第十九話 追想焦心
「ただいまー」
玄関に入った観鈴はそう言って、靴を脱ぐ。
紫雲と別れた後、少し急ぎ足で帰ってきた彼女の額には、季節と急ぎ足からの汗が滲んでいた。
その汗を拭いながら、家に上がった、その時。
「お、帰ったんか観鈴」
そんな声と共に、スーツ姿の晴子が奥から現れた。
「あ、お母さん。……お仕事?」
「今日はゆっくりするつもりやったんけどな。
急に入ったからしゃあないわ」
「この間から、ずっと忙しくない?」
「まあなぁ。貧乏人は辛いっちゅう事やな」
「……ウチ、貧乏?」
「貧乏暇無しや。つまり暇が無いのは貧乏やっちゅう事や」
「そうなのかな」
「まあ、ともかく。今から出るな」
言って、観鈴と擦れ違う晴子。
その瞬間。
「……もう少し、や」
そんな呟きが、観鈴の耳に届いた。
「え?」
その言葉に観鈴は晴子に視線を向けるが、晴子は立ち止まる事も振り返る事もせず歩いていく。
「留守番よろしく頼むで。出かけるときは戸締りキッチリな」
顔も向けずにパタパタ手を振って、晴子の姿は戸の向こうに消えた。
「お母……」
なんとなく気になって、追い掛けようとする観鈴。
だが、それは予期しないもので遮られる事になる。
「電話?」
唐突に鳴り響いた電話の音に、少しの驚きがあって観鈴は足を止めた。
瞬間迷うものの、走り去るバイクの音に諦め、観鈴は電話を取る事にした。
「……もしもし、神尾です」
『あ、えーとぉ……神尾観鈴さん、いますか?』
自分に掛けられてきた電話という珍しい事態に、観鈴はただ眼を瞬かせた。
目の前のドアを開き、中に入る。
すると、その中は冷気が満ちていて、今まで歩いてきた道の暑さが嘘のように思えた。
夏にはよく体感する事なのだが、その度に心地よさを感じる瞬間と言える。
それを改めて実感しながら、紫雲は足を進めた。
霧島診療所の中に。
「こんにちは。……お邪魔します」
「同じくお邪魔させていただきます」
紫雲の後ろから美凪も中に入っていく。
そんな二人を、白衣の女性と一人の少女……霧島聖と霧島佳乃が出迎えた。
「よく来てくれた。歓迎するよ」
「ようこそ、いらっしゃいました〜」
「ぴこぴこ」
もとい、二人と一匹が出迎えた。
聖の事は既に知っているので、紫雲の眼は自然佳乃と彼女が抱くポテトの方を向いた。
正確に言えば、紫雲は佳乃を知っている。
だが、実際に彼女と言葉を交わした訳ではない以上、これが初対面という事になるだろう。
佳乃もそんな視線に気付いたらしく、少し姿勢を正し、敬礼ポーズを取って告げた。
「えと……はじめましてっ。霧島佳乃です。
昨日は色々と助けていただいたそうで、ありがとうございましたっ!」
そう言って、ぺコリッと頭を下げる佳乃。
一挙一動に元気を感じさせる……そんな佳乃に、紫雲は笑みを零した。
「こっちはポテト。ほらポテトもご挨拶」
「ぴこぴこっ」
「……」
まるで人語を解しているかのように、鳴いて前足を振る毛玉の塊に、紫雲は瞬間唖然とさせられた。
だが、せっかくの一人と一匹の挨拶を無碍には出来ないと、気を取り直して告げた。
「えーと……はじめまして。草薙紫雲です。よろしく」
佳乃に頭を下げてから、ポテトの足を取って小さく握手する。
すると、ポテトは、ぴこぴこぴこっ、と三連続で鳴いた。
「うーん、嬉しかったのかな?」
「それもあると思うけど……きっとポテトもお礼を言ってくれてるんだよ。
かのりんを助けてくれてありがと、って」
「昨日の事? いや、その、大した事はしてないよ」
ポテトの様子に苦笑していた紫雲は微かに表情を硬くした。
実際、あの事態を収めるためとは言え、女の子を叩いてしまった事を紫雲は心苦しく思っていた。
「……それなのに、お招きしてもらっていいのかな」
そんな心情を込めて、言葉を零す紫雲。
「いや、大した事をしてもらったよ。
今日来てもらったのは、そのせめてもの感謝の為だから、ゆっくりしていって欲しい」
と、聖は微かな笑みをその口に浮かべた。
「と言っても、大したもてなしはできないが」
瞬間、紫雲は既視感を感じた。
白衣と、言葉使いと、その笑みに。
「……」
今は、会話をしている。
その最中に気を逸らすのは失礼だろう……そう思い、紫雲は気を取り直した。
「…いえ、こうしていただけるお気持ちだけでもありがたいです。
でも、いいんですか? 診察があるんじゃ……」
「まあ、ここが隣町の病院のように患者が多いんなら話は別だが……認めたくないが、どうせ暇だ。
それに今日は通院する人もいないし、気に掛ける必要は無いさ」
そう言って、聖はチラリと壁掛け時計を一瞥した。
「さて、昼も少し回ったが……もう少し待ってくれ。
後一人来る予定になってるんで……」
「あの……お邪魔します」
聖が言い掛けた矢先、そんな声と一緒に診療所の中に入ってくる人影が一つ。
「……と、噂をすればかな」
「こんにちはー。お邪魔しますー」
「観鈴さん?」
覗き込むように入ってきた人物の顔は、紛れも無く神尾観鈴その人だった。
彼女は紫雲達の姿を視界に納めると、笑って言った。
「にはは、紫雲さんも来てたんだ。遠野さんが来るのは聞いてたけど」
「ありがたい事にお呼ばれされたからね。観鈴さんも?」
「うん、霧島さんに呼んでもらった。お呼ばれされて嬉しい」
「……彼女にも、迷惑を掛けてしまったからな」
そう漏らす聖の声は、佳乃を思ってか微かなものだった。
「では、揃った事だし、昼食にしよう。
こっちへ来てくれ」
聖に促されるままに紫雲達は奥の診察室へと入っていく。
そこで、お呼ばれ三人組は思わず声を上げる事となる。
「……おおお?!」
「びっくり」
「わ。すごい」
診察室の中には流しそうめん一式が準備されていた。
そうめんを流す竹が診察室中央に陣取り、さらに、何処からか出してきたのか折り畳み式の簡易机には人数分のつゆの入った器と箸、しょうがやワサビ、麦茶が置かれている。
「というか、何故に診察室?」
「流石に入ってすぐに流しそうめんというのは体裁が悪いからな」
思わず呟いた紫雲に、聖が答える。
(……いや、診察室の方が体裁的には悪いよーな気がしますが)
という突っ込みは心の奥に仕舞う。
深く考えたら負けだ……紫雲はそんな気がした。
「じゃあ、始めようか。
しょうがやワサビは各人好みで入れてくれ」
「……了解しました。いただきます」
「いただきます」
「私、流しそうめん初めて。楽しみ」
そうして、それぞれの言葉と想いを零しながら、霧島家主催流しそうめん食事会は始まった。
「しかし、ただ流しそうめんをやるのだけではつまらないだろう」
『え?』
そんな聖の発案の下、じゃんけんによる上流下流配置換え争奪戦を幾度か交え、
「せっかくだから、罰ゲームもいれちゃおう〜」
「うむ。それは面白いな。というわけで早速導入しよう。ポテトが罰ゲーム第一号だ」
「ぴこっ?! ぴこ〜!!」
「ぽ、ポテト?! というか食べてたのか?!!」
「わ、犬なのにすごい」
「ぱちぱち」
「そ、そういう問題かな……」
最下位にはしょうが&ワサビ山積み混入地獄という罰ゲームを交えつつ、
「が、がお……」
「ボッ」
「顔真っ赤だよ、観鈴さん、遠野さん! ポテトもしっかりしろっ!
水か麦茶早く飲んで! 霧島さん、麦茶をー!」
「佳乃でいいよぉ」
「いや、そう言ってる場合じゃないんだってっ」
5人と一匹の食事風景は流れていった。
そして。
そうしているうちに準備していた分のそうめんは全て無くなっていた。
「うー……、もう食べれない」
「満腹満足いい感じ」
「お腹一杯だよぉ」
「……え、も、もう?」
紫雲は三人の様子を見て、三人より食べていたのに未だ満腹にならない自分について思わず考え込む羽目となった。
「……うーむ、前々から人以上食べるのは自覚してたけど……」
「男だからな。女性よりも少々食が太いのは仕方あるまい」
「ぴこぴこ」
思わず口を出た言葉に、ポンポンと慰めるように紫雲の肩を叩く聖と、足を叩くポテト。
(言えない……少々どころか、まだ腹三分にも達してないなんて言えやしない……)
「あ、あははは……ご馳走様でした」
やや顔を引きつらせながら、紫雲は器を置いて、手を合わせた。
「もういいのか? まだ腹が膨れていないのなら、買ってくるが……」
「いや、腹八分目と言いますしね。ちょうどいいくらいだと思うんで」
流石に自分の為だけに買い物に行かせるのは忍びないので、紫雲は手を上げて、やんわりと否定した。
「そうか。
では、食後のスイカもあるからそちらを食べるとしようか。
その前にこれを片付けるとするかな。佳乃手伝ってくれ」
「はーいっ」
ちらり、と流しそうめん一式を見る聖と元気に手を上げる佳乃。
そんな様子を見て、紫雲は小さく挙手した。
「僕がやりますよ。ご馳走になった御礼です」
「わ、私もお手伝いします」
「同じく」
紫雲と同じ事を思ったのか、観鈴と美凪も挙手して前に進み出た。
「しかし、君達はお客様だ。お客様を使うわけには……」
それでは御礼の意味が無い……そう思ったゆえか、微かに眉を寄せる聖に美凪は言った。
「皆で食事した後は、皆でお片付け。
それが楽しいお食事の方法の一つです」
「にはは、私もそう思う」
「そうですよ」
異口同音というべきか、お呼ばれ三人組の意見は一致していた。
聖はその様子に苦笑を漏らし、告げた。
「そこまで言うのなら、分かった。
では、遠野さんと神尾さんは食器の片付けを頼む。
台所は向こうにある。洗剤なんかは好きに使ってくれ」
「はい」
「お任せあれ」
「草薙君は、私と佳乃と一緒にこれを片付けるのを手伝ってくれ」
指差した先には、流しそうめんセット一式。
そうめんを流す竹や、竹で作られたそれを支える為の台……などなど、片付けるものは多い。
「了解しました」
「片付け小隊一同、ばっちり了解ですっ」
「ぴこぴこ!」
「隊員二号ポテトも準備万端であります」
「じゃあ、僕は三号という事で」
「では、佳乃は隊長で、私は更にその上の指揮官だ」
「あ〜! いい役取られた〜」
「じゃあ、佳乃が指揮官だ」
「交代早っ!」
そんなやり取りを交わしながら、三人はテキパキと片付けを進めていった。
水で濡れたものはふき取り、手際よく幾つかのパーツに分けていく。
それがあらかた終わると、聖は言った。
「では、片付け隊出撃と行こう。
奥の物置にしまうからついてきてくれ」
「でっぱーつ!」
「あ、佳乃。佳乃は水を台所に捨ててきてくれ。
それからその器を神尾さんたちに洗ってもらって、それが終わったらこっちの手伝いをまた頼む」
「はーい」
返事をした佳乃は、流しそうめんの下流に備えられていた水を受ける為の器を拾い上げ、持ち上げる。
「っとと」
少し水の量が多かったのか、バランスを崩したのか、少量の水が零れていく。
「佳乃、足元に水が零れたぞ。今拭くから少し待っててくれ」
「大丈夫だよぉ。
でも、心配してくれてありがとお姉ちゃん。
じゃあ、行こっ、ポテト」
「ぴこぴこっ」
そう言って、佳乃はポテトと共にパタパタと去っていった。
「ふふ……やれやれ」
足元を拭こうとしていた手を止めて、そう呟く聖。
そんな彼女の表情、眼差しを見て、紫雲は思った。
何時か何処かで見た事がある、と。
そう、それは……
「……聖さんは、佳乃さんの事をすごく大事に想っていらっしゃるんですね」
佳乃を見送る聖の顔。
それを見れば、一目瞭然だと心から思える事を、紫雲はあえて言葉にした。
なんとなく、そうしたいと思った。
それが心からの言葉だと悟った聖は、優しい声音で言った。
「ああ。あのコはとてもとても大切な、私の妹だからな」
「……佳乃さんは、幸せですね」
とても、眩しいものを観るように、紫雲は目を細めて笑った。
そんな紫雲の顔を見て、聖は尋ねる。
「失礼な事を聞くようだが……君には、家族がいないのか?」
「両親は、随分前に亡くなりましたが……姉が一人います」
「そうか……ウチと、同じだな」
「そう……ですか。すみません」
「君が謝る事は無いだろう。私から始めた話題だからな。……こちらこそ済まない」
「いえ、気になさらないでください。
でも、本当に同じですよ」
聖に余計な気を遣わせまいと、紫雲は思いついたままに言葉を続けた。
……ゆえに、本音に近い部分を思わず語る事になってしまうのだが。
「姉が医者なのも、
姉が……とても想ってくれているのも、同じです」
「………!」
そう。
聖は命に似ていた。
それが先刻感じた既視感の正体である事は、明らかだった。
医者という立場、
二人だけの家族という環境、
そして、もう一人の家族を大切に想っているという所も。
紫雲は知っている。
普段、どんなに愚弟呼ばわりして、扱いが荒く、厳しくても……草薙命は、草薙紫雲をとても大切にしてくれていた。
その姉と……聖は同じ眼差しをしている。
同じ眼差しで、佳乃を見ている。
だからこそ、佳乃がどれほど大切に想われているのか……紫雲にはよく分かった。
そして、きっと佳乃も聖の事を大切に想っている。
だからこそ、あんな幸せそうな笑顔を向けるのだ。
……自分とは、大違いに。
「ただ違うのは、佳乃さんと違って、僕が弟として不出来な点だけですよ」
自嘲交じりの苦笑を紫雲は形作った。
「そうなのか?」
「はい。……僕は、佳乃さんほど姉を想えませんから」
「君は……想いたく、ないのか?」
「いえ……想いたいです。でも、僕は……」
『結局、お前は自分どころか誰も信じてないんだ』
数時間前の剣の言葉が、脳裏を過ぎる。
そう。
家族である命でさえ信じきれなかったのだ、自分は。
今にして思えば、命の回復を待つという発想が出なかったのも、命が目覚めた時、自分の事を忘れ去っているのが怖かったからだろう。
特別な力を持つ秋子は覚えているだろうから、命も覚えていてくれるはずだとも思いはした。
それ以前に家族である命が忘れるはずは無いと、今も思ってはいる。
だが、あゆは忘れてしまっていた。
それを思うと、不安で堪らなかった……
多分、無意識にでもそう思ってしまったのだと紫雲は考えていた。
それもまた、あの町から敗走した理由なのだろう。
姉を傷つけた奴に敵わず。
重傷の姉をおいて、今この町にいる。
そんな自分がどうして、姉を想っていると言えるだろうか。
「……僕は、僕が想いたいほどに、姉を想えてない……そう思うんです」
想いたかった。
佳乃のように、何処までも純粋に。
それは姉である命だけじゃない。
あゆも、あの北の街にいた友人達も、みんなミンナ、あんな純粋さで想いたかった。
でも、できていない。
それができていたなら、今自分はここにはいない……
そんな心が、紫雲の拳を硬く握らせ、俯かせていた。
「……」
聖は、そんな紫雲を悲しげに眺めて、言った。
「そうか。
だが君は、想っているんだろう?」
「え?」
「家族を想う気持ちに程度は関係ないさ。
勿論、想いが強いに越した事は無いだろう。
だが……それよりも、想う事にこそ、意味があるんじゃないか?
少なくとも、想わない事よりも、はるかに意味がある事だ」
「……」
「そして、それは、家族だけじゃない、
自分の周りにいる人間達に対してもそうだ。
そうして想う内に、時間と共に想いは強くなっていく……そういうものだと、私はそう思うよ」
聖は、思い出していた。
昨夜、佳乃を助けた紫雲が、それは自己満足だと語っていた事を。
その心情は知る由も無い。
だが、その表情が苦しみに彩られていた事は、しっかりと見ていた。
誰かを助ける事が自己満足でしかない……それでも、助けて自分を責める……その姿を。
だから、なのか。
それとも、自分達とよく似た……いや『同じ』関係だからか。
はたまた……『他の理由』からなのか。
いずれの理由にせよ、聖はそう言わずにはいられなかった。
「……偉そうに語ってしまったな。済まない」
「いえ! そんな事、無いです……ありがとうございます……」
「まあ、なんにせよだ。私は君の姉上も十二分に幸せだと思うよ。
君が佳乃を幸せだ、と思ってくれるように」
「そう、ですかね?」
「ああ、そうだとも」
その言葉には何の偽りも無い……聖はそう思えた。
何故なら。
今、姉を語った紫雲の眼は、自分に迷惑を掛けた時の申し訳なさそうな、自分を想ってくれるが故の辛そうな佳乃の眼によく似ていたから……。
「片付けてきたよー」
その思考に答えるように、台所の方から佳乃が戻ってきた。
「ああ、お疲れ様」
「あーお姉ちゃん達まだ片付けてない〜」
「済まない。少し世間話に夢中になっていた。なあ?」
「え? あ、はい。ごめんね佳乃さん」
「さて、さっさと片付けて、おやつといこうか」
「……はい」
そうして、紫雲達は休めていた手を動かし、再び片付けに取り掛かった……
そんな町から遠く離れた北の街の商店街。
「じゃあ祐一、ちょっと待ってて」
夕焼けに染まる街の中。
大学帰りの祐一と名雪は、夕食の材料を買うべく、そこに立ち寄っていた。
いつもなら秋子が買い物をするのだが、最近、秋子が忙しいらしい為に名雪が料理を作る事が多くなっていたからである。
更に言えば、ここ数日は居候がいるので食材が自然多くなり、祐一の男手が必要になるのである。
「すぐに済ませてくるから」
「おう。ここで待ってるからな」
「……」
「なんだよ」
「ちゃんと、待っててくれるよね?」
「ああ、待ってるよ。約束する。
だから早く行って来いよ」
「……うんっ」
頷いて駆け出す名雪。
その背中を見届けて、祐一は微かな息を吐いた。
「……はぁ」
いつもなら、名雪と一緒に買い物に行っただろう。
だが……今日は、いやここ数日はそんな気になれなかった。
「なんだかな」
ここ数日の間、祐一は夢を見ていた。
過去の断片の夢。
八年半前、名雪の雪うさぎを壊した夢。
そして、その理由についての夢。
繰り返しているのに未だ不鮮明なソレは、祐一を悩ませていた。
そして、その夢を見る度に後ろめたい気持ちに襲われ……気付かない内に名雪と距離を置く様になっていた。
さっきの様子からすると、名雪も、もしかしたらその事に気付いているのかもしれない……祐一が暫しの間そんな事を考えていると。
「あ、祐一くんっ」
「何だ、あゆか」
幼馴染の友達である月宮あゆがパタパタと駆け寄ってくる。
現在隣町に住んでいる彼女だが、その手にタイヤキの入った袋を持っている事から察するに、その為にわざわざこっちに来たのだろう……そう祐一は推察した。
「うぐぅ、何だはひどいよ〜」
「お前なんか、何だで十分だろ」
「ひどいよ〜」
そう言えば、こうしてあゆと話すのは久しぶりかもしれない。
ここ最近は、いつも草薙紫雲に、少し遠慮していたから。
「……?!」
今、何かが浮かんだ。
それは……『誰か』の事だ。
だが、思い出そうとしても、思い出せない。
その『誰か』が、何処の誰で、どんな人間だったのか、知っている感覚はあるのに欠片ほども思い出せなかった。
「……なあ、あゆ」
「なに?」
「お前の側に、誰かいなかったっけ?」
「え?」
あゆが顔を上げて、祐一を見上げた。
夕日によって赤く染まるあゆの顔。
その瞬間、祐一の脳裏に……かつての光景が浮かび上がった。
それは、今考えていた事全てを洗い流すような、強い強いイメージ。
赤く染まるあゆ。
それは今みたいに、夕日なんかじゃなくて。
真っ赤な、真っ赤な、紅い血で。
「……ぁ……?」
後ずさる。
逃げるように、後ずさる。
「祐一、くん?」
「あ、ぁ……?」
記憶が甦る。
問い掛けるあゆの声が、それを加速させる。
封印されていた、遠い日の記憶が、蘇っていく。
何故、あの日。
自分は名雪を拒絶し、雪うさぎを壊してしまったのか。
それは……失ってしまったから。
今、ここにいる少女を。
あの、大木で。
自分達だけの学校で。
落ちて、紅く染まって、力を失っていく……月宮あゆ。
その喪失感が、あらゆる思考を、名雪を思いやる余裕を、奪い去っていたから。
何故?
何故、あゆはここにいる?
いなかったはずの、月宮あゆが。
何故自分は、平然と……当然のように彼女と話している?
何故自分は、平然と……今を幸せに暮らしているんだ?
あの時の事を……忘れて。
好きだった、初恋の女の子の事を、今この瞬間まで忘れ去って。
彼女の生死さえも、考えもせず、思い出しもせず。
今、名雪と恋人同士にさえなっている……!!
「……うぅ……!」
「祐一君……? どうしたの? 具合、悪いの?」
片手で頭を抱える祐一の顔を、あゆは心配げに覗き込む。
……それが、祐一をさらに追い詰めているとも知らずに。
「どうかしたの?」
そこに、手一杯の荷物を抱えながら名雪が買い物から帰ってきた。
「あ、名雪さん……
祐一君の様子がおかしいんだよ」
「祐一、どうしたの? 具合でも……」
言いながら、祐一に手を伸ばす。
その、瞬間。
「え?」
祐一は、名雪の手を、振り払った。
まるで……八年前と同じ様に。
「祐、一?」
「悪い……俺……先に帰るから……」
呆然とする名雪を、懸命に視界から追い出して。
祐一はその場から駆け出し……否、逃げ出した。
残された二人は、ただそれを眺めるしか出来なかった。
(なんで……なんでだ……!?)
走る祐一の脳裏には、その問いかけが何度も何度も浮かび上がっては消えていった。
今の今まで、あゆの事をなんとも思っていなかった。
八年前の事について触れようともせず、何の言葉も掛けなかった。
それは、あの事故の事を何も言わないあゆに、守られていたという事ではないのか。
「……っ!!」
情けない。許せない。許されない。
今、あゆが無事だからとか、そんな事は関係がない。
あゆを守れず、約束を忘れ、自分だけ……幸せになろうとしていた。
「俺は……最低だ……っ……!」
乱れる息の中、祐一はその事実を噛み締めるように、ハッキリと呟いた……
……祐一は気付かない。
そう呟く自分を眺めている一つの影の存在を。
そして、その影が口にする言葉、その意味も。
「約束どおり。
僕は手を出していないよ、草薙紫雲。
ただ、傍観するだけだよ。
彼らが……自ら奇跡を崩壊させていく、その様をね」
月宮紫苑は、ただ眺めた。
自分の望む道に進みつつある、物語の登場人物たちを。
……続く。
戻ります