。
思考に集中しすぎて気配への注意力が散漫になっていた事に反省しつつ振り向くと、そこには最早自身の娘たる真琴の親友である天野美汐が立っていた。
「美汐ちゃん、何故ここ……?!」
何故ここに。
そう問おうとしていた秋子の口が止まる。
秋子の視線と意識は、美汐がネックレスのようにぶら下げている羽に注がれていた。
「どうか、されましたか?」
「美汐ちゃん、それは一体……?」
「あ、その」
戸惑う美汐だったが、秋子が『関係者』である事を命から聞かされた事を思い出し、告げた。
「ものみの丘の妖狐の長から託されました。
真琴と、真琴が愛する世界を護る為に」
「……そう、なの。
あの子が……託してくれたのね」
美汐の言葉を聞いた秋子は、何かを考え込むように、あるいは何かに想いを馳せるように数瞬だけ瞑目した。
「どうか、されましたか……?」
「なんでもないわ」
心配げな美汐の声音に答えるように、秋子は眼を開いた。
彼女の眼は、視線は、白い羽へと注がれている。
その視線をゆっくりと美汐の眼に持ち上げながら、秋子は言った。
「美汐ちゃん、一つお願いがあるんだけど、いいかしら」
「なんでしょう?」
「私に、その羽の力を少しだけ貸してくれないかしら」
そんな秋子の提案に、美汐は眼を瞬かせた。
それは、その言葉の意味を、目の奥、頭に沁み込ませるような、そんな瞬きだった。
「くっそ、ここから大学病院までは遠いよな」
倒れたあゆを抱きかかえる祐一は、遊歩道を歩きながら舌打ちせんばかりの独り言を漏らした。
タクシーを使うべきなのだろうが、手持ちの資金は殆どない。
というか、そもそも呼べるような場所でもない。
少なくとも車が来れそうな場所まで出なければならないだろう。
しかし、そんな場所まで出たのなら、いっその事……。
「ここから最寄の病院で診て貰った方がいいかもな」
そう結論付けた祐一は、記憶の中にある近所の病院を検索開始した。
ここから最寄の病院と言えば……
「あ……そうだ、確かあそこの、雑居ビルにあったよな」
一つ明確に思い出せる『場所』があり、そうして祐一は地面を蹴って、走り出した。
自分が向かう先。
そこが相沢祐一の記憶にありながらも記憶にない場所だと知る由もなく。
「では、お貸しします」
断る理由など何一つない。
それが、かつて自分と真琴を護る為に車に轢かれた水瀬秋子ならなおさらだ。
そんな思考を経て、美汐は羽を秋子へと差し出した。
「ありがとう」
大事なものだと感じさせる動きで美汐は、秋子にそれを手渡す。
秋子は美汐同様、壊れやすい大切なものを扱うような繊細さ・丁寧さでそれを受け取る。
微笑みながら礼を告げつつ羽を受け取った秋子は、優しくソレを握り締めた。
かつて話に伝え聞いた、もう一つの翼の一族が残したもの。
ソレにまつわる様々な出来事を思い返しながら、秋子は羽に念を込めた。
もしもここに。
全てを覆い隠すような強力な『結界』が張られており。
それを為したのが秋子の想像通りの人物だとすれば……『同種』であるこの羽を持って、結界を破壊するのは不可能ではないはずだ。
「もしも、此処に偽りあらば。
消え去り、誠を此処に示せ……!」
秋子が言葉と念を発した瞬間。
何かが割れるような音が周囲に響き渡った。
「あなた、面白い人ですね」
「そうかな?」
クスクス、と美坂栞は笑っている。
その側で笑っているのは、栞は忘れているが、彼女がかつて知っていた青年と同じ顔をし青年だった。
少し前。
今もいるこの公園で美坂栞は絵を描いていた。
その最中、彼女は風に弄ばれたのか、スケッチ用の鉛筆がひとりでに転がっていくという事態に見舞われてしまった。
不思議な事にいつまでも転がり続けるを追いかけていった先で、一人の青年がたまたまそこに通りかかった。
青年は転がり続ける鉛筆を拾い上げ、鉛筆を追ってきたと思しき栞に優しく渡した。
栞は青年に礼を告げ、その流れでなんとなく雑談を始め……今に至る。
青年が話し上手だからなのか、二人は『初対面』だというのに不思議と言葉を交わし続けていた。
二人はそうして、約30分程世間話を続けていたのだが。
「………っ」
そんな雑談の隙間で。
青年が微かに眉を、あるいは表情を動かすのを栞は見逃さなかった。
「? どうかしたんですか?」
「ん。少し予想外の事が起きて驚いただけだよ。
……正直、あれを破られるとは思わなかったな」
その顔は、おどけていた。
だが、栞には分かった。
かつて姉の『嘘』を見た美坂栞だからこそ、気付く事が出来た。
その青年が浮かべていたものが、感情を……動揺を覆い隠そうとする笑顔だった事に。
「………なんですか、これは」
美汐は其処に広がっている光景に、そう呟かざるを得なかった。
何の変哲もなかった場所に、SFの立体映像のように広がっている光景。
雪が降っていた。
血塗れの男がいた。
血を吐き、跪く白髪の若い女性がいた。
白い衣装を身に纏い、指に何枚もの御札……そうとしか見えない……を持つ女性がいた。
黒いラフな格好をした、人形を握り締める女性がいた。
その四人が睨みつけ、見据える先には。
彼女が写真で知る草薙紫雲……その顔にそっくりで、それより少しだけ歳経た男が笑顔で立っていた。
それらの『光景』は、揺らめきながらも秋子と美汐の眼に確かに映っていた。
「……美汐ちゃん、見えているのなら覚えていて。
そして、私が今から伝える事を、命に伝えてくれるかしら」
「え?」
「万が一、私がコレを伝えきれなくなった時の為に」
「は、はい」
戸惑いながらも頷く美汐。
そんな彼女を刹那だけ意識の外にやって、秋子は呟いた。
「……やはり、そういうことだったのね。月宮紫苑」
その表情は、苦く、暗いもの。
「貴方がココでやっていた事、その意味、確かに理解したわ。
………………そして」
今まで気付かなかった真実に気付き、その事実に唇を噛む秋子の姿がそこにはあった。
「貴方が殺したのね。由祈と一真を」
…………………続く。
戻ります