第二十六話 忘却追想
水瀬名雪が『その場面』に至る前。
月宮あゆと相沢祐一が『そうなる』までには、流れがあった。
約八年前の記憶。
あゆが大木から落ちて死んだ……
そう思い込んでいた事まで含めて思い出した祐一がまず考えた事は、あゆと話をしなければならないという事だった。
それが謝罪にせよ、なんにせよ、
あゆの事を都合よく忘れ去り、幸せに過ごしていた自分に対するケジメをつけなければならない……そう考えたのだ。
それが自分のエゴなのは分かっていた。
今を生きているあゆに迷惑を掛けるかもしれないとも考えた。
だが、だとしても。
それをしなければ自分は『濁った』ままだ。
そんな自分では、大切な人を……水瀬名雪を幸せには出来ない。
現に八年前の事を思い出した後は名雪とまともに顔を合わせられていない。
勿論名雪やあゆが悪いわけではない。
ただ、自分が彼女の事を忘れている間も懸命に生き抜き、必死にリハビリを越え、今を真っ直ぐに生きているあゆに申し訳が立たないのだ。
そして、それゆえに、幸せな自分の証とも言える名雪に向き合えなかったのである。
そうしてあゆと話す事を決意した祐一は下校時間を見計らって約束を取り付けた。
その待ち合わせ場所を、かつてあゆに贈っ天使の人形を取ったゲームセンターの前にして。
「あ、祐一君〜」
「……よう」
ゲームセンターの前で立ち尽くしていた祐一は、
こちらに駆け寄ってくるあゆに気付き、軽く手を上げた。
「どうしたの?
なんか元気ないけど」
少し暗い祐一の様子を感じ取ったあゆは、覗き込むように祐一を見つめる。
その視線から一瞬だけ逸らそうとした祐一だったが、
途中でそんな自分の『逃げの姿勢』に気付き、踏み止まった。
「ん……まぁ、なんだ。
今から話す事に関係してるというか……ともかく、場所を変えたいんだが、いいか?」
「ここじゃ駄目なの?」
「……ああ」
「んー……祐一君がそう言うなら」
「そっか。サンキュな」
「う、うん」
いつもの祐一ならからかいの一つや二つを織り交ぜてくるだろうに、とあゆは微かな違和感を感じた。
(……それだけ大事な話って事かな)
そう考えながら、あゆは祐一の後ろを付いていく。
だが、そうしている内に自分達が進んでいく道に、その先に何が待っているのかに気付き、
あゆの表情は変化していった。
微かな不安と真剣さから、驚きと困惑に。
祐一は、その変化に気付いていた。
気付いていたが、今更足を止める事も出来ず、ただ歩を進めていった。
二人が商店街を抜け、遊歩道を抜け、入り込んだのは……森。
冬とは全く違う趣を見せる中を進んだ先にあったのは、大きな木の切り株が一つ。
そこは、あゆにとっても、祐一にとっても思い出であり、『過去』が詰まった場所だった。
「……祐一、君?」
その名を呼んだ意味は何故今ここに、という疑問と
ここで何を話すのか、という疑問が重なったもの。
そんなあゆの言葉の意味に半ば気付いていた祐一は、
ゆっくりとあゆに向き直り、その顔をしっかりと見つめて……口を開いた。
「あゆ……俺、思い出したんだよ。
八年前の、冬の事」
「……」
「今日話したい事があるって言ったのは……その事だ」
そう言うと、祐一は地面に座り込み、地面にこすり付けるように頭を下げた。
紛れも無い土下座だった。
「ゆ、祐一君……?!」
「こんなことしても、お前を困らせるだけだってのは分かってる。
自分勝手だってのも、分かってるんだ……
でも、それでも、言わせてくれ。
……ごめん。本当に、ごめん。
お前の事、お前が大怪我してた事、俺、ずっと、忘れてた……!」
叫ぶように告げる祐一の声は、震えていた。
恐怖に、あるいは自分自身への怒りに。
「忘れちゃいけない事だったのに……
忘れるはずなんかない事だったのに……俺は、忘れてた、忘れようとしてた……
その上、お前の事なかったみたいにして、名雪と、幸せになって……」
「……」
「許してもらおう、とは思ってない……ただ、本当に謝りたかったんだ。
本当に、ごめん……!!」
それは嘘偽りない祐一の気持ちだった。
名雪のことも含め、自分自身の自己満足があることは祐一自身否定しない。
だが、それ以上に。
例え許されないとしても、気持ちだけは伝えたい……そう思っている事は嘘ではなかった。
それが初恋だった少女に対する、祐一の精一杯の誠意だった。
「……祐一君……」
そんな祐一の言葉に、
あゆは悲しみと苦しみを混ぜ合わせた表情を浮かべていたが、やがて意を決し、口を開いた。
「……そうだね。
じゃあ、鯛焼き八個」
「……え……?」
この場にそぐわない……だが聞き覚えのある言葉の流れに、祐一は思わず顔を上げた。
そこには、優しく微笑むあゆがいた。
「確か、名雪さんはイチゴサンデー七個だったんだよね?
だったらボクもそれで許してあげる」
「あゆ……でも、俺は……」
何事かを言いかけた祐一の口の動きが……驚きで止まる。
あゆが跪いたままの祐一を抱きしめ、その顔を白く細い腕で包み込んでいたから。
「あ、ゆ……」
「いいんだよ、祐一君。
ボクは今、こうして生きてるんだから。
祐一君が気に病むことなんて、なんにもない」
「…………」
「祐一君は、幸せになっていいんだよ」
「…………っ
う、うわああああ………あああああっ!」
あゆの言葉に、祐一は涙を流した。
重荷からの解放。
ソレを『重荷』と感じている自分自身の矮小さ。
それを承知で許してくれたあゆへの感謝。
様々な気持ちが弾け、涙となって、ただ溢れた。
そして、あゆはそんな祐一を優しく受け止め、抱きしめ続けた……
そうして感情を……心を交わしていた二人は気付けなかった。
その場にいた、もう一人の存在を。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
名雪は走り続けた。
二人が何故そうなっていたのかの追及も出来ず、
ただ只管に走り、商店街の外れに戻ってきた。
「……は、ぁ、は、ぁ……」
息切れは、何も考えず全力で走り続けた体力的なものだけじゃない。
名雪の心もまた、息切れを起こしていた。
「……………どうして」
何故二人はああなっていたのか。
何故自分は追及さえ出来ず、逃げ出してしまったのか。
疑問が何度も何度も湧き上がって、ループし続けていた。
その疑問の隙間に浮かぶのは、八年前の記憶。
祐一とあゆ。あゆの事故。塞ぎこむ祐一、砕かれる雪うさぎ……。
「う、ぅ……!」
またなのか。
また同じ事が起こるのか。
いや、あの時とは違う。
祐一と自分の関係は、あの時とは全く違う。
そのはずだ。
そう信じているのに。
二人が抱きしめ合っているのを思い出すと、
胸の内から『黒い滲み』が湧き上がってくる……!
「……っ」
思わず名雪は、暫しの間、ギュッと眼を閉じた。
かつての現実が、辛い過去が再び襲ってくるのではないかという錯覚から逃れるように。
「……祐、一……」
それでも、このままではいけないと考えた名雪は、
大切な人の名前を呼ぶ事で、祐一への想いを思い出す事で、懸命に思考を立て直そうとする。
だが、それはポケットに入れていた携帯電話の着信で遮られた。
「……え?」
取るにせよ、取らないにせよ。
そんな考えで、半ば反射的に取り出した電話の表示には『祐一』の名前が記されていた。
「……恥ずかしい所、見せちまったな」
暫し経って。
祐一は真っ赤な顔でポリポリと頭をかきながら、あゆから離れ、立ち上がった。
あゆはそんな祐一を優しい微笑みで見つめていた。
「ううん、そんな事ないよ」
「……ともあれ、ありがとうな。
鯛焼きはちゃんと奢るけど……
それ以外でもしてほしいことがあったら言ってくれな」
「んー……じゃ、まず一つ、いいかな?」
「って早速か。まぁ、いいけどな」
二人は笑い合うような表情で言葉を交わす。
ソコには遺恨や悲しみは欠片としてなく、親しいもの同士の自然で穏やかな空気があった。
「じゃ、とりあえず言ってみてくれ」
「うん。
……名雪さんと幸せになって」
「あゆ……?」
戸惑う祐一に、あゆは言葉を続けた。
「ボク、名雪さんも祐一君も大好きだし、
二人でいるときの楽しそうな顔、大好きだから。
だから……幸せになってください。
今は、それだけでいいよ」
「………お前、さ。
もう、なんていうか……コレ以上借りを作らせないでくれよ。
一生掛かっても返せそうにないじゃないかよ……」
「うぐぅ、そんな事ないと思うけど」
あゆはあえて普段の、明るい口調で答えた。
それは、もうコレ以上気にすることはないという、あゆの優しさだった。
「あ、でもでも、鯛焼きは忘れないでね」
「ああ、分かったよ。
ちゃんと、しっかり、奢ってやるから」
あゆの心遣いに気付いた祐一は、深く深く頷いた。
あゆへの感謝の気持ちを反芻するかのように。
「うん、楽しみにしてるよっ♪」
そう答えるあゆの笑顔は、すっかり鯛焼きへの期待に移行していた。
そんなあゆの顔を見て、祐一は思わず苦笑する。
「…………そんなところは子供っぽいままなのにな」
「うぐぅ?」
「なんつーか、いつの間にやら俺なんかより『大人』になってる気がするよ」
「うーん、そんな事ないよ。
……でも、もしそうだとしたら、きっと……」
あゆの脳裏に思い浮かぶのは……空を見上げ涙を流す男の子。
ああ、そうだ。
あの時、ボクは祐一君の事が好きだって言った。
ボクの事を好きだって言ってくれた、男の子にそう言った。
でも、その男の子は、それでもボクの為に頑張ってくれた。
ボクの幸せと、ボクの笑顔のために。
一生懸命に、頑張り続けてくれた。
そんな、男の子がいたから、ボクは。
「……え?」
あゆの頭に、ノイズが走る。
それは『存在しない季節』の物語。
病院で眠り続けていながら『起きていた』頃の記憶。
「う、ぐぅ……?!」
「あゆ?」
誰かがいた。
誰かがいた。
祐一じゃない。今はいない?
でも大切な……そう、今、一番大切な人。
「あ、う、ぐうううううっ!?」
「あゆ!?
おい、どうしたんだよ!!」
痛みと共にあゆの頭を駆け巡る、雑音と乱れが錯綜する『過去』の情景。
あゆは懸命にソコに手をのばす……が、それは見えない何かに阻まれて、届かない。
焦りが、生まれる。
見えているのに届かず、聞こえているのに聞こえない事が、あゆを混乱させる。
そして、それが彼女の中をまるで渦のようにかき回し……さらなる痛みと混乱を引き起こしていた。
「あゆ!! あゆ!!!」
祐一の声も、今の彼女には届かない。
今、あゆは自分の中にある『ソレ』を見ていた。
『……あゆ』
自分の名を呼んでいる、男の子。
優しくて、穏やかな……でも、何処か淋しげな笑顔を浮かべている……男の子。
『あゆ』
自分の名を呼ぶ、アレはだれ?
『あゆ』
優しい声で呼んでくれる、アレは誰?
知っているのに。
覚えているはずなのに。
忘れるはずがないのに。
忘れちゃ、いけないのに。
今のボクは、忘れている?
「う、ううううううっ!!?
う、わああああああああああああああああああっ!?」
その瞬間。
記憶と感情と意識がぶつかり合い、弾け合い……あゆの意識は、途切れた。
「………………あゆちゃんが?」
名雪が取った電話の内容は。
あゆが突然意識を失った事を告げる、祐一からの電話だった。
『ああ、そうだ!
今は息もしっかりしてるし、脈もあるが、あの様子は普通じゃなかった……』
よほど混乱しているのか、焦っているのか。
祐一の声は必要以上に大きく、スピーカーから多少零れ落ちていた。
『俺はとりあえず医者に診せに行って来る……
時間掛かるかもしれないから、家の事頼むぞ!』
「……」
『名雪?!』
「……うん。分かったよ」
『話は、帰って、落ち着いてからな!』
「……」
そうして、電話が切れる。
慌しさや苛立ちが受話器の向こう側から伝わってくる切り方だった。
「……」
名雪は、最早思考を立て直せずにいた。
カタチや状況は違う。
だが、これは八年前と『同じ』ではないかと考えてしまい……ソコから先に思考が進まなかった。
そうして、名雪が立ち尽くしていると。
「……そっか。
名雪も、祐一に捨てられたんだ」
「?!」
突然に響いた、名雪の胸を穿つ言葉。
名雪がそれに驚きながら振り向くと、そこには……沢渡真琴が立っていた。
彼女は、怒りと悲しみが入り混じった暗い眼で、名雪を見つめていた……。
………続く。
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