第二十話 望想再立
祐一が過去の記憶を呼び覚ますより数時間前の……日が傾き始めた夏の町。
食後の後片付けを済ませた紫雲達は、今度はより冷房の効いた待合室でスイカを食べていた。
「んー……にはは。甘くて冷たくて美味しい」
シャリッと小さく食べたスイカをこくん、飲み込むように食べて観鈴は言った。
「本当、美味しいですね。
こんなに美味しいスイカを食べたの久しぶりですよ」
観鈴の隣に座る紫雲はコクコクと頷いて、観鈴の言葉に同意した。
さらにその紫雲の隣に美凪、佳乃、聖(足元にポテト)と並んでいる。
ちなみに紫雲は、女性陣の前では礼儀正しくと、借りた爪楊枝でスイカの種を用意された皿の上に落としてから頬張っていたりする。
ソレを生真面目と取るか神経質と取るかはさておき、微かに首を傾げつつ、紫雲は言葉を続けた。
「……やっぱり、産地の違いなのかな?
いや、僕のいた街のスイカの産地を知ってるわけじゃないんですけどね」
「紫雲君のいた街って何処?」
興味津々と言わんばかりの視線を、佳乃は紫雲に送った。
(……ん?)
その佳乃の視線を感じて、彼女の方に顔を向けた紫雲は今更ながらにある事に気付いた。
それは、彼女が腕に巻いているバンダナ。
割と大きく、色も目に付くのだが……ファッションとしてつけている感じはしなかった。
ざっと見た感じ、綺麗に、大事にされているようなのだが……端の方に僅かなほつれがあり、古いというか使い古しているのが分かる。
何故ソレが目に付いたのか分からないまま、刹那の間だけ、紫雲はバンダナに意識を向けていた。
「紫雲君、お話聞いてるー?」
「あ、ああ。ごめんごめん」
半ばからかうように咎めている佳乃の声で、気を取り直し、紫雲は言った。
「僕が住んでた街は……ここからずっと遠い北の街なんだ。
今は……夏はここより少し涼しくて、それでいて凄く静かなんだ。
で、冬は結構寒い代わりに、降り積もる雪が綺麗な……そんな街」
懐かしむように紫雲は呟く。
その脳裏には、雪に覆われた街が確かに形作られていた。
「雪か〜。こっちじゃあんまり積もらないからなぁー」
「うん。確かにあんまり積もらない。昔はたまに積もった事もあったけど」
「かまくら、雪だるま、雪合戦……少し憧れです。……ぽ」
「いや、憧れは分かりますが、何故に赤くなるんですか遠野さん」
佳乃、観鈴、美凪はそれぞれに雪の情景を思い浮かべているらしく、楽しげな表情を浮かべていた。
そんな中で、ポツリと聖が言った。
「ふむ……差し出がましい事だが……どうしてその街を離れてこの町に?」
話し難い事ならいいが、と付け加える聖に、
紫雲はそんな事は無いという意味の微かな笑みを形作って、答えた。
「んー……一つは、この町に住む旧友に会う為ですね。
少し前にこっちに引っ越してきたらしいんですけど」
「ほう? もしかして……群瀬君達か?」
「あ、はい。そうです。多分その群瀬ですよ。
……ご存知なんですか?」
「ああ。
娘さんの病気を何度か診た事があるからな。
それに、彼らはご近所でも色々な意味で有名な若夫婦だ」
(……なにやっとるんだ、あいつら)
旧友達がこの町でどういう生活を送っているのか、なんとなく不安に思ったり。
「それで、群瀬君達にはただ会いに来ただけか?」
「あー、でも、ないですね。
実は、ちょっと今抱えてる問題があって……その問題解決のとっかかりを掴む為に、
昔の僕を知る人間と話がしたかったんですよ。
まあ、アレですよ……あえて言うなら、自分探しの旅というか」
我ながら馬鹿な発言だが、間違ってないのが恐ろしい所だ……そう紫雲は思った。
「……ぽえまー?」
「いや、遠野さん。別に詩は書いてないから」
「ふむ。一つはと言ったな。
すると他にも理由が?」
「まあ、そうですね……」
大切な人たちを護る為に。
あるいは、大切な人達の中から「草薙紫雲」の記憶が失われたがゆえに。
………住んでいた街に、居られなくなった。
というのが真実ではあるが、
そんな話をしても信じてもらえる可能性は低いし、何より場を暗くするだけだ。
なので、紫雲は思いつくままに呟いてみた。
「……なんというか、自分の街の良さを確認する為、かな。
あ、別にこの街が悪いとか、嫌いとか、駄目とかじゃなくてですね。
ずっと住んでる街だから……少しだけ離れてみて、考えてみたくなったんです。
あの街は、自分にとってどんな街なのかを」
言ってみて、あながち間違いじゃないかもしれない、と紫雲は思った。
そんな紫雲を見て、何かに納得するように頷いた上で、聖は言った。
「……そうか。そうだな。
それもたまには悪くないだろう。
それで、どうだ? 何かわかったのか?」
「……分かったような、分からないような、って所ですね、今は」
実際、分からない。
此処に居る人々との会話の中で、紫雲は何かの光明が見え始めていた。
それでもまだ、何かを掴みかねていた。
本当の所、何を掴めばいいのか、ソレさえも分かっていないのだから。
「まあ、焦る事は無いさ。
君が急がなくていいのなら、ゆっくりじっくりと考えていけばいい。
この町に来たのも、きっと何かの縁だろう」
「そうだよぉ。ゆっくりしていってね」
「ぴっこり」
「にはは。うん。私もそうしていいと思うよ」
皆がそんな言葉を贈る中。
「ただ……帰るべき時、帰るべき場所。ソレが分かっているのなら……ですが」
ポツリ、と紫雲にだけ聞こえる程度の……美凪の言葉。
紫雲の耳に入ったソレは、暫し彼の耳に残り。
紫雲に、微かな胸の疼きを覚えさせた……
「さて、2人とも送るよ」
ようやっと空に赤みが差し始めた頃。
そろそろ帰宅の時間という事で、客人、家人問わず、揃って霧島診療所の外に出た矢先、紫雲はそう言った。
「にはは、大丈夫だよ。
この町は静かで、穏やかで……皆結構顔見知り」
「そうだねぇ」
「確かに」
「でも……」
彼女達の言う事は分かるが、万が一もある。
そう考えてはみても、なんとなく言いよどむ紫雲に対し、観鈴が言った。
「だったら、遠野さんを送ってあげて欲しい。
多分この中で一番家が遠いの、遠野さんだと思うし」
「そうなんだ。んー……遠野さん、どうかな」
「……」
その問いに、暫し考え込む美凪。
僅かばかりの時間の後、静かに頷きながら彼女は口を開いた。
「……草薙さんがよろしければ」
「わかった。
じゃあ、遠野さんを送らせていただくよ。
観鈴さん、十分に気をつけてね」
「うん。分かった。それじゃ紫雲さん、また」
「うん、それじゃ」
身を翻し、ポニーテールの髪を揺らしながら、観鈴は赤くなり掛けた町の向こうへと駆けていった。
ソレをしっかりと見届けた上で、美凪は紫雲に告げた。
「では、参りましょう」
「うん。……聖さん、佳乃さん、今日は本当にありがとうございました」
「同じく、ありがとうございました」
「こちらこそ、楽しかったよ。
神尾さんともども、また来てくれ。
それと……紫雲君」
「はい?」
「君さえ良ければ、今日は診療所に泊まってくれて構わない。
今日は場所も空いているしな。
気が向いたら、足を運んでくれ」
「……ありがとうございます。
今夜、どうするかはまだ決めてませんが……その時はお願いします」
「ああ」
「では、失礼しますね」
「まったね〜!」
「ぴこぴこっ」
そうして、紫雲と美凪もまた町の一角、その向こうへと去っていく。
「……今日は楽しかったね、お姉ちゃん」
「ああ、そうだな。
私も有意義な話が出来た」
紫雲の後姿……ソレを見据えて、聖は呟いた。
「……彼女の、弟か」
「え? お姉ちゃん何か言った?」
「いや……なんでもない。
まだ暑いし、早く中に入るとしよう」
「……うん」
キィッ……と音を立て、霧島診療所の扉は閉ざされていった。
「……」
其処に在った、諦観の瞳を、封じ込めるように。
「到着です」
「あ、意外に早かったね」
霧島診療所から離れて僅かばかりの時間の後、唐突な美凪の言葉に紫雲は足を止める。
ソレは本当にベストタイミングで、一軒の家の真正面ピタリに2人は立ち止まっていた。
観鈴の口振りから、もう少し時間がかかるものと思っていた紫雲はいささか拍子抜けした。
まあ、何事も無かったので不満は全く無いのだが。
「送っていただきありがとうございました」
丁寧にお辞儀する美凪に、紫雲は思わず頭を掻いた。
「いや……今日わざわざ呼びに来てくれたわけだし。
そのお陰で、色々話もできたし……むしろ、僕がありがとうかな」
そう言って、なんとなく霧島診療所での事を思い返してみる。
そうすると、霧島診療所での美凪の言葉が少し強く頭を過ぎった。
あの言葉に掛けられたモノ。
それがなんなのか、尋ねたいとも思う。
だが……今更訊くのは躊躇われたし、なんとなく尋ね辛かった。
ので、紫雲はその思考を捨てて、言った。
「じゃあ、これで」
「今日はどちらに?」
「多分、駅かな。姉妹水いらずを邪魔したくないし」
「……そうですか」
「ん。じゃあね」
ピッ、と手を上げ、別れの意を提示して紫雲は方向転換した……その瞬間。
「――草薙さん、帰りたい場所はありますか?」
その美凪の問いが、紫雲の足を縫い止めた。
それはおそらく、自分が問いたいと思っていたことに繋がっていて。
美凪が遠慮も無く一緒に家路を辿った理由も、その事を話すためだったのではないか……そう直感した紫雲は、振り向きながら、こう答えていた。
……僅かな蔭りと躊躇いを含ませて。
「……帰りたい場所は、あるよ」
「では、いつか帰りますか? その場所に」
「……それは……」
帰れるものなら、帰りたかった。
いつか、在った……あの場所に。
家族がいて、友達がいて、大切な人がいた、あの場所に。
その気持ちだけは紛れもない真実だと、今日交わした幾つもの言葉が教えてくれていた。
でも、それは取り戻せるものなのだろうか。
取り戻しても、いいものなのだろうか。
自分は……彼女達にとって、疫病神なのかもしれないのに。
「――」
答えようも無く、事情を話しようも無く、押し黙る。
そんな紫雲に、美凪は言った。
「飛べない翼に意味はあるのでしょうか?」
「え……?」
「一年前、私が往人さんに問い掛けた言葉です。
その時の私は……その飛べない翼を持った鳥でした。
何も出来ない、重くなった過去をひきずるだけの、無意味な存在だと思い込んでいました」
「……国崎君は、その問いになんて?」
「その時の往人さんは、確かな言葉で答えてはいません。
でも、往人さんは行動で示してくれました。
そうして得た答は私の中に息づいています。
飛べない翼は……大空を飛んだ、確かな記憶……思い出なんだと。
その思い出があるからこそ、私は今ここに立っているのだと」
「……」
その話に何の意味があるのか、尋ねる事は出来た。
だが、紫雲はあえて黙ったまま、美凪の言葉に耳を傾けた。
そんな紫雲の沈黙の意味を悟ってか、美凪は殆ど間を置かず、言葉を続けた。
「私には、草薙さんが何に悩み、何の為にこの町を訪れたのかは分かりません。
そんな私にただ言えるのは……例え今この瞬間に何かが起き、
あるいは、この先で起こる事で大事なものを失ったとしても……
草薙さんが何かを、誰かを想う事、想った事は、
決して愚かな事でもなければ、無駄な事でもないという事です」
「……!!」
「だから……大切な何かを想う事を諦めないでください。
帰りたいと思える、大切な場所を……捨てないでください」
美凪は、思った。
自分の街について、遠い眼で……まるで二度と戻れない場所を想うような眼で語る紫雲の姿を見て。
この人は一年前の自分に似ている、と。
帰りたい場所があるのに、帰る事を恐れて動き出せないでいた自分に。
失う事を恐れる余りに、自分にとって本当に大切なものを見失いかけていた自分に。
だから、前に進んで欲しいと思った。
彼が持つ翼は、自分よりも大きく、重いものなのかもしれない。
それを抱えたまま生きていく事は、難しい事なのかもしれない。
それでも、翼を広げて欲しいと思った。
あの時の、一年前の自分の一歩は。
その一歩を押し出してくれた国崎往人は。
間違ってなんか、いない。
そう心から信じているから。
「……」
「……」
そんな美凪の視線を、ゆっくりと、受け止めて。
紫雲は……言った。
「…………遠野さん、ありがとう」
「……」
「お陰で、決意できたよ」
「……!」
「正直いつになるかも、どうすればいいのかも、まだ分からないけど。
でも」
大事なものを奪いさった、月宮紫苑への恐怖。
その隙を与えてしまった、自分自身への恐怖。
そして、今度『敗れて』しまえば、今度こそ、本当に『全て』を失うだろう事への、恐怖。
その根は深く、今はまだ取り払えない。
立ち向かう術も無く、心さえも負け犬のまま。
だから、失う事を恐れて、ハッキリと形にさえ出来なかった。
でも。
草薙紫雲は知った筈だ。
あの冬。
月宮あゆと出会った事で始まった時間の中で。
恐れていては、何も得られないと。
恐れることは、誰かを傷つけるのだと。
それを知ったからこそ……草薙紫雲は、その周囲の人々は恐れを堪え、立ち上がったのだから。
運命に、抗うために。
そうして、勝ち得たのが……家族との、友達との、大切な人との僅かな幸せの時間だった。
それは今、紫苑によって奪われた、あまりにも儚い時間。
だけど、それが無意味だなんて、ありえない。
無意味だなんて、絶対に思いたくない。
だが、月宮紫苑の望むまま、ここで退いてしまえば、本当に無意味になってしまう……
だから。
言葉という、確かな形にして、草薙紫雲は宣言する。
自分の、意志を。
「僕は……僕の街に帰る」
ゆっくりと持ち上げた手を、拳を、ゆっくりと握り締めていく。
一度失われてしまったものを、もう一度掴み直すように。
草薙紫雲は、確かな決意を、宣誓した。
「大切な全てを、この手に取り戻すために」
……続く。
戻ります